2010年10月23日

預言運動の問題を論じる (1)




現代預言運動に関する考察

                   

 アドバンスド・スクール・オブ・セオロジーを主宰しておられる先生がたから、現在、ペンテコステ派を含めた聖霊派諸教会で、一種の流行ともなっている預言運動について、私の見解を語ってほしいとの依頼を受けた。私が開拓伝道に「励んで」いる長崎県北部の「地方都市」では、僅かの例を除いて、この件で問題を感じた事はなく、ことさら考察した事もなかったが、教会の数も多く、いろいろな情報があふれている中央の都市部では、この預言運動が色々な意味で教会に影響を及ぼし、牧会上、見過ごしにできなくなっているという。



 確かに、わたしが聞き及んでいた範囲でも、預言運動には評価すべき点もある一方、憂える面も多々あり、それが盛んに実践されている地域で奉仕する牧会者たちが、これを放置しておくことはできないと考えても不思議ではない。しかし、普段、牧会活動に忙殺されている牧師たちが、じっくりと時間を取ってこの問題について考察するのは易しい事ではない。そこで、そのような牧師、あるいはこの問題に疑念を感じながら、学ぶ機会を持てないでいる教会関係者たちの代わりになって、好きな魚釣りをしばらく横に置いて、私が考えて見るのも良いだろうと、依頼をお受けした。



 したがって、この発題は深い神学的洞察や熟慮によるものではなく、極めて常識的な田舎牧師のたわごとの域を出ていない。これによって、立派な神学を提供するのではなく、むしろ、これを叩き台にしてもらうことによって、それぞれの方たちが考えるきっかけを提供しようとするものである。つまり、ここで私が語ることを散々批判し、反対意見を出し、これと思う見解を出し合うことによって、それぞれがより深い理解を持ち、より良い対応ができるようになってくだされば、目的を果たしたことになる。



 ただ、日本人は意見の違いを堂々と話し合う事が下手である。意見に反対する事を、すぐさま人間そのものに反対すること、あるいは好き嫌いの問題にすりかえてしまうのである。自分の意見に反対されると、それだけで自分の人格が否定され、傷つけられたと感じてしまうのである。今回は、そのような「日本人」をかなぐりすてて、主にあって、朗らかに、おおいに話し合っていただきたい。



I.ポストモダンと聖霊運動

 まず、この問題をよりよく理解するために、近代キリスト教とそれを取り巻いていた思想環境に、注意を向けたい。

 

 A.啓蒙思想からポストモダンへ 
 
 文芸復興を経験した近代西欧先進諸国においては、やがて啓蒙思想が広まり、合理主義が出現し、自然科学の発達と高揚に繋がって行った。また同じ流れの中に、高度に発達した資本主義が生まれ、さらに、科学主義の一つである進化論を、政治・経済・社会に適用した唯物共産主義が台頭し、実践されるに至った。特に、十九世紀から二十世紀の初頭は、まさに合理主義の世界で、自然科学に対する絶大な信頼の時代であった。人々は科学の発達を前提とした楽観主義的性善説から、人類の未来に明るい希望を抱いた。しかしこの希望は、二つの世界大戦を経験する事によって失望と幻滅にとって代わられた。そこに信頼するものを失いさまよう、ポストモダンの芽生えがあった。



 少し遅れて発展した日本においては、事情が異なっている。日本は、西欧先進諸国が自然科学と人間性に対して、失望と幻滅を味わっていたまさにそのときに、敵国であった先進諸国から輸入した民主主義と様々な支援、さらに朝鮮戦争勃発による軍需景気によって戦後の復興を体験し、やがて、奇跡と言われる成長を成し遂げたことにより、物事すべてに、いわれのない楽観的憶測を抱くようになったのである。日本においては、一般の人々の間で科学主義、あるいは人類の未来に対する楽観主義が揺らぎ始め、漠然とした不安を感じ、頼るものが存在しないことに気付き始めたのは、いわゆるバブルがはじけた、二十世紀最後の十年のことである。



 この啓蒙思想、合理主義、自然科学信仰は、キリスト教世界に対しても大きな影響を及ぼした。神学者や聖職者たちの中にさえ、合理的な考え方、自然科学を絶対視した考え方が浸透し、人間の理性に反する聖書の記述は、様々な形で否定され、クリスチャン信仰の中から排除されて行った。人間の理性が絶対化され、聖書が人間の理性のテストの対象にされたのである。結果として、創造者である神の存在は認めるが、神がその後の人類社会、自然世界に介入する事を一切認めない理神論が生まれてきた。 



 この理神論的考え方は、反啓蒙思想あるいは反啓蒙運動として捉えることができる新正統主義や、福音主義の神学の中にさえも歴然としている。新正統主義は、神を限りなく遠い存在とし、福音主義のほとんどは、聖書に記述されている奇跡は事実として認めるが、現在はそのような事はあり得ないと論じ、「福音的理神論」に陥って行った。その一方で、キリスト教信仰はますます主知的になり、神がお残しになった聖書を学び、正しく理解し、その教えを守る事が信仰であると考えられ、神学、あるいは教理が確立されて来た。強い反啓蒙主義の立場を取る福音派の中においてさえも、啓蒙思想の枠の中で神学が形成され、信仰が保たれて来たのである。



 しかし近年にいたって、徐々にではあるが、それまで確実と思われていた理性、合理主義、自然科学、あるいはそれらが作り上げてきた組織、機構というものに失望と幻滅を味わった一般世界の人々の感覚が、教会の中にも浸透してきた。それまでの、主知的神学、教理に対しておぼろげながらも、強い不満を抱くものが出現し始めたのである。教会の中のポストモダンである。



 B.反啓蒙主義的流れ 

 一般社会と教会内の啓蒙思想的流れを、すべての者が受け入れたのではない。カトリック内の静寂主義、クエーカー、スエーデンボルグに代表される神秘主義、ドイツ敬虔主義・モラビア派、メソジスト運動、ホーリネス運動、聖霊運動などが、神は今も人間と関わりを持たれる方であると理解し、日常の信仰生活への神からの直接介入を期待して、あるものは主観的神体験を重んじ、他の者は人生の目に見える変化や、癒し、奇跡といった現象を求めて来た。



 C.ペンテコステ運動 



  1.主流派  
 ペンテコステ運動は、啓蒙思想、合理主義、自然科学至上主義のまっただ中で生まれた。これは、啓蒙主義的になっていた福音派のキリスト教、すなわち人間に対する神の直接的な働きを、聖書の中に閉じ込めてしまう改革派信仰や、デイスペンセーショナル神学で使徒時代までと制限してしまうバプテスト神学などに対する、福音派内の反啓蒙運動と観ることができる。彼らは、癒しや奇跡などの超自然の現象、また主観的神体験を重んじはしたが、福音派としての確信を離れず、すなわち聖書の権威のみを絶対として、現象主義、主観的体験主義に流れなかった。また、「預言」などの「掲示」も伝統的に認められ、実践されてきたが、それは常に周辺的な事柄に留まり続けた。とはいえ、体験を重視する傾向から、聖書を体験から読む傾向、神学をあまり重視しないで現象を尊ぶ傾向があった。そのため、主観的体験や現象を極度に重要視する者たちもしばしば現れ、活動を続けることができた。しかし、彼らとその主張がペンテコステ運動主流派の中心となったことはなかった。(アッセンブリーズ・オブ・ゴッド、フオースクエアー、ペンテコスタル・ホーリネス、チャーチ・オブ・ゴッド・イン・クライスト、チャーチ・オブ・ゴッド《クリーブランド》その他)



  2. 小教団、単立系  
 初期ペンテコステ運動のひとつの特徴は、自分たちの特異な体験と主張のために、所属していた伝統的教会を追放されたことにより、「反組織」意識を強く持っていたことである。そのため、単立教会や小さな教団が乱立する結果になった。その中では、突出した才能の人物の、特異な体験や神学的主張の周辺に集まる傾向も強く、癒しや奇跡といった現象だけではなく、新しい啓示や預言といった、極めて主観的なことを売り物にし、聖書を自らの主張に都合良く解釈して、これを軽んじる傾向のものも少なからず出現した。



 D.カリスマ運動・第三の波運動 



  1. 第二バチカン会議 
 キリスト教世界でのポストモダンに拍車をかけたのが、1963年から64年に開かれた第二バチカン会議であった。この会議でカトリックの首脳部は、それまで不変不動と思われていた権威や組織、あるいは物の考え方に対して、自ら改革を持ち込む事によって、宗教的不確実性の芽生えを促した。特に、a.プロテスタントなど、非カトリックのキリスト教に対する態度の軟化、b.他宗教に対するアプローチの改善、c.聖書に対する態度と取り扱いの変化などが、ペンテコステ運動を受け入れる素地を作った。根本主義者であるペンテコステ教会は、カトリックを非キリスト教徒の集団と見做し、積極的に伝道していたのである。



  2. カリスマ運動 
 第二バチカン会議を経て、60年代後半からカトリックが、続いて非福音派のアングリカンなどが、ペンテコステ運動を受け入れ始めた。このころのカトリック教会とアングリカン教会は、ペンテコステ運動初期の福音派とは異なり、「宗教的寛容性」を一つの売り物にしていた面もあり、ペンテコステ体験をした者を破門せず、自らの教会に留め置くことができるようになっていた。そのため、ペンテコステ運動の諸教派とは別に、これらの教会の中でカリスマ運動と呼ばれる信仰刷新運動が存続し、より広いキリスト教界にも影響を及ぼす事ができた。彼らの特徴は個人的主観的体験の重視で、たとえわずかではあっても、a.自分たちの教会の権威からの離反と、b.自分たちの伝統的神学からの離反を正当化できたことであった。また、c.伝統的ペンテコステ教会とその神学をも既成の権威と見て、これに距離を置くことであった。このように、全体としてポストモダンの傾向を強く持っていたところから、単立系や小さい教団として留まっていたペンテコステ教会の組織や教えには脅威を覚えず、その主観的「聖霊体験」に共通意識を持ち、あるいは共鳴を感じ、これに歩み寄る傾向を見せた。この頃に同時進行した、ポストモダンの傾向の強いキリスト教的運動としては、ジーザス・ムーブメントがあった。一般的宗教感覚の中では、東洋の神秘主義に対する憧憬や、オカルトの流行などが挙げられる。



  3. 第三の波 
 80年代にいたって、ペンテコステ体験は、それまで強固な反ペンテコステの立場を取っていた、福音派の人々の中にも浸透し始めた。フラー神学校の教授であったP.ワグナーや、J.ウインバーが大きな役割を果たした。彼らも、基本的にはカリスマ運動の人々と同じ傾向を持ち、福音派内のポストモダンと捕らえることができる。ただカリスマ運動と異なるのは、第三の波運動が福音派の神学者たちを中心に興った運動であるため、自分たちの聖霊体験を福音派の神学の中で整理して捉えようとする傾向が強いことである。とはいえ、彼らの修めた神学には聖霊に関する分野が欠けていたため、また、伝統的ペンテコステの神学を避け、単立系のペンテコステの教えに耳を貸す、ポストモダンの傾向があるため、全体として、未だ混乱の中にいると言える。ただし、神学的考察を軽視してきたきらいのあるペンテコステ諸教会は、神学的背景を持って考えることもできる、これら第三の波系の人々が語ることにも耳を傾けて、直すべきところは直し、得るべきところは得るべきだと考える。

  4. 混沌の中の運動 
 現在の西欧キリスト教の預言運動は、このようなカリスマ運動と第三の波の運動の人々、そして伝統的ペンテコステ運動の人々と、単立系や小さな教団のペンテコステ系の人々が、混沌と入り混じった流れの中で行われている。それぞれの人物の主張と働きを注意深く見ると、大体の背景が見えてくるが、多くの場合、既成の神学と権威に捕らわれない人々の活動で、厳密な仕分けは困難である。ここに大きな歴史の流れとしての、ポストモダンの傾向を強く感じるのである。
 


 E.啓蒙思想、反啓蒙運動に関わりのない預言運動 



 ペンテコステ運動は基本的に宣教の運動であったため、その影響は宣教を通して、啓蒙思想、反啓蒙運動とは関わりのない、いわゆる第三諸国にも大きな広がりを見せた。これらの国々の特徴は、西欧諸国ほどの自然科学信仰を持たず、より強いアミニズムの世界観の中にあったことである。ペンテコステ運動はそのような文化背景の中で、パワーエンカウンタリングなどに代表される聖霊の力強い働きによって、効果的な働きを続けてきた。しかしその一方で、聖霊の働きと土地の神々あるいは種々の霊の働きとの混同、すなわち、シンクレテイズムが興ってきた。アミニズムの世界では、夢、幻、口寄せ、占い、悪魔払いなどは通常の現象であり、ペンテコステ、カリスマ、第三の波運動が、アミニズムを背景としている文化に入ることにより、本当の意味で神に起源を持たない預言、預言者が多数現れ、擬似キリスト教、擬似ペンテコステが出現してくることになり、混乱はいよいよ激しくなった。面白い現象は、現在活躍している第三の波運動の推奨者の多くが、かつては反ペンテコステの福音派に属し、このような第三世界で宣教師活動などをする内に、パワーエンカウンタリングを通して聖霊の働きを体験し、宗旨変えをしたという事である。
 

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注・ ポストモダン

 既存の権威や組織、思想や教理に対する漠然とした不安や不満、あるいは幻滅や失望を背景に、個人的な主観的体験を重んじる傾向。近代啓蒙思想、合理主義的世界観、客観的事実を重んじる自然科学に対する失望と、それを支える人間の理性に対する失望、また社会科学のひとつの到達点としての唯物共産主義や近代資本主義の犯罪性に対する失望、また、合理主義的基盤に立った既存の権威や組織、倫理、道徳などに対する反感などを共有し、ものごとに捉われない奔放な個人主義を促した。このような傾向は、かなり曖昧な形で、徐々に多くの人たちの中に浸透してきた。その考え方は「不確実性」と表現されることが多い。ポストモダンと言う言葉自体は70年代に初めて使われ、キリスト教世界では80年代後半になって用いられ始めたが、その芽生えは多くの者が楽観的科学主義に失望した第一次大戦のころからあり、第二次大戦を経て、静かにしかし確実に大きく広がり、やがてヒッピーなどの社会現象となり、現代の不確実性に繋がってきた。



          つづく






















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2010年10月24日

預言運動の問題を論じる (2)



 F.エキュメニカルな傾向 



 ペンテコステ運動とそれに続くカリスマ運動及び第三の波の運動、さらに第三世界での類似した運動は、伝統的なエキュメニカル運動とは別の、新たなエキュメニカル運動となりつつある。伝統的なエキュメニカル運動はどちらかというと社会派の教会、すなわち私たちから見ると啓蒙思想に流された教会が主導し、組織的一致を目指していたが、社会派の教会の著しい衰退によって、人為的な美しい夢に終わる可能性が強い。一方、この聖霊体験によるエキュメニカルな動きは、強い反啓蒙思想を背景にした、組織、神学、伝統を超えた、「同じ神体験」をしたという共感、仲間意識による、精神的な一致であり、これが、有機体としての一致に向かう可能性も否定できない。現在、伝統的ペンテコステとカリスマ、第三の波、その他の、いわゆる聖霊運動に属するクリスチャンは、世界で4億を超え、5億とも言われている。その中には、私たちのような福音主義信仰を持っている者も多いとは言え、とても手を携える事ができない者、クリスチャンと認めがたい者たちもかなり存在する。シンクレテイズムを見極め排する過程での困難さが伴う。



 G.神学の枠組みと用語の問題 
 


 現在私たちが使用する神学の枠組みと用語は、啓蒙思想の中で構築され形成されたものである。その中には、現在も働き賜う神、また、聖霊に対する理解が非常に希薄であった。従って、現在のペンテコステ運動全体、また、特に預言・掲示・霊感の問題を論じるには、伝統的プロテスタント神学の枠と用語をもっては不可能であり、これが混乱に拍車をかけている。



 そこで念のため、手元にある改革・長老派系、バプテスト系、メソジスト系の著名な組織神学書の目次を調べて見ると、改めて驚いてしまった。それぞれ相当の分量の著書であるが、「聖霊」という大項はまったくなく、中項目にもないのである。他の項目で、例えば聖書の霊感の部分、あるいは救いの適応の部分などで聖霊の働きについては触れてはいるが、独立した聖霊の学びは皆無なのである。聖霊論は僅かの例外を除いては、まさに忘れられた分野なのである。



 たとえば、私たちの教会でも常に用いられている、「使徒信条」を取り上げてみよう。数ある信条の中でも最も優れた信条として認められ、歴史も長く多くの教会で用いられ続けて来たこの信条で、聖霊に関する告白は、「我は聖霊を信ず」の一言だけである。聖霊の何を信ずるのか、つまり、聖霊が存在する事を信じるだけなのか。聖霊が神である事を信ずるのか。それとも神の力であると信じるのか。まったく不明なのである。この信条が作られた時代は、聖霊に対する関心がまったく薄かったのであり、この信条が不服なしに用いられて来たのは、長い年月の間、それを用いる教会に、聖霊に対する関心が低かったからである。



 米国のアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団では、かなり以前に独自の信仰告白文「WE BELIEVE」を作成し、機関紙のエバンジェルに掲載し続けている。日本においてもその翻訳が、しばらくの間アッセンブリー誌に掲載されていた。内容においては使徒信条より優れ、聖霊についてもしっかりと述べられているが、告白文としては美しさに欠け、実際にはあまり用いられなかったと記憶する。あるいは、「聖霊教団」と自認する私たちの教団でも、まだ聖霊に対する関心が低く、使徒信条で満足しているのかも知れない。ともあれ、聖霊論を独自の大項目として含めた神学、また、共に聖霊論を基盤にした教会論と宣教論の枠作りと構築、聖霊とその働きに関する適正な用語の確立が必要である。この辺りに、伝統的ペンテコステ教団の重大な責任があると考えられる。



 H.アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団(A/G)の立場 



 A/Gの発端は、合理的なものの考え方や生き方、あるいは社会の構造が頂点に達した感があった、十九世紀の後半から二十世紀の初頭に端を発したアメリカの聖霊運動にあった。この運動が聖霊のバプテスマという一つの霊的体験に繋がり、その体験をした多くの者が、宣教という基本理念で協力を始めたのが、1914年の教団設立にむすびついた。歴史的にA/Gは白人の教団として発展し、現在アメリカ国内では信徒数およそ250万人強で、第二のペンテコステ教団となっている。しかしその宣教姿勢から、世界的にはおよそ175カ国で3千700万人を超える信徒数を持つ、最大のペンテコステの交わりに発展している。友好的な黒人主体の姉妹団体として発展したチャーチ・オブ・ゴッド・イン・クライスト教団は、アメリカ国内では信徒数においてはA/Gの約2倍であるが、世界的な宣教の取り組みには遅れを取り、現在およそ30カ国で伝道を開始している程度である。A/Gはその宣教姿勢や出版事業などを通し、伝統的ペンテコステの信仰、神学、実践において最も影響力の強い教団として現在に至っている。



 A/Gの特徴は普通、異言を伴う聖霊のバプテスマという現象を強調する事で知られているが、より大きな捉え方では、啓蒙主義的キリスト教に対抗する運動であり、今も変わらず、生き、働き、祈りに応え給う神への信仰が強調されていることにある。福音派の中においてさえ、現在は奇跡や癒し、あるいは預言や異言はないと主張する神学的傾向に対して、「キリストは昨日も今日も永遠までも変わらず、」お働きになると主張するものであった。また主観的体験を重んじはするが、あくまでも聖書に対する福音派の基本的態度を貫き、主観的体験信仰に流れることはなかった。主観的体験信仰に流れなかった理由のひとつは、A/Gの運動は教会刷新運動、あるいはリバイバル運動として、クリスチャンの霊的体験そのもの、すなわち、聖霊のバプテスマ自体に重点が置かれるのではなく、あくまでもその体験を起点とした、宣教が重んじられる運動であったことにあると考えられる。これは教会刷新運動として、つまり既存のクリスチャンに対して新たな霊的体験を提供する運動として、かなり主観的要素が強い預言や啓示などの体験を重んじるカリスマ運動、第三の波運動と対比される点である。A/Gにあっては、預言もその他の霊的体験も認知され、実践されてきたが、それらがことさら強調されることは稀であり、神秘主義的に主観的霊的体験を追い求める傾向も末梢に留まり、全体に影響をおよぼすことはなかった。強調されたのはむしろ、客観性の強い、また、宣教との関わりが強い癒しや奇跡といった現象であった。



II.現代預言運動の性格と特徴 



 預言運動そのものは、教会の歴史の中で幾度かくり返されているが、現在日本で話題になっている預言運動には、それなりの特徴がある。



 A.主観的体験主義 



 預言は、体験という事では同じでも、癒しや奇跡に比べて極めて主観的である。とはいえ、啓蒙思想の影響を強く受けて、「現在も働いておいでになる神、祈りにお応えになる神、一人一人に関心をお持ちになり、交わりを持とうとしておいでになる神」という神観がないがしろにされ、教理に同意することが信仰と取り違えられているような、主知的な信仰観に対し、「生きていたもう神に対する生きた信仰」が強調されたことは、多いに評価されるべきである。



 しかし主観的な預言そのものを、確かに誤りのない神からの啓示として、客観的に認める作業は非常に困難である。多くの場合、預言をする者の真実性を疑うのは、「神に逆らうこと」であるという恐怖に繋がるため、野放しの状態で先ず預言がされてしまい、その後、混乱の中での「吟味」が続けられることになる。また、そのような預言の主観性のゆえに、アミニズム的性格、オカルト的な性格との混同が大いに問題とされる。
 


 さらに、たとえ預言が真実なものであったとせよ、体験が重んじられるところで起こる一般的な傾向が、聖書の軽視であり、預言の場合はその傾向が著しい。また、特に個人預言、指示預言には、預言を期待する者のなかに、思考と自己決定の責任を回避する傾向が強くなり、健全なクリスチャンの成長を妨げ、誤った権威主義の台頭を許す事になりかねない。 



 B.ピーター・ワグナーの影響 



 ワグナーは、いわゆる福音派に属しながら、ペンテコステ運動を本物のキリスト教会の運動と認めて諸教会に紹介し、ペンテコステ運動が、ペンテコステ教会の枠を超えて広がって行く、きっかけを作った。その功績は大きい。



 しかし、彼は聖書学者でも神学者でもない。彼が有名になった「教会成長運動」は、聖書の教えに立脚したものではなく、社会学、統計学に立脚し、その論を補強するために「聖書を利用した」ものに過ぎない。また、彼が推進するいわゆる「霊の戦い」、「地域霊」、「地図作り」なども聖書的根拠は非常に薄い。彼自身が、それを認めて「色々なことをやっても伝道がうまく行かなかった。では、これを試して見たらどうか」という程度で、霊の戦いを勧めているのである。



 その彼が、今は預言運動におおいに乗って、中心人物の一人として宣伝に務めている。彼がそうしているのは、それが聖書的であるからではなく、「効果がありそう」だからである。彼は、聖書的であるよりもプラグマテイストであることを選んだのであり、アメリカ教の信徒である。
 



 C.レストレーション運動の一環 



 今回の学びのために手に入れた文献を見る限り、現在日本で強調されている預言運動は、レストレーション運動の一環として行われているようである。彼らは、エペソ4:11に記されている五つの働き、すなわち、使徒、預言者、伝道者、牧師、教師を、キリストによって定められた教会の五職であり、キリストの働きそのものを直接継承する重要な職制であると理解する。その重要な職制は、使徒の時代には明確に引き継がれていたにも拘わらず、やがて教会史のなかで見失われ、より順位の低い、伝道者、牧師、教師などの職のみが残るようになり、結果として、教会は本来の活動力を失い、使命を果たせなくなってしまった。従って、いま、さらに高い順位の使徒職と預言者職が、早急に回復されなければならないというのが、彼らの主張である。彼らはまた、使徒職・預言者職と共に、賜物の賦与に関わる按手の働きも、回復されなければならないと言い、盛んに手を置く。以上のような主張は、果たして聖書の教えるところであろうか。



@ なぜエペソ書だけを取り上げ、Iコリント12:28のリストは無視するのであろうか。このリストはエペソ書のリストとはかなり趣を異にする。
A エペソ書のリストだけが取り上げられるべき正当な理由があったとしても、ただ一箇所の聖書の記述を取り上げ、そこから神学を、しかも教会の組織と信徒の生活に重要な影響を及ぼす神学を作り上げることは、やってはならないことである。
B エペソ書のリストを「職」と理解するのには、解釈上の無理がある。Iコリント12:28や、IIテモテ1:11の記述と合わせて、これらは「職」ではなく、賜物の行使による機能と考えるべきである。
C ましてや、これらがキリストの働きと権威をそのまま引き継ぎ、賜物などとは別の次元の「職」であると理解するのは、ローマ法王が、ペテロの後継者としてキリストの代理であると主張する以上に、まったく聖書的根拠を持たず、無益な権威主義に陥る危険性を持つ。
D これらの働きの順序には、パウロの意識下にあったかもしれない優先順位が、影響していたと考えられなくもない。しかし、だからといって、この順位をそのまま教会における職の優先順位とするのには無理がある。
E 五職といわれる四つ目と五つ目の働きは、二つの異なった働きではなく、ハイフンで結ばれるべきもの、つまり、「牧師すなわち教師」と理解されるべきであるというのが、ギリシャ語文法からの定説である。
F 五職、あるいはIコリント12:28のリストにしても、パウロが各「職」の間に厳密に線を引き、区別をしたのだとは考えられない。教会の中の様々な働きや機能を、思いつくままに上げたのであり、それらは互いに重複し合って機能するというのが、真実に近いにちがいない。それは、IIテモテ1:11のパウロの記述にも明らかである。
G 按手の働きとその効用については、テモテに関する記述その他から、ある程度の事は言えるものの(Iテモテ4:14、IIテモテ1:6)、そこから確実な神学と実践の指針を見出す事には無理がある。さらにヘブル書6:1〜2をもって、按手が「キリストの六大教理の一つ」であると論じるのは、初歩的誤りで、ヘブル書が言うのは、按手が「初歩の教えに過ぎない」ということである。

                                      つづく



























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2010年10月25日

預言運動の問題を論じる (3)

 D.レーマの神学 



 現在の日本で盛んな預言運動を支えている神学のひとつは、レーマの神学であると考えられる。この神学が、A/Gを始めとするペンテコステの主流教団の、かなり著名な幾人かの伝道者たちに支持されているのは事実である。彼らは、神の言葉にはロゴスとレーマがあって、ロゴスは概念としての言葉であり、レーマはロゴスとしての言葉が語り出された言葉であると主張し、私たちの教会とクリスチャン生活には、ロゴスだけでは不充分であり、レーマが必要であると説く。端的に言うと、ロゴスは聖書であり、レーマは聖書の教えが生きた言葉として啓示されること、すなわち、聖霊による照明であると言う。しかし、多くのレーマ神学の信奉者によって実際上大切にされているのは、聖書の解き明かしとしてのレーマではなく、聖書には語られていない啓示や指示預言を含む、預言としてのレーマであるように見受けられる。しかしこのレーマの神学は、著名な神学者たちにはあまり支持されていない。




@ レーマとロゴスの聖書の用法を調べると、確かに、ある程度の用法の違いがあり、レーマとは実際に語る言葉である。しかし、ロゴスにもそのような用法があり、意味が重なり合っているために、そこに明確な区別をつけ、さらにそこから神学を形成するのには無理がある。
A 聖書の証言を見ると、霊感された聖書の言葉自体に力がある。レーマにならなければ力を発揮しないのではない。
B レーマには、聖霊の照明を受けた聖書の言葉も含まれると教えられてはいるが、実際には預言の強調となっているため、聖霊の照明の働きを軽視することに繋がり、聖霊の照明の働きに頼る私たちの説教、さらには、パウロが語っている預言の軽視に至る。この点については後述する。
C レーマの強調はロゴスの軽視、すなわち書かれた神の言葉、聖書の軽視に繋がる。これは、預言運動をする人たちの傾向として、かなり明白である。これは新正統主義の神学者たちの、聖書はそれを神の言葉と信じるものにとって、神の言葉であるという主張に類似して行く。ともに聖書の言葉を主観によって取捨選択する事になる。



 E.聖書時代と現代の差 



 いま流行の預言運動は、こと預言に関する限り、旧新約聖書の時代と現代の間に、実質的な差を認めないばかりか、むしろ、使徒2:17の記述などから、終末の時代である現在は、さらに多くの預言者が出現し、というよりは、すべての信じる者が預言者となると論じる。強調の差こそあれ、「あなたも私も預言者となれる。預言ができる」というのである。
 

 
@ 霊感によって記された神の言葉である聖書が完結した今、聖書が完結していなかった時代と同じような頻度の預言が、果たして必要なのか。確かに神は交わりの神であり、理神論的な神ではない。しかし、神がお望みになる人との交わりは、人が望む神との交わりと同じだろうか。あれこれとまつわりついて、自立できない子供を育ててしまう母親のような感覚で、神は人間との交わりを望んでおられるのだろうか。聖書を見る限り、私たちの神は決してそのような神ではない。
A 使徒2:17に引用されているヨエルの預言は、あたかも、今や預言が誰によってでも、頻繁に行われるようになったかのような印象を与えるが、ヨエルも彼の言葉を引用したペテロも、さらにそれを記録したルカも、そのようなことを言おうとしていたのではない。旧約の時代においては、聖霊はごく限られた特別の人物に、特別の役割を果たすために注がれ、預言の働きも選ばれた少数の人間に限定されていたが、新約の時代においては、聖霊は、すべての信じる者に注がれ、その結果、聖霊の働きである預言も、広く一般信徒に与えられるようになるというものである。誰でもが、のべつ幕なしに預言するという意味ではない。
B さらに、ここでルカが理解した預言が、果たして現在預言運動を推し進めている人たちの言う預言と、同質のものであるかという疑問が残る。ルカもパウロも預言あるいは啓示という言葉を、かなり広い意味で、あるいは曖昧に、明確な区分をしないままで用いている。ルカが意味した預言には、確かに現代の預言運動の提唱者たちが言う意味の預言も含まれていた。しかし、使徒の働きの内容を検討してみると、ルカはむしろ預言という言葉をもって、宣教の言葉、福音伝達を第一義的に考えていたと思われる。 
C ヨシュア記を読むと、神が当時のイスラエルにお求めになったのは、み言葉をしっかりと記憶し、それに依って生きることであった。当時のみ言葉とは、言うまでもうなくモーセの五書だけのことであり、現代の私たちから見るとまことに不充分であった。神の直接の介入としての預言や啓示が、現代より格段に必要とされたに違いない。しかし神は、「預言や啓示を期待し、それに依って生きよ」とはおっしゃらず、み言葉に立って生きることをお教えになったのである。み言葉、すなわち、霊感によって記録された神の言葉によって生きることが、神の民の基本である。



 F.吟味の必要 



 現在預言運動をしているすべての指導者は、Iコリ14:29を用いて、現代の預言は「吟味」されるべきであると、口をそろえて論じる。ここで聖書が語っている吟味という行為は、はたして現在の預言運動の指導者たちが主張するように、「すべての預言を、神からのものであるかどうか、まず疑ってかかり、充分テストし、その結果、間違いなく神からのものであるという確信が持てたなら、それを受け入れなさい」という意味なのだろうか。あるいは、語られた内容を深く考察し、思い巡らしなさいということだろうか。たしかに、ここでパウロが用いた用語は、「テスト」するという意味にも理解されないこともないが、もっと素直な、「良く考えなさい」という意味にも取れる。そして、文脈をたどると、「テスト」という解釈はそぐわない事が分かる。もちろん、語られた預言について深く考察するならば、その過程で、疑わしいものは排除されることになるだろう。しかし、それがパウロの言おうとしている事ではない。



 パウロはむしろ、異言も預言も同様に、ふたりか、多くても三人の者が語ったならば、それでおしまいにしなさい。他の者は、たとえもっと語りたくても、集会全体の秩序の事を考えて、黙っていなさいと言いたかったのである。吟味しなさいというのは、他の者が預言をしたり異言を語ったりしている間、自分が語れないことにいらついたり、不満たらしく、無駄に時間を費やすのではなく、他の人が語ることにも耳を傾け、語られたことについて熟考しなさいと、ただ当然の事を勧めただけである。したがって、ここで「黙る」ことの価値を無視し、「吟味」を強調するのは、著者が強調していない事を強調し、強調していることを軽視する間違いである。



 また、このように、聖書の中でただ一度だけ語られていることがらを、自分に都合良く解釈して、ひとつの神学と実践の基盤とするのは、行ってはならない危険なことである。さらに、このテキストと、「すべての霊を信じる事をしないように」と教えている、Iヨハネ4:2を無造作に関連付け、吟味を正当化するのは乱暴である。パウロとヨハネはまったく異なった状況のことを、別々の手紙で語っているのである。



 G.預言の練習 



 確かに、預言が間違いなく神から来たものであるかどうか、判断することは大切である。しかし現在の預言運動のように、「吟味」ということを逆手に取って、「すべての預言は、先ず吟味されなければならないのだから、はたして神からのものかどうか確信がなくても、間違っていても、おじけずに語りなさい。何をするにしても、初めからうまく行く事は少ないのだから、練習として、心の中に思い浮かんできた事を語ってみなさい」と励ますのは、いささか軽はずみと言わなければならない。本来は、預言する者が、「この預言は吟味されなければならない」と感じるような預言は、してはならない預言である。聖書は、「神のみ名をみだりに唱えてはならない」と教えている。現代の預言運動の推奨者たちは、預言において、神のみ名をみだりに、軽々しく唱えてはいないだろうか。



 確かに、サムエルの時代に預言者の学校と翻訳されているものがあった。しかしそれを、預言の練習をする学校と解釈するのも早計である。預言というものを、「神からの啓示としての語りかけ」と理解すると、そのような預言に、練習なるものの入る余地がはたしてあるのだろうか。ただ、預言者が「自らを整える」という訓練は、おおいにあり得たことと考えられるし、その意味で学校も可能であろう。しかし練習とは、自らの能力の向上ということであり、預言を受ける能力というものがあるとすると、預言が、神の直接の啓示ではなく、どこかのレベルに蓄えられている宝になってしまう。あるいは常に神から発せられている電波のようなものに、チャンネルを合わせるに過ぎないことになる。ただし、私は預言の練習を完全に否定するのではない。ルカが、ペテロによるヨエルの預言について語るとき、念頭にあったのは宣教の言葉であったとするならば、あるいは後ほど述べる、パウロが意味した預言が即興の説教であるとすると、練習は多いに大切である。



 H.個人預言・指示予言 



 聖書が信仰と生活のための充分な啓示であるとすると、信仰と生活のための新たな啓示は、原則として不要になる。現在の預言運動の指導者たちは、常に、聖書は完全で充分な啓示であり、それに加えられるべきものも、また差し引かれるものもあってはならないと、福音主義の原則にのっとって語っている。従って、彼らの強調する預言は、いきおい、聖書に加えられるべきものではない預言、すなわち個人預言、あるいは指示預言となる。これは、当然の理論的帰結ではある。しかし個人預言や指示預言が強調されると、預言はたちまち、占いや口寄せと同じ次元に引き落とされる危険があり、預言を受けた者は思考能力を停止し、選択責任を放棄する危険に陥ることになる。これは牧会責任者にとっては大問題である。また、現在の預言運動が強調する個人預言の例を観察すると、極めて自分の生活の周辺に関わる、端的に言うと損得利害に関わる預言が多い。これは、この運動に関わる人々の多くが、繁栄の福音の支持者であることにも関係しているらしい。しかし、使徒時代の教会を観る限り、個人預言のほとんどは福音宣教に関わるものであることに、注目すべきである。ここに強調点の違いがある。
 
                                   つづく













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2010年10月26日

預言運動の問題を論じる (4)

 

III.ビル・ハモンの神学の分析   
  


 現在、日本で問題として取り沙汰されている預言運動の指導者に、ビル・ハモンという人物がいる。彼自身が日本に来たことがあるかどうかは知らないが、彼が創立したクリスチャン・インターナショナルという預言運動の団体は、日本にも支部を設け、代表者を置き、活発に活動していると思われる。ここで彼の著書「預言者と個人預言」に表れている、彼の神学を分析してみる。ただし、この著書は神学書ではなく、個人預言をお勧めする本であるため、組織的な学びにはならないことを、お断りしなければならないが、一応、彼の論に従って進めて行く。太い文字が彼の主張である。



 A.私たちの神は交わりの神で、今日も聖書と聖霊を通し、人間との密接な交わりを願っておられる。


                                      
 わたしたちの神は交わりの神であるという、主張そのものに誤りはない。まさに反啓蒙主義の主張である。しかし、彼の主張をその前後関係から観察すると、危険性がかいま見える。
「願っておられる」という表現は、あたかも、神が人間との交わりを恋したっておられるような印象を受けるが、神は三位一体の神であり、その三位の間で、永遠の昔から愛の神、交わりの神として存在して来られた。つまり、神の愛、神の交わりは自己充足の愛と交わりである。人間の愛を喜んで下さるが、人間の愛を必要としておられるのではない。神はすべての人間の、直接の愛を求めておられると考えるのも良いが、神の主権を認める人間同士が、互いに愛し合いながら生きるのを、第三者として客観的にご覧になるのを、愛でておられると理解するほうが優れていると思う。「聖霊を通す」ということも、すぐさま預言に関わるものではなく、広い意味での交わりであるはずである。預言に関わりのない、聖霊による交わりのほうが、聖書の強調するところである。また、彼の言う「密接な交わり」が、預言を媒体として、人間に、個人的な、主観的な、あるいは神秘的な体験をさせることを、意味しているかのように理解できるのも問題である。

 B.聖霊の到来、教会の誕生、聖書の完結によって、預言が不要になったのではなく、さらに必要とされている。神は今もご自身のみ旨が預言によって啓示されることを望んでおられる。



 私たちは、預言が不用になったという主張は認めないが、「さらに必要とされている」という主張も、聖書的根拠のないものとして退けなければならない。かえって、「言」であるキリストの出現と聖書の完結によって、私たちは以前ほど数多くの預言を必要としなくなっていることは明白である。私たちは合理主義者ではないが、神が人間に理性を与え、分別を与え、判断力を与え、自己決定の能力を与え、責任を問うておられる事を積極的に認める。日常茶飯事の細かい事柄にいちいち口を挟む姑のように、神は私たちに教え、導き、指示しなければならないのだろうか。神は今もご自分のみ旨が預言によって啓示されることを望んでおられるという主張も、聖書の教えではなく、あくまでもまったくの想像に過ぎない。



 C.しかし多くの人々は、神の言われることを聞くことができず、時間もないため神は預言者をお立てになった。



 これも、まったく聖書の裏付けがない、自分たちに都合の良い推論に過ぎない。また、ここで言われている預言者とは、エペソ4:11に記されている預言者であり、「職」としての預言者だとのことである。彼の理論では、「キリストの昇天の賜物」と彼が呼ぶ五職の中の預言者と、御霊の賜物を活用して預言をする者とは、その重要性においても機能においても別のものである。先に述べたように、五職の中の預言者はキリストの職を引き継ぐもので、教会の中で職として重要な機能を担うのだと言う。しかし、エペソ4:11の預言者と、賜物としての預言を峻別するだけの、聖書的根拠がない。むしろ、共に賜物と理解すべきである。つまり、エペソ4:11で言われている預言者は、賜物としての預言とは関わりなく、職として任命されるのではなく、預言の賜物を教会全体の益のために、効果的に行使し続ける事によって、教会全体に預言者として認められ、受け入れられるものである。「神の言葉を聞くことができない、時間もない人のために、神は『職』としての預言者をお立てになった」などということは、聖書のどこにも記されていない我田引水な想像に過ぎない。また、彼は「預言的長老」なる概念あるいは役割を、しばしば引き合いに出すが、これの正体がはっきりしない。彼の育った教会の背景にある組織形態らしく、按手など、かなりの権威を行使するものらしい。




 D.預言者は、神にとって特別に大切なものであり、これを退けることは神を拒絶することである。 



 旧約時代や、教会の土台としての預言者、また黙示録の預言者などを引用して、これらの預言者たちを、神が大切にしておられた事実を取り上げ、現在も、神は預言者たちを非常に大切にし、特別に愛しておられると盛んに主張しているが、これも誤りである。現在の預言者が、旧約時代の預言者や贖いの計画の啓示に関わった預言者と、同じ性質、同じ働きを持っているという聖書的根拠がないばかりか、異なっているというと言う主張のほうが、聖書的根拠を持つからである。また、たとえ現在の預言者が、聖書時代の預言者と同等同質のものであると仮定しても、神にとって、彼らが牧師や伝道者などに比べて、特別に大切な者であるという結論は出てこない。「預言者を退けることは神を拒絶する事である」というような、神の権威と預言者の権威を直接結びつける言い方は、預言者の権威を極端に高め、恐慌支配、マインドコントロールをもたらす危険性がある。




 E.預言者は再臨の備えをする。



 バプテスマのヨハネが、預言者として主の来臨の備えをしたように、この終末のとき、多くの預言者が主の再臨の備えをするために現れると主張し、それは1980年代に起こったと断定している。しかし、預言者が再臨の備えをするという主張も、それが1980年代に起こったという主張も、まったく勝手な独自の推論であって、聖書的根拠は皆無である。ついでながら、1990年代にいたって使徒の回復があったと主張するのも、独自のレストレーション的な見解であり、聖書とはなんの関わりもない。私が知る限りでは、使徒職の回復を主張する運動は、かなり前から繰り返し興り、自分が使徒であると主張し、自分たちの組織の中で独裁的権力を行使しようとした者も少なくない。




 F.律法の時代から教会の時代に入るにあたって、パウロのような預言者が特別な啓示をもたらす働きをしたように、教会の時代から王国時代への過渡期には、新しい啓示を伝える預言者が必要とされている。



 これもまったく聖書的根拠のない、危険な独自の論にすぎない。パウロが特別な啓示を得て働いたことは明白であり、彼が霊感されて書き記した書簡は、神の権威を持った聖書として残されている。パウロはまさにミステリオン、すなわち、それまで知られていなかった奥義を、啓示によって知らされ、神の贖いの御計画の新しい分野を、明らかにしたのである。このパウロと同じように、いま、「新しい啓示を伝える預言者が必要とされている」となると、その預言者が語る啓示は、非常に重要な、まさに聖書に匹敵する程重要な啓示であると言う印象を受ける。私たちは、基本的な信仰とクリスチャン生活に必要な啓示は、すでに聖書によって与えられていると信じている。従って、現在パウロと同じように新しい啓示を得、それを語る預言者は必要ないし、あってはならないと考える。ヨハネも、終末に関する啓示を霊感によって記した書を閉じるにあたって、すなわち、「教会の時代から王国時代への過渡期」に関して書き記した預言の言葉の最後に、その書に加える事も取り除く事もしてはならないと、新約聖書では非常に少ない呪いの警告をもって、厳しく戒めている。
 



 G.主の来臨が近いしるしは、一般世界ではイスラエル国家の創立に見られ、教会内では預言者職の回復、預言者たちの群れの興隆に見られる。



 イスラエル国家の創立が、主の来臨の前ぶれであることは、現在のイスラエル国家がそれであるかどうかの議論は別として、一般的に受け入れられている見解である。しかし、預言者職が回復され、多くの預言者が出現するのが、教会内での兆候だとするのは、まったく聖書的根拠を持たない。むしろそれは、彼自身が「預言者によって明らかにされているように」と言っているとおり、現代の預言者の言葉による断定であり、現代の預言者の言葉に、聖書が語っていないことを語らせ、それによって神学を構築し、実践を指導するという、非常に危険な行為である。ここで、彼は、明らかに聖書の権威のみを主張する福音派の信仰から、一歩はみ出してしまっている。
 


 実際彼は、レーマとしての預言が「霊感されたもの」であり、「神様から直接伝えられた神の言葉」であると主張し、「聖書の真理に基づいて説教される預言的説教は、(レーマのこと・・・・・霊感され油注がれている」と論じることによって、現代の預言者の言葉を、実質的に聖書と同位置に置くことをはばからない。このような傾向は、彼の弟子であり、彼が創立したクリスチャン・インターナショナルの名を受けて、同種の団体を日本に創設した、ロナルド・サーカという人物の著書にも明白である。彼は、その小冊子、「山羊の国から羊の国へ」を、ビル・ハモンとチャック・スミスという人物の二つの預言から書き始め、それらの預言をあたかも聖書のごとく、権威のあるものとして取り扱っている。確かに、現在の預言運動の推進者たちは、聖書には何も加えられてはならないと主張している。しかしそう語っていながら、彼らは自ら気付かぬうちに、越えてはならない一線を越えてしまったのである。



 H.主の来臨に向けて、花嫁である教会を備えるために、使徒職の回復とともに預言者職の回復が必要である。



 いまここで取り上げている著書が預言者に関するものであり、使徒職については、1990年代に回復されたという以外は、ほとんど書かれていない。しかし預言者職の回復については、「主の道を備える」ためと「花嫁を整える」ために、絶対に必要であると主張されている。ただし、主の道を備えるとはどういうことで、具体的には花嫁を整えるのとどこが違うのか、はっきりしない。ともあれ、彼によると、預言者職の働きが完全に回復されない限り、花嫁が充分に整えられることはない。もし花嫁が完全に整えられなければ、すなわち、教会が完全に大人に成長しなければ、キリストはお帰りにならない。牧師や伝道者、教師の働きでは不足であると主張する。しかし、キリストの再臨を、このように教会の業と結びつけて考えるのは、聖書が教えることではない。 
 


 このように、現代預言運動の代表的指導者と考えられるビル・ハモンの神学を垣間見るだけで、こと、預言に関する限り、彼の主張はまったく聖書に拠らない、聖書から離れたものである事が明白である。彼の協力者、あるいは弟子と思われる数人の手になる著書も読んで見たが、「聖書に拠らない、聖書を離れた」主張という点では同じである。基本的には福音信仰、あるいは根本主義に立つと思われるこれらの人物が、反啓蒙主義の態度をとる事は理解できるが、ポストモダンの傾向に流され、主観的体験を重視するあまり、聖書から離れ、福音宣教とはあまり関わりのない、預言の魅力に捕らわれているのは残念である。
    
                                     つづく











  
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2010年10月27日

預言運動の問題を論じる (5)

  
IV.啓示と預言についての考察



 では啓示と預言について、とくに、聖書はどのように語っているかということに注意しつつ、考察して見よう。



 A.啓示について 



 聖書の中に現れている啓示、あるいは教えられている啓示にはいろいろな種類があるが、基本的に啓示とは、神がご自分の本性と御心とを、人間に示してくださることである。



@ 自然啓示 自然は神の姿を反映していると詩篇の作者はうたい、自然を通して人間は、ある程度創造主である神を知ることができると、パウロは教えている。しかし自然啓示による知識だけでは、人間は神の贖いの知識に到達することができず、贖いを体験せずに、真の神知識を得ることはできない。自然啓示は、神がご自分を啓示しようと意図された啓示かどうか、議論の余地がある。したがって、自然啓示は、そのような言葉で神学的に表現されてはいるが、果たして本当の意味で啓示であると言えるか、疑問がある。

A 聖書啓示 神は旧新約聖書を通して、ご自分と、ご自分の御心を啓示してくださった。聖書はあらゆる意味で特異な啓示の書である。聖書の中には、様々な手段で与えられた啓示がたくさん含まれている一方、まったく啓示によらない、言い伝え、歴史、あるいは人の言葉、さらには偽預言者、キリストの敵対者、悪魔の言葉までも含まれている。しかし、そのような啓示という手段によらない聖書の記述も、聖書に記述されることにより、神からの啓示として与えられているのである。
  
 しかも、この聖書による啓示だけが、神の人類救済計画と贖いの業を通しての実現と、人間側の責任を示している唯一の啓示である。受肉した言であるキリストもまた神の完全な啓示ではあったが、そのキリストの啓示でさえ、現在は聖書によってのみ啓示されているのである。聖書なくしてはキリストの生涯も教えも、私たちには一切啓示されていない。神は人類救済の計画とその実現に関する啓示を、ただ、聖書を通してのみお与えになったのである。聖書を通さない人類救済の御心の啓示というものはありえない。人類救済の御計画に関する新しい啓示は、それがやがて来るみ国に関するものであれ、なんであれ、あり得ないし、あってはならないものである。

 さらに、聖書啓示が特別の啓示であるというには、もう一つの理由がある。それは聖書の啓示は単なる啓示ではなく、「霊感」された啓示だということである。 聖書が本当の意味で、権威ある神の言葉なのは、それが啓示を集めた書だからではなく、それ自体が啓示の書だからでもなく、霊感されて書き記された神の言葉だからである。この点については後述する。

B 受肉した言 キリストご自身こそ神の最高の自己啓示であった。キリストを見たものは神を見たのである。その生涯、教え、働きは、すべて神の啓示であった。しかし、すでに述べたように、現在の私たちにとっては、このキリストさえ、聖書を通してのみ啓示されているのである。

C 歴史、出来事 聖書の中で、神は歴史や出来事を通してご自分を啓示しておられたことが明らかである。出エジプト記にのべられている数々の奇跡も、出エジプト記の歴史自体も啓示であった。また、ヨハネが「しるし」として記録した奇跡も啓示であった。しかし、神は現在も歴史や出来事を通して啓示を与えておられるのだろうか。聖書の中で、神からの啓示として歴史や出来事が取り上げられているとしても、それが、ただちに現在に適応されるべきではない。なぜなら、特定の歴史や出来事を、神が啓示と意図して起こしておられたかどうか、知る由がないからである。聖書は霊感によって記録された神の言葉として、歴史や出来事を啓示として取り上げているのである。それは人の言葉、詩歌、知恵、等においても同じである。現在、神が意図されたものでない歴史や出来事からも、神の御心を学ぶことは可能である。例えば「癒し」の力を見て、神は今でも癒しを行う方であると知る事はできる。しかし、それを啓示とは言わない。ただ、私たちの神学からすると、私たちは、神がユダヤ民族と教会の中に超自然的に働いてくださり、霊感された書物のみを選び、編纂し、正典として残すように働きかけてくださったと認めないわけには行かない。とはいえそれは導きであり、人々が啓示によって正典の編纂を行ったというものではない。

D み声、幻、夢、御使いなど 聖書の中には、このような啓示の例がたくさん記録されている。使徒2:17によると、このような啓示が、旧約聖書時代のように限られた人々にだけ与えられるのではなく、広く一般的に与えられたと言うことである。とはいえ、先に述べたように、このような啓示が文字通りに「すべての人に」、差別なく頻繁に与えられたと言うことではない。それは使徒の働きの記述を見ても明らかである。

 では、このような啓示が、現在もあり得るのだろうか。キリストは、ご自分が去ってからおいでになる別の助け主は、「あなたがたをすべての真理に導き入れ・・・・・やがて起ころうとしていることをあなたがたに示す」とお語りになり、導きの働き、啓示の働きが聖霊の大切な役割であることをお教えになっている。(ヨハネ16:13)そして、この聖霊の働きが現在なくなってしまったという議論には、聖書解釈の上で根拠がない。とはいえ、このキリストのお言葉は、当時の弟子たちの弱さのために、その時点までに教えておく事ができなかった事柄を、やがて聖霊が代わって教えてくださるという、12節からの文脈の中で理解されなければならない。したがって第一義的には、当然、新約聖書の形成期にパウロや弟子たちに与えられた啓示や、新約聖書を書かせた霊感のお働きに対する言及と考えられるべきである。そうすると、現在このような聖霊の啓示の働きが、聖書の時代とまったく変わりなく、頻繁に行われていると理解して、み声や幻や預言などに多大の関心を持ち、人々にもそれを勧めることは間違っていると言わねばならない。

E 照明(イルミネーション) 現在、霊感によって書き残された神の啓示、聖書のみ言葉を、クリスチャンが敬虔な態度で読み、聞き、学ぼうとするとき、霊感してくださった聖霊ご自身が、クリスチャンの心と理解力に働いて、それをより良く、より正しく理解させてくださる。イエス様ご自身がお教えになったこの聖霊の大切な働きを否定する者は、少なくても福音派の中にはいないであろう。あるいは、その事実を軽視する者、無視する者はいるかも知れないが、否定はできない。現在、啓示はないと主張する人たちは、この聖霊の働きを啓示とは認めない。一方、現在の預言運動の推奨者たちの中には、この聖霊の働きを強調して、聖書の言っていること以上のこと、あるいは聖書の語っている事以外の事まで、語らせようとしている者がいる事には注意を要する。また、レーマの神学を信奉する者たちの多くは、聖書の明確な教えに反して、聖書は書かれた言葉だけでは力がなく、この聖霊の照明があってこそレーマとなって、力を持つと主張する。しかし、聖霊の照明を受けたレーマとしての解釈と、照明を受けない人間の理解との差を、どのようにして見極めるのだろうか。自分の誤った聖書解釈をレーマであると主張して、正しい解釈を否定する事もおおいにあり得るからである。



B.預言について 



 厳密に言うと、現代の預言はそれ自体が啓示なのか、あるいは啓示を受けて啓示について語るものなのか、明確ではない。預言を実践している人たちに聞くと、一つ一つの言葉までも正確に与えられる預言というのは、ほとんどないようである。むしろ、なんらかの感動を受けて、概念的なものが与えられ、それを自分の言葉で語り出すのが通常らしい。彼らはその何らかの感動を、不用意に、「霊感(インスピレーション)が与えられる」という言葉で表現し、神学上の混乱を起こしているが、これは、聖書が霊感を受けて書かれたという意味の霊感とはまったく違う、非神学的な市井の表現である。



 あるいは単に概念が与えられるだけではなく、幻を見、み声を聞くということによって語り出す預言もある。いずれにしても、預言の言葉一つ一つは、厳密な意味においては人の選んだ言葉であり、神が霊感を通してご自分の言葉として承認し、保証された言葉、すなわち聖書の言葉と同じものではない。預言の言葉に、あたかも、神ご自身が霊感を持って書き記させた言葉と、同等の権威が伴っていると理解するのは、まったくの誤りである。



 現代の預言が神の言葉であるというのは、たとえその預言が真正なものであったとしても、聖霊の照明によって聖書を理解させられて語る説教が、「神の言葉である」のと同じように、限定された意味において神の言葉なのである。それは啓示された神の言葉であるかも知れないが、霊感された神の言葉ではない。ただ、本当に神がその場のために意図された啓示から来る預言ならば、その場にふさわしい、単に一般的に準備された説教以上に、その場とその時の必要、あるいは状況にふさわしい言葉であるはずである。



 したがって、「主は、こう仰せられる」と、霊感によって記録された言葉を語った旧約時代の預言者と、現代のいわゆる預言者とを同等に扱ってはならない。旧約時代の預言者は、明らかに預言者としての地位を持ち、世襲制であった祭司職に対し、一人一人の人物を神が直接選ぶものであったが、そこには、人格を鍛えたり神知識を極めたりする、人為的な面もあったと考えられ、預言者の学校も存在した。彼らは、いつも「主は、こう仰せられる」と言って語ったのではない。普段は、民の中の知者、指導者として、知恵の言葉を語っていたのである。しかし、神が霊感して記録させようと意図された預言には、「主は、こう仰せられる」と主張できる、絶対の権威の確信をお与えになったのであろう。



 一方、旧約の時代には預言者が誤って預言した場合もあった。また偽預言者もいた。エレミヤ書の例を見るまでもなく、そこにはかなりの混乱があったことが容易に推測される。この混乱をある程度おさめたのは、客観性と言うことだったらしい。まず、預言者がすべての人に認められていた人物であるかどうかという事。次に、その預言が複数の預言者に承認されているかどうか。さらに、その預言が成就したかどうかなどが、尺度となっていた。

  
                                  
 C.異言の解き明かしによる預言について



 また、預言を語る中で、異言にも触れておかなければならない。伝統的ペンテコステ教会においては、賜物としての異言が解かれると、預言になると考えられてきた。現代預言運動の推進者の主張も同じである。しかし、異言とその解き明かしによる預言という考え方は、果たして聖書の教えと合致するだろうか。伝統的解釈によると、異言には、聖霊のバプテスマを受けたしるしとして機能する異言と、賜物としての異言がある。これはどうやら、聖霊のバプテスマはすべてのクリスチャンに与えられている特権であり、そのしるしとしての異言も、すべてのクリスチャンが語るべきものであるという自分たちの主張と、「すべての者が異言を語るのだろうか」という、パウロの言葉を調和させるための努力の結果、生み出された解釈のようである。この問題については後述する。


                                     つづく


















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2010年10月28日

預言運動の問題を論じる (6)


V.パウロが語る啓示と預言



 新約聖書において、啓示、あるいは預言について最も多く語っているのはパウロである。彼はどのように理解していたのであろうか。パウロに最も近かったもう一人の神学者、ルカの語ることにも注意を向けながら、考えて見よう。



 A.パウロ自身に与えられた奥義としての啓示



 パウロは特別な意味で啓示を受けていた。彼はその啓示を自らの神学の土台、あるいは骨格としていた。彼の教えに負うところが多い神の贖いのご計画についての一連の神学、すなわち、業によらない信仰による救い、福音の普遍性、救われた者が構成するキリストのみ体としての共同体、復活と再臨に関する出来事などは、すべて、神からの特別な啓示によるのであって、奥義、すなわちそれまで明らかにされていなかった真理の、新たな啓示に属するものであった。彼自身の宗教的瞑想でも悟りの結果でもない。また、パリサイ学徒としての学びの実でも、先輩の使徒や弟子たちに教えられたものでもない。パウロは、その啓示がどのような手段で与えられたのかについては沈黙しているが、啓示自体には絶対の権威を認め、他の者にも、その権威を認めること要求している。(Iコリ1:10、IIコリ12:1,7、ガラ1:12,16)



 とはいえ、パウロは、啓示を受けることができるのは自分だけだと主張しなかった。事実、彼以外の使徒や弟子たちも啓示を受けた。しかし、パウロが受けた啓示はやはり特別の啓示であり、誰でも受けられるという類のものではなかった。実際、ペテロとヨハネを除いては、他の誰にも与えられていない特殊なものであった。しかも、奥義に関わるその量と内容の深遠さにおいては、ペテロとヨハネをはるかに凌駕している。ただ、パウロは、啓示の分類には興味を示していない。というより、あえてそれを避け、曖昧なままにしておいたのだとさえ推測される。もしそれを明確にすると、自分に与えられた啓示は、他の使徒や弟子たちに与えられた啓示とは異なる、高度なものであることが明らかになり、心ならずとも、使徒としての自分の優位を主張する結果になるからである。パウロは、すでに緊迫感が高かった他の使徒や弟子たちとの人間関係に、不要な軋轢を産み出すことを嫌ったのである。



 B.個人預言、指示預言、未来予言



 パウロは個人預言、あるいは指示預言と呼ばれる預言を認めている。それはパウロ自身の生涯にも幾度かあった事であり、他の者の生涯にもそれを認めている。あるいは明確には、預言という手段ではなかったかも知れないが、神の直接の導きを体験していた。(使徒13:2,16:6〜10、18:9〜11、19:21、26:19、27:22、ガラ2:2、Iテモ1:18、4:14)ただし、これらの預言あるいは導きは、先に述べたように宣教の働きに関わるものであって、個人の損得利害の問題に関わるものではなかった。また、聖霊による預言にも明確な指示ではなく、単なる予告も含まれ、それに対してどう行動するかは、預言を受けた本人の判断に関わることもあった。(使徒21:4〜14)さらに、パウロの場合、聖霊の示しを間違って理解していた事さえあったと考えられる。(使徒20:23〜25)また、啓示に御使いが関わっている場合もあった。



 また、未来に関わる預言、いわゆる予言も排除されていない。個人預言、指示預言もまた未来に関わる事が多い。使徒の働きに記されている、アガポによる飢饉の予言は特異なものである。しかしこの予言も、単なる興味本位の予告でも危機を回避せよという指示でもなく、福音宣教に関わるものであると理解すべきである。この予言は、贖いの福音の奥義としてのキリストのみ体、宣教の担い手としての教会が正しく形成されて行くため、つまり、互いに助け合う愛の共同体として具現されて行くため、しっかりと準備させて行く役割を持ったものであった。



 C.イルミネーション
 


 神学的には「照明」という言葉で現されるこの現象は、イエス様が聖霊の顕著な働きとして言及されたものである。(ヨハネ14:26、15:26)聖霊のこのお働きは、現在、私たちが祈り心をもって聖書を読む時、また聖書で教えられている真理について祈りながら考え瞑想するとき、聖霊がより良くより正しい理解に到達させてくださること、あるいは時代と文化、背景と環境に適した理解を持たせてくださる事である。



@ Iコリント12章及び14章の預言 
 パウロは聖霊のこの働きを、教会の集まりの中で、また個々のクリスチャン生活の中で、重要なものと認めていたと考えられる。例えば、Iコリント12章〜14章で彼が語る預言というものは、基本的にこの働きに関わるものではないだろうか。聖霊の賜物として預言するという事は、従来考えられていたような、聖霊の直接の干与、あるいは啓示としての預言ではなく、つまり、「主は、こう仰せられる」という種類の預言、旧約聖書時代の預言者の直接啓示としての預言のようなものではなく、聖書の御言葉が聖霊の照明の働きによって、語るものにさらに明らかにされ、あるいはその場の状況に適応され、語らされたものではないだろうか。聖霊はお選びになった語るべき者を励まし、勇気付け、語り出させてくださるのではないだろうか。このような預言に関する聖霊のお働きは、祈りと学びと黙想によって良く準備された説教に対する関わりと、基本的に同じである。ただ、コリント書で言われる預言の場合は、一般の状況に応じて良く準備された説教としての「預言」より、その場の実情、必要、ある特定の人間に対する、即興的な要素が強い。音楽で言うと、練習の積み重ねで演奏されるオーケストラに対して、即興的なひらめきによる演奏が重視される、ジャズのようなものである。しかし、即興的演奏には、基本的な音楽知識と能力は欠かせないのと同じように、あるいは、むしろそれ以上に、預言をする者も、聖書の教えに対する知識と洞察を欠く事はできない。 
  


 ペンテコステの教会の中では、コリント書の中で語られている預言を、聖霊が預言者を通して直接語りかけてくださることと理解し、聖霊の照明によって聖書の知識に洞察と理解が加えられ、それをまた、聖霊に語るように励まされて語り出す、即興の説教であるとは理解して来なかった。これは、より奇跡的と思える出来事を重視する傾向のある、ペンテコステ教会としては自然な出来事であったであろう。しかし、私自身の40年以上に渡るA/G教会での生活の中で、あるいは他のペンテコステ教会との交わりの中で聞いた預言は、ほとんどが、神の直接的な語りかけを取り継ぐ預言と解釈するよりは、むしろ、即興の説教、励ましの言葉、慰めの言葉として理解した方がふさわしい預言であった。少しばかり美しさの欠けた日本語だったり、無理にキング・ジェームス英語を使っていたりで、まだまだ洗練される余地を残していたものも、少なくなかった。預言する者がもう少し聖書の言葉に馴染んでいたら、聖書の知識にも富んでいたら、話し方のほうも、もうちょっと洗練されていたならと思う事もあった。このような預言こそ、預言者の学校で練習をするのが良いのではないだろうか。



 パウロは、即興の説教としての性格を持つこの種の預言を重視し、できるだけ多くのクリスチャンがこの賜物を持つ事を望み、そうなるように励ましたと思われる。ルカもまた、パウロと同じように理解していたと思われる。ルカが使徒の働きを通して強調しているのは、現代の預言運動の推進者たちが強調するような預言ではなく、宣教の働きであり、宣教に関わる言葉としての預言である。彼は、老若男女すべての者が、この預言の働きに携わっていく時代になったことを、使徒の働きの始めの部分で、ペテロによるヨエル預言の引用を持って示したのである。もちろん、これらの預言者たちが、個人預言をし、予知的な預言もしたであろうことは、想像に難くない。



 パウロがIコリント14章で預言について語ったとき、彼の頭にあったのは、一種の説教としての預言であったと理解すると、14章全体が滑らかに理解できるのである。パウロは預言者の霊は預言者に服従すると言って、預言が預言する者の意思によって語ったり語らなかったり、抑制する事ができるものであると教えている。したがってこの預言の大切さは、教会の秩序の大切さに劣る程度のものである。これは緊急性のある、あるいは強い指導や指示の性質のある預言、さらにはパウロ自身が受けた贖いの奥義に関わる預言には当てはまらない。従って、14章で語られている預言は、たとえ「啓示」であったとしても、その性質と価値において、一段低いものと考えられていたと理解できる。  また、教会には女性の預言者がいて活発に活動し、その存在と活動が一般に承認されていた様子が、ルカによって記録されているが、パウロも女性の預言者の存在を認めている。しかしパウロは、女性の預言者が公の集まりで預言する事を認めなかった。ここでパウロが認めなかった預言は、即興の説教としての要素が強い預言のことで、Iテモテ2:11において、「女は黙っていなさい」、「教えてはならない」と指示したときに想定していた「教え」と、同じ性質のものだったと考えられる。



 また個人預言や指示預言は、14章でのパウロの関心事ではなかったと推測される。パウロが12章から論じ続けてきたのは、「全体の益」になるということである。そういう意味で、公の場での異言もまた、低い位置しか与えられていない。パウロは明らかに、プライベートな場での異言と公の場での異言の価値に、差をつけている。異言はプライベートな場においてこそ価値があるのであって、公の場では控えられるべきものである。このようなパウロの論調からすると、「公の益」という面では、たとえそれが他者に対する奉仕であっても、個人預言や指示預言という公共性が低い働きを、念頭に置いていたとは思えない。



 ともあれ、パウロの預言者についての言及は、かなり幅の広いもので、現在の私たちの分析的な分類方法には、完全には馴染まない「曖昧さ」残したものであった。
 


A 異言の解き明かしとしての預言
 従来、ペンテコステ教会の聖書解釈では、異言には二つの種類がある。一つは聖霊のバプテスマを受けたときに語る異言であり、聖霊のバプテスマを受けたしるしとしての役割も果たすが、元来は神の助けによって、神に向かって語る祈りである。そしてもう一つは、神から与えられる預言の手段であるが、解き明かされて始めて預言としての役割を果たすと説明されてきた。しかし、聖霊が霊感を持って承認したパウロの教えを素直に読む限り、その解釈に納得するのは難しい。むしろIコリント12章と14章でパウロが教えているのは、聖霊のバプテスマを受けたときに語る異言と同質の、個人の祈りとしての異言、すなわち聖霊が、どう祈ったら良いのかわからない私たちを励まし      て、うめきをもって祈らせてくださる、祈りの異言ではないだろうか。そのような祈りは、感謝であり賛美であり、愛と感動の表現であり、神の救いの計画の奥
義を語るものであろう。それらの祈りがたとえ個人的な、神に向かっての祈りであっても、解き明かされると、会衆全体の益となるのである。



 パウロは預言は人に向かって語るものであるが、異言は神に向かって語るものであると、くりかえして教えている。異言が、神からの語りかけを取り次ぐ、預言の一種、すなわち、人に向かって語られるものであると理解していたとするなら、パウロはそのような言い方はしなかったであろう。
 

 では、実際に異言の解き明かしとして語られた言葉を、どう理解すべきであろう。異言を語った本人がそれは預言だと理解し、預言のように、人に向かって語られた解き明かしを、私自身も随分聞いてきた。私は彼らが偽預言者だと言っているのだろうか。厳密な意味においては、みだりに神の名をもって語った責任はあるが、彼らが悪意を持って語っているとは考えない。むしろ、聖霊に感動し、またみ言葉に感動し、押し出されるように、自らが蓄えた聖書知識、霊的洞察を語っているのであろう。あるいは、神は私たちの誤った聖書理解をも容認し、それを利用して、私たちに語りかけてくださったのかも知れない。神は寛容の神である。たとえば、神は、「伝道者の召し」とか「宣教師の召し」などという、まったく非聖書的な概念さえ、おおらかに許してくださっただけでなく、その非聖書的概念を利用して、伝道者を立て、宣教師を起こしてくださったのだから、そのようなことさえあり得る。とはいえ、聖書的には、異言の解き明かしによる預言などというものを、期待すべきでも、勧めるべきでも、実践すべきでもない。



 また、聖霊のバプテスマはすべての者に与えられるべき体験であり、それに伴う異言も、すべての者に与えられるべきものであると主張する、私たちの立場と、「すべての者が異言を語るだろうか」とパウロが言う、限られた者だけに与えられる「賜物」としての異言という考え方を、どのように調和させる事ができるであろうか。
 


 異言は、すべてのクリスチャンに与えられている賜物である。すべてのクリスチャンが、多かれ少なかれ異言を語るべきであり、プライベートな場では多く語る方が良い。少なくてもパウロはそのように考え、自分が誰よりも多く異言を語ることができることを神に感謝し、すべてのクリスチャンが異言を語るように望んでいた。また、賜物を与えられていないという事は、その賜物といわれている能力を、まったく持ち合わせていない事ではない。賜物として与えられていなくても、ある程度知恵の言葉を持ち、知識の言葉も持つ。信仰も持ち、癒しの働きもする。従って、異言の賜物を与えられていないというのは、まったく異言を語ることができないという事ではない。パウロが語る賜物という概念も、家や自動車のように、与えられたらすべてを持ち、与えられなかったらまったく持たない、いわゆる「全てか無か」というようなものとは異なっている。むしろクリスチャンはおしなべて、多かれ少なかれ賜物と言われている働きをしているのである。しかし、明確に賜物と言えるのは、その働きに特別な力と能力を発揮し、恒常的にしかも効果的にそれを用いる場合なのである。パウロがすべての者が異言を語るだろうかと言った時、このような文脈の中で言ったのである。



 また聖霊のバプテスマが、基本的にすべてのクリスチャンに与えられるべき体験であっても、まだその体験にあずかっていない者もいたであろう。救いはすべての人間を対象とした賜物である。しかしすべての人間がこれを受けるのではない。聖霊のバプテスマと異言は、すべてのクリスチャンを対象にした賜物である。しかし、すべてのクリスチャンが、それを自分の体験としているわけではない。従って、すべてのクリスチャンが異言を語るべきであると理解する私たちの考え方と、「すべてが異言を語るのだろうか」と、実状を語るパウロの言葉は矛盾するものではない。



B 旧約聖書の解釈  
 パウロを始め、新約聖書の著者たちによる旧約聖書の引用、あるいは解釈を見ると、現代福音派の解釈学を学んだ私たちの解釈とは、随分異なった原則に立った解釈をしていることに気付く。私たちは、パウロたちが特別な啓示を受けて、つまり聖霊による照明を受けてそのように解釈し、その解釈を聖霊が霊感を通して良しとされたと考える。しかし、今、パウロたちと同じ解釈の原則に立とうとは考えない。というより、彼らの解釈は、啓蒙的読み方、合理的解釈に慣れてしまった現代の私たちには、なぜそのように解釈し得るのか良く分からないのである。パウロたちが行った解釈方法は誤っていたのだろうか。それとも彼らだけに許された解釈方法だったのだろうか。私たちは、合理的な考え方に立った現在の聖書解釈法を、考え直さなければならないのかも知れない。



 ともあれ、今の時点では、私たちは、パウロをはじめとする新約聖書の著者たちが、聖霊の特別な助けを借りて、尋常ならない解釈をし得たことを、認める以外にはない。


                                    つづく























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2010年10月29日

預言運動の問題を論じる (7)


VI.聖書の権威と現代の啓示



 私たち伝統的ペンテコステ信仰に属する者は、現在流行の預言運動の人々とは異なっていても、原則として、現代の啓示あるいは預言というものの存在を認めている。ペンテコステ信仰がここまで広がりを見せている現在、福音的信仰を持つ者の中には、もはや癒しや奇跡と言った現象に躓くものはないであろう。あるいは異言には「薄気味わるさ」を感じる者はいるかもしれない。しかし今、ペンテコステ派と福音派の交わりを妨げている問題は、聖書の権威の問題である。福音派の人々は、ペンテコステ派の人々が認める預言などの啓示によって、聖書の権威が脅かされると感じているのである。
 


 もし、預言に代表される現在の啓示も、神から与えられたものとして権威を持つならば、私たちはその権威を、どのように位置付けたらよいのだろうか。それは神の言葉として、聖書と同等の権威を持つのだろうか。そのような啓示を集めた、あるいは預言を収録した記録は、聖書に加えられるべきものだろうか。あるいは、モルモン教のように、あるいは統一協会のように、聖書以外の聖典を持つことになるのだろうか。そこまで行かなくても、セブンスデー教会のように、聖書以外の権威の書を持つことにはならないだろうかと言う事である。



 A.聖書の権威



 ここで改めてはっきり確認しておきたいのは、聖書が神の言葉として絶対の権威を持つのは、聖書が啓示の書だからではなく、霊感によって書かれた書だからであるということである。聖書が単に啓示を収録した書物に過ぎないならば、権威という面では、「現在の預言」を収録した書物とあまりかわらない。しかも、すでに述べたように、聖書の記述のすべてが啓示によって与えられたものではなく、人間の記録も言い伝えも歌も、あるいは悪魔の言葉までも含まれている。これら全体を神からの啓示として権威付けているのは、神がこれを霊感と言う手段をもって、御自分の意思の通りに、誤りなく書き記させたという事実なのである。



 啓示というものは、預言を含めて、たとえどのような手段で与えられたとしても、人為的な誤りの入る余地がある。例えばある人が、物凄く太った人間の幻を見て、それを「豚のように太った」と表現したとする。この場合、「豚のように」という表現は彼のものであって、神のものではない。神がお与えになったのは幻であって、その「表現や形容」ではない。あるいは神は、「河馬のように」という表現を望んでおられたのかもしれない。また、一般的人間にはごく普通の、表現不足という欠点もある。あるいは、人間の言葉という限られたコミュニケーションの媒体には、適当な表現がない場合さえあるだろう。さらに、人間の「聞く」「見る」という感覚には、間違いが入る余地がたくさんある。神の言葉を直接聞いて、それをそのまま「預言」したとしても、そこには聞き違いが入る余地があり、言い違いの入る可能性がたくさんある。幻覚、幻聴という現象も知られている。視覚、聴覚などの感覚をつかさどる人体機能は、わずかな物理的刺激を加えるだけで誤作動をする。また、預言というものが、一般に言われているように「神からの直接の言葉」として与えられる場合より、「概念」として与えられる事が多いのだとすると、人為的誤りが混入する可能性はさらに増す。概念が、どのような理論構成と構文と言葉で表現されるか、人間に任せられているのである。



 そういうわけで、現在どのような人物によってどのような預言がされようと、その預言がテープやビデオに残され、正確に記録されて出版されようと、それらが聖書と同じ権威を持つ事はない。それらは霊感されていないからである。くり返すが、聖書が霊感されているというのは、聖書に用いられている表現、言葉の一つ一つに至るまで、神様のお墨付きがあるということ、神様が、その表現で良い、その言葉の選択で良いとおっしゃっていることなのである。したがって、正統的なペンテコステ諸教会が預言などの啓示に与える権威は、改革派諸教会がウエストミンスター信仰告白に与える権威に比べると、非常に限られている。ペンテコステ諸教会は、少なくても、現代の啓示は、聖書によって正否の判断がされるべきであると考えている。一方、ウエストミンスター信仰告白は、しばしば聖書を解釈する基準にさえされているからである。



 B.誤りのない神の言葉 



 聖書が誤りのない神の言葉であるという主張、信仰は、福音派の教会の砦である。では、この「誤りのない」という言葉はどういう意味であろう。福音派の中でも、私たちが所属している「根本主義」と言われる仲間たちは、聖書の一点一画にいたるまで神の霊感を受けているのであるから、間違いの入る余地がないと考えている。私自身もまたそのように信じている。しかしそれは、神様が「よろしい」とおっしゃって、お墨付きをお与えになったという意味で、誤りなく、神の言葉なのであり、現代の自然科学、合理的な考え方から見て、誤りがないというのではない。



 聖書の無誤謬性は近代自然科学の発展とともに、疑いのまな板に載せられ、切り刻まれてきた。それに対し、福音派は真剣に防戦し、根本主義者は自然科学の不完全さを突いて、攻撃する事によって防戦してきた。確かに、自然科学が未発達であったために、聖書の記述が誤っていると断定された場合もあった。私がクリスチャンになりたての頃は、処女降誕が非科学的であると、しばしば論戦を挑まれたものである。今は科学がさらに進歩し、処女降誕などごく当たり前になってしまって、話題にもならない。



 しかし、聖書は自然科学の上からも間違いないと私たちが主張するのは、すでに私たちが戦っている啓蒙主義、合理主義の土俵の上に乗せられている事なのである。神は、聖書を通し、ご自分のみ姿と、贖いのご計画を示し、それに対する人間の応答がどうあるべきかということを、お教えになったのである。自然科学をお教えになろうとしたのでも、自然科学から見て誤りがないように心がけられたのでもない。神の意図、目的はそのようなところにはなかったのである。



 また、聖書が与えられたのは、啓蒙思想に影響を受け、合理主義の考え方を当然とし、自然科学を絶対視している現代人ではなく、あくまでも、そのようなことには無関係に生きていた、1900年から3500年も前の人々であったことを、理解しなければならない。神は、そのような人々に最も理解されやすいように、そのような人々の世界観にそって、救いの啓示をお与えになったのであって、天地創造に、実際どれだけの時間がかかり、どういう手順で創造が行われたのかと事細かに教え、かえって混乱を起こすようなことは、良しとされなかったのである。そのような配慮のもとに与えられた啓示を読んでいるのであるから、現代人は、現代人の感覚を聖書の中に読み込んではならない。啓蒙思想と関係のないところで書かれた書物は、啓蒙思想と関係なく解釈されるべきである。
そういうわけで、創世記第一章の記述が、自然科学の上からも間違いがないと強弁して、一日は一日であると証明しようと躍起になったり、一日は千年でも万年でもあり得ると言い逃れを考案したり、一節と二節との間に大きなギャップがあり、アンモナイトも恐竜もみなその中に入っていると、困難な解釈を試みたりすることが、すでに合理主義の土俵に立っているで、私たちのするべきことではない。神は、人間が、文字通り七日間で天地創造が行われたと信じたとしても、それでかまわないとお考えになったのである。そのようなことは、神の救いのご計画にまったく関係のない事だからである。神は、贖いと救いの神学においてさえ、誤って理解している人間、あるいはまったく理解していない人間をも許し、また赦して、救いに入れてくださるために、キリストの贖いを通しての救いを、賜物として準備してくださったのであるから、創造が七日間で行われたと信じていようが、人類の歴史は6千年ほどだと信じていようが、間違いなく救ってくださるのである。



 創世記第一章は、神が天地を創造なさった神であることを明確にし、創造された万物は、神によって秩序正しく存在するようになったことを教え、人間が神に似せて造られた事実を、最も端的明快にしかも感動的に語り、人類贖いの歴史の発端を伝えるものである。自然科学の教科書ではない。同様に、マタイの福音書が、歴史としては時間が不正確であるいう論議も、それが、マタイ流の歴史編纂の仕方であって、現代の私たちが馴染んでいる歴史編纂の仕方とは、異なっているだけのことである。

 

 C.聖書の完全性
 


 聖書は完全な書物である。そこに付け加えられたり、取り除かれたりしてはならない。どのように素晴らしい啓示があり、感動的な預言があったとしても、聖書に加えてはならない。また、聖書と同じ重要性を与えてはならない。これは、現代の預言運動の指導者たちも、異口同音に言う事である。とはいえ、個々の人間が継続的にあるいは頻繁に、預言などによって導きが与えられ、指示が与えられると、聖書よりも、そのような導きや指示に心を奪われ、それらに従って行く事のほうが多くなる。そうすると、実際上、それらが聖書と同等に取り扱われ、また、聖書より重要視されて行ってしまうのである。



 聖書は信仰の知識と行動に充分な書物であり、人間が信仰生活をして行く上で、これ以上の知識と行動の導きを必要としないものである。とはいえ、人類一般の贖いの歴史に関わらない、個々人の生活上の選択や決定においては、「神の具体的な指示や導きがあればよいのに」と思うことが数多くある。私たちの中に、「神様、お導きください」と祈った事がないものがいるだろうか。伝道者となるために、「個人的召し」なるものを求めた事がある人も、大勢いるに違いない。もし、私たちが充分な聖書の知識を持ち、充分な信仰を持っているなら、ほとんどの場合、そのような祈りは不要であるが、現実には、僅かな聖書知識と小さな信仰によって生きているために、そのような祈りが切実に必要なのである。また、そうするとき、私たちは理神論者がするように気休めで祈っているのではなく、実際に導きと召しの確証を求めて、つまり、何らかの啓示を求めて祈っているのである。そして、しばしば、神はそのような人間の不完全さを考慮してくださり、聖書をしっかりと理解し、信仰を持っていれば必要のないような啓示を、改めて、与えてくださるのである。現代も、あたかもギデオンが羊の毛皮を持って求めたように、信仰の強さのゆえにではなく、信仰の弱さのゆえに啓示を求めるものがたくさんいる。そして、神は憐れみによって、その求めに応じてくださる事もあるのである。



 また、聖書が完全な書物であるというとき、それは、私たちがこれで充分と感じるという意味ではなく、神がこれで充分とお考えになるという意味である。私たち人間の側からすると、聖書は必ずしも充分な書物ではない。とくに、ギリシャ的思考で、興味本位に、つまり、自分が知りたい事を知ろうとして、聖書を読む傾向にある哲学者や組織神学者、あるいは現代人一般には不充分である。また、自分で考えたくない人間、自分の信仰で行動をしたくない人間、すべてのことにいちいち指示と導きを求めたい人間にも、聖書は不充分である。しかし、神は私たちに思考力を与え、決断力を与え、それらを正しく用いる事を望んでおられる。神は人間にお与えになった能力に応じて、責任を求めておられるのである。そういう前提で、聖書は完全で充分な書物なのである。

                                     つづく












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2010年10月30日

預言運動の問題を論じる (8)



VII.具体的対応



 では、自分たちの群れの中に、あるいは周囲に、いわゆる預言者が現れ、預言が行われたとき、私たちはいかに対応すべきであろう。思いつく示唆を列挙してみょう。



 A.おおらかに対応する
 


 私たちA/Gを始めとし、伝統的ペンテコステ教会の歴史の中にも、たくさんの誤りと間違いがあった。他の教会の兄弟姉妹にそれらを指摘されても、なかなか直すことができなかった。それを神は寛容をもって許し、わたしたちが少しずつ理解し、矯正していくのを忍耐深く待ってくださった。今もそうしてくださっている。今私たちがあるのは、ただ恵によるのである。また、私たちの欠点や欠陥を見て、ただちにきびすを返すような事をせず、他の兄弟姉妹たちからの勧告にもめげず、私たちとの交わりを持ち続けてくださった、兄弟姉妹がいたと言う事実も忘れてはならない。したがって、私たちも、他の団体やグループに属する兄弟姉妹に対して、その欠陥と誤りにも拘わらず、寛容と忍耐をもって、おおらかに交わりの手を差し伸べるべきである。事実、この預言に関わる問題を始め、現代聖霊派諸教会に見られる誤りと混乱の多くは、私たちの教会の歴史の中でも、しばしばくり返されてきたもので、いわば、体験済みである。



 私たちは他の福音派諸教会、あるいは社会派と呼ばれる教会に対し、聖霊派諸教会の急激な成長を取り上げて、神がこの時代、聖霊派の教会を用いてくださっていることを証明しようとする。しかしこの聖霊派なるものは、先にも触れたように非常に多様で、神学的にも、混沌というのがふさわしいと言えるほどである。それでも聖霊派の成長をあげつらうのなら、その混沌も、ある程度認容しなければならない。現代の預言運動は、たしかに非常に深刻な問題も秘めている。とはいえ、完結した聖書、霊感によって権威ある神の言葉とされた聖書があるいま、その混乱のひどさ、問題の深刻さは、聖書が完結していなかった使徒の時代、さらに、聖書が一般に行き渡っていなかった長い長い時代にくらべると、格段に小さい。今は聖書によって判断する事ができるからである。 



 プロテスタントキリスト教は、「兄弟姉妹たちがひとつであるように」というキリストの祈りよりも、「鶏口となるも牛後となるなかれ」という諺の教えの方を大切にして、分裂に分裂をくり返している。しかしそれにも増して、聖霊派といわれる兄弟姉妹たちは、「キリストには従うが、キリストのみ体である兄弟姉妹には従えない」ことを、顕著な特徴としているようである。「聖霊の導き」という主観に従う「敬虔と謙遜の仮面」をかぶっていながら、兄弟姉妹とひとつになって秩序を保つという、客観的にも明らかな信仰の道には従えないのである。いつも幻を見、預言をし、「み心み心」と言うのを口癖にしているふたりの宣教師が、折り合いが悪く喧嘩ばかりしていのを、私はこの目で見て来た。聖霊の働きがもっとも顕著であるといわれるお隣の国では、聖霊派の教会を筆頭に、分裂騒ぎが絶えないのも、摩訶不思議な現象である。しかし私たちは、神のみ前に本当の意味で謙虚にならねばならない。それは、他の兄弟姉妹を受け入れることである。
 


 とはいえ、預言をしている者を、どう考えてもクリスチャンと認めることができない場合、シンクレテイズムの擬似ペンテコステ体験を、もてあそんでいるだけと考えられる場合、私たちは断固として異教徒と見做し、異教徒として対応しなければならない。この場合、原則は明快であるが適用は難しい。この点は次項で取り扱う。



 B.厳しい目を持つ 



 おおらかに対応するということは、誤りと妥協せよと言うことではない。聖書の教える真理に対し、私たちは常に真摯でなければならない。だから、私たちは自分自身に対しても、兄弟姉妹に対しても、厳しく見る目を持たなければならない。誤りは誤りとして指摘しなければならない。しかし、その指摘が交わりを破壊するような指摘であってはならない。兄弟愛と注意深さが肝要である。
 


 私たち日本人は、誤りを指摘して互いに気まずい思いをするよりは、静かに去ることを選ぶ。付き合いをしなくなる。日本人の教会も、つい、そのような日本人的解決方法を取る。しかし、教会はそのようなものではない。もっと互いに干渉し合う、運命共同体である。強い交わりの絆を保ちながら、厳しく干渉するものである。個人主義の背景とポストモダンの傾向をもち、主観的体験を重んじ、独り悦に入ることが好きな聖霊派の兄弟姉妹に、真摯な態度で聖書を説き、誤りを指摘するのは至難の業であるが、彼らが兄弟姉妹である限り、私たちは努力をしなければならない。本当の聖霊運動は分裂の運動でも、互いに無関心を装う運動でもなく、一致と協力の運動である。
 


 そこで私たちは、主にあってひとつのみ体に属する者であることを先ず強調し、私たちの伝統的ペンテコステ諸教団も、歴史の中で同じ誤りを犯してきた事実を認め、ただ恵みによって、その誤りに完全に陥ることがないように、助けられてきたことを語ることができる。そのようにして私たちも、自分たちの過去の過ちを良い方に生かす事ができるのである。 
 


 私たちは、また、シンクレテイズムによる擬似ペンテコステ体験に対して、鋭い霊的嗅覚を持つ必要がある。例えば、私たちにとって大切な「異言」も、現在、世界中の様々な宗教が、自分たちの宗教体験として類似の体験を認めている。使徒の時代とは異なって、今や、自分たちと同じように異言を語っている人がいるからといって、それだけで、自分たちの仲間と認めることはできないのである。異言は、「しるし」とはなり得なくなっている。「マリヤ様」を礼拝し、キリストの像に頭を下げながら、異言を語る人たちもたくさんいる。キリストの名を語りながら、様々な不思議と癒しを行い、預言をし、啓示を語る一方、異教の神を祭り、犠牲を捧げる者も少なくない。このような現象的シンクレテイズム、擬似ペンテコステは、神学的にも実際的にも識別困難で解決しにくい問題として、私たちに立ち向かうことになるだろう。本当のところ、このシンクレテイズムの擬似体験は、モーセの時代から、本物の神体験への挑戦であった。それは現代の第三諸国においてだけではなく、アメリカにおいても日本においても、同じように挑戦となっている。



 そこで問題は、何をもってクリスチャンと認め、何をもって異教徒と判断するかである。クリスチャンの間には、異教徒的感覚、理解、生活を持ち続けている者がたくさんいる。むしろ、私たちを含め、ほとんどすべてのクリスチャンがそうである。特に、異教文化からクリスチャンになった者にはその傾向が強い。どこまでが異教徒的なものを引きずっているクリスチャンで、どこまでがクリスチャン的なものを取り入れた異教徒か。注意深い観察と分析と判断、「厳しい目を持つ」ことが必要である。そのために、福音主義の神学の基本をしっかりと学びなおし、その基本をゆるがせにしない事と、基本に関わらない事については、できるだけの柔軟性と許容性を持つことが大切である。



 C.信徒を預言運動の関係者から遠ざける
 


 真実の兄弟姉妹たちとは、キリストのみ体としての交わりを保つことが、非常に大切である。しかし、それによって信徒たちを誤った教えと実践に巻き込む事は愚かである。聖書知識をしっかりと持ち、預言運動の誤りを心得ている者は、機会があれば、預言運動の関係者と付き合い、断られない限り彼らの集会にも出席すべきである。そして、愛の交わりを確立した上で、彼らの誤りを指摘すべきである。しかし、聖書の知識が不充分な者や、主観的体験を熱望している者、あるいは一般信徒たちを彼らに近づけるべきではない。また、彼らを自分たちの教会や集会に招くべきではない。講師として招くなどは論外である。また、彼らの著書も遠ざけておくべきである。預言運動をしているものが近隣にいる場合、また、何らかの形で彼らの影響を受けそうな者がいる場合は、その間違いと危険性について学ぶ機会を持ち、信徒を保護することも必要であろう。誤って彼らが自分たちの教会に紛れこみ、勝手に預言を始めるようなことが起こった場合、直ちに、牧師の権威をもってとどめなければならない。



 D.正しい預言を教え、預言する事を励ます 
 


 パウロが預言の賜物として強調し、ルカが歴史の形で残した彼の神学で、終わりのしるしとして記録したヨエルの預言の成就は、まず、聖霊の感動を感じ、会衆の状態に応じて臨機応変に福音を説く、即興の説教としての預言のことであった。このような預言は、教会の中で、勧めの言葉、励ましの言葉、慰めの言葉として理解され、受け入れられるであろう。それは、場合によっては、良く準備された牧師の説教という預言よりも、さらに効果的に用いられるに違いない。それが秩序正しく、一度にせいぜい2、3人の者によって行われるのならば、大いに推奨されるべきものである。また、そのような預言のためならば、訓練も練習もとても意義のあることであり、預言者の学校も価値を持つ。



 とはいえ、これは聖霊の直接的介入による預言、すなわち夢や、幻、さらには聞えてくる言葉による預言を排除するものではない。しかし、先に述べたように、そのような預言は、聖書が完結し、印刷技術が発達し、誰もが聖書を読むことができるようになった現在の私たちの状況においては、あまり必要とされていないことも理解すべきである。



 福音の宣教としての預言は、福音の本質を知り信仰に生きる成長したクリスチャンの賜物である。神の直接介入の預言は、聖書を知らず信仰の弱いものに対する、神の憐れみである。必要性のあるとき、神の直接介入の預言を求める事に異議も異存もない。しかし、そのような預言を求める必要が起こってこないように、常に聖書を学び、信仰の訓練を続けて行くべきである。




E.すべての預言を吟味する



 「吟味」に関する問題は前述した。預言というものを神からの直接啓示と考えていながら、なおかつ、預言するものが、これは吟味されるべきだと思うような預言は、口に出すべきではない。しかし、現実には現在の預言運動で預言をしている者の多くは、そのような曖昧な預言をしている。彼らの影響を受けた者が、私たちの教会で預言をしないとも限らない。それならば、吟味しなければならない。



 しばらく前に、ミャンマーのA/Gでシンクレテイズムによる預言の問題が起こったとき、指導者たちは四つの吟味方法を教えて混乱を押さえ込んだ。その四つの吟味方法とは、@その預言が聖書の教えに調和しているか、A信徒たちの徳を高めるものか、B成就しているか、Cキリストのみ名に栄光を帰しているか、ということである。  私はそれらにもう一つ、客観性を加えたい。ミャンマーA/Gの吟味方法でも客観性が焦点とはなっているが、別の項として加えたい。使徒の働きの記述を見ると、面白いことに、預言者たちは一人で行動をしないで、何人かの預言者たちが一緒になって行動しているのに気付く。これは、一人が預言をすると他の預言者たちがそれを確認するというような、より客観性のある預言が求められていたからではないだろうか。




 F.個人預言、指示預言、未来預言などを重視しない 



 私たちは、個人預言あるいは指示預言、さらに具体的な導きなどが、現在もあり得ると信じている。そればかりではなく、すでに述べたように、いわゆる福音宣教に関わる即興の説教としての預言ではない、直接的な神からの語りかけを取り継ぐ預言は、そのほとんどが個人預言あるいは指示預言であるはずだと理解している。では、私たちはこのような個人預言、指示預言をするように、あるいは受けるように励ますべきであろうか。



1.預言や指示預言をする者に対し、いちがいにやってはいけないと言うことはできない。また、やりなさいと言う事もできない。本当の意味で霊性が整えられた者は、そのような方面でも神に用いられることもあり得る。霊性が整えられる事は大いに結構であるから、それは勧めることができる。ただ、個人預言や指示預言、あるいは未来の予告などの預言を、「売り物」のようにして活動している人物に対しては、かなり、大いに、相当、疑ってかかるのが良いであろう。本来、あまり必要とされていないその種の預言を頻繁に行い、それをセールスポイントにしているのが怪しいのである。その人物は、神の霊によってではなく、何か他の能力や力によって預言している可能性が、非常に高いと言わねばならない。



2.さらに、そのような預言をする事が「賜物」であると考えて、これを求めるものが周囲に現れたならば、パウロが賜物として語っている預言はそのような預言ではなく、宣教に関わる即興の説教であり、教会全体の益となるものである事を教え、まず、その賜物を熱心に求める事を勧めるべきである。そして、その預言の賜物を忠実に行使して行く中で、個人預言などの能力もまた、与えられることを期待するように諭すべきである。



3.個人預言や指示預言を「されてしまった」者に対しては、どのように取りあつかうべきであろう。私自身にも、「あなたはあの女性と結婚すべきです」と預言された、華やいだ時期があった。その指示に従わなかったのが、私の・・・・・であった。「あなたは音楽をもって主に仕えるようになります」と預言されて、その気になってアメリカに留学してしまった女の子も、隣の教会にいた。ただし、彼女は音楽のセンスを持ち合わせないまま、3年が過ぎた。神は、賜物を与えずに奉仕をしろとおっしゃるだろうか。ない袖は振れぬはずである。奉仕を与える場合には賜物も与える。これが神の原則である。用いられた神の人は、みな、「何の取り得もない私が」と、あたかも賜物が無かったような証をする。それは謙遜の言葉であり、賜物は文字通り「賜わった物」で、自分の物ではないからそれで良い。しかしそれは、賜物がないまま働かされるのとは違うのである。
そういうわけで、個人預言や指示預言のほとんどは、無視して良いものである。聖書をしっかりと読み、信仰を堅く持っていると、不要な預言である。いらぬお節介である。しかし、そんな指導をしてしまってはみもふたもない。躓かせるのが落ちである。ここでも、おおらかに対応するのが肝要である。したがって、その預言が客観性のあるものになるように、しばらく時を置いて待つ事を教え、その間に、聖書の教えに馴染ませ、本人が聖書の教えを基盤とした、責任ある自己選択ができるように整え、自らの意思をもって決定するように勧めるべきである。



 もしその預言が、本当に神からのものであるなら、聖書の教えに照らしても妥当であり、客観性も与えられるはずである。誰かによって預言されるだけではなく、自分にも確信が与えられるべきである。パウロはアガポの預言を聞こうが聞くまいが、自らに何が起こるか、御霊によって知っていた。しかも彼は、自分の行動を自分の責任で決定している。個人預言や指示預言が与えられようが与えられまいが、私たちは聖書知識と信仰に立って、自らの責任によって正しいと思う選択と決断をすべきである。



4.ときおり耳にする、未来のできごとについての、一般的な預言についてはどう考え、また対処すべきであろう。結構有名な伝道者たちが、幻を見たなどと言って、たとえば、将来の世界について預言をしている。



 すでに述べた事ではあるが、私たちには聖書という充分な神の言葉が与えられている。未来の出来事についても、神がこれだけ知らせておけば良いとお考えになっただけの、預言と知識はすでに与えられているのである。それ以上のものは、基本的に不要なのである。さらに、私たちが、聖書以外の啓示や預言に服従しなければならないという教えは、聖書のどこにもない。したがって私たちは、一般的な未来預言を完全に否定する必要はないが、あまり重大に考える必要もない。端的に言って、無視しても良いものである。今後わたしたちがどのような事に遭遇しようが、聖書に与えられている預言と知識に立って、信仰を持って進んで行けば、それでこと足りるからである。 



 とはいえ、一般的に将来の出来事が示された後に、個人預言や指示預言に近い、警告や導きが加えられる事がある。そのようなとき、どうすればよいのであろう。ここでも、私たちに求められていることは、聖書の教えに従う事であり、聖書以外の啓示や預言の言葉に従う事ではないことを、思い起こすべきである。そのような警告や導きを、聖書によって「吟味」し、聖書の教えに反していなければ、心に留めて置くのが良いだろう。たとえ、預言や警告のとおりにことが運んでも、あるいは運ばなくても、聖書に立って、信仰によって歩めばそれで良い。



 神が警告しようと思えばそうなさり、導こうと判断すればそうなさるだけの事である。神には、私たちの小さな信仰あわれみ、励ますために、今、私たちの日常に直接介入する力と権威があり、介入しない自由と権利もあるからである。しかし、くり返すが、基本的に、私たちに必要な預言と知識は、すでに、すべて与えられているのである。



終わりに



  私が体験した面白い出来事を紹介して、しめくくりとしたい。
  
  もう30年ほども前になるが、私はフイリピンの神学校で、レポートを一つまとめようとしていた。それは「宣教師の召しの心理」という題で、年齢も、国籍も、団体も、働きの種類も異なる50人の宣教師たちに、個別に長いインタビューをして、いわゆる宣教師になるための特別な「召し」の概念について、調査しようと試みたものである。50人の内の2人は「宣教師になるための特別な召しは不要である。自分は召しを受けたから宣教師になったのではなく、献身の選択として宣教師になったのである」と答えて、自分たちの考えをきちっと聖書から説明した。他の3人は幻を見たために宣教師になり、内1人は同時にはっきりとみ声を聞いていた。そうでなければ、宣教師にはならなかったとのことである。残りの45人は、「聖霊の内なる証」に押し出されて宣教師になっていた。その、「聖霊の内なる証」という霊的な言葉を、日常の言葉で具体的に言いなおすと、感動的な宣教師の伝記を読んだとか、自分たちの家に宣教師が泊まり、いろいろ話しを聞かせてくれたとか、教会の宣教大会で励まされ、決心したなどということで、すべて、ごく自然の心の動きに過ぎなかった。


 宣教師になるための召しは不要であると答えた2人は、共にA/Gの男性であり、そのうち1人は、当時聖書学校の校長をしていた。一方、幻を見、み声を聞いたから宣教師になったと答えたのもA/Gの宣教師で、あの聖書学校の校長の奥さんであった。さらに彼女は、「もしあなたが、宣教師になるようにという特別な召しを受けないまま、宣教師になった人に出会ったら、どのようにサジェッションしますか」という問いに、「その人は神のみ心に反した、誤った道を歩んでいるのだから、ただちに帰国するように忠告します」と答えていた。



 その頃わたしは、もう一つの神学校でも科目を取っていて、この校長夫婦もまた、同じ神学校で学んでいたため、いつも彼らの車に便乗して通学していた。ある日、車の中で話しが弾み、話題が私のレポートのことに及んだ。そうこうしているうちに、校長の奥さんは、こともあろうに、自分の夫が宣教師の召しを受けていないと答えた2人の内の1人である事を知り、悲鳴に近い声をあげた。「まあ! あなた。30年以上も私をだまし続けてきたのね!」



 それから、熱帯マニラのひどい渋滞の中、エアコンも利かない車の中で、およそ30分間、激しく熱い言い争いが続いた。奥さんの剣幕ははなはだしく、どう見ても声の上では御主人の負けであったが、やがて、御主人が静かに言った。



 「ハニー。僕は、きみが神様から特別な召しをいただいた事を、心から喜んでいるよ。だって、きみは、聖書学校の中で一番美しく(主観だと思う)、一番頭も良く(これも怪しい)、何でもできて、素晴らしい女性だった(確かに何でもできてでしゃばり気味)。僕はきみが好きで憧れていたけれど、とてもそれを言い出す事はできなかった。だって、きみは、宣教師になるために必要な、あらゆる資質と能力をいただいていたのに、そんな事にはまったく無頓着で、いつも、派手なドレスを着て、きらきら光るネックレスにブレスレット、指輪にベルト、イヤリングにマニキュアと、自分をもっと美しくすることに夢中になっていた(30年以上経ってもそうだった)。僕は、あまり能力もなく見栄えもしない普通の学生だったけれど、神様の栄光のため最善に用いていただきたいと願って、宣教師になる事を決心していた。きみが宣教師になるために必要だったのは、自分の賜物を認めて宣教師として献身する事だったけれど、きみには、その献身ができなかった。だから、神様は、きみの献身を促すために、幻を見せ、み声を聞かせてくださったわけだ。すでに宣教師になろうと献身していた僕には、神様は、幻を見せる必要もみ声を聞かせる必要もなかった。だから、僕は、特別な召しはいただかなかったのだと思う。そういうわけで、僕は、きみが特別な召しを受けた事を、とても感謝しているよ。だって僕は、自分には能力はないから、僕より能力のある妻を与えてくださいと、そっと祈っていたんだからね。神様は、僕の祈りに答えて、きみに幻を見せ、み声をかけてくださったわけさ。きみが、宣教師になる召しを受けたと証したとき、僕は、天にも上る思いで、きみに結婚を申し込んだんだよ」。



 話しを聞いていて、私は、アメリカ人の男性の口のうまさに舌をまいた。女性を誉めちぎって、ちゃんとあやつっている。また、そこまでしなくてはならないアメリカの男性に、心から同情した。しかし、それよりも、彼が言ったことは、非常に深い洞察だと感心した。



 現代の特別な導き、幻、み声、預言は、強いクリスチャンに対するものではなく、弱いクリスチャンに対するものである。私たちは、今も生きておられる神を信じ、その神に祈る。答えを期待し、介入を期待して祈る。そして、たとえ神の応答が目に見える形では現れなくても、見ないで信じる信仰を持って歩む。きちっと聖書を学び、しっかりと信仰を持つならば、日常、あまり特別な啓示を必要としなくなるのである。大切なのは、聖書に立つ信仰である。
    
                                     おわり











posted by ms at 00:00| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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