2015年08月31日

エリヤハウスの問題

エリヤハウスの問題       
 私たちの中にある間違い
                               
2015年8月11日
西九州伝道所・佐々木正明



はじめに

私は、アッセンブリーズ・オブ・ゴットという信仰の共同体を、あらゆる方面から見て、とても素晴らしいものであると考えています。そこに所属を許されている、神のご配慮に感動しています。昨年、この信仰の共同体がアメリカで創設されて、100年という節目を迎えましたが、今や全世界に6700万人を優に超える信徒がいると、報告されています。大部分が、正確な集計など不可能な国々の中での数字ですから、「主催者側発表」を思わせるようなものであったとしても、神様の祝福を体験してきたことだけは事実です。

だからと言って、私たちの信仰の共同体に、困難や問題がなかったわけではありません。むしろ多くの困難や問題を乗り越えて今日までたどり着いたもので、神様の恵みと哀れみによるものです。克服してきたたくさんの事柄の中でも、特に深刻だったのは、いろいろな「間違った教え」の混入あるいは侵入です。

この間違った教えの混入あるいは侵入は、決して過去の出来事だけではなく、現在も私たちの信仰の共同体を脅かし続けています。私たちはこの事実に気づき、注意深くそして賢く振舞わなければなりません。実際のところ、現在私たちの交わりに忍び込んで、内側から交わりを壊しては腐敗を拡散していく、間違った教えの核心あるいは重要な要因の多くは、かつても、私たちの交わりに紛れ込んで問題を起こしていたものです。

私たちの交わりの指導者たちは、大きな犠牲と痛みをもってこれらの問題に対処してきました。そのために、交わりが「大分裂の危機」に直面したこともありました。それにもかかわらず、今までこの交わりがひとつの交わりとして神様に用いられてきたのは、ただただ、神様の助けと導きがあったからだと言わねばなりません。また指導者たちが聖書の教えを正しく理解し、聖霊の導きを敏感に感じ取って、それに従ったからだと言うこともできます。指導者たちは、ただ間違いを指摘して糾弾するだけで満足したのではありません。間違いを犯していた人たちを裁き、追放して終わったのでもありません。できるだけ寛容な精神と兄弟愛によって間違いを指摘し、間違いを犯していた人たちが交わりの中に留まり、間違いに気づきそれを直していけるように心を配って、勧め励ましてきたのです。

いま私がこの文章を書いているのは、このようなアッセンブリーズ・オブ・ゴッドの伝統に従い、私たちの中に混入してきた誤りを指摘し、気づかないうちにその誤りに陥ろうとしている、同労者諸師の注意を喚起することによって、主にある兄弟としての役に立ちたいと願うからです。たとえ言葉が厳しくなったとしても、それは兄弟姉妹を傷つけるためではなく、間違いに気づいて、それを改めて欲しいと願うためであることを、理解してくださるようにと望むものです。


T.私たちの交わりを脅かしてきた「間違った教え」

 私たちの交わりは、神学を修めた方たちの信仰告白や信条に、同調した人たちによって始められたものではありません。むしろ、神学的にはほとんど素人に近い牧師や信徒たちが、「異言を語る聖霊のバプテスマを受けた」という、著しい体験を共有するものとして、その体験の下に集まったということができます。ですから、私たちの交わりには当初から、根深い「体験主義」的な傾向がありました。それは一方では、非常に力強い私たちの交わりの特質となりましたが、他方では神学的な曖昧さ、あるいは誤りに陥りやすいという弱点となっても現れてきました。
 
 それは容易に、「何でも良ければいい」という実利主義的な信仰観につながり、「結果良ければすべてよし」という安易な成功主義に流れ、「奇跡が起こった」「癒しがあった」「教会が大きくなった」「たくさんの人が救われた」「経済が豊かになった」などという、目に見えるものを強調する性格を生み出してきました。それらはいともたやすく、繁栄の神学や積極性思考あるいは教会成長運動と繋がり、私たちの間で大きく広がった事実もあります。それらが福音宣教の力になったという積極的一面を認める一方で、神の聖さと、聖書の倫理観に染みをつけてきたという、醜い事実も認めなければなりません。

 また、いまの現実の世界でお働きになる聖霊を強調し、その様々なみ業を体験してきた事実を大いに喜ぶものですが、その強調が聖書の裏付けのないものとなって、シンクレティズム(宗教的混合)の危険性を感じる場面にも、幾度も遭遇してきました。ヒンズー教と仏教の入り混じった、神秘主義的まじない師のような伝道者、シャーマニズムの要素の強い、アフリカからの説教者、それらの土着の信仰に影響を受けた宣教師たちを見てきました。聖書と神学をしっかりと学んだ学者たちではなく、素人に近い牧師や信徒たちの活動から始まった働きであるため、確実な聖書釈義と神学大系のなかで考えることが苦手で、主観的な良識や常識あるいは信仰の経験で、信仰生活の大切な部分を判断し、選択決定をしてきたところが多いのです。

 また、私たちアッセンブリーズ・オブ・ゴッドの間では、ほかの信仰の伝統にいる人たちよりも、「聖霊のみ声」を聴いたり、「聖霊のお導き」に従ったりすることが、圧倒的に多いのです。牧師の礼拝説教の主題が、「聖霊様からの語りかけ」で決められたものだったり、「聖霊のお示し」によって特定の聖書の箇所が与えられたり、「聖霊のお導き」によって仕事を選択したり、「聖霊が会わせてくださった」相手と結婚する人が多かったり、困難に遭遇したときは聖書の教えに思いを巡らせるよりも、祈って聖霊のみ声を聞こうとするのが普通だったりするのです。

 聖霊に対して従順で、その導きに敏感であろうとする、私たちの伝統的な信仰態度や、聖霊のみ声を聞こうとする姿勢は素晴らしいのですが、聖書を離れたところで聖書と関係なく、主観的感覚や体験で「み声を聞いた」と思い込み、それを絶対視に近いくらい重んじてしまう傾向は、非常に危険です。聖書が完結した後の聖霊のお働きで、最も大切なことのひとつは、聖霊ご自身がかつて霊感をもって書かせてくださった聖書を、私たちに解き明かしてくださることです。私たちが聖書を読むとき、そこに聖霊が働いてくださり、理解を与え、教え、導いてくださるということです。

聖書に書かれていない事柄や、聖書に教えられていない問題に、新たな啓示を与えたり導いたりすることは、現在の聖霊の働きの中では、ことさら重要なものと看做されるべきではありません。たとえそのようなことが、まったくあり得えないのではないとしても、あるいは大いに期待すべきことであったとしても、それは個人や小さなグループのクリスチャンたちに対する、極めて限定的な、つまり場所と時間と状況に制限された中でのものであり、権威付けて一般化することができるもの、普遍的に誰にでも適用できるものではありません。大切なことは、すでに完結している聖書に、記載されているのです。

 私たちのアッセンブリーズ・オブ・ゴットの交わりや、私たちに近いペンテコステ信仰を標榜する人たちの、間違った聖書理解や神学の例を調べ、誤った信仰の実践に陥った事例を見ると、ほとんどが、この、私たちの伝統的体験主義と聖霊の導きに対する主観的理解、つまり、聖書によって証明できない事柄に対する思い込みを、余りにも信頼しすぎてしまったということによるものです。

ジーザス・オンリー

 一例として、私たちの交わりが設立された翌年、1915年の第二回総会で起こった出来事を、挙げることができます。そこで私たちの交わりは、早くも分裂と消滅の危機を迎えたのです。当時は、目に見える聖霊のお働きが非常に顕著であり、集まってきた人々の間では、聖霊に対する体験主義的な期待が燃え上がっていたのです。全体が、聖書の教えを学びそれに聞くよりも、幻や預言を通して与えられる新しい啓示を求める、興奮状態に飲み込まれていました。そのような場に、洗礼はイエスのみ名によらなければならないという、聖書釈義を誤った突飛な理解を、新しい啓示として主張する者が現れたのです。瞬く間に多くの出席者がこれを受け入れ、「イエスの名による洗礼」を受け直すべきだと言い始めました。

当然、父と子と聖霊の名による洗礼を堅持する者たちとの間に、熾烈な議論が沸き起こり、総会は大混乱に陥ってしまいました。結局、指導者として信頼を受けていた有力な伝道者たちから、一般信徒に至るまで、およそ三分の一もの人々が、創立されたばかりの交わりを去ることになりました。交わりを去った人々の多くは、後にジーザス・オンリーあるいはワンネスと呼ばれる、三位一体に曖昧な態度を取るグループにまとまって行きました。これらの中で最大のものは、ユナイテド・ペンテコステ教団として、現在の日本でも活動しています。

レストレーション運動

 もう一つ例を挙げると、「レストレーション運動」、もしくは「のちの雨運動」と呼ばれるものがあります。この運動の考え方は、ペンテコステ運動の初期からそこここに顔を出していたのですが、第二次世界大戦の終わり頃から、ウイリアム・ブランハムというかなり怪しげでありながら、世界中で活躍した「ペンテコステ系の伝道者」によって、ひとつの教えとして確立されて、大々的に宣伝されたものです。

 この運動は、初代の教会が経験した聖霊の傾注を「はじめの雨」と理解し、世の終わりに近くなって再びおこった聖霊の傾注、すなわち20世紀初頭に始まったペンテコステ運動を、「後の雨」と理解するものです。その主張によると、後の雨運動とは、はじめの雨の運動を回復(レストア)する運動であり、はじめの雨を超える大きな運動になるということです。そこから初代の教会の姿を理想、あるいは取り戻すべきものとみなし、なんでも初代の教会のあり方に戻ろうという、極端な考え方が出てきました。中には初代教会にとどまらず、それ以前のものまで取り戻そうという流れもあります。

 アメリカ・アッセンブリーズ・オブ・ゴットは、創立当初から自分たちの中にあったこのような傾向を、あまり好ましくない、怪しいものとして見てはいましたが、寛容性と包容力をもって見逃していたものです。ところが、先にあげたウイリアム・ブランハムなどの働きによってその影響力が増し、様々な弊害が多発していることに危機感を抱くようになり、ついに1949年に至って教書を発表し、正式にこの運動を間違いであると断定しました。このことによって、かなり多くの教会や教職が、アッセンブリーの交わりから去る痛みを経験したのです。

 アッセンブリー教団から出された教書の影響もあってか、この運動はその後沈静化を見せたのですが、カリスマ運動や第三の波運動という、抑えも統制も利かない教団組織を超えた運動が興ると、そのなかで再び力を取り戻して現代に至っています。アッセンブリーズ・オブ・ゴッドに所属する教職や教会の中にも、かつての歴史を知らず、もともと自分たちの中にある「脆弱な聖書主義」と、「聖霊に聞く」と言って聖霊以外の声を聴いてしまう体質のために、さまざまな形でこの運動を取り入れている人たちがいました。

トロントのリバイバル

ひと時、私たちの間で大いに話題となった、「トロントのリバイバル」、「あるいは笑いのリバイバル」と言われた出来事も、このレストレーション運動の再興の一つでしたが、多くのアッセンブリーズ・オブ・ゴッドの教職や教会がその運動を受け入れていました。それに危機感を抱いたアメリカ・アッセンブリーズ・オブ・ゴッドの指導部は、2000年の8月に教書を発表して、警戒を呼びかけています。私は、日本アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団指導部の要請を受けて、これを翻訳しましたが、教団はこの翻訳文をすべての教職に送りました。最近に至って、レストレーション運動が私たちの間でまだ活発であることから、私はこの翻訳文を少しばかり手直しして、個人的に、再び多くの教職の方々にお送りした通りです。

 今この文章で、のちの雨運動全体について書くのは私の意図するところではありませんので、控えておきますが、のちの雨運動の人たちがよく使う言葉、あるいはフレーズを列挙しておきます。これらの用語がすべてではありませんし、これらを使う人たちのすべてが、レストレーションに関わっているというのでも、間違っているというのでもありませんが、注意をしておくのに越したことはありません。

体験主義と聖書の裏付け

繰り返しますが、私たちは、信仰には体験が重要であると信じています。たとえ「体験主義」とレッテルを貼られ、非難されようとも、聖書理解よりも体験を先に持つことにさえも、大きな意義を感じています。ただしその体験は、厳密な釈義による聖書解釈の裏付けが可能なものでなければ、あくまでも限られた状況の中にあった個人の体験として止め、ほかの人たちに勧めたり、一般化したりしてはなりません。

私たちが主張してやまない異言を伴う聖霊のバプテスマ、しかも、聖霊の内住とは異なる、新生体験の後の・・・時間的には同時と思えても、理論上は後の体験としての聖霊のバプテスマとは、そのような厳密な聖書釈義の裏付けを得ることが出来る体験なのです。私たちの交わりは、体験とそれを裏打ちする厳密な正統的聖書釈義の基盤に立つのです。

 大切なことですのでくり返しますが、私たちのクリスチャン生活には、さまざまな体験が伴います。それは信仰が作り出す体験であったり、聖霊がもたらしてくださる体験だったりするでしょう。それぞれが、それを体験した人個人にとっては大切な、宝のような体験かもしれません。その体験自体をとやかく言うつもりはありません。しかし、それが一般化され、他の人もそれを体験すべきだと教えたり、すべての人に与えられている体験であると主張したりするためには、正しい聖書釈義の原則に立った聖書の裏付けが必要なのです。

 たとえば、多くのカリスマ系や第三の波系の信仰を持つ人たちが主張する、「異言を伴わない聖霊のバプテスマ」は、たとえどんなに素晴らしい体験であったとしても、正しい釈義に立った聖書の裏付けを得ることができないものであるため、聖書の教えとも聖書的神学とも呼ぶことができないのです。「聖霊のバプテスマ」と呼ぶ限り、聖書が語り示す聖霊のバプテスマでなければならず、異言を伴う体験でなければなりません。聖霊の交わりの体験は、聖霊のバプテスマだけではありませんから、なにか、別の名称で呼べば良いのです。

 パウロは、自ら「第三の天まで引き上げられた」と表現した体験をしていますが、これを聖霊のバプテスマとは呼んでいませんし、他のクリスチャンたちが同じ体験をするようにと、勧めてもいません。この体験を、クリスチャン生活に不可欠なものであると、一般化することもありませんでした。あくまでも、個人の霊的体験として止めたのです。


U. 私たちの中にあって現在危惧されている教え「エリヤハウス」

 現在、私たちの交わりに紛れ込み、聖書に基づかない体験を強調しながら活発に活動している、レストレーション系の運動に、エリヤハウスと呼ばれているものがあります。これは1974年のアメリカで、サンドフォード(John & Paula Sandford)という人物によって創立されたものです。この活動が今やアメリカを始め多くの国々で、ペンテコステ、カリスマ、第三の波を中心に、改革派やバプテストやホーリネスなどの教会も巻き込んで、無視できない勢いになっています。日本においても、かなりの数の教会がこの活動を取り入れていて、私たちのアッセンブリーズ・オブ・ゴッドの教会の中にも、これを積極的に実践している教会がいくつもあり、さらに数を増しそうな勢いだということです。これが、正しい聖書の教えを守ろうと努力している仲間たちの、大きな懸念と憂慮になり、一筆書くようにという、私への要請ともなったものです。

 この活動は、福音的な教えを持つ健全さを装い、聖書的であることを高々と謳っていますが、その実、既に述べてきた体験主義や実利主義に流れ、聖書の教えよりも聖霊の導きという主観的思い込みを重んじて、これに根ざす多くの危険な誤り、あるいは意図的と思われる偽りを内に持つものです。良識ある私たちの仲間の牧師や伝道者が、このような教えに惑わされること自体、とても信じられないことです。

多分それは、エリヤハウスの外見上の健全さに、欺かれてのことだと思います。たしかに「とっかかり」だけを見ると、これは異なった聖書の解釈や、怪しげな神学的教えを広めようとするものではなく、既に存在している教会の伝道や活動を支援する、効果的な新しい方法論であると捉えられ易いからです。ただ、少しだけでもその教えを学ぶならば、非常に危険な要素をたくさん内包するものであることに、すぐにも気づくはずです。
  
 アセンブリーズ・オブ・ゴッドの交わりに属する牧師や教会が、この教えの危険性に  気づかず、やすやすとこれに加わったり、その教えを取り入れたりしてしまうのは、先に述べたような、聖書釈義の基本を知らなかったり、神学的脆弱さを抱えたままにしているからです。ただ直接的には、カリスマ運動や第三の波運動とアッセンブリーズ・オブ・ゴッドとの違いを、しっかりと認識していなかったことにもよると言えます。彼らも同じペンテコステ系だと理解していたために、無批判に彼らの言う事に耳を傾けてしまったのでしょう。あるいは、自分たちは聖書的にまた神学的に脆弱だという、私たちに特有の劣等感が、福音派の神学をしっかりと修めて来たと思われる、第三の波運動の推進者たちの言うことを、ありがたく受け入れてしまったのではないかと思うものです。

 エリヤハウス自体は、必ずしも第三の波と同じというわけではありませんが、第三の波の賛同者たちの多くがこれに加わり、カリスマ運動の推進者たちもこれを取り入れているために、おおきな枠で、ネオペンテコステ運動と捉えられます。ただ面白いのは、ペンテコステ系以外の教会も、多数これに加わっているという点です。福音派の多くの牧師たちも、教会成長運動の創始者であったピーター・ワグナーに、強く影響されていました。ワグナー自身はもともと福音派の人間でしたが、南米で宣教師として働いていたときにペンテコステ運動に感銘を受け、現在における聖霊の働きを強く主張するようになって、「ペンテコステ化」したものです。ただ彼自身はペンテコステ運動ともカリスマ運動とも一線を画し、自ら第三の波と名付けた運動の推進者となったものです。

ワグナーの影響を受けた多くの福音派の人たちは、現代における聖霊の働きに目覚め、第三の波に乗って「ペンテコステ化」し、彼の言うことを取り入れて行きました。エリヤハウスは第三の波の運動の一部とも捉えられていますし、教会成長運動の中の教会刷新運動とも理解されています。単純に、「教会が大きくなることはいいことだ」と言って、「教会を大きくしよう妄想」の虜になっている牧師や伝道者が、これを取り入れているのでしょう。エリヤハウスの教えに隠された危険な要素、聖書からの遺脱、聖書以外の哲学やカルトの混入という、神学的異常さには興味も持っていないのです。

 また、ペンテコステ系の教会のほとんどは、基本的に福音派の神学を引き継いでいます。あるいは原理主義的な聖書理解を持っています。つまり、聖書は一字一句誤りのない神の言葉であるという立場を、固持しているということです。そのために、たとえその聖書釈義に問題が有り、とんでもない聖書解釈をしていたとしても、「聖書的」という言葉に非常に弱いのです。これは福音派の教会の方々も同じです。「聖書的」と言われると、水戸黄門の印籠をかざされた者のように、「ははー」と言って頭が上がらなくなる、そんな「恐怖症」を抱えているのです。

エリヤハウスは、「聖書的」であり福音主義的な立場に立っていると、最初に堂々と宣言しているだけでなく、カルトと戦う団体であると誇らしく自称しています。そのため、エリヤハウスに反対する者は、反聖書的であり悪魔的でありカルト的であると、逆に烙印を押されることになります。これは、マインド・コントロールというカルトの手法の入口であり、聖書的ということを大切にする、多くの牧師や教会が騙されているのです。

「聖書的」を大切にすることは、必ずしも聖書を正しく釈義し、正しく解釈することではありません。最近では聖書的と言えば言うほど無聖書的であったり、非聖書的であったり、反聖書的であったりする例が少なくありません。聖書を大切にしない人たちこそ、聖書的を標榜しているのです。だから、聖書的という言葉で騙す人たちと、聖書的という言葉で騙される人たちが一緒になって、大きなグループを作っているわけです。「聖書的教会」とか「聖書的教え」などという言葉は、もはやなんの保証にもならないのです。

 私はすべての牧師や伝道者が、高度な神学的な訓練を積んでいるべきだとは思っていません。誰もが聖書釈義について、専門的知識を持っていて、いつでも正しい聖書解釈ができるべきだとも考えていません。ただ、教団として、あるいは交わり全体として、そのような学びをした者たちや、そのような問題に敏感な人たちがいて、間違った教えに対して警鐘を鳴らし注意をうながし、誤りに陥らないようにすべきだと理解しています。それが交わりの重要な目的のひとつです。


V. カウンセリングとインナーヒーリング

エリヤハウスの問題の第一は、カウンセリングという聖書外の手法を基本的な活動に取り入れ、インナーヒーリングというカルト的な教えを拡散していることです。インナーヒーリングによるカウンセリングは、もともと反聖書的オカルトの実践者であった、サンフォード(Agnes Sanford)という人物がアメリカで始めたもので、当時はやったヒッピーたちと共通して、東洋の神秘主義哲学や宗教に傾倒し、フロイトやユングといった心理学者の、非聖書的でオカルトの傾向が強い教えを取り入れたものです。

一般世界においてこの運動は、カーター元大統領の妹などの有名人たちの参加もあって、かなりの影響力で社会を混乱させています。(後述)この教えをさらに「キリスト教化」して、エリヤハウスと言う名で教会の中に持ち込んだのが、サンフォードの友人で、後継者とも見なされているサンドフォード(John & Paula Sandford スペルも発音もよく似ていますが別人)です。これが、いわゆるクリスチャン心理学者と言われる人達によってさらに整えられて、現在、広く伝播しているというわけです。

サンドフォードと彼の協力者たちは、はインナーヒーリングのカウンセリングに関係して、「聖書によって」、「聖霊の導きによって」と言いながら、その実、様々な非聖書的な教えを持ち込み、多くの教会に「異端化」あるいは「カルト化」の危機をもたらしています。

インナーヒーリングの基本的教え

彼らが教えるインナーヒーリングの基本的教えは以下の通りです。なお、エリヤハウスの人たちは、独特な用語を用いていますが、ここではそれを普通の言葉で言い直して説明します。

@ 人間の苦しみは、幼少期あるいは胎児の時にまで遡る過去において、他者によって加えられた苦い体験の記憶によってもたらされる。その記憶はしばしば無意識の記憶、潜在意識として影響する。

過去の苦い体験が現在の苦しみに繋がるという見解、胎児の時の体験が影響するという考えにも、聞くべきところがないわけではありません。しかし人間の苦しみの多くは、過去の体験の記憶によってもたらされるものではないことは、自明の理です。ましてや潜在意識によってももたらされるというのは、フロイトやユングといった特定の心理学者たちの主張によるもので、科学的事実に基づくものではありません。それよりさらに大切なことは、このような見解は聖書によっても支持されないということです。

また他者によって加えられた過去の苦い体験が、現在の苦しみの原因となっているという理解は、多くの苦しみの直接の原因である、自分の間違いや失敗や罪などを否定し、あるいは軽んじ、他者に原因を見つけ出そうとする、責任転嫁の非難を免れることができないものです。それは、自分の過ちや罪を認めて悔い改めという、聖書の大切な基本的教えを無にするものです。

A 過去の苦しい出来事の記憶に、想像のキリストを登場させて、その苦しい出来事を解決してもらうことによって、現在の問題を解決する。

  キリスト教カウンセリングを標榜しているエリヤハウスでは、ここでキリストに登場してもらうことになります。ただし、あくまでも過去の体験ですので、そこに本物のキリストを登場させることはできません。そこで、その過去の記憶の中にある体験の場に、「想像上のキリスト」を連れて行って登場させるのです。その想像上のキリストは絶対に優しく、無条件で赦し、思いやりに富む力強い方でなければなりません。このキリストに、過去の辛く悲しい体験の記憶を、美しく楽しい体験の記憶に変えてもらうのです。そうすることによって、現在の苦しみを解決するというわけです。

  例えば、幼い時の情け容赦ない父親の体験が、父親というもの自体に対する恐怖をもたらし、自分が父親になってからも、どのように子供に接したら良いのか分からないという、問題があったとします。その場合、幼い時に酷く父親に叱られていた場面の記憶に、徹底して優しい想像上のキリストに登場してもらい、父親の役を演じてもらうことによって、まず、恐怖の記憶を解決するのです。そうすることによって、現在の父親の役割を正しく果たすようになれるというのです。

このようなカウンセリングには、たしかに現在の問題を解消するための、心理的効果はあるかもしれません。ただし既にのべたように、このカウンセリングの基盤となる心理学は、ひとつの説に過ぎず、確立された科学的な学問ではありません。また、たとえこの方法が人間の心を動かすという意味で、実効性のあるものだとしても、すべて想像上の出来事、観念上の主観的な記憶の問題で、本質的な解決にはならないのです。聖書はこのような考え方や問題の解決法にはくみしません。

ましてや「想像のキリスト」というのは、むしろ、本当のキリスト、神が人となられたキリスト、現実に生きて働いておられるキリストに対する冒涜です。また、聖書が禁じている占いやまじないや降霊術にさえ通じるものです。キリストは現在の問題を解決してくださる方であり、解決することができるお方であるはずです。ですからこのインナーヒーリングのカウンセリングを行うことは、神がキリストによって準備された救いは不十分であると主張し、キリストの力も、現在の問題を解決するには不足であると断定することです。

B 過去の辛い出来事はしばしば無意識の中、潜在意識の中にあって、本人は覚えていない場合が多い。したがってこの隠れた記憶を、カウンセリングによって掘り当て、思い出させなければならない。
   
  インナーヒーリングのカウンセリングに付随するもうひとつの危険は、この潜在意識を探り当てることにあります。あくまでも潜在意識であって、本人が自覚して記憶しているわけではないために、まず、現実の問題の元となっていると想定される、潜在意識の中の記憶を呼び覚まして、それがなんであるかを特定しなければならないのです。記憶していない辛い出来事を探し出し、現実の問題と結びつけるこのカウンセリングに、「意識の植え込み」あるいは「思い込ませ」とも言える、胡散臭い手法が用いられても不思議はありません。

探し出したと言われる潜在意識の記憶が、現実に起こったものではなく、まったくの空想、架空の出来事である可能性もおおいにあり得ます。先ほどの厳しい父親の体験も、潜在意識として残っていたと判断されただけで、実際にそのような体験があったかどうかは不明です。アメリカでは、インナーヒーリングのカウンセリングを受けた人たちが、事実とはまったく異なる妄想を抱き、自分は子供の頃に虐待を受けていたと親を訴えるなどという、笑えない珍事も実際に多数起こって、訴訟文化の社会問題ともなっています。カウンセリングを受ける者の多くが、実際は体験していないことを体験したと思い込まされ、存在しない問題に悩まされているのです。カウンセラーが悪意を持っていたり、一定の意図を持ったりしていると、カウンセリングを受ける者は容易に心理的な操作を受け、洗脳によって操られる危険に陥ります。これはカルトの常套手段です。

C 幼い頃の辛い体験は、赤子の時や胎内にいるときの体験までも含む。そのような体験の多くは、後になって様々な性的問題となって現れる。 

  エリヤハウスのもうひとつの怪しげなところは、しばしば性的なカウンセリングが用いられることです。夫婦間の性の問題や性的不能や自慰、あるいは不感症の問題から同性愛や売春、婚前交渉や異常な性欲、さらにポルノに囚われる問題に至るまで、かなり露骨に取り扱われていて、統一協会がやっている手法を思い出させられます。実際には、実情に応じていろいろ試されているようですが、エリヤハウスの公式なテキストには、妊娠中のセックスが胎児に及ぼす悪影響について、下劣な下ネタ話も及ばない話が記載されています。

それによると、妊娠中の母親の乱暴なセックスによって胎児は恐怖を感じます。その恐怖が潜在意識として留まり、大人になってからも、例えばナイフのような男根状のものに恐れをいだくようになって、健全な生活を妨げるというのです。男根とナイフが形状的に似ているなどという、笑い話以下の発想が真面目に論じられているのです。ここでも統一教会が、朝鮮半島が男根に似ているから、朝鮮は男性の役割、日本は、日本列島が凹状になっているから女性の役割を果たすなどと言っていた、下劣で低級な発想を思い出させます。さらに幼児のときの誤ったオマルの訓練やオムツの取り扱い方が、成長してからの自慰を始めとする性的問題を起こすことが多いから、母親は特に注意しなければならないなどとも教えられています。これも、なんの根拠もない陳腐な教えです。

このようなこじつけの性教育に関係して、かなり微に入り細に入るセックス・カウンセリングのやり方が、彼らのテキストに載せられていて、実際にそのような指導がされています。問題はこのようなカウンセリングを受ける者は、心理的に強い拘束を受け、洗脳の状態に陥るということです。多分それ以上に、カウンセリングを施す方も、かなりの性的変質者にならざるを得ないということです。

  幼少期あるいは胎内にいるときの性体験が、大人になってからの性の問題の原因になっているというような愚にもつかない教えも、フロイトやユングといった大層な名前を持ち出され、心理学などという難解な学問を権威として引用されると、「そうかなぁ」と思う人も、あるいはいるかも知れません。でも、そのような話を突然持ち出されたならば、大抵の大人は常識をもって排除してしまいます。そこで、エリヤハウスが実際にやっている講演やセミナーなどを聞くと、まず、だれでも「そうなのかぁ・・・」と思ってしまいそうな、幼少期のトラウマが潜在意識となって引き起こす、様々な問題の例をさりげなく、しかもいくつも取り上げて常識の抵抗力を弱めた上で、潜在意識に残された胎児期の体験に話が及ぶようです。

  エリヤハウスのインナーヒーリングは、容易に心理的隷属状態を作り出すことができます。このような手法に、いま流行りのセル・グループなどがしばしば取り入れている、按手による賜物の授与の連鎖や個人預言、小牧者や羊飼いのケアに時折見られる、指導的立場にある者の権威を主張する手法を並行して用いると、教会の組織とやり方、あるいは指導者である牧師に、無批判に服従する信徒を作り出すことができます。それは容易に、いわゆる「成長する強い教会」につながることでしょう。日本の成長する教会の多くは、権威主義的な牧師がいる教会です。エリヤハウスの教えを理解してこれを実践している牧師たちは、そこに魅力を感じているのではないかと思います。そうなると、これはもうキリストの精神から逸脱した、醜い宗教屋に過ぎません。

  このような成長する大きな教会、成功した牧師という名を求める傾向は、容易に金儲け主義にも流れます。エリヤハウス自体が、夫婦ひと組の割引料金で、14万円もする受講料を取っているのですから、それを取り入れる牧師たちも、金儲けに触手を伸ばすようになっても不思議はないと言えます。のちの雨や第三の波、あるいはインナーヒーリングによって洗脳されてしまった信徒たちに、神様の働きのためと称して、多額の献金をさせることも困難ではなくなります。こうして、キリスト教界は悪徳業者の業界となり、教団はブラック企業の協同組合になります。

W. 先祖の罪と断ち切りの祈り

 エリヤハウスに関わる第二の大きな問題は、先祖の罪、家系の罪、家系の呪いという考え
方です。これは非常に危険で、非聖書的、反聖書的と言わざるを得ません。彼らは先祖の罪
の結果として、子孫が苦しみを負うということを、自分たちの教義として強く主張し、その
罪の断ち切りという手法を用います。エリヤハウスの「祈りのミニストリー」のテキストに
は、自分たちが、「家系を通しての影響に苦しむ大勢のクリスチャンのためにミニストリー
を行っている」と記されています。彼らの教えるところによると、現在の苦しみの多くは先
祖の罪、あるいは先祖の呪いによるために、自分の家系に流れる先祖の罪の呪いを解決しな
ければなりません。 

「祈りのミニストリー」のテキストには、以下のようにも記されています。「祈りのミニス
トリーをする中で、その人個人に関してはありとあらあらゆる罪を取り扱ったにもかかわ
らず、依然としてその人やその人の家族が多くの問題に苦しんでいる、ということがありま
す。その場合問題はその人個人としての罪や罪深い性質からでなく、家系を通して流れてい
る場合があります。これを、家系の罪といいます。」 つまり、インナーヒーリングでも解決
できない問題は、先祖の罪ということになるのです。

また、先祖の形質が子孫に及んでいることを思い起こさせるために、「あなたには、家族
から受け継いだ特徴はありますか? お母さんの目や、お父さんの歩き方、あるいは遺伝性の疾患、また才能や賜物などは?」などという質問を繰り返すように指導されます。これは罪の遺伝という、聖書があずかり知らぬ怪しげな主題への導入になります。

 さらに、先祖たちの罪の結果と影響が子孫たちに及ぶ、家系の罪を特定するために、隠している罪があるのではないか、気づいていない罪があるのではないかと探り、告白されていない罪によって、血筋が汚されていないかなどと問うように教えられます。そこで特に注意すべきことは、父親の性的悪戯、離婚、アルコール依存、くり返される流産、不妊、通常ではない病気、若死に、オカルトとの関係、経済的破綻、事業の失敗などです。こうなると、街角の占い師が用いる、誘導尋問の手法と同じです。

 この罪と呪いの連鎖を断ち切ると言われる、断ち切りの祈りは自体は特に魔術的なもの
ではありません。ただ、家系の呪いあるいは家系の罪を認めて、それからの解放を「イエス・
キリストの血潮の力」に頼って、「あるいはキリストの贖いのみ業」によって、願い祈るだ
けのことです。この点では、非常に福音的なというか原理主義的な言葉を用い、自分たちが
健全な教理を持つものであることを、アピールしているかのようです。ただし本当に健全な
クリスチャンは、家系の罪だの先祖の呪いだのという言葉が持ち出されること自体に、胡散
臭いオカルトの要素を感じ取らなければなりません。

 もう10年以上も前になりますが、私は自分が開拓牧会をしている「地方の教会」が、
なかなか思うように成長しないことを憂慮して、地方でも成功していると高い評価を得て
いる仲間の牧師に、特別講師として「ボランティア」で奉仕にきてくださらないかと、お願
いしてみました。するとこの牧師は快く私の願いを聞き入れて、「参りましょう」と言って
くださいました。

嬉しくなった私は、自分が牧会する教会の現状、弱点や欠点や問題などをあれこれ説明し
たものです。するとこの牧師はおっしゃいました。「それはぜひ断ち切りの祈りをしてください。先生の神学には合わないかもしれませんが、教会の成長と信徒の祝福のために、先生の神学を犠牲にしてでも、ぜひやってみてください。」

 この牧師が、当時エリヤハウスを取り入れていたかどうかは、知りません。少なくても当
時の私は、「断ち切りの祈り」などという考えには、まったく触れたことがありませんでし
たので、それがどんなことなのかお尋ねしてみました。それで、それが先祖の罪、家系の呪
いという概念に基づくものであることが分かりました。結局、自分から特別講師として手弁
当で来てくださるようにお願いして、快く承諾し頂いたのに、お招きを撤回してご奉仕をお
断り申し上げることになってしまいました。本当に失礼なことになって残念でした。

 今も尊敬しているこの牧師は、「断ち切りの祈り」が私の神学には合わないということを
百も承知のうえで、私の牧会している教会のためを思って、あえて勧めてくださったものと
思います。しかし私は、教会の成長のためであっても、信徒の祝福のためであっても、正し
い聖書の教えを犠牲にすることはできない、かたくなな牧師だったのです。

エリヤハウスについて、これまで、ほとんど何も知らなかった私ですので、今回調べて見
たところだけでは、彼らの教えのどの部分に属する問題なのか不明なのですが、多分、この断ち切りの祈りと関係していると思われる、非常に気になる実践がもうひとつあります。それは、「身代わりの祈り」、「身代わりの悔い改め」とも名付けるべき行為で、教え、勧め、伝道している相手が、どうしても納得できず、罪の悔い改めもできない場合、その人に代わって悔い改めの祈り、あるいは断ち切りの祈りをしてあげることによって、その人が救いに入るという考え方です。(この点を詳しくご存知のかたがいらっしゃったら、お教えくださいますか?)これも、とんでもない行為で、聖書の基本的教えに反するものであることは、言うまでもありません。

十戒の教え
 
エリヤハウスの人たちは、この先祖の罪の教えをモーセの律法の4箇所の言及、@出エジ
プト20:5、 A出エジプト34:7、 B民数14:18、 C申命5:9を用いて正当化していますが、その聖書の釈義、解釈の仕方が間違っているのです。この4箇所の言葉のうち、A以下はすべて@の言葉に依存するものですから、大切なのは十戒に含まれている@の解釈です。

エリヤハウスの人たちは、十戒のこの教えを字義通りに釈義していますが、まず、そこが問題です。福音派の聖書解釈学では、字義通りに釈義できると思われる部分は、できるだけ字義通りにするという原則に立ちます。それで、字義通りに釈義されている教えには、安心感を持ってしまいます。その字義通りの釈義を少しばかり強調し過ぎるのが、原理主義の人たちです。エリヤハウスの人たちは、この原理主義の傾向を持っています。モーセの十戒のこの言及は、字義通りに考えると、神は「父の咎を子に報い、三代四代にまで及ぼす」方であると理解され、先祖の咎、家系の罪という教えも成り立つことになります。

 しかし、これは独特の表現方法、「修辞法」が用いられた言い回しであって、字義通りに理解されてはらないものです。キリストが「私は門です」とお語りになったとき、「石の門ですか。木の門ですか。それとも鉄の門ですか」と、尋ねてはならないのと同じです。ここで神は、厳しく罪を罰する厳格なお方であることを、このような表現で強調しておられるのです。これを文字通りに理解しようとすると、続く「恵みを千代にまで施す」という言及と、正面衝突してしまいます。一方では「呪いを受けた三世代目」の人間が、他方では恵みを施された三十代目の人物であるなどということになり得るからです。さらに、「千代というのは少なくても数万年に及ぶのであるから、再臨はそれまであり得ない」などとも言えることになります。字義通りに拘泥する愚かさです。

 ここで神が強調して語っておられるのは、ご自分が厳しい神でありながら、その厳しさよりも、恵み深さが勝るという大切な事実なのです。呪いは三代四代、恵みは千代という言い方は、厳しさを強調するだけにとどまらず、恵み深さが厳しさを遥かに上回ることを高々と謳い上げている、修辞法であると考えなければならないのです。そして大抵の人間ならば、つまり通常の読解力があれば、修辞学などというものは知らなくても、これが表現方法に過ぎないと判断して、実際に、呪いが三代四代にまで及ぶことを教えているなどとは思わないのです。

 もちろん、親が怠け者である上犯罪者となったために、子供たちが満足な生活ができず、並の教育も受けられなかった。それがために、子供たちまで犯罪者になってしまったなどという連鎖は、大いにありえることです。あえてここで論じる必要もありません。

そういうわけですから、エリヤハウスのテキストに教えられている、「家系の罪から癒されるために」家系図を書いたり、生い立ちの記録を用いてみたり、そこに聖霊による悟りを求めたりすることは、実に愚かと言わねばなりません。親が二人いてそれぞれの親に二人ずつの親がいて、その親たちにまた二人ずつの親がいてと計算すると、馬鹿馬鹿しくなります。一般的に日本人の家系図などというものは、とてもデタラメで恣意的なもので、数代遡るだけで怪しげになり、わからなくなります。そのうちの誰の罪によるのかと詮索しても、なんの益ももたらしません。聖書的と言われている教えですが、このようなことは、聖書がまったくあずかり知らぬものです。

 聖書というものは、一部の教えだけを強調してはなりません。非常に幅広く大きな書物である聖書には、表面的には矛盾と思えるような表現がたくさんあります。実際は、それらは矛盾ではなく、同じ原則の基盤に立ちながら、時と場所と状況に応じて、そのように異なった表現や教えがされただけのことです。そこで、一見矛盾と思える表現や教えがあるときは、それらが実は調和しているのだと考えて、注意深く学ばなければなりません。

 十戒にある三代四代に及ぶ咎の教えは、同じモーセの律法である申命記24:16の教えと、どのように調和するのでしょう。そこには「父親が子どものために殺されてはならない。子供は父親のために殺されてはならない。人が殺されるのは、自分の罪のためでなければならない」と記されています。これは死刑だけに限った事ではなく、すべての犯罪と刑罰に応用されるべきものです。

エゼキエルとエレミヤの記述

 預言者エゼキエルの時代、イスラエルの人々は、「父が酸っぱいぶどうを食べたので子どもの歯が浮く」という言い方で、父親の罪のために子供が呪われると教えていました。イスラエルの民はそのようにして、パレスチナの地を追われて捕囚の苦しみに遭うのは、自分たちの罪のためではなく、先祖たちが犯した罪のためであると、責任逃れ、責任転嫁をしていたのです。

ところが神はエゼキエルに語りかけ、おっしゃいました。「あなたがたは、イスラエルの地について、『父が酸いぶどうを食べたので、子どもの歯が浮く』という、このことわざをくり返して言っているが、いったいどうしたことか。わたしは誓って言う。あなたがたはこのことわざを、イスラエルで、もう決して用いないようになる。」

そして神は続けておっしゃいました。「あなた方は、『なぜ、その子は父の咎の罰を負わなくてよいのか』と言う。その子は、公義と正義を行い、わたしのすべてのおきてを守り行ったので、必ず生きる。罪を犯した者は、その者が死に、子は父の咎について負い目がなく、父も子の咎について負い目がない。正しい者の義はその者に帰し、悪者の悪はその者に帰する。」(エゼキエル18:2〜3、19〜20)これらのエゼキエル書の記述と十戒の解釈とを、どう調和させることができるでしょう。

 エレミヤもまた、「その日には、彼らはもう、『父が酸いぶどうを食べたので、子どもの歯が浮く』とは言わない。人はそれぞれ自分の咎のために死ぬ。だれでも酸いぶどうを食べる者は歯が浮くのだ」と語っています。(エレミヤ31:29〜30)

 このようにしてみると、十戒の言及は、字義通りに理解されるべきではないことが明白です。

原罪の概念

 エリヤハウスの先祖の罪、あるいは家系の罪という教えは、多分、東洋哲学や宗教からだけではなく、キリスト教の原罪という概念からもたらされたものだと思われます。「原罪」という用語自体は聖書にはありませんが、すべての人間が罪人であるという聖書の教えを、なんとか説明しようとした言葉です。アウグスチヌス以来、原罪とはアダムの罪が「遺伝的」に子孫に伝わったものと教えられて来ましたが、反宗教改革の色合いが強かった1545年のトリエント公会議で、それが正式に認められたものです。ただしアウグスチヌスもトリエント公会議も、アダムの罪、あるいはアダムの罪の性質が、現代の医学知識が教える遺伝のようなものであると、教えたのではありません。

たとえ遺伝という言葉が用いられたとしても、当時、現代のような医学知識は無かったのですから、現代医学が用いる遺伝という言葉の意味で、用いたのではないはずです。広い意味で、アダムの罪の結果、堕落の結果が、現代の私たちにも及んでいるという意味で、すべての人間が罪人なのは、アダムの罪に原因があるという理解だったのです。原罪を現代医学が用いる言葉の「遺伝的な」罪の性質と理解し、「汚れた血筋」などと言い出すと、聖書の教えからは甚だしく逸脱してしまいます。

キリストの教え

 ヨハネの福音書9:1〜3には、次のような出来事が記されています。

「またイエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られた。弟子たちは彼についてイエスに質問して言った。『先生。彼が盲目に生まれついたのは、誰が罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。』 イエスは答えられた。『この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです。』

 このキリストの教えは、モーセの律法である申命記24:16の命令とも調和しますし、エゼキエルやエレミヤの記事とも一致します。ですから、たまたまこの盲人の場合は、この人の罪でも両親の罪でもなかったと理解するのではなく、この盲人の場合も、「親の罪で子が罰せられてはならない。子は親の咎を負うべきではない」という、一般原則が適用されたものと考えるべきです。
 
韓国のキリスト教の影響?

 エリヤハウスの始まりはアメリカにありますが、その考え方には東洋の観念論や神秘主義的な要素が取り入れられています。このエリヤハウスの進展の途上で、韓国の怪しげなキリスト教の教えと、共鳴運動を起こしているのではないかと思われます。つまり、似通ったものが互いに響き合って、音色を増幅しているわけです。

ここ数十年、韓国系のキリスト教団体が多数日本で活動しています。その中の多くのものが、ネオペンテコステ、つまり、カリスマ系や第三の波系です。もともと韓国のキリスト教界は長老系が多いのですが、次から次に分裂をくり返し、統率の取れない数百の団体の雑多な集合体となっています。それもあってか、土着の宗教と混じり合ったキリスト教、いわゆる韓国化したキリスト教がかなり高い割合で含まれ、ネオペンテコステ系として活動しています。その中には、先祖の罪、先祖の呪い、家系の罪、汚れた血筋などを持ち出すものも少なくありません。先に触れた統一協会も、そのようなことを言い募っているキリスト教系のカルトです。

この韓国系のキリスト教会が、いろいろな意味でエリヤハウスの教えや活動と類似しているために、混じり合ってしまうことも多いのです。それで、日本で韓国系の教会と協力している教会には、エリヤハウスの教えを実践している教会が多いのだと思われます。韓国の正統的な信仰のクリスチャンには申し訳ないのですが、私たちは今、日本に来ている韓国の教会あるいはその働きに対しては、最新の注意をもって、その出処を確かめ、その教えを確かめなければなりません。

おわりに

 私たちのアッセンブリーズ・オブ・ゴッドの交わりの伝統は、体験主義です。それは聖霊
のバプテスマという共通体験から生まれた、素人集団のような交わりであったためです。そ
して、それが私たちの強みでもありました。いま生きて働いておられる聖霊に信頼するとい
う、新鮮な信仰態度を高揚することになったからです。しかしそれは同時に、大きな弱点を
抱えていることも、しっかりと理解しなければなりません、そこには聖書の教えを軽視し、
「聖霊の導き」という主観的判断を重んじる傾向があるからです。

 私たちは信条として、聖書を絶対の権威と認めるのですが、必ずしも聖書を正しく理解しているとは、言い切れないところがあります。聖書主義を合言葉にしていながら、聖書を軽視している場合が多いのです。私たちは自分たちのこの弱点、あるいは欠点をしっかりと認めて、本当の聖書主義に立たなければなりません。

 本当の聖書主義とは、自分の信仰と行動を、常に正当で厳密な聖書釈義によって、裏付けるものです。聖書の裏付けがない信仰と行いには、たとえ聖霊の示しだろうと導きであろうと、預言であろうと啓示であろうと、強い警戒心を持ち続けなければなりません。

 いま私たちの中に侵入しているエリヤハウスの、教義と実践の重要部分には聖書の裏付けがありません。聖書の教えではないのです。聖書の教えではない教えを、運動の極めて重要な部分として教え、また実践しているエリヤハウスは、正統的なキリスト教運動と呼べるものではありません。

 さらにエリヤハウスは、その実践者たちが自覚していようといまいと、洗脳という危険で卑劣な手法を取り入れています。これは私たちが絶対に用いてはならない、汚いやり方です。私たちは信仰と良心をもって、これを退けなければなりません。神は人間に、自由な意思をもって選択決定する能力を与え、それを尊重してくださいました。そのために、たとえ人間が罪を犯し、それがためにご自分のみ子に人間の姿を取らせ、十字架で死ぬように定めなければならなかったとしても、それを大切にされたのです。洗脳は、それほど大切な人間の自由な選択と決定の意思を、物理的な外圧や心理的な抑圧によって、無力にするものなのです。

今回はエリヤハウスの教えと実践に潜む、重大な危険性がある部分だけを指摘しました。細かな問題点が他にもたくさんあると思います。ただ私は、エリヤハウスを取り入れている兄弟姉妹を、私たちの交わりから追い出せと言っているのではありません。私たちの中に、完全な聖書理解をもった完璧な者など存在しません。私たちは互いに教え合い戒め合う兄弟姉妹です。ただ、聖書に根差さないエリヤハウスの教えと実践を、私たちの交わりからは締め出すように、お勧めしているのです。私たちの中にある間違いを認めてこれを正し、健全な福音を語る者になろうではあ
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2011年06月16日

花咲いた雑談


 ある夜の祈り会のあと、雑談に花が咲きました。

 若いころからクリスチャンだったという、40代前半の女性。
「あのね。わたし、神様のみ声を聞いたことがあるのよ。おかしく思われてはいやなので、いままで誰にも言わなかったんだけど・・・。『たとえどのようなことがあっても、しっかりと信仰を守り通しなさい』と、はっきり聞こえたの。ちょっと問題があって、あれこれ悩んでいたときのことなんです」

「ハー。そうですか。よかったですねぇ」と私。

 すかさず、祈り会の中心メンバーの60代の男性が言いました。「実は、私もなんですよ」 

「そうなんですよ」 隣に座っておられた奥様が相槌を入れました。「あの時は、私たち、ホテルで開かれた特別集会に集まっていたのに、主人たら、自分の部屋にこもって出てこなかったんです」

「あまり気が乗らないので、サボっていたんですよ。それで、テレビでも観ようかと腰を浮かしたときにですね。 『きちっと集会に出なさい』って、み声が聞こえたんですよ。はっきりと。驚いて周囲を見回したんですが・・・。そのときから、私の信仰に筋が通ったというか、まぁ、きちっとしだしたわけです」

「ホー。そうですか。面白いというか・・・・よかったですね」

「面白いって・・・・。こういうのって、どうなんですか?」と先ほどの女性。

「クリスチャンによっては、み声を聞いたとか、幻を見たとか、少しこう・・・なんて言うか・・・自慢げに話している人もいるのですが、私はあまり話したことは無いんです。やはりなんとなく、おかしく感じて・・・」と男性。

「良かったですね。お二人とも、そのような神様の励ましのお声を直接聞くことができて」と私。

「良かったことなんですか?」と男性。「なにか、自分の信仰が変なのではないかと、心配なところもあって・・」と女性。

「よかったんですよ。信仰が幼い間には、ときおりあることです」

「えっ!? 信仰が幼いときですか? 信仰が強いから、そのような体験をするのではないのですか?」と、これはもう一人の出席者。

「いやいや。信仰が、聖書に根ざして成長していれば、神様は、皆さんにそのようなみ声をおかけになる必要はなかったはずです。お二人とも、まだ信仰が弱く、聖書も知らず、どうしたら良いかわからなくて、フラフラと迷っていたから、神様は哀れんで、特別にみ声をかけてくださったんですよ。良かったですね。聖書の教えを正しく学んで、その教えに立って生活するクリスチャンに、神様は、そのようにみ声をかけてくださることはまずありません。いつまでもみ声を聞いたり、幻を見たりしているクリスチャンではいけませんよ」

「ああ!! そうですよね。私がお声をかけていただいたのも、まだ、クリスチャンになりたてのころでした」

「あなたがみ声を聞いたのも、クリスチャンになったばかりで、まだ生半可な信仰しか持っていないときだったわね。だって、ズルして集会を休んでいたんですから」と、男性の奥様。

「そうです。いまでも神様のみ声を聞く人たちがいます。幻を見せてもらう人も、意味のある夢を見せてもらう人もいるかもしれません。一方、そのような神様のお働きは、今はありえないと教える牧師や教師もいます。でも、聖書の教えを調べる限り、無いと断定することはできません。神様には何でもできるからです。ただし、何でもなさる神ではありません。する必要があると神様が判断なさったときには、してくださるのであって、する必要も、意味もないことをする神ではありません。

 神様は、現在でもみ声をかけてくださることができます。だれもそれを妨げることはできません。夢も見させ、幻も映し出してくださることができます。でも、そのようなことをする必要は、もう、ほとんどなくなったのです。聖書があるからです。

 聖書がまだ完結していなかった時代、つまり、神様のみ心やご計画が、文書によって明らかに知らされていなかった時代には、神様はご自分のみ旨やご計画を人々に知らせるために、またさまざまな時と場合、人々に導きを与え励ますために、声や夢や幻や預言を用いなければなりませんでした。また当然、人々はそのような手段によって、神様のみ心を知ろうと願ったのです。

 旧約の時代には、神様と人とのコミュニケーションは、罪によってひどく妨げられていました。ですから、み声を聞いたり幻を見たりする人々は、普通、とても限られた立派な人たちでした。でも、キリストが十字架で贖いの業を完成された後の新約の時代には、神と人とのコミュニケーションは、基本的に誰にでも開かれ、夢も幻も、一般の信徒に開放されたのです。それが、ペンテコステの日にペテロがヨエルの預言を引用して語った、説教の趣旨でした。

 確かに神とのコミュニケーション、あるいは交わりはすべての信徒に解放されたのですが、だれかれの区別なしに、際限なくみ声がかけられ、幻が見せられたわけでもありません。やはりそこには秩序があったのです。さらに、新約聖書が完結して神の奥義の開示が終わったということは、神が人間に教えようとされた原則的なことは、すべて聖書の中に記されているということなのです。人の救いについての教えと、人の歩むべき道についての教えは、ことごとく聖書の中に示されているわけです。だから、あらたな奥義の啓示は不要となり、み声や夢や幻、あるいは預言というものの必要性が、ずっと少なくなったのです。

 そういうわけで、しっかりと聖書の教えを身に付けたクリスチャンは、み声や夢や幻をあまり必要としなくなり、預言も、聖書が書かれていた時代に比べると、重要ではなくなったのです。それらを必要とするのはまだ幼いクリスチャン、聖書の教えをあまり知らないクリスチャンです。成長したクリスチャンがそれらを必要とするのは、聖書の原則的な教えだけではまだ判断できないことがら、あるいは選択できない物事が現れてきたときです。すなわち聖書の教えの具体的適用に関わる、狭い範囲のものになるわけです。

 卑近な例でお話しましょう。未開部族の中に入って宣教師として働く決意をしている青年の前に、とても美しく、健康で、能力もあり、聖書知識も申し分なく、おまけにピアノまで上手に弾ける女性が、同時に二人現れて、彼に好意を持ち始めたと想像してください。ただ難点は、二人とも未開部族の中にはいることなどとても考えられない、『華やかな生活志向』の女性だったことです。二人とも、うまく青年を引き止めて、日本で、優雅なクリスチャン家庭を築きたいと願っているようでした」

「先生。青年の前に素敵な女性が二人ではなく、女性の前に素敵な男性が二人現れたことに、話を変えることはできませんか?」30代も半ばを過ぎた独身の女性が、いたずらっぽく口を挟みました。

「ウーン! 難しいですねぇ。教会には、あなたのように素敵な女性は多いのに、男性は少ないですから」

「聖書の原則的教えだけでは、彼はどちらの女性が自分にふさわしいか判断できずに、『神様。どちらの女性が私にふさわしいのか教えてください。どちらの女性なら、宣教師になると決心できるでしょうか』と、導きを求めて祈ることになります。つまり、ある種の啓示を願って祈るのです。

 私たち、ペンテコステの信仰を持っているものは、こんなとき、本当に神の導きがあることを信じて祈ります。気休めではありません。ただし、「これが神の導きだ」と判断し、選択するのはあくまでも私たちで、私たちの責任であることを忘れてはなりません。青年はまだ気づいていませんでしたが、彼女たちの後ろに、あまり美人ではないけれど、あらゆる面で、宣教師の奥さんになるのに最もふさわしく、献身態度も固い女性が、そっと控えているかもしれません。

 もうすこし脱線させてくださいね。この控えめな女性に青年が気づき、選択肢の中の一人に加えたと考えてみましょう。そのとき、この青年は『神様。み心を示してください。どの女性が私に最もふさわしいのでしょう』と、祈ってはならないのです。祈りによって導かれることを期待するのではなく、聖書の教えを基準として、判断しなければならないのです。それでも祈りたければ、『神様、私が正しく聖書を理解し、正しくすべての事情を把握し、正しい選択ができるように、導いてください』と祈るべきです。そして、自分の判断と決断で、あまり美人ではない、控えめな女性を選ぶのです。

 いまクリスチャンたちが聞く神のみ声は、聖書が教える教えに矛盾するものであるはずがなく、クリスチャンたちが見る夢の解釈も幻の理解も、聖書の教えに反するものであってはならないのです。問題は、夢や幻を見、み声を聞き、預言を与えられるような人たちの多くが、聖書の明らかな教えから外れたことを言い出すという事実です。聖書を読まずに、自分勝手な判断や解釈ができる夢や幻、あるいはみ声や預言を大切にし、夢を見ることができる自分たち、み声を聞くことができる自分たち、預言ができる自分たちを、あたかも霊的に高い、特別な人々であるかのように思い込んでいることです。

 そのような人たちが、夢や幻やみ声や預言をことさらに強調して、聖書の教えと合わないことを教える教会やグループを作り上げています。聖書の教えをよく知らないクリスチャンたち、聖書をあまり読まない「強い信仰」のクリスチャンたちが、たくさん惑わされて、正しい道からそれてしまっています。

 聖書は私たちに聖書の重要性を教え、これを読み、理解し、従うことの大切さを教えていますが、み声を聞くことの重要性も、幻を見ることの大切さも、夢を見ることの必要性も教えていません。預言でさえ、聖書が完結する前にこそ重要性が認められていましたが、今はその重要性を失っていることを知らなければなりません。

 私たちは、現在でも神からの直接の語りかけがある、「可能性」を否定してはなりません。しかし、そこにあまり重要性を認めてもいけません。私たちが強調するのは、まじめに聖書を学ぶことであり、聖書の教えに従うことです。











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2011年04月30日

異言の伴わない聖霊のバプテスマ



 10人ほどの牧師と宣教師たちが集まりました。いろいろな教団に所属し、神学的背景もだいぶ違います。雑談の中で特に話題になったのが、最近のペンテコステ派と呼ばれる団体の急成長です。


 日本ではキリスト教自体が極端な少数派に属しているために、あまり一般の話題にはなりませんが、キリスト教の背景の強い国では、特異なこととして注目を浴びているそうです。ただ、集まった牧師や宣教師たちの大部分は、ペンテコステ派にはなじみの薄い人たちだったために、いきおい、質問が私に集中しました。私がアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の牧師と、自己紹介をしていたためです。


 実は、ペンテコステ派とはなじみが薄い人たちの中にも、ペンテコステ派には警戒心を抱いている人たちも何人かいて、薄気味悪いといった感じで交わりが始まったのですが、私の解放的なものの言い方にほとんどの人が打ち解けてくださり、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の神学が、意外に正統的で保守的であると思われ始めていたのです。


 多くの質問の中で、もと南バプテストに所属していた宣教師の質問が、みんなの関心を引いたようでした。「自分も以前は聖霊の働きについてあまり知らなかったけれど、ペンテコステ派の影響で、聖霊について学び、すばらしい体験を重ねてきました。でも、私は自分がペンテコステ派だとは思っていません。なぜなら、私は聖霊のバプテスマの体験をしていますが、異言は語っていないからです」


 どうやら、ほかにも同じ見解の人が数人いたようです。ペンテコステ派とその教えについてあまり知らない人たちも、ペンテコステ派の急成長には強い関心を持っていたため、聖霊の働きを強調していながら、ペンテコステ派と呼ばれたくない人たちがいることに、そうとう興味をひかれたらしいのです。


 そこで私は、まず、伝統的ペンテコステ信仰と、カリスマ信仰と、第三の波と呼ばれる人たちの信仰の違いを、歴史的な発展を背景に簡単に説明したあと、付け加えました。「私は、どのような立場のクリスチャンであろうと、その人の信仰体験が真摯なクリスチャン信仰によるものならば、すべてを貴いものとして重んじます。ところで、自分は異言を語っていないけれど、聖霊のバプテスマを受けているとおっしゃる理由、そのように言うことができる訳はなんでしょう?」


 すると質問をしたもと南バプテストの宣教師が答えてくださいました。「史的キリストに対する信仰から一歩進んで、聖霊の実在と力を信じる生活を始め、奇跡を求めて祈り始めました。そして、私は幾度か幻を見ました。また、祈っていると聖霊の臨在を強く感じるようになり、体が熱くなり、平安に満たされ、喜びが湧き上がり、祈りが楽しくなりました。それから私が病人に手を置くと、その病人が癒される体験を何回もしました。だから、私は聖霊のバプテスマを受けたと信じているのです。私は異言を語る人々に違和感を持っていません。異言を語ることもすばらしいと思います。でも、異言を語らなければ聖霊のバプテスマを受けていないと主張するのは、少し視野が狭いというか、度量が小さいというか・・・・納得できないのです。聖霊の働きはもっともっと広いものだと思うのです」


 彼の意見にうなずく人たちが数人。なんと答えるか、興味津々で私を見つめる人たちが数人。それを横目で見ながら、私は答えました。「そうですか。なるほど、あなたのクリスチャン信仰の体験はすばらしいものです。聖霊体験と呼ぶのがいいかもしれません。さらにそのような体験を重ね、信仰を深め、いよいよ豊かに神に用いられることを期待します。でも、あなたのそれらの体験が、聖霊のバプテスマを受けたという証拠になり得るか、聖書によって証明をしてほしいのです。それらの体験が、間違いなく聖霊のバプテスマの証拠と言えると、聖書から説明してほしいのです。


 南バプテストの人たちは、私たちと同じくらい「聖書によって」、「聖書によらなければ」と、聖書を持ち出す人々です。集まっていた牧師たちも半分くらいは福音派といわれる仲間で、「聖書」、「聖書」というのには人後に落ちない人々です。元南バプテストの宣教師であった質問者は、当惑顔で言葉に詰まっていました。

 
 私は続けました。「聖霊のバプテスマ、あるいは聖霊によるバプテスマというのは、聖書がそのように名付けた、聖書的な体験です。バプテスマのヨハネがそのように呼び、キリストがそのように呼び、使徒の働きの著者がそのように呼んだ、特定の体験です。その聖霊のバプテスマを体験したと主張するためには、聖書が聖霊のバプテスマと呼んでいる、その体験をしなければなりません。伝統的なペンテコステ派の人々は、ほかの人たちのすばらしい信仰体験、聖霊体験を差別したり軽視したりするものではありません。ただ、その体験を聖霊のバプテスマと呼ぶならば、聖書が聖霊のバプテスマと呼んでいる体験であるべきだと、主張しているだけです。

 
 そこで元南バプテストの宣教師は、「ではペンテコステ派の人々は、異言を語ることが聖霊のバプテスマの証拠であると、聖書から証明することができるわけですね?」と言って、疑わしそうにほかの牧師たちを見回しました。


「もしも私に15分間くださるならば、異言を語ることが聖霊のバプテスマを受けた証拠であると、聖書から証明して見せましょう。もちろん、みなさんの反論は、聖書に根ざしている限り大歓迎です」 私は、まだ時間に少し余裕があることを見越して断言しました。


「皆さん、聖書をお持ちのようですので、使徒の働き10章を開いてください。私はできる限り、厳格な聖書解釈の原則に沿ってお話します。この解釈の仕方に疑問のある方はおっしゃってください。まず、使徒の働きという歴史書から神学を構築することはできないという、あるかたがたの主張が間違っていることをはっきりさせ、使徒の働きからも神学を論じることができるという、共通認識から始めなければなりませんが、皆さんの中に、使徒の働きから神学を建てることに反対とおっしゃる方は、いらっしゃいますか?」


 幸い、そんな難しい議論は始めて聞いたという方ばかりでしたので、それ以上の説明は不要となって、本題に入りました。


「聖霊のバプテスマ、あるいは聖霊によるバプテスマと、呼び方は場合によって少し異なりますが、4つの福音書すべて記がしているキリストの受洗の記事の中で、バプテスマのヨハネがキリストを指して、「この方は聖霊によってバプテスマをお授けになります」と語った、そのバプテスマです。イエス様ご自身が使徒の働き1章5節で言及されているバプテスマです。この前提はよろしいですね。


 このバプテスマが実際に授けられたと記録されているのは、ルカの福音書の後編である使徒の働きだけです。もしも使徒の働きの神学性が否定されるならば、その前編であるルカの福音書の神学性が否定されなければなりませんし、同じ福音書であるほかの三つの福音書の神学性も否定されなければなりません。幸い、どなたも使徒の働きの神学性も、福音書の神学性も信じておられるようですので、問題なく前に進めます。


 使徒の働きには、明らかに聖霊のバプテスマが授けられたと理解すべき記事が、2章と10章と19章に3回記されています。また、たぶんこれは聖霊のバプテスマが与えられたと考えられる記事が8章に1回あります。明らかという3つの記事では、すべて、異言が語られています。もう1つの場合では、異言が語られたとは書かれていませんが、異言が語られたと理解するのがいちばん納得し易い記事です。


 中でも、聖霊のバプテスマには必ず異言が語られると理解するために、もっとも大切なのは異邦人コルネリオとその家族一同が聖霊を受けた記事で、使徒の働き10章に記されています。この異邦人の改心という出来事が、ユダヤ教の一派の主張に過ぎなかったキリストの福音を、普遍的なものに発展させていく上でどれほど重要であったかは、牧師や宣教師である皆さんは充分に理解しておられると思います。その福音の普遍性、キリスト教会の世界的発展に大きな力となったのが、実は、異言なのです。


 そこで、皆さんご自身に聖書を調べていただきたいのですが、異邦人に福音を語るどころか、異邦人と交わることさえ非常に躊躇していたペテロは、聖霊によって、半ば無理やりにコルネリオとその家族たちのところに使わされました。でもペテロは、彼らが救われるようにと、個人的な勧めと指導をしたでしょうか? 10章の44節以下に注意してください。そのような勧めも指導も、まだしていませんね? むしろ彼は、自分が話終える前に、コルネリオたちが救われたと確信したわけですね? なぜペテロは、この救われるはずもないはずの異邦人たちが、救われたと確信したのですか?」


 聖書知識では引けをとらないと、ひそかに自負しているはずの福音派の牧師たちですから、私の質問にとまどうことなく、すばやく答えてれそうなものだったのですが、彼らは答えるのを躊躇しているようでした。


「ペテロが異邦人たちも救われたと判断したのは、異邦人たちにも聖霊の賜物が注がれたのが分かったからですね? どうして、聖霊の賜物が注がれたとわかったのでしょう? 彼らが異言を話し、神を賛美するのを聞いたからですね? ここまでは大丈夫ですか? 私の聖書理解、聖書の用い方に間違いがありますか?」


 誰も反対する人がいないことを確認して、私は進みました。「神を賛美するのはふつうのことですから、むしろ、異言で話し、異言で神を賛美していたのでしょうね。その異言で話していたという事実が、ペテロと彼に同行したユダヤ人クリスチャンたちに、『私たちと同じように、聖霊を受けた』と思わせたのですね? ほかに、異邦人の救いを彼らに確信させた出来事はありましたか? 彼らが賜物として聖霊を受けたという事実だけでしたね。その事実を確信させたのが異言を語ることでした。そして、その異言を語ったという事実が、ペテロとその同行者たちに、異邦人たちも自分たちと『同じように』聖霊を受けたと確信させたわけですよね。それでペテロは、この異邦人たちに洗礼を授けたのです。ここまでは間違いがないでしょうか? 


 その後、ペテロは異邦人にも洗礼を授けたことでほかの兄弟たちに批判されて、弁明しなければならなくなりました。それは11章に書かれています。そこでペテロは自分の体験を語り、彼が話し始めてまだ間もなく、「聖霊が、あの最初のとき私たちにお下りになったと同じように、彼らにもお下りになった」と説明しました。「あの最初のとき」とは、当然、使徒の働きの2章に記されている、ペンテコステの日のことと考えていいですね?


 だれも口を開きませんでしたので、私はさらに続けました。「ペテロは『あの最初のとき
と同じように』という事実を強調していますね。弁明ですから当然といえば当然ですが、使徒の働きの著者ルカもまた、あえてこの問題をくり返して取り上げることによって、ペテロが強調したその点を強調しているように読めますが、いかがでしょうか?


 その後に、さらにペテロの理解とそのペテロの理解を後押ししている、ルカの理解が記されているわけです。ルカがペテロの理解に納得していなければ、この記事を書くことはなかったのです。コルネリオたち異邦人が体験した異言を語る出来事は、ヨハネによって予言されていた『キリストが与えるバプテスマ』、すなわち、『聖霊によってバプテスマを授ける』と語られていたバプテスマであったと、ルカの福音書の著者であったルカは理解していたのです。聖書には、ペンテコステの日の出来事が聖霊のバプテスマであることを示す、直接の言及はここにしかありません。


 それはペテロとその同行者たちだけではなく、当時のクリスチャンたちが聖霊のバプテスマには異言が伴うと、理解していたことを示していることにならないでしょうか? また、当時のクリスチャンたちは、異言を語ることが聖霊のバプテスマを受けた証拠であると、認めていたことを示していないでしょうか? さらに、異言を語るということは、神の絶対の権威によるものあり、人がそこに口を挟むべきことではないことも示し、その上に、それは洗礼を授けることの充分な理由になることさえも、示しているのではないでしょうか? ただし、現代の人々が異言を語ったと主張する場合、その異言が正真正銘の異言であるかどうか、確かめなければならない場合もあるようですね。これは、別の機会にお話しましょう。


 ところで、聖書から神学を構築する場合、わずか一節の短い引用や、たまたま一度だけ言及されたことから語ってはならないことは常識ですが、これは一節だけの引用ではありませんし、たまたまの言及でもないことはお分かりになりますね。これは明らかに意図的に言及されたものであり、かなり念の入った説明です。


 それから、お伺いしたいのですが、なぜ、異言を語ることを奇異に感じたり、恐れたりするのでしょう? パウロは明らかに、すべての人が異言を語ることを望んでいると語っていますね。自分が誰よりもたくさん異言を語るともいっています。異言を語るのをとどめてはならないとはっきり教えています。コリント人への第一の手紙の14章に記されているとおりです。


 もちろん、異言は伴わないけれど、すばらしいクリスチャン体験、聖霊体験というものはたくさんあることでしょう。パウロが「第三の天」という表現で語った彼の体験も、そのような体験のひとつだったかも知れません。しかし、自分は異言を語ったことはないけれど、聖霊のバプテスマを受けていると主張される方は、その体験が間違いなく聖霊のバプテスマであるということを、聖書から説明する責任があると思いますが、いかがでしょうか?」


 私の言うことに耳を傾けてくださっていた牧師や宣教師たちは、顔を見合わせていましたが、やっとの思いで・・・・・と思える様子でおっしゃいました。「先生の言われることはよく分かりました。ただ私たちは、このことをもっともっと、しっかりと学ばなければならないと思います」 


「ぜひ、そのようになさってください。聖霊体験が個々のクリスチャンの体験として非常に重要であり、教会の成長にも大きく関係しています。いろいろ例外はあるかもしれませんが、少なくても、世界のペンテコステ教会の働きを見ると、そのように言えると思います」 私は続けました。「そしてさまざまな聖霊体験の中で、イエス様や弟子たち、それから初代の教会が特に強調したのは、聖霊のバプテスマといわれる体験です。さまざまな聖霊体験があり、それぞれすばらしいものでしょう。でも、聖霊のバプテスマと呼ぶ以上、それは異言の伴うものでなければならないというのが、聖書から得た私の結論です」


 残念ながら、このときの私の説明で、充分納得できた方はいなかったようです。それぞれが自分の神学的伝統を横において、聖書の言うことを素直に聞けるようになるのはいつのことでしょうか。私の説明を妨げずに聞いてくださった寛容さに感謝をすると同時に、聖書の教えよりも自分たちの神学的伝統を大切にする頑なさに、少しばかり失望したものです。










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2011年04月20日

み声を聞く人たち

  
ここしばらく、おかしな「クリスチャン夫婦」と御付き合いをしています。

 ときどき一緒に仕事をする東京の牧師の仲介で、ひとりの女性の相談を受けました。何でも、中学生の頃からの親友が私のいる町に住んでいて、生活にとても困窮しているらしいのです。電気、水道、ガス、電話は止められ、暖を取る石油も、毎日の食べ物もない。それで助けて欲しいという手紙をもらって、米だとか、味噌だとか、お菓子だとか、品物を何回も送ったりしているけれど、とても間に合わないということでした。

「何とか彼女を助けてあげたいのですが、遠く離れて住んでいる自分たちでは、もう限界なのです。自分の娘が、お友達のお父さんが牧師をしていると言っているのを聞いて、彼女がクリスチャンだったと言うことを思い出し、思い切ってお訪ねして相談しました。すると、彼女の住む町にいる牧師さんと親しいとおっっしゃって、紹介してくださったのです」と言うことでした。

 救援を求める手紙は彼女のところだけではなく、中学生の頃に親しかったもうひとりの女性のところにも、当時の恩師のところにも、親戚たちのところにも来ているそうです。それぞれ品物を送ったり現金を送ったりして色々手を尽くしたけれど、どうしようもないということでした。しかも困窮している女性は糖尿病を患っていながら、とても病院どころではないらしいのです。

色々話を繋ぎ合わせると、彼女たちはもう50歳近くらしく、どちらも家庭を持ってお子さんたちもいらっしゃる様子です。それにしても、「中学生の頃のお友だち」のために、「よくもそこまで」と思わせられたものです。

 それから何日か後、もうひとりの友人と言う女性からの電話がありました。それで、もう少し詳しく様子を知ることができました。

 困窮している女性は、親の代からのクリスチャンだと言うのです。少なくても母親はクリスチャンで、母娘が一緒に教会に通っていたのを良く知っているし、教会で挙げた結婚式には、彼女たちもそれぞれ夫同伴で参列したのだそうです。

「ところが相手の男性が問題で、神様にお仕えすると言っては、日本中を車で回って何かしていたようですけれど、収入になるような仕事は何もしていないらしいんです。彼女のお母様が亡くなったあと、遺産の家と土地を売ってそれ相当のお金を得たはずなんですが、そちらの町に引っ越して行って、3年ほどたちます。それでもう、しばらく前から、お金を貸してほしい、食べ物を送ってほしいという手紙が何度も来るようになりました。幸い私の夫も、子どもの頃から彼女を知っていて、何とか助けてあげようと言ってくれているのですが、もうとても、私たちの手に負えるような状態ではなさそうなのです」

 電話口で涙声になりそうな彼女の説明を聞いていて、世の中には、何と親切な人間がいるものかと、改めてもう少し感動したものです。彼女の夫は、「彼女を助け出すために、一時、自分の家に引き取ってもいい」とまで、言ってくださっているというのです。

 そんなわけで、私は少しばかりの食料を手に、このクリスチャン夫婦を訪ねて、お話をすることになりました。

 「僕はですね。もう10年ほども前に『仕事をするな』という神様のみ声を聞いたんです。それからはずっと仕事をせずに、神様にお仕えしているんです。必要なものは神様があたえてくだいますから。厳しいこともありますが、なんとか今までやって来ることができました」

 その様に話すその男性は1m80cmに近い背丈でしたが、やせこけて突き出た頬骨の上に、油気のない髪の毛がかぶさっていました。横には、やつれてはてて消え入りそうな奥様が、小さく座っていました。

 「神様のみ声を聞いたなどと言いますと、『そんな話は信じられない』と、鼻っから相手にしてくれない牧師もいますが、先生はアッセンブリーズ・オブ・ゴッドの牧師ですから、信じられますよね。神さまが『働くな』とおっしゃったのですから、私は働きません。神様が養ってくださいます。ただ、家内は信仰がまだ弱く、ときどき人にお願いして食べ物や何かを貰ってくるようですが、私は神様を信じています」
 
 神様のみ声を聞くことができたことを、信仰の勇者の証明でもあるかのように、彼は一段と語気を強めました。

「それで、仕事をしないで、毎日何をしているんですか? 伝道しているとか、人を招いて教えているとか・・・・・・、しているんですか?」
そのような様子はまったくないのは、すぐにも見て取れましたが、私は意地悪く尋ねてみました。

「自分たちで礼拝会を持って、祈祷会もやっています。近所の人がたまぁに顔を見せることもあります」 平然とした答えが返ってきました。

 「私はアッセンブリーズ・オブ・ゴッドの牧師で、預言も幻も夢も、聖書が教えるように信じていますが、あなたが『仕事をするな』という神様の声を聞いたという出来事は、残念ながらまったく信じられません。それどころか、信じてはならないことだと思います」

 いま流行(はやり)のネオ・ペンテコステ・運動の一員だと自認しているこの男性は、一瞬、びっくりして私の顔を見つめていましたが、私は続けました。

 「あなたの聞いたのは、神様のみ声ではなく、昼寝をしていた豚のいびきだったかもしれませんよ。犬の寝言だったかもしれませんね。あなたも少し寝不足で、ぼんやりと聞いたのではないですか? あなたは勝手に聞いたと思っていても、神様は、『そんなこと話していないのになぁ』と、おっしゃっているのではないですか?」

 ずけずけという私の言葉に、ご主人はだいぶ怒ったようです。話し合いは物別れに終わりました。でも私は懲りずに、その後も幾度も訪ねてお話しをしました。そのたびに、わが家の中のごちゃごちゃした食料をかき集めたり、途中のスーパーで買い込んだりして、持って行ったものです。

 「神様の声を聞いたと信じてそれに従うのは、あなたの勝手。それで、食べる物もなくなってやせ細って死ぬのも、あなたの信仰の結果です。あなたが自分の信仰の確信に従って死ぬのなら、それはそれで結構です。どうぞ神様を信じて、人に物乞いなんかしないで死んでください。でも、そんな神様の声は聞いていな奥様までが、あなたの空耳信仰に引きずられて、こんなに苦労をしながら物乞いを続けなければならないのは、あってはならないことです。それでは、地の塩でも世の光でもありません」

 このご主人、1990年代の初めにこの町でクリスチャンとなり、カリスマ運動とか、第三の波運動とか呼ばれる人たちと御付き合いしてきたらしく、「あの先生はこう言った。この先生はああ言った」と、結構顔も広いようでした。10年以上も前に、香港からの青年クリスチャンたちが15人ほど、わが家に寝泊りして地域に伝道文書を配ったとき、その青年たちを車に乗せて連れて来たのが自分だったとかで、私に会ったのも初めてではないということでした。

 そうこうしている間に、私と家内は、彼女の友人の女性たち、その夫やその友人の法律家、それからわが町の法律相談所、自治体の女性相談室などと話を進め、一致した見解に達しました。

「このご主人は自分の信仰が間違っているとは認めないだろう。だから、その信仰で死ぬのはそれでいい。しかし、奥様はそのような信仰を持っているのではない。それまで道連れにするのは良くない。だから、何とかして奥様を助け出し、自立の道を探してあげなければならない。そのためには、まず離婚が絶対に近い条件になるだろう。

 牧師として「クリスチャン夫婦」に離婚を勧めるのは、なんとも情けない話ですが、最善を追求して離婚させずに飢え死にしてもらうよりも、離婚しなければならないほどどうしょうもない弱いクリスチャンとして、ただ神さまの憐れみにだけ頼って、次善の道を辿るほうをお勧めするのがよいと考えるのです。牧師の私も、離婚をさせないで物事を丸く収めることが出来ない、能無しの牧師であることを悔しく思いながらも、そのようなできそこないでも、御用のためにお用い下さる神様を誇りとして行けばそれでよいことです。完全なのは神様だけです。私たちは完全でないから神様に頼るのです。

ただし、たとえ奥さんに「いい加減に離婚してけじめを付け、人間として通常の生活をするように」と勧めたとしても、彼女もご主人もクリスチャン信仰まで失ってしまわないように、上手にやらなければならないと、ちょっとだけ注意深くなっています。

神様の救いを信じている限り、二人が離婚せずそのまま物乞い生活を続け、家賃も払えずに追い立てを食らって野垂れ死にしたとしても、救われることは救われるのですから、離婚を勧めることによってその救いをも失わせては、元も子もなくなってしまいます。いわゆる、「たらいの水と一緒に赤ちゃんまでも流してしまう」ことになります。あるいは、角をためて牛を殺すというのでしょうか。人が救われるのは、その人が完全に正しい信仰を持っているからではなく、神様の憐れみよるのですから、豚のいびきと神様のみ声と聞き違ったとしても、救われるのです。

でも、そんな信仰では全く証になりません。また神様も、そんなくだらない苦労をさせるために、彼らをお救いになったのではないはずです。奥様にも、もう少し人間らしい生活をしてもらいたいと思います。

 ところで、神様のみ声を聞くなどということが、現在でも本当にあり得るのでしょうか? 聖書を正しく読む限り、それは「ある」と答えざるを得ません。聖書には、その様なことはないという教えはなく、その様なことはなくなったという教えもありません。その様なことはやがてなくなるという教えもまたないのです。福音派の方々が良く引用するコリント人への第一の手紙13書8節は、この場合まったく当てはまりません。確かにこの聖書の部分によれば、預言も異言も廃れるときが来ます。共に不完全だからです。でも、その時はまだ来ていません。なぜならば、その時には「知識も共に廃れる」ことになっているのに、いま、知識はますます盛んになっているからです。

 では誰も彼もが夢を見、幻を見、神のみ声を聞くのでしょうか。不注意に使徒の働き2章16節以降を読むと、そのような勘違いを起こします。でも、ここでペテロが言っているのは、今や神がお定めになった「とき」が変わり、新しい時代になった。預言者と呼ばれる限られた神の人たちだけにあたえられていた預言の働きも、ごくごく一般のクリスチャンたちにまで与えられるようになったということであって、誰も彼もが、のべつ幕なしにその様な働きをするという意味ではありません。使徒の働きをはじめ新約聖書全体を読んでも、預言の働きはごく限られた人々にとどまっています。

 さらにここで言われている預言と言うのは、神の言葉を預かって語るという意味で、今で言うならば、説教に近いものであったということも大切です。恍惚となって見る夢や幻ではなく、また突然天から与えられる言葉を語る預言でもなく、通常の精神状態で、普段の学びと体験から夢を見、幻を抱くことであり、また、常々の学びと神との交わりの中から、神の御心を知り、それを聖霊の励ましによって語ることだったのです。そのような大切な役割が、名も無い人々、すなわち教会に与えられたと言う意味で、非常に大切だったのです。
 
その上、聖書の中で夢や幻や預言が大切だったのは、その時代には、まだ聖書が完結していなかったと言うことです。神様のみ心の啓示とそれを書きとめさせるための霊感の働きが、まだ終わっていなかったのです。ですから当時の人々は、いまの私たちのように、信仰と生活に必要なすべての教えを、聖書から学ぶことができませんでした。さらに、当時は印刷技術もなく、完結していた聖書の部分もまた非常に高価で、一般の人々がたやすく手にすることはできなかった点も大切です。したがって、当時の人々は、いまの私たちより遥かに直接的な預言を必要としていたのです。いま生きている私たちは聖書を読み、聖書を書かせてくださった聖霊に頼んでそれを理解し、日常の生活に適用できるのですが、当時の人々にはそれが出来ず、神の特別な助けを必要としたことが多かったのです。

 現代でも、聖書に書かれていることをまだ理解していなかったり、聖書には原則的なことは書かれていても、具体的な取捨選択となると、神様の直接の助けが必要となったりする場合があります。そのような時、私たちは神様からの何らかの導き、助け、介入を期待して祈るのです。それを期待しないで祈る祈りは、単なる気休めの祈りであり、今生きていて私たちの祈りにお応えくださる神を信じて祈る、ペンテコステの信仰の祈りではありません。だれにでも、神の直接の助けが必要だと感じることがあるものです。とは言え、いつも夢だとか幻だとかみ声によって「お示し」を頂かなければならないのは、成長していないクリスチャンの証拠なのです。

 成長していないクリスチャンには、み声も必要で章。でも、「仕事をするな」という神様のみ声はあり得ません。よほど特殊な事情がない限り、あってはならないのです。なぜなら、それは聖書に記されている原則に反するからです。聖書は、真面目に働いて生活することを教えています。

「働かざるもの食うべからず」という言葉があります。まだ4、5歳だったころ、読み書きも出来なかった祖母が教えてくれたものですが、後になって、これは共産党のスローガンである事を知りました。でもさらに後になって、何のことはない、これは聖書の教えである事を学んだのです。(Uテサロニケ3:10)

 聖書にはっきりと教えられていることに反する、神のみ声を聞いてはならないのです。そのような声が聞こえたら、自分の勘違い、聞き違いだと知るべきです。猫のくしゃみか風邪に閉まったドアの音かとでも思うべきです。また他のクリスチャンでも、預言者と呼ばれる牧師や巡回伝道者であっても、「あなたへの神の言葉がありました」と言って、なにやらおかしなことを語ったとしても、そんなものに振り回されてはいけません。大切なのは、そんな曖昧な主観的体験の言葉ではなく、聖書の言葉です。聖書には、聖書のみ言葉に従うようにと厳しく教えられていますが、預言の言葉に従うようにとも、耳に聞こえる神のみ言葉に従うようにとも、教えられていないのです。

 たとえば、み声を聞いてはならない場合があります。導いてくださいと祈ってもならない場合があります。ちょっと想像してみましょう。ジャングルの奥地の未開部族に福音を語る、リビングストンのような宣教師になるのが、自分の献身だと決心している若者がいたと考えてください。もっとも、現代ではそのようなジャングルを探すほうが難しくなっていますが・・・・・・・。

 その若者の前に、二人の若い女性が現れます。どちらもクリスチャンなのですが、一人はとても美人で、有名大学を卒業し、ピアノもとても上手。英語はぺらぺら、お花も御茶も免状を持っていて、その上テニスも出来るという。ただクリスチャン信仰はおさなく、わがままで、自分勝手で、独りよがりで、神様にお仕えしようとなど考えたこともありません。自分の幸せのために、クリスチャンになっているのです。

 もうひとりは、あまり美人ではありません。大学も三流です。ピアノはポロンポロンと弾ける程度、英語はブロークン。お花もお茶も習ったことがなく、スポーツもあまり知りません。でもとても親切で気立てが良く人に喜ばれています。いつも控えめでありながら誰かの役に立てることを喜んでいます。何よりも、しっかりと聖書を学び、神様に愛されていることを確信していて、感情の揺れも少なく、一生をかけて神様にお仕えしするのが、自分の願いだと証をしています。

 悪いことに、(?)この二人が同時に若者に恋をしたとします。さぁ、あなたがこの若者だったらどうしますか? お祈りをしますか? 「神様み声を聞かせてください」と真剣に祈りますか? こんな場合、祈ってはならないのです。み声を聞こうとしてもならないのです。あなたにふさわしいのは、二番目の女性です。

豚の寝言のような「神の声」に聞きしたがって、一生を棒に振ってはなりません。預言だ、み声だと盛り上がっている教会があったら、間違っていることに気付いて欲しいものです。くり返します。私たちに大切なのは、聖書に啓示されている神のみ言葉に聞くことであって、今、自分の耳や誰かの耳に聞こえて来る、「み声」に聞くことではないからです。

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2010年11月19日

自浄作業



 私はペンテコステ教会と言われる中で、もっとも大きく中心的な役割を果たしてきた団体に所属しています。ペンテコステ教会には様々なすばらしい特徴がありますが、ありがたくない特徴もいくつもあります。



 ペンテコステ教会の元となったペンテコステ運動は、あまり学問的な背景のない人々が中心になって始まったものです。というより、聖霊が、極めてありふれた人たちの中にお働きになって、始めてくださった働きです。そのために、この運動は一方では非常な勢いで拡大して来ましたが、聖書的な理解の深みを欠いているという特徴のために、ずいぶん多くの間違いも犯してきました。



 私たちの交わりは、どちらかというと、厳格な教理や神学を掲げて、自分たちの交わりの純粋性を保持しようという改革派的な傾向ではなく、聖書の十全霊感とその権威を認め、聖霊のバプテスマの真実性を認めるならば、それ以上のことはあまり問わないというおおらかさ、あるいは緩やかさ、言い方によればだらしなさを持ってきたために、多くの間違いが紛れ込む危険があった一方で、間違いを持った者たちがこの交わりの中に留まることができたために、より正しい信仰のあり方に近づくことができたという一面を持ち合わせています。それは、自分と異なる信仰のあり方に寛容性を持つと同時に、常に様々な怪しげな信仰とその表現に対し、警戒を怠らないという側面を備えることになりました。



 再浸礼派を認めることができないために、その信徒たちを酷寒の川にかかる橋から逆さに吊るし、溺死させたカルビンのような峻厳さは持ち合わせていないのです。おかげさまで、本当におかげさまで、私のような中途半端で自堕落な人間も、おどおどびくびくしないで、この交わりに居続けることができているのです。いったい、完全な教会などというものは存在せず、完全な団体などというものは夢想に終わるのです。たとえ人が完全な団体を作ったとしても、その人がそこに残れば不完全になります。



 いま、私たちの交わりとその周辺には、実に多種多様な信仰とその表現が見られます。それが聖書の許容範囲、すなわち正しし聖書の解釈の上で許される範囲に留まっている限り、急速に狭まる世界のモザイク文化と、過激に変化し続ける世界の多様性に対応していくためには、非常に大きな利点となるものと考えられます。しかし、聖書の解釈上問題があるもの、聖書の許容範囲を超えているもの、倫理的問題を抱えているものについては、大いに注意しなければなりません。それが、やがて根を腐らせ、幹を枯らせてしまうことにもなるからです。

 だからと言って、魔女狩りのように間違ったものたちを見つけ出して厳しく処罰し、追放するなどということを行ってはならないのです。イエス様がおっしゃったように、下手をすると、毒麦と一緒に良い麦までも引き抜いてしまうことになるからです。



 そこで、現在聖書的に許容できない方向に進む危険性のあるもの、あるいはすでに進んでいるもの、あるいは倫理的に許すべきでないものを取り上げて、少しばかり警鐘を鳴らしておきたいと思います。まだまだ、多くの方々が気付いていないもの、あるいは危険性を過小評価しているものもあるのではないかとおもいます。そうすることによって、間違いに気付いていない人たちが気付き、誤りを理解していない仲間たちが理解し、私たちの交わりの純粋性を少しでも保つことが出来れば幸いです。これはある種の自浄作業です。

                                つづく
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2010年11月18日

見ないで信じるものは幸いである (2)


IV.  しるしとしての金歯銀歯



 金歯銀歯の奇跡の「しるし」としての価値について、もう少し考察してみましょう。金歯銀歯の奇跡が、それを体験した本人にとっては、あるいは目の当たりに確認したクリスチャンにとつては、大きな信仰の励ましになったことと思います。この奇跡にも、信仰の碓認としての価値があるというのは否定できません。このような奇跡の価値は、たとえばエリシヤがエリヤの力を継承した確認として、外套でヨルダン川を分けたことにも現されています。 



 しかし、現在わたしたちは新約聖書が完結している時代に生きています。「見ないで信じる者は幸いである」と、しっかり教えられている時代に生きているのです。幸いに、見ないで信じてきたわたしたちが、どうして今、見て信じる信仰にもどる必要があるのでしようか。奇跡自体が本当に必要とされ、その奇跡を見た結果として信仰が励まされるという、新約聖書以降の一般的なあり方ならば納得できますが、「歯」の奇跡にはそれが無いのです。これも、私の「腹痛」の原因のひとつです。



 またこれは、外部の未信者に対する「しるし」としての力を持つものでしょうか。記事を読む限りこの金歯銀歯の奇跡は、奇跡を認めない種類の人々対してまったく説得力を持ちません。事実確認が間題とされるだけです。また、奇跡の存在を認める人々の間でも、「超科学」としての奇跡を語る人には何の説得にもなりません。残るのは宣教学上の「パワーエンカウンターリング」としての価値、悪霊と対決して勝利を収める「証拠」としての価値を持つかどうかということです。この、悪霊との対決としての「奇跡」は、旧約聖書にも新約聖書にも記されています。ある場合は意図的な対決であり、あるときは結果としてそうなったという違いはありますが、奇蹄の「しるし」としての力のが、イスラエルの神の優越性を示し、また、福音の信頼性を証明して行ったのは事実です。そして、このような力の顕示が現代でも、多くの国々でのペンテコステ信仰の隆盛につながっていることも事実です。

 

 しかし、これが、現在の日本で宣教の力となり得るかどうかとなると、話は別です。確かに、日本人には、霊界の力による奇跡の存在を認める人たちが、相当の割合でいるという事実から、パワーエンカウンターリングの素地があるとも言えそうです。しかし私たちの周囲では、大勢の占い師たちやオカルト集団によって、もっともっと不思議なことがかなり頻繁に行われている現状から、「金歯銀歯」の奇跡ではあまり分の良い勝負にはならないでしよう。また、パワーエンカウンターリングというのは、普通、同一の場あるいはそれに近い近隣の場で、二つの力が激突することによってもたらされるものです。モーセがエジプトの魔術士と戦った場合、パウロがキプロスでエルマと戦った場合に、あるいはエペソでの働きが、魔術士たちとの対決という結果をもたらした場合などで、それが明白です。現在の日本の「クリスチャンの特別集会」という隔離された場所での奇跡には、パワーエンカウンターリングの要素が欠けています。



 むしろこの種の奇跡は、下手をすると、この種の奇跡に用いられる伝道者たちを、この種のことに熱心なクリスチャンたちの間だけで通用する、「大能と呼ばれる神の力」に、祭りあげてしまうことになるのではないかと恐れます。(使徒8:10)



V. センセーショナルな新聞記事



 このように見てくると、「歯」の奇跡それ自体は、全能の神にはできないことではないし、それをなさるのは神の自由に属することですから、ただちに否定されたり、拒絶されたりするべきものではありませんが、かなり注意深く取り扱わなければならないこともわかります。聖書の奇躊と照合すると、少なくても良心的なクリスチャンが、大々的にマスコミに乗(載)せるような代物ではないと、言えるのではないでしょうか。そして問題は、このような奇跡が個人的な内輪の体験という範疇を飛び出して、大々的に報じられるところにあります。



 これは、このような奇跡を「持ち望む」体質を、記者も読者もまた体験者も持っているということ、またこのような体験は、さらに多くの人々にも広められるべきだという、願いを秘めていることを意味していないでしようか。これが、「聖書信仰」に立つと表明するわたしたちには、ふさわしくないことなのです。



 単純な聖書信仰に立つ私たちは、「神は今も昔と変わりなく、わたしたちの必要に奇跡をもって応えてくださる」と信じて祈ります。しかし、「歯」の奇跡のように、聖書の奇跡と照合するとき、その必要性と目的、必然性に「異質な要因」が多い奇跡を「一般化」しようとしてはならないのです。たとえそれが事実と思えたとしても、せいぜい、そのような出来事が伴ったということを、記録するだけに留めておくべきことです。



 わたしたちのアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の歴史の中にも、今回の「歯」の奇跡のように、聖書的にはそれ自体を否定するだけの根拠が無く、かといって積極的に推進するべき聖書的根拠も持たない出来事が、幾度も起こってきました。そして、そのような出来事が大々的に報じられ、クリスチャンたちの期待が、そのような聖書的根拠が不確かな出来事に集中すると、いろいろな間違いが発生してきました。



 たとえば、アメリカ・アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団創立の翌年に起こった、「イエスのみ名による洗礼」とい議論とその後の分裂、そしてジーザス・オンリーの発生の問題も、「聖書以外」の新しい「啓示」に対する、人々の期待の高まりが大きな要因でした。「聖書以外」の新しい「啓示」も、神学的には完全に否定することができないと、わたしは考えていますが、そのような、聖書に基盤を持たないもの、あるいは聖書以外のものに、必要以上の期待をかけると、特に集団的にそれが起こると、誤った危険な方向に進んでしまうのです. (誤解がないように。聖書以外の新しい啓示がたとえあったとしても、それは聖書と同等の権威を持つものではありません。なぜなら、聖書は啓示の書だけではなく、霊感の書だからです。)



 「歯」の奇跡も、強いて言えば笑いも、倒れることも、否定されるべきものではありません。しかしそれが、聖書が教えることがらと同じように、あるいはそれ以上に強調されると、大変危険なのです。私たちは、それを、自分たちの教団の歴史によって知っているのです。だから、私は「腹痛」を起こしたのかもしれません。



 今回の報道には、まだ他にも問題があります。それは、先にも触れた事実確認ということです。記事の中には歯科医という言葉も出てきて、あたかも事実が確認されているような言い方がされてはいますが、歯科医本人の言葉はありません。わたしが常々問題に感じているのは、このようなセンセーショナルな奇跡の記事の、事実確認が正しく行われているかどうかということです。カトリック教会には、一般大衆の「話」としての「奇跡」がたくさんありますが、教会が正式に奇跡と認定するには、奇跡を調査する正式な機関の、それはそれは、長時間にわたる、恐ろしく厳密な調査を通すことになっています。


 カトリック教会は奇躊の存在を正式に認め、聖人認定にはその人物が奇跡を行ったという事実を、絶対必要条件にしているほどですが、奇跡の認定それ自体には大変大変、非常に慎重です。(マザー・テレサが聖人として認定されるために、奇跡が不足しているという問題があって、カトリック教会内で揉めていますが) 今回の新聞の報道には、どれ程の事実確認の努力がはらわれたのでしょう。巷の週刊誌ほどでしょうか。センセーショナルですが、説得力がありません。



 このような報道には、どうやら、「クリスチャンは嘘をつかない」という神話が、底辺に横たわっているようですが、いかがでしょうか。数十年伝道者をしてきた私の実感は、むしろ「クリスチャンの言うことなど信用できない」というところですが。 



 クリスチャンが嘘と自覚して、人をだます目的でつく悪意の嘘は、たしかに他の人種よりは少ないと「信じて」います。しかし、自覚していないでつく嘘、つまり、知らないで事実に反することを言ってしまう嘘、人を助けるつもりの親切の嘘。付き合い上の嘘。あるいは、「神様の為を思って」の嘘などは、たくさん転がっているように思います。さらに信じ込もうとして語る、信仰による嘘もあります。「信じて告白」してしまう、あれですね。さらには、実際より少々大げさに言う嘘。大いに盛り上がった集会で、癒しの祈りをしてもらい、ついつい「癒された」と告白してしまう嘘には、いろいろな嘘の要因が含まれています。心理学的に調査をすると、面白いでしょうね。



 新聞という報道機関に求められるのは、もっと慎重な調査ではないでしょうか。わたしが個人的に知っていた伝道者で、癒しの器として用いられていた人は、癒しが起こってから、最低2年という間を置いて事実を確認してからでないと、その話を語ったり、記事にしたりしないということでした。奇跡の物語を大々的に報じて、大きな活動をしている伝道者や牧師は、宗教家としては成功したと言えることでしょう。しかし、神の器として成功しているかどうかは別の話です。



 ところで、この「福音リバイバル聖会」という集会の目的は、なんだったのでしょう。新聞記事を読むだけでは、そのあたりが良くわかりません。「歯」の奇跡ばかりに記者の目が捕らわれているからでしょうか。あるいは、この聖会自体が、このような奇跡に重点を量いているからでしょうか。あるいは、「歯」の奇跡がリバイバルの現れであり、また、「歯」の奇跡によってリバイバルが来ると考えているのでしょうか。この新聞記事には、そのような意識が読み取れるのです。そのような意識に対しても、どさまわりの宣教師として食べた、犬にも猿にもおたまじゃくしにも、生のくらげにも白蟻にも、おけらにも、錦蛇にも、ごきぶりにさえも不平を言わなかった、私の腹が痛み出したと思われます。



 リバイバル聖会によって、またそれを報道する新聞の記事によって、見ないで信じる幸いな信仰が高揚されたならば・・・・・、たとえそこにどんな奇跡が起こったとしても・・・・、見ないで信じる幸いな信仰が高揚されたならば、大いに喜べますしかし、この記事によると、どうやら高揚されたのは、見ることによって信じる信仰のようです。



 この、見えるものを大切にするのは極めて一般的なことで、ある程度の同情の余地はあります。聖書の中の多くの人々も、見て信じたのです。例えば、福音記者たちでさえ、わずかとは言え、この新聞記者のような意識を、持っていたのではないかと推測できます。4つの福音書がすべて取り上げているキリストの奇跡に、5千人を養った出来事がありますが、この奇跡の意義をきちっと説明しているのはヨハネだけです。他の記者たちは驚くべき出来事として記しているだけです。福音書の記者たちも、「悪霊どもでさえ、私たちに服従します」と喜んで、自分たちの名が天に記されているという、もっと重要な事実に心が及ばなかった、あの時の未熟さを、まだ引きずっていたのかと考えさせられます。しかし、神はそのような未熟な者の記述にも、霊感という導きを与えて許容範囲に入れ、「よし」と認めてくださったのです。



結び



 わたしたちペンテコステの信仰に立つ者は、神が今も生きておられ、昔と同じように働いておられることを信じ、神の直接の介入を期待して生活をしています。ですから、「奇跡」は当然のことです。しかし、わたしたちが強調する奇跡は、聖書の中にそれと同じ性質の奇跡があるもの、そういう種類の奇跡であるべきです。聖書の中に見いだされない性質の奇跡も、ただそれだけの理由で否定されるべきではありませんが、強調されてはならないものだと考えます。



 昔、創立間もないアライアンス教団の中で、異言を伴う聖霊のパプテスマの問題が大きくなったとき、指導者であったA.B.シンプソンは、「それは否定されてはならないが、求められてもならない」という裁断をくだしました。これは、異言を伴う聖霊のパプテスマを受けていた人たちの納得を得られず、結果として彼らの離脱と、その後のアッセンブリー教団の創立ということに移って行くのですが、シンプソンの言葉は、聖書の中に充分な例を持たない現象に対して、私たちが、どのような態度を取るべきかという問題について、よい判断を示していると思います。笑うのも、倒れるのも、金歯ができるのも、事実である限り否定されるべきではありません。しかし、求められてはならないし、強嗣されてもならないものだと思うのです。もちろん、シンプソンの間違いは、異言を伴う聖霊のパプラスマに関する、聖書の明確な記述を、少々軽んじ過ぎたところにあったのは、私たちが良く知っているところです。



 最後にもう一度。わたしたちは奇跡の神を信じています。しかし、奇跡に期待し奇跡を重要視するあまり、見ないで信じる信仰から、見て信じる信仰に逆戻りしないように、充分気を付けたいものです。

                                     おわり











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2010年11月17日

見ないで信じるものは幸いである (1)


見ないで信じるものは幸いである
      
  
   はじめに
 
 先日、私の悪友、いにしえの級友、尊敬する同労者が、「これについて、少し書いてもらえないだろうか」と、ペンテコステ系のクリスチャンたちの間で読まれているという、新聞のトップ記事を見せてくださいました。私にはまったく馴染みのない新聞で、記事の内容もまた、「だからどうだって言うんだ」という程度のものだったのですが、「その程度のことがこのように大きく報じられ、私たちの教団でも、信徒たちだけではなく同僚の伝道者たちの間でさえ、あたかも"トレンド"のようになりつつある現状が問題なのだ」と、説得されてしまいました。



 その記事には、東京で開かれた「福音リバイバル聖会」と名づけられた集会で、金歯、銀歯の奇跡が続出しているというものでした。治療の必要な歯に金冠や銀冠がかぶせられたり、銀冠が金冠に変わったりしているというのです。実はこのような「歯の奇跡」と言われる出来事は、海外ではかなり以前から知られ、議論の的にもなっていると聞いていましたので、わたしがその議論に加わることもないと感じたのですが、日本では、まだ議論が交わされていないと知って、それならば「理解の一助に」とワープロを叩くことになりました。雑文家の使命と心得ますが、お読みくださる方の忍耐に期待するものです。  



T. 常識の問題



 実際、金歯銀歯の「奇跡」の記事を読んだ時、「だからどうだって言うのだ」と思う一方で、私の常識が「腹痛」を訴え初めていました。消化不良です.わたしの常議は、もちろんペンテコステ信仰を持つ牧師の常識です。普通の日本人の常識でも、普通の牧師の常識でも、普通の福音派の牧師の常識でもありません。



 現在ペンテコステ的な信仰が世界を覆い、世界中にペンテコステ的出来事が起こり続けている事実を、わたしは喜ばしいことと考えていますが、反面、しばしば「腹痛」に見舞われているのも事実です。ペンテコステの牧師の私がそうなのですから、普通の福音派の牧師にとっては、かなりの「下痢症状」かもしれません。



一般日本人の常費



 一般の日本人が「奇跡」を取り扱うとき、現代科学では説明できないが、科学的なものという範疇で考える「超科学的な現象」と、もともと科学では説明も解明もできないことがら、たとえば「霊界」などと呼ばれる「異次元の現象」とに分けて考えるようです。科学的であることを自認する日本人の4〜5割にも及ぶ人たちが、このような、なんらかの「奇跡」の存在を信じているという報告もあるほどです。ポストモダンと呼ばれる現代人は、科学に失望して、厳密な意味での科学から離れる傾向にあると判断されます。ここに、怪しげな科学紛いのオカルトが流行する温床があると言えます。



福音派の常識                    



 現在の日本の福音派の中核を成す方たちの考え方は、端的に言って、キリスト教理神論とも言えるものです。理神論とは、啓蒙思想が発展して合理主義、科学至上主義に至ったもので、理論的には、創造主としての神の存在は認めます。しかしその神は、創造した万物と万物の存在を継続させる法則を残して、どこか遠くへ旅立ってしまったと考えます。したがって、現在神は存在しないも同じであり、科学的な法則のみが残っていると論じるのです。これがキリスト教の中に流れ込み、人間の理性に合わないものや、科学では説明できないものを否定するキリスト教を造りだしました。



 17世紀から19世紀に形成されたキリスト教神学や団体のほとんどは、程度の差こそあれ、この影響を色濃く反映させています。創造の神の存在を認めながら、聖書に記されている一切の奇跡を否定する近代神学は、少なくても福音派ではありませんが、聖書を文字通り誤りのない神の言葉と信じる福音派でも、聖書に記録されている奇跡は認めるが、今はそのような奇跡は起こらないと断言してはばからないのが一般的です。それぞれ、聖典の完結だとか、異なったディスペンセーシヨンに属するだとかいう、もっともらしい神学的理屈付けはしていますが、根は同じ合理主義です。 



ペンテコステ信仰の常識



 このタイトルはむしろ、古典的と自認するペンテコステ信仰を持っている、私というひとりの常識的な人間の考え方、とでも言った方がよいかもしれません。



 一般にペンテコステ信仰は、聖霊のパプテスマや異言を中心とするもののように考えられています。確かに、現代ペンテコステ信仰の成り立ちは、そのような経過をたどったことは事実であるとしても、本題はむしろ、「聖書の時代と変わりなく、今も働いていて下さる神に対する信仰」であると理解しています。今もわたしたちの祈りに奇跡をもって応え、わたしたちの日常の中に介入して下さる神です。私たちが祈るときは、気休めとしての祈りではなく、応えて下さる神に対する信仰と期待をもって祈ります。そして、ペンテコステの運動は、神の介入としての「奇躊」を体験しながら成長してきました。



 ペンテコステ運動は、ある意味で「興奮」あるいは「感情」の運動でした。神の介入の奇跡を体験した人たちは、当然、興奮しました。この興奮はしばしば過熱し、過激な行動や信仰、また神学となって、ペンテコステ運動の「特徴」のひとつともなってきました。わたしたちのアッセンブリーズ・オブ・ゴッドの歴史を見ても、それは明らかですが、幸いなことに私たちの交わりは、全体的に見ると、そのような特徴を聖書によって注意深く検討し、極端な誤りに陥ることを避けてきました。しかしそのような注意深さを好まない人たちもあって、さまざまな、極端なペンテコステのグループが続出してきたことは、否定できない事実です。



 ペンテコステ信仰の常識は、「神は今も昔も変わらない」こと。そして、「神には何でもできる、神にはできないことがない」ということです。しかし注意したいのは、私たちの神は「何でもできる神」ではあっても、「何でもする神」ではないことです。神は人間の常識や理解を越えて、自由にお働きになることができるお方であることは認めても、ご自分を制しておられる神、秩序の神でもあるという事実を確認しなければなりません。聖書に記されている「奇跡」の数々を見ても、神はたんに好き勝手に奇跡を行ったのではなく、秩序をもって行っておられるのです。ここで、まさにこの点で、金歯銀歯の奇跡は、わたしのペンテコステ信仰の常議に「腹痛」をもたらすのです。



II.  聖書の奇跡



 聖書に記録された様々な奇跡を見ると、そこには共通の秩序があるのがわかります。まず、すぐに気付くのは必要牲、あるいは必然性ともいうべきものです。必要のない奇跡はありません。すべての奇跡に必要があり、その必要を満たす目的がありました。



a.  奇跡それ自体に必要性があって、奇跡が起こったことは他の誰に知られなくてもよかった、あるいは知られないほうが良かった場合。これには、キリストが癒しを行って後、このことをだれにも知らせないように、お命じになった例などが含まれます。 



b.  奇跡自体が必要とされ、かつ、奇跡が起こった事実が「しるし」として機能することが目的とされていた場合、あるいは前提とされていた場合。聖書の奇跡にはこの例が最も多いようです。この「しるし」としての機能も、イスラエルや弟子といった、内部の信じる者に対して、励まし、教え、指導という要素を持つものと、異邦人や未信者という外部の人間に対しての、神の主権、支配の印としての要素を持つものがあります。キリストの奇跡も大部分がここに含まれます。



c.  奇跡それ自体には大きな意味はなく、むしろ、奇躊の「しるし」としての機能に目的があつた場合。これは、旧約時代の出来事としてはかなり記録されていますが、新約時代にはほとんど例を見ないものです。多分、これは神のざん進的啓示の現れで、聖書のなかった時代には、神のみ心を示す手段として、必要性が高かったが、一応旧約聖書が完結し、キリストの明確な教えも知られるようになった新約時代には、あまり必要とされなかったのだと考えられます。キリストご自身も、このような「しるし」を求めることを、「邪悪な時代の要求」として退けておられます。            

           
d.  キリストの宣教命令に伴う「しるし」としての奇跡の場合。これは基本的に、キリストが行われた神の国の到来の「しるし」としての奇跡と同じで、キリストの代理者としての教会に与えられた権威の一部でした。この場合も奇跡自体に必要性があり、「しるし」は付髄する結果としての機能でした。弟子たちは、「しるし」だけのために奇跡を行うことはありませんでした。



III.  金歯銀歯の奇跡



 ここでまず問題なのは、この金歯銀歯の「奇跡」なるものが、はたして奇跡自体に必要性があったかどうかという点です。新開を読む限りでは、あったと判断するのには難点があります。確かに、 (記事がすべて事実だと仮定して) 歯の治療を必要としていた場合もあるのですが、それすら、金であり、銀である必要性はありません。つまりこの奇跡の話を闘いても「共感」できるところが少ないのです。歯痛がなくなった。虫歯が虫歯でなくなった。歯の穴がなくなった。歯槽膿漏が消滅した。無くなっていた歯が出てきたという類の奇跡ならば、かなりの共感性を得られると思うのですが、どうして金歯である必要があるのでしようか。また、すでに入っている銀歯が金に変えられなければならないのは、どうしたわけでしようか。ここには必然性と必要性が不足しているばかりか、金銀をもてはやす繁栄の福音の残滓さえ見え隠れするのです。



 またこの金歯銀歯の奇跡には、奇跡としても癒しとしても、聖書の例にはあまり見られない要素を含んでいる点にも注意したいと思います。まずこれが極めて物質的な奇跡であるということです。金が銀に変化する。あるいは何も無かったところに、忽然と金もしくは銀が出現するというものです。聖書には、モーセの杖が蛇に変化したことが記され、灰がブヨに変化したと思われる記述もあります。あるいは水が血や葡萄酒に変化した例もあります。わたしは物理には素人ですので、銀が金に変化するのと、杖が蛇に変化し水が奮萄酒に変化するのと、どれほどの違いがあるのかわかりませんが、とにかく、聖書の奇跡としても少ない例です。また、なにも無いところに金や銀が出現するのも、神が新しく金銀をお造りになると考えるには難点がありますし、どこからか持って来るというのにも、なんとなく「奇跡の神」ではなく、 「奇術の神」のような感じを受けてしまいます。歯という小さな目立たない肉体の部分へ現される、あまり必要性の無い奇跡に、大変な奇跡の要素が必要とされるという、不均整が私の「腹痛」の一因かもしれません。



 つぎに、これは癒しというよりむしろ治療であるということです。聖書には治療という奇跡はないように思いますが、どうでしよう。改めて調べていませんので確実ではありませんが。つまり金歯銀歯は、近代の歯科医の治療技術であって、奇跡の神が、人間の医療技術に従わなければならない道理が、どこにあるかということです。同じく「無から生じさせる」なら、金や銀よりも、もともとの人間の歯が一番良いことは明白です。ただもともとの人間の歯と同じでは、「しるし」としては「目立たなく」なって、価値が薄れてしまうことは考えられます。新聞記者氏が書いておられるように、金歯銀歯は「目で確認できる」ところに重要性、あるいは価値があるのかもしれません。そうすると、これは「しるし」としての奇跡と考えなければなりません。そしてこのような「しるし」としての奇蹄は、キリスト以降、重んじられていないことはすでに見た通りです。

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2010年11月16日

しるしを求める時代 (6)


   XC1 聖書の多用と誤った解釈


 一般的に福音派の保守系の人々には、ブッシュ大統領がよくやるように、自分の主張を聖書にさせる傾向があるのです。聖書がそのように語っていると言って、「この紋どころが目に入らぬか」とやるわけですが、実際は、聖書がそのように言っていると、自分が、あるいは自分の仲間たちが思い込んでいるに過ぎず、本当は、聖書はそのように語っていないわけです。



 よきにつけあしきにつけ、ペンテコステ系の教会の伝統は、福音派保守系をもう少し極端にしたようなところがあります。ペンテコステ系のクリスチャンは、聖書の権威を絶対のものとして受け入れているために、聖書の言うことには平伏します。そこで、説教者たちは「この紋どころ」とばかりに、聖書を多用するのです。



 聖書を多用することは、必ずしも聖書の教えに立脚している証明にはなりません。聖書が正しく理解され、正しく現状に適用され、正しく用いられているかが肝心なのです。そこで、注意深い観察が必要になるのです。いささか専門的になりますが、現在のペンテコステ信仰にかかわる問題を考慮して、誤った聖書の用い方の要点をいくつか上げておきましょう。@ 聖書全体の教えを無視して、ひとつかふたつの箇所で、中心的主題としてではなく、中心的主題を説明するため触れられただけの、補足的事柄を取り上げて、自分たちの信仰や実践の基盤として用いる。たとえば、死者のための洗礼や(Tコリント15:29)、現在の使徒と預言者(Tコリント12:28、エペソ4:11)、あるいは按手(Uテモテ1:6)の主張などは、分かり易い例です。A 聖書が語っていないことを、聖書が語っているかのように主張する。たとえば、ヨエル書2:25の大軍勢という言葉を、世の終わりのときに神に敵対する軍勢であると主張するのは、的外れです。これはイナゴのことだからです。B 自分たちの誤った神学に合わせて聖書を解釈する。これは多くの教会がやってきたことですが、そのようなことをいつまでもやっていてはなりません。たとえば、現在でも使徒の時代と同じように、預言があると主張をして、その預言に聖書と同等の権威を持たせ、その預言にそった教えのために、聖書を利用するのです。先に述べた、現代の使徒や預言者の重要性の主張などは、ここに問題があります。つまり、聖書外の権威を持つことです。現代の預言運動、あるいはレストレーション運動は、怪しい預言者だったウイリアム・ブランハムの預言を発端としているのです。同じことは、怪しい預言だけではなく、たとえば福音派の統計学者であったピーター・ワグナーの唱えた、教会成長論にも言うことができます。彼は自分の主張を聖書の教えから得たのではありません。自分の考えを、聖書の言葉で補強しているだけです。ですから、彼らは今、いっしょに活動しているのです。



   XC2 正しい解釈を学ぶ
 


 ある人の主張が、本当に聖書の教えを基盤としているかどうかを見分けるためには、たえず、聖書の学びをし続けることが肝要です。聖書の全体的な知識を身につけることです。そして、今までにないような主張をしている伝道者や神学者を見つけたならば、彼らの用いる聖書の箇所が、正しく理解され、正しく適用され、正しく用いられているか、注意深く観察することです。その聖書の箇所について、多くの聖書注解書を開き、関係する分野の学びをすることによって、より正確に理解することです。目新しい解釈や珍妙な解釈に心を奪われてはなりません。それから、そのような珍しい主張をしている人の神学が、どこから来たかということ、すなわち信仰背景を学ぶことも助けになります。どういう信仰の背景と流れ、神学的傾向があるのかを見ることです。すると、後の雨、すなわちレストレーションの流れを汲むトロント・ブレッシングには、ウイリアム・ブランハムという異端的汚水が混入していることも判明してきます。トロント・ブレッシングに関しても、アメリカ・アッセンブリーズ・オブ・ゴッドは、正式に警告文を出していることも判明します。



   XC3 おどろかないこと
 


 ペンテコステ系の人々の行っている癒しや奇跡の数々に、驚かないことが大切です。驚いたり、感動したりすると、たちまち飲み込まれてしまいます。そのような軟弱なというか、ナイーブな信仰態度は、神様を知らない人々の態度であって、創造者である真の神を知っている人の態度ではありません。



 そのような信仰態度を持っていると、何かスペクタクルな出来事が起こると、そちらに移ってしまう、旅がらすのような信仰者になってしまいます。そのうちにクリスチャン信仰から外れて、インドのミステリーだとかアフリカの奇跡に、惹かれていくことも起こるでしょう。仏教の密教信仰に陥ることもあるでしょう。私の知っている教会は、癒しや奇跡を強調していましたが、近くに韓国系の教会ができ、そこではもっと多くの癒しや奇跡が起こっているからと、信徒たちが10名ほども移って行ってしまったそうです。でも、その韓国系の教会は、「悪霊とは、さ迷っている死者の霊のことだ」と教えているそうです。この場合、そのような基本的なことさえ理解できず、見える業に引かれて行くような、信徒を育ててしまったこと自体にも問題があるのでしょう。あちらで癒しが起こっているから、こちらで奇跡が起こっているからと、驚かないのが成長した信仰です。驚いてしまっては、しっかり聖書を学ぶことも、見分けることもできなくなってしまいます。



   XC4 人集めの癒しや奇跡



 新約聖書を見る限り、すなわち、クリスチャン信仰の理解と行動の規範を読む限り、癒しや奇跡が、人集めの手段として用いられたという例はありません。たくさんの信徒を集める手段としても、伝道集会の手段としてでも、癒しや奇跡が宣伝されたことはありません。人々が噂を聞きつけ、たくさん集まった例はあります。しかし、弟子や使徒たちが、「癒されたい人は来てください。奇跡を見たい人は集まってください」と、宣伝したことはないのです。



 現代のペンテコステ信仰の宣伝者たちの中には、癒しや奇跡を売り物にしている者がたくさんいます。人集めの手段にしているのです。彼らは、「福音のためになら何でもする」と言ったパウロの言葉を用いて、自分たちのやっていることを正当化します。たしかにパウロはそのように言っています。しかし、彼は自分の信仰、自分の倫理、自分の誇りに反することは、絶対に行わなかったのです。(Tコリント9:14−15) パウロも他の弟子も、もちろんキリストも、癒しや奇跡を、引っかけば当たりが出るおまけや福引のような、人寄せの道具にはしなかったのです。何かが信仰の原則に反したからではないでしょうか。



 癒しや奇跡を人集めの手段、宣伝文句にする人々には、倫理的な危険が伴います。だれかが癒されなければいけなくなるからです。奇跡も、起こらなければならなくなるからです。昔の見世物小屋に、「長さ8尺もある大いたち」なんていう呼び込みがあったそうです。入ってみると、嘘ではない。8尺の板に血が塗ってあったという話ですが、嘘でも見せなくてはならなくなります。毎回とは行かなくても、せめて、何回かに一回は癒しが起こり、何十回に一回は奇跡が起こらなければならなくなります。そこで、いろいろな策略が用いられることになるのです、



 聖書によると、癒しも奇跡も、現代の教会におこり得ます。贖いのみ業には癒しが含まれていることも、比較的新しい神学的発見であるために、多くの伝統的福音派の方々が反対しているにもかかわらず、聖書の教えです。そして実際に、今でも癒される人が起きています。現在は奇跡が起こらないと、聖書から説明することはできません。奇跡は起ります。また、特別に癒しを行う賜物をいただいている人も、奇跡を行う賜物を受けている人もいることでしょう。しかしそれはあくまでも、キリストのみ体の内部における働きのためであって、大衆伝道の人寄せの手段、宣教の宣伝文句として用いられるものではなかったのです。



 現代の多くのペンテコステ信仰者が、癒しや奇跡を人集めの宣伝文句に用いていることは、聖書の教えからはずれていると判断されます。ましてやそれが、自己宣伝や金集めの手段として用いられるようなことは、あってはなりません。このあってはならないことが、実にしばしば行われるのが、ペンテコステ系の働きなのです。



 現在そのようなことを行っている人々を、すべて断罪すべきだとは思いません。しかし、警告は必要です。それは非常に危険な行為です。嘘が生まれ、反社会的な行為が生まれる危険が大きいからです。したがって、そのようなことを大々的に行っている人々には、注意をすべきです。



   XC5 教会を大きくすること



 癒しや奇跡を、人集めの手段に使うことよりも、一段と広く行われている「非聖書的事柄」に、教会を大きくする努力があります。大きい教会はいいことだとばかりに、教会を大きくするための、さまざまな方策が検討され、宣伝され、セミナーが開かれ、教材が売られています。



 大きい教会が悪いと言っているのではありません。大きい教会も、それが忠実な宣教と、忠実な教会の働きの結果として起ったことならば、素晴らしいことです。大きな教会を建ててはいけないと、言おうとしているのでもありません。問題は、教会を大きくしようという意図と努力です。大きな教会を建てた人は伝道の成功者、牧会の成功者としてもてはやされます。なにか、世俗の世界の立志伝中の人物、功なり名を遂げたお話のように聞こえます。中小企業の成功者のようにも。インタビューを受けたりして。



 しかし聖書の中に、教会を大きくしなさいという教えや命令は、ただの一度も記されていないのです。そのような示唆や暗示は、一箇所もないのです。そのように努力をした弟子や使徒も、一人もいないのです。証をしなさい。伝道をしなさい。全世界まで出て行って、福音を宣べ伝えなさいという命令ならばあります。教えもあります。そのように努力した弟子や使徒の姿も、たくさん記録されています。



 ペンテコステ系の教会は、世界中で急速に大きくなっています。多分、世界中で最も大きい教会を100挙げるならば、大部分はペンテコステ系の教会でしょう。ペンテコステ系の人々の中には、大きいことはいいことだという「信仰」があるのです。その結果、教会を大きくするためという大前提、自らの中の至上命令のために、聖書の教えの中に留まれなくなってしまうのです。聖書の倫理に留まる限り、決してできないことが、教会を大きくするためにはできるようになるのです。誇大広告、偽りの宣伝、強制的な金集め、ほとんど洗脳に近い心理的拘束、そして怪しげな癒しや奇跡を作り出すことも、そこここで行われるようになるのです。宣教も牧会も、聖い神を礼拝する、礼拝の行為であることが忘れられてしまうのです。本来まじめな信仰者であり、心から主にお仕えしようとしていた者でさえ、このような「教会を大きくしよう」運動に流され、世俗化してしまうのです。



 重ねて言いますが、まじめな宣教と牧会の結果として、教会が大きくなることは素晴らしいことです。しかし、教会を大きくすることを前面に掲げて働いている人々には、注意をすべきです。教会の使命はそこにはないからです。宣教者の使命も牧師の使命もそこにはありません。使命でないことを使命とするとき、教会は堕落し腐敗します。本来教会の賜物である癒しも奇跡も、不思議もしるしも、悪臭をはなつようになってしまいます。



 いま、癒しや奇跡やしるしを強調する人々の、もう一方の強調点は、自分たちの教会が、自分たちの働きが大きくなっているということです。自分の教会がなかなか大きくなれないでいる牧師や信徒は、彼らの教えや実践におおいに魅力を感じます。そして癒しや奇跡のたぐいにひきつけられ、間違った教えに飲み込まれていくのです。



結び



 結局、私たちの信仰は、聖書を正しく理解し、その上に立って歩むということです。これは言うには簡単ですが、非常に難しいことです。しかし、そのために努力をしていかなければ、私たちの信仰はとんでもない間違いに陥ってしまいます。



 すべての信徒が、聖書を正しく理解するというのは不可能です。すべての伝道者が聖書を正しく解釈するのも不可能でしょう。また完全に正しく理解することは、誰にも不可能でしょう。しかし、もっと多くの伝道者たちが、素直に聖書に向かい、聖書が言っていることを素直に聞いてほしいものです。そうするならば、かなり多くの間違いが正され、しるしや不思議、癒しや奇跡の問題も、教会を脅かすほど、大きな痛みには発展しないはずです。

 
                                  おわり











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2010年11月15日

しるしを求める時代 (5)



WB 現代におけるしるしの可能性



 では、日本では不思議やしるしが多発すべきかというと、考えなければならない点がたくさんあります。まず日本の文化が、そのようなしるしを求めているかということです。日本の大衆は、興味本位の、不思議や奇妙なものは、娯楽として、話の種として求めていても、真実なもの、信頼性のあるものとしては、あまり求めていません。占い師や霊媒師に伺いをたてることがあっても、それを真実に重んじる人はわずかです。そのようなものと力の対峙を行ったところで、単に好奇心を満たすだけのことに終わり、真実なもの、信頼性のあるものという感覚からは、かえって離れてしまうという欠点があります。



 もしも私たちの周囲で、モーセのときのように、持っていた杖が蛇になったり、手が白くなったりしたならば、あるいは蛇になった杖が、もう一匹の蛇を飲み込んだりしたならば、見世物としては、大いに面白いでしょう。しかし、信頼性という意味では、まったく欠けてしまいます。街頭の奇術師でも、その程度のことはするでしょう。天地創造の神が、奇術のレベルに失墜するのです。神の救いの歴史が、珍奇な見世物に成り下がってしまうのです。これではしるしがしるしとして役に立ちません。



 ですから、そのような形での力の対峙や不思議、あるいはしるしは、神観と共に、すべての物事に対する理論的な思考ができなかった時代に、限られていました。聖書を読むとそのような形のしるしが行われたのは、旧約時代の初期から中期に至るまでで、その後は行われなくなっています。イエス様も、悪魔の試みの中の一つがその種のしるしの要求だったことに対し、断じて拒絶なさいました。同じ異教の文化の中での働きであっても、使徒の働きの記録の中には、しるしだけを目的としたしるしは出てきません。したがって、その種のしるしは旧約時代の初期に限られていたと、判断して良いでしょう。現代の世界で、人々の世界観や神観、あるいは思考力というものが、旧約の初期の時代と同じような文化があるならば、その中において、しるしを目的としたしるしもまたあり得るかもしれません。しかし、日本の文化の中では、まずあり得ないことでしょう。



 一方、新約聖書の記述を読むと、キリストも使徒時代の弟子たちも、多くの癒しや悪霊の追放を行い、それが結果として良いしるしとなっています。弟子たちの信頼性、あるいは彼らが語る福音の真実性は、彼らに伴って行き、共に働いてくださった聖霊のみ業によって、すなわち、癒しや悪霊追放を始めとする、聖霊のお働きによって、証明されていったのです。そのような形での聖霊のみ業に対する必要性は、今もたくさん存在します。医学が発達し、多くの病気は医学的な治療で治るようになりました。しかし、まだまだ奇跡的癒しの必要性は残っています。また、たとえ医学が発達したとしても、結局、癒してくださるのは神であって、薬でも、人間の手でもありません。医者だけに頼って、神に頼ることを忘れたために、結局、死ななければならなかった、アサ王のようになってはいけないのです。



 WC 現代日本人クリスチャンに対するしるしの必要性



 さて、ここで問題なのは、現代の日本に住むクリスチャンに、果たしてしるしが必要かということです。癒しや奇跡、悪霊の働きに対する勝利というものはあり得るし、なければならないでしょう。そしてそれらは結果として、福音の信頼性を増し、神に対する信仰の強化につながることでしょう。しかし、いまの私たちの信仰に、しるしは必要なのでしょうか。



 最近のペンテコステ系の人々の一部で、話題となりもてはやされたりしている、金歯が生えてきたり、銀歯が金歯に変わったりすることには、何か意義があるのでしょうか。なくなっていた歯が生えてきたり、ひどい虫歯が健康な歯になったり、歯痛がなくなったりしたのなら、それなりの意義があることでしょう。あるいは集会の中で、金粉が降って来たり、金粒が落ちてきたりすることに、必要性があるのでしょうか。そのようなことを宣伝し、報道する必要があるのでしょうか。豊かな「キリスト教国」の、「繁栄の福音」の犠牲になっている発展途上国で、今にも飢え死にしそうな子供たちの上に、食べ物が降ってきたというなら、素晴らしい奇跡かもしれません。報道の価値があるともいえるでしょう。



 少し前に、拙文をウェブで読んだ牧師から電話がありました。この牧師の教会に出席していた信徒の親が、金粉だの金粒だのが降る集会に出席して、驚き、子供たちまで連れてそこに出かけるようになったために、結局、その信徒はそちらに捕らえられてしまったということです。このようなしるしとしてのしるしが、日本の、クリスチャンたちの間で行われ、もてはやされているという事実に対し、私たちはどのように考えるべきでしょう。



 「そうですか。今度は金粉ではなく、金の粒ですか。重くなったんですね。私もそこに出かけて拾い集めたくなりますね」とお答えしましたが、果たしてそれがまさしく金だったのか、金色に光る物体だったのか、あるいはあたかも金が降ってくるように見えた現象なのか、詳しいことは知りません。しかし、こうなると、ばかばかしくて話にもなりません。すでに学んだように、このような、他に明確な必要性のないしるし、しるしだけを目的としてしるしは、旧約時代の中期にはすでに終わっているのです。現代の日本人クリスチャンは、旧約時代前期の、神を知らない人々と同じ精神構造になってしまったのでしょうか。



 神に不可能はありません。金粉や金粒なんぞとみみっちいことは言わず、金塊だって、ドーンと、1トンもある金のかたまりだって降らせることがおできになります。ダイヤモンドだってサファイヤだって、降らせることが可能です。でも神様は、今はそのようなことをなさらないのです。現在の私たちの周囲に起こる不思議や奇跡は、必ずそれ自体の必要性があって行われ、それが結果としてしるしになるのです。神にはできるということと、神がなさるということの間には、大きな違いがあるのです。筆者にも、人殺しができますが、筆者は人殺しはしません。できるけれどしないのです。



 さらに、現代の私たちには、完結した啓示と霊感の書が与えられ、また、その書を正しく理解できるように、聖霊の助けも与えられているという事実を、思い起こさなければなりません。私たちには聖書があり、聖霊の照明と、聖霊の証印が与えられているのです。もしも、キリストの弟子たちが、トマスに求められたように、訓練の終わり頃には見て信じるのではなく、見ないで信じることを求められていたとするならば、神の救いのご計画全体と、三位一体の神のそれぞれの神格のお働きについて、明らかに記している聖書が与えられている現在、そのうえ、聖霊が解き明かし、証をしてくださっている現代に生きる私たちには、なおのこと見ないで信じる信仰が、求められているのです。



 それにもかかわらず、いまさら、しるし以外になんの目的もないしるしを期待するのは、実におろかなことです。また、そのようなしるしを見せられることが、偉大な神の働き人であることの証明であるかのように考えるのも、実に愚かなことです。そのようなしるしを行う人々を、神の人とあがめるのも愚かである以上に、危険なことです。



X 偽りの預言者



 さて、もしも現在、純然たるしるしを目的としたしるしを行い、それを宣伝している、あるいは人集めの道具にしている者がいたとするなら、私たちは彼らについて、どのように考えるべきでしょう。実際、そのような伝道者や牧師、教師や宣教師、さらには使徒だとか預言者と自称している人々がいるということなのです。



 XA 警戒をする
 


 その種の人々がいたならば、まず私たちは警戒をしなければなりません。神の名を騙って、神のみ業ではないことを行っている可能性が、非常に高く、そこには単なる間違い以上の、悪意を感じるからです。神がそのような不思議や奇跡、あるいはしるしに関わっておられないとしたら、彼らは、何の力でそのようなことをしているのでしょう。テレビで行っている手品や奇術と同じでしょうか。あるいは超能力でしょうか。はたまた、悪霊どもの力によるものでしょうか。いずれにしろ、神の名を騙っているのです。善意で行われているのではないのです。



 ただし、そのような人々と行動を共にしていたり、交わりを持っていたりする人すべてが、同じなのではありません。彼らも騙されている可能性が高いからです。とはいえ、それらの人々や、それらのグループ、あるいは彼らの行う集会などには、警戒心を研ぎ澄ませるべきです。そして、誰が指導者か、誰が中心的働きをしているのか、しっかりと見極めなければなりません、



 騙されている可能性の強い人々にもいろいろあって、ある人々は、かつて福音派の信仰を持っていたけれども、自分たちが否定していたペンテコステ系の人々の働きと業を実際に見て驚嘆し、ペンテコステ的な考えを持つようになったものです。彼らは自分たちもまた、イエスのみ名によってさまざまな癒しや奇跡を行うことができることを発見し、有頂天になり、少々極端に走っているといえます。いわゆる、先に触れた通り、第三の波運動に属する人々の多くがこれに相当します。



 70人の弟子たちが帰ってきて、み名によって命じると悪霊どもでさえ従うことに、すっかり興奮していたとき、キリストは、そのようなことで喜ぶのではなく、自分たちの名が、天に記されていることを喜ぶようにと、まあ、ちょっと頭を冷やし、何が最も大切なことかを確認させました。同じことが彼らにも言えます。彼らは現代における奇跡を否定していた極端から、奇跡に舞い上がる極端に、いわば、時計の振り子のように振れているのです。私たちは彼らが頭を冷やすことを願っています。



 この人々の欠点は、聖書をしっかり学ばず、自分たちのかつての神学の上に、表層的な現象主義
的な聖霊論を乗っけただけの、中途半端な理解をもって満足していることです。これらの人々がかつて学んだ改革派系の神学に、聖霊論をくっつけても、竹に木を接ぐようなものです。バプテスト的な神学でも、ウエスレアンの神学でも、同じです。もう一度、自分たちの神学を離れて、純粋に聖書から学ぶ必要があります。
 


 XB 警戒すべき人々



 今、私たちが最も警戒しなければならないのは、これらの人々としばしば行動を共にしていながら、これらの人々とは異なった部類に属する者たちです。彼らは始めからペンテコステ系の、極めて異端に近い人々、あるいは異端というべき人々の中から、あるいはそのような人々との交わりの中から生まれてきた者たちです。



 それはいわゆるレストレーション運動、後の雨運動、あるいは預言運動の人々です。レストレーション運動は、その胚芽期にすでにアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団からは公式に否定され、1948年の組織運動としての誕生の直後にも再び否定されたものですが、現在、第三の波系の人々と渾然一体化しながら、非常に活発に活動し、ペンテコステ系の教会はもとより、多くの教会に悪い影響を与えています。後の雨の人々、あるいはその影響を受けている人々を見分けるのは、比較的に簡単です。今のところ、彼らの用いている言葉が独特だからです。それらの言葉に触れたならば、霊的警告灯がつくようにしておくのが良いでしょう。それらの言葉の代表的なものを上げておきます。ただし、英文の翻訳の問題上、実際に日本で使われている言葉は、幾分違う可能性があることを理解してください。



 「後の雨」「ダビデの幕屋」「現された息子」「今の王国・支配」「ヨエルの軍隊」「代々にわたる呪い」「神の国に産み出す」「五つの役職」「預言の回復」「預言者」「使徒」「按手」「教会刷新」「セル・グループ」「新しい皮袋」「キリストの霊的再臨」



 後の雨運動は、ウイリアム・ブランハム(1909−1966)という非常に有名であるけれども、はなはだ怪しいペンテコステ系の伝道者の影響を受けています。彼は癒しと預言の働きで、全世界で活動した人物ですが、ワンネスの教義を信じ(三位一体を信じられない)それを宣伝していたほか、「イヴの罪は蛇との性的関係である」にはじまるさまざまな奇怪な教えのために、正統的信仰からは外れていると判断されていました。後の雨運動の多くの教えの基盤となった預言は、彼の影響によるところが大きいといわれています。


 このような教えの流れと、その影響の中には、昨今、非常に話題を振りまいているトロント・ブレッシングがあります。それがアッセンブリーズ・オブ・ゴッドの中に飛び火した、ペンサコーラのほうは、たぶん、アッセンブリーズ・オブ・ゴッドの中にある「良識的力が働いて」すでに鎮火しているようですが、トロント・ブレッシングは現在もいたるところで悪影響を及ぼしています。単に笑いのリバイバルといわれる現象的な問題だけではなく、その神学自体が非常に奇怪で、正統的な聖書の理解と信仰からは、ほど遠いところが数々ありますし、単なる間違いではなく、明らかに悪魔、あるいは悪霊によるとみなすべき活動も随所にあります。指導者たちがひそかに悪魔の名を呼んでいる場面が、ビデオで撮影されたりさえしています。



 また、これらの運動の中には非常に巧妙なものがあり、たとえば、セル運動などは単なる教会の伝道方策や管理運営の方法の違いだけではなく、後の雨の神学の中でたくみに利用され、彼らの言う既存教会の壊滅と新しい教会の出現に、一役買わされているのです。そのようなこととまったく関わりなく、セル運動をやっている人々もたくさんいますが、いつの間にか後の雨運動に取り込まれているというものも少なくありません。


 
 X.C 本当の神の人たちを見極める

 

 キリストのみ名を用いて不思議な働きをしている人々すべてが、キリストの弟子だというのではありません。いつわりの弟子もいるのです。実に厄介なのは、本人はまったくキリストの弟子であると思い込んでいながら、キリストによって、弟子と認められない人々がいることです。さらに厄介なことに、彼らは本物のキリストの弟子たちよりも、大きな業を行うのです。



 旧約聖書を読んでも、すべての偉大な神の人たちが、しるしや奇跡を行ったのではありません。言い代えると、癒しや奇跡の働きをしていなくても、ひじょうに立派な神の人がいたのです。新約時代になって、キリストによって教会に委託された権威の中に、癒しや奇跡の働きが含まれるようになってからでさえ、すべての弟子たちが、すなわちすべてのクリスチャンたちが、そのような働きをしていたのではありません。そのような働きをしなかった大多数のクリスチャンたちの中にも、素敵に立派な信仰者がたくさんいたのです。ですから、行われているしるしや不思議を見て、それを行っている人の正真性を判断するのは、危険だと知っておくべきです。確かに、キリストもパウロも、行っておられた業のしるしとしての効果を認めておられましたが、それは、信仰程度の低い人々に対するものであって、成長した信仰者は、そのようなところを越えていなければならないのです。



 それはちょうど信仰の初心者たちは、自分の悩みの解消のために、自分の人生問題の解決のために、自分の幸せのために神を信じても良いのと同じです。キリストは、すべて重荷を負って苦労しているものはわたしのもとに来なさいと、自分の幸せのために神をさえ利用しようとする、いわばとんでもない罪をおかしている人々を許容し、彼らをお招きになっています。しかし、信仰は成長しなければなりません。自己獲得の信仰態度にいつまでも留まるのではなく、父、母、子、兄弟、そして自分の命さえ捨てて従うところまで、到達すべきなのです。それを、キリストはお求めになりました、同じように、しるしを見て信じる信仰から、より高い信仰へ到達すべきなのです。癒しや奇跡、不思議な業は、未信者や信仰の初期の段階においては、大いに有意義な場合があります。しかし、いつまでもしるしを求めるものであってはならないのです。



 キリストに敵対していた、パリサイ人を始めとするユダヤ人たちは、神理解という点において、また、救い主の理解においては、決して素人ではなかったのです。だから、彼らはしるしを求めてはならなかったのです。彼らは、キリストの教えの内容を理解し、受け入れるべきだったのです。それができなかったために、というより、したくなかったために、彼らはしるしを求めて挑戦したのです。今しるしを求めるクリスチャンたちは、どんな理由で求めているのでしょうか。ギデオンのように、確証がほしいのでしょうか。残念ながら、私たちには福音が明確に提示され、私たちの信仰と生活に必要なことはすべて教えられている、聖書が与えられているのです。その上、聖書を正しく理解できるようにと、聖霊が与えられているのです。よほど、個人的な特殊な事情の中でなくては、そのようなしるしの正当性がないのです。



 いま私たちの間で話題になる程度の不思議な業ならば、「取り巻き」であり「たにまち」であるクリスチャンにとっては、大騒ぎするほどの奇跡かもしれませんが、奇術や魔術や、超能力に慣らされている一般人からすると、まさにどれほどのことでもありません。空中浮遊なんて簡単な奇術です。ぱっと消えてしまうことだって、瞬間移動だってできます。透視だって、マインド・リーディングだって、サイコパワーだって珍しくありません。金粉銀粉程度のことで、大騒ぎをする信仰のほうがおかしいのです。



 もっともっと大きな、不思議なことをする偽預言者や、偽キリストがあらわれるのです。彼らは、堂々と自分たちはキリストであると名乗り、預言者であると主張します。そして、その証拠としてさまざまな業を行うのです。しかし業それ自体には、証拠としての効力はないのです。業は何の証明にもならないからです。



 結局、私たち、いくらかでも信仰の成長を見ているクリスチャンは、業によってではなく、その人たちの教える教えと生き方を注意深く調べ、観察しなければならないのです。彼らの信じていること、教えていることが聖書の教えに合致しているかどうか、また彼らの生活態度、倫理が、キリストがお教えになったものに合致しているかどうかです。それによって、だれが本当の神の人であるか、見極めなければなりません。それは容易なことではありません。ですから、しっかりとした聖書の学びと、信仰の指導者が必要であり、彼らの責任が問われるのです。



 そこで、本当の神の人を見分ける、現代ペンテコステ的な、具体的方法を考えてみました。もちろん完璧なものではありませんが、真剣に悩む人にとって、いくばくかの助けになるのではないかと思います。

                                     つづく













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2010年11月14日

しるしを求める時代 (4)


 VB しるしとして機能しない業



 しかし一方でキリストは、さまざまな奇跡的業が、しるしとしての役割を果たさないことがあることも、はっきりとお教えになりました。すでに触れたように、キリストは、ご自分の名によって悪霊を追い出し、奇跡をたくさんおこなった人々を、終わりの日に拒絶する可能性があることをお告げになりました。また、偽キリストや偽預言者が出現し、大きなしるしや不思議なことをして、選民をも惑わすと警告しておられます。この事実は非常に大切です。そのことがいつ起こるかという点は、確実ではありませんが、一般的な事柄としては、いつでも起こりうると考えておくべきだと思われます。



 そして、これらのお言葉からはっきりと分かることは、神の言葉を語ったり、悪霊を追い出したり、奇跡を行ったりすることは、キリストの弟子である保証にも、神に用いられていることの証明にも、またその業の背後に神がおられるという証拠にもならないという事実です。キリストは、一方では業がしるしとなることを積極的に認め、これを利用し、ご自分を信じることができないものは、そのみ業を見て信じるようにと、おっしゃいましたが、他方では、業それ自体では何の証拠にもならないと、おっしゃっているのです。



 また、そのようなしるしとはなりえない業を行う者たちにも、二種類あることもわかります。ひとつは、自分がキリストの弟子であると信じている人々です。彼らは、自分たちが、キリストがお教えになったことを教え、キリストが行われたことを行っているから、キリストの弟子であるに違いないと思い込んでいました。



 そんな彼らを、キリストが退けられるには、いくつかの理由が考えられます。ひとつは、彼らの信仰が間違っていることです。つまり、キリストの贖いを、自分のものにできないでいたことです。それから、倫理的にキリストの御心から大きく外れていたことです。理屈としては正統な信仰を持っていたかもしれないけれど、聖霊を内に宿す経験をしていなかったということです。また、一時期は正しい信仰と正しい倫理によって歩んでいたけれども、信仰の道を踏み外していたということも可能です。さらに、キリストの教えを断片的には正しく教えていても、全体的には大きな間違いを犯し、真理から遠ざかっていたということも考えられます。どちらにしても、この種の人々に従ってはならないのです。



 もう一つの種類はさらに悪質で、最初から人を欺く目的でいろいろな業を行う、偽キリストや偽預言者です。彼らは自分がキリストの弟子であるなどとは、はなから思っていません。もともと、キリストや預言者を装って、人々を騙そうとしているのであり、その目的のためには手段を選ばず、さまざまなテクニック、超能力、さらには霊的な力を用いるのです。現在テレビなどで盛んに行われている奇術や魔術の業を用いるならば、非常に多くの人々を騙すことができることでしょう。たとえば、ペテロに叱られたシモンも、そのようなテクニックをも駆使して、自分を大きく見せていたということも考えられます。(使徒8:9−24) 金を出して、聖霊のバプテスマを与える力を買おうとしたところなど、ありそうな話です。また超能力者ならば、かなりの線まで人々を騙し続けることができるでしょう。さらに、悪魔や悪霊と手をつなぐならば、大群衆や選民たちまで、騙すことができることでしょう。



 自分はキリストの弟子であると思い込んで業を行っていながら、その実、そうではなかったという人々と、最初から偽者であることを自覚し、人々を騙す目的でやっている人々を、本物のキリストの弟子から判別する作業は、困難を極めます。これは一般の信徒たちに限らず、伝道者や神学者にとっても同じです。その困難さは、キリストも毒麦のたとえでお話しになっている通りですから、私たちは、これに対しては、非常に注意深くあたらなければなりません。(マタイ13:24−30)



 しかし牧師たるもの、ただ困難だといって言い訳をしているわけにはいきません。群れを守る役割を与えられている牧者として、最善を尽くさなければならないのです。特にペンテコステ信仰に立つ私たちは、奇跡的な業を信じているために、多くの福音派の牧師のように、奇跡的業をことごとく否定したり、悪魔からのものと断定したりして済ませることはできません。ただ、偽キリストを判別するのは、しっかりと聖書を学んでいる人には、比較的易しいことのように思われます。偽キリストは、聖書を知らない一般の人々、あるいは新約聖書を認めず、いまだに旧約聖書の独自の解釈から想定されるキリストを待ち望んでいるユダヤ人に、受け入れられることになるでしょう。



 またすでに触れたことですが、キリストは、ご自分がなさった力あるみ業を、人々に知られないようにするために、「だれにも言ってはならない」と、お命じになったことが幾度かあります。人々に知られたならば、しるしとして効果を発揮したであろうものを、キリストは敢えて人々からお隠しになったのです。それはキリストの時がまだ来ていなかっただめです。



 キリストは、ご自分のみ業に興奮した人々が、無理やりにご自分を担ぎ上げて王にしようとする、不穏な動向を予め知っておられました。キリストの主だった反対者は、ユダヤの指導者たちで、彼らも自分たちの国家の独立を望んでいたとはいえ、最大の心配は、むやみやたらに暴動が起こり、結果として、宗主国であるローマの駐屯軍が鎮圧に乗り出し、国家が蹂躙され、弱体化してしまうことでした。彼らは、この時点でローマと一戦を交えるのは、なんとしても避けたかったのです。そこで指導者たちは、できるだけ早く、キリストを亡き者にしようと画策していたわけです。(このときからおよそ40年後、ユダヤ人はローマに反旗を翻して立ち上がりましたが、完全に敗北して、紀元70年、国家としてのユダヤはここで完全に崩壊し、歴史から姿を消してしまいました。)



 そういうわけで、キリストのみ業が多くの人々に知られ、人々の期待と興奮が、あまりにも早いうちに沸騰しては、キリストが地上においでになった使命をやり遂げる前に、死を迎えるはめになりそうだったのです。キリストはそれを回避するために、人々の口に鍵をかけようとなさったわけです。キリストは、癒しなどの奇跡のみ業の必要性を認めながら、そのしるしとしての効果をお嫌いになったのです。



 VC しるしの必要性
 


 業には、確かにしるしとしての効力も、しるしとしての目的もありました。今まで学んだところから分かるのは、業のしるしが必要であると認められている人々と、認められていない人々がいるということです。



  VC1 しるしの必要を認められている人々



 まず、しるしを必要としていると認められ、業がしるしとして与えられているのは、基本的に、神の概念の低い未信者や、福音理解の乏しい人々であるという事実を、理解しなければなりません。



 すでに学んだように、イスラエルの歴史の初期において、人々の神観念と信仰理解が非常に幼かったとき、しるしは、真の神が誰であるかということを悟らせるために、大きな意義を持っていました。しかし、イスラエルの神観念が発達し、信仰理解も深まるにつれて、しるしの目指すところ、すなわちその業が何のしるしになるのかという点において、変化が起こっています。



 キリストの時代になると、ユダヤ人はすべて偶像礼拝を捨て、基本的に真の神を知るようになっていましたので、以前のような目的のしるしは、不要になってしまいました。かわりに必要となったのは、キリストが神の権威を持っていること、神の国(神の支配)が現実に到来していることを示すしるしでした。



 それから使徒時代になり、福音が異邦人の世界に及ぶ前に、特異なしるしが人々に与えられました。それは神殿における足なえの癒しです。この癒しは、キリストが甦って働き続けておられることを、人々に認めさせるしるしとなりました。そして、福音が異邦人に及ぶに至って、また、神観念の低い異邦人に真の神を知らしめる必要が起こり、力の対峙の形でしるしが現れています。

 

 40年ほども前になりますが、当時沖縄で活動していた筆者の近くに、すでに相当高齢の牧師が住んでおられました。この牧師は「ユタ」と呼ばれる、沖縄独特の女性霊媒師について研究していたのですが、実際、時折ユタたちの総本山のような場所に出向き、彼女たちの活動の様子を観察していたものです。するとあるとき、ユタたちが牧師の前に来て、「あなたの背後にいらっしゃる大きな神様を恐れて、私どもの神様が降りて来ることができません。どうか、この場を離れてくださいませんか」と、丁重にお願いしたというのです。この牧師はペンテコステ信仰とは程遠い方でしたが、その真摯な信仰態度に、わたしはとても感動していたものです。牧師は力の対峙などしようと思ってもいなかったようですが、霊的次元ではそれが起こっていたのです。力の対峙は、福音の未開地、特にアニミズムの強い文化では、かなりの効果を持って福音宣教の支援になると考えられます。キプロスでクリスチャンになったセルギオ・パウロの場合と同様のことが、現代でも起こっているのです。(使徒13:4−12)



 たとえば現在、第三の波と呼ばれる新しいペンテコステ運動で活躍している人々の中には、もともと、現代の奇跡などを信じることができない、伝統的信仰を持っていた人々がたくさんいます。彼らの多くは、宣教師としてアニミズムの強い文化背景に入り、そこで、ペンテコステ系の人々が行っている、キリストのみ名の権威による癒しや奇跡を見て、信仰理解や神学を変えたと語っています。



 さらに、当時のキリストの弟子たちも、しるしを必要としていました。弟子たちの理解の遅さ、信仰の幼稚さを補足するためには、どうしてもしるしが必要でした。弟子たちは、わずか3年と少しの訓練期間の後には、キリストの弟子として、福音宣教と教会設立の大役を、担わなければならなかった上に、ある者は、さらに、新約の啓示を記録する重要な役割さえ負わされていたのです。彼らの神観念そのものは、ユダヤ人として、当然、かなり高度になっていましたが、ナザレのイエスこそ、国民全体が数百年も待ち続けていたキリストであるという、理解と信仰はまだまだ不充分でした。



 ここで確認しておかなければならないのは、当時の彼らには、まだ奥義が明らかにされていなかった、すなわち新約時代の啓示がまだ与えられていなかったという事実です。神の贖いのお働きを体系的に教える新約聖書が、まだ書かれておらず、キリストがお語りになったことを解き明かしてくださる、聖霊のお働きもまだ始まっていなかったのです。したがって、たとえ3年半にわたって、キリストと寝起きを共にした内弟子であっても、彼らの福音全体の理解程度は、現在の私たちに比べても、ずっと低かったのです。キリストが昇天するその日にいたっても、まだ、「主よ。今こそ、イスラエルのために国を再興してくださるのですか」などと、的外れなことを言っているのです。この期に及んでも、弟子たちが期待していたのは、イスラエル国家の再興と、キリストが王座に付くことであり、あわよくば、自分たちが右大臣左大臣に任命されることだったのです。



   VC2 しるしの必要を認められていない人々



 ところが、甦られたキリストは、キリストの甦りをどうしても信じられなかったトマスに向かい、「あなたは見たから信じるのか。見ないで信じるものは幸いである」と、おっしゃいました。キリストの3年半に及ぶ訓練期間が終わる頃には、弟子たちは、見て信じる信仰から、見ないで信じる信仰へと、成長していなければならなかったのです。すくなくても、キリストはそのように望み、期待しておられたのです。



 それなのに、キリストのよみがえりを信じられず、目で見、手で触れるものを信じるという、実証主義を採ったトマスは、さしずめ、現代の科学者を代表するような考え方をしています。それに対し、キリストが彼らに期待しておられた信仰は、蘇りという信じ難い出来事でさえ、甦られたキリストを実際に見て信じるのではなく、甦るはずだと待ち望み、甦ったと聞いてすぐさま信じる信仰だったのです。旧約聖書をしっかり学び、キリストの教えを総合的に理解していれば、甦りは信じられないような、突然の出来事ではなく、期待しながら待ち望むべき、神のご計画だったのです。(ルカ24:25−47) 残念ながら、当時の弟子たちもみな、現代の私たちと同じ不肖の弟子で、この、「そうあるべきだった」信仰の地点までは、到達できずにいたのですが、少なくても弟子たちは、そのような信仰を期待されていたのです。彼らは本来、しるしを必要としない人々に、なっているべきだったのです。



 さらにキリストは、パリサイ人や祭司たち(サドカイ人)さらには律法学者などの、ご自分に敵対する人々には、しるしの必要性を認めていません。その理由は多分、まず、彼らは信じないこと、受け入れないことを前提として、しるしを求めていたことです。どのようなしるしを見たとしても、受け入れないと決心しているものには、無駄というものです。(ルカ16:31) また、彼らは旧約聖書の専門家でした。彼らは聖書を学んで、キリストについての正しい知識を得ているべきだったのです。そうすれば、しるしを見なくてもキリストを信じることができたはずなのです。



W 私たちにはしるしが必要と認められているか



 さて、大切な問題は、現代の私たちにはしるしの必要性が、認められているかどうかということです。認められているとするならば、なぜそういえるのか、認められていないとすれば、いかなる理由からか、考えてみましょう。



 WA 現代におけるしるしの必要性



 日本は異教文化です。パウロが異邦人宣教を行ったときと、基本的に変わりません。もちろん、人々は非常に合理的な、あるいは科学的なものの考え方をしています。したがって、パウロの時代の異邦人のような、迷信深い考えかたはしていませんし、世界観も当時の人々の世界観とは異なっています。



 しかし先にも触れたように、日本人には、精神的二重構造ともいえるものがあって、一方では非常に科学的なものの考え方をして、神を始めとして、あらゆる霊的な存在を否定する傾向がある一方で、その同じ人間が、折に触れては神社仏閣に詣で、運勢占いに一喜一憂し、霊媒師や占い師のもとをたずねるのです。進化論を正しいと信じていながら、幽霊だの、背後霊だの、あるいは前世だのを信じているのです。その様なものが、進化の過程のどの時点で、なにから進化して発生し、どのように現れてきたのか説明してほしいものですが、一般の日本人は、それで矛盾を感じていないのです。現代の日本も、基本的にアニミズムの世界なのです。多くの人々は科学とは別の次元で、何らかの霊的な、あるいは超科学的な力が働いていると、信じているのです。



 このような人々の間では、まだまだしるしと不思議による働きは効果があります。まじない師や占い師、あるいは宗教家たちが不思議や奇跡を行っている場面に遭遇し、どうしても力の対峙が必要な場合には、不思議や奇跡による力の対峙もあり得るでしょう。またなければなりません。福音は、特に異教世界においては、賢い言葉だけによるのではなく、力によって伝えられなければならないのです。(ローマ15:19、I テサロニケ1:5)

                                  つづく












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2010年11月13日

しるしを求める時代 (3)


 UF 力ある業を行う人々を拒絶する可能性があること



 キリストがおっしゃったお言葉のうちで、もっとも衝撃的なものの一つが、つぎの一節です。「その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇跡をたくさん行ったではありませんか。』しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け』。」(マタイ7:22−23) キリストの名を用いて語り、キリストの権威を持って、さまざまな良い業を大々的に行っていても、キリストはその日、彼らに向かって「お前たちを知らない。私から離れよ」と、厳しいお言葉で退けてしまわれるのです。



 それらの人々の中には、誠心誠意キリストに従っていると、思い込んでいた者もいたはずです。あるいは、まったくの偽りもので、始めから毒麦として入り込んでいたものかも知れません。ただ、キリストのお言葉からは、自分たちが毒麦であることを、彼らは自覚していないように読み取れます。とにかくそのあたりの細かいことは不明だとしても、明白なのは、大きな業を行っていることが、そのまま、キリストの承認を受けていることの証拠にはならないし、キリストの弟子であることの証明にもならないということです。言い換えるならば、業それ自体では、何の証拠にも証明にもならない言うことです。



 UG 力ある業や不思議で選民をも惑わす者たちが出現すること
 


 もうひとつ衝撃的なものを挙げると、「にせキリスト、にせ預言者たちが現れて、できれば選民をも惑わそうとして、大きなしるしや不思議なことをして見せます」というキリストのお言葉があります。(マタイ24−24) ここでは、これらの偽者たちが、本物たちよりもむしろ大きな力ある業を行うようなのです。しかもそれは、キリストや預言者の名をもって行われるのです。それで、選民たちまで騙されてしまうのです。この「選民」という言葉は、直接的にはユダヤ人を指すものだと考えられますが、クリスチャンにも適応されると考えると、非常に恐ろしいものです。ユダヤ人も、クリスチャンたちも騙される可能性があるのです。あたかもキリストであり、預言者であるかのように語り、行動するのでしょう。なかなかその本質を見抜けないほど、巧妙に騙し続けるのでしょう。そしてその騙しのテクニックの中心が、大きなしるしや不思議を見せることなのです。



 大切なのは、彼らが正真正銘の預言者であると宣言し、正真正銘のキリストだと語っても、そして彼らがどのように大きな業を行い、どれほど多くの信奉者を集めていたとしても、それを信じてはならないことです。つまり、またもや同じことですが、業それ自体では、何の証拠にも証明にもならないのです。また、彼らが自分たちをどのように言いふらしていても、まったくあてにはなりません。彼らは偽り者であることを自覚して偽り、だまそうとして選民さえだますのですから、本物よりも本物らしいのでしょう。ですから彼らの教えや活動も、とにかく本物に似ているはずです。クリスチャンは、非常に注意深くなければなりません。大きな警鐘です。



V 不思議や力ある業について、聖書に基づいての考察



 不思議や力ある業についてのキリストのお言葉について、簡単に見てきましたが、ここではそれらのキリストのお言葉をも含めて、もう少し聖書全体から関係ある教えや記事を探し出して考察してみましょう。



 VA しるしとして機能する業 
 


 聖書に記されている、さまざまな奇跡的業を注意深く観察すると、それらは、いくつかに分類されます。



  VA1 旧約時代
 


 旧約時代の業のほとんどは、しるしとして機能しました。この頃のみ業のほとんどが、神観念の低いというか、神様についてあまり理解をしていない人々を対象に、行われていたことがわかります。

 

 まず神様がモーセに現れてくださったとき、燃える芝の不思議を見せてくださいました。それは、神観念がまだまだ曖昧だったモーセに対する、神の自己紹介でした。神のことを充分には理解していなかったモーセに対し、神は、ご自分の力を示すために、モーセの杖を蛇に変えて、またそれを元通りにしてくださり、さらにモーセの手を雪のように白くし、元通りに直してくださったのです。



 パロの前で行った蛇の奇跡は、モーセに対しては、神が約束をお守りになる神であることの証明でしたが、それ以上に、神のことをまったく知らないパロに対する、神の自己顕現であり、異教の神々、あるいは異教の呪術に対する力の対峙でした。ここまでの奇跡的業は、みな業そのものの必要性があったわけではなく、ことごとく、しるしを目的としたものでした。



 そしてそれに続く10の災いの業も、パロとエジプト人に対する神の力のしるしであったと同時に、イスラエル人に対する神の自己啓示であり、力を示し、信頼に足る方であることを示すしるしでした。エジプトに対する神の刑罰という側面はあったとしても、これらの奇跡も、業それ自体に大きな必要性はなく、しるしを目的としていたと判断されます。その後の火の柱と雲の柱は、カナンへの道を知らなかったイスラエルを導くためのものであり、また明らかに、追跡してくるエジプトの軍勢をイスラエルから隔てておくためでした。しかし、それはイスラエルの人々への、神の臨在の強いしるしとなりました。



 これから後の、紅海が分かれる奇跡、苦い水が甘い水になる奇跡を始めとする数々の奇跡は、みな、直接的にはイスラエル民族を助けるための奇跡ですが、すべて、神観念の低いイスラエル人への神の自己顕現として、教育的な目的を持つしるしでした。イスラエルの民は、常に周囲の民族の異教文化に影響されて、偶像礼拝に陥る危険の中にいましたので、神は、ご自分こそ力ある神であることを、教え続けなければなりませんでした。そのために、たとえばエリコの城壁を崩すというような、スペクタクルなことを敢えてやってくださったのです。神様は、もっと自然な方法でイスラエルに勝利を与えてくださることもできたはずですが、イスラエルへの目に見えるしるしとして、城壁を崩してくださったのです。



 ギデオンに現れてくださった神は、まさに、しるしのための業、しるしとしての目的以外に、何の目的もない業を行ってくださいました。2回にわたる夜露のしるしです。これも、神様に対する知識と信仰が足りなかった、ギデオンに対する神の自己顕現です。一般に神観念、神の理解が低かった、旧約時代の初期においては、神は敵対するものに対する力の誇示としてだけではなく、お用いになる「神の人」への励まし、勇気付けの自己顕現もしなければなりませんでした。



 列王記や歴代史の時代にも、神は、いくつもの奇跡を行っておられます。直接的には、イスラエルの必要にお答えになる形ですが、神が力の神であり、救いの神であり、哀れみを持って助けてくださるお方であることを示す、しるしとしての機能を持っていました。バアルの預言者たちと争ったエリヤに、火をもってお応えくださったのも、明らかな力の対峙で、しるしの機能をもったものでした。バビロンの捕囚時代の神も、シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴが、ネブカデネザル王の命令に背いて金の像を礼拝しなかったとき、彼らを七倍熱く焼かれた炉から守り、ペルシャ王ダリヨスの時代には、ライオンの穴に投げ込まれたダニエルを救い出してくださいました。これらも、イスラエルの神がまことの神であることを、王たちをはじめ、一般の人々にも広く知らせるためのしるしとして、役割を果たしました。



 旧約時代の多くの業の特徴は、このように、しるしとしての機能を持っていたということです。それは、人々の神観念の低さを考慮してくださった、神の対応でした。



   VA2 キリストの時代
 


 キリストも数々の奇跡、力ある業を行ってくださいました。キリストが行われたみ業はすべて、聖霊の力によるものであり、神のみ姿を一時的とはいえ放棄なさった、第二神格の神の力ではなく、第三神格の神であられる聖霊の力によるものです。キリストは私たちと同じ人となり、聖霊の力なしには、大きな働きをすることができない方になってくださったのです。そしてキリストのみ業の特徴は、神を知らない人々に対して神の力を見せることではなく、神について充分理解しているイスラエル人に対してのものであり、彼らが待ち望んでいた、神の国がすでに到来していることの証明でした。(マタイ12:28) それはとりもなおさず、その業を行っている人物が、神の国の王であり、キリストであることの証拠でもあったのです。(マタイ11:1−6)



 ラザロを蘇生させるという奇跡は、キリストがご自分のみ業を、しるしとして、最大限に用いようとなさったことが示されています。キリストはラザロが死にかけていることを良くご存知の上で、わざわざ、ぐずぐずと出立を遅らせて、ラザロが死んで4日もたってから、彼の墓にお着きになったのです。ラザロの体はすでに腐り始めていました。人々はそのことを良く知っていました。ですから、ラザロの蘇生は単なる蘇生、時として見られる自然現象の蘇生でも、小さなショックを与えて生き返らせる蘇生でもなく、現代的な言い方をするならば、「肉体のすべての細胞が死んでからの」、絶対に不可能な奇跡として、人々に伝えられていったのです。とくにこの奇跡は、死をも打ち破ってくださるキリストの力を示し、キリストが死を超えた救い主であることを、証明したものです。それは、間もなく起こるキリストご自身の復活に対して、心の準備をさせるものであり、約束された永遠のいのちに対する、希望を持たせるものでもありました。キリストはそのようなことを見越した上で、出立を遅らせることになさったのです。 



 キリストの奇跡的み業を調べると、ご自分の弟子たちだけを対象としたものが、いくつかあります。たとえば、嵐を鎮めたこと、水の上を歩かれたこと、魚の口から金貨が出ることを予告なされたこと、ロバの子がつながれていることを知っておられたこと、などなどです。これらは、キリストの弟子とは言え、やはりキリストに対する理解と信仰に、まだ、はなはだ不充分なところがあった彼らに対して、教育的な意味を持っていました。その意味では、キリストがいらっしゃらなかった時につぶやいたトマスの言葉を、キリストがよくご存知だったことは、その教育的目的を大きく果たすことになりました。トマスは「私の主。私の神」と告白し、この期に及んで、改めてキリストを神として礼拝したのです。(ヨハネ20:28)


 このように、キリストのみ業の多くも、しるしとしての機能を持っていたのです。



   VA3 使徒時代
 


 使徒の時代の最初の奇跡は、神殿での足なえの癒しでした。これもまた、大きなしるしとして機能しました、この場合、この癒しが証明したのは神の力でも、キリストの力でもなく、キリストの甦りであり、キリストが死に打ち勝った救い主であるという事実でした。また、教会がキリストの権威を持っているということでした。



 その後の奇跡も、キリストの蘇りが真実であり、教会と共に働いておられるというしるしでしたが(マルコ16:20)、 パウロの異邦人宣教の開始から、また異なった意味でのしるしとなって行きました。それはあたかも旧約時代にもどったかのようです。つまり、異邦人宣教の中での奇跡は、神観念の低い異教の人々に対する、真の神の力の証拠として、力の対峙の形で行われているのです。パウロたちは、異邦人宣教の最初の場所として行ったキプロスにおいて、バルイエスという魔術師に遭遇し、彼の目を見えなくしてしまいます。これがしるしとなり、その地の総督、セルギオ・パウロは真の神を認め、キリストを信じるようになりました。(使徒13:4-12) 彼らが、福音宣教旅行の中で行っていた癒しや奇跡の業は、彼らが語る福音の真実性を証明するものとなったのです。(使徒14:3) しかし、使徒たちの宣教においては、癒しや奇跡自体では、しるしとしての役割を充分に果たすことがありませんでした。あくまでも、まず明確な福音の提示、宣教の言葉があって、それを補佐するものとして力があったのです。(使徒14:8−18) 福音の明らかな提示のない奇跡は、異教文化の偶像礼拝の中に、埋没してしまうのです。(使徒14:8−18、28:1−10)



 面白い出来事は、エペソにおけるユダヤの祭司長、スケワの7人の息子たちにまつわることです。彼らはユダヤ人であり、祭司長の息子でありながら、異教の習慣に染まって魔よけ祈祷師をやっていたのですが、パウロたちがやっていることをまねして、キリストのみ名によって悪霊を追い出そうとしたのです。ところが悪霊たちは、「イエスもパウロも知っているが、お前たちは何者だ」と言って、彼らに飛びかかり、裸にして傷を負わせて追い出したのです。この出来事は多くの人々の知ることなり、主イエスのみ名があがめられるようになりました。(使徒19:11−20)



 このように聖書に記されている多くの奇跡的な業は、明らかにしるしとしての役割を持っていました。また、たとえそれを直接の目的としてはいなかったとしても、結果としてしるしとしての役割を果たしていました。

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2010年11月12日

しるしを求める時代 (2)



  TD 聖書はこれらの業を禁止している



 大切なことは、聖書がこれらの魔術や霊媒、あるいは占いの類を禁止しているという事実です。その禁止の理由は、それが迷信や架空だからというのではありません。ではそれらはなぜ禁止されたのでしょう



    TD1 悪魔や悪霊とのかかわり



 禁止の理由として第一に考えられるのは、そこにはさまざまな悪霊との協力があるということです。これらのことを行う人々のほとんどは、悪魔や悪霊を呼びます。それが神々の名前であったり、死者であったりとさまざまですが、実態は、悪魔や悪霊とかかわりを持っているのです。行われる業自体には、人助けになり、社会に貢献するものもたくさん含まれていたとしても、悪魔や悪霊の最終目的は、人々を神から引き離し、迷いの中にいれ、滅びに陥れ、神の栄光にかげりをつけようとするものですから、それは神のみ前に憎むべき悪とされるのです。



    TD2 人間が関与すべきではない領域を犯す



 禁止の理由の第二は、霊媒や降霊術が死の領域に関わって活動をするということです。霊媒師や降霊術者は、悪魔や悪霊との協力以外にも、私たちが立ち入るべきではない、生と死との領域に踏み込んでいるということが、関係しているのだと思われます。生と死との境界線には、私たちが知るべきではない、また知っても益にはならない事柄があるのでしょう。聖書は生と死の境界線については、ほとんど触れていないのです、しかし霊媒師、あるいは降霊師などといわれている人々は、なんらかの力で、つまり、自分の特殊能力や超能力により、あるいは悪魔や悪霊の関与により、それらを知り、いわば裏を掻い潜って仕事をしているのだと考えられます。それが見る者を惑わし、真の神から遠ざけ、さまざまな悪につながるというところが、あるのだと想像されます。



  TE 聖書が禁じていない不思議もある



 そういうところから考えると、トリックであることをはっきり宣言して行う、現代のショーとしての奇術、手品、あるいは言葉の上では魔術と呼ばれているものの、実態は奇術に過ぎないものも、聖書によって禁じられていると考える必要はありません。また悪霊の力とは関係のない、自分の中にある超能力を、良いことのために用いるのも、聖書が禁止しているとわけではありません。犯罪者の潜伏先が分かったり、行方不明者の居所が判明したり、死体の発見につながるなら、その能力は大いに結構です。アメリカなどでは、さまざまな特殊能力を持った人々の助けを借りて、犯罪捜査なども行われ、相当の効果上げているという話ですが、今のところ、それは、裁判の証拠としては採用されないために、物的証拠を見つけ出さなければならないということです。理論整然とした説明も、物的証拠がなければ単なる状況証拠でしかなく、裁判では採用されないのですから、当然のことだと思われます。

 

 10年以上も前になりますが、津軽三味線の名人、竹山さんが弾くじょんがら節を、一度聞いただ
けで、見事にピアノで再現した人を、テレビで見たことがあります。竹山さんがすぐさま続き、ピアノと津軽三味線の見事な即興アンサンブルが出来上がりました。脳性麻痺で、知能は低く、まっすぐに立つことさえできないこのアメリカの青年は、確か、施設にあずけられていた赤子の時代に、クリスチャンの夫婦に引き取られて、育てられたのだと説明されていましたが、その音楽的才能はまさに、わたしには奇跡的と言うか、異常というか、超能力というか、とにかく尋常ではないと思えたものです。世の中にはさまざまな特殊能力を持っている人がいるものです。盲目の画家さえ存在します。その能力が良いことのために用いられるならば、おおいに結構だと思いますが、人を騙し悪い目的のために用いるのは、とうぜん良くないことです。



 ただし、気をつけなければならないのは、このような超能力、あるいは特殊能力を駆使する人々の多くが、何らかの外部からの力、すなわち悪魔や悪霊どもの力を借りているということです。ですから、天使と呼ぼうが、マリヤ様と呼ぼうが、聖人と呼ぼうが、外部の力を借りる人々の業には、気をつけなければなりません。また、死者との交信をしたり死者の霊を感じたりする人々にも、たとえそれが事実であったとしても、警戒しなければなりません。

 

 筆者の個人伝道で救われた沖縄のおばあちゃんは、いわゆる霊媒師、祈祷師でしたが、クリスチャンになってからも、その霊的な能力を持ち続けていました。霊媒師、祈祷師の仕事は止めましたが、しばらくの間は、死者が見えたり、死者の語りかけを聞いたりしていたものです。それが本当に死者だったかどうかは別の問題ですが、ある種の特殊能力があり、霊的存在者に敏感であったことは事実です。さいわい、ペテロに叱られた魔術師シモンのような問題は起こりませんでしたが、もし、わたしがペテロほどの力をもって活動していたならば、同じことが起こったかもしれません。クリスチャンになりたての頃は、いろいろな点において分からないことばかりなのですから、彼らに対して、あまり厳しい見方をすべきではないと思います。ペテロの厳しい叱責も、むしろ、シモンに徹底した悔い改めの機会を与える、愛の鞭だったのではないかと感じるのです。(使徒8:9−24)



 筆者がフィリピンで住んでいたバギオ市の郊外から、直線で1km足らずのところに、手で内科手術をする人物として、日本でもテレビを始めさまざまなメディアで取り上げられ、一時、非常に有名になった男が住んでいました。もともとフィリピンには「アーブラリオ」と呼ばれる霊媒師まがいの、民間治療者がたくさん存在し(アーブラリオは薬草のハーブからきた呼称)、多くの医療行為をしているのですが、この人物の力はずば抜けていたといえます。当時のマルコス大統領も彼から治療を受けていたと言われ、フィリピン全土はおろか、アメリカやドイツ、さらには日本からも大勢の人々がチャーター機で訪れて治療を願っていました。



 しばらくしてこの人物は亡くなりましたが、その後継者もかなりの力を発揮して、治療行為を続けていました。後継者の奥さんは日本人で、筆者も個人的に知っていました。日本では大きな話題となり、盛んに議論されたということですが、結局、それが文字通り素手による手術なのか、奇術によるまがい物なのか、判断がつかないままで終わったようです。フィリピンでも騙しごとと一笑にふしてしまう人々もいましたが、多くの人々がその治療を受けて治ったと証していました。日本で有名な高島易断の指導者によると、フィリピンはそのような霊の力が強い土地で、中でもバギオ市はその中心に当たるのだそうです。



 私たちの聖書学校の一つで、セブ市にあったインマヌエル聖書学校の門の前には、いつも朝早くから、長蛇の列ができていました。ココナッツ椰子の木陰にたたずむ粗末な藁葺きの家で、ひとりのアーブラリオが治療を行っていたからです。このアーブラリオは、当時、貧しい人たちからはほとんど治療費を取らず、野菜や果物、魚などのお礼をもって充分としていたようで、人々の尊敬を集めていました。ついでに言うなら、彼らはカトリック化した土着宗教を信仰土壌としていたために、ほとんどの場合、カトリックの聖人や、聖母の名前を呼んでいましたが、その実、土着の霊(アニトと呼ばれる)の力を呼び出しています。土着化したカトリックが強い、中南米でも同じ傾向が見られるということです。



 このようなことは、それぞれの土地の信仰形態により、呼び起こす霊や力の源となるものの名前は異なり、伴う儀式や祈りや呪文、あるいは用いられる小道具もまちまちです。仏教の強いところでは仏教的な、道教が強いところでは道教的な、ヒンズー教が強いところではヒンズー教的な色彩が強くなりはしますが、根本はアニミズム、日本の精霊信仰に近いもので、世界中いたるところで行われているのです。奇術の大会ならぬ、魔術の大会さえ催される土地もあります。そこではトリックは一切用いてはならないのです。文明程度が低いといわれる(何を基にして低いのか不明ですが)アジアやアフリカだけではなく、昔からキリスト教文化の強いヨーロッパやアメリカでさえ、このようなことはかなり広範囲に行われています。言い方を変えると、合理主義的教育が徹底し、近代科学主義がほぼ絶対のものとされて、キリスト教さえそれらに屈服して神の奇跡を信じられなくなっている土地、つまり「文明化された」と言われるこれらの土地においてさえ、社会の中に、また人々の心理の底辺に、アニミズムが根強く残っているのです。世界には多くの宗教と思想がありますが、基本的にまた圧倒的にアニミズムの世界なのです。



 聖書の世界観もまた、基本的にアニミズムであるということを、しっかりと理解しておかなければなりません。唯物的世界観でも自然科学至上主義の世界観でもないのです。合理主義的信仰、理神論的信仰に流されているクリスチャンたちは、唯物論的な見方を持ち込んで、聖書に記述されている奇跡の類は事実ではないと、さまざまな説明を試みますが、私たちはそれらを事実とみなし、何の不思議も不都合も感じません。わたしたちが捨てるべきなのは、アニミズムの世界観ではなく。創造主である唯一の神を礼拝するかわりに、創造物を礼拝する偶像礼拝です。たとえそれが天使だろうと悪魔だろうと、悪霊だろうと、聖人であろうと、マリヤであろうと、創造主以外を拝むのは被創造物を拝むことであり、偶像礼拝です。いつの時点かは不明ですが、天使たちの軍勢も、今は悪魔と呼ばれる霊も、また、それに従うようになった多くの霊も、もとはといえば、創造者であられる神に創られたものであり、神の世界に属する霊的存在ではなく、わたしたちと同じ被創造物に属する霊的存在なのです。その霊的な存在者たちは、この世界においても、私たちの間で、また私たちの中で活動しているのです。



 話を元に戻しますが、今、問題になっているのは、このような紛らわしい、まことの神と御使い以外の力に源を持つ、奇跡的な業や不思議が、教会の中で、またクリスチャンの活動の中で、公に行われてはいないかということです。それが無知によるものであれ、誤った善意によるものであれ、まったくの悪意によるまやかしであれ、行われてはいないかということです。



U 不思議やしるしに対するキリストのお言葉



 キリストの教えや働きからはっきりと分かるのは、キリストもまた、基本的にアニミズムの世界観を持っておられたということです。パウロが「私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗闇の世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです」と、アニミズムの世界観で語ったように(エペソ6:12)、キリストの戦いも人間に対するものではなく、この闇の世の支配者たちに対するものでした。その霊の世界の戦いの中で、キリストは、その戦いに関係のあるいくつかの大切な言葉を残しておられます。


 
 UA ご自分の権威と力が神からのものであることの主張



 キリストは、ご自分が病を癒し、悪霊を追い出されたとき、それらの働きが神からの権威によるものであり、さらに聖霊のみ業であることをお教えになりました。パリサイ派の学者たちは、キリストが悪霊どもの頭の力によって、悪霊どもを追い出していると論じたてましたが、キリストは悪魔の家に内輪もめはないとおっしゃって、ご自分は神の聖霊の力によって、悪霊どもを追い出しているのだと主張されたのです。またそれは、基本的に神の国の到来を意味し、神の権威と力による支配の現れであると、お教えになりました(マタイ12:24−28)。



 UB ご自分の力あるみ業が信じるべきしるしであることの主張 



 さらにキリストは、ご自分を信じられない者は、そのみ業を見て信じるようにとおっしゃり(ヨハネ5:36、10:25、38、14:11)、バプテスマのヨハネがキリストに使者を送り、キリストが待望のメシヤであるかどうかと尋ねたときも、ご自分がなさっていたみ業で判断するようにとおっしゃいました。(マタイ11:1−6) こうしてキリストは、み業にはしるしとしての積極的機能があることをお認めになりました。そのような理解を前提にして、聖霊による明らかなしるしを見ながらなおも反抗し続ける者は、聖霊を冒涜しているのであり、許されない罪を犯しているのだともお教えになりました。(マタイ12:31−32) 



 このキリストの同じお言葉を、ルカはあえて異なった言い方で記しています。多分キリストは、もっと長い言い方でおっしゃったのを、マタイもルカも短くまとめて記しているために、書き方が異なったのだと思いますが、ルカはマタイが「聖霊」と記したところを、「神の指」と記録しています。(ルカ11:20) これは聖霊が、現代のこの世界で、神の具体的な働きをされる役割を負っておられることを意味しているように、受け取ることができます。その神の具体的なお働きを拒絶するようでは、信仰を持つことは困難であり、罪が赦されなくなるとおっしゃっているのでしょう。



 UC 同じ権威を弟子たちに賦与されたこと



 その上キリストは、悪霊を追い出し病を癒し、力ある業を行う権威を、弟子たちに与えるとおっしゃいました。(マタイ10:1) そしてそのお言葉は、弟子たちの活動によって実証されました。(ルカ10:17−20) また甦りの後、すべての権威を受けたキリストは、再び弟子たちに権威の委託をされています。(マタイ28:18、マルコ16:15−18) これは単に弟子たちに対するものと考えずに、むしろいまや生まれ出ようとしていた、教会に対してなさったことであると理解すべきであり、教会がキリストから権威を委託されていると考えるべきです。したがって、教会は今もこの権威を持っているのです。



 UD 力ある業よりも救いを喜ぶべきであると教えられたこと 
 


 しかし、そのように力ある業を大切にされたキリストではありましたが、弟子たちがその力ある業のすばらしさに、あまりにも引き付けられてしまったときには、そのような業が、決して最も大切なものではないということを、明らかにされています。弟子たちは悪霊が追い出され、病が癒され、悪魔の権威が失墜していくのを見るよりも、自分たちの名前が天に記されていることをよろこぶべきだったのです。肉体の癒しや物理的な奇跡よりも、救いのほうがずっと大切なのです。(ルカ10:17−20)



 UE しるしを行うことを拒絶されたこと
 


 たくさんの病人を癒し、多くの悪霊を追い出し、数々の奇跡を行っておられたキリストでしたが、敵対する人々がしるしを見せるようにと迫ったときには、これを拒絶しておっしゃいました。「悪い、姦淫の時代はしるしを求めています。だが預言者ヨナのしるしのほかは、しるしは与えられません。」(マタイ12:39、16:4、ルカ11:29) 一方ではご自分の力ある業が、信ずべきしるしであると主張されたキリストが、ここでは、しるしとしての業を行うことを拒絶しておられるのです。これは、荒野での悪魔の試みにおいても示された態度と同じです。悪魔が持ち出した三つの誘惑のうち、少なくても一つは、しるしだけを目的としたしるしを行うようにというものでした。それをキリストは断然拒否なさったのです。(マタイ4:1−11)



 ここで分かることは、キリストのみ業は、結果として、しるしとしての機能を果たすが、しるしを目的としたみ業は、行わないということです。つまり、キリストのしるしには、あくまでもそのしるしが行われるべき直接の必要性、妥当性というものが他にあって、そのために行われるのであり、しるし自体のために、それを見せるために行われるものではないということです。ですから、たとえ目を剥くような大きなみ業を行われたとしても、ご自分の時が熟していないときには、キリストはそれを人々話してはならないと命じて、しるしとしての機能を果たさないようになさっているのです。(マタイ9:30、マルコ1:44、7:36、8:30)


                                    つづく




























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2010年11月11日

しるしを求める時代 (1)



       しるしを求める時代

(ペンテコステ派にまつわる奇跡的業についての考察)



 たいした役にも立たない雑文をワープロに打ち込みながら、テレビのニュースをつけっぱなしにしていると、いつの間にか行方不明者を探す番組に変わり、いろいろ面白い人たちが登場していました。いわゆる超能力で、生きている人も死んでいる人も探し出すというのです。その人々のうちの3人は、たしか、アメリカのFBIの捜査にも協力して、随分と成果を上げているという説明がつけられていました。そのあまりの能力に、「下手に人殺しもできないな。これでは必ず見つかってしまう」と・・・・怪しい警戒心を抱いたほどです。



 ちょっと考えるところがあって、つぎの週の同じ番組を見ていると、今度は、確か、ヨーロッパの超能力者たちが出演して、やはり、行方不明者を探していました。世の中には面白い力を持っている人々がいるものだと、つくづく感じたものです。(テレビが「やらせ」をやっていないという前提ですが。)ちなみに、彼らの中で何らかの「霊的な助け」を得ていると考えていたのは、「天使の力によって」と自ら語っているヨーロッパの女性と、同じくヨーロッパのもう1人の男性だけでした。他はみな、単なる超能力者で、いわゆる霊的な力とは無縁なようでした。



 それを見ていてふと考えました。「このような超能力といわれる力を持っている人や、霊力を使うことができる人々が、宗教家になったらどうなるだろう。ペンテコステの伝道者や牧師になったら、どういうことになるだろう。」



 最近、手品や奇術が流行っているようで、テレビでも盛んにやっています。中には本当に度肝を抜くようなものがあります。目の前でというより、大勢の人ごみの中、幾つものカメラの前で、たとえば、デパートのショウウインドウのガラスを通り抜けるなど、信じられないようなことを次々とをやってのけるのです。あまりにもトリックが上手なために、超能力者と間違えられて、病気を治してほしいとか、埋蔵金の隠し場所を当ててほしいとか、新興宗教の教祖になってほしいだとか頼まれて、閉口したと話している奇術師がいました。



 これらの番組を見ていて、また、ふと考えました。「このような奇術に長けた者たちが、宗教家になったらどうなるだろう。ペンテコステの伝道者や牧師になったら、どういうことになるだろう。彼らはさぞかし有名な、力ある神の人と目され、それこそ『大能の神の力』とばかりに、もてはやされるに違いない。(使徒8:10) テレビにも出、大きな集会を行い、たくさんの人々をその気にさせ、お金儲けも出来るだろうなァ。」 あの人たちが宗教家にならず、キリスト教の伝道者になっていないことを、感謝する気持ちになりました。「そういえば、数十年前、世界の奇術の大会で優勝したクリスチャンがいたな。堕落していなければいいが・・・」などと、つまらない心配まで始めてしまいました。

 

 いまテレビで人気を博している、もう一つの分野があります。それは、いわゆるまじないや占いに近いことをやって、運勢判断や前世の因縁、あるいは金儲けの方法、結婚の是非などを告げるものです。有名人とかセレブといわれる、芸能人やスポーツ選手などを相手に、そういうことをやって、結構視聴率も高いらしく随分盛況です。他にも、占いや呪い、霊視、心霊写真、行方不明者の捜索、怪奇現象の解釈などを行って、興味本位のマスコミに乗っている人々がいます。日本人の多くは、ばかばかしいと言いながらもこのような番組を観、出版物を読んでいます。そんなことが、何かにつけて話題になり、それに頼ったり、倣ったり、喜んだり、不安になったりしているのです。 



 これらの霊的な感覚の鋭い人たち、いわゆる霊能者たちが、ペンテコステの信徒や伝道者になったら、どういうことになるだろう。私たちの間で行われ、もてはやされている「奇跡」と、これらの超能力や奇術あるいは霊力とどこが違うのだろう。ペンテコステ系の人々のほうが、信徒たちを始め、多くの人々の賞賛と憧憬を勝ち取り、金儲けになるらしいというのは、わかるけれど・・・・。何しろそのようなことを売り物にして、テレビ番組をいくつも持っている伝道者が、たくさんいるのだから。」 奇術師や手品師に、そのような人がいるとは、聞いたことがありません。



 こんな軽々しい思い付きから、聖書に記されている奇跡や癒し、不思議やしるしの類と、それらについての教えに関して、すこしばかり考察してみようと考えました。



T  聖書に記された神以外の力による不思議な業


 
 現在の日本ほど、唯物論がもてはやされている文化はないといわれます。ところがその一方で、人々は怪奇現象や霊界の話にも夢中になっています。日本人の精神的二重構造です。付け焼刃の啓蒙思想、合理主義、科学至上主義の後ろには、拭い取れない、隠しようもないアニミズムの世界が広がっているのです。そんな非科学的なことは信じないと言いながら、お宮参りに行き、幽霊を恐れ、占いを信じています。



 私たち日本のクリスチャンもまた、この日本人の精神的二重構造の中で、一方では合理的科学主義の世界観を持ちながら、他方ではおどろおどろとした魑魅魍魎(ちみもうりょう=林や水の霊)の世界観を内に秘めています。かつて、西欧合理主義宣教師たちの教えにならって、幽霊だのまじないだの占いといったたぐいを、非聖書的な迷信として退けながらも、ほとんど本能的に、何となく納得しきれないでいるのです。



  TA 聖書にも神によらない不思議な業が記録されている
 


 西欧合理主義、唯物的科学万能主義の世界観を持って聖書を読むと、その中に、あまりにもたくさんの奇跡や不思議な物語が、記録されているのに驚いてしまいます。クリスチャンとして、いつかの時点で、神が全存在物をお造りになったということは、神学的に受け入れているにしても、あまりにもたくさんの奇跡や不思議のたぐいが記されているのに、少なからぬ衝撃を受けます。さらにその中には、天地を創造された神によらないさまざまな不思議な業も記されていることに、いよいよ驚かされます。



 聖書の世界観は唯物主義ではありません。また、神以外の霊的存在を認めない一神教でもありません。聖書は、他の宗教の感覚から言えば、多神教の世界、あるいはアニミズムの世界を描き出しているのです。たくさんの神々、さまざまな霊的存在があるけれど、その中に、唯一の創造者、唯一の絶対者がおられて、その方だけを礼拝し、その方にだけ忠誠を誓うのが、聖書の信仰です。その方以外の霊的存在や、その方以外の霊的力を認めないのが、キリスト教信仰ではありません。くり返しますが、たくさんの神を認めないのがキリスト教信仰ではなく、自分はただおひとりの神、創造者であり、絶対者であるお方だけをあがめ、この方だけに従うというのが、キリスト教信仰です。



 それは、たくさんの男性がいる中から1人の男性を夫として選び、この男性だけに尽くすというのと同じです。夫だけが唯一の男性という意味で、一神教です。少なくても、これが聖書の理解です。もちろんわたしたちの神は創造者であり、唯一の絶対者です。創造者であり、唯一の絶対者であるということが神の定義なら、私たちはそのような神を信じているのです。



 しかし、日本語本来の「神」の定義は、単に「上」というだけに過ぎません。「髪の毛」すなわち上の毛、「川上」すなわち川の上流、「薩摩の守」すなわち人の上に立つ者で、さまざまな漢字が充てられていますが、ようするに「かみ」すなわち「うえ」であり、「神」イコール「うえ」なのです。(うちの「かみさん」と奥さんを呼ぶのも?!)ですから「神」といった場合、せいぜい、なにやら人間以上の不思議な力をもつ存在というだけで、猫でも蛇でもどこかに人間以上の能力があれば、たやすく神になれるのです。人間でもちょっとばかりできると、たちまち料理の神だの、野球の神だのとまつり上げられることになります。唯一絶対の創造者などという、クリスチャンたちの「神」の理解とは程遠いものです。



 聖書は、私たちクリスチャンが神と呼ぶ、絶対者以外の「霊的な存在者たち」とその力を認め、それらを神に従う天の軍勢と、神に逆らう悪魔の陣営に分けています。聖書は神に従う霊的な存在者たちを「御使い」(翻訳によっては天使)と呼び、神に逆らう者どもを悪霊と呼び、その悪霊どもの頭を悪魔と呼んでいます。そしてその悪魔の陣営との戦いが、私たちのクリスチャンの信仰生活の、重要な一端であると教えています。(エペソ6:11−12)



 合理主義、唯物主義、科学至上主義に犯された西洋キリスト教は、私たちの神様によるものも、御使いたちによるもの、さらには悪魔や悪霊たちによるものも含めて、奇跡や癒し、不思議やしるしといわれるものを、おしなべて否定するかもしれませんが、聖書が描き出す世界は、奇跡や不思議の世界なのです。プロテスタント教会ではカトリックよりも啓蒙思想の影響を強く受けたせいか、御使いたちによる人間への干渉も、否定、もしくは無視する傾向にあります。またそこには多分、カトリックが天使崇拝に陥っていることへの反動があると思われ、ペンテコステ教会においてさえ、キリストご自身がそれを認めておられるにもかかわらず、(マタイ18:10)御使いの存在と働きは軽視されています。



 そのようなことを理解した上で、聖書の中に記されている、神と御使い以外による、不思議や奇跡、あるいはそれを示唆する主なものを、いま思いつくままに、リストアップして見ましょう。



@ ヨセフの時代、パロの夢を解こうとしたエジプトの魔術師たち
A モーセと対立したエジプトの魔術師たち
B 神の箱騒動で役割を果たしたペリシテ人の預言者たち
C サムエルを呼び出した霊媒師
D エリヤと戦ったバアルの預言者たち
E ネブカデネザルの夢を解こうとした魔術師たち
F ペテロに叱責されたサマリヤの魔術師シモン
G キプロスの魔術師バルイエス
H エペソで焼かれた魔術の本
I 悪霊に傷つけられた、祭司長スケワの7人の息子たち



  TB 聖書はこれらの出来事を現実として記録している



 聖書はこれらの出来事すべてを、作り話や御伽噺、あるいはたとえ話や寓話としてではなく、現実として伝えています。ここに挙げたものが、はたして魔術によるものか、悪霊の力によるものか、超能力によるものか、あるいはトリックによるものかは不明です。聖書が魔術と表現しているものが、現在の私たちの常識的分類と同じ分類をしているわけではないからです。さまざまな霊の力を借りているものも、自分の中にある不思議な能力によるものも、トリックによるものもあったかもしれません。しかしこれらすべてのものを、聖書は現実として記録しているのです。



 これらの出来事が、たんなる空想や創作物語ではなく、あるいは迷信による思い込みでもなく、神による奇跡と同じように、現実の出来事として聖書に記録されていることは大切です。合理主義に影響された西欧キリスト教は、いろいろな理由と理屈をつけて、これらの出来事を単なる神話にしてしまおうとしてきましたが、聖書を素直に読む限り、聖書はこれを現実のものとして書き記しているのです。そして、それらは主に魔術師、霊媒師、あるいは予言者とか占い師といわれる人々によって、常習的に行われていたことが分かります。



 ただし、聖書の世界観はそのようなものであっても、実際に奇跡的な事柄が多発したのは、長い聖書の歴史の中では比較的短い、いくつかの時代に限られていたようです。それらはモーセとヨシュアの時代、エリヤとエリシャの時代、それからキリストと使徒の時代です。ですから、不思議や奇跡がのべつ幕無しに行われていたというわけではありません。また、当時の一般の人々の間にはたくさんの迷信もあり、これらの記述に類似した物語もずいぶん多く、頻繁に語り伝えられていたということは、想像に難くありません。しかし、聖書に記録されている出来事は、あくまでも事実として記録されているのです。 



TC 聖書はそれらの不思議な業のメカニズムについては何も語っていない



 ただ、ひとつ注意しておかなければならないのは、聖書はそのような不思議な出来事あるいは業が、どのようにして起こるのか、なぜ起こるのかという、メカニズムについては一切説明していないのです。私たちとしては、そのような出来事があった、またあり得るということを信じるだけで、説明はできないのです。特にこの点で問題になるのは、サウロの要請によって、女霊媒師がサムエルの霊を呼び出していることです。(Tサムエル28:3−25) これがなぜ問題かというと、生の世界と死後の世界の二つを、厳密に分けて理解する現代の福音主義的考え方と、相容れないからです。



 現代プロテスタント・クリスチャンたちの多くは、キリストがお語りになったラザロの物語などを引用して(ルカ16:19−31)、このような二分化の考え方を正統と理解してきたのです。しかしその理解の根底には、近代合理主義もあったように感じます。つまり、死後の世界については分からない、説明がつかない、さらに死後の世界と今のこの世の世界のつながりについては、いよいよ理解できない。だからそれは合理主義の範疇にないと、避けて来た事柄なのです。そういうわけで、いろいろな理由をつけて、この出来事は実際に起こった出来事ではないと、説明する福音派の神学者や聖書学者が多いのです。



 しかし私たちは、むしろこの出来事は実際に起こったことであると考えます。実際に起こった事柄だからこそ、サムエルとダビデの関係に大きく影響し、イスラエルの歴史に関わってくるのです。私たちには、この出来事を説明することはできません。生の世界と死後の世界に、どのような隔離線が引かれているのかも、良くわかりません。聖書はそれを説明していないからです。そのような場合、わたしたちがすべきことは、説明できないからと否定するのはなく、説明できない事柄として残すことです。聖書は明らかにそれを現実の出来事として取り扱っているのですから、そのように信じたらそれで良いのです。死から生き返った人々も聖書の中に数人は記されています。彼らも、死後の世界については一切語っていません、少なくても、聖書には記されていません。だからといって死者が生き返った物語は、否定されるべき出来事ではなく、生と死の境と死後の世界は、人間が知らないでいても良い事柄である。知るべき事柄ではないと考えるべきなのです。したがって、霊媒師によってサムエルが呼び出されたという事実は、事実として受け入れるべきですが、なぜ、どうしてという問題はそのまま残しておけばよいのです。
 
                                      つづく

























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2010年11月10日

だいぶ怪しげなペンテコステ信仰 (4)



V 間違いを持った人々との付き合い



 では、グレーゾーンの信仰の流れに乗っている人々とは、どのようなお付き合いをしたらよいのだろうか。そのような信仰を持った人と付き合わないとなると、実際上、自分自身をも含めて、すべてのクリスチャンとのお付き合いを拒否しなければならなくなる。だからと言って付き合い始めると、とんでもない信仰と実践をしている人たちとまで、行動を共にすることになる。限度が必要になる。



 人間は複雑である。一人の人間でも、良いところと悪いところ、正しい教えと誤った教えを併せ持っている。だから、ある面においてはとんでもない非聖書的な理解をもち、へんてこりんな神学を振り回している人物が、他のところではとても確実な信仰理解と、生活態度を持っていることもある。あやふやな終末論を持っているが、贖罪論は堅実であるという場合もある。問い詰めると神学は不透明だが、神のみ前に歩んでいるひとりの人としては、感嘆するほど純粋な信仰を持っている人物もいる。



 霊的解釈やタイポロジー的解釈で、正統な聖書の学びを軽視しがちなペンテコステ系の伝道者には、即席の伝道者が多く、たとえ長い間大きな働きをしている有名な伝道者でも、正しい解釈に基づいた聖書知識を持つものは驚くほど少ない。だから、そこここに間違いがある。そして間違いのあるもの同士が集まって、安心して間違いを増幅し合っていく。



 また人間は、常に変化をし続けている。間違いだらけの昨日の彼は、今日も間違いだらけであると言う保証はない。今日正しいことを言っているから、あさっても大丈夫だという保証もない。どのように素晴らしい牧師も伝道者も神学者も、必ずどこかの時点で、間違いや誤りを持ち、失敗も犯す。だから私たちは、人間の善悪の問題には常に慎重な態度をとり、最大の寛容と許容をもって、接して行かなければならない。人間に対す最終判断と裁きは、神にお任せするしかないのである。そういうわけだから、グレーゾーンの信仰を推し進めている人々のためにも祈らなければならない。その働きのために、その祝福のために、あるいはその救いのために。



 しかし一方、彼らの教えの内容に関して、その神学に関しては、非常に厳しくなければならない。その誤った教えに対しては、滅びるように願い、戦い、祈って行かなければならない。私たちは、人と教えを切り離して、別々の取り扱いをして行く必要がある。それは口で言うほど簡単ではないが、そのようにする大切さと、技術を学ばなければならないだろう。愛をもって接しながらも、断固として、誤りを指摘していかなければならない。



 キリストやパウロの例を観察すると、求道者や初心者の間違いに対してはかなり寛容であった。その態度が、真摯に真理を求めるものに対してはたとえ彼らの間違いが大きくても、直ちに拒絶することはなかった。キリストはパリサイ派やサドカイ派の人々に対しては一般的に厳しい態度をとっておられたが、彼らの中にいる真摯な真理の追求者に対してはそうではなかった。パウロもまた、偶像礼拝者に対しても礼を失わない態度を保ち、コリントの禄でもないクリスチャンたちに対してさえ、聖徒と呼びかけ、忍耐深く指導した。パウロは、自分がすべての兄弟たちに恐れられていた当時、交わりと助けの手を差し伸べてくれた、バルナバを思い出していたかもしれない。



 ところがそのパウロは、教会の中から出てくるユダヤ主義者には激烈な態度を取った。教会が、ユダヤ主義者のために傷ついて、その傷がまだ傷んでいたときには、ユダヤ主義の傾向を持っていたマルコとは、たとえ、お世話になったバルナバと袂を分かつことになったとしても、絶対に行動を共にしようとしなかった。キリストも真理に背を向け続けているかたくなな宗教家に対しては、非常に厳しい態度で臨まれた。少し後代になって、教会の中にグノーシスの誤った教えが浸入してきたとき、パウロもヨハネも、非常に厳しい態度をとった。



 真理の探求者が、誤った教えや理解をもちながらも、真理を受け入れる態度をもって学ぼうとしているときには、寛容な態度で彼らを受け入れているが、彼らが真理に背をむけ、誤った教えを主張し続け、さらにその教えを他の人々にも広め、惑わすに至ると、キリストもパウロも、非常に激しく戦った。だから、内部から出現する誤った教えの信奉者には、容赦なかったのである。



 キリストやパウロに見られるこの一般的な原則は、今日の私たちにも適応することが出来るだろう。後の雨の運動の創始者や提唱者たちの多くは、教会内の、指導者の中から出てきたのである。その後継者たちの多くもそうである。彼らの中では、この誤りと彼ら自身とがすでに一体となり、不可分の状態になっていることが多い。しかし彼らの働きに参加している、多くの信徒や伝道者たちは、騙されているだけである。だから、彼らに聞く耳があるうちに、聞いてもらわなければならないのである。そういうわけで、著者はこの文章を書いている。同僚の伝道者たちが、誤りを明確に見分けられるためである。信徒たちを正しく指導できるためである。



 だから私たちには、教え自体と、教えを伝えている人々とを、分けて考えることが必要である。教えは滅ぼされなければならないが、教えを伝えている人は、救われなければならないからである。そこで私たちは、彼らの教えを拒絶するだけで終わらず、正しい真理の教えを語り続けなければならないのである。私たちはこの教えを伝えている人々が、私たちの教会にその教えを持ち込むことを許すべきではないが、彼らにも、私たちの教えを語り続けなければならない。多くの場合、豚に真珠であることを覚悟し、石地に落ちた種になることも知りながら、そうしなければならない。



W 結び



 著者は今、私たちのペンテコステ信仰とその実践には、多くの誤りが混在していることを憂慮している。それらの多くは、ペンテコステ信仰の発祥当時から混在していたものである。そしてその混在に対して、正しい対処をしてこなかったために、誤りは増幅し、拡大し続け、私たちの正しい信仰の成長の妨げとなってきた。



 今私たちに改めて必要なことは、この誤りに対して正しい対処をしていくことである。それは単に、あそこが間違っている、ここが誤っていると指摘するだけに止まらず、自分たちのペンテコステ信仰が、正統な聖書解釈に正しく立っている信仰であることを確認して、単に外部のものの間違いを正すだけではなく、自分たちの中にある聖書外体験主義をも排していくことである。自分たちの中にある伝統的な聖書外体験主義も、厳しく排していくことによって、初めて、しっかりと正しい聖書理解に立った信仰のあり方を、構築していくことが出来る。



 そのために私たちは今、多くの間違いが氾濫して私たちの信仰を汚染しようとしている危機を、かえって好機と捉えて、改めて自分たちの神学を、しっかり見つめなおすべきである。正しいペンテコステ信仰の継承のために、ぜひともそれをやり遂げなければならない。


                                    おわり





















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2010年11月09日

だいぶ怪しげなペンテコステ信仰 (3)


 UB 第三の波の人々 



 現在、ペンテコステの信仰を標榜するものたちの数が、世界中で圧倒的に増加し、ネオペンテコステと呼ばれる人々も急増する中で、かなりの数の福音派の人々が、ペンテコステ信仰を受け入れ始めたことが、あらたな問題を作り出している。彼らは、普通、第三の波と呼ばれる信仰形態を持つ人々である。本来、厳密な聖書解釈に立つ信仰の持ち主であるべき、これら福音派の人々が、ペンテコステ信仰の怪しげな体験主義的信仰形態を受け入れてしまったばかりか、かえってそれを増幅させていると思われるのである。第三の波の提唱者である、ジョン・ウインバーや、ピーター・ワグナーなどという人々を始め、実に多くの著名な福音主義者が、福音主義的な聖書解釈を捨てて、怪しげな体験主義に陥り、ペンテコステ信仰をますます奇怪なものにしているのである。彼らもまた、初めから単なる体験主義者に過ぎなかったのかと思いたくなるほどである。



 彼らの多くは、それぞれの改革派的な、あるいはバプテスト派的な神学によって、現在も私たちの祈りに応え、奇跡を行い、癒しを行ってくださる神を、信じることができない人々であった。しかし、ペンテコステ的な体験をして、奇跡や癒しを目の当たりにすることによって、その神学を覆されたのである。その体験があまりにも強烈であったために、神学を放棄して、体験に走ったのだろうか。彼らの体験主義は、伝統的なペンテコステ信仰を超えている。これは、日本でも見られる現象である。



 実のところ、この現象には、著者は非常に失望している。第三の波運動が始まった頃、著者は、学問的背景が薄く、神学に弱いペンテコステの信仰も、神学に強い改革派やバプテスト系の人たちが加わることによって、改善されるだろうと期待したのである。素人的な聖書主義から、本物の聖書主義の信仰に変化していくのを、待ち望んでいたのである。それは、今のところまったくの期待はずれ、失望に終わっている。今考え直すと、彼らの聖書主義も、もともと心もとないものだったのだろう。



 ところで、第三の波の人々の特徴のひとつは、彼らの多くが、異言を伴う聖霊のバプテスマを体験していないにもかかわらず、聖霊のバプテスマを受けたと主張していることである。自分たちは異言を語っていない。しかし、自分たちは伝統的なペンテコステの信仰を持つ者たちよりも、むしろ多くの奇跡を行い、癒しを行い、悪霊を追い出している。(もう少し言うと)、教会も成長しているし、伝道も活発に行っている。だから、自分たちこそ聖霊のバプテスマを受けているものであると主張している。これこそまた、体験主義であり、聖書の教えに立脚していない。聖書はそのような業を行うことが、聖霊のバプテスマの証拠とも結果とも言っていないし、神の承認を受け、神の権威を帯びている証拠であるとも語っていない。かえって、そのようなことを行う人々に対しては、イエス様ご自身が、「私はあなたがたを全然知らない不法をなすものども、わたしから離れて行け」とおっしゃる可能性を語っておられるのである。



 だから彼らは、体験に基づく曖昧な解釈を用いてではなく、福音派の人間として、自分たちが受けた正統な聖書解釈の手法を持って、異言の伴わない聖霊のバプテスマというものの存在を、証明しなければならない。また、そのようなバプテスマを、すべての信徒が体験すべきであるという主張を、正統な聖書解釈の方法で立証しなければならない。そしてそれは、けっして出来ないことである。だから、彼らは正統な聖書解釈を捨てて、霊的解釈に走っているのである。事実、第三の波運動の源となったジョン・ウインバーは、合理主義を排し、論理的な考え方を止めて、つまり神学を軽視して、体験に重きを置く考え方を提唱していた。それは、啓蒙主義や合理主義、理神論的な考え方を排して、健全な聖書信仰を主張する論理を飛び越え、聖書を理性的に読み、理論的に考察することさえ放棄する、まったく誤った提唱である。

 

 最近、勉強不足な著者にも、やっとわかるようになってきたのだが、実は、これら第三の波の人々のほとんどが、後の雨の神学を受け入れているのである。そのことを当人たちが知ってか知らないでかは別として、それは事実としか思えない。それだけでなく、もともとアッセンブリーズ・オブ・ゴッドの交わりの中から生まれた人たちの中にも、この後の雨の教えに流されて、溺れかけているものがいるようである。



 ジョン・ウインバーは亡くなったが、彼の友人であり後継者でもあるピーター・ワグナーは今、その大きな影響力を駆使して、積極的に後の雨の教えを宣伝している。現在彼が広めている、使徒職と預言者職の回復を始めとするさまざまな教えは、後の雨の教えそのものである。先に挙げた後の雨の4点の主張と、アッセンブリーズ・オブ・ゴッドが非聖書的として挙げた6点を、改めて読み直してほしい。異言が宣教のための言語であるという主張以外は、みな彼らによって、今も主張され続けているのである。



 しばらく前から大きな話題になっている、トロントの笑いのリバイバルは、ウインバーやワグナーに強いつながりがあったし、その運動の飛び火とも思えるペンサコーラのリバイバルも、同じである。そしてペンサコーラはアッセンブリーズ・オブ・ゴッドの教会の働きである。これを通して、後の雨の教えはアッセンブリーズ・オブ・ゴッドの中にも、それと知られないまま広く撒き散らされていった。ワグナーは現在でも、多くのアッセンブリーズ・オブ・ゴッドの教会に受け入れられ、彼らの中で活発に働きを続けているし、日本でも権威として受け入れられている。



 (2000年8月11日、アメリカ・アッセンブリーズ・オブ・ゴッドの総会は、トロントの笑いのリバイバルの誤りに対する、警鐘の文章を採択している。日本アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団は、これを翻訳してすべての教職に配布した。しかし当時の日本の教会は、トロントで起こっている事柄についてはうわさ程度にしか知らず、その内容に至ってはほとんど知らなかったのが実情であった。だからこの文書は、あまり大切にされずに、忘れ去られているのではないかと思う。翻訳を依頼された著者も翻訳しながら、なぜこんなことを言わなければならないのか理解していなかったので、偶然、ファイルの中に英文のオリジナルを見つけ、今はじめて、これを思い出したほどである。だから、後の雨の神学が日本でも広がり、かなりの混乱を巻き起こしている現状を知った今、改めてその翻訳文を探し出して、皆様に配布しようと思っている。)



 ただし、しばらくの間、アッセンブリーズ・オブ・ゴッドの人々の間でも大きな話題になっていた、ペンサコーラのリバイバルといわれる働きは、数年で終焉を迎えた。いろいろな理由があると推測するが、結局のところ、多くのアッセンブリーズ・オブ・ゴッドの人々の「信仰安全装置」にひっかかり、受け入れられも、承認されもせず、情熱は急激に冷えたということも、大きな理由であろう。



 著者はトロントの笑いのリバイバルや、ペンサコーラのリバイバルといわれているものの、すべてを否定するつもりはない。その働きに参加しているすべての人々の、すべてが悪いというつもりもない。実際、素晴らしい神の祝福がたくさんあったのだろう。しかし、それらのリバイバルといわれているものの中には、聖書に立つ信仰という面からすると、かなり怪しいものが含まれていると言わざるを得ないし、まったくの詐欺師や「オカルト的」な人々も活動しているようにさえ思われる。少なくても、正統な聖書の理解に立つ信仰がないがしろにされ、聖書外体験が強調され、主張され、流布されていることは間違いない。



 しばらく前になるが、著者は預言運動について講演することを依頼され、その中で、後の雨についても触れたが、その影響が現在これほど広く深く及んでいるとは、気づいていなかった。日本の片田舎で、ほとんど他の教会や伝道者たちとの交流を持つ機会のない著者には、諸教会で起こっている問題の深刻さが、理解できなかったのである。また、現在日本の預言運動に大きな影響を与えているのは、ビル・ハモンという人物であるといわれているが、彼は、この後の雨の神学の強力な推進者であり、代表的人物のひとりである。何も知らなかった著者は、このビル・ハモンの著書二冊を拝借して読み、その主張の危険性を見出して指摘しておくだけに止めた。(拙著「現代預言運動に関する考察」)しかし今は、体験信仰をもってこの人物の主張を受け入れている人たちは、後の雨の非常に危険な神学を受け入れていることになるという事実を、しっかりと理解してほしいと考えている。当然ながら、ピーター・ワグナーはこの人物とも親交を持っている。



 ところで今年の初めから、著者のもとにリバイバル新聞というものが、毎週送られてくるようになった。これはこの新聞の編集者に請われて、1年間、私も論説を引き受けることになったからである。実は、この新聞を手に取ったことは、1度か2度しかなかったというのが本当なのだが、編集者が、私が書いたものをウエブサイトで読み、依頼してきたのだ。私は、自分が書いていることが、新聞社の立場と基本的に一致するものであると認めてのことかと、確認した上でお引き受けした。そういうことで一部贈呈となったのだが、それを読んで改めて驚いた。記事の大部分とはいえないかもしれないが、(簡単には確認できないため)非常に多くの部分が、第三の波系の人々やその働きの記事で埋め尽くされている。そこで言われていることの非常に多くの部分が、後の雨の神学に基づくものである。



 新聞はジャーナリスティックな物であり、広く記事を集めなければならない。読者の層というものが、編集のあり方に影響する。この新聞を購読しているクリスチャンの多くが、後の雨の神学に、賛同しているか、少なくてもあまり違和感を持たない人々なのだろう。だからそのような内容の記事が多くならざるを得ない。私が危機感を抱いた理由のひとつがそこにある。ペンテコステ系の人々は、彼らの中に始めから流れている、聖書外体験主義的な血のために、今の流行の中にあるカルト性、あるいはオカルト性に気づいていない。それで考えた。自分が選ばれたのは、たぶん、新聞社の中の聖書信仰を重要視する人たちの、良心が働いたからだろう。私の役割は歯止めか毒消し、あるいは中和剤か。ま、たいしたことは出来ないが、私は正統な聖書理解に立った信仰を、語り続けるだけである。



 UC その他の非聖書的な主張



 ペンテコステ系の人々は、一般に、積極思考、繁栄の福音、レーマの神学、さらに自己のイメージの確立(カウンセリングで用いられる)さらには、大々的な集会、その中で用いられる洗脳的な手法などに鈍感である。聖書は間違いのない神の言葉であると信じるのはいいが、その読み方、理解の仕方、主張の仕方によっては、嘘っぱちの悪魔の言葉にさえなる。しばしば、「聖書がこう言っているのだから」という議論を聞くが、多くの場合、聖書がそう言っているのではなく、聖書がそういっていると、その人が考えているのに過ぎない。あるいは聖書がそう言っているかのように、語っているだけである。聖書の真理の2〜3%を言い変えるだけで、立派なカルトになる。そしてペンテコステ系の人々は、すでに聖書外体験に慣らされている。グレーゾーンの信仰に弱いのである。その上、基本的に聖書は神の言葉であると教え込まれているために、ちょっとそれらしく聖書の言葉や表現が用いられると、すぐにだまされてしまう。



 「受けるよりは与えるほうが幸いである。だから献金しなさい。神は惜しみなく与えるものに、惜しみなく与えてくださる。」この教え自体は間違いなく聖書の教えである。しかしペンテコステ系の伝道者の多くは、その適応を敢えて誤用している。そして多くのペンテコステ系信徒が騙されている。少しばかり有名になると、ペンテコステ系の伝道者の多くは、この教えを悪用して金集めに精を出し、贅沢な生活に走る。そして贅沢な生活こそ、神の祝福の証拠であると、繁栄の神学を振りかざす。集会に出られない場所にいる人たちには、臆面もなく、祈りの布切れなるものが販売される。その布切れは、伝道者が手を置いて祈ったもので、神の力が宿って万病に効くのだそうだ、10分間祈ったものは黄色で1万円、20分祈ったものは青で2万円。30分祈ったものは赤で3万円という具合で値段によって効き方が違うらしい。使徒の働きに一度だけ記されている出来事を根拠に、金儲けの手段にしている。その伝道者の事務所で働いていた女性に聞くと、伝道者は間違いなく手を置いて祈るそうである。ただし、山のように積まれたすべての布に手を置いて、簡単に祈るだけだということである。



 人間の罪の原点はセックスである。だから、アダムとイブは自分の裸を隠した。したがってその罪は、聖いセックスで聖められなければと、たくさんの女性をだました伝道者だけでなく、たくさんの男性を捕縛した女性伝道者もいる。ペンテコステ系の能力のある伝道者には、セックス・スキャンダルを起こすものが多いと感じるのは、著者だけだろうか。昔から、英雄色を好むといわれ、大きな働きをするものは、一般的に精力も強い。旧約聖書でも明白である。それはまた、彼らが聖霊の力だけではなく、人間的な力によって仕事をしていることの、ひとつの証拠でもある。救いの働きが、聖霊のみ業から、人為的な方法論に変化しているということでもある。



 日本では考えられないかも知れないが、一夫多妻は祝福の印であるという教えをもって、たくさんの妻を持つ伝道者もいる。しかもその行為が聖書によって「きちっと」論証されている。個人的に思うのだが、これは繁栄の神学につながるものだろう。しかしその神学の中では、より聖書的な部分だろう。少なくても、一夫多妻が認められている文化の中で、一夫多妻制度の必要性は、認めなければならないところもある。その一方、アメリカ式の繁栄の福音は、どの文化にあっても偶像礼拝の罪である。



 多くの信徒を集めるのが最重要課題であると、聖書を持って主張し、あらゆる方策を用いて、教会を大きくしようとしている牧師がいる。この世界に神の国を来たらせるためには、出来るだけ多くの信奉者、支持者、賛同者が必要である。その目的のためならば、さまざまな不当な手段、あるいは洗脳に近い策略も正当化される。大伝道集会などで、派手な身なり、大げさなパーフォーマンス、華美なプログラム、大音響の音楽、それに伴う振り付け、さらにサイケデリックな照明、バーチャルリアリティなどが、出来るだけ多くの決心者を得る手段として、正当化される。癒されたり、奇跡を体験したりしたものが捏造され、その数が水増しされ、無料の読み物がほしい人は手を挙げてくださいと呼びかけられて、手を挙げた人々が写真に取られて、決心者の姿として報告されることも、通常の金儲けの手段とされる。幸い日本ではこのようなことはあまり聞かないが、著者は、ペンテコステ系の有名な伝道者たちによって行われる、そのような騙しのテクニックを、しばしば自分の目で見てきた。
 


 朝起きたら、まずきれいに化粧をして、改めて鏡の前に座り、「・・・・ちゃん。あなたはきれいよ」と鏡の中の自分に語りかけ、自分が大切な存在であることに気づいて、自信をもって、気持ちよく一日を送るようになどというごまかし。このような聖書によらない自己イメージの確立が、あたかも聖書の教えであるかのように装われて、各地で行われている。正しい聖書の理解によると、私たちの価値は自分自身のうちにはない。わたしたちの価値は、価値のないものを愛してくださる、神の愛の中にある。つまり私たちは神に愛されているから、神の愛の対象として価値があるのである。私たちに価値があるなら、価値がある私たちを救うのは、神の恵みではなく、神の当然の義務となる。



 いくつもある可能な解釈の中から、自分に都合のいいひとつの見解を絶対視して、黙示録を用いる方法も危険である。そこからは実にさまざまな、極端で、一方的な主張が生まれてくる。いわく、世界はユダヤ人に支配されている。あれもこれもユダヤ人の陰謀である。あの有名な伝道者も、この名高い牧師も、だれも彼もユダヤ人に操られている。反対に、ユダヤ人の救いのために祈り、ユダヤ人のために働き、自分たちもユダヤ人の一部分であることを知ることこそ、最重要課題であるというのもあれば、ブッシュは反キリストであるとか、666であるとか断定したり、ヨーロッパ連合こそ大淫婦の大バビロンだと言い切ったり、WCCこそ、いや教会一致運動こそそれであると、実にかしましい。それらは、そうかもしれないし、そうでないかも知れない。とても多くの見解があるから、的中する確立は低い。



 これらの主張はみな、聖書の中にわずかに記されている、それらしい言い回しや言葉、表現を独断的に解釈して、それを発展させたものである。グレーゾーンの信仰である。だから、私たちはだまされるのである。多くの場合、だましている人々も、だまされている人々である。もちろん、これらはみなペンテコステ系の信仰に限ったことではない。福音派といわれる人々の中にも、しばしば見受けられる。ただ、ペンテコステ系の人々のなかでは、かなり特徴的に見られるのである、私たちに必要なことは、正しい聖書の読み方から、正しく解釈された教えを基盤に、しっかり立った信仰を持つことである。



 ペンテコステ系の人々の数は、今や、世界で5億をはるかに越えるといわれているが、果たしてその中のどれだけが、本物のクリスチャンなのか、疑いたくもなる。もちろん主催者側の発表は、常に警察側の発表を上回る。だから半分にするか4分の1にして理解しても、大変な数だ。しかし、だれがクリスチャンで誰がクリスチャンでないかという判断は、私たちのすることではないが、正しい福音を伝えて、出来るだけ、本物のクリスチャンを育てるのが、私たちの役目である、



 改めて言い直すが、グレーゾーンの信仰、すなわち聖書外体験を基本にした、あるいは出発点にした信仰は、グレーゾーンの信仰に慣れ、とめどなくグレーゾーンの中に浮遊する信仰になってしまう危険性がある。しかもそのグレーゾーンが「新しい皮袋」などと紹介されると、ますます誘惑されてしまう。



 だからと言って、私たちはさまざまな新しい試みや流れに、目を閉じ、耳をふさいでしまってはならない。多くの新しい試みは、それが良いものであっても悪いものであっても、さまざまな批判や、非難、中傷や、流言飛語がつき物である。だからこそ、見分ける能力が必要なのである。そしてまた見分けたからと言って、たらいの水と共に赤ちゃんをも捨ててしまってもならない。



 確かに、いま、第三の波の人々が持ち込む方法論は斬新で、魅力的なところがある。それらに対して後ろ向きになってばかりいてはならない。学ぶべきところはたくさんある。教会も、大きくなるのにこしたことはなく、たくさん救われることに、反対を唱えるものでもない。とはいえ、教会を大きくするのは、聖書の命令ではない。たくさん救われるようにというのも、神の悲願ではあっても、たくさん救いに導けという命令が、私たちに与えられているわけではない。たくさん救いに導いているものが、より良い神の器だという聖書の教えもない。



 アメリカ流のプラグマティズムに陥ってはならない。彼らの勝利主義に乗ってはならない。教会を、資本主義の企業のように考えてもならないし、ねずみ講のように理解してもならない。方法論で命に至る門の大きさが変わるのだろうか。初めから命に至る門は狭く、その道は細いと決まっているのだ。そしてそこから入って行くものは少ない。現在のペンテコステ信仰の世界的拡大を見ると、どうしてもイエス様のこのお言葉との矛盾が、気になって仕方がない。



 たくさんの人々が教会に連なり、あらゆる意味で教会の力が強くなり、世界を支配するようになったならば、キリストが王として再臨するのであるという考え方は、私たちのものではない。それが間違っているということは、すでに述べた。そのような見解を持っている人々と、一緒には働けないというわけではないが、目標を共有することは出来ない。



 ペンテコステ信仰の躍進は喜ぶべきである。しかし喜んでばかりはおれない。同時に、怪しいものを感じて、注視して行かなければならない。時代の潮流に乗り遅れないようにと、あせってはならない。潮流が黒潮か親潮か見分けねばならない。どこに流れていくのか確認しなければならない。下手をすると、とんでもない方向に流されてしまう。著者は登り電車に乗るはずだったのに、ドアが閉じそうになっている下り電車を見て、あわてて乗ってしまったことがある。



 いま、ニュースで面白い話が紹介されている。タイの南部のマレーシア語を話す地域の50代の女性が、買い物に行った帰りに、間違ってバンコク行きのバスに乗ってしまった。途中で気がついたが、言葉が分からないために終点まで行き、そこから戻ろうとしたのだが、またも行き先を間違い、北部のチェンマイに着いてしまった。言葉が分からないためにそこで5年間乞食をし、その後、施設に入れられて、合計25年も行方不明となっていたそうである。



 何度でもくり返そう、ペンテコステ信仰は正しい聖書の理解に立った、確実な信仰である。私たちはその事実を、改めて聖書を学びなおして、確認しなければならない。それを改めて確認しなおして、はじめて、自分の信仰に信仰体験だけによるのではない、聖書的な確信を持てるのである。そうすることによって、正しい聖書の理解に立っていないグレーゾーンの信仰、正しい聖書理解に基盤を置いていない、体験信仰の流れには、乗らないようにしなければならない。



 そこで、私たちが信じ、受け入れ、みんが体験すべきものとして、公に教えられなければならないものと、そうでないものとを見分けるために、簡単な方法を示しておきたいと思う。

@ それは間違いなく、聖書の記述のなかに、実例を見出せるものか。
A それは間違いなく、聖書で教えられているか。
B それは、くり返して聖書に記されているか。
C それは、間違いなく使徒時代の教会全体に認められ、受け入れられていたか。
D それは普遍的なものであると、すなわち時と場所を越えて、すべてのクリスチャンに適応され勧められるべきものであると、聖書によって明確に証明できるか。



 これらのテストをするならば、瞬間的聖めのバプテスマ、解き明かしを伴った異言による預言、職への召し、異言の伴わない聖霊のバプテスマ、現代の使徒と預言者の回復、彼らの権威、預言の権威、現代の使徒と預言者の上に建てられる教会、倒れること、倒すこと、笑うことや泣くこと、恍惚となることなどの肉体的精神的反応、さらに実に多くのことが、どれかの項目、あるいはすべての項目にひっかかり、私たちの信仰体験として一般化し、教理としたり、信仰や実践の大切な部分としたりしてはならないことが、よくわかるはずである。

                                       つづく













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2010年11月08日

だいぶ怪しげなペンテコステ信仰 (2)



TE 健全な聖書理解に立っていることを認識する大切さ



 大切なのは、このペンテコステ信仰の真髄が、健全な聖書理解に立脚しているという点である。それは誰かが意識して、進んだ聖書学や神学の知識を駆使しながらやったことではない。素人的な単純な聖書の理解が、たまたまそこに導いただけかもしれない。しかし、健全な聖書理解に基づいているという重要な事実だけは、しっかりと捉えておかなければならない。なぜならそれは、自分のペンテコステ信仰の中に付随する、不透明なもの、不可解なもの、怪しげなもの、すなわちグレーゾーンの信仰、聖書外体験信仰を明確に判別し、取り除くことが出来るようになるための、重要な一歩だからである。



 私たちアッセンブリーズ・オブ・ゴッドにとって幸いだったのは、交わりの創立当時、ケズィックの流れを汲むものや、バプテスト系の人々が大勢参入してきたことである。彼らとて、決して高度な学問を積んだ人々ではなかったが、ホーリネスの体験主義と、その帰結である第二の恵みの神学を持っていなかったことが、大きく貢献した。このことによって私たちは、ホーリネス系のペンテコステ信仰から離れ、バプテスト系のペンテコステ信仰を持つものとなり、極端な体験主義が和らげられることになったのである。



 一方、ペンテコステの信仰が広がりを見せたとき、ホーリネス信仰を持つ多くの人々がこれを受け入れなかった。クリスチャン・ミッショナリー・アライアンスは、「求めもせず、禁止もせず」という、柔らかな拒絶をした。ペンテコスタル・ナザレンは、ペンテコステ信仰の団体と誤解されるのを嫌い、ペンテコスタルを削除して、ナザレンと改名した。彼らがペンテコステ信仰を拒んだ理由は、正当な聖書の学びによって、聖霊のバプテスマの教理が間違いであると判断したからではなく、ペンテコステ信仰を持った人々の、無秩序な、乱痴気騒ぎに見られる極端な体験主義、道徳的低さという、表面的現象を嫌って、すなわち、あくまでも体験主義的感覚から、そうしたのであると考えられる。



 信仰が初歩の段階にある人々が、体験主義的感覚で信仰を判断することは止むを得ない。キリストが、癒しや奇跡という体験感覚で判断できる事柄をもって、ご自分の働きの神的権威を、認めるようにおっしゃっているとおりである。しかし、いつまでもそのような段階に留まっていてはならないのである。特に信仰の指導者たるものは、しっかりと聖書の教えに立たなければならない。



 私たちアッセンブリーズ・オブ・ゴッドは、いまや単なる体験信仰に依存する必要はない。むしろ、しっかりとした聖書理解に基づく信仰が、私たちの信仰である。そしてその聖書の教えを、私たちはいま、現在も生きて働いておられる聖霊によって体験しているのである。私たちは聖書外体験、グレーゾーンの体験を、ことごとく否定する必要はない。個人のまじめな体験として、それらはあり得るだろう。しかし私たちはそのような体験を、すべてのクリスチャンが体験できるもの、あるいはすべきものとして公に教え、それに立って神学を構築し、教会を建て、伝道を進めることを拒絶するのである。



U 現在も継続している怪しげな信仰



 ペンテコステ信仰は、現在に至るまでグレーゾーンの信仰を許容し、肯定し、実践しながら発展してきた。そこでは、聖書外体験の信仰と実践が、正しい聖書理解に立脚した信仰と実践に混在したまま、増幅してきたのである。それが、モラルの低さにつながり、目も当てられない状況を作り出してきた。私たちが、ペンテコステ信仰の先駆者として教えられてきた人々の多くが、さまざまな道徳的問題、教理的な問題、伝道の手法の問題を抱えた人々であり、清純なキリスト教信仰を愛する、私たち日本の儒教的キリスト教徒からすると、まさに情けない限りである。



 ペンテコステ信仰の、スタート時点での怪しげな信仰形態は、いまも、ペンテコステ信仰の中に脈々と流れていると言える。それは実に多くの人々の批判と非難を受けてきた。しかし残念なことに、すでに述べたように、体験主義者たちの多くは、自らの体験をほとんど絶対化し、外部の者たちの言うことに耳を貸さないで来た。体験主義者たちの側からすると、外部のものは自分たちの体験を共有しない人間、すなわち良くても霊的レベルの低い人間たちであり、自分たちを迫害するものたちであり、悪く言うとまさに悪魔的でしかなかった。反対したり非難したりするものたちの側からしても、ペンテコステの連中は、まじめな聖書的忠告に聞く耳を持たない、悪魔に操られた人々であった。ペンテコステ信仰の発祥の時代とまったく変わらない、実りのない中傷合戦が長い間続けられてきたのである。



 そういうわけで、ここで、ペンテコステ信仰の初期の段階から存在したグレー信仰、すなわち聖書外体験信仰の代表的なものをいくつか取り上げ、少し説明を加えておくことにしよう。そうすることによって、今、私たちの周辺に聖書外体験に基づく信仰や実践が、数多くあることに気づくだけではなく、私たち自身の信仰や実践の中からもそれらを識別し、排除することも出来るだろう。それがペンテコステ信仰を浄化し、シンクレティズムに陥るのを回避させ、正しく継承されていくことにつながるに違いない。



 ペンテコステ信仰が、今のまま強い体験主義的傾向を持ち続け、聖書外体験を見分けることが出来ずに、そのまま容認し、自分たちの信仰と実践として行くならば、ペンテコステ信仰者のかなりの部分が、シンクレティズムの中に埋没し、消滅していくことになるのが、目に見えているからである。実際、ペンテコステ信仰と土着の信仰との癒着は、すでに多くの場所で報告されている。



 UA 後の雨



 現在、私たちの周囲でもっとも強い影響力を持ち、さまざまな形で奉じられ、実践されている聖書外体験に基づく信仰は、後の雨(レストレーション)の教えである。後の雨がひとつの運動として形をとって現れたのは、1948年のことであるが、その源は遠く、デスペンセーショナルな考え方の中にあると思われる。デスペンセーションの超字義的解釈は根本主義として、一方では、南バプテストなど福音的な教会に強い影響を与えると共に、他方では、モルモン教の考え方やエホバの証人の教義にも、強い影響を及ぼした。それはまた、ホーリネス運動の再臨待望の信仰にも現れている。したがって、1914年に設立されたアッセンブリーズ・オブ・ゴッドの信仰の中にも、それはごく自然に流れ込んでいる。(ただしアッセンブリーズ・オブ・ゴッドは、非常に緩やかなデスペンセーショナリストである。)



 1910年、ダビデ・ウエスレーという人物が、「後の雨の契約」という本を出版した。そこで強調されたことは、デスペンセーションの流れに乗りながら、デスペンセーションの基本に反したもので、聖書の字義通りの解釈に対する、タイポロジー的解釈や霊的解釈の優位性であり、当時、かなり一般的に流行っていたものである。このような考え方によって、厳格な字義通りのデスペンセーションの歴史理解の上に、極めて自由な聖書解釈を積み重ねることが可能になり、体験主義的信仰の勢いを増すことになったのである。



 設立当時のアッセンブリーズ・オブ・ゴッドの指導者たちは、このような聖書解釈法を退けたが、一般大衆の中から、その間違いを完全に取り除くことは出来ず、広がりを阻止することもできなかった。本当のところ、聖書学校の初等教育さえ、充分に受けていない伝道者たちが多かった時代、まじめな注意深い読書方法を基本として、聖書言語や時代背景の知識さえ要求される、難しい字義通りの解釈より、タイポロジーや霊的解釈の方がずっと易しく、受け入れられやすかった。また、当時のクリスチャンたちの間で流行となっていた、「新しい真理の発見」も、厳格な聖書の学びによるより、思いつきやひらめきによって、行われるほうがずっと容易だったのである。



 1948年に至って、カナダで聖書学校の校長をしていたジョージ・ハウティンという人物が、所属していたカナダ・ペンテコスタル・アッセンブリーを離脱して、世界中から人々を集める大きなキャンプ集会を開き、後の雨運動を開始した。直接的には、このキャンプ内で彼の兄弟アーネストが按手に関する預言をし、使徒職や預言者職の回復を告げたところから始まった。この運動は40年も前に出版された「後の雨の契約」の、誤った聖書解釈法を大幅に取り入れたもので、特徴を挙げると次のようになる。



@ エペソ書4章に記されている5職の回復。特に使徒職と預言者職の回復に重点が置かれた。彼らはこれらの職を通して、聖霊が今日語ろうとしておられることを示すと主張し、彼らによって主張されたこと、あるいは預言されたことは聖書と同等の権威を持つものと考えられた。

A キリストのみ体である教会の完全な一致。これは、単にすべての教会が理解しあって一致するというものではなく、回復された使徒と預言者による、新たな教会の秩序によってもたらされる一致であり、既成の教会や教団の崩壊を意味していた。

B 個人預言の回復。使徒や預言者によってもたらされる個人に対する預言は、実際上聖書以上の権威を持ち、個人の信仰の規約・規範となり、道しるべとなる。

C 按手の回復。使徒および預言者の職を始め、さまざまな役職や霊的賜物が按手によって回復され、分与される。



 このような後の雨の誤った教えを憂慮したアメリカ・アッセンブリーズ・オブ・ゴッドは、当時の総書記ロズウエル・フラワーに詳細な調査を委託し、その調査の結果をもとに、1949年の総会で、この運動の教えを誤りであると断定し、支持しないことを正式に決定した。その決定では次の諸点が、聖書的根拠を持たないものとして退けられている。



@ 按手と預言によって聖霊の賜物を分与したり、賜物が何であるかを明確に語ったり、賜物を授けたり、賜物が間違いなく与えられていると確認したりすることが強調されすぎている点。

A 教会が、現在の使徒と預言者という土台の上に築かれていると教えられている点。

B 罪の告白は人間に向かって行われるべきであり、それによって赦しと開放が確実にされると教えられている点。

C 異言の賜物は、宣教の働きのために実在する言語を語ることができるようになる、特別な能力の付与であると教えられている点。

D 個人預言を用いて神の導きといわれるものを強要する点。

E 聖書を曲解させる神学的解釈法が実践されている点。



 この後の雨運動自体は、アッセンブリーズ・オブ・ゴッドによって正式に否定されたこともあってか、その後急速に衰えたが、その教えはアッセンブリーズ・オブ・ゴッドの中にさえ密かに浸透して行った。また、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド以外のさまざまなペンテコステ信仰者の中では、かなりあからさまに実践されて来た。



 もともとアッセンブリーズ・オブ・ゴッドはペンテコステ体験という共同体験を基にした、緩やかな信仰の交わりであり、信仰告白を採択したとは言え、それは信仰告白に反する教えやその実行者たちを厳しく探し出し、追放するような意図ではなく、かえって不確かな信仰を抱いているものに指針を与えようとするものであった。だから、アッセンブリーズ・オブ・ゴッドの交わりの中には、誤った理解や信仰を持つもの、あるいはかなり極端な主張をするものもでさえ、留まっていることが出来たのである。



 またそのようなアッセンブリーズ・オブ・ゴッドは、一般的に、自分たちの交わりの外にいるものにも、極めて寛容であった。つまり、多くの福音派や根本信仰を持つ教会が見せた、拒絶と排斥の態度ではなく、交わりの態度を示してきたのである。またさまざまな間違いや、道徳的失敗を犯した人々とも、直ちに交わりを切る様なことをせずに、回復の時を待ってきた。非常に原理主義的、根本主義的信仰を持っていながら、WCCの人々と会話をしたり、エキュメニカル運動に加わる人を認めたりしてきた。そのような性格によって想定される、あらゆる危険を意識しながらも、聖書の教えに立つという単純で素直な信仰を基礎として、信仰の純粋性を保持してきたのである。これは私たちの偉大な遺産である。



 しかしいま、そのような性格を持っている私たちであるがゆえに、さらに一段と、注意深くなければならない状況が生まれている。それは、この後の雨運動が、気づかれないまま、私たちの中に深く入り込んでいる可能性があるからである。私たちはその事実を知らないでいてはならない。多くの間違った信仰を持っているものを許容するのと、間違いそのものに気づかないまま許容し、自分たちが受け入れて行くのとは異なっている。私たちは、人間を拒絶し排除することには、慎重の上にも慎重でなければならない。毒麦と共に、本物の麦も抜いてしまってはならないからである。しかし、誤りそのものは、厳密に調べだし、排除していかねばならない。



 そういうわけで、ここで改めて後の雨の教えの間違いを、簡単に述べておこう。それはすでに1949年の時点で、アッセンブリーズ・オブ・ゴッドが正式に発表したものと基本的に同じだが、少しばかり説明が必要である。ただし、ここで著者が聖書の忠実な解釈によって、後の雨の間違いを正したとしても、後の雨の推進者たちには、まったく何の影響も与えないだろう。彼らは、自分たちこそ聖書的だと言い、事実、聖書の引用を数多くおこなう。しかし彼らは、自分たちの特異な主張に関する限り、聖書を自由に、霊的に解釈して行うのであって、聖書の厳密な解釈、あるいは正統な解釈などというものには、興味を示さないのである。したがって、著者は後の雨の提唱者たちのためにこの文章を書いているのではない。私たちの同労者のために、警鐘として書いているのである。



@ エペソ書4章11節に記された5つの職を、現代の教会の中に回復しなければならないという主張には、まったく聖書的根拠がない。このことについては、著者はすでにさまざまなところで述べてきた。当時の教会にはそのような働き(職ではない)があったのは事実であろうが、当時のすべての教会に統一されてあったのではない。Iコリント12章28節の働きのリストが、これと異なっていることからも、明らかである。また当時のすべての教会が、このような働きを持たなければならないと、教えられているのでもない。ましてや、時代と場所を越えて、すべての教会がそのような働きを持たなければならないとも、教えられていない。さらにそのような働きを持つならば、教会は成長するとも、持たなければ成長しないとも教えられていない。


 また、当時の教会が、これらの働きを「職」と考えていた形跡はない。「職」というものはもっと後期になって、教会が組織化され、固定化された中で形成されたものである。


 5職の回復の教えは、なんら聖書的根拠を持つものではなく、ペンテコステ信仰の中に流れていた曖昧な聖書理解の伝統による、ひとりの人物の預言によって主張されたものに過ぎない。その預言自体も、予め、キャンプ集会の主催者たちによって、企画されていたものと考えた方がよい。預言という曖昧な権威に立って、使徒職と預言者職の二つの職の権威を高め、それによって、預言自体の権威を高めるという手法である。これは、右足が下に落ちる前に左足を上げ、その左足が下に落ちる前に右足を上げるという動作を繰り返すと、はしごがなくても屋根に上ることができると言うのと、同じである。


 さらに教会は、この回復された使徒と預言者という土台の上に築かれなければならないというのも、まったく聖書の乱用、悪用である。パウロは使徒と預言者という土台の上に建てられなければならないと、これから建てられる教会、あるいは地域教会の、建設の原則を語っているのではなく、すでに存在している普遍的教会が、使徒や預言者が伝えた、キリストを土台として建てられていると語っているのである。(エペソ2:20)パウロは、2000年近くも後の世界の教会が、回復された使徒と預言者の教えと、その権威の上に立てられるべきであるなどと言ったのでは、絶対にない。そのようなことは、まったく想定されていない。


 その上、パウロがここで言う預言者とは、直接神の霊感を受けて語りだす預言者のことを言っているのではなく、そのような預言者をも含めた、より広い意味で、神の言葉を預かってそれを語るもののこと、すなわち、神の言葉をよく学び、神の言葉の知識を蓄え、それを聖霊の感動によって語る人々のことを言っているのである。聖書に書かれている神の言葉と関わりなく、その神の言葉に反するようなことまで含めて、新しい真理を語りだす、預言者の存在を認めているのではない。
 
  
 このように聖書的根拠がまったく乏しい、預言者と言われる人々の語った言葉が、聖書と同等の権威を持つものとして受け取られるに至っては、プロテスタントの原則的な神学に反するものであり、決して受け入れられも、見逃しにされもしない。私たちは聖書以外の権威を持たないのである。ところが、そのようにして語られた現代の預言が記録され、集められ、編纂され、出版されて、一部の人々には用いられているという話も聞く。それはすでに、カルト化現象である。たとえ正真正銘の現代の預言者なるものが存在し、正真正銘の啓示を受けて、正真正銘の預言をし、それが誤りなく記録されたとしても、それは、霊感を受けた神の言葉である聖書と同じ権威を持つものではない。聖書が権威ある書物であるのは、単に啓示の書物だからではなく、霊感を受けた書物だからである。(拙著「現代預言運動に関する考察VI」参照)

 使徒という役職は継続されなかったということに関しては、以前に述べたので、ここでは取り扱わない、


    
A 教会一致運動というのには賛否両論がある。一致すべきかすべきでないかということ自体に、異論があるのだから、どだい、無理な理想、空論である。すべての教会が、せめてアッセンブリーズ・オブ・ゴッドのように寛容な立場を取れば、少なくても、キリストを救い主と信じるという大きな点においては、一致できるかもしれない。教会一致などという夢想を抱くのは、千年期後再臨説を採って、教会の働きによってこの世界が改革され、平和と繁栄がもたらせられたならば、キリストは王として再臨してくださるという、楽観的な考えを持てた時代の、時代錯誤を背景にした神学があるからである。



 キリスト教が圧倒的な力を持っていた環境の中で、他の世界、すなわちアジア、アフリカ、ラテンアメリカなどのことをほとんど理解していなかった時代の教会人が、自らの力を過信して、明確なキリストのお言葉に反して構築した、千年期後再臨説を、いまさら持ち出すことはよろしくない。もちろん、千年期後再臨説は今でも有力な学説であり、それなりに整った議論もされている。しかしそれは、伝統的諸教会の人々、つまり自分たちの教会の力と権力を信じることが出来た世界で、科学万能主義、人本主義も盛んであり、地球の将来に望みを持てた時代に構築された、楽観的神学をいまだに抱え込んでいる人々の、淡い望みの学説としか言いようが無い。



 キリストが、終わりときに関しておっしゃったお言葉に、耳を傾けるがいい。「そのとき、人々はあなたがたを苦しいめに会わせ、殺します。また、わたしの名のために、あなた方はすべての国の人々に憎まれます。また、そのときは、人々がおおぜいつまずき、たがいに裏切り、憎み合います。また、偽預言者が起こって、多くの人々を惑わします。不法がはびこるので、多くの人たちの愛は冷たくなります」と、まさに悲観的に語っておられる。狭い門から入るわずかなものだけが、最後まで耐え忍んで救われるのである。



 このような、キリストの明白な教えに反した千年期後再臨説が、教会成長の教えと結びついた。教会が強く大きくなり、世俗の力も獲得し、世界を支配するようになることが、キリストが再臨する道を備えるための、絶対必要条件であるという、千年期後再臨説の主張は、クリスチャンの数を増し、教会の力を強くすることが何より大切だと考え、人数の増大を前面に打ち出す教会成長論の方法論と、簡単に癒着するのである。強烈な千年期前再臨説を取る南バプテスト教会出身の人たちは、このあたりで躓くことになるはずだが、どうなのだろう。



 ともあれ、後の雨の教えは、単純な間違いではなく、大きな間違いを集積して構築した、体系である。非常に聖書的、福音的な外観を持ち、福音的な言葉使いをするために、多くの福音的な人々が、よく理解しないまま彼らと共に活動している。しかし実態は、まったく異なったものである。



 先に挙げたアッセンブリーズ・オブ・ゴッドの正式な拒絶のリストには挙げられていないが、彼らの終末観のひとつには、キリストの霊的な再臨というものがあり、それによると、キリストは見える形で再臨するのではなく、いま、選ばれた現代の使徒や預言者という人々の中に、霊的な再臨をしているということである。そしてそのような霊的再臨の使徒や預言者は、按手による権威の分配によって益々数を増やす。そういう再臨のキリストを土台とした、新しい教会の秩序が築かれ(古い秩序は壊され)、この世界に神の国が築かれるという。これはどうやら、(Kingdom now=王国は今、支配は今)と呼ばれる、彼らの神学らしい。このような教えは、もはやカルトである。

 

 注意したいことは、後の雨の主張する教会一致運動が、既存の教会がそれぞれ歩み寄って作り出すエキュメニカルではないという点である。むしろ、そのような既存の教会秩序は崩壊させられ、キリストの霊的再臨である現代の使徒や預言者という、別の土台の上に築かれた教会による、新しい秩序によってもたらされる一致なのである。だから彼らは、既存の教会のさまざまな組織形態を、改革していかなければならない、新しい皮袋が必要だと主張し続けているのである。既存の牧師だとか執事だとかいう役職を取り除き、自分たちが按手によって作り出す、使徒や預言者たちの「再臨のキリストとしての権威」を主張するのに熱心であり、既存の教会の枠を超えた伝道法、たとえばセル・グループなどにも力を入れて、人々をひきつけている。


 
B 個人預言の誤りについてもすでに他の場で述べてきたので、簡単に触れるだけにとどめておこう。まず、一人ひとりの信徒たちが、個人預言に従って行動するようにというのは、聖書の教えではないという点を、再確認しておきたい。新約聖書には、確かに個人預言の例がいくつか記されている。そして、個人預言は消滅したということを、聖書を持って証明することは出来ない。だから、現在でも個人預言はあり得る。しかし、すべての信徒が個人預言を期待して生きるようにという教えも指導も、聖書の中にはない。個人預言に従って生きるようにという教えもない。個人預言によって生きたという神の人の例も、新約聖書にはない。だから、個人預言に従わないことは聖書の教えに反することではなく、神に反逆することでもない。しかし、聖書の教えを学ばず、それをないがしろにし、結果として従わないことは、神に反逆することである。



 新約聖書が完結していなかった、使徒時代、クリスチャンの生き方に対する明確な指導、指針としての新約聖書がなかった時代には、個人預言を含め、預言に対する期待と依存度は、現代に比べはるかに高かった。しかしそのような時代でさえ、一般のクリスチャンが、個人預言を期待しそれによって生きるという信仰形態はなかったし、それが勧められたという形跡もない。これは重要な点である。



 たしかに、使徒時代の教会では、預言が行われていた。しかしそのような預言は記録され、編纂され、広く一般に読まれるようにされたという記述がない。たとえ、仮にそのようなことがされたとしても、それが新約聖書の中に含まれなかったということが重要である。当時、新約聖書のもととなった多くの資料が残されていたが、大部分の預言の言葉は資料として残されず、新約聖書の中に含まれることもなかった。ただキリストに関するわずかな預言が採り入れられただけである。



 ましてや、いまや私たちは完結した新旧約聖書を持ち、神が人間一般に必要であると判断された事柄はすべて、この聖書に記されているのであるから、預言の必要性は非常に小さくなっている。そういうこの時代に、預言が強調されるのは間違っている。その上、現代の預言が記録され、編纂され、出版され、神的権威を持つものとして流布されるなどということは、非常に大きな誤りであり、カルト化しているといわざるをいえない。大切なのは、聖書を書かせてくださった聖霊に、導きを祈りながら聖書を読むことである。 



C 按手による賜物の分与という考え方も、まったく非聖書的というわけではない。確かに、パウロがテモテに語った言葉などから、推測することが出来る。しかし、一度や二度の事例を取り上げてあれこれと推測し、そこから教理や信仰の原則、あるいは教会管理や伝道の原則を作り上げてはならないのである。テモテにそのようなことが実際にあったと仮定し、エリシャがエリヤの力を引き継いだという事例も認めたとしても、それを一般化することは出来ないし、原則化することはなおさら不可能である。



 ましてや、使徒たちの按手によって、さまざまな賜物が分与されるという教えは、聖書のどこにもない。後の雨の人々が教えるような、現代の使徒職や預言者職という権威ある職が、按手によって分け与えられ、引き継がれて行くという考えは、少なくても聖書の教えではない。たとえそのようなことが実際起こったとしても、それは聖書の原則でも教えでもなく、あくまでも聖書外の体験である。その聖書外体験を強調することは誤りである。その誤りに立った教会形成を主張するのも誤りである。そのような教会形成によって、たとえ教会が100倍の力を得、1000倍の人数が集まるようになったとしても、誤りであることに変わりはない。
 


 要するに後の雨の人々は、聖書の字義通りの解釈を捨て、あるいは、本来聖書が言おうとしていることを出来るだけ正確に読み取り、それを現在の状況に適応していく努力を怠り、極めて自由に、自分たちに都合よく、あるときには霊的に、あるときは寓意的に、あるときはタイポロジー的に、そしてあるときは突然字義通りに、文章の前後関係も背景も無視していくところから、自分たちの神学を積み上げてきた。彼らは聖書を用いる。そして、多くの場合、(すべてではない)基本的理解においては、福音的な立場にいる。だから、彼らの聖書外体験主義を見破ることは困難であるし、彼ら自身が、多くの場合、聖書外であることに気づいていないのだから、判断はいよいよ難しい。そして何となくおかしいなと思いながら、それが何であるか分からない私たちも、聖書外体験を後生大事に抱え込んだ信仰を持っているために、見るべきところも見えないでいるのである。

                                   つづく

























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2010年11月07日

だいぶ怪しげなペンテコステ信仰 (1)


  だいぶ怪しげなペンテコステ信仰
(間違いだらけの信仰から、正しい信仰へ)



 著者は、先日「ちょっと怪しげなペンテコステ信仰」という小文を著し、教区で共に働く方々のお役に立てばと願って、失礼を省みず配布した。しかし、その文を閉じる段階にいたって、さらに論点を明確にしなければという思いが募ってきた。論じているうちに、問題の深刻さと緊急性がさらに明らかになってきたからである。そこで、先の結論を掘り下げ補強するために、もう少し書き進めたいと考えた。



T ペンテコステ信仰の怪しげなスタート



 どのような国家でも、あるいは都市や村落でも、自分たちの歴史は美化して語る。宗教では、さらにそれが著しい。私たちペンテコステ信仰を持つものもまた、自分たちの「美しい」信仰のルーツを教えられて育った。しかし多くの場合、物事は美しい側と醜い側とで成り立っている。ペンテコステ信仰も例外ではない。


 
 TA ペンテコステ信仰の発生源



 ペンテコステ信仰は、聖霊と聖霊の働きを強調する、ホーリネス運動の一端として発生した。ホーリネスの人々は、聖霊による聖めの体験を、第二の恵みとして独自の神学を発展させた。つまり、きよめを単に段階的なものに終わらせず、聖霊による「瞬間的なまったき聖め」と言うものがあることを主張し、それを体験することがクリスチャン信仰に欠かせないと強調したのである。彼らの中のあるものたちは、その瞬間的聖めの体験を「聖霊のバプテスマ」と呼んだ。



 いまも活動しておられる聖霊が、聖めを達成させて下さるというのは、正しい聖書理解に立った信仰である。聖めは確かに聖霊のお働きである。また、聖霊のバプテスマと聖めには、なんらかの関係があるということも、新約聖書全般の教えから推測できるであろう。しかしその聖めの体験が、聖書が記録するペンテコステの体験であると主張することは、論理的に無理である。彼らの、聖めを求める真摯な信仰を軽んじるのでも、彼らが聖霊のバプテスマと呼んだその霊的体験が、多くの場合、正真の聖霊体験であったことを否定するものでもない。しかし瞬間的まったき聖めという体験は、あくまでも、本人が聖められたと感じるだけの、なんら客観性を伴わない、まったく主観的な体験である。



 一方、聖霊のバプテスマは客観性を伴う出来事であった。ペンテコステの日の聖霊のバプテスマにも、他の3つの聖霊のバプテスマの記述にも、それが聖霊のバプテスマであると、周囲のものが判断することが出来る、客観的なできごとが付随した。聖書に残された合計4つの実例のうち、ペンテコステの日の聖霊のバプテスマ、コルネリオの家での聖霊のバプテスマ、さらにエペソの弟子への聖霊のバプテスマには、明らかに異言が伴い、もうひとつのサマリヤの場合も、異言が伴ったと推定するのがもっとも自然な現象が伴った。さらにコルネリオの家の例では、異言が聖霊のバプテスマが与えられた証拠として機能しただけではなく、それは、間違いなく救いの事実を示すものと判断された。そしてこの判断は、ペテロとその同行者だけにではなく、エルサレムの使徒たちや長老たちを含めて、弟子たちすべての見解であった。



 使徒の働きの4つの例のうち、サマリヤの場合では、ペテロとヨハネの二人が、聖霊のバプテスマは、救われたものすべてが受けるべきものと考えていた事実が、明白である。エペソの弟子たちの場合では、パウロが同じように考えていたのが明白である。そして、その実例を記録したルカのみか、それを読んだであろう当時の人々が、それを当然と考えていたと判断できる。



 聖霊のバプテスマは、バプテスマのヨハネが予言しただけではなく、主イエスが「求めるものには必ず与えられる」と約束してくださったものであり、(ルカ11:13)また父からの約束でもあった。(使徒1:4)弟子たちはみな、それらのことをよく理解していたに違いない。そしてペテロは、この約束が時代と場所を越えて、すべてのクリスチャンに与えられていると語っている。(使徒2:38:39)



 ところが、瞬間的まったき聖めの体験は、初代教会の歴史に記録されていない。当時多くの人に、広く一般的に体験されていたという記録どころか、ただひとりの体験としても記録されていない。つまり、聖書の中に模範とすべき前例が、まったくないのである。新約聖書のほかの書物も、それについては一言も語っていない。すべてのクリスチャンに勧められるべき一般的体験としても、個人の特異な霊的体験としても、教えても触れてもいない。



 著者はホーリネス系の集会に出たことも、著書を読んだことも僅かしかないが、イザヤの聖めの体験が引用されていた記憶がある。確かに、イザヤの体験はまったき聖めの体験に類似している。しかし、それを瞬間的な、まったき聖めとみなすには無理がある。その上、イザヤの体験はあくまでもイザヤの体験であって、他の人間にも広く適応され、みんなが同じ体験をするようにとは、教えられても勧められてもいない。



 またホーリネスの人々の中には、バプテスマのヨハネの預言を引用して、瞬間的聖めの体験が聖霊のバプテスマであると主張する人たちもいる。ヨハネが「聖霊と火のバプテスマ」と語ったのを、「聖霊のバプテスマすなわち火のバプテスマ」と理解し、火は焼き聖めるものであるという連想から、聖霊のバプテスマは聖めのバプテスマであるという考え方を発展させた。この考え方は、私たちペンテコステの信仰を持つ人々の中でさえ、現在でもかなり一般的である。



 だが、ヨハネが預言した聖霊のバプテスマは、同時にまた、火のバプテスマなのではない。この言葉が含まれている文脈、すなわちヨハネの言葉の前後関係を見ると明白であるが、火のバプテスマとは裁きのことであって、聖霊のバプテスマとは別のバプテスマである。聖書の中に、自分たちに都合のいい言葉や言い回しを見つけ出して、それを前後関係から切り離して用いる方法は、いろいろなクリスチャンたちによって頻繁に行われてきたが、明らかに誤った聖書の用い方である。

 

 そういうわけで、瞬間的なまったき聖めという主観的体験を、たとえそれが正真正銘の聖霊体験であったとしても、教理として公に告白してそれを教え、それを求め、体験するように指導するのは、明らかに誤りである。聖書の土台、礎に上に立っていないのである。



 このホーリネス信仰が、ペンテコステ信仰の母体となったのである。ペンテコステ信仰は、ホーリネスの聖書外主観的体験信仰をも、受け継いだ信仰であった。だから私たちペンテコステ信仰は、単に体験主義的なところがあるだけではなく、生まれたときからすでに、主観を大切にして、聖書外体験を容易に受け入れてしまう、素地を持ってきたのである。つまりアッセンブリーズ・オブ・ゴッドの信仰は、たとえどのように真摯な信仰態度から生まれたものだとしても、聖書の正しい理解から生まれたのでも、正しい聖書解釈によって、聖書に基盤を見出すことが出来る体験から生まれたのでもない。いわば、怪しげなグレーゾーンのクリスチャン信仰体験から、発生したものである。



 TB どこにも見られる聖書外主観的体験



 しかしこのような聖書外の主観的体験主義は、なにもホーリネス信仰に限ったことではない。敬虔主義や神秘主義の中には、常にそのような要素が多かった。また、聖公会やルーテル教会のように、サクラメンタルな様式を色濃く残している教会のことは良く知らないが、福音派といわれる教会の中にも、そのような一面が強く残っている。



 たとえば、彼らは伝道者や牧師、あるいは宣教師となるためには「召し」が必要であると言い続けている。その召しなるものの体験は、イザヤやエレミヤ、あるいはモーセやパウロの召しを引き合いに出したり、パウロ自身が、自分は使徒として召されたと言っているように、読み取れなくもないところを用いたりして、非常に強調されているが、果たして、それがどのような体験なのか、聖書的に説明されることはない。なぜなら、聖書はそのような召しの存在を、否定こそしてはいないが、それが一般化され、誰にでも適応されるべき事柄としては教えていないからである。



 聖書が、誰にでも適応されるべきものとして語る召し、すなわち一般化されるべきものとして教える召しは、神の国への召し、永遠の命への召しであり、救いと同義語である。特別な職制への召しなどというのは、新約聖書が教えるところではない。しかし福音派のほとんどすべての教会が、このような非聖書的な主観的体験を強調し、一般化して、信徒たちを拘束している。伝道者や牧師になりたい人々、あるいは宣教師になりたいと願っているまじめな人々に、そのような聖書外の体験を強要することによって落胆させている一方、そのような体験がないのに、体験したと平気で言うことができる性格の人々を、伝道者や牧師に仕立て上げ、聖書外の主観的体験を、むやみに神聖化する傾向を作り上げているのである。私たちに必要なのは、そのような聖書外の体験主義をきっぱりと捨てて、聖書に戻ることである。



 そういうわけで、私たちペンテコステ信仰の発祥が、ホーリネス運動の聖書外主観体験の中にあったことは明白である。しかし、それをいつまでも恥じる必要はない。私たちは組合教会や長老教会が歴史の上で果たした、素晴らしい役割を知っている。メソジスト教会や救世軍の働きのために、神様を賛美する。しかし、これらの教会の発祥を尋ねるならば、妻を追い出し他の女性と結婚したいという、イギリス国王ヘンリー8世の願望から生まれた、イギリス国教会に至ることをも知っている。この国王は結局6人の妻を迎え、少なくてもそのうちの2人を殺した。始めが悪いからといって、最後まで悪いのではない。



 TC ペンテコステ信仰の体験主義
 


 そういうわけで、ペンテコステ信仰には当初から強い体験志向があり、聖書の教えを深く調べることよりも、見ること、聞くこと、体感できることに重きが置かれた。癒しや奇跡が重視されたこと自体は間違いではない。しかしそれらが行き過ぎて強調され、誇張され、拡大されて伝えられるようになり、信頼できない報告が次々と出された。異言を語るということに関しても、かなりの作り話があったらしい。アグネス・オズマンが中国語で異言を語ったとか、中国語を書いたとかいう話も、パーハムの創作と見られる。倒れるだとか恍惚状態になる、あるいは夢を見る、み声を聞く、さらに預言をするなどということも、大げさに伝えられた。そのような体験をすることが神の祝福の証拠とされ、そのような体験を伴う働きをすることが、神の権威を受けた偉大な伝道者の印であると考えられた。そのために、無理にでも、つまり人為的に、そのような体験を作り出そうとするものも多かった。



 それにもかかわらず、ペンテコステ信仰の体験主義は、単なる体験主義で終わらなかった。それは、聖書の記述と教えにしっかりとした基盤を見出したことによって、体験を伴う聖書的信仰となったのである。ペンテコステ信仰者が、最も大切な体験として主張する、異言を伴う聖霊のバプテスマという体験は、初代の教会の歴史を記した使徒の働きの中に、充分な前例を読み取ることが可能であるし、それが当時一般のクリスチャンの間に広くいきわたっていたことも、疑いのない事実として読み取ることが出来る。そればかりか、その体験はむしろ、すべてのクリスチャンが求めるべき体験であるということも、ルカが記録したキリストご自身のお言葉で、疑いのない事実と認められる。またバプテスマのヨハネの預言や、パウロが残した異言に関する教えからも、ある程度擁護することが出来るものである。(拙著「聖霊のバプテスマと異言」「聖霊のバプテスマについての考察」参照)



 ペンテコステ信仰の体験が、聖書に基盤を持つ信仰体験であるという点が、非常に大切なのである。それは、単なる主観的体験ではない。あるいは主観的信仰体験だけでもない。正真な聖霊体験であるというだけでもない。聖書に記されている聖霊体験だということだけでもない。むしろ、すべてのクリスチャンに求められるべき、聖霊体験であり、異言という客観的出来事が伴う聖霊体験であると、聖書が明らかに示していることが大切なのである。 



 ところが、私たちペンテコステ信仰を持つものは、ペンテコステ信仰の発祥から今に至るまで、聖書の明確な教えとしての聖霊のバプテスマの体験と、聖書に明確な教えを持たないさまざまな体験とを、区別することが出来ないままでやってきた。自分たちの信仰のあり方に確信を持てず、自信がないために、非難や反対意見には激しく反発したとしても、明確な聖書的基盤に立った説明ができずに、癒しや奇跡、あるいは教会の急速な成長や、自分の信仰体験を持ち出す、体験主義的答えでごまかしてきた。それが、ペンテコステ信仰のトラウマであり、非常に怪しげな体験主義信仰に陥らせてきた、大きな要因である、



 ペンテコステ信仰の極めて初期、揺籃期から現在に至るまで、実にさまざまな体験主義が、この信仰形態を不透明なものにしてきた。主観的な信仰体験が重んじられ、それが神聖視されて行く一方、聖書理解が曖昧だったために、その主観的信仰体験に基づくさまざまな教えや実践が、ほとんど無批判に採り入れられてきた。そのような体験をしたことのない外部のものの批判は、あまり、耳を傾けてもらえなかった。「聖霊体験は、神体験である。それを批判することは聖霊に対する罪である」と考えられ、悪魔呼ばわりされた。実際、ペンテコステ信仰を持つもの同士でさえ、自分の主観的体験やそれを基にした理解を絶対視するあまり、他の考えを持つものを悪魔呼ばわりするのが、かなり一般的であったし、ペンテコステ信仰を持たない福音派の人々が、ペンテコステ信仰を持つものや、その信仰、行動などを悪魔呼ばわりするのも珍しくなかった。まさしく、泥仕合である。



TD ペンテコステ信仰の真髄と道徳的脆弱さ



 そのような中でペンテコステ信仰は、現在も聖霊というお姿で私たちと共に生き、ともに働いておられるキリストを強調し続けて来た。イエス・キリストは昨日も今日もとこしえまでも変わることがないというのが、ペンテコステ信仰の旗印である。そしてその信仰の中には、異言を伴う聖霊のバプテスマの体験も、癒しや奇跡、あるいは悪霊の追い出しも含まれていた。新約聖書の中では、奇跡や癒しのみ業は、キリストの神性と神の国の到来の証として機能したが、ペンテコステ信仰の中では、キリストが聖霊を通し、いまも変わりなく働いておられることの証明となった。



 しかしその一方で、癒しや奇跡の悪霊追い出しは、そのような働きをしているものが、聖霊のバプテスマを受けて聖霊の力に溢れている証拠として用いられ、キリストの権威をいただき神の承認を受けている、証明としても用いられて来たという、大きな誤りがあった。



 ペンテコステ信仰の、奇跡的み業に対するこのような誤った理解は、たちまちある種の英雄主義、個人崇拝主義、独善主義、権威主義、誇大宣伝、誇大報告などにつながって行ったりもした。ペンテコステ運動は、極めて初期の段階から、そのような自己顕示欲に振り回された伝道者をたくさん輩出し、多くのクリスチャンたちの心を痛め、一般の人々の揶揄と嘲笑の種となった。



 それは、聖書外体験を大切にする信仰と、無関係ではないと考える。正真の聖書的体験ではない、単なる類似体験には、聖霊が関わっておられない体験も多い。また人為的に作り出された体験には、当然のことながら、本当の聖霊の臨在感が伴わない。結果として神への畏れと敬虔が薄れ、不道徳も蔓延することになった。キリストご自身のお言葉や、黙示録の言葉によっても、大きな奇跡や癒しの働きをするものは、なにも神の働き人だけではなく、偽預言者や偽キリストも、同じことをさらに大がかりにやることがわかる。選民を惑わし、諸国の民を惑わすものも現れるのである。



 さらに、ペンテコステ信仰がホーリネス信仰を継承し、聖い生活を強調したこと自体は誤りではなかったが、瞬間的聖めという聖書外体験を重んじてしまったために、本当に聖霊に信頼して、毎日の生活の中で段階的に聖めを実現して行くことに、弱さをさらけ出す側面があった。また、瞬間的聖めの強調のために、聖霊が毎日の生活の中で働いてくださることに対する信頼が薄れてしまい、自己の鍛錬や修練による清い生活が強調され、パリサイ的な律法主義に陥ることもあった。なにしろ、短期間の訓練しか受けたことのない、素人に毛が生えた程度の指導者が大部分だったのである。あまり厳しいことはいえない。



 一方、ペンテコステ信仰の道徳的脆弱さという問題は、彼らが育った文化背景によっても、もたらされたものである。ペンテコステ信仰は、極めて低い社会階層の人々によって始められ、圧倒的に、そのような階層の人々の間に広まったという事実を、見逃してはならない。単に教育程度が低かったというだけではなく、モラルにおいても、その目指すところ、告白するところこそは高かったが、実践においてはとても弱いという現実を露呈している。先に挙げた問題のほかにも、異性問題、金銭問題を中心に、人種差別、分裂分派などの醜い問題が続発した。ペンテコステ信仰は実にそのような混沌の中で成熟して来たのである。



 感謝なことに、ペンテコステ信仰は、そのような醜い混沌の中に埋没してしまわなかった。それは結局のところ、聖書が誤りの無い神の言葉であり、自分たちの信仰と生活の、唯一絶対の権威ある指針であると認め、神は今も昔と変わりなく働いておられると信じ、その延長としての異言を伴う聖霊のバプテスマを体験するという、ペンテコステの信仰の真髄があったからである。真実の聖霊体験は、神に対する畏れと愛を引き起こし、汚れから遠ざかり、神に喜ばれようという願いを引き起こすのである。
                                    つづく














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2010年11月06日

ちょっと怪しげなペンテコステ信仰 (3)



 X.4 繁栄の福音



 繁栄の福音は、バランスを欠いた聖書理解に問題がある、聖書は、物質的繁栄が神の祝福であるとも教えているし、清貧の尊さも教えている。アンバランスに、どちらか一方を強調し過ぎてはいけないのである。ただし、物質的繁栄は神の祝福であると単純に考えるのは、むしろ、旧約時代の一般的信仰理解で、いわば低レベルの信仰である。たとえ旧約聖書でも、ヨブ記をはじめとして、繁栄の福音の信仰理解を超える記述はたくさんある。また、新約聖書での信仰理解はさらに深く、清貧の尊さをいたるところで教えている。確かに物質的繁栄は神の祝福の一面であると認めても、それを追求することは、新約聖書の言う貪欲という偶像礼拝の罪である。(コロサイ3:5)ましてやその追求のために、多くの人々が苦境に陥れられることが明白な、このグローバル化した資本主義の世界では、間違いなく罪である。利潤追求の豚となっていることに気づかない、アメリカのペンテコステ信仰者の多くはこの偶像礼拝の罪の中にいる。いや、アメリカのキリスト教の多くが、いま、この偶像礼拝に捕らわれているとさえ言える。



 幸いこの繁栄の福音は、日本ではあまり繁栄しなかったが、小さな被害はないではない。ある教会の役員の言葉には笑ってしまった。いわく、「泣く子と牧師には勝てませんよ。牧師は、神様を信じたらすべての面で繁栄するというお手本を、自分から見せなければならないというんで、最高級の車を買うから献金しろって聞かないんですよ。いやァ。私たちは忠実な信徒ですから・・・。」私はその牧師の車に乗せてもらったが、「信じて泣く牧師は得をする」である。



 X.5 レーマの神学



 レーマの神学も、聖書の偏った強調から生まれている。概念としての言葉であるロゴスと、口から発せられる言葉としてのレーマの間に線を設けて、そこから独特の神学を組み立てているのであるが、もともとロゴスとレーマの間に、それほど明確な線を引くことは出来ないし、聖書のこれらの言葉の用法においても、厳密な区別をすることは出来ないのであるから、この神学には無理がある。無理がある神学、つまり、聖書の裏づけがない、あるいは乏しい神学に根ざした運動を、私たちは受け入れることが出来ない。たとえその神学を広めている人々が、どれほど有名で、どんなに大きな働きをしていても、またどのように立派であっても、この神学は怪しいのである。また、レーマの神学をやっている人の多くが、繁栄の神学や積極的思考も同時にやっているようだが、どこでどうつながっているのか不明である。ただ、偏った聖書解釈によるというところは共通している。



 X.6 預言の練習・預言者の学校



 預言の練習だとか、預言者の学校というものも、個人的な霊的体験や、心霊的体験、あるいは心理的体験を重んじて、その先例、あるいはプロトタイプを聖書の中に見つけたというものであって、聖霊のバプテスマの場合と良く似ている。ただし、聖霊のバプテスマのプロトタイプは、正統な聖書解釈から聖書の中に発見できるが、預言や預言者の学校の場合は、かなり、無理な解釈をしなければならない。そこがまったく異なっている。そしてそれらを実践するには、さらに無理じいが伴う。その上、語られた預言の言葉の権威と、聖書の権威とのかかわりを、明確に説明しなければならないという困難が伴う。預言運動で語られた預言を記録して、それを本にまとめている人々もいる。そして、その預言にしたがって行動するように勧めている。これは、聖書以外の権威を持ち込むことで、たとえどうあっても、極めて異端に近い。改革派の人々が、ウエストミンスター信仰告白の権威に拘束されている以上に、あるいは、セブンスデー・アドベンティストの方々が、イー・ジー・ホワイトの著書に権威を認めている以上に、危険である。



 聖書が完結したいま、預言の必要性は低くなっている。神が人間に必要とお認めになった啓示は、すべて聖書の中にある。いま最も必要なのは預言ではなく、この聖書の啓示を正しく理解するための、聖霊のお導き、照明である。もちろんこれで、すべての預言が不要になったのではない。個人的な、あるいは特殊な厳しい条件下における導きなど、まじめに預言を願う場合もある。そしてそのような条件の下で与えられて、極めて重要な役割を果たした預言も知っている。しかし、残念ながら、多くの預言は、どうでもいい預言である。放っておいてほしい預言である。聖書をまじめに読んでおれば、まったく無用の預言である。



 預言の練習などというアイデアがどこから出てきたのか分からない。しかし、これが預言であるかどうかと、語る本人が聞くものに吟味してくださいと願い出るような預言は、厳に謹んで語らないでほしい。神のみ名をみだりに唱えてはならないのである。あるいは、英語の旧約聖書に出てくる預言者の「School」という言葉を、学校と考えたのだろうか。これは、「school」という言葉の解釈を間違ったところから来たのだろう。Schoolには、学校という意味もあるが、群れという意味もあり、旧約聖書でいう預言者の「school」は、共同生活に近い生活をしていた、預言者たちの一団のことを言ったのであろう。預言者としての資質を整えるためにそのような群れがあったのかもしれない。しかしそれが、互いに向かい合って預言の練習をするなどということの、根拠にはなりえない。



Y. グレーゾーンに迷い込まない 



 問題は、聖書が明確に語っていないこのような事柄、いわば、グレーゾーンの事柄を、信仰の重要部分としたり、教会形成の土台としたり、宣教の主題としたりすることである。このような、聖書が明確に語っていない部分を取り上げて、自分たちの考え方や理解や経験や想像を、その中に独断的に読み込み、それをあたかも新しい啓示、あるいは新しい真理の発見でもあるかのように言いふらし、信仰や、教会形成、あるいは宣教のかなり重要な部分として取り入れ、さらに宣伝し続けていることである。聖書には、明確に語られていない「グレーゾーン」の事柄がたくさんある。ペンテコステ信仰が怪しげになるのは、この部分の誤った用い方による。



 グレーゾーンにはかなり白に近いグレーもあるし、黒に近いグレーもある。そのようなグレーに自由な解釈をほどこして用いていくことに慣らされると、まったくの黒も、黒と気づかないままに、自分の信仰の中に取り入れてしまう危険性がある。たとえば、「さまよっている死人の霊が悪霊である」などという考え方は、たぶん、韓国系の人たちが持ち込んだものと思うが、まったくの黒であり、聖書を信じるクリスチャン信仰には、馴染まないものである。しかし、グレーゾーンの事柄になれてしまうと、こんなことまで、取り入れてしまう危険性がある。聖書の中にも霊媒があり、口寄せがあり、死者との話し合いがあり、弟子たちまで幽霊の存在を信じていたし、イエス様もその存在を否定していない。そんなことを、自分の仏教的あるいは土着宗教的文化背景をもって、自由に拡大解釈していくと、どこまでも際限なく、混合宗教化していくのである。(それにしても、悪霊を追い出し興奮していた弟子たちが、幽霊を怖がったのは面白い。)まだ神学的に幼稚な弟子たちの、俗信の中の幽霊というものが、現在の日本の幽霊の概念と同じだという保証はない。またこれらをもって、幽霊の実在を聖書的に証明することもできない。ここから幽霊は怖いという神学も、構築することは出来ない。



 それに近いくらい限りなく黒っぽいのが、死者のための洗礼である。これを自分たちの教理と儀式に加えている、ペンテコステ系の教会もあると聞く。死者のための洗礼については、確かに一度だけであるが、聖書に書かれている。それを記したパウロはそれが良いとも悪いとも言っていない。彼の議論の筋道から外れるからである。しかし、聖書全体の教えからすると、これが正しい習慣とはいえないのは明らかである。聖書に一度しか言及されていない事柄、しかもたまたま例として取り上げた事柄を、重要な教理や教えとしてはならないのが、常識である。イエス様がノアの洪水で死んだものたちの霊のところに行かれて、み言葉を宣べられたというペテロの記述から、(Tペテロ3:19−20)死者の救いの可能性を説くのも、根拠が弱すぎる。ペテロはそこで救いの可能性を示唆していないし、このような記述は聖書の中で一回きりなのである。それに比べ、死後の救いを否定する明確な聖書の記述が、いくつもあるからである。



 ペンテコステ教会がそのような誤りに陥るのは、今に始まったことではない。たとえば先にも記した、宣教の賜物としての異言という理解も、使徒の働きの中に、一度だけしか記録されていない出来事を取り上げ、ずいぶん無理な読み方をしてそこから導き出したものである。また、現在でも私たちの仲間が聖書的と信じている「預言としての異言」も、はなはだ怪しい聖書解釈に立つ。異言を解くという事柄についての言及は、一度だけではないとしても、それが預言としての異言であるという説明は一度もないし、そのように解釈するには、資料が少なすぎるだけではなく、そうではないと解釈すべきかなり明確な言及がある。パウロはその一連の教えの中で、はっきりと、「異言は神に対して語るのである」と言っているのだから、(Tコリ14:1)神から人間への語りかけである預言ではありえない。



 しかし、私たちの間では、「異言という形で与えられる預言」という理解が一般化されているために、いまそれを変えるのは容易ではない。そして今でも、そのような「預言」が、集会の中で実行されているのである。そういう曖昧な聖書解釈を背景に持つ、私たちの信仰と実践が、さまざまな曖昧さを許す環境を作り出しているのである。



 ペンテコステ神学の中心である、聖霊のバプテスマが、普遍的なものであり、すべての信徒に祈り求められるべきものであるという理解は、まじめな聖書解釈から、充分に立証できるものである。その点で、私たちは福音派の非ペンテコステ的神学者の言うことを恐れる必要は、まったくない。しばらく前までは、福音派の人々に、聖書の解釈などという難しい学問を持ち出されると、無学なただの人間にすぎない私たちは、それだけで恐れ入って返す言葉もなかったものだが、今はそうではない。それが良いことか悪いことかの判断は神にお任せするが、私たちの間にも、神学を学問的に論じることが出来るものが現れてきた。



 聖霊のバプテスマが、宣教の力に関わるものであることは、聖書によって明確である。また、異言が聖霊のバプテスマの印となりうるものであることも、聖書によって疑いのない事実であると証明されている。そればかりか筆者は、むしろ、異言は聖霊のバプテスマの印として与えられるのではなく、聖霊のバプテスマの必須要因であるために、印としても機能していると、聖書によって判断している。そして、その異言はすべてのクリスチャンが語るべきものである。まじめな聖書の学びからは、異言の伴わない聖霊のバプテスマなどはありえない。そのような聖霊のバプテスマの可能性を認めることは、グレーゾーンを許す曖昧さと同じである。



 実際には、パウロの時代にも異言を語らないクリスチャンがたくさんいた。しかしパウロは、彼ら全員が異言を語ることを望むとはっきり言っているように、異言はすべてのクリスチャンに与えられる賜物である。しかしその賜物をまだ受けていないもの、受け損ねているものもいた。救いがすべての人間を対象に提供された賜物であるにもかかわらず、まだまだ救いを受けていない者がたくさんいるのと同じである。



 私たちは、ペンテコステ神学の基盤が、崩れそうな砂の上に立つ、脆弱なものであるかのような錯覚を捨てるべきである。そのような錯覚は、本当に脆弱な基盤に立つ、怪しげな信仰とその実践を許してしまうからである。ペンテコステ信仰は、曖昧な聖書解釈に立つ信仰ではないと、しっかり自覚しよう。そして、自分たちの信仰と実践から、曖昧な聖書解釈に立つものを排除する気迫を持たなければならない。



Z.結び



 聖書には、私たちが知りたいすべてのことが書かれているのではない。神が私たちに必要であると認めた、すべてのことが記されているのである。だから、ただ知りたいからということだけで、無理な解釈を聖書の中に持ち込んではならない。聖書が曖昧に残している部分は、曖昧でいい。それが私たちにとって大切な問題ではないと、神が判断されたゆえに、曖昧にされたままなのである。



 イエス様も、パウロも、ペテロも、そのほかどのような使徒も信徒も、伝道や教会の発展のために地域霊の追い出しをしたという記録は、聖書には残されていない。先祖や家系に憑く霊の力を断ち切る話も、聖書にはない。倒れることが祝福の印だという話も、倒す伝道者が神の力を持っているという教えもない。笑うものが祝福されているという教えもないし、笑ってはならないという禁止もない。教会は使徒職を保ち続けなければならないという教えも命令もない。神様の祝福を受ければ、必ず物質的繁栄を楽しめるという教えも、聖書にはない。レーマの言葉を用いれば、願い通りに行くという教えも、聖書にはない。そのような、「ない」ところから信仰の重要要素を引き出し、それを宣教と牧会の重要実践課題とするは、私たちのやるべきことではない。私たちはグレーゾーンの信仰を止めて、明確な聖書の教えに立つ信仰に、固執すべきである。



 ペンテコステ運動が、これからも正しく発展し続けていくことは、私たちの切望である。そしてそれは、単に外的な体験だけに頼る信仰ではなく、聖書に立脚した正統な信仰であり続けてほしい。しかし、もしも私たちがグレーゾーンに迷い込み、ペンテコステ運動の怪しげな信仰を許し続けるならば、それは限りなく混合宗教化し、アニミズムの混迷の中に溶け込んでしまうであろう。宗教と宗教が出会うところに、ある程度の混合化は避けられない。ペンテコステ信仰はいま、宣教の最先端を担うものとして常に土着の宗教との接触をし続けなければならない。その中で、戦うべき部分と、融和していく部分の選択は容易ではない。私たちは坊主憎けりゃ袈裟までもという態度は、改めなければならない。しかし、聖書が明確に語っていない事柄を自由に解釈し、自分たちの考えや経験をそこに読み込んでいくと、必ず混合宗教の泥沼にはまってしまうのである。



 しかしまた、私たちは注意しなければならない。グレーゾーンに迷い込んでいる人々を直ちに排斥してはならず、排除してもいけない。私たちアッセンブリーの交わりのすばらしいところは、寛容性である。私たちの交わりは、巨大な渦巻きのように強力な求心力を持ってきた。多くの周辺的な、怪しげな信仰と実践を内に抱えながら、彼らを外に追い出すのではなく、内へ内へと引き寄せ、中の聖書的真理に向けて流れるようにしてきたのである。中にはあまりにも周辺に行き過ぎて、求心力を離れ、遠心力に乗って飛び出していった者たちもいる。しかし私たちの交わりは、みな、多かれ少なかれ誤りを持ちながら、全体として中心へと流れる、すなわち聖書の教える大きな真理にとどまる運動として、ここまで発展してきたのである。一面においてはグレーゾーンにいながらも、他の面においてはまさにペンテコステ信仰の中心で、求心力となっている人々もいることを、心にとめなければならない。



 現在、ペンテコステ信仰の正当性は多くの伝統的教会によっても、積極的に認められるようになってきた。しかしペンテコステ信仰のグレーゾーンの部分に着目し、これに焦点を合わせ、厳しく追及してくる人々も後を絶たない。彼らの追及のかなりの部分が真実である。そのために、渦潮の中心が見落とされ、ペンテコステ運動全体の信用性、信頼性に、疑問符がつけられている。ひとりの立派な人間の、すべてが立派なのではなく、醜い部分もある。一人のペンテコステ信仰の持ち主の信仰理解や生活には、賞賛すべき点も非難されるべき点もある。そのような人間が集まって運動となっている。もともとペンテコステ運動は、神が無学の素人たちを用いて起こされた運動である。だから、その始まりから、多くの間違いを内包してきた。それを隠す必要も、擁護する必要もない。しかし無学な素人集団として、正直に、聖書と向き合う人々の運動でもあった。



 ペンテコステ信仰は、大局的に見るならば、まさに、単純に聖書の教えに留まろうという信仰である。それが、多くの間違いの中で、ペンテコステ運動が正真の聖書信仰の運動として保たれてきた理由である。そこが大切なのである、ペンテコステ信仰は、聖書の権威が失われた時代、その権威を信じた信仰であり、神の臨在が忘れられた時代に、聖霊のバプテスマという体験を通して、神の臨在を強烈に感じた信仰である。教会に与えられた神の権威と力がないがしろにされ、教会に命じられた宣教の責務が、置き去りにされようとしていた時代に、聖霊のバプテスマという体験をとおして、神の権威と力を再確認し、それを持って世界宣教に打って出た信仰である。このような信仰の高揚こそが、大きな求心力として働き続けた渦潮である。私たちには、信仰のグレーゾーンに迷い込んでいる余裕はない。かえってこの求心力の渦潮をしっかりと保ち、グレーゾーンにいる方たちが、聖書の信仰の中心に向けて流れていくように、仕向けなければならない。この21世紀も、ペンテコステ運動が健全な運動として継続していくためには、これは絶対に必要な条件である。

                                おわり









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2010年11月05日

ちょっと怪しげなペンテコステ信仰 (2)


W 限界を超えた体験主義の例 



 ではその体験主義的聖書理解が限界を超え、怪しげなペンテコステ信仰に陥っている問題とは、具体的にどのようなことを指しているのか。筆者が個人的に見聞きした、いくつかのことを取りあげてみよう。



 筆者は、地方の開拓伝道をしてしばらくたつが、さまざまな理由で、なかなか教会として立ち行くところまで到達できないでいる。そこで、ひとりの同労者に、特別講師としてきていただこうと思いついて、お願いをした。快いお返事をいただいたので、なおも教会の現状について説明をしたところ、彼はすぐさま、「それは、その地域の霊と戦って勝利をしなければ。それから、そのような困難を抱えている信徒の先祖の中に、人殺しとか犯罪者はいないですか。そのような例が多いんですよ。そのつながりを断ち切らなければ」というようなことを、おっしゃったのである。



 私はこの同労者の高潔な人格と、やはりかなりの「地方」で開拓をし、見事に教会を建て上げておられる姿に、ひそかに尊敬をしている。また彼は、以前から「霊的な」感覚の鋭い方で、良く祈り、癒しや奇跡、さらに霊の戦いと言われる方面に、強い関心を抱いておられることは知っていたが、さすがに、このときの言葉にはひるんでしまった。

 

 他の機会に、やはり同労者の一人から、ある著名な学者が書いていることだと、教えてもらったことがある。いわく、「教会の成長には、使徒職の回復が必須である。大切なのは、牧師職ではなく使徒職である。」なんでもいま、使徒職の回復というのが「世界的に」広まっていて、これをやると教会が成長するのだそうだ。この学者は以前にも、均一性が教会の成長の重要要因だと言ったり、地域を支配している霊を追い出すことが、その土地の宣教に重要であるなどと、主張したりしていたが、今度は使徒職の回復を言い出した。彼は、いわゆる福音派に属し、ペンテコステ信仰を持つ人物ではないらしいが、以前からペンテコステ信仰の興隆に強い興味を意示し、親ペンテコステの学者として有名である。事実、ペンテコステ系の人々、特に第三の波の人々の間では、絶大な人気があるらしい。



 筆者がフィリピンにいたころ開いていた聖書研究会で、この国一番のエリート士官学校の教頭が救われ、全士官候補生を体育館に集めて集会をしたことがあった。あまり内容のない説教の後、特別講師の説教者が祈ると、聴衆の士官候補生700人全員が一人残らず、コンクリートの床に倒れ伏した。説教者はそれが神様の力の現われであり、説教者が神の祝福の器である証拠であると主張し、全員が倒れたその集会を、神の祝福に満ちた集会であったと報告していた。しかし、この集会でイエスをキリストと信じると告白したものは、私たちの聖書研究のメンバー以外にはいなかった。私は二度と彼を招かないように指導した。



 やはり筆者がまだ宣教師として、フィリピンの山岳奥地の部族伝道をしていた頃、少しばかり成功したアメリカの伝道者がやってきたことがあった。彼は、電気や水道はおろか商店もなく、馬も通れない山道を、何時間も歩かなければ到達できない、極貧の集落に住む人々を見て、「彼らは神様の祝福からこぼれてしまった」と言った。繁栄の福音を語っていたこの伝道者から見れば、このような貧しさの中にいるものは、確かに、神の祝福の外にいるのであろう。アメリカをはじめとする裕福な国の人々が、繁栄の福音を言い訳に欲望を丸出しにして生きるために、貧しい国々の人々がいよいよ略奪され搾取されていることに、この伝道者は気づいていない。



 しばらく私たちの教会に出席していた、隣町の単立教会の娘が、アメリカの聖書学校に留学するという。その聖書学校は、レーマの神学を宣伝し続けている、著名な伝道者が立てたものである。彼女は、その伝道者の働きに現れる癒しや奇跡の業に、痛く感動していた。私は「レーマの神学は、脆弱な聖書解釈に立つので、止めたほうが良いよ」と示唆したのだが、彼女は、「現れたみ業が信仰の正しさを証明しているのではないでしょうか」と言って、そこに行ってしまった。彼女は数年後に帰国したが、アメリカ留学の無駄を、今も回復できないままでいる。



 開拓伝道状態を抜けきらないで、苦戦をしていた私たちは、公共の建物を借りて礼拝会をしているが、隣の部屋で、やはりペンテコステ系の教会が集会をしていた。ところが、この教会にしばらく通っていた信徒一家が、私たちの教会に移ってきた。もともと他の団体の信徒だったのだが、仕事のために移転してきたのだということだったので、私たちの教会にくることを許したものである、彼らが「他の面ではとてもすばらしい教会」だというその教会を去ったのは、礼拝会の後、必ず預言の練習なるものをやることに、強い疑問を感じたからだそうである。聞くところによると、ふたりずつ向かい合って、互いに相手のことについて、頭に浮かんでくることを言い合うのだそうだ。そうしているうちに、預言になるらしい。しかし、語られた言葉が本当に預言であるかどうかは、聞いたものが吟味しなければならないという。それのどこが練習になるのか、彼らにも、私にも分からなかった。後で聞くと、預言者の学校なるものも存在するそうである。



 ところで、このところ、どういうわけか、いろいろなところから、信仰相談の電話を受けるようになった。私はその人たちの名前も教会も場所も、牧師か信徒かも尋ねないことで、相談に応じることにしている。向こうが勝手に名乗っても、忘れることにしている。私には忘れる賜物がある。



 「アッセンブリー教会で救われたのですが、聖霊のバプテスマを受けなさいと指導され、手を挙げさせられたり、大声で祈らされたり、ラララと言わせられたり、ヒステリックな周囲の状況にも嫌になって、他の教会に移りました。でも、そこで『ペンテコステ信仰の間違いを正す』と、牧師に散々やっつけられたのも嫌になって、またアッセンブリー教会に戻ってきています。でも、あの指導と雰囲気は何とかならないものでしょうか?」



 「単立の教会に通っていますが、うちの牧師は、このところすっかり悪霊追い出しに凝っています。教会の中で、病気の人や悪霊に憑かれていると思われる人にやるのは、まだいいんですが、地域霊だなんだと言っては、神社やお寺に出かけて行って、大声でやるのはどうなんでしょう。その上、坊主憎けりゃ袈裟までもで、お正月には門松は飾ってはならない、お盆には御墓参りに行ってはならないって言うんですよ。それでいて、大相撲は好きで、いつもテレビを見ているんですが、あれって、もとを正せば、神道の神に奉納するものだったんでしょう?それから、この前、『おかげさまで』と挨拶したら、そんな仏教用語を使ってはならないと叱られました。じゃ、『ありがとう』だって、仏教用語ですよね。」



 「うちの教会は、昔、神社の参道だった大通りに面しているんですが、牧師によると、うちの教会が成長しないのは、そこに原因があるんだそうです。だから、教会が引っ越すか、参道を支配している悪霊を追い出すか、ふたつにひとつらしいんですが、どうしたもんでしょう? 地域の霊はなかなか出て行ってくれないようですし・・・・。何でもその霊は、日本全体を支配している強い悪霊に、守られているらしいですね。それで、今の会堂を売って新しい場所に引っ越そうというんですが・・・・。最近、それに反対している私の家には、牧師は来てくれなくなりました。近所に、大きな鳥居のある神社があり、お寺もあり、地蔵尊もお堂もあって、たくさん悪霊がいるので、気味悪いらしいんです。私は、イエス様が一緒にいてくださると信じていますので、悪霊は怖くないのですが。会堂移転に、たくさん金を出させられるのは怖いですね・・・。」



 「先週うちの教会で招いた先生がおっしゃるには、悪霊とは死んでも天国にいけなかった人の霊のことで、それがさまよって悪霊になるってことらしいんですが、それって、聖書の教えなんでしょうか。そんなことって、本当にあるんでしょうか?それから、その先生が集会中預言をなさって、まァ、信徒を脅かすようなことをおっしゃるんです。そういう預言ってあるのでしょうか?」 



 「結構こんな問題で苦しんでいる人たちがいるのだなァ」と、電話相談のたびに感じるのである。
誰でも自分の体験を、正真のものだと擁護したい。UFOを見たという体験を、正真のものだと擁護したい人々は山ほどいる。そしてクリスチャンは、自分の信仰体験、自分の霊的体験を大切にし、それに聖書的な裏づけを求める。それ自体は自然の欲求である。そのような欲求が、公に認められているのが、ペンテコステ信仰の特徴である。すでに述べたように、ペンテコステ運動の発祥自体が、そこにあるからである。



X どこが限界を超えているのか



 私たちの信仰体験、あるいは霊的体験といわれるものが、公の体験、つまり個人を超えて多くの人々に求められるべき体験、あるいは教会がそれを認め、教会の信仰として表明され、宣教の重要な位置を占めるような体験とされるには、いくつかのハードルを越えなければならない。



 まずその信仰体験、あるいは霊的体験といわれるものは、単なる主観的感覚の出来事だったのか、客観性を持つ事実としての出来事だったのか、きちっと整理されなければならない。ペンテコステ信仰を持っているものの中には、悪魔を見ただの、悪霊と戦ったという体験を語るものが、ときどき現れる。そういうことがまったくないとは言わない。というより、私たちは常に悪魔と戦い続けている。しかし彼らの戦いについて聞くと、「夢の中で悪魔が現れて・・・・・、不動金縛りにあって・・・・」などという場合が多い。すべての夢や不動金縛りがそうだというつもりはないが、ほとんどの場合は、悪魔とは関係のない自然の現象に過ぎない。預言をする人たちの預言にも、単なる感情の高まりから語った言葉に過ぎないもの、信憑性に疑問のあるもの、客観性を欠くものが多い。



 また、個人的体験の領域にとどまらせておくべきものか、より多くの者の公共の体験とすべきものなのか、区別されなければならない。パウロは、すべての者が異言を語るようにと薦め、異言を公の体験として認めている、しかし第三の天まで昇った体験については、それがどんなにすばらしいものであったとしても、他の人に薦めてはいない。つまり、公共性を認めていないのである。かりに、地域霊と思われる霊と戦い、これを追い出したことによって伝道や、教会の成長に良い変化が起こったとしても、それをすべての教会や信徒に共通の原理として薦めることはできない。かりに、使徒職というものを取り入れたことを契機に、教会が強く成長し始めたとしても、それを一般原則として、すべての教会に薦めることも出来ない。



 聖霊のバプテスマを求めるときに、大声で祈って受けた人も、小声で祈って受けた人もいる。立って祈って受けた人も、座っていて受けた人もいる。そのようなことは何の規範にもならない。そうするためには、聖書がそうするようにはっきりと示していなければならない。ラララと言うのも、たぶん、異言を語り始めたとき、舌がもつれてそのように言った体験から、それを他人にも当てはめようとした間違いだろう。ヒステリックな集会は、聖霊のバプテスマを受けて興奮したため、集会がヒステリックに思えるほど、混乱したことがあったことから、ヒステリックになることが聖霊のバプテスマを受ける条件であると、勘違いした結果だろう。ペンテコステの日の集まりは、酔っ払いの集まりであると勘違いされたのだから、かなりヒステリックで、無秩序状態だったと思われる。だからといって、聖書はそれを模範とはしてない。人間は、自分の主観的体験を大切にし、一般化したいと考える弱さを持っているが、客観性が非常に大切である。



 いろいろな個人的信仰体験が、教会の中で公式に勧められ、実践されていくためには、まず、それが客観的事実であり、公共性のあるものだと判断されなければならない。そしてその作業をする過程で、聖書的根拠が正しく立証されていなければならない。これらが正しく行われないまま、それが宣伝され、みんながそれを体験するように励まされ、さらには教会の建設の中心的理念とされたり、宣教の力点とされたりすると、限界を超えたものとなり、怪しい信仰になってしまう危険性が非常に高くなるのである。



 X.1 地域霊と先祖霊



 私たちは多くの病や、精神的・肉体的欠陥が、悪霊の働きによるものであることを認める。なぜなら、聖書がくりかえしそれを語っているからである。迷信の中に生きていた当時の人々の理解にあわせて、聖書記者はそのような書き方をしたのであるという、合理主義的解釈を私たちは拒絶する。聖書の記述、その描写には、そのような合理主義的解釈を持ち込む余地がない。しかし、病や欠陥はすべて悪霊によるものであるという理解も退ける。聖書はそのように言っていないし、かえって悪霊とかかわりのない病の存在が、聖書によって明らかだからである。



 私たちはまた、弟子たちが悪霊を追い出す権威を与えられたように、現在の教会も同じ権威を託されていると、考えている。だから私たちは、弟子たちと同じように、イエスのみ名によって悪霊を追い出す。このようにするのには、充分な聖書的根拠があると判断している。そして私たちは、悪霊が追い出され、病が癒されるという現象を見てきた。



 しかし、地域霊となると話は別である。まず、地域霊なるものの存在が、聖書によって明確に立証されていない。それらしい表現はあるが、「らしい」という表現から、神学を作ることは出来ない。さらに、聖書の中に、地域霊と戦った、あるいは地域霊を追い出したという例もない。そして、偶像礼拝が非常に強かった地域の宣教においても、使徒たちが地域霊の追い出しなどを考えた形跡もない。ただし、著者は地域霊なるものの存在を否定しているのではない。あるいはあるのかもしれない。ただ、聖書はそのようなものの存在や力ということに関して黙している。だから私たちはそれについて多く語らないし、それと戦うとか追い出すとか言うことに深入りしない。そして、聖書が関心を払っていない事柄に、強い関心を持つことを、危険と考えるのである。



 さらに、先祖の悪行が、いま生きている人に影響を与えているという考え方は、自然現象あるいは社会現象として、家庭環境だとか、文化、あるいは肉体的欠陥、精神的欠陥にまで、ある程度当てはめることが出来る。それはモーセの律法も教えている。しかし、家系に憑く霊の存在を認めるには、聖書の言及が決定的に不足している上、先祖が犯した犯罪が、現在の人間に霊的な関係において影響を及ぼすという主張を正当化するには、聖書以外の、さまざまな宗教や俗信に根拠を求めなければならない。ましてや、そのような理解に立って、その悪霊を追い出そうとするのは大きな誤りである。それを教会の実践として取り入れ、成功する伝道の秘訣として実践するのは、もっと大きな誤りである。たとえ、そのようにしたことによって、教会が成長し、伝道が拡大したからと言って、それを公共性のある事柄として宣伝するのは、もっと間違っている。



 地域霊を追い出したから、伝道が進展した、教会が強くなったというような、実例を否定しているのではない。あれをやったからよくなった、これをしたからうまくいったという話はたくさんある。問題は聖書がそれをしたらうまくいくと語っているか、あれをしたら強くなると教えているかである。また、聖書の中にそのように判断できるだけの充分な例、プロトタイプが示されているかである。そして、それが時代と場所を越えた普遍的なものであると、聖書を持って証明できるかである。



 ただし、いわゆる地域霊と戦ったり、先祖との霊的かかわりによって引き継がれた、呪いを断ち切ったりすることを、ことごとく非聖書的なものとして排斥すべきではない。悪霊にもさまざまなものがあり、さまざまな働きをしている。筆者も沖縄や東南アジアの文化の中で、いわゆる悪霊との戦いは幾度も経験してきた。そして、経験上、いろいろなことを知っているつもりである。その上で、鋭い霊的感覚と経験を積んだ働き人が、地域霊がいると判断し、家系に取り憑いている霊がいると判断したならば、信仰によってそれらを追い出すのがいいと考えている。沖縄でもそうであったが、東南アジアの占い師やまじない師の多くは、家系で継承されているのである。ただし、それらのことについて聖書は多くを語っていないために、私たちの知識は、人間の経験上の知識と、想像の域を出ない。そうであるかも知れないし、そうでないかもしれない世界である。だから、それを信仰と実践の中核に据えてはならないのである。



 X.2 使徒職の回復



 先に、使徒職の回復ということに触れたが、今これを盛んに宣伝しているこの学者は、もともと宣教師として働いていた統計学者であり、教会成長学を広めた人物である。さまざま調査から、社会学的に教会や宣教について分析し、何が成長をもたらす要因かを調べて、その結果を次々と発表し、多くの人々に推薦してきた。ペンテコステ信仰に対する彼の好意は、1960年代から70年代にかけての、南アメリカ諸国におけるペンテコステ運動の、目を見張るような進展によってもたらされたもので、もっぱら教会成長学的な見地からでてきたものである。ペンテコステ信仰が聖書に根ざした正しい信仰だったから、好意を抱いたというわけではない。彼が語り続けてきたことは、聖書がどう言っているかということではなく、「彼らはこうして成功した。だから、あなたも同じようにすれば成功するに違いない」という、アメリカ的プラグマティズムに過ぎず、マーケッティングの手法と変わりない。つまり結果よければそれでよし、教会が大きくなり働きが拡大すればそれでよしであり、徹底した体験主義なのである。



 そして悪いことに、その聖書に基づかない体験主義を、彼は聖書を用いて擁護するのである。たとえば、彼らは教会の出席者数を非常に大切にするが、使徒の働きの記述の中でも幾度も人数が数えられていると弁明する。しかし、使徒の働きが発展の歴史を語る中で人数を記録するのと、教会成長運動の中で人数を数えることは、似て非なるものである。すでにさまざまな人々に指摘されていることであるが、聖書は、教会が大きくなることや宣教の効果的な拡大が、即、その働きや手段の正当性を証明するものであるとは教えていない。



 実は使徒職の回復などという事柄は、ずいぶん昔からいろいろな人たちが主張していたことで、新しい発見ではない。なかでも、半世紀以上も前に興ったレストレーション運動は、これを強く主張していた。これがまたこのように蒸し返されるのには、いまさらという感が否めない。この主張が、長い間、多くの人々に受け入れられてこなかったのは、聖書にはそのようなことが教えられていないと判断されたからである。



 「キリストご自身が、ある人々を使徒・・・・・・としてお立てになった」というエペソ書の言及を、現在の教会の中にも適用されなければならない、普遍的原則であると解釈するのは、解釈の方法として、まったくの誤りである。まず、このような表現は、聖書の中ではIコリ12:28にもう一度出てくるだけである。教会の組織や職のありかたの原則とするためには、もっと多くの、しかも明確な言及が聖書に見出されなければならない。次に、それらの箇所でパウロは、当時の成長過程にあった教会の働きや役割について述べ、それが神によって立てられている、あるいは承認されているという事実を語っているのであって、その役割や働きが、普遍的な、つまり、時代と場所を越えて、どこででも適用されなければならない原則であると、言おうとしているのではない。パウロが手紙を宛てた当時の教会は、グレコローマンという文化の中で、植民地政策の下に、勢い良く成長し続ける若い異邦人教会であり、非常に流動性の激しい状態にあった。そのような特異な実情にある教会の役割とそれに伴う組織というものを、彼が、普遍的なものとして語るはずがない。



 また、パウロが列挙したのは働きであって、役職ではない。非常に流動的だった当時の教会は、後の落ち着いた教会が取り入れた役職というようなものを、規定する状況にはなかった。だからこそ、エペソ4:11とIコリント12:28に列挙された働きは、一致しないのである。もし、いま、これらのパウロの記述から、使徒職を回復しなければならないというならば、使徒職だけではなく、列挙されているすべての働きを職として回復しなければならないし、当時の教会の組織形態も探り出して、回復しなければならないし、何よりも同じパウロが書いた二つのリストは、一致していなければならない。



 その上、新約聖書で語られている使徒の働きというものを、現在再現すること自体が不可能である。新約聖書は使徒の役割とはこういうものであるという、細かな説明をしてはいないからである。その権威と責任、資質と資格などについても、ほとんど明らかにされていない。主を見たことがあるという資格は、第二世紀には無意味になったであろう。だからこんにち、使徒職を回復したといっても、それがどのような働きと権威と責任を持った働きなのか、不明であり、やたらに権威づくのが落ちである。さらに、ヤコブという12弟子の中でも中核にいたと思われる弟子が、極めて早期に殉教したにもかかわらず、その後継者は選ばれていない。だからむしろ、初代の教会はその発展途上のきわめて早い時期に、使徒というものの存続を重視しなくなっていたと考えるべきであり、今の時代に使徒職の回復を主張することは、たとえ、それが教会の成長や宣教にどのような影響を及ぼしたとしても、聖書的な権威を欠くのである。



 私たちは、新約聖書が語る教会の本質と働き、そして使命は、普遍的なものであると理解して、いつどこにおいても堅持しなければならないと考える。しかし、教会の形状、つまり、組織だとか政治だとか、役割だとか言うものは、常に周囲の状況に応じて、変化し続けなければならないものだと判断する。新約聖書に記録されている当時の教会の姿は、ある特定の場所と時間に制約されたひとつのあり方であり、たぶん、かなり美しい姿ではあると考えるが、それが時代と場所を越えて継承されていくべきもの、プロトタイプであるとは考えていない。



 X.3 倒れること



 集会などで人々が倒れることは、良く見られる現象である。聖書の記述でも、聖霊のバプテスマを受けた人々が酔っ払いと間違われたところから想像すると、かなり騒々しく、あるいは倒れた者たちがいたのかも知れない。聖霊のバプテスマを受けたとき、多くの人が倒れたり転がったりするのは、ペンテコス運動の初期から、かなり一般的な出来事である。しかし、聖書は倒れるようにとも、転がるようにとも教えていない。倒れないように転がらないようにとも、教えていない。すでに述べたことであるが、大声を上げよとも、小声で祈れとも教えていない。手を挙げよとも下げよとも教えていない。だからそれを禁じることも薦めることもしない。倒れる人が続出する集会であってもいい。誰も倒れない集会であってもいい。主があがめられ、主の栄光が現される集会であれば、それでいい。聖書はただ、集会の秩序を乱す行為を禁じている。だから指導者が、秩序が乱されると判断した行為は、止められることになる。



 イエス様が、「私はあってあるものである」という、モーセに語られた神様のお言葉と同じお言葉をおっしゃったとき、そこにいた兵士が倒れたという記事もある。(ヨハネ16:5−6)注解者たちによると、それは神様のみ名の聖さと気高さに打たれたのだそうだ。そういうこともあるだろう。しかし、私たちの集会で人々が倒れる現象が、それと同じだという保証はどこにもない。筆者が責任を持っていた集会でも、超教派で行うと人々は勝手によく倒れた。あるものははじめから倒れることを期待し、倒れようと心がけているとさえ見えた。倒れなければいけないような雰囲気になっている。そこで私は、私の語る福音をしっかり聞いてもらうために、倒れるのを禁止したことさえある。



 祈りなどで、宗教的興奮が高まり、倒れることを否定するものではないし、神様の聖さに打たれて倒れる可能性も認める。しかし問題は、倒そうと努力する伝道者、倒れなければ、無理にでも倒す伝道者、そして倒れたがっている信徒たちである。そのようなことは聖書の中に教えられても薦められてもいない。だから、倒れることが霊的だということにも、倒すことが霊的力を持っているということにもならない。このようなことを人集めの宣伝に使うのは間違っている。何の聖書的基盤もないからである。


                                      つづく











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2010年11月04日

ちょっと怪しげなペンテコステ信仰 (1)



ちょっと怪しげなペンテコステ信仰
  (グレーゾーンの信仰)



 ペンテコステ信仰の躍進、ペンテコステ運動の発展は、20世紀のキリスト教会の特徴であった。数世紀にわたって啓蒙主義や合理主義、自然科学や人本主義に影響されて、超自然現象を否定し、聖書の奇跡を受け入れず、神の存在そのものまでも疑い始め、まさに衰退の一途をたどっていた教会が、このペンテコステ信仰によって力を取り戻したことは、実に喜ばしいことである。しかしこの信仰、この運動は、このまま21世紀にも継続していくことができるのであろうか。教会の歴史に興った多くの霊的覚醒は、比較的短期間で終わり、後にはその覚醒で起こった教団や教派が、健全ではあるが躍動感を失った硬い組織として残されることが多かった。ペンテコステ運動が、はたして今後も、教会の力であり続けることが出来るのか、気がかりな点もいくつかある。そのひとつは、はじめからペンテコステ信仰の特徴であった、体験主義的傾向を持つ信仰のあり方である。



T ペンテコステ信仰の体験主義的傾向



 まず、ペンテコステ信仰が体験主義的な傾向を持つということについて、説明しよう。ペンテコステ信仰は、神学の積み重ねや厳密な聖書の研究の結果として起こったものではない。霊的覚醒というものは、大体そのようなものが多かったが、ペンテコステ信仰は、特にその点が顕著である。



 ペンテコステ信仰には、まず、ひとつの体験があった。少し後になってから、聖霊のバプテスマと呼ばれるようになった、体験である。もっと正確にいえば、ペンテコステ信仰は、異言を語るという不思議な体験をしたことに始まる。この体験を最初にしたのは、聖霊の働きに強い関心を持つホーリネス系の信仰を持つ人々で、当初、彼らはこれを、宣教のための賜物と考えた。新しい宣教地に出て行くために、学ばずして宣教地の言葉を話すことが出来るようになる、特別の賜物としてこれを理解したのである。それで彼らの中には、異言の賜物が与えられることを前提に、言葉の学びをまったくしないまま、またする気もないまま、宣教地に出て行く者たちまで現れた。



 ところが、この期待は間もなく裏切られた。異言の賜物は、彼らの理解に沿ってタイミングよく与えられはしなかっただけではなく、与えられたとしても、宣教地の言葉ではなかった。だから彼らは、異言は宣教地の言葉を与えられる、宣教の賜物であるという理解を、変えなければならなかった。しかし彼らは、神に対する渇望と祈りの中に与えられたこの体験を、単なる心理的な、あるいは心霊的な体験としてではなく、あくまでも正真なクリスチャン体験と捕らえて、聖書の中にクリスチャン的な解釈を求めたのである。その結果行き着いたのが、聖霊のバプテスマの証拠としての異言という理解である。彼らはまず、ルカが記録した使徒の働きの出来事から、これを理解した。自分たちの体験と非常に類似していて、前例ともモデルとも言うことができる体験を、使徒の働きの記録の中、初期の教会の歴史の中に、複数見出したのである。(使徒2:1−13、8:14−24、10:44−47、19:1−6)



 彼らは使徒の働きに記されたこれらの体験が、ヨハネによって予言された聖霊のバプテスマ、(マタイ3:11、マルコl:8、ルカ3:16)イエス様によって約束された聖霊であることを学び取り、(ルカ11:13、使徒1:4−5)これを、イエス様の証人となるための力の賦与と理解した。(使徒1:8)そして、福音書に記された弱々しい使徒たちが、使徒の働きに記された信仰の勇者と変わったのは、この聖霊のバプテスマの体験にあったと判断した。そして、その聖霊のバプテスマの証拠として、異言が伴ったと考えたのである。
(使徒10:45−47、15:8)



 こうして、20世紀の初頭、異言を語る体験をした人々は、自分たちが、初代のクリスチャンたちと同じように、イエス様の証人としての力、宣教の力を与えられたのだと信じた。初代のクリスチャンたちが、恵みの時代の始まりに当たって、神からの特別な信任と力を受けたように、自分たちは恵みの時代の終わりに当たって、神からの特別な信任と力を得たのだと信じ込んだ。ペンテコステ運動の特質は、少なくても、伝統的なペンテコステ運動の最高の特質は、その熱心な祈りとか、熱狂的な集会とか、癒しや奇跡といったものもさることながら、宣教に対する情熱と実行力であった。彼らは、使徒たちや初代のクリスチャンたちと同じように、聖霊のバプテスマによって、神の臨在、神の内在を強烈に感じ、教会や宣教団体の後押しを待たず、文字通り、片道切符の宣教師として世界中に出て行った。そして、宣教のための緩やかな支援グループの設立、教会の枠を越えた宣教協力団体の創立がこれに続いた。下層階級から始まったこの運動は、瞬く間にアメリカ全土のみか、世界中に広まったのである。そして、そのペンテコステ信仰の躍進自体がまた、聖霊のバプテスマは宣教の力の賦与であるという理解を、実証的に証明するものであると考えられたのである。ペンテコステの信仰の中では、今でも、宣教の成功、教会の成功、すなわち多くの人々を獲得することが、神の祝福の証であり、神の承認の証であるというような意識が、非常に強く、後になって、教会成長運動や繁栄の福音などが無批判のまま、盛んに取り入れられてしまった素地があったわけである。




 異言が、宣教の力の賦与である、聖霊のバプテスマに付随する印だという理解に続いて、自分たちの祈りの体験の中に継続していた異言の体験についても、彼らは聖書の中に解釈の基盤を見つけた。パウロが記したコリント人への手紙に記された、異言についての教えがそれである。(Iコリ12章〜13章)彼らはこのパウロの記述から、異言の祈りと異言のメッセージという、ふたつの理解を導き出した。異言による祈りとは、聖霊のバプテスマの印としての異言に続き、神との交わりの深みに至らせるために与えられる賜物であると考えられた。次に、彼らは異言による神からのメッセージという理解を発展させた。パウロが語る「異言を解く賜物」(Iコリ12:10)というものを、彼らは異言という方法を通して与えられる、神からのメッセージを解き明かす賜物と理解した。ここで異言は、神から与えられる預言の手段とされたのである。異言という方法で与えられる預言である。しかし、異言による神からのメッセージは、解き明かす賜物がない限り、預言としての力を発揮しない。だから、解き明かす賜物を熱心に求めなければならないと考えられた。


 
 このような預言としての異言という解釈は、当時のリバイバル運動で非常に高まっていた新しい啓示、あるいは神からの新しい語りかけに対する熱望がもたらした結果だと考えられる。ペンテコステ運動も、当時のホーリネス運動の末端に連なるものとして、キャンプ集会、今で言う聖会や修養会のようなものを各地で開催していた。その中では、新しい啓示に対する期待が非常に強かった。それが聖書の解釈からくる言葉であれ、何かの閃きによる言葉であれ、人々は新しい教えを期待していた。その一例は、たぶん、使徒の働きを読んでいるうちに閃いた考えが、預言という手段で公表された、いわゆる「イエスのみ名による洗礼」の問題である。洗礼は三位一体の神のみ名によるのではなく、イエスのみ名によるものでなければならないというこの「新しい」預言は、設立されてわずか1年のアッセンブリーズ・オブ・ゴッドのフェローシップを、危うく解体してしまうほどに分断した。そのときの後遺症が、いまだにジーザス・オンリー、あるいはワンネスとして残っている。



 当時、ペンテコステ経験をした者の多くは、神学的素養をほとんど持っていない人々であった。伝道者と言っても、極めて基礎的な教育しか受けていなかった。そのような中で、臨在される聖霊に対する期待と飢え渇きが高まり、聖書を読むような、面倒くさいことをしないでも済み、興奮を伴う預言という宗教体験に人気が集まったのである。当然、ペンテコステ運動の行く先々には、聖書理解の幼稚さ、神学的素養の欠陥から来る混乱が続き、次々と語られるとんでもない預言も加わって、神学的見地からするとまさに混沌に陥っていた。また、短期間の即席の訓練しか受けていない伝道者たちの中には、人格的、道徳的欠陥を持った人々もかなりいて、そこここに不道徳な行為も見られた。そういう環境の中で、異言によるメッセージという理解も生まれたのである。



 一方、神学的素人集団であったペンテコステ運動の人々の中には、あまり専門的な学びはしていなかったが、強い福音派の背景を持ち、聖書を誤りの無い神の言葉であり、唯一の権威であると信じて、まじめにこれに向きあう、良き伝統を持ち合わせている指導者たちも大勢いた。彼らが、きわめて冷静に、つまり聖霊の賜物といいながら、非常に常識的な判断能力を働かせて、聖書の教えに反する預言をはじめ、さまざまな非聖書的な主張や行為を排除していった。先に挙げたワンネス運動の排除などはその良い例である。しかし、異言によるメッセージという理解は、たとえ、アッセンブリーの交わりの中では、正式な見解として表明されたことはないとしても、ペンテコステ運動の中で広く行きわたり、受け入れられて行った。



 このように、ペンテコステ運動は体験を先立たせた運動であるということは、その発生のいきさつからも明らかである。少なくても、ペンテコステ運動の中心的神学である聖霊のバプテスマと異言に関しての教えは、聖書の学びを端緒として発展したものではなく、まず、体験があり、その体験の前例、モデル、あるいはプロトタイプを、聖書の記述の中に見出したのである。つまり、体験が聖書の新しい理解、解釈を可能にしたのであり、聖書解釈の上で、体験が非常に重んじられるのである。



 また、ペンテコステ運動には、聖霊のバプテスマと異言という問題以外にも、多くの周辺的要素があった。たとえば、ホーリネス運動から引き継いだ瞬間的潔めだとか、デスペンセーショナリズムを背景にした終末論などである。これらの神学も、ペンテコステ運動の中ではかなりの影響力を持ち続けてきたが、すなおに聖書に聞くという素朴な態度は、それらの教えを丸ごと取り入れる極端さを止めてきた。



 ペンテコステ運動は、聖書を誤り無い神の言葉と信じて、素直にまた素朴に聖書を読む人々によって、健全に保たれてきたのである、聖書によって、聖霊のバプテスマと呼ばれる自分たちの信仰体験が、正真の聖霊体験であることを証明し、その体験が個人の主観的な体験だけでも、限られた時と場所と事情の中に、閉じ込められておかれるべき一過性のものでもなく、すべての信徒に共有されるべきものであると証明して来た。聖書的権威をもって、自分の聖霊体験と、それに基づいた信仰のあり方、行動、あるいは伝道や教会形成というものを、正当化してきたのである。



U 体験主義は誤りか



 このような体験主義的傾向は、厳密な聖書解釈に立つ、プロテスタント信仰に反するものであるかのように、言われ続けて久しい。とはいえ、体験主義的傾向は、正当なプロテスタント信仰の中でも、何も珍しいことではない。たとえば「聖書信仰」や「信仰による義人」という、プロテスタント神学の錦の御旗も、カトリック教会の腐敗という環境、それと戦うという体験がもたらした結果として、生まれた神学である。カルビンの神学も、カルビンの時代と背景があって、はじめて生まれてくることが出来た。さまざまな正しい聖書の理解は、さまざまな体験に啓発され、触発されて生まれている。普遍性を持つ聖書の教えは、時代と文化という有限性を媒体として、はじめて理解されるのである。



 広い意味では、この世の哲学に影響され続けるキリスト教神学、プロテスタント神学それ自体が、体験神学であって、純粋に聖書に基づいた神学ではない。だから、これからも世界の変化によってもたらされる体験が、新しい聖書の理解を生む可能性はあるし、なければならない。たとえば、現在の行き過ぎた資本主義とグローバライゼーションは、あたらしい神学を必要としているように思えるし、キリスト教が圧倒的な力を持った環境と文化の中で形成された神学ではなく、キリスト教が絶対的少数派で力を持たない中での神学も、必要とされていると考えるものである。ただしペンテコステ神学は、単に社会的変化への対応としてではなく、社会的変化を背景にした、純粋な信仰体験に触発されて生まれたものである。



 ペンテコステ運動の本当に特異な面は、啓蒙主義や合理主義によって、あるいはドイツ観念論などの影響によって、遠く隔てられてしまった至高の神、絶対他者の神、観念の隅に追いやられた神を、近くにいて助けてくださる現実の神に、変えてしまったことである。聖書の神を聖書の物語の中だけに閉じ込め、聖書理解と観念の問題にすり替えてしまうことによって、私たちの日常の毎日、現実の生活の問題に介入し、私たちの祈りにお答えになる神、いま共に生きておられる神を見失っていた教会が、ペンテコステ運動によって、近くにいてくださる神、内に住んでいてくださる神、祈りに答えてくださる神を、聖霊なる神として再び見出したのである。聖霊のバプテスマにより神の臨在を強烈に感じること、異言の祈りによって可能になる、神との深い交わりに浸ることこそ、ペンテコステ信仰の真髄である。そこから、神はいまも語りかけてくださる、祈りに答えてくださる、宣教の働きに伴っていてくださるという、信仰と期待が派生するのである。



 プロテスタントを含め、伝統的な神学では、聖霊とそのお働きについては、あまり学ぶことがなかった。ちなみに、歴史上もっとも優れた信仰告白であると言われ、現在でも多くの教会で、礼拝会ごとに唱和されている使徒信条を見ると、聖霊に関する言葉はただ一節。「我は聖霊を信ず」だけである。ウエストミンスター信仰告白でも、聖霊について述べられていることは、不充分この上ない。だから伝統的神学の枠の中に留まる限りは、今の聖霊の働きについて学ぶことは出来ない。ペンテコステ神学は、いま生きて私たちと共におられる神、聖霊のご性質とお働きに注目する。特に現在、キリストの昇天後の聖霊のお働きについての学びが、ペンテコステ運動の大切な学びである。そしてその聖霊の、変わらない役割のひとつは、いまも私たちの中に働きかけ、キリストの語られたお言葉を理解させて下さる働きなのである。(ヨハネ16:26、15:26、16:12〜15)

 

 したがって、ペンテコステ運動が、現在も働いていらっしゃる聖霊に信頼して、聖書の新しい理解を得る可能性を信じるのは、正しいことである。その新しいきっかけは、時には内面的な霊的体験であっても、この世の科学や哲学の発展、あるいはその他の出来事を端緒としていてもかまわない。極端に言うならば、とんでもないでたらめな神学を発端にしていてもいい。さきに述べたように、聖書の理解の深まりは、常に歴史的なできごとを背景に起こっていると言って、過言ではない。私たちは自分の体験という媒体を持って、はじめて神の言葉を理解できるのである。新しい聖霊体験をするならば、新しい聖書理解が生まれる可能性があるのである。ただし、それはあくまでも、古い聖書の新しい理解の可能性であり、聖書にはない真理の啓示、新しい啓示の可能性ではない。



V 体験主義の危険性と限界



 ではペンテコステ運動の体験主義は、このまま許されていていいのか。答えは断然「然り」であり、断然「否」である。然りというのは、この体験主義的な信仰が、ペンテコステ運動を推進してきたという理由で言うのではない。むしろそれが、現在もお働きになっている、変わらないイエス様に対する信仰だからである。世の終わりまで共にいると約束してくださったイエス様の、聖霊による臨在に対する信頼であり、いまも聖書を読むとき、それを正しく理解できるように助けてくださる、聖霊に対する確信だからである。伝統的プロテスタントの神学は、いまも生きておられるイエス様に対する信仰が極めて希薄な中で、書かれた文字の解釈の問題として行われてきた。厳格な文字の解釈としての聖書理解、それに立った神学の大切さは、いまさら言う必要はない。しかし、神学は聖霊の導きの中で行われなければならない。



 そういうわけで、ペンテコステ運動の体験主義的な聖書理解は、ただそれだけで誤りといわれるべきものではないだけではなく、むしろ、非常に大切な、本来的な聖書理解のあり方である。とはいえ、この体験主義的な聖書理解を際限なく許すべきではない。体験主義には限界があるからである。その限界を超えた聖書理解は、聖書理解ではなく、聖書への読み込みであり、あってはならないことなのである。そして、そのような理解に立った生活も許すべきではない。そのような理解を中心にすえた伝道や、そのような理念を土台とした教会設立を許すべきではない。絶対に「否」である。



 しかし、筆者の見るところ、いまわたしたちを含めた広い意味でのペンテコステ運動の中には、すなわち、カリスマ運動や第三の波などを含めたこの運動の中には、この限界を超えた聖書理解による、怪しげな断然「否」のペンテコステ信仰が、かなりまかり通っているように思えるのである。もともと体験主義的傾向を持ち、そのような信仰のあり方を容認してきたというより、主張してきたわたしたちにとって、むしろこれは宿命的な弱さであろう。とはいえ、これがペンテコステ運動だけに存在する弱点というわけではないことはすでに述べた。事実、多くのキリスト教会が同じ弱点を抱えているのである。ただペンテコステ運動に属するクリスチャンたちの間では、この弱点は非常に特徴的であり、運動全体に大きく悪影響を及ぼしかねないところに、注意をしなければならないのである。


                                     続く












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2010年11月03日

個人預言をどう取り扱うか (2)



X. ルカとパウロが語る預言



 ルカが語っている預言は幅が広く、基本的に、聖霊によって感動を受けて語る神の言葉であり、その中には聖書の学びや信仰経験を通して学び取った神の御心が含まれる一方、聖霊の直接の啓示によるものも含まれていることについてはすでに述べました。また、パウロがTコリント12〜14章で語る預言も、基本的にはルカと同じであると理解するのが正しいと思われます。そうするとパウロが非常に高く評価をした預言と言うものは、必ずしも聖霊の直接啓示による預言だけではなく、聖書の教えをしっかりと学び、それを聖霊の感動によって現在の状況に適用して語る説教や、聖書の教えを心に蓄えていた者が、その場の状況や必要に応じて、聖霊に励まされて語り出す即興的な説教でもあったと理解できます。直接的な啓示を語る預言の可能性を否定する必要はありません。(ヨハネ 16:13-14) 特に聖書が完結していなかったコリント人への手紙を書いた時点では、直接啓示の預言の必要性は、現在のそれよりも高かったことでしょう。しかし、むしろ、それらは基本的に聖書の教えを単なる教えとして語るのではなく、聖霊の感動、励まし、押し出しを感じて語る、説教だったと考えるほうが、しっくりします。



 また、パウロが語っている「異言の解き明かし」というのは、果たしてペンテコステ信仰を標榜する人たちが一般的に主張してきた、「異言を通しての預言」なのでしょうか。パウロの教えを素直に読むならば、そのような理解は、預言を強調したいという思いと、異言に意義を与えたいという願いの産物だと考えられます。パウロはその一連の教えの中で、異言は神に向かって語るものであるとはっきり述べており、神が人に向かって語るための手段であるとは教えていません。ルカの記述を読むと、異言はむしろ、神の大きなみ業を賛美する言葉であることがわかります。(使徒2:11、10:46)そのような神に対する賛美も、解き明かしがされるならば、教会の徳を高めるものであることをパウロは認めていますが、教会の公共の秩序を乱しても良いほど、大切だとは考えていなかったのです。もしそれが、神からの直接啓示であるならば、パウロはそのような言い方はしなかったことでしょう。このように理解すると、パウロの一連の教えは非常に明白なのです。つまり、異言による神の直接啓示の預言と言うものは、パウロの知らないものだったと考えるべきなのです。  



Y. 現代の預言運動



 現在行なわれている預言運動の多くは、今は「終末の霊的覚醒期」であると判断し、霊的回復期、あるいは聖霊の賜物の回復期であると理解する、時代真理的考え方の影響を受けた人々によって進められています。すでに述べたように、中には教会の形態や「教会の職」も初代の教会の姿に戻すべきだと考え、盛んに按手を行い、使徒職や預言者職の回復などに非常に熱心な人々もいて、アッセンブリーズ・オブ・ゴッドの交わりの中にも、そのような傾向をもつ人々がいます。時代真理神学のすべてが誤りだとは言い切れないところもあり、時代真理的な終末観を持って聖書的を理解する余地もあると判断しますが、預言の回復は、現在と言う終末にではなく、終末の初期であったペンテコステの日に起こった事柄であり、それが今も継続していると理解すべきものです。また、聖書に記されている使徒や預言者や伝道者などは、職と理解するべきではなく、機能的に、そのような働きをもって教会の中で認められていた人のことに過ぎず、それを現在の教会の中で「職」として回復しようと言う試みは、間違っていますし、たとえ、初代の教会にそのような職制が在ったとしても、それを現在の教会のモデルと考えるのは聖書の解釈の間違いです。初代の教会は現在の私たちの教会が模倣しなければならないモデルではなく、コリントの教会を引き合いに出すまでもなく、あくまでも、当時の実情の中に自分を表現した教会なのです。間違いや失敗を沢山抱えた教会だったのです。また、すでに述べたように、預言の理解もまた異なっています。したがって、現在盛んに個人預言を行なっている人々には、個人預言の間違いと言うよりも、まず預言の理解に、このような間違いがあるのだということを、知らなければなりません。



 現在、ある人々の間では預言者の学校と言われるものがあり、教会では預言の練習をしていると聞きます。互いに向き合って、「主はあなたにこのようにおっしゃいます」と、自分の頭に浮かんで来たことを大胆に話す練習を重ねると同時に、自分が、本当に神のみ思いを語っているかどうか判断し、神のみ思いを語ることが出来るようになるように、祈り、鍛錬をするのだそうです。その一方では、預言を受ける人々は、その預言が本当に神からのものであるかどうか、良く吟味をするように訓練させられるのだそうです。その訓練の仕方、何に気をつけるべきかと言うことについては、具体的な指導も行なわれています。その指導のすべてが無益なのではありませんが、基本的に、聖書の教えることと異なっています。聖書にはそのような訓練をしなさいという命令も、そのような学校があり実際に練習がされていたと言う記述もないからです。



 さらにまた、人間は深い神のみ思いを理解することは出来ないのです。(Iコリ2:11) ですから、このようなやり方に対して言えることは、「主のみ名をみだりに唱えてはならない」と言うことです。主からのものであるかそうでないか、語る側の者が予め吟味されることを前提にするような、源の曖昧な預言は語ってはならないものです。そしてたとえ語るものが主からのものであると確信を持って語り、事実そうであったとしても、聞く者は、なおもその内容を聖書の教えに照らして厳しく聞き分けなければなりません。なぜなら現在の預言は、たとえ神の直接の啓示であったとしても、語られる言葉の一つ一つすべてが霊感を受けているわけではなく、誤りの入る余地があるからです。また、たんに感情の高まりであたかも預言のように語る人も在り得るからです。




 では、預言は軽んじられるべきでしょうか。そうではありません。聖霊の励ましを受けて語る聖書の教え、あるいは福音は、大いに強調されなければならず、その場の実情や必要に応じて即興的に語られる聖書の教えと適応は、大いに勧められなければなりません。これを牧師や伝道者の専売特許にしてはなりません。しかし、聖霊の直接啓示を受けて語る預言は、よほどのことがない限り、つまり、神様の側の必然性がない限り、ありえないと考えるべきでしょう。そのような預言に従いなさいという聖書のみ言葉もありません。私たちはそのような預言に対して、聖書に従うような忠実さをもって従う義務を持っていません。私たちは本来、聖書に聞くべきなのです。とは言え、私たちは、聖書主義を掲げる伝統的な改革派の人々とは異なっています。私たちは、聖霊の直接の照明を受けて聖書を読み、聖霊の励ましと感動を与えられて聖書の教えを語るのです。




 実際、ペンテコステ教会で生まれ育ってきたものとして、著者も、個人的に預言なるものを随分聞いてきましたし、異言の解き明かしなるものも、しばしば聞いてきました。そして極めて安全に言うことが出来るのは、それらの殆どは、聖書的な概念を感動を持って語る、信仰の励まし、あるいは罪への警告、あるいは、たとえば世の終わりに対して備えをするように、滅びて行く魂に対して情熱を持つようにと言うような、一般的お勧めであり、聖霊の直接介入と理解しなければならないものはありませんでした。自分の心の中にあるもの、あるいは潜在意識を、聖霊の励ましによって語りだしたもの、あるいは時と場合によっては、たんに感情の高まりを抑えきれずに、語りだしたものでしょう。「主は仰せられる」という言葉で始まり、あたかも神の直接啓示があったかのように語り始める場合ですら、主が直接お語りにならなければならないような内容を持つことは、殆ど在りません。むしろ、語る人が興奮したか・・・・・悪いことではありません・・・・聖霊からの感動を受けて語ったに過ぎないのでしょう。そして、先入観のゆえに、つまり、預言とはこのようにあらねばならないという先入観のゆえに、「主は仰せられる」と口走るのでしょう。私たちは、その「預言」が基本的に聖書の教えるところと合致しているならば、アーメンということが出来ます。そして、その励ましや警告、あるいは注意のゆえに、神に感謝をいたします。ただ、異言の解き明かしについては、聖書に前例のないものであるためにこれに重要性を置かず、ただその解き明かしは、神の直接介入という部分を省いて、その人の感動が語らせていると理解してよいのではないでしょうか。




結び



 結局私たちは、個人預言の存在の可能性自体は、非常に特殊なケースとして認めざるを得ません。聖書にはそのような例があり、現在もあり得ることを否定していないからです。しかしそれが頻繁に、日常的に行なわれるというのも聖書の教えではありません。また預言をする者は、聖霊に満ちた人でなければならないと言うのが、ルカの記述から導き出される理解であり、預言をする場合は、神のみ名をもって語ることに恐れを感じないだけの、確信を持って語らなければなりません。一方語られる預言は、聖書の教えと調和していることが前提であり、聖書の基本的教えとその適応範囲内に留まっていなければなりません。つまり、聖書と矛盾していてはならず、聖書が教えていない新たなことを教えるものであってもならないのです。  そしてまたその預言に従うかどうかは、その預言を与えられた人の責任に任せられていると言えます。聖書は、現在の私たちがそのような預言に聞き従わなければならないとは教えておらず、聖書に従うように教えているからです。したがって、個人預言を与えられた人は、その預言が聖書に矛盾していないことと、聖書の教えている範囲を越えていないことが明白ならば、それに従っても差し支えありません。またその預言が、本当に神からのものであると確信できたならば・・・・・・・・・それは易しいことではありませんが・・・・・・・それに従うべきなのです。



 私たちは、聖書が現在のように正典化されていなかった時代、個人預言やそれに近い預言が非常に多かった時代でさえ、あくまでも書かれたみ言葉が、語られる預言に優先していたと言う事実を、厳粛に受け止めたいと思います。(申13:1−5)  さらに、パウロは当時の預言者の機能を認めていましたが、彼が書くことがその預言に勝るものであることを主張しました。それは、霊感を受けた聖書が啓示の預言に勝ると言う意味です。(Iコリ14:36−37) 


 
 牧会者として、私たちは、すべての信徒が常に聖霊に満たされ、励まされ、押し出されて、神のみ言葉を語る者、新約的な預言者になるように、積極的に励まし勧めたいと思います。そうしてそのような預言の場を、信徒たちに積極的に提供すべきです。新約の時代にあっては、すべての信徒は預言者であるべきなのです。そうするならば、その中でまたその過程で、聖霊の直接啓示としての預言をする者も現われて来ても、驚くに当たりません。そしてその預言をする者が本物の預言者であるならば、権威に服従する者でなければなりません。(IIペテ2:1、9) それは、主の権威に従うことであり、霊感を受けた主のみ言葉である聖書に従うことであり、さらに、主のみ体である教会の権威に従うことです。現在の預言者であると自認する人たちが、最も陥り易い過ちは、預言をする事が出来ると言うことで、あたかも自分が特別に高い存在であるかのように振る舞い、聖書の権威も教会の権威も無視し、誰の言うことも聞かなくなり、自分の主張する預言を最終的な権威とすることによって、主の権威も拒絶することだからです。



 また牧会者として、個人預言を生業とするような伝道者は、招かないようにするのが賢明です。お招きしてしまった人が、個人預言を自分の働きの一部として取り入れていることがわかった場合は、個人預言をしないようにお願いするのが良いと思います。私は個人預言ではなく、聖書の教えに立つ信徒を育てる義務を持っていますので、個人預言はお控えくださいと申し上げるのです。現在の預言運動を推進している人々が行なっているような個人預言、たとえば、個人預言をするということで人を集めたり、人々を並べて次から次へと預言をして行ったりする活動は、現在でも個人預言の可能性があると信じている私たちから見ても、聖書的前例と神学的裏づけを欠くと言わざるを得ないだけでなく、実際上、それらの個人預言には、街角の占い師や八卦程度の価値も見出すことが出来ません。占い師や八卦に金を払う人は、知りたいことがあるから、その問題について尋ねて答えをもらうのです。しかし個人預言の多くは、預言者の方から、勝手に語るのです。これでは、おみくじを引くような、たんなる遊びに過ぎません。多くの個人預言の内容は、それを知ったからと言って、ことさら何かの益になるようなものではありません。



 また、信徒たちの中に個人預言に関心を持っていたり、それを受けたりしたものがいるとするならば、むきになってその問題点を指摘するより、聖霊の照明に頼って聖書を読み、教会の積み重ねてきた聖書の理解を参考にし、それを正しく自分の状況に適用できるように祈り、聖書の教えに立つ信徒となるように励ますべきです。その場合、その信徒が受けた個人預言は、聖書の教えと矛盾していない限り一つの可能性として受け止め、指示預言の場合であっても、それが明確に神からのものであるという確信が与えられるまでは、直ちに従うことはせず、一つの示唆、一つの選択肢として、大切にするように教える程度で良いのではないかと考えます。

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

(注)

11・  この「異言を解き明かした預言」は、アッセンブリーズ・オブ・ゴッドの歴史の中では一般的に認められていますが、特に最近、正しい聖書解釈の方法が学ばれるようになってからは、私の理解しているような異論も出されています。

12・  ときどき預言者の学校と言う表現を聞きますが、これは多分Iサムエル19:20の「預言者の一団」という言葉(新改訳)が、英語では[school of prophets] と言えるところから来た間違いだと思います。Schoolには一つの群れという意味もあり、学校とはかぎりません。

13・  30数年前、ティーンチャレンジを創立したデビッド・ウイルカーソンが、自分が見た幻を語った長いテ−プを公にしました。内容は黙示録をさらに細かく説明するような性質のもので、ある人々を興奮させました。ただ、かれはアッセンブリーズ・オブ・ゴッドの教職として非常に用いられ、有名の人物ではあったにもかかわらず、全体としては、彼の預言は無視される方向にあったと理解しています。
 
14・  ローマに行かないようにと聖霊に示されて忠告したアガポたちに、憤然としてローマに向かったパウロの例は、ユニークです。この場合、聖霊は将来を示しただけで、指示はしていなかったのです。
 
15・  4節で言われている「主にしたがって歩み・・・・・・・主の命令を守り」と言うのはモーセの律法に従えと言う意味です。

                                       おわり














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2010年11月02日

個人預言をどう取り扱うか (1)



個人預言をどう取り扱うか
         


 このところしばらく、「個人預言」が再び少々胡散臭い問題として、話題に上るようになっています。胡散臭いというのは、私たちがペンテコステの交わりに所属して、基本的には現代の預言の可能性を認めていながら、個人預言に関しては、なんとなく納得できないでいるというか、疑いの目を向けざるを得ないところがあるからです。そしてそれを上手に説明できないために、自分たちの中でも、牧会の働きの中でも、中途半端な取り扱いしか出来ないでいることが多いからです。そういうわけで、今年の教区教職修養会ではこのことを取り上げて学ぶことになったものと心得ます。



 個人預言と言うのは、神が特定の個人に関わる事柄に対して、他の人間の口を用いて、言葉でもって介入して来られることです。私が知っている幾つかの具体例を挙げてみましょう。



@ 日本人。29歳。女性。自分の教会に訪問して来た、預言の働きをすると自称する伝道者に、「あなたは音楽を通して神様にお仕えするようになります」と預言され、その気になって、音楽を学ぶために仕事をやめ、アメリカのクリスチャンの学校に入って音楽を学び、卒業もしましたが、もともと音楽の素質はあまりなかったために、音楽で神様に仕えることは最低限しかできず、良い職場も失って苦労しています。預言を受けたとき、彼女はたまたまその教会のグループの中で歌っていました。ちょっと目立つ娘だったので、「預言者」の目に触れたのでしょう。



A フイリピン人。50歳。 男性。伝道者。訪問して来たオーストラリア人伝道者に、「音楽伝道者になります」と預言されましたが、「私がトランペットを吹いているからといって、音楽伝道者になれる素質があるわけないでしょう」と相手にせず、まじめに、普通の伝道者をやっています。このオーストラリア人は、自分が預言を賜物として働き、多くの人々の心の中まで見抜いて言い当てるために、皆からとても恐れられていると、自慢げに話していました。



B  アメリカ人。50歳。女性。伝道者の秘書。結婚していましたが、訪問してきた預言者に、「あなたは家庭を捨てて献身し、私と結婚して秘書として働きなさい。貴女の救われていない家族は、貴女が預言に従うならば救われます」と告げられ、その伝道者と結婚しました。


 
 このような例は、他にも沢山あることでしょう。すべてが悪い結果をもたらしたとは限りません。たとえば、私が個人的にお付き合いを持っていた伝道者は、癒しの器としても用いられていましたが、集会で、「そこにおられるあなた、神様はあなたのリュウマチを、今晩癒すとおっしゃっています。」と言うような言い方で、初めて見る人々の病気を的確に語り、癒しの働きをしていました。これもある種の個人預言であり、癒しの働きとあいまって、伝道の力となっていたように思います。しかしなにぶん個人預言と言うものは、祈りと牧会配慮をもって取り扱ってきた個人の問題に、突然、神の名をもって介入して来るもので、牧師の立場からすると、取り扱いに苦慮するものです。個人預言を受けた者が、その預言に疑いを持った場合にはあまり問題になりませんが、問題なのは、その預言を信じ、神からの絶対の導き、あるいは命令と受け取ってしまった場合であり、特にそれが聖書の教えと相反する場合、あるいはどのように考えても、賢い選択と思えないような場合です。



T. 個人預言の歴史的背景



 ペンテコステ運動は、反啓蒙運動、反合理主義運動、あるいは反理神論運動として起こったという、大きな一面を持っています。人間の合理主義的考え方が行き過ぎ、聖書の奇跡を信じられなくなったり、聖書の記述自体は事実として信じるとしても、現在における神様の直接介入を信じることが出来なくなってしまったりした、18世紀、19世紀の大多数のクリスチャン信仰に対する、猛烈な反発運動でもあったのです。ペンテコステの信仰者は、神が不変であることを主張し、「キリストは昨日も今日もとこしえまでも変わることがない」というみ言葉を旗印にし、今日における神様の奇跡的介入を期待したのです。



 そのような中で、正しいかどうかは別として、時代真理的な「後の雨」という考え方も取り入れられて、今こそ回復の時であるという主張が生まれ、あらゆる賜物が回復されるという信仰と、初代教会に帰らなければならない、初代教会の形態を取り戻さなければならないという主張も現れて来ました。そういう状況にあって、預言の回復もまた当然のこととして受け入れられ、「預言者」や「預言者職」の回復さえも主張する、レストレーション運動が繰り返して起こって来ました。預言が受け入れられ、預言者が受け入れられ、預言者職さえ回復されたと主張し、それを実行する人々が出現する混沌の中で、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド  は、公式には、あまり強固な神学的立場を明確にせず、様々な意見や立場の者を受け入れ、福音主義的な聖書観を強調しながら自由に論争させて、自然の淘汰に任せる方法、あるいは、神様のご配慮にお任せするすると言う方法を取ってきました。



 ですから、アッセンブリーズ・オブ・ゴッドの歴史を見ると、常にかなり極端な主張や活動が現われてきていながら、全体としては、遠心的な分散乖離をもたらす非聖書的主張が中心となることはなく、常に基盤として立つ福音的な聖書の理解に一致して行こうとする、求心的な方向を保ち、組織的には緩やかでありながら、強いまとまりを持った運動として成長して来たと言えるのです。言い方を変えると、アッセンブリーズ・オブ・ゴッドは常に非聖書的見解や極端な主張をする人々を内に持ち、またその教えに晒されながら、大きな捕らえ方では、それらの人々を直ちに排除するのではなく、忍耐と時間をかけて、聖書をもって指導しながら、そのような主張や見解が沈静するのを待つという方向性を保って来たのです。


 大きな目で見ると、個人預言もそのような主張の一つとして、アッセンブリーズ・オブ・ゴッドの中に存在し続けてきたものです。それで、公式の出版物の中には、ときおり、個人預言の誤りを指摘し注意と警告を促すものも含まれなければならなかったのです。そのような努力の甲斐もあってか、現在もアッセンブリーズ・オブ・ゴッドの中にあっては、個人預言は周辺的な誤りの一つに過ぎず、それを実行している人々の多くは、むしろしっかりした指導者や、警鐘を鳴らす人を持たないことが多い、単立系のペンテコステの人々です。私たちもまた、現行の個人預言の問題を、異端狩りのような取り扱いをするのではなく、アッセンブリーズ・オブ・ゴッドの伝統的な寛容性をもって対処したいと思います。



U. 預言とは



 預言者は、旧約時代には先見者とも呼ばれていた通り、予言者としての働きもしていました。従って、預言と先見、すなわち予言には強い関連性がありますが、私たちはいま、予言とは言わずに預言と言い、預言者と言います。預言には、神様のお言葉を預かりそれを語るという、より広い意味があります。神の代弁者です。その語る言葉の中には未来に関わる事柄も、特定の個人に関わる事柄も含まれるのです。また預言は、必ずしも神からの直接の介入、あるいは啓示を受けて語るだけのものでもありません。神からあずかっている言葉、たとえばモーセの律法やその他の聖書の言葉を学び、理解し、それを、聖霊の励ましを受けて、それぞれの時代と状況に適応して語ることも預言でした。実際のところ、旧約時代の預言者たちも、神からの直接啓示、直接介入を受けて語ることより、聖書を学び、また、自分の信仰体験の中で経験的に学び取った神のみ心を、神の霊に感じて的確に語った場合の方が多かったと考えられます。



 しかし、たんに神の言葉を学び、それを適切に適応することを厳格に学ぶだけでは、学者になってしまい、それを語ったとしても預言者ではなく、教師になってしまいます。預言者として絶対に必要なのは、神様との密接な交わり、霊的な生活であり、語るときにも、直接、聖霊の励ましを感じて語るということです。そこにあるのは、学者としての権威ではなく、聖霊の励ましを感じて語る権威です。そのような意味で、新約と旧約の中間時代には、わずかな例外を除いては預言者が出現しなかったと言われるのでしょう。



V. 終末の預言の回復



 旧約時代には、神様の直接介入の預言を含め、預言の賜物はごく一部の人々に限られていました。しかし、ペンテコステの日を始まりとして、新約時代には、ヨエルによって預言され、ペテロによって解釈され、さらにルカによって自分の神学として打ち出されたように、  神の霊は文字通りすべての人に注がれ、すべての人が預言をする者となるようにされたのです。新約時代には、基本的に、すべてのクリスチャンは預言をする者とされているのです。ただし、すべてのクリスチャンが、常に神様の直接介入の預言をするようにされたという意味に、理解する必要はありません。旧約時代の大預言者でさえそうではなかったはずなのです。しかし、すべてのクリスチャンは、旧約時代のイスラエルの民とは異なって、キリストの贖いのみ業を通して清められ、復活を通して義とされ、神の姿を放棄された人としての神ではなく、もともとの神のみ姿を保ったままの神であられる、聖霊と交わることが出来る者とされ、甦りのキリストによって義とされ、聖霊を注いでいただいたのです。それによって、クリスチャンは常に、聖霊なる神の励ましを受け、力付けを受け、神から預かっているみ言葉を語ることが出来るのです。それは、単なる学びから得た聖書知識を語ることではなく、聖霊の直接の励ましを受け、聖霊の感動を受けながら語るのです。そして、そのように神の言葉を語ることが預言であり、すべてのクリスチャンの義務なのです。そしてまた、そのような新しい霊的環境の中で、神の直接介入としての預言もまた、神がそれをしようとお思いになるならば、神はいつでもすべてのクリスチャンをお用いになることが出来ると言う意味で、可能なのです。すなわち、すべてのクリスチャンは、いつでも神の直接介入の預言をする事が出来る、潜在的可能性を与えられているのです。



 そういうわけで、パウロがすべてのクリスチャンにそれを求めるように勧めている通りに、すべてのクリスチャンは今、預言の賜物をいただくことが出来るし、またいただくべきなのです。しかし現実には、すべてのクリスチャンがそれを得ているのではありません。すべてのクリスチャンに開かれていながら、一部のクリスチャンしかそれを所有していないというのが、パウロの時代の「あらゆる賜物が豊かに用いられていた」コリントの教会にあってさえも、残念な現実でした。そして現在の私たちの教会にあってはさらに残念な現実なのです。使徒行伝において「預言者」として認められていた人々は、多分、ときおり預言をするという程度ではなく、常日頃から、この賜物を特別に力強く、充分に用いていた人々だったのでしょう。彼らの中には、アガポのように、直接の神の介入としての預言、あるいは予言をする人物もおりました。ペテロやパウロはそのような預言をしました。あるいはパウロと一緒に仕事をしたアンテオケ教会の指導者たちの中にも、預言者と呼ばれるにふさわしい人々がいました。また、エルサレム会議の後に書簡を託されて遣わされた、ユダとシラスも預言者であったと記されています。伝道者ピリポの4人娘たちも預言をする事で知られていましたが、もしかすると、彼女たちはまだ預言者と呼ばれるには少し早すぎたのかも知れません。パウロに洗礼を施したアナニヤもまた、そのような賜物を用いています。



W. 個人預言の必要性と必然性



 私たちの信仰と生活に必要な掲示は、すべて聖書を通して与えられていると言うのが、プロテスタントの福音派の基本的理解です。聖書は完結した書物であるという立場で、これに書き加えたり省いたりしてはならないと信じています。神は霊感をもって聖書を書かせ、さらに特別な聖霊の導きをもって混乱のさなかにあった教会を導き、聖書正典を編纂させてくださったと考えています。カトリックのように、聖書を編纂したのは教会なのだから、教会は聖書と同等の、あるいは実質的にはそれ以上の権威を持つとは考えず、聖霊が教会を用いて聖書を編纂させてくださったと理解し、教会はこの聖書に従うものであると考えます。したがって、聖書は、神が人間に必要とお考えになるすべての啓示を含んでいると理解するのです。神はこれ以上聖書に書き加える必要性を認めておられず、聖書以外の啓示の書物を与える必要も認めておられないと考えるのです。そのような考え方が、様々な異端から教会を守り、正しい道を歩ませることになったのです。



 このようなプロテスタントの基本的な神学は、当然、預言の必要性と重要性の論議に影響を及ぼします。ある人々は、聖書が完結したのだから、新しい啓示は不要であり、預言も不要である。神は不要なものをお与えになることはないのだから、預言はありえないと主張します。これが合理主義の考え方とあいまって、長い間プロテスタント神学の中心的な流れになっていたものです。そして、問題は、彼らはその合理主義的考え方に支配されて、現在働いておいでになる聖霊の存在までも軽視して、聖書を読むときに光を投げかけ、理解を与えてくださる聖霊のお働きまで無視してしまったことにまで継続しています。(ヨハネ15:26) そのような中で、プロテスタント神学は冷たい学問となり果て、教条主義になってしまったのです。



 ペンテコステの神学の基本は、聖霊は今私たちに働きかけ、私たちと共にいて働いてくださっていると考えることです。したがって、ペンテコステの神学は、聖霊との体験を伴う、実存的な神学です。聖書を読むときも、神学を学ぶときも、伝道するときも、その他どのようなときも聖霊が共にいてくださり、守り、導いてくださると信じています。聖書の教えを実際の生活の中で体験すると言うところに、ペンテコステの神学の特徴があり、またそのような経験を一つの要素として、ペンテコステの神学が築かれているのです。私たちはいま、神が必要であると判断された時はいつでも、啓示を与えられ預言も与えられると信じています。



 神が必要であると判断されるのは、私たち人間が必要であると判断するのとは異なっています。神はすでに、ご自分が人類にとって必要と判断された掲示はすべて、聖書の中にお与えになりました。そして人類には、それを理解出来る知的能力を与え、また理解させる働きをなさる聖霊を遣わしてくださいました。ですから、聖書と同等の性質や内容、あるいは価値を持つ啓示は、現在必要ではないのです。しかしながら、個々の人間の置かれた状況や理解の程度によっては、神がその人間あるいは人間たちに対して、聖書と矛盾しない、啓示をお与えになる必要性をお認めになるかも知れません。それは神様の主権に属することであって、私たちの許可を必要としません。



 一方、人間側から考えるならば、たとえ人間に必要な信仰と生活に対する基本的な啓示は、すべて聖書の中に啓示されているとは言っても、私たちのすべてが聖書をことごとく理解しているわけではありませんし、正しく理解しているわけでもありません。またたとえ基本的な事柄においてはまったく正し理解していたとしても、その適応の選択肢において迷うことはいくらでもあります。そのような時、私たちは導きと助けを願い求めて祈ります。この場合、私たちのペンテコステ信仰では、気休めで祈るのではなく、具体的な、神様の何らかの介入を期待してお願いするのです。ペンテコステ信仰では、今も聖霊の具体的な導きと助けを期待するのです。こちらの男性が良いか、あちらの男性が良いか、若い女性は迷います。そして神様の導きを求めて祈ります。聖書が教える信仰のあり方、結婚のあり方すべてを良く学び、能力の限りを尽くして考えた上でもまだ祈ります。日本の神学校に入るべきか、海外の神学校へ行くべきか迷い、祈ることもあります。私たちは、神様が正しい判断を与えてくださるように祈るだけではなく、神様の、何らかの直接介入の余地も残し、またそれを期待して祈るのです。



 このように考えてみると、私たち人間が今必要としているのは、むしろ個人預言や指示預言が多いということがわかります。将来に関する予言もまた、人間側からは必要と感じることがあるでしょう。この人間側の必要を、神が妥当と判断なさるか、あるいは聖書の基本的教えを、人間が、聖霊の助けと自分に与えられている能力によって理解し、自らの責任で選択決定をするようにと、判断なさるかの問題です。神が啓示をもって、しかも預言と言う手段をもって、人間生活に介入されるのは神の主権に属し、可能なことですが、それをすべき神の側の必要性、つまり必然性があるかどうかなのです。神には出来ると言うことと、神がなさると言うこととは別だからです。新約聖書の中にも、具体的な行動を示したり、特定の状況の中にいる者たちを励ましたり、警告を与えたりするための、啓示があり、また預言もありました。



 しかし、その頃は聖書が完結しておらず、啓示が終了していなかった、すなわち、人々は神の直接の啓示、導き、あるいは預言に頼らざるを得なかった状況であったという事実を、考慮しなければなりません。ですから、こと神のみ心に関する啓示は、聖書の完結と共に、その必要性と必然性が非常に小さくなったと考えるべきです。神のみ心に関する大概の問題は、完全な献身をもって、すなわち自己中心を捨てて、神中心の正しい信仰態度をもって、キリストのみ体である教会という理解の中で、聖書に教えられている基本をしっかりと学び適応することによって、解決されるのです。  現在の私たちの周辺に起こる問題は、私たちの理解力と、聖霊の照明の働きによって明らかにされ、また
歴史的に蓄積された教会の理解によって、さらには交わりとして現存する教会を通して教えられる、聖書の教えによって明らかにされ、克服されるべきなのです。


※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

(注) 

1・  このことは、アメリカアッセンブリーズ・オブ・ゴッドの教職者向けの季刊論文誌パラクレート、1998年の第2号にも例として取り上げられています。

2・ 日本ではアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団と呼んでいますが、アメリカでは教団色を嫌い「フエローシップ」すなわち交わりと捕らえて、そのような呼び方をしています。また、今日のアッセンブリーズ・オブ・ゴッドの世界的広がりを見ると、教団として捕らえるより、交わりとして捕らえるのがふさわしいと思えます。

3・  最近の出来事としては、ベニー・ヒンのアメリカ・アッセンブリーズ・オブ・ゴッドへの加入と脱退の経緯が好例です。

4・  個人預言をするような人々の多くは、自分に与えられる神の啓示の言葉には耳を傾けても、聖書の教えや、教会の指導者を通してお語りになる神の言葉には耳を貸さない傾向があり、気に食わなければ組織を離れ、単立になる例が多いようです。

5・  ルカは単にイエス・キリストと初代教会の史実を歴史として記録したのではなく、明確な神学的主題と目的を持って記したものです。マタイ、マルコ、ヨハネに比較すると、ルカの上下二巻の歴史書は、その初めから終わりまで一貫して、信じる者に力を与える聖霊の働きに焦点を当てていることが解ります。

6・  ヨハネの福音書に記されている、イエスの別れの教えの中では聖霊論が中心でありその中で、聖霊の証明の働きに関する教えが重要な位置を占めています。
 
7・  私たちに現在与えられる啓示は、霊感を(厳密な神学的な意味での)伴っていません。すなわち、その啓示を預言などで表現する場合、その言葉の一つ一つにまで、神の導きが与えられているとい言う保証がありません。ですから、現在の預言を性格に録音し書き写したとしても、それは聖書と同じ権威を持つものではありません。聖書が霊感を受けた書物であると言うのは、その一字一角まで聖霊の承認を受けた言葉であると言うことであり、単に啓示の書物だと言うこと以上のことなのです。
 
8・  個人的体験ですが、私がまだ沖縄で開拓伝道をしていたときの出来事です。午後早く、40歳くらいの男性が訪ねてきました。彼は伊江島という離島に住んでいましたが、普段から彼が仕えていた神様に、「朝早く発って金武村を訪ね、大通りを歩いて、大きな白い十字架が描かれている家に入り、そこの主人に詳しく話を聞きなさい」と言われ、8時間かけて訪ねて来たということでした。そこで私は、およそ5時間近くもかけて、天地の創造から始め、キリストの十字架、甦り、永遠の命、新天新地に至るまで、丁寧にお話して上げました。彼はその間非常に熱心に聞き入っていたものです。私はその時、彼が仕えていた神を「異教の神」と理解していましたので、なんとも心穏やかでなかったのですが、今は、天地をお造りになった神が、アブラハムを異教の地から呼び出されたように、この男性の真面目な宗教心にお答えになって、伊江島から私のところまで送り、救いの道をお教えになろうとしたのかも知れないと、考えています。
 
9・  ペテロはアナニヤとサッピラの物語、コルネリオの物語などで、パウロはバルイエスとの対面やコリントの働きの中、ローマ途上の船旅の場面で、ダマスコのアナニヤはパウロの回心後の指導に関わって、アガポは飢饉とパウロのエルサレムでの受難についてこの賜物を行使しています。
 
10・  ロマ12:1〜12の正確な解釈による

                                    つづく
























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2010年11月01日

小論・個人預言について


個人預言について
                                                                

T. 現存する預言
 


 ペンテコステの日にペテロが預言の成就として引用し、ルカがそれを自分の神学としてその歴史文書の中に取り入れたヨエルの預言は、現在の私たちの時代にもまったく有効です。すべての者に聖霊が注がれ、聖霊を注がれたすべての者は預言者となり得るのです。それが新約の神の民なのです。この預言の成就が今や効力を失ったと言う聖書的根拠はありません。しかし一方では、聖書正典が成立していると言う事実が、現在の預言の必要性と必然性に大きく関わっています。  



 アッセンブリーズ・オブ・ゴッドの歴史を見ると、現在における預言の存在は常に信じられてきたが、その性質と内容において、あるいは実践においてはずいぶん異なった見解がありました。ただ、預言の権威を聖書の権威と同等のものとしないという共通理解があったことが、様々な混乱の中でも福音的立場を堅持できた一つの大きな理由であったと言えます。ただ、預言が聖書と同等の権威とされないために、あえて、預言が書き留められることがないようにされて来たなどの努力はありましたが、神学的な努力はあまりされた形跡がありません。



U. 預言の定義



 ふつう預言と言われているものには異なった性質のものが含まれます。
 1. 神の啓示(聖霊による)を直接受けて語る言葉。
 2. 神の言葉を託された者として、聖書知識、信仰経験と人生経験による知識、さらにまた、直接の啓示による知識などを、聖霊の励ましと感動を受けて、実情や必要に応じて語る言葉。聖霊の感動を受けた説教、あるいは臨機応変でアドリブ的な勧め、励まし、警告。
 3. 異言の解き明かし。(アッセンブリーズ・オブ・ゴッドの一般的な教えの一つではありますが、正式な教理として取り入れられたことはありません。かなり初期の頃から、この問題には異論も多く、著名な人々が聖書的に疑問な行為として、注意を促しています。私たちが良く知っているドナルド・ジーもその一人ですが、現在はより多くの神学者がそのような見解をとっているように思われます。ICIの大学レベルの教えもそう言う立場ですが、ベレアは伝統的見解をとっています。)



V. 個人預言



 霊感を受けて書かれた聖書は、私たちの信仰と行いのために、神が充分と判断された啓示です。したがって、私たちは聖書に加えるべき性質の預言の存在を信じません。また、聖書の教えに矛盾する預言も受け入れません。そこで、私たちの信じる現在の直接啓示としての預言の多くは、神が特定の個人あるいは特定の人々の、特殊な事情に対して必要であると判断された、極めて限定された預言であると言えます。そしてその中に個人預言も含まれるものです。




W. 個人預言の問題点



 現代において考えられる直接啓示の預言として、最も可能性の高いものは、理論的な結論として個人預言であると言えるでしょう。しかし、そこには様々な問題が考えられます。
 1. 問題の少ない個人預言    たとえ個人預言であっても、その預言の内容が聖書の啓示の範囲内でそれに矛盾しない、しかも一般的な励まし、勇気付け、警告、注意などの場合は、あまり問題にはなりません。たとえそれが直接啓示ではなく、また、聖霊の励ましによるのでもなく、たんに預言する者の感情の高まりのなせる業であっても・・・・。
 2. 判別の困難な個人預言の源    語られた個人預言が、本当に神からの直接啓示であるかどうか、どのように判断するのかが問題です。旧約時代の預言にも同じ困難がありました。偽預言者、あるいは神がお送りになった偽りの預言者さえあったのです。予言が当たらないと言うのも一つの基準でしたが、絶対のものではありませんでした。エレミヤの予言は当たりませんでしたし、新約においても、パウロが自分の未来についての確信を語った・・・・・ある意味での予言、エペソには再び戻ることがないであろうと言う予測も外れています。
 3. 独善的権威主義に陥る預言者    自分が神の直接啓示を語っていると思い込んでいる人々の中には、次第に独善的になり、権威主義になる傾向があります。聖書の教えを無視し、教会の教え、兄弟姉妹の教えを無視することが多いのです。すなわち、もう一つの種類の預言を無視する傾向が強いわけです。
 4. 牧会配慮との軋轢    牧師は聖書の教えを出来るだけ正確に理解し、それを現在の私たちの生活に、あるいは個々の信徒の特殊な状況に、祈りと経験と常識を持って最善と思われる適応を選択します。しかし個人預言は、しばしばそのような牧会配慮と相反するものとなるのです。
 5. 個人預言に関する教えと例の不在。   新約聖書には個人預言に従えという教えはありません。また、個人預言を与えられた本人に対する神の直接の働きかけがないまま、第三者によって個人預言が語られたと言う例は、アナニアとサッピラ、バルイエスなどの裁きの例以外にはありません。




V. 個人預言に対する私たちの態度



 私たちは、正真正銘の個人預言が、現在でもあり得ることを、真摯な態度で認め、それ
に対して準備をしていなければなりません。
 1. 聖書知識を身につける。   聖書は、霊感を受けた神のみ言葉の権威を教え、これに従うことを命じているが、啓示としての預言については同じ命令が与えられていません。すなわち、権威を認めていないのです。 
 2. 聖霊と親しみ、霊を見分ける能力を与えてもらい、それを育てる。   羊は羊飼いの声を聞き分けます。
 3. キリストのみ体に聞く。   独善的にならず、聖書を読み、健全な著書を読み、多くの兄弟姉妹の意見を聞き、客観的判断が出来るようにすることです。
 4. その個人預言が正真正銘、神を源とするものであるという確信が得られなければ、牧会者としての自分の判断に従うことです。












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2010年10月30日

預言運動の問題を論じる (8)



VII.具体的対応



 では、自分たちの群れの中に、あるいは周囲に、いわゆる預言者が現れ、預言が行われたとき、私たちはいかに対応すべきであろう。思いつく示唆を列挙してみょう。



 A.おおらかに対応する
 


 私たちA/Gを始めとし、伝統的ペンテコステ教会の歴史の中にも、たくさんの誤りと間違いがあった。他の教会の兄弟姉妹にそれらを指摘されても、なかなか直すことができなかった。それを神は寛容をもって許し、わたしたちが少しずつ理解し、矯正していくのを忍耐深く待ってくださった。今もそうしてくださっている。今私たちがあるのは、ただ恵によるのである。また、私たちの欠点や欠陥を見て、ただちにきびすを返すような事をせず、他の兄弟姉妹たちからの勧告にもめげず、私たちとの交わりを持ち続けてくださった、兄弟姉妹がいたと言う事実も忘れてはならない。したがって、私たちも、他の団体やグループに属する兄弟姉妹に対して、その欠陥と誤りにも拘わらず、寛容と忍耐をもって、おおらかに交わりの手を差し伸べるべきである。事実、この預言に関わる問題を始め、現代聖霊派諸教会に見られる誤りと混乱の多くは、私たちの教会の歴史の中でも、しばしばくり返されてきたもので、いわば、体験済みである。



 私たちは他の福音派諸教会、あるいは社会派と呼ばれる教会に対し、聖霊派諸教会の急激な成長を取り上げて、神がこの時代、聖霊派の教会を用いてくださっていることを証明しようとする。しかしこの聖霊派なるものは、先にも触れたように非常に多様で、神学的にも、混沌というのがふさわしいと言えるほどである。それでも聖霊派の成長をあげつらうのなら、その混沌も、ある程度認容しなければならない。現代の預言運動は、たしかに非常に深刻な問題も秘めている。とはいえ、完結した聖書、霊感によって権威ある神の言葉とされた聖書があるいま、その混乱のひどさ、問題の深刻さは、聖書が完結していなかった使徒の時代、さらに、聖書が一般に行き渡っていなかった長い長い時代にくらべると、格段に小さい。今は聖書によって判断する事ができるからである。 



 プロテスタントキリスト教は、「兄弟姉妹たちがひとつであるように」というキリストの祈りよりも、「鶏口となるも牛後となるなかれ」という諺の教えの方を大切にして、分裂に分裂をくり返している。しかしそれにも増して、聖霊派といわれる兄弟姉妹たちは、「キリストには従うが、キリストのみ体である兄弟姉妹には従えない」ことを、顕著な特徴としているようである。「聖霊の導き」という主観に従う「敬虔と謙遜の仮面」をかぶっていながら、兄弟姉妹とひとつになって秩序を保つという、客観的にも明らかな信仰の道には従えないのである。いつも幻を見、預言をし、「み心み心」と言うのを口癖にしているふたりの宣教師が、折り合いが悪く喧嘩ばかりしていのを、私はこの目で見て来た。聖霊の働きがもっとも顕著であるといわれるお隣の国では、聖霊派の教会を筆頭に、分裂騒ぎが絶えないのも、摩訶不思議な現象である。しかし私たちは、神のみ前に本当の意味で謙虚にならねばならない。それは、他の兄弟姉妹を受け入れることである。
 


 とはいえ、預言をしている者を、どう考えてもクリスチャンと認めることができない場合、シンクレテイズムの擬似ペンテコステ体験を、もてあそんでいるだけと考えられる場合、私たちは断固として異教徒と見做し、異教徒として対応しなければならない。この場合、原則は明快であるが適用は難しい。この点は次項で取り扱う。



 B.厳しい目を持つ 



 おおらかに対応するということは、誤りと妥協せよと言うことではない。聖書の教える真理に対し、私たちは常に真摯でなければならない。だから、私たちは自分自身に対しても、兄弟姉妹に対しても、厳しく見る目を持たなければならない。誤りは誤りとして指摘しなければならない。しかし、その指摘が交わりを破壊するような指摘であってはならない。兄弟愛と注意深さが肝要である。
 


 私たち日本人は、誤りを指摘して互いに気まずい思いをするよりは、静かに去ることを選ぶ。付き合いをしなくなる。日本人の教会も、つい、そのような日本人的解決方法を取る。しかし、教会はそのようなものではない。もっと互いに干渉し合う、運命共同体である。強い交わりの絆を保ちながら、厳しく干渉するものである。個人主義の背景とポストモダンの傾向をもち、主観的体験を重んじ、独り悦に入ることが好きな聖霊派の兄弟姉妹に、真摯な態度で聖書を説き、誤りを指摘するのは至難の業であるが、彼らが兄弟姉妹である限り、私たちは努力をしなければならない。本当の聖霊運動は分裂の運動でも、互いに無関心を装う運動でもなく、一致と協力の運動である。
 


 そこで私たちは、主にあってひとつのみ体に属する者であることを先ず強調し、私たちの伝統的ペンテコステ諸教団も、歴史の中で同じ誤りを犯してきた事実を認め、ただ恵みによって、その誤りに完全に陥ることがないように、助けられてきたことを語ることができる。そのようにして私たちも、自分たちの過去の過ちを良い方に生かす事ができるのである。 
 


 私たちは、また、シンクレテイズムによる擬似ペンテコステ体験に対して、鋭い霊的嗅覚を持つ必要がある。例えば、私たちにとって大切な「異言」も、現在、世界中の様々な宗教が、自分たちの宗教体験として類似の体験を認めている。使徒の時代とは異なって、今や、自分たちと同じように異言を語っている人がいるからといって、それだけで、自分たちの仲間と認めることはできないのである。異言は、「しるし」とはなり得なくなっている。「マリヤ様」を礼拝し、キリストの像に頭を下げながら、異言を語る人たちもたくさんいる。キリストの名を語りながら、様々な不思議と癒しを行い、預言をし、啓示を語る一方、異教の神を祭り、犠牲を捧げる者も少なくない。このような現象的シンクレテイズム、擬似ペンテコステは、神学的にも実際的にも識別困難で解決しにくい問題として、私たちに立ち向かうことになるだろう。本当のところ、このシンクレテイズムの擬似体験は、モーセの時代から、本物の神体験への挑戦であった。それは現代の第三諸国においてだけではなく、アメリカにおいても日本においても、同じように挑戦となっている。



 そこで問題は、何をもってクリスチャンと認め、何をもって異教徒と判断するかである。クリスチャンの間には、異教徒的感覚、理解、生活を持ち続けている者がたくさんいる。むしろ、私たちを含め、ほとんどすべてのクリスチャンがそうである。特に、異教文化からクリスチャンになった者にはその傾向が強い。どこまでが異教徒的なものを引きずっているクリスチャンで、どこまでがクリスチャン的なものを取り入れた異教徒か。注意深い観察と分析と判断、「厳しい目を持つ」ことが必要である。そのために、福音主義の神学の基本をしっかりと学びなおし、その基本をゆるがせにしない事と、基本に関わらない事については、できるだけの柔軟性と許容性を持つことが大切である。



 C.信徒を預言運動の関係者から遠ざける
 


 真実の兄弟姉妹たちとは、キリストのみ体としての交わりを保つことが、非常に大切である。しかし、それによって信徒たちを誤った教えと実践に巻き込む事は愚かである。聖書知識をしっかりと持ち、預言運動の誤りを心得ている者は、機会があれば、預言運動の関係者と付き合い、断られない限り彼らの集会にも出席すべきである。そして、愛の交わりを確立した上で、彼らの誤りを指摘すべきである。しかし、聖書の知識が不充分な者や、主観的体験を熱望している者、あるいは一般信徒たちを彼らに近づけるべきではない。また、彼らを自分たちの教会や集会に招くべきではない。講師として招くなどは論外である。また、彼らの著書も遠ざけておくべきである。預言運動をしているものが近隣にいる場合、また、何らかの形で彼らの影響を受けそうな者がいる場合は、その間違いと危険性について学ぶ機会を持ち、信徒を保護することも必要であろう。誤って彼らが自分たちの教会に紛れこみ、勝手に預言を始めるようなことが起こった場合、直ちに、牧師の権威をもってとどめなければならない。



 D.正しい預言を教え、預言する事を励ます 
 


 パウロが預言の賜物として強調し、ルカが歴史の形で残した彼の神学で、終わりのしるしとして記録したヨエルの預言の成就は、まず、聖霊の感動を感じ、会衆の状態に応じて臨機応変に福音を説く、即興の説教としての預言のことであった。このような預言は、教会の中で、勧めの言葉、励ましの言葉、慰めの言葉として理解され、受け入れられるであろう。それは、場合によっては、良く準備された牧師の説教という預言よりも、さらに効果的に用いられるに違いない。それが秩序正しく、一度にせいぜい2、3人の者によって行われるのならば、大いに推奨されるべきものである。また、そのような預言のためならば、訓練も練習もとても意義のあることであり、預言者の学校も価値を持つ。



 とはいえ、これは聖霊の直接的介入による預言、すなわち夢や、幻、さらには聞えてくる言葉による預言を排除するものではない。しかし、先に述べたように、そのような預言は、聖書が完結し、印刷技術が発達し、誰もが聖書を読むことができるようになった現在の私たちの状況においては、あまり必要とされていないことも理解すべきである。



 福音の宣教としての預言は、福音の本質を知り信仰に生きる成長したクリスチャンの賜物である。神の直接介入の預言は、聖書を知らず信仰の弱いものに対する、神の憐れみである。必要性のあるとき、神の直接介入の預言を求める事に異議も異存もない。しかし、そのような預言を求める必要が起こってこないように、常に聖書を学び、信仰の訓練を続けて行くべきである。




E.すべての預言を吟味する



 「吟味」に関する問題は前述した。預言というものを神からの直接啓示と考えていながら、なおかつ、預言するものが、これは吟味されるべきだと思うような預言は、口に出すべきではない。しかし、現実には現在の預言運動で預言をしている者の多くは、そのような曖昧な預言をしている。彼らの影響を受けた者が、私たちの教会で預言をしないとも限らない。それならば、吟味しなければならない。



 しばらく前に、ミャンマーのA/Gでシンクレテイズムによる預言の問題が起こったとき、指導者たちは四つの吟味方法を教えて混乱を押さえ込んだ。その四つの吟味方法とは、@その預言が聖書の教えに調和しているか、A信徒たちの徳を高めるものか、B成就しているか、Cキリストのみ名に栄光を帰しているか、ということである。  私はそれらにもう一つ、客観性を加えたい。ミャンマーA/Gの吟味方法でも客観性が焦点とはなっているが、別の項として加えたい。使徒の働きの記述を見ると、面白いことに、預言者たちは一人で行動をしないで、何人かの預言者たちが一緒になって行動しているのに気付く。これは、一人が預言をすると他の預言者たちがそれを確認するというような、より客観性のある預言が求められていたからではないだろうか。




 F.個人預言、指示預言、未来預言などを重視しない 



 私たちは、個人預言あるいは指示預言、さらに具体的な導きなどが、現在もあり得ると信じている。そればかりではなく、すでに述べたように、いわゆる福音宣教に関わる即興の説教としての預言ではない、直接的な神からの語りかけを取り継ぐ預言は、そのほとんどが個人預言あるいは指示預言であるはずだと理解している。では、私たちはこのような個人預言、指示預言をするように、あるいは受けるように励ますべきであろうか。



1.預言や指示預言をする者に対し、いちがいにやってはいけないと言うことはできない。また、やりなさいと言う事もできない。本当の意味で霊性が整えられた者は、そのような方面でも神に用いられることもあり得る。霊性が整えられる事は大いに結構であるから、それは勧めることができる。ただ、個人預言や指示預言、あるいは未来の予告などの預言を、「売り物」のようにして活動している人物に対しては、かなり、大いに、相当、疑ってかかるのが良いであろう。本来、あまり必要とされていないその種の預言を頻繁に行い、それをセールスポイントにしているのが怪しいのである。その人物は、神の霊によってではなく、何か他の能力や力によって預言している可能性が、非常に高いと言わねばならない。



2.さらに、そのような預言をする事が「賜物」であると考えて、これを求めるものが周囲に現れたならば、パウロが賜物として語っている預言はそのような預言ではなく、宣教に関わる即興の説教であり、教会全体の益となるものである事を教え、まず、その賜物を熱心に求める事を勧めるべきである。そして、その預言の賜物を忠実に行使して行く中で、個人預言などの能力もまた、与えられることを期待するように諭すべきである。



3.個人預言や指示預言を「されてしまった」者に対しては、どのように取りあつかうべきであろう。私自身にも、「あなたはあの女性と結婚すべきです」と預言された、華やいだ時期があった。その指示に従わなかったのが、私の・・・・・であった。「あなたは音楽をもって主に仕えるようになります」と預言されて、その気になってアメリカに留学してしまった女の子も、隣の教会にいた。ただし、彼女は音楽のセンスを持ち合わせないまま、3年が過ぎた。神は、賜物を与えずに奉仕をしろとおっしゃるだろうか。ない袖は振れぬはずである。奉仕を与える場合には賜物も与える。これが神の原則である。用いられた神の人は、みな、「何の取り得もない私が」と、あたかも賜物が無かったような証をする。それは謙遜の言葉であり、賜物は文字通り「賜わった物」で、自分の物ではないからそれで良い。しかしそれは、賜物がないまま働かされるのとは違うのである。
そういうわけで、個人預言や指示預言のほとんどは、無視して良いものである。聖書をしっかりと読み、信仰を堅く持っていると、不要な預言である。いらぬお節介である。しかし、そんな指導をしてしまってはみもふたもない。躓かせるのが落ちである。ここでも、おおらかに対応するのが肝要である。したがって、その預言が客観性のあるものになるように、しばらく時を置いて待つ事を教え、その間に、聖書の教えに馴染ませ、本人が聖書の教えを基盤とした、責任ある自己選択ができるように整え、自らの意思をもって決定するように勧めるべきである。



 もしその預言が、本当に神からのものであるなら、聖書の教えに照らしても妥当であり、客観性も与えられるはずである。誰かによって預言されるだけではなく、自分にも確信が与えられるべきである。パウロはアガポの預言を聞こうが聞くまいが、自らに何が起こるか、御霊によって知っていた。しかも彼は、自分の行動を自分の責任で決定している。個人預言や指示預言が与えられようが与えられまいが、私たちは聖書知識と信仰に立って、自らの責任によって正しいと思う選択と決断をすべきである。



4.ときおり耳にする、未来のできごとについての、一般的な預言についてはどう考え、また対処すべきであろう。結構有名な伝道者たちが、幻を見たなどと言って、たとえば、将来の世界について預言をしている。



 すでに述べた事ではあるが、私たちには聖書という充分な神の言葉が与えられている。未来の出来事についても、神がこれだけ知らせておけば良いとお考えになっただけの、預言と知識はすでに与えられているのである。それ以上のものは、基本的に不要なのである。さらに、私たちが、聖書以外の啓示や預言に服従しなければならないという教えは、聖書のどこにもない。したがって私たちは、一般的な未来預言を完全に否定する必要はないが、あまり重大に考える必要もない。端的に言って、無視しても良いものである。今後わたしたちがどのような事に遭遇しようが、聖書に与えられている預言と知識に立って、信仰を持って進んで行けば、それでこと足りるからである。 



 とはいえ、一般的に将来の出来事が示された後に、個人預言や指示預言に近い、警告や導きが加えられる事がある。そのようなとき、どうすればよいのであろう。ここでも、私たちに求められていることは、聖書の教えに従う事であり、聖書以外の啓示や預言の言葉に従う事ではないことを、思い起こすべきである。そのような警告や導きを、聖書によって「吟味」し、聖書の教えに反していなければ、心に留めて置くのが良いだろう。たとえ、預言や警告のとおりにことが運んでも、あるいは運ばなくても、聖書に立って、信仰によって歩めばそれで良い。



 神が警告しようと思えばそうなさり、導こうと判断すればそうなさるだけの事である。神には、私たちの小さな信仰あわれみ、励ますために、今、私たちの日常に直接介入する力と権威があり、介入しない自由と権利もあるからである。しかし、くり返すが、基本的に、私たちに必要な預言と知識は、すでに、すべて与えられているのである。



終わりに



  私が体験した面白い出来事を紹介して、しめくくりとしたい。
  
  もう30年ほども前になるが、私はフイリピンの神学校で、レポートを一つまとめようとしていた。それは「宣教師の召しの心理」という題で、年齢も、国籍も、団体も、働きの種類も異なる50人の宣教師たちに、個別に長いインタビューをして、いわゆる宣教師になるための特別な「召し」の概念について、調査しようと試みたものである。50人の内の2人は「宣教師になるための特別な召しは不要である。自分は召しを受けたから宣教師になったのではなく、献身の選択として宣教師になったのである」と答えて、自分たちの考えをきちっと聖書から説明した。他の3人は幻を見たために宣教師になり、内1人は同時にはっきりとみ声を聞いていた。そうでなければ、宣教師にはならなかったとのことである。残りの45人は、「聖霊の内なる証」に押し出されて宣教師になっていた。その、「聖霊の内なる証」という霊的な言葉を、日常の言葉で具体的に言いなおすと、感動的な宣教師の伝記を読んだとか、自分たちの家に宣教師が泊まり、いろいろ話しを聞かせてくれたとか、教会の宣教大会で励まされ、決心したなどということで、すべて、ごく自然の心の動きに過ぎなかった。


 宣教師になるための召しは不要であると答えた2人は、共にA/Gの男性であり、そのうち1人は、当時聖書学校の校長をしていた。一方、幻を見、み声を聞いたから宣教師になったと答えたのもA/Gの宣教師で、あの聖書学校の校長の奥さんであった。さらに彼女は、「もしあなたが、宣教師になるようにという特別な召しを受けないまま、宣教師になった人に出会ったら、どのようにサジェッションしますか」という問いに、「その人は神のみ心に反した、誤った道を歩んでいるのだから、ただちに帰国するように忠告します」と答えていた。



 その頃わたしは、もう一つの神学校でも科目を取っていて、この校長夫婦もまた、同じ神学校で学んでいたため、いつも彼らの車に便乗して通学していた。ある日、車の中で話しが弾み、話題が私のレポートのことに及んだ。そうこうしているうちに、校長の奥さんは、こともあろうに、自分の夫が宣教師の召しを受けていないと答えた2人の内の1人である事を知り、悲鳴に近い声をあげた。「まあ! あなた。30年以上も私をだまし続けてきたのね!」



 それから、熱帯マニラのひどい渋滞の中、エアコンも利かない車の中で、およそ30分間、激しく熱い言い争いが続いた。奥さんの剣幕ははなはだしく、どう見ても声の上では御主人の負けであったが、やがて、御主人が静かに言った。



 「ハニー。僕は、きみが神様から特別な召しをいただいた事を、心から喜んでいるよ。だって、きみは、聖書学校の中で一番美しく(主観だと思う)、一番頭も良く(これも怪しい)、何でもできて、素晴らしい女性だった(確かに何でもできてでしゃばり気味)。僕はきみが好きで憧れていたけれど、とてもそれを言い出す事はできなかった。だって、きみは、宣教師になるために必要な、あらゆる資質と能力をいただいていたのに、そんな事にはまったく無頓着で、いつも、派手なドレスを着て、きらきら光るネックレスにブレスレット、指輪にベルト、イヤリングにマニキュアと、自分をもっと美しくすることに夢中になっていた(30年以上経ってもそうだった)。僕は、あまり能力もなく見栄えもしない普通の学生だったけれど、神様の栄光のため最善に用いていただきたいと願って、宣教師になる事を決心していた。きみが宣教師になるために必要だったのは、自分の賜物を認めて宣教師として献身する事だったけれど、きみには、その献身ができなかった。だから、神様は、きみの献身を促すために、幻を見せ、み声を聞かせてくださったわけだ。すでに宣教師になろうと献身していた僕には、神様は、幻を見せる必要もみ声を聞かせる必要もなかった。だから、僕は、特別な召しはいただかなかったのだと思う。そういうわけで、僕は、きみが特別な召しを受けた事を、とても感謝しているよ。だって僕は、自分には能力はないから、僕より能力のある妻を与えてくださいと、そっと祈っていたんだからね。神様は、僕の祈りに答えて、きみに幻を見せ、み声をかけてくださったわけさ。きみが、宣教師になる召しを受けたと証したとき、僕は、天にも上る思いで、きみに結婚を申し込んだんだよ」。



 話しを聞いていて、私は、アメリカ人の男性の口のうまさに舌をまいた。女性を誉めちぎって、ちゃんとあやつっている。また、そこまでしなくてはならないアメリカの男性に、心から同情した。しかし、それよりも、彼が言ったことは、非常に深い洞察だと感心した。



 現代の特別な導き、幻、み声、預言は、強いクリスチャンに対するものではなく、弱いクリスチャンに対するものである。私たちは、今も生きておられる神を信じ、その神に祈る。答えを期待し、介入を期待して祈る。そして、たとえ神の応答が目に見える形では現れなくても、見ないで信じる信仰を持って歩む。きちっと聖書を学び、しっかりと信仰を持つならば、日常、あまり特別な啓示を必要としなくなるのである。大切なのは、聖書に立つ信仰である。
    
                                     おわり











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2010年10月29日

預言運動の問題を論じる (7)


VI.聖書の権威と現代の啓示



 私たち伝統的ペンテコステ信仰に属する者は、現在流行の預言運動の人々とは異なっていても、原則として、現代の啓示あるいは預言というものの存在を認めている。ペンテコステ信仰がここまで広がりを見せている現在、福音的信仰を持つ者の中には、もはや癒しや奇跡と言った現象に躓くものはないであろう。あるいは異言には「薄気味わるさ」を感じる者はいるかもしれない。しかし今、ペンテコステ派と福音派の交わりを妨げている問題は、聖書の権威の問題である。福音派の人々は、ペンテコステ派の人々が認める預言などの啓示によって、聖書の権威が脅かされると感じているのである。
 


 もし、預言に代表される現在の啓示も、神から与えられたものとして権威を持つならば、私たちはその権威を、どのように位置付けたらよいのだろうか。それは神の言葉として、聖書と同等の権威を持つのだろうか。そのような啓示を集めた、あるいは預言を収録した記録は、聖書に加えられるべきものだろうか。あるいは、モルモン教のように、あるいは統一協会のように、聖書以外の聖典を持つことになるのだろうか。そこまで行かなくても、セブンスデー教会のように、聖書以外の権威の書を持つことにはならないだろうかと言う事である。



 A.聖書の権威



 ここで改めてはっきり確認しておきたいのは、聖書が神の言葉として絶対の権威を持つのは、聖書が啓示の書だからではなく、霊感によって書かれた書だからであるということである。聖書が単に啓示を収録した書物に過ぎないならば、権威という面では、「現在の預言」を収録した書物とあまりかわらない。しかも、すでに述べたように、聖書の記述のすべてが啓示によって与えられたものではなく、人間の記録も言い伝えも歌も、あるいは悪魔の言葉までも含まれている。これら全体を神からの啓示として権威付けているのは、神がこれを霊感と言う手段をもって、御自分の意思の通りに、誤りなく書き記させたという事実なのである。



 啓示というものは、預言を含めて、たとえどのような手段で与えられたとしても、人為的な誤りの入る余地がある。例えばある人が、物凄く太った人間の幻を見て、それを「豚のように太った」と表現したとする。この場合、「豚のように」という表現は彼のものであって、神のものではない。神がお与えになったのは幻であって、その「表現や形容」ではない。あるいは神は、「河馬のように」という表現を望んでおられたのかもしれない。また、一般的人間にはごく普通の、表現不足という欠点もある。あるいは、人間の言葉という限られたコミュニケーションの媒体には、適当な表現がない場合さえあるだろう。さらに、人間の「聞く」「見る」という感覚には、間違いが入る余地がたくさんある。神の言葉を直接聞いて、それをそのまま「預言」したとしても、そこには聞き違いが入る余地があり、言い違いの入る可能性がたくさんある。幻覚、幻聴という現象も知られている。視覚、聴覚などの感覚をつかさどる人体機能は、わずかな物理的刺激を加えるだけで誤作動をする。また、預言というものが、一般に言われているように「神からの直接の言葉」として与えられる場合より、「概念」として与えられる事が多いのだとすると、人為的誤りが混入する可能性はさらに増す。概念が、どのような理論構成と構文と言葉で表現されるか、人間に任せられているのである。



 そういうわけで、現在どのような人物によってどのような預言がされようと、その預言がテープやビデオに残され、正確に記録されて出版されようと、それらが聖書と同じ権威を持つ事はない。それらは霊感されていないからである。くり返すが、聖書が霊感されているというのは、聖書に用いられている表現、言葉の一つ一つに至るまで、神様のお墨付きがあるということ、神様が、その表現で良い、その言葉の選択で良いとおっしゃっていることなのである。したがって、正統的なペンテコステ諸教会が預言などの啓示に与える権威は、改革派諸教会がウエストミンスター信仰告白に与える権威に比べると、非常に限られている。ペンテコステ諸教会は、少なくても、現代の啓示は、聖書によって正否の判断がされるべきであると考えている。一方、ウエストミンスター信仰告白は、しばしば聖書を解釈する基準にさえされているからである。



 B.誤りのない神の言葉 



 聖書が誤りのない神の言葉であるという主張、信仰は、福音派の教会の砦である。では、この「誤りのない」という言葉はどういう意味であろう。福音派の中でも、私たちが所属している「根本主義」と言われる仲間たちは、聖書の一点一画にいたるまで神の霊感を受けているのであるから、間違いの入る余地がないと考えている。私自身もまたそのように信じている。しかしそれは、神様が「よろしい」とおっしゃって、お墨付きをお与えになったという意味で、誤りなく、神の言葉なのであり、現代の自然科学、合理的な考え方から見て、誤りがないというのではない。



 聖書の無誤謬性は近代自然科学の発展とともに、疑いのまな板に載せられ、切り刻まれてきた。それに対し、福音派は真剣に防戦し、根本主義者は自然科学の不完全さを突いて、攻撃する事によって防戦してきた。確かに、自然科学が未発達であったために、聖書の記述が誤っていると断定された場合もあった。私がクリスチャンになりたての頃は、処女降誕が非科学的であると、しばしば論戦を挑まれたものである。今は科学がさらに進歩し、処女降誕などごく当たり前になってしまって、話題にもならない。



 しかし、聖書は自然科学の上からも間違いないと私たちが主張するのは、すでに私たちが戦っている啓蒙主義、合理主義の土俵の上に乗せられている事なのである。神は、聖書を通し、ご自分のみ姿と、贖いのご計画を示し、それに対する人間の応答がどうあるべきかということを、お教えになったのである。自然科学をお教えになろうとしたのでも、自然科学から見て誤りがないように心がけられたのでもない。神の意図、目的はそのようなところにはなかったのである。



 また、聖書が与えられたのは、啓蒙思想に影響を受け、合理主義の考え方を当然とし、自然科学を絶対視している現代人ではなく、あくまでも、そのようなことには無関係に生きていた、1900年から3500年も前の人々であったことを、理解しなければならない。神は、そのような人々に最も理解されやすいように、そのような人々の世界観にそって、救いの啓示をお与えになったのであって、天地創造に、実際どれだけの時間がかかり、どういう手順で創造が行われたのかと事細かに教え、かえって混乱を起こすようなことは、良しとされなかったのである。そのような配慮のもとに与えられた啓示を読んでいるのであるから、現代人は、現代人の感覚を聖書の中に読み込んではならない。啓蒙思想と関係のないところで書かれた書物は、啓蒙思想と関係なく解釈されるべきである。
そういうわけで、創世記第一章の記述が、自然科学の上からも間違いがないと強弁して、一日は一日であると証明しようと躍起になったり、一日は千年でも万年でもあり得ると言い逃れを考案したり、一節と二節との間に大きなギャップがあり、アンモナイトも恐竜もみなその中に入っていると、困難な解釈を試みたりすることが、すでに合理主義の土俵に立っているで、私たちのするべきことではない。神は、人間が、文字通り七日間で天地創造が行われたと信じたとしても、それでかまわないとお考えになったのである。そのようなことは、神の救いのご計画にまったく関係のない事だからである。神は、贖いと救いの神学においてさえ、誤って理解している人間、あるいはまったく理解していない人間をも許し、また赦して、救いに入れてくださるために、キリストの贖いを通しての救いを、賜物として準備してくださったのであるから、創造が七日間で行われたと信じていようが、人類の歴史は6千年ほどだと信じていようが、間違いなく救ってくださるのである。



 創世記第一章は、神が天地を創造なさった神であることを明確にし、創造された万物は、神によって秩序正しく存在するようになったことを教え、人間が神に似せて造られた事実を、最も端的明快にしかも感動的に語り、人類贖いの歴史の発端を伝えるものである。自然科学の教科書ではない。同様に、マタイの福音書が、歴史としては時間が不正確であるいう論議も、それが、マタイ流の歴史編纂の仕方であって、現代の私たちが馴染んでいる歴史編纂の仕方とは、異なっているだけのことである。

 

 C.聖書の完全性
 


 聖書は完全な書物である。そこに付け加えられたり、取り除かれたりしてはならない。どのように素晴らしい啓示があり、感動的な預言があったとしても、聖書に加えてはならない。また、聖書と同じ重要性を与えてはならない。これは、現代の預言運動の指導者たちも、異口同音に言う事である。とはいえ、個々の人間が継続的にあるいは頻繁に、預言などによって導きが与えられ、指示が与えられると、聖書よりも、そのような導きや指示に心を奪われ、それらに従って行く事のほうが多くなる。そうすると、実際上、それらが聖書と同等に取り扱われ、また、聖書より重要視されて行ってしまうのである。



 聖書は信仰の知識と行動に充分な書物であり、人間が信仰生活をして行く上で、これ以上の知識と行動の導きを必要としないものである。とはいえ、人類一般の贖いの歴史に関わらない、個々人の生活上の選択や決定においては、「神の具体的な指示や導きがあればよいのに」と思うことが数多くある。私たちの中に、「神様、お導きください」と祈った事がないものがいるだろうか。伝道者となるために、「個人的召し」なるものを求めた事がある人も、大勢いるに違いない。もし、私たちが充分な聖書の知識を持ち、充分な信仰を持っているなら、ほとんどの場合、そのような祈りは不要であるが、現実には、僅かな聖書知識と小さな信仰によって生きているために、そのような祈りが切実に必要なのである。また、そうするとき、私たちは理神論者がするように気休めで祈っているのではなく、実際に導きと召しの確証を求めて、つまり、何らかの啓示を求めて祈っているのである。そして、しばしば、神はそのような人間の不完全さを考慮してくださり、聖書をしっかりと理解し、信仰を持っていれば必要のないような啓示を、改めて、与えてくださるのである。現代も、あたかもギデオンが羊の毛皮を持って求めたように、信仰の強さのゆえにではなく、信仰の弱さのゆえに啓示を求めるものがたくさんいる。そして、神は憐れみによって、その求めに応じてくださる事もあるのである。



 また、聖書が完全な書物であるというとき、それは、私たちがこれで充分と感じるという意味ではなく、神がこれで充分とお考えになるという意味である。私たち人間の側からすると、聖書は必ずしも充分な書物ではない。とくに、ギリシャ的思考で、興味本位に、つまり、自分が知りたい事を知ろうとして、聖書を読む傾向にある哲学者や組織神学者、あるいは現代人一般には不充分である。また、自分で考えたくない人間、自分の信仰で行動をしたくない人間、すべてのことにいちいち指示と導きを求めたい人間にも、聖書は不充分である。しかし、神は私たちに思考力を与え、決断力を与え、それらを正しく用いる事を望んでおられる。神は人間にお与えになった能力に応じて、責任を求めておられるのである。そういう前提で、聖書は完全で充分な書物なのである。

                                     つづく












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2010年10月28日

預言運動の問題を論じる (6)


V.パウロが語る啓示と預言



 新約聖書において、啓示、あるいは預言について最も多く語っているのはパウロである。彼はどのように理解していたのであろうか。パウロに最も近かったもう一人の神学者、ルカの語ることにも注意を向けながら、考えて見よう。



 A.パウロ自身に与えられた奥義としての啓示



 パウロは特別な意味で啓示を受けていた。彼はその啓示を自らの神学の土台、あるいは骨格としていた。彼の教えに負うところが多い神の贖いのご計画についての一連の神学、すなわち、業によらない信仰による救い、福音の普遍性、救われた者が構成するキリストのみ体としての共同体、復活と再臨に関する出来事などは、すべて、神からの特別な啓示によるのであって、奥義、すなわちそれまで明らかにされていなかった真理の、新たな啓示に属するものであった。彼自身の宗教的瞑想でも悟りの結果でもない。また、パリサイ学徒としての学びの実でも、先輩の使徒や弟子たちに教えられたものでもない。パウロは、その啓示がどのような手段で与えられたのかについては沈黙しているが、啓示自体には絶対の権威を認め、他の者にも、その権威を認めること要求している。(Iコリ1:10、IIコリ12:1,7、ガラ1:12,16)



 とはいえ、パウロは、啓示を受けることができるのは自分だけだと主張しなかった。事実、彼以外の使徒や弟子たちも啓示を受けた。しかし、パウロが受けた啓示はやはり特別の啓示であり、誰でも受けられるという類のものではなかった。実際、ペテロとヨハネを除いては、他の誰にも与えられていない特殊なものであった。しかも、奥義に関わるその量と内容の深遠さにおいては、ペテロとヨハネをはるかに凌駕している。ただ、パウロは、啓示の分類には興味を示していない。というより、あえてそれを避け、曖昧なままにしておいたのだとさえ推測される。もしそれを明確にすると、自分に与えられた啓示は、他の使徒や弟子たちに与えられた啓示とは異なる、高度なものであることが明らかになり、心ならずとも、使徒としての自分の優位を主張する結果になるからである。パウロは、すでに緊迫感が高かった他の使徒や弟子たちとの人間関係に、不要な軋轢を産み出すことを嫌ったのである。



 B.個人預言、指示預言、未来予言



 パウロは個人預言、あるいは指示預言と呼ばれる預言を認めている。それはパウロ自身の生涯にも幾度かあった事であり、他の者の生涯にもそれを認めている。あるいは明確には、預言という手段ではなかったかも知れないが、神の直接の導きを体験していた。(使徒13:2,16:6〜10、18:9〜11、19:21、26:19、27:22、ガラ2:2、Iテモ1:18、4:14)ただし、これらの預言あるいは導きは、先に述べたように宣教の働きに関わるものであって、個人の損得利害の問題に関わるものではなかった。また、聖霊による預言にも明確な指示ではなく、単なる予告も含まれ、それに対してどう行動するかは、預言を受けた本人の判断に関わることもあった。(使徒21:4〜14)さらに、パウロの場合、聖霊の示しを間違って理解していた事さえあったと考えられる。(使徒20:23〜25)また、啓示に御使いが関わっている場合もあった。



 また、未来に関わる預言、いわゆる予言も排除されていない。個人預言、指示預言もまた未来に関わる事が多い。使徒の働きに記されている、アガポによる飢饉の予言は特異なものである。しかしこの予言も、単なる興味本位の予告でも危機を回避せよという指示でもなく、福音宣教に関わるものであると理解すべきである。この予言は、贖いの福音の奥義としてのキリストのみ体、宣教の担い手としての教会が正しく形成されて行くため、つまり、互いに助け合う愛の共同体として具現されて行くため、しっかりと準備させて行く役割を持ったものであった。



 C.イルミネーション
 


 神学的には「照明」という言葉で現されるこの現象は、イエス様が聖霊の顕著な働きとして言及されたものである。(ヨハネ14:26、15:26)聖霊のこのお働きは、現在、私たちが祈り心をもって聖書を読む時、また聖書で教えられている真理について祈りながら考え瞑想するとき、聖霊がより良くより正しい理解に到達させてくださること、あるいは時代と文化、背景と環境に適した理解を持たせてくださる事である。



@ Iコリント12章及び14章の預言 
 パウロは聖霊のこの働きを、教会の集まりの中で、また個々のクリスチャン生活の中で、重要なものと認めていたと考えられる。例えば、Iコリント12章〜14章で彼が語る預言というものは、基本的にこの働きに関わるものではないだろうか。聖霊の賜物として預言するという事は、従来考えられていたような、聖霊の直接の干与、あるいは啓示としての預言ではなく、つまり、「主は、こう仰せられる」という種類の預言、旧約聖書時代の預言者の直接啓示としての預言のようなものではなく、聖書の御言葉が聖霊の照明の働きによって、語るものにさらに明らかにされ、あるいはその場の状況に適応され、語らされたものではないだろうか。聖霊はお選びになった語るべき者を励まし、勇気付け、語り出させてくださるのではないだろうか。このような預言に関する聖霊のお働きは、祈りと学びと黙想によって良く準備された説教に対する関わりと、基本的に同じである。ただ、コリント書で言われる預言の場合は、一般の状況に応じて良く準備された説教としての「預言」より、その場の実情、必要、ある特定の人間に対する、即興的な要素が強い。音楽で言うと、練習の積み重ねで演奏されるオーケストラに対して、即興的なひらめきによる演奏が重視される、ジャズのようなものである。しかし、即興的演奏には、基本的な音楽知識と能力は欠かせないのと同じように、あるいは、むしろそれ以上に、預言をする者も、聖書の教えに対する知識と洞察を欠く事はできない。 
  


 ペンテコステの教会の中では、コリント書の中で語られている預言を、聖霊が預言者を通して直接語りかけてくださることと理解し、聖霊の照明によって聖書の知識に洞察と理解が加えられ、それをまた、聖霊に語るように励まされて語り出す、即興の説教であるとは理解して来なかった。これは、より奇跡的と思える出来事を重視する傾向のある、ペンテコステ教会としては自然な出来事であったであろう。しかし、私自身の40年以上に渡るA/G教会での生活の中で、あるいは他のペンテコステ教会との交わりの中で聞いた預言は、ほとんどが、神の直接的な語りかけを取り継ぐ預言と解釈するよりは、むしろ、即興の説教、励ましの言葉、慰めの言葉として理解した方がふさわしい預言であった。少しばかり美しさの欠けた日本語だったり、無理にキング・ジェームス英語を使っていたりで、まだまだ洗練される余地を残していたものも、少なくなかった。預言する者がもう少し聖書の言葉に馴染んでいたら、聖書の知識にも富んでいたら、話し方のほうも、もうちょっと洗練されていたならと思う事もあった。このような預言こそ、預言者の学校で練習をするのが良いのではないだろうか。



 パウロは、即興の説教としての性格を持つこの種の預言を重視し、できるだけ多くのクリスチャンがこの賜物を持つ事を望み、そうなるように励ましたと思われる。ルカもまた、パウロと同じように理解していたと思われる。ルカが使徒の働きを通して強調しているのは、現代の預言運動の推進者たちが強調するような預言ではなく、宣教の働きであり、宣教に関わる言葉としての預言である。彼は、老若男女すべての者が、この預言の働きに携わっていく時代になったことを、使徒の働きの始めの部分で、ペテロによるヨエル預言の引用を持って示したのである。もちろん、これらの預言者たちが、個人預言をし、予知的な預言もしたであろうことは、想像に難くない。



 パウロがIコリント14章で預言について語ったとき、彼の頭にあったのは、一種の説教としての預言であったと理解すると、14章全体が滑らかに理解できるのである。パウロは預言者の霊は預言者に服従すると言って、預言が預言する者の意思によって語ったり語らなかったり、抑制する事ができるものであると教えている。したがってこの預言の大切さは、教会の秩序の大切さに劣る程度のものである。これは緊急性のある、あるいは強い指導や指示の性質のある預言、さらにはパウロ自身が受けた贖いの奥義に関わる預言には当てはまらない。従って、14章で語られている預言は、たとえ「啓示」であったとしても、その性質と価値において、一段低いものと考えられていたと理解できる。  また、教会には女性の預言者がいて活発に活動し、その存在と活動が一般に承認されていた様子が、ルカによって記録されているが、パウロも女性の預言者の存在を認めている。しかしパウロは、女性の預言者が公の集まりで預言する事を認めなかった。ここでパウロが認めなかった預言は、即興の説教としての要素が強い預言のことで、Iテモテ2:11において、「女は黙っていなさい」、「教えてはならない」と指示したときに想定していた「教え」と、同じ性質のものだったと考えられる。



 また個人預言や指示預言は、14章でのパウロの関心事ではなかったと推測される。パウロが12章から論じ続けてきたのは、「全体の益」になるということである。そういう意味で、公の場での異言もまた、低い位置しか与えられていない。パウロは明らかに、プライベートな場での異言と公の場での異言の価値に、差をつけている。異言はプライベートな場においてこそ価値があるのであって、公の場では控えられるべきものである。このようなパウロの論調からすると、「公の益」という面では、たとえそれが他者に対する奉仕であっても、個人預言や指示預言という公共性が低い働きを、念頭に置いていたとは思えない。



 ともあれ、パウロの預言者についての言及は、かなり幅の広いもので、現在の私たちの分析的な分類方法には、完全には馴染まない「曖昧さ」残したものであった。
 


A 異言の解き明かしとしての預言
 従来、ペンテコステ教会の聖書解釈では、異言には二つの種類がある。一つは聖霊のバプテスマを受けたときに語る異言であり、聖霊のバプテスマを受けたしるしとしての役割も果たすが、元来は神の助けによって、神に向かって語る祈りである。そしてもう一つは、神から与えられる預言の手段であるが、解き明かされて始めて預言としての役割を果たすと説明されてきた。しかし、聖霊が霊感を持って承認したパウロの教えを素直に読む限り、その解釈に納得するのは難しい。むしろIコリント12章と14章でパウロが教えているのは、聖霊のバプテスマを受けたときに語る異言と同質の、個人の祈りとしての異言、すなわち聖霊が、どう祈ったら良いのかわからない私たちを励まし      て、うめきをもって祈らせてくださる、祈りの異言ではないだろうか。そのような祈りは、感謝であり賛美であり、愛と感動の表現であり、神の救いの計画の奥
義を語るものであろう。それらの祈りがたとえ個人的な、神に向かっての祈りであっても、解き明かされると、会衆全体の益となるのである。



 パウロは預言は人に向かって語るものであるが、異言は神に向かって語るものであると、くりかえして教えている。異言が、神からの語りかけを取り次ぐ、預言の一種、すなわち、人に向かって語られるものであると理解していたとするなら、パウロはそのような言い方はしなかったであろう。
 

 では、実際に異言の解き明かしとして語られた言葉を、どう理解すべきであろう。異言を語った本人がそれは預言だと理解し、預言のように、人に向かって語られた解き明かしを、私自身も随分聞いてきた。私は彼らが偽預言者だと言っているのだろうか。厳密な意味においては、みだりに神の名をもって語った責任はあるが、彼らが悪意を持って語っているとは考えない。むしろ、聖霊に感動し、またみ言葉に感動し、押し出されるように、自らが蓄えた聖書知識、霊的洞察を語っているのであろう。あるいは、神は私たちの誤った聖書理解をも容認し、それを利用して、私たちに語りかけてくださったのかも知れない。神は寛容の神である。たとえば、神は、「伝道者の召し」とか「宣教師の召し」などという、まったく非聖書的な概念さえ、おおらかに許してくださっただけでなく、その非聖書的概念を利用して、伝道者を立て、宣教師を起こしてくださったのだから、そのようなことさえあり得る。とはいえ、聖書的には、異言の解き明かしによる預言などというものを、期待すべきでも、勧めるべきでも、実践すべきでもない。



 また、聖霊のバプテスマはすべての者に与えられるべき体験であり、それに伴う異言も、すべての者に与えられるべきものであると主張する、私たちの立場と、「すべての者が異言を語るだろうか」とパウロが言う、限られた者だけに与えられる「賜物」としての異言という考え方を、どのように調和させる事ができるであろうか。
 


 異言は、すべてのクリスチャンに与えられている賜物である。すべてのクリスチャンが、多かれ少なかれ異言を語るべきであり、プライベートな場では多く語る方が良い。少なくてもパウロはそのように考え、自分が誰よりも多く異言を語ることができることを神に感謝し、すべてのクリスチャンが異言を語るように望んでいた。また、賜物を与えられていないという事は、その賜物といわれている能力を、まったく持ち合わせていない事ではない。賜物として与えられていなくても、ある程度知恵の言葉を持ち、知識の言葉も持つ。信仰も持ち、癒しの働きもする。従って、異言の賜物を与えられていないというのは、まったく異言を語ることができないという事ではない。パウロが語る賜物という概念も、家や自動車のように、与えられたらすべてを持ち、与えられなかったらまったく持たない、いわゆる「全てか無か」というようなものとは異なっている。むしろクリスチャンはおしなべて、多かれ少なかれ賜物と言われている働きをしているのである。しかし、明確に賜物と言えるのは、その働きに特別な力と能力を発揮し、恒常的にしかも効果的にそれを用いる場合なのである。パウロがすべての者が異言を語るだろうかと言った時、このような文脈の中で言ったのである。



 また聖霊のバプテスマが、基本的にすべてのクリスチャンに与えられるべき体験であっても、まだその体験にあずかっていない者もいたであろう。救いはすべての人間を対象とした賜物である。しかしすべての人間がこれを受けるのではない。聖霊のバプテスマと異言は、すべてのクリスチャンを対象にした賜物である。しかし、すべてのクリスチャンが、それを自分の体験としているわけではない。従って、すべてのクリスチャンが異言を語るべきであると理解する私たちの考え方と、「すべてが異言を語るのだろうか」と、実状を語るパウロの言葉は矛盾するものではない。



B 旧約聖書の解釈  
 パウロを始め、新約聖書の著者たちによる旧約聖書の引用、あるいは解釈を見ると、現代福音派の解釈学を学んだ私たちの解釈とは、随分異なった原則に立った解釈をしていることに気付く。私たちは、パウロたちが特別な啓示を受けて、つまり聖霊による照明を受けてそのように解釈し、その解釈を聖霊が霊感を通して良しとされたと考える。しかし、今、パウロたちと同じ解釈の原則に立とうとは考えない。というより、彼らの解釈は、啓蒙的読み方、合理的解釈に慣れてしまった現代の私たちには、なぜそのように解釈し得るのか良く分からないのである。パウロたちが行った解釈方法は誤っていたのだろうか。それとも彼らだけに許された解釈方法だったのだろうか。私たちは、合理的な考え方に立った現在の聖書解釈法を、考え直さなければならないのかも知れない。



 ともあれ、今の時点では、私たちは、パウロをはじめとする新約聖書の著者たちが、聖霊の特別な助けを借りて、尋常ならない解釈をし得たことを、認める以外にはない。


                                    つづく























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2010年10月27日

預言運動の問題を論じる (5)

  
IV.啓示と預言についての考察



 では啓示と預言について、とくに、聖書はどのように語っているかということに注意しつつ、考察して見よう。



 A.啓示について 



 聖書の中に現れている啓示、あるいは教えられている啓示にはいろいろな種類があるが、基本的に啓示とは、神がご自分の本性と御心とを、人間に示してくださることである。



@ 自然啓示 自然は神の姿を反映していると詩篇の作者はうたい、自然を通して人間は、ある程度創造主である神を知ることができると、パウロは教えている。しかし自然啓示による知識だけでは、人間は神の贖いの知識に到達することができず、贖いを体験せずに、真の神知識を得ることはできない。自然啓示は、神がご自分を啓示しようと意図された啓示かどうか、議論の余地がある。したがって、自然啓示は、そのような言葉で神学的に表現されてはいるが、果たして本当の意味で啓示であると言えるか、疑問がある。

A 聖書啓示 神は旧新約聖書を通して、ご自分と、ご自分の御心を啓示してくださった。聖書はあらゆる意味で特異な啓示の書である。聖書の中には、様々な手段で与えられた啓示がたくさん含まれている一方、まったく啓示によらない、言い伝え、歴史、あるいは人の言葉、さらには偽預言者、キリストの敵対者、悪魔の言葉までも含まれている。しかし、そのような啓示という手段によらない聖書の記述も、聖書に記述されることにより、神からの啓示として与えられているのである。
  
 しかも、この聖書による啓示だけが、神の人類救済計画と贖いの業を通しての実現と、人間側の責任を示している唯一の啓示である。受肉した言であるキリストもまた神の完全な啓示ではあったが、そのキリストの啓示でさえ、現在は聖書によってのみ啓示されているのである。聖書なくしてはキリストの生涯も教えも、私たちには一切啓示されていない。神は人類救済の計画とその実現に関する啓示を、ただ、聖書を通してのみお与えになったのである。聖書を通さない人類救済の御心の啓示というものはありえない。人類救済の御計画に関する新しい啓示は、それがやがて来るみ国に関するものであれ、なんであれ、あり得ないし、あってはならないものである。

 さらに、聖書啓示が特別の啓示であるというには、もう一つの理由がある。それは聖書の啓示は単なる啓示ではなく、「霊感」された啓示だということである。 聖書が本当の意味で、権威ある神の言葉なのは、それが啓示を集めた書だからではなく、それ自体が啓示の書だからでもなく、霊感されて書き記された神の言葉だからである。この点については後述する。

B 受肉した言 キリストご自身こそ神の最高の自己啓示であった。キリストを見たものは神を見たのである。その生涯、教え、働きは、すべて神の啓示であった。しかし、すでに述べたように、現在の私たちにとっては、このキリストさえ、聖書を通してのみ啓示されているのである。

C 歴史、出来事 聖書の中で、神は歴史や出来事を通してご自分を啓示しておられたことが明らかである。出エジプト記にのべられている数々の奇跡も、出エジプト記の歴史自体も啓示であった。また、ヨハネが「しるし」として記録した奇跡も啓示であった。しかし、神は現在も歴史や出来事を通して啓示を与えておられるのだろうか。聖書の中で、神からの啓示として歴史や出来事が取り上げられているとしても、それが、ただちに現在に適応されるべきではない。なぜなら、特定の歴史や出来事を、神が啓示と意図して起こしておられたかどうか、知る由がないからである。聖書は霊感によって記録された神の言葉として、歴史や出来事を啓示として取り上げているのである。それは人の言葉、詩歌、知恵、等においても同じである。現在、神が意図されたものでない歴史や出来事からも、神の御心を学ぶことは可能である。例えば「癒し」の力を見て、神は今でも癒しを行う方であると知る事はできる。しかし、それを啓示とは言わない。ただ、私たちの神学からすると、私たちは、神がユダヤ民族と教会の中に超自然的に働いてくださり、霊感された書物のみを選び、編纂し、正典として残すように働きかけてくださったと認めないわけには行かない。とはいえそれは導きであり、人々が啓示によって正典の編纂を行ったというものではない。

D み声、幻、夢、御使いなど 聖書の中には、このような啓示の例がたくさん記録されている。使徒2:17によると、このような啓示が、旧約聖書時代のように限られた人々にだけ与えられるのではなく、広く一般的に与えられたと言うことである。とはいえ、先に述べたように、このような啓示が文字通りに「すべての人に」、差別なく頻繁に与えられたと言うことではない。それは使徒の働きの記述を見ても明らかである。

 では、このような啓示が、現在もあり得るのだろうか。キリストは、ご自分が去ってからおいでになる別の助け主は、「あなたがたをすべての真理に導き入れ・・・・・やがて起ころうとしていることをあなたがたに示す」とお語りになり、導きの働き、啓示の働きが聖霊の大切な役割であることをお教えになっている。(ヨハネ16:13)そして、この聖霊の働きが現在なくなってしまったという議論には、聖書解釈の上で根拠がない。とはいえ、このキリストのお言葉は、当時の弟子たちの弱さのために、その時点までに教えておく事ができなかった事柄を、やがて聖霊が代わって教えてくださるという、12節からの文脈の中で理解されなければならない。したがって第一義的には、当然、新約聖書の形成期にパウロや弟子たちに与えられた啓示や、新約聖書を書かせた霊感のお働きに対する言及と考えられるべきである。そうすると、現在このような聖霊の啓示の働きが、聖書の時代とまったく変わりなく、頻繁に行われていると理解して、み声や幻や預言などに多大の関心を持ち、人々にもそれを勧めることは間違っていると言わねばならない。

E 照明(イルミネーション) 現在、霊感によって書き残された神の啓示、聖書のみ言葉を、クリスチャンが敬虔な態度で読み、聞き、学ぼうとするとき、霊感してくださった聖霊ご自身が、クリスチャンの心と理解力に働いて、それをより良く、より正しく理解させてくださる。イエス様ご自身がお教えになったこの聖霊の大切な働きを否定する者は、少なくても福音派の中にはいないであろう。あるいは、その事実を軽視する者、無視する者はいるかも知れないが、否定はできない。現在、啓示はないと主張する人たちは、この聖霊の働きを啓示とは認めない。一方、現在の預言運動の推奨者たちの中には、この聖霊の働きを強調して、聖書の言っていること以上のこと、あるいは聖書の語っている事以外の事まで、語らせようとしている者がいる事には注意を要する。また、レーマの神学を信奉する者たちの多くは、聖書の明確な教えに反して、聖書は書かれた言葉だけでは力がなく、この聖霊の照明があってこそレーマとなって、力を持つと主張する。しかし、聖霊の照明を受けたレーマとしての解釈と、照明を受けない人間の理解との差を、どのようにして見極めるのだろうか。自分の誤った聖書解釈をレーマであると主張して、正しい解釈を否定する事もおおいにあり得るからである。



B.預言について 



 厳密に言うと、現代の預言はそれ自体が啓示なのか、あるいは啓示を受けて啓示について語るものなのか、明確ではない。預言を実践している人たちに聞くと、一つ一つの言葉までも正確に与えられる預言というのは、ほとんどないようである。むしろ、なんらかの感動を受けて、概念的なものが与えられ、それを自分の言葉で語り出すのが通常らしい。彼らはその何らかの感動を、不用意に、「霊感(インスピレーション)が与えられる」という言葉で表現し、神学上の混乱を起こしているが、これは、聖書が霊感を受けて書かれたという意味の霊感とはまったく違う、非神学的な市井の表現である。



 あるいは単に概念が与えられるだけではなく、幻を見、み声を聞くということによって語り出す預言もある。いずれにしても、預言の言葉一つ一つは、厳密な意味においては人の選んだ言葉であり、神が霊感を通してご自分の言葉として承認し、保証された言葉、すなわち聖書の言葉と同じものではない。預言の言葉に、あたかも、神ご自身が霊感を持って書き記させた言葉と、同等の権威が伴っていると理解するのは、まったくの誤りである。



 現代の預言が神の言葉であるというのは、たとえその預言が真正なものであったとしても、聖霊の照明によって聖書を理解させられて語る説教が、「神の言葉である」のと同じように、限定された意味において神の言葉なのである。それは啓示された神の言葉であるかも知れないが、霊感された神の言葉ではない。ただ、本当に神がその場のために意図された啓示から来る預言ならば、その場にふさわしい、単に一般的に準備された説教以上に、その場とその時の必要、あるいは状況にふさわしい言葉であるはずである。



 したがって、「主は、こう仰せられる」と、霊感によって記録された言葉を語った旧約時代の預言者と、現代のいわゆる預言者とを同等に扱ってはならない。旧約時代の預言者は、明らかに預言者としての地位を持ち、世襲制であった祭司職に対し、一人一人の人物を神が直接選ぶものであったが、そこには、人格を鍛えたり神知識を極めたりする、人為的な面もあったと考えられ、預言者の学校も存在した。彼らは、いつも「主は、こう仰せられる」と言って語ったのではない。普段は、民の中の知者、指導者として、知恵の言葉を語っていたのである。しかし、神が霊感して記録させようと意図された預言には、「主は、こう仰せられる」と主張できる、絶対の権威の確信をお与えになったのであろう。



 一方、旧約の時代には預言者が誤って預言した場合もあった。また偽預言者もいた。エレミヤ書の例を見るまでもなく、そこにはかなりの混乱があったことが容易に推測される。この混乱をある程度おさめたのは、客観性と言うことだったらしい。まず、預言者がすべての人に認められていた人物であるかどうかという事。次に、その預言が複数の預言者に承認されているかどうか。さらに、その預言が成就したかどうかなどが、尺度となっていた。

  
                                  
 C.異言の解き明かしによる預言について



 また、預言を語る中で、異言にも触れておかなければならない。伝統的ペンテコステ教会においては、賜物としての異言が解かれると、預言になると考えられてきた。現代預言運動の推進者の主張も同じである。しかし、異言とその解き明かしによる預言という考え方は、果たして聖書の教えと合致するだろうか。伝統的解釈によると、異言には、聖霊のバプテスマを受けたしるしとして機能する異言と、賜物としての異言がある。これはどうやら、聖霊のバプテスマはすべてのクリスチャンに与えられている特権であり、そのしるしとしての異言も、すべてのクリスチャンが語るべきものであるという自分たちの主張と、「すべての者が異言を語るのだろうか」という、パウロの言葉を調和させるための努力の結果、生み出された解釈のようである。この問題については後述する。


                                     つづく


















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2010年10月26日

預言運動の問題を論じる (4)

 

III.ビル・ハモンの神学の分析   
  


 現在、日本で問題として取り沙汰されている預言運動の指導者に、ビル・ハモンという人物がいる。彼自身が日本に来たことがあるかどうかは知らないが、彼が創立したクリスチャン・インターナショナルという預言運動の団体は、日本にも支部を設け、代表者を置き、活発に活動していると思われる。ここで彼の著書「預言者と個人預言」に表れている、彼の神学を分析してみる。ただし、この著書は神学書ではなく、個人預言をお勧めする本であるため、組織的な学びにはならないことを、お断りしなければならないが、一応、彼の論に従って進めて行く。太い文字が彼の主張である。



 A.私たちの神は交わりの神で、今日も聖書と聖霊を通し、人間との密接な交わりを願っておられる。


                                      
 わたしたちの神は交わりの神であるという、主張そのものに誤りはない。まさに反啓蒙主義の主張である。しかし、彼の主張をその前後関係から観察すると、危険性がかいま見える。
「願っておられる」という表現は、あたかも、神が人間との交わりを恋したっておられるような印象を受けるが、神は三位一体の神であり、その三位の間で、永遠の昔から愛の神、交わりの神として存在して来られた。つまり、神の愛、神の交わりは自己充足の愛と交わりである。人間の愛を喜んで下さるが、人間の愛を必要としておられるのではない。神はすべての人間の、直接の愛を求めておられると考えるのも良いが、神の主権を認める人間同士が、互いに愛し合いながら生きるのを、第三者として客観的にご覧になるのを、愛でておられると理解するほうが優れていると思う。「聖霊を通す」ということも、すぐさま預言に関わるものではなく、広い意味での交わりであるはずである。預言に関わりのない、聖霊による交わりのほうが、聖書の強調するところである。また、彼の言う「密接な交わり」が、預言を媒体として、人間に、個人的な、主観的な、あるいは神秘的な体験をさせることを、意味しているかのように理解できるのも問題である。

 B.聖霊の到来、教会の誕生、聖書の完結によって、預言が不要になったのではなく、さらに必要とされている。神は今もご自身のみ旨が預言によって啓示されることを望んでおられる。



 私たちは、預言が不用になったという主張は認めないが、「さらに必要とされている」という主張も、聖書的根拠のないものとして退けなければならない。かえって、「言」であるキリストの出現と聖書の完結によって、私たちは以前ほど数多くの預言を必要としなくなっていることは明白である。私たちは合理主義者ではないが、神が人間に理性を与え、分別を与え、判断力を与え、自己決定の能力を与え、責任を問うておられる事を積極的に認める。日常茶飯事の細かい事柄にいちいち口を挟む姑のように、神は私たちに教え、導き、指示しなければならないのだろうか。神は今もご自分のみ旨が預言によって啓示されることを望んでおられるという主張も、聖書の教えではなく、あくまでもまったくの想像に過ぎない。



 C.しかし多くの人々は、神の言われることを聞くことができず、時間もないため神は預言者をお立てになった。



 これも、まったく聖書の裏付けがない、自分たちに都合の良い推論に過ぎない。また、ここで言われている預言者とは、エペソ4:11に記されている預言者であり、「職」としての預言者だとのことである。彼の理論では、「キリストの昇天の賜物」と彼が呼ぶ五職の中の預言者と、御霊の賜物を活用して預言をする者とは、その重要性においても機能においても別のものである。先に述べたように、五職の中の預言者はキリストの職を引き継ぐもので、教会の中で職として重要な機能を担うのだと言う。しかし、エペソ4:11の預言者と、賜物としての預言を峻別するだけの、聖書的根拠がない。むしろ、共に賜物と理解すべきである。つまり、エペソ4:11で言われている預言者は、賜物としての預言とは関わりなく、職として任命されるのではなく、預言の賜物を教会全体の益のために、効果的に行使し続ける事によって、教会全体に預言者として認められ、受け入れられるものである。「神の言葉を聞くことができない、時間もない人のために、神は『職』としての預言者をお立てになった」などということは、聖書のどこにも記されていない我田引水な想像に過ぎない。また、彼は「預言的長老」なる概念あるいは役割を、しばしば引き合いに出すが、これの正体がはっきりしない。彼の育った教会の背景にある組織形態らしく、按手など、かなりの権威を行使するものらしい。




 D.預言者は、神にとって特別に大切なものであり、これを退けることは神を拒絶することである。 



 旧約時代や、教会の土台としての預言者、また黙示録の預言者などを引用して、これらの預言者たちを、神が大切にしておられた事実を取り上げ、現在も、神は預言者たちを非常に大切にし、特別に愛しておられると盛んに主張しているが、これも誤りである。現在の預言者が、旧約時代の預言者や贖いの計画の啓示に関わった預言者と、同じ性質、同じ働きを持っているという聖書的根拠がないばかりか、異なっているというと言う主張のほうが、聖書的根拠を持つからである。また、たとえ現在の預言者が、聖書時代の預言者と同等同質のものであると仮定しても、神にとって、彼らが牧師や伝道者などに比べて、特別に大切な者であるという結論は出てこない。「預言者を退けることは神を拒絶する事である」というような、神の権威と預言者の権威を直接結びつける言い方は、預言者の権威を極端に高め、恐慌支配、マインドコントロールをもたらす危険性がある。




 E.預言者は再臨の備えをする。



 バプテスマのヨハネが、預言者として主の来臨の備えをしたように、この終末のとき、多くの預言者が主の再臨の備えをするために現れると主張し、それは1980年代に起こったと断定している。しかし、預言者が再臨の備えをするという主張も、それが1980年代に起こったという主張も、まったく勝手な独自の推論であって、聖書的根拠は皆無である。ついでながら、1990年代にいたって使徒の回復があったと主張するのも、独自のレストレーション的な見解であり、聖書とはなんの関わりもない。私が知る限りでは、使徒職の回復を主張する運動は、かなり前から繰り返し興り、自分が使徒であると主張し、自分たちの組織の中で独裁的権力を行使しようとした者も少なくない。




 F.律法の時代から教会の時代に入るにあたって、パウロのような預言者が特別な啓示をもたらす働きをしたように、教会の時代から王国時代への過渡期には、新しい啓示を伝える預言者が必要とされている。



 これもまったく聖書的根拠のない、危険な独自の論にすぎない。パウロが特別な啓示を得て働いたことは明白であり、彼が霊感されて書き記した書簡は、神の権威を持った聖書として残されている。パウロはまさにミステリオン、すなわち、それまで知られていなかった奥義を、啓示によって知らされ、神の贖いの御計画の新しい分野を、明らかにしたのである。このパウロと同じように、いま、「新しい啓示を伝える預言者が必要とされている」となると、その預言者が語る啓示は、非常に重要な、まさに聖書に匹敵する程重要な啓示であると言う印象を受ける。私たちは、基本的な信仰とクリスチャン生活に必要な啓示は、すでに聖書によって与えられていると信じている。従って、現在パウロと同じように新しい啓示を得、それを語る預言者は必要ないし、あってはならないと考える。ヨハネも、終末に関する啓示を霊感によって記した書を閉じるにあたって、すなわち、「教会の時代から王国時代への過渡期」に関して書き記した預言の言葉の最後に、その書に加える事も取り除く事もしてはならないと、新約聖書では非常に少ない呪いの警告をもって、厳しく戒めている。
 



 G.主の来臨が近いしるしは、一般世界ではイスラエル国家の創立に見られ、教会内では預言者職の回復、預言者たちの群れの興隆に見られる。



 イスラエル国家の創立が、主の来臨の前ぶれであることは、現在のイスラエル国家がそれであるかどうかの議論は別として、一般的に受け入れられている見解である。しかし、預言者職が回復され、多くの預言者が出現するのが、教会内での兆候だとするのは、まったく聖書的根拠を持たない。むしろそれは、彼自身が「預言者によって明らかにされているように」と言っているとおり、現代の預言者の言葉による断定であり、現代の預言者の言葉に、聖書が語っていないことを語らせ、それによって神学を構築し、実践を指導するという、非常に危険な行為である。ここで、彼は、明らかに聖書の権威のみを主張する福音派の信仰から、一歩はみ出してしまっている。
 


 実際彼は、レーマとしての預言が「霊感されたもの」であり、「神様から直接伝えられた神の言葉」であると主張し、「聖書の真理に基づいて説教される預言的説教は、(レーマのこと・・・・・霊感され油注がれている」と論じることによって、現代の預言者の言葉を、実質的に聖書と同位置に置くことをはばからない。このような傾向は、彼の弟子であり、彼が創立したクリスチャン・インターナショナルの名を受けて、同種の団体を日本に創設した、ロナルド・サーカという人物の著書にも明白である。彼は、その小冊子、「山羊の国から羊の国へ」を、ビル・ハモンとチャック・スミスという人物の二つの預言から書き始め、それらの預言をあたかも聖書のごとく、権威のあるものとして取り扱っている。確かに、現在の預言運動の推進者たちは、聖書には何も加えられてはならないと主張している。しかしそう語っていながら、彼らは自ら気付かぬうちに、越えてはならない一線を越えてしまったのである。



 H.主の来臨に向けて、花嫁である教会を備えるために、使徒職の回復とともに預言者職の回復が必要である。



 いまここで取り上げている著書が預言者に関するものであり、使徒職については、1990年代に回復されたという以外は、ほとんど書かれていない。しかし預言者職の回復については、「主の道を備える」ためと「花嫁を整える」ために、絶対に必要であると主張されている。ただし、主の道を備えるとはどういうことで、具体的には花嫁を整えるのとどこが違うのか、はっきりしない。ともあれ、彼によると、預言者職の働きが完全に回復されない限り、花嫁が充分に整えられることはない。もし花嫁が完全に整えられなければ、すなわち、教会が完全に大人に成長しなければ、キリストはお帰りにならない。牧師や伝道者、教師の働きでは不足であると主張する。しかし、キリストの再臨を、このように教会の業と結びつけて考えるのは、聖書が教えることではない。 
 


 このように、現代預言運動の代表的指導者と考えられるビル・ハモンの神学を垣間見るだけで、こと、預言に関する限り、彼の主張はまったく聖書に拠らない、聖書から離れたものである事が明白である。彼の協力者、あるいは弟子と思われる数人の手になる著書も読んで見たが、「聖書に拠らない、聖書を離れた」主張という点では同じである。基本的には福音信仰、あるいは根本主義に立つと思われるこれらの人物が、反啓蒙主義の態度をとる事は理解できるが、ポストモダンの傾向に流され、主観的体験を重視するあまり、聖書から離れ、福音宣教とはあまり関わりのない、預言の魅力に捕らわれているのは残念である。
    
                                     つづく











  
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2010年10月25日

預言運動の問題を論じる (3)

 D.レーマの神学 



 現在の日本で盛んな預言運動を支えている神学のひとつは、レーマの神学であると考えられる。この神学が、A/Gを始めとするペンテコステの主流教団の、かなり著名な幾人かの伝道者たちに支持されているのは事実である。彼らは、神の言葉にはロゴスとレーマがあって、ロゴスは概念としての言葉であり、レーマはロゴスとしての言葉が語り出された言葉であると主張し、私たちの教会とクリスチャン生活には、ロゴスだけでは不充分であり、レーマが必要であると説く。端的に言うと、ロゴスは聖書であり、レーマは聖書の教えが生きた言葉として啓示されること、すなわち、聖霊による照明であると言う。しかし、多くのレーマ神学の信奉者によって実際上大切にされているのは、聖書の解き明かしとしてのレーマではなく、聖書には語られていない啓示や指示預言を含む、預言としてのレーマであるように見受けられる。しかしこのレーマの神学は、著名な神学者たちにはあまり支持されていない。




@ レーマとロゴスの聖書の用法を調べると、確かに、ある程度の用法の違いがあり、レーマとは実際に語る言葉である。しかし、ロゴスにもそのような用法があり、意味が重なり合っているために、そこに明確な区別をつけ、さらにそこから神学を形成するのには無理がある。
A 聖書の証言を見ると、霊感された聖書の言葉自体に力がある。レーマにならなければ力を発揮しないのではない。
B レーマには、聖霊の照明を受けた聖書の言葉も含まれると教えられてはいるが、実際には預言の強調となっているため、聖霊の照明の働きを軽視することに繋がり、聖霊の照明の働きに頼る私たちの説教、さらには、パウロが語っている預言の軽視に至る。この点については後述する。
C レーマの強調はロゴスの軽視、すなわち書かれた神の言葉、聖書の軽視に繋がる。これは、預言運動をする人たちの傾向として、かなり明白である。これは新正統主義の神学者たちの、聖書はそれを神の言葉と信じるものにとって、神の言葉であるという主張に類似して行く。ともに聖書の言葉を主観によって取捨選択する事になる。



 E.聖書時代と現代の差 



 いま流行の預言運動は、こと預言に関する限り、旧新約聖書の時代と現代の間に、実質的な差を認めないばかりか、むしろ、使徒2:17の記述などから、終末の時代である現在は、さらに多くの預言者が出現し、というよりは、すべての信じる者が預言者となると論じる。強調の差こそあれ、「あなたも私も預言者となれる。預言ができる」というのである。
 

 
@ 霊感によって記された神の言葉である聖書が完結した今、聖書が完結していなかった時代と同じような頻度の預言が、果たして必要なのか。確かに神は交わりの神であり、理神論的な神ではない。しかし、神がお望みになる人との交わりは、人が望む神との交わりと同じだろうか。あれこれとまつわりついて、自立できない子供を育ててしまう母親のような感覚で、神は人間との交わりを望んでおられるのだろうか。聖書を見る限り、私たちの神は決してそのような神ではない。
A 使徒2:17に引用されているヨエルの預言は、あたかも、今や預言が誰によってでも、頻繁に行われるようになったかのような印象を与えるが、ヨエルも彼の言葉を引用したペテロも、さらにそれを記録したルカも、そのようなことを言おうとしていたのではない。旧約の時代においては、聖霊はごく限られた特別の人物に、特別の役割を果たすために注がれ、預言の働きも選ばれた少数の人間に限定されていたが、新約の時代においては、聖霊は、すべての信じる者に注がれ、その結果、聖霊の働きである預言も、広く一般信徒に与えられるようになるというものである。誰でもが、のべつ幕なしに預言するという意味ではない。
B さらに、ここでルカが理解した預言が、果たして現在預言運動を推し進めている人たちの言う預言と、同質のものであるかという疑問が残る。ルカもパウロも預言あるいは啓示という言葉を、かなり広い意味で、あるいは曖昧に、明確な区分をしないままで用いている。ルカが意味した預言には、確かに現代の預言運動の提唱者たちが言う意味の預言も含まれていた。しかし、使徒の働きの内容を検討してみると、ルカはむしろ預言という言葉をもって、宣教の言葉、福音伝達を第一義的に考えていたと思われる。 
C ヨシュア記を読むと、神が当時のイスラエルにお求めになったのは、み言葉をしっかりと記憶し、それに依って生きることであった。当時のみ言葉とは、言うまでもうなくモーセの五書だけのことであり、現代の私たちから見るとまことに不充分であった。神の直接の介入としての預言や啓示が、現代より格段に必要とされたに違いない。しかし神は、「預言や啓示を期待し、それに依って生きよ」とはおっしゃらず、み言葉に立って生きることをお教えになったのである。み言葉、すなわち、霊感によって記録された神の言葉によって生きることが、神の民の基本である。



 F.吟味の必要 



 現在預言運動をしているすべての指導者は、Iコリ14:29を用いて、現代の預言は「吟味」されるべきであると、口をそろえて論じる。ここで聖書が語っている吟味という行為は、はたして現在の預言運動の指導者たちが主張するように、「すべての預言を、神からのものであるかどうか、まず疑ってかかり、充分テストし、その結果、間違いなく神からのものであるという確信が持てたなら、それを受け入れなさい」という意味なのだろうか。あるいは、語られた内容を深く考察し、思い巡らしなさいということだろうか。たしかに、ここでパウロが用いた用語は、「テスト」するという意味にも理解されないこともないが、もっと素直な、「良く考えなさい」という意味にも取れる。そして、文脈をたどると、「テスト」という解釈はそぐわない事が分かる。もちろん、語られた預言について深く考察するならば、その過程で、疑わしいものは排除されることになるだろう。しかし、それがパウロの言おうとしている事ではない。



 パウロはむしろ、異言も預言も同様に、ふたりか、多くても三人の者が語ったならば、それでおしまいにしなさい。他の者は、たとえもっと語りたくても、集会全体の秩序の事を考えて、黙っていなさいと言いたかったのである。吟味しなさいというのは、他の者が預言をしたり異言を語ったりしている間、自分が語れないことにいらついたり、不満たらしく、無駄に時間を費やすのではなく、他の人が語ることにも耳を傾け、語られたことについて熟考しなさいと、ただ当然の事を勧めただけである。したがって、ここで「黙る」ことの価値を無視し、「吟味」を強調するのは、著者が強調していない事を強調し、強調していることを軽視する間違いである。



 また、このように、聖書の中でただ一度だけ語られていることがらを、自分に都合良く解釈して、ひとつの神学と実践の基盤とするのは、行ってはならない危険なことである。さらに、このテキストと、「すべての霊を信じる事をしないように」と教えている、Iヨハネ4:2を無造作に関連付け、吟味を正当化するのは乱暴である。パウロとヨハネはまったく異なった状況のことを、別々の手紙で語っているのである。



 G.預言の練習 



 確かに、預言が間違いなく神から来たものであるかどうか、判断することは大切である。しかし現在の預言運動のように、「吟味」ということを逆手に取って、「すべての預言は、先ず吟味されなければならないのだから、はたして神からのものかどうか確信がなくても、間違っていても、おじけずに語りなさい。何をするにしても、初めからうまく行く事は少ないのだから、練習として、心の中に思い浮かんできた事を語ってみなさい」と励ますのは、いささか軽はずみと言わなければならない。本来は、預言する者が、「この預言は吟味されなければならない」と感じるような預言は、してはならない預言である。聖書は、「神のみ名をみだりに唱えてはならない」と教えている。現代の預言運動の推奨者たちは、預言において、神のみ名をみだりに、軽々しく唱えてはいないだろうか。



 確かに、サムエルの時代に預言者の学校と翻訳されているものがあった。しかしそれを、預言の練習をする学校と解釈するのも早計である。預言というものを、「神からの啓示としての語りかけ」と理解すると、そのような預言に、練習なるものの入る余地がはたしてあるのだろうか。ただ、預言者が「自らを整える」という訓練は、おおいにあり得たことと考えられるし、その意味で学校も可能であろう。しかし練習とは、自らの能力の向上ということであり、預言を受ける能力というものがあるとすると、預言が、神の直接の啓示ではなく、どこかのレベルに蓄えられている宝になってしまう。あるいは常に神から発せられている電波のようなものに、チャンネルを合わせるに過ぎないことになる。ただし、私は預言の練習を完全に否定するのではない。ルカが、ペテロによるヨエルの預言について語るとき、念頭にあったのは宣教の言葉であったとするならば、あるいは後ほど述べる、パウロが意味した預言が即興の説教であるとすると、練習は多いに大切である。



 H.個人預言・指示予言 



 聖書が信仰と生活のための充分な啓示であるとすると、信仰と生活のための新たな啓示は、原則として不要になる。現在の預言運動の指導者たちは、常に、聖書は完全で充分な啓示であり、それに加えられるべきものも、また差し引かれるものもあってはならないと、福音主義の原則にのっとって語っている。従って、彼らの強調する預言は、いきおい、聖書に加えられるべきものではない預言、すなわち個人預言、あるいは指示預言となる。これは、当然の理論的帰結ではある。しかし個人預言や指示預言が強調されると、預言はたちまち、占いや口寄せと同じ次元に引き落とされる危険があり、預言を受けた者は思考能力を停止し、選択責任を放棄する危険に陥ることになる。これは牧会責任者にとっては大問題である。また、現在の預言運動が強調する個人預言の例を観察すると、極めて自分の生活の周辺に関わる、端的に言うと損得利害に関わる預言が多い。これは、この運動に関わる人々の多くが、繁栄の福音の支持者であることにも関係しているらしい。しかし、使徒時代の教会を観る限り、個人預言のほとんどは福音宣教に関わるものであることに、注目すべきである。ここに強調点の違いがある。
 
                                   つづく













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2010年10月24日

預言運動の問題を論じる (2)



 F.エキュメニカルな傾向 



 ペンテコステ運動とそれに続くカリスマ運動及び第三の波の運動、さらに第三世界での類似した運動は、伝統的なエキュメニカル運動とは別の、新たなエキュメニカル運動となりつつある。伝統的なエキュメニカル運動はどちらかというと社会派の教会、すなわち私たちから見ると啓蒙思想に流された教会が主導し、組織的一致を目指していたが、社会派の教会の著しい衰退によって、人為的な美しい夢に終わる可能性が強い。一方、この聖霊体験によるエキュメニカルな動きは、強い反啓蒙思想を背景にした、組織、神学、伝統を超えた、「同じ神体験」をしたという共感、仲間意識による、精神的な一致であり、これが、有機体としての一致に向かう可能性も否定できない。現在、伝統的ペンテコステとカリスマ、第三の波、その他の、いわゆる聖霊運動に属するクリスチャンは、世界で4億を超え、5億とも言われている。その中には、私たちのような福音主義信仰を持っている者も多いとは言え、とても手を携える事ができない者、クリスチャンと認めがたい者たちもかなり存在する。シンクレテイズムを見極め排する過程での困難さが伴う。



 G.神学の枠組みと用語の問題 
 


 現在私たちが使用する神学の枠組みと用語は、啓蒙思想の中で構築され形成されたものである。その中には、現在も働き賜う神、また、聖霊に対する理解が非常に希薄であった。従って、現在のペンテコステ運動全体、また、特に預言・掲示・霊感の問題を論じるには、伝統的プロテスタント神学の枠と用語をもっては不可能であり、これが混乱に拍車をかけている。



 そこで念のため、手元にある改革・長老派系、バプテスト系、メソジスト系の著名な組織神学書の目次を調べて見ると、改めて驚いてしまった。それぞれ相当の分量の著書であるが、「聖霊」という大項はまったくなく、中項目にもないのである。他の項目で、例えば聖書の霊感の部分、あるいは救いの適応の部分などで聖霊の働きについては触れてはいるが、独立した聖霊の学びは皆無なのである。聖霊論は僅かの例外を除いては、まさに忘れられた分野なのである。



 たとえば、私たちの教会でも常に用いられている、「使徒信条」を取り上げてみよう。数ある信条の中でも最も優れた信条として認められ、歴史も長く多くの教会で用いられ続けて来たこの信条で、聖霊に関する告白は、「我は聖霊を信ず」の一言だけである。聖霊の何を信ずるのか、つまり、聖霊が存在する事を信じるだけなのか。聖霊が神である事を信ずるのか。それとも神の力であると信じるのか。まったく不明なのである。この信条が作られた時代は、聖霊に対する関心がまったく薄かったのであり、この信条が不服なしに用いられて来たのは、長い年月の間、それを用いる教会に、聖霊に対する関心が低かったからである。



 米国のアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団では、かなり以前に独自の信仰告白文「WE BELIEVE」を作成し、機関紙のエバンジェルに掲載し続けている。日本においてもその翻訳が、しばらくの間アッセンブリー誌に掲載されていた。内容においては使徒信条より優れ、聖霊についてもしっかりと述べられているが、告白文としては美しさに欠け、実際にはあまり用いられなかったと記憶する。あるいは、「聖霊教団」と自認する私たちの教団でも、まだ聖霊に対する関心が低く、使徒信条で満足しているのかも知れない。ともあれ、聖霊論を独自の大項目として含めた神学、また、共に聖霊論を基盤にした教会論と宣教論の枠作りと構築、聖霊とその働きに関する適正な用語の確立が必要である。この辺りに、伝統的ペンテコステ教団の重大な責任があると考えられる。



 H.アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団(A/G)の立場 



 A/Gの発端は、合理的なものの考え方や生き方、あるいは社会の構造が頂点に達した感があった、十九世紀の後半から二十世紀の初頭に端を発したアメリカの聖霊運動にあった。この運動が聖霊のバプテスマという一つの霊的体験に繋がり、その体験をした多くの者が、宣教という基本理念で協力を始めたのが、1914年の教団設立にむすびついた。歴史的にA/Gは白人の教団として発展し、現在アメリカ国内では信徒数およそ250万人強で、第二のペンテコステ教団となっている。しかしその宣教姿勢から、世界的にはおよそ175カ国で3千700万人を超える信徒数を持つ、最大のペンテコステの交わりに発展している。友好的な黒人主体の姉妹団体として発展したチャーチ・オブ・ゴッド・イン・クライスト教団は、アメリカ国内では信徒数においてはA/Gの約2倍であるが、世界的な宣教の取り組みには遅れを取り、現在およそ30カ国で伝道を開始している程度である。A/Gはその宣教姿勢や出版事業などを通し、伝統的ペンテコステの信仰、神学、実践において最も影響力の強い教団として現在に至っている。



 A/Gの特徴は普通、異言を伴う聖霊のバプテスマという現象を強調する事で知られているが、より大きな捉え方では、啓蒙主義的キリスト教に対抗する運動であり、今も変わらず、生き、働き、祈りに応え給う神への信仰が強調されていることにある。福音派の中においてさえ、現在は奇跡や癒し、あるいは預言や異言はないと主張する神学的傾向に対して、「キリストは昨日も今日も永遠までも変わらず、」お働きになると主張するものであった。また主観的体験を重んじはするが、あくまでも聖書に対する福音派の基本的態度を貫き、主観的体験信仰に流れることはなかった。主観的体験信仰に流れなかった理由のひとつは、A/Gの運動は教会刷新運動、あるいはリバイバル運動として、クリスチャンの霊的体験そのもの、すなわち、聖霊のバプテスマ自体に重点が置かれるのではなく、あくまでもその体験を起点とした、宣教が重んじられる運動であったことにあると考えられる。これは教会刷新運動として、つまり既存のクリスチャンに対して新たな霊的体験を提供する運動として、かなり主観的要素が強い預言や啓示などの体験を重んじるカリスマ運動、第三の波運動と対比される点である。A/Gにあっては、預言もその他の霊的体験も認知され、実践されてきたが、それらがことさら強調されることは稀であり、神秘主義的に主観的霊的体験を追い求める傾向も末梢に留まり、全体に影響をおよぼすことはなかった。強調されたのはむしろ、客観性の強い、また、宣教との関わりが強い癒しや奇跡といった現象であった。



II.現代預言運動の性格と特徴 



 預言運動そのものは、教会の歴史の中で幾度かくり返されているが、現在日本で話題になっている預言運動には、それなりの特徴がある。



 A.主観的体験主義 



 預言は、体験という事では同じでも、癒しや奇跡に比べて極めて主観的である。とはいえ、啓蒙思想の影響を強く受けて、「現在も働いておいでになる神、祈りにお応えになる神、一人一人に関心をお持ちになり、交わりを持とうとしておいでになる神」という神観がないがしろにされ、教理に同意することが信仰と取り違えられているような、主知的な信仰観に対し、「生きていたもう神に対する生きた信仰」が強調されたことは、多いに評価されるべきである。



 しかし主観的な預言そのものを、確かに誤りのない神からの啓示として、客観的に認める作業は非常に困難である。多くの場合、預言をする者の真実性を疑うのは、「神に逆らうこと」であるという恐怖に繋がるため、野放しの状態で先ず預言がされてしまい、その後、混乱の中での「吟味」が続けられることになる。また、そのような預言の主観性のゆえに、アミニズム的性格、オカルト的な性格との混同が大いに問題とされる。
 


 さらに、たとえ預言が真実なものであったとせよ、体験が重んじられるところで起こる一般的な傾向が、聖書の軽視であり、預言の場合はその傾向が著しい。また、特に個人預言、指示預言には、預言を期待する者のなかに、思考と自己決定の責任を回避する傾向が強くなり、健全なクリスチャンの成長を妨げ、誤った権威主義の台頭を許す事になりかねない。 



 B.ピーター・ワグナーの影響 



 ワグナーは、いわゆる福音派に属しながら、ペンテコステ運動を本物のキリスト教会の運動と認めて諸教会に紹介し、ペンテコステ運動が、ペンテコステ教会の枠を超えて広がって行く、きっかけを作った。その功績は大きい。



 しかし、彼は聖書学者でも神学者でもない。彼が有名になった「教会成長運動」は、聖書の教えに立脚したものではなく、社会学、統計学に立脚し、その論を補強するために「聖書を利用した」ものに過ぎない。また、彼が推進するいわゆる「霊の戦い」、「地域霊」、「地図作り」なども聖書的根拠は非常に薄い。彼自身が、それを認めて「色々なことをやっても伝道がうまく行かなかった。では、これを試して見たらどうか」という程度で、霊の戦いを勧めているのである。



 その彼が、今は預言運動におおいに乗って、中心人物の一人として宣伝に務めている。彼がそうしているのは、それが聖書的であるからではなく、「効果がありそう」だからである。彼は、聖書的であるよりもプラグマテイストであることを選んだのであり、アメリカ教の信徒である。
 



 C.レストレーション運動の一環 



 今回の学びのために手に入れた文献を見る限り、現在日本で強調されている預言運動は、レストレーション運動の一環として行われているようである。彼らは、エペソ4:11に記されている五つの働き、すなわち、使徒、預言者、伝道者、牧師、教師を、キリストによって定められた教会の五職であり、キリストの働きそのものを直接継承する重要な職制であると理解する。その重要な職制は、使徒の時代には明確に引き継がれていたにも拘わらず、やがて教会史のなかで見失われ、より順位の低い、伝道者、牧師、教師などの職のみが残るようになり、結果として、教会は本来の活動力を失い、使命を果たせなくなってしまった。従って、いま、さらに高い順位の使徒職と預言者職が、早急に回復されなければならないというのが、彼らの主張である。彼らはまた、使徒職・預言者職と共に、賜物の賦与に関わる按手の働きも、回復されなければならないと言い、盛んに手を置く。以上のような主張は、果たして聖書の教えるところであろうか。



@ なぜエペソ書だけを取り上げ、Iコリント12:28のリストは無視するのであろうか。このリストはエペソ書のリストとはかなり趣を異にする。
A エペソ書のリストだけが取り上げられるべき正当な理由があったとしても、ただ一箇所の聖書の記述を取り上げ、そこから神学を、しかも教会の組織と信徒の生活に重要な影響を及ぼす神学を作り上げることは、やってはならないことである。
B エペソ書のリストを「職」と理解するのには、解釈上の無理がある。Iコリント12:28や、IIテモテ1:11の記述と合わせて、これらは「職」ではなく、賜物の行使による機能と考えるべきである。
C ましてや、これらがキリストの働きと権威をそのまま引き継ぎ、賜物などとは別の次元の「職」であると理解するのは、ローマ法王が、ペテロの後継者としてキリストの代理であると主張する以上に、まったく聖書的根拠を持たず、無益な権威主義に陥る危険性を持つ。
D これらの働きの順序には、パウロの意識下にあったかもしれない優先順位が、影響していたと考えられなくもない。しかし、だからといって、この順位をそのまま教会における職の優先順位とするのには無理がある。
E 五職といわれる四つ目と五つ目の働きは、二つの異なった働きではなく、ハイフンで結ばれるべきもの、つまり、「牧師すなわち教師」と理解されるべきであるというのが、ギリシャ語文法からの定説である。
F 五職、あるいはIコリント12:28のリストにしても、パウロが各「職」の間に厳密に線を引き、区別をしたのだとは考えられない。教会の中の様々な働きや機能を、思いつくままに上げたのであり、それらは互いに重複し合って機能するというのが、真実に近いにちがいない。それは、IIテモテ1:11のパウロの記述にも明らかである。
G 按手の働きとその効用については、テモテに関する記述その他から、ある程度の事は言えるものの(Iテモテ4:14、IIテモテ1:6)、そこから確実な神学と実践の指針を見出す事には無理がある。さらにヘブル書6:1〜2をもって、按手が「キリストの六大教理の一つ」であると論じるのは、初歩的誤りで、ヘブル書が言うのは、按手が「初歩の教えに過ぎない」ということである。

                                      つづく



























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