2010年11月01日

小論・個人預言について


個人預言について
                                                                

T. 現存する預言
 


 ペンテコステの日にペテロが預言の成就として引用し、ルカがそれを自分の神学としてその歴史文書の中に取り入れたヨエルの預言は、現在の私たちの時代にもまったく有効です。すべての者に聖霊が注がれ、聖霊を注がれたすべての者は預言者となり得るのです。それが新約の神の民なのです。この預言の成就が今や効力を失ったと言う聖書的根拠はありません。しかし一方では、聖書正典が成立していると言う事実が、現在の預言の必要性と必然性に大きく関わっています。  



 アッセンブリーズ・オブ・ゴッドの歴史を見ると、現在における預言の存在は常に信じられてきたが、その性質と内容において、あるいは実践においてはずいぶん異なった見解がありました。ただ、預言の権威を聖書の権威と同等のものとしないという共通理解があったことが、様々な混乱の中でも福音的立場を堅持できた一つの大きな理由であったと言えます。ただ、預言が聖書と同等の権威とされないために、あえて、預言が書き留められることがないようにされて来たなどの努力はありましたが、神学的な努力はあまりされた形跡がありません。



U. 預言の定義



 ふつう預言と言われているものには異なった性質のものが含まれます。
 1. 神の啓示(聖霊による)を直接受けて語る言葉。
 2. 神の言葉を託された者として、聖書知識、信仰経験と人生経験による知識、さらにまた、直接の啓示による知識などを、聖霊の励ましと感動を受けて、実情や必要に応じて語る言葉。聖霊の感動を受けた説教、あるいは臨機応変でアドリブ的な勧め、励まし、警告。
 3. 異言の解き明かし。(アッセンブリーズ・オブ・ゴッドの一般的な教えの一つではありますが、正式な教理として取り入れられたことはありません。かなり初期の頃から、この問題には異論も多く、著名な人々が聖書的に疑問な行為として、注意を促しています。私たちが良く知っているドナルド・ジーもその一人ですが、現在はより多くの神学者がそのような見解をとっているように思われます。ICIの大学レベルの教えもそう言う立場ですが、ベレアは伝統的見解をとっています。)



V. 個人預言



 霊感を受けて書かれた聖書は、私たちの信仰と行いのために、神が充分と判断された啓示です。したがって、私たちは聖書に加えるべき性質の預言の存在を信じません。また、聖書の教えに矛盾する預言も受け入れません。そこで、私たちの信じる現在の直接啓示としての預言の多くは、神が特定の個人あるいは特定の人々の、特殊な事情に対して必要であると判断された、極めて限定された預言であると言えます。そしてその中に個人預言も含まれるものです。




W. 個人預言の問題点



 現代において考えられる直接啓示の預言として、最も可能性の高いものは、理論的な結論として個人預言であると言えるでしょう。しかし、そこには様々な問題が考えられます。
 1. 問題の少ない個人預言    たとえ個人預言であっても、その預言の内容が聖書の啓示の範囲内でそれに矛盾しない、しかも一般的な励まし、勇気付け、警告、注意などの場合は、あまり問題にはなりません。たとえそれが直接啓示ではなく、また、聖霊の励ましによるのでもなく、たんに預言する者の感情の高まりのなせる業であっても・・・・。
 2. 判別の困難な個人預言の源    語られた個人預言が、本当に神からの直接啓示であるかどうか、どのように判断するのかが問題です。旧約時代の預言にも同じ困難がありました。偽預言者、あるいは神がお送りになった偽りの預言者さえあったのです。予言が当たらないと言うのも一つの基準でしたが、絶対のものではありませんでした。エレミヤの予言は当たりませんでしたし、新約においても、パウロが自分の未来についての確信を語った・・・・・ある意味での予言、エペソには再び戻ることがないであろうと言う予測も外れています。
 3. 独善的権威主義に陥る預言者    自分が神の直接啓示を語っていると思い込んでいる人々の中には、次第に独善的になり、権威主義になる傾向があります。聖書の教えを無視し、教会の教え、兄弟姉妹の教えを無視することが多いのです。すなわち、もう一つの種類の預言を無視する傾向が強いわけです。
 4. 牧会配慮との軋轢    牧師は聖書の教えを出来るだけ正確に理解し、それを現在の私たちの生活に、あるいは個々の信徒の特殊な状況に、祈りと経験と常識を持って最善と思われる適応を選択します。しかし個人預言は、しばしばそのような牧会配慮と相反するものとなるのです。
 5. 個人預言に関する教えと例の不在。   新約聖書には個人預言に従えという教えはありません。また、個人預言を与えられた本人に対する神の直接の働きかけがないまま、第三者によって個人預言が語られたと言う例は、アナニアとサッピラ、バルイエスなどの裁きの例以外にはありません。




V. 個人預言に対する私たちの態度



 私たちは、正真正銘の個人預言が、現在でもあり得ることを、真摯な態度で認め、それ
に対して準備をしていなければなりません。
 1. 聖書知識を身につける。   聖書は、霊感を受けた神のみ言葉の権威を教え、これに従うことを命じているが、啓示としての預言については同じ命令が与えられていません。すなわち、権威を認めていないのです。 
 2. 聖霊と親しみ、霊を見分ける能力を与えてもらい、それを育てる。   羊は羊飼いの声を聞き分けます。
 3. キリストのみ体に聞く。   独善的にならず、聖書を読み、健全な著書を読み、多くの兄弟姉妹の意見を聞き、客観的判断が出来るようにすることです。
 4. その個人預言が正真正銘、神を源とするものであるという確信が得られなければ、牧会者としての自分の判断に従うことです。












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2010年11月02日

個人預言をどう取り扱うか (1)



個人預言をどう取り扱うか
         


 このところしばらく、「個人預言」が再び少々胡散臭い問題として、話題に上るようになっています。胡散臭いというのは、私たちがペンテコステの交わりに所属して、基本的には現代の預言の可能性を認めていながら、個人預言に関しては、なんとなく納得できないでいるというか、疑いの目を向けざるを得ないところがあるからです。そしてそれを上手に説明できないために、自分たちの中でも、牧会の働きの中でも、中途半端な取り扱いしか出来ないでいることが多いからです。そういうわけで、今年の教区教職修養会ではこのことを取り上げて学ぶことになったものと心得ます。



 個人預言と言うのは、神が特定の個人に関わる事柄に対して、他の人間の口を用いて、言葉でもって介入して来られることです。私が知っている幾つかの具体例を挙げてみましょう。



@ 日本人。29歳。女性。自分の教会に訪問して来た、預言の働きをすると自称する伝道者に、「あなたは音楽を通して神様にお仕えするようになります」と預言され、その気になって、音楽を学ぶために仕事をやめ、アメリカのクリスチャンの学校に入って音楽を学び、卒業もしましたが、もともと音楽の素質はあまりなかったために、音楽で神様に仕えることは最低限しかできず、良い職場も失って苦労しています。預言を受けたとき、彼女はたまたまその教会のグループの中で歌っていました。ちょっと目立つ娘だったので、「預言者」の目に触れたのでしょう。



A フイリピン人。50歳。 男性。伝道者。訪問して来たオーストラリア人伝道者に、「音楽伝道者になります」と預言されましたが、「私がトランペットを吹いているからといって、音楽伝道者になれる素質があるわけないでしょう」と相手にせず、まじめに、普通の伝道者をやっています。このオーストラリア人は、自分が預言を賜物として働き、多くの人々の心の中まで見抜いて言い当てるために、皆からとても恐れられていると、自慢げに話していました。



B  アメリカ人。50歳。女性。伝道者の秘書。結婚していましたが、訪問してきた預言者に、「あなたは家庭を捨てて献身し、私と結婚して秘書として働きなさい。貴女の救われていない家族は、貴女が預言に従うならば救われます」と告げられ、その伝道者と結婚しました。


 
 このような例は、他にも沢山あることでしょう。すべてが悪い結果をもたらしたとは限りません。たとえば、私が個人的にお付き合いを持っていた伝道者は、癒しの器としても用いられていましたが、集会で、「そこにおられるあなた、神様はあなたのリュウマチを、今晩癒すとおっしゃっています。」と言うような言い方で、初めて見る人々の病気を的確に語り、癒しの働きをしていました。これもある種の個人預言であり、癒しの働きとあいまって、伝道の力となっていたように思います。しかしなにぶん個人預言と言うものは、祈りと牧会配慮をもって取り扱ってきた個人の問題に、突然、神の名をもって介入して来るもので、牧師の立場からすると、取り扱いに苦慮するものです。個人預言を受けた者が、その預言に疑いを持った場合にはあまり問題になりませんが、問題なのは、その預言を信じ、神からの絶対の導き、あるいは命令と受け取ってしまった場合であり、特にそれが聖書の教えと相反する場合、あるいはどのように考えても、賢い選択と思えないような場合です。



T. 個人預言の歴史的背景



 ペンテコステ運動は、反啓蒙運動、反合理主義運動、あるいは反理神論運動として起こったという、大きな一面を持っています。人間の合理主義的考え方が行き過ぎ、聖書の奇跡を信じられなくなったり、聖書の記述自体は事実として信じるとしても、現在における神様の直接介入を信じることが出来なくなってしまったりした、18世紀、19世紀の大多数のクリスチャン信仰に対する、猛烈な反発運動でもあったのです。ペンテコステの信仰者は、神が不変であることを主張し、「キリストは昨日も今日もとこしえまでも変わることがない」というみ言葉を旗印にし、今日における神様の奇跡的介入を期待したのです。



 そのような中で、正しいかどうかは別として、時代真理的な「後の雨」という考え方も取り入れられて、今こそ回復の時であるという主張が生まれ、あらゆる賜物が回復されるという信仰と、初代教会に帰らなければならない、初代教会の形態を取り戻さなければならないという主張も現れて来ました。そういう状況にあって、預言の回復もまた当然のこととして受け入れられ、「預言者」や「預言者職」の回復さえも主張する、レストレーション運動が繰り返して起こって来ました。預言が受け入れられ、預言者が受け入れられ、預言者職さえ回復されたと主張し、それを実行する人々が出現する混沌の中で、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド  は、公式には、あまり強固な神学的立場を明確にせず、様々な意見や立場の者を受け入れ、福音主義的な聖書観を強調しながら自由に論争させて、自然の淘汰に任せる方法、あるいは、神様のご配慮にお任せするすると言う方法を取ってきました。



 ですから、アッセンブリーズ・オブ・ゴッドの歴史を見ると、常にかなり極端な主張や活動が現われてきていながら、全体としては、遠心的な分散乖離をもたらす非聖書的主張が中心となることはなく、常に基盤として立つ福音的な聖書の理解に一致して行こうとする、求心的な方向を保ち、組織的には緩やかでありながら、強いまとまりを持った運動として成長して来たと言えるのです。言い方を変えると、アッセンブリーズ・オブ・ゴッドは常に非聖書的見解や極端な主張をする人々を内に持ち、またその教えに晒されながら、大きな捕らえ方では、それらの人々を直ちに排除するのではなく、忍耐と時間をかけて、聖書をもって指導しながら、そのような主張や見解が沈静するのを待つという方向性を保って来たのです。


 大きな目で見ると、個人預言もそのような主張の一つとして、アッセンブリーズ・オブ・ゴッドの中に存在し続けてきたものです。それで、公式の出版物の中には、ときおり、個人預言の誤りを指摘し注意と警告を促すものも含まれなければならなかったのです。そのような努力の甲斐もあってか、現在もアッセンブリーズ・オブ・ゴッドの中にあっては、個人預言は周辺的な誤りの一つに過ぎず、それを実行している人々の多くは、むしろしっかりした指導者や、警鐘を鳴らす人を持たないことが多い、単立系のペンテコステの人々です。私たちもまた、現行の個人預言の問題を、異端狩りのような取り扱いをするのではなく、アッセンブリーズ・オブ・ゴッドの伝統的な寛容性をもって対処したいと思います。



U. 預言とは



 預言者は、旧約時代には先見者とも呼ばれていた通り、予言者としての働きもしていました。従って、預言と先見、すなわち予言には強い関連性がありますが、私たちはいま、予言とは言わずに預言と言い、預言者と言います。預言には、神様のお言葉を預かりそれを語るという、より広い意味があります。神の代弁者です。その語る言葉の中には未来に関わる事柄も、特定の個人に関わる事柄も含まれるのです。また預言は、必ずしも神からの直接の介入、あるいは啓示を受けて語るだけのものでもありません。神からあずかっている言葉、たとえばモーセの律法やその他の聖書の言葉を学び、理解し、それを、聖霊の励ましを受けて、それぞれの時代と状況に適応して語ることも預言でした。実際のところ、旧約時代の預言者たちも、神からの直接啓示、直接介入を受けて語ることより、聖書を学び、また、自分の信仰体験の中で経験的に学び取った神のみ心を、神の霊に感じて的確に語った場合の方が多かったと考えられます。



 しかし、たんに神の言葉を学び、それを適切に適応することを厳格に学ぶだけでは、学者になってしまい、それを語ったとしても預言者ではなく、教師になってしまいます。預言者として絶対に必要なのは、神様との密接な交わり、霊的な生活であり、語るときにも、直接、聖霊の励ましを感じて語るということです。そこにあるのは、学者としての権威ではなく、聖霊の励ましを感じて語る権威です。そのような意味で、新約と旧約の中間時代には、わずかな例外を除いては預言者が出現しなかったと言われるのでしょう。



V. 終末の預言の回復



 旧約時代には、神様の直接介入の預言を含め、預言の賜物はごく一部の人々に限られていました。しかし、ペンテコステの日を始まりとして、新約時代には、ヨエルによって預言され、ペテロによって解釈され、さらにルカによって自分の神学として打ち出されたように、  神の霊は文字通りすべての人に注がれ、すべての人が預言をする者となるようにされたのです。新約時代には、基本的に、すべてのクリスチャンは預言をする者とされているのです。ただし、すべてのクリスチャンが、常に神様の直接介入の預言をするようにされたという意味に、理解する必要はありません。旧約時代の大預言者でさえそうではなかったはずなのです。しかし、すべてのクリスチャンは、旧約時代のイスラエルの民とは異なって、キリストの贖いのみ業を通して清められ、復活を通して義とされ、神の姿を放棄された人としての神ではなく、もともとの神のみ姿を保ったままの神であられる、聖霊と交わることが出来る者とされ、甦りのキリストによって義とされ、聖霊を注いでいただいたのです。それによって、クリスチャンは常に、聖霊なる神の励ましを受け、力付けを受け、神から預かっているみ言葉を語ることが出来るのです。それは、単なる学びから得た聖書知識を語ることではなく、聖霊の直接の励ましを受け、聖霊の感動を受けながら語るのです。そして、そのように神の言葉を語ることが預言であり、すべてのクリスチャンの義務なのです。そしてまた、そのような新しい霊的環境の中で、神の直接介入としての預言もまた、神がそれをしようとお思いになるならば、神はいつでもすべてのクリスチャンをお用いになることが出来ると言う意味で、可能なのです。すなわち、すべてのクリスチャンは、いつでも神の直接介入の預言をする事が出来る、潜在的可能性を与えられているのです。



 そういうわけで、パウロがすべてのクリスチャンにそれを求めるように勧めている通りに、すべてのクリスチャンは今、預言の賜物をいただくことが出来るし、またいただくべきなのです。しかし現実には、すべてのクリスチャンがそれを得ているのではありません。すべてのクリスチャンに開かれていながら、一部のクリスチャンしかそれを所有していないというのが、パウロの時代の「あらゆる賜物が豊かに用いられていた」コリントの教会にあってさえも、残念な現実でした。そして現在の私たちの教会にあってはさらに残念な現実なのです。使徒行伝において「預言者」として認められていた人々は、多分、ときおり預言をするという程度ではなく、常日頃から、この賜物を特別に力強く、充分に用いていた人々だったのでしょう。彼らの中には、アガポのように、直接の神の介入としての預言、あるいは予言をする人物もおりました。ペテロやパウロはそのような預言をしました。あるいはパウロと一緒に仕事をしたアンテオケ教会の指導者たちの中にも、預言者と呼ばれるにふさわしい人々がいました。また、エルサレム会議の後に書簡を託されて遣わされた、ユダとシラスも預言者であったと記されています。伝道者ピリポの4人娘たちも預言をする事で知られていましたが、もしかすると、彼女たちはまだ預言者と呼ばれるには少し早すぎたのかも知れません。パウロに洗礼を施したアナニヤもまた、そのような賜物を用いています。



W. 個人預言の必要性と必然性



 私たちの信仰と生活に必要な掲示は、すべて聖書を通して与えられていると言うのが、プロテスタントの福音派の基本的理解です。聖書は完結した書物であるという立場で、これに書き加えたり省いたりしてはならないと信じています。神は霊感をもって聖書を書かせ、さらに特別な聖霊の導きをもって混乱のさなかにあった教会を導き、聖書正典を編纂させてくださったと考えています。カトリックのように、聖書を編纂したのは教会なのだから、教会は聖書と同等の、あるいは実質的にはそれ以上の権威を持つとは考えず、聖霊が教会を用いて聖書を編纂させてくださったと理解し、教会はこの聖書に従うものであると考えます。したがって、聖書は、神が人間に必要とお考えになるすべての啓示を含んでいると理解するのです。神はこれ以上聖書に書き加える必要性を認めておられず、聖書以外の啓示の書物を与える必要も認めておられないと考えるのです。そのような考え方が、様々な異端から教会を守り、正しい道を歩ませることになったのです。



 このようなプロテスタントの基本的な神学は、当然、預言の必要性と重要性の論議に影響を及ぼします。ある人々は、聖書が完結したのだから、新しい啓示は不要であり、預言も不要である。神は不要なものをお与えになることはないのだから、預言はありえないと主張します。これが合理主義の考え方とあいまって、長い間プロテスタント神学の中心的な流れになっていたものです。そして、問題は、彼らはその合理主義的考え方に支配されて、現在働いておいでになる聖霊の存在までも軽視して、聖書を読むときに光を投げかけ、理解を与えてくださる聖霊のお働きまで無視してしまったことにまで継続しています。(ヨハネ15:26) そのような中で、プロテスタント神学は冷たい学問となり果て、教条主義になってしまったのです。



 ペンテコステの神学の基本は、聖霊は今私たちに働きかけ、私たちと共にいて働いてくださっていると考えることです。したがって、ペンテコステの神学は、聖霊との体験を伴う、実存的な神学です。聖書を読むときも、神学を学ぶときも、伝道するときも、その他どのようなときも聖霊が共にいてくださり、守り、導いてくださると信じています。聖書の教えを実際の生活の中で体験すると言うところに、ペンテコステの神学の特徴があり、またそのような経験を一つの要素として、ペンテコステの神学が築かれているのです。私たちはいま、神が必要であると判断された時はいつでも、啓示を与えられ預言も与えられると信じています。



 神が必要であると判断されるのは、私たち人間が必要であると判断するのとは異なっています。神はすでに、ご自分が人類にとって必要と判断された掲示はすべて、聖書の中にお与えになりました。そして人類には、それを理解出来る知的能力を与え、また理解させる働きをなさる聖霊を遣わしてくださいました。ですから、聖書と同等の性質や内容、あるいは価値を持つ啓示は、現在必要ではないのです。しかしながら、個々の人間の置かれた状況や理解の程度によっては、神がその人間あるいは人間たちに対して、聖書と矛盾しない、啓示をお与えになる必要性をお認めになるかも知れません。それは神様の主権に属することであって、私たちの許可を必要としません。



 一方、人間側から考えるならば、たとえ人間に必要な信仰と生活に対する基本的な啓示は、すべて聖書の中に啓示されているとは言っても、私たちのすべてが聖書をことごとく理解しているわけではありませんし、正しく理解しているわけでもありません。またたとえ基本的な事柄においてはまったく正し理解していたとしても、その適応の選択肢において迷うことはいくらでもあります。そのような時、私たちは導きと助けを願い求めて祈ります。この場合、私たちのペンテコステ信仰では、気休めで祈るのではなく、具体的な、神様の何らかの介入を期待してお願いするのです。ペンテコステ信仰では、今も聖霊の具体的な導きと助けを期待するのです。こちらの男性が良いか、あちらの男性が良いか、若い女性は迷います。そして神様の導きを求めて祈ります。聖書が教える信仰のあり方、結婚のあり方すべてを良く学び、能力の限りを尽くして考えた上でもまだ祈ります。日本の神学校に入るべきか、海外の神学校へ行くべきか迷い、祈ることもあります。私たちは、神様が正しい判断を与えてくださるように祈るだけではなく、神様の、何らかの直接介入の余地も残し、またそれを期待して祈るのです。



 このように考えてみると、私たち人間が今必要としているのは、むしろ個人預言や指示預言が多いということがわかります。将来に関する予言もまた、人間側からは必要と感じることがあるでしょう。この人間側の必要を、神が妥当と判断なさるか、あるいは聖書の基本的教えを、人間が、聖霊の助けと自分に与えられている能力によって理解し、自らの責任で選択決定をするようにと、判断なさるかの問題です。神が啓示をもって、しかも預言と言う手段をもって、人間生活に介入されるのは神の主権に属し、可能なことですが、それをすべき神の側の必要性、つまり必然性があるかどうかなのです。神には出来ると言うことと、神がなさると言うこととは別だからです。新約聖書の中にも、具体的な行動を示したり、特定の状況の中にいる者たちを励ましたり、警告を与えたりするための、啓示があり、また預言もありました。



 しかし、その頃は聖書が完結しておらず、啓示が終了していなかった、すなわち、人々は神の直接の啓示、導き、あるいは預言に頼らざるを得なかった状況であったという事実を、考慮しなければなりません。ですから、こと神のみ心に関する啓示は、聖書の完結と共に、その必要性と必然性が非常に小さくなったと考えるべきです。神のみ心に関する大概の問題は、完全な献身をもって、すなわち自己中心を捨てて、神中心の正しい信仰態度をもって、キリストのみ体である教会という理解の中で、聖書に教えられている基本をしっかりと学び適応することによって、解決されるのです。  現在の私たちの周辺に起こる問題は、私たちの理解力と、聖霊の照明の働きによって明らかにされ、また
歴史的に蓄積された教会の理解によって、さらには交わりとして現存する教会を通して教えられる、聖書の教えによって明らかにされ、克服されるべきなのです。


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(注) 

1・  このことは、アメリカアッセンブリーズ・オブ・ゴッドの教職者向けの季刊論文誌パラクレート、1998年の第2号にも例として取り上げられています。

2・ 日本ではアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団と呼んでいますが、アメリカでは教団色を嫌い「フエローシップ」すなわち交わりと捕らえて、そのような呼び方をしています。また、今日のアッセンブリーズ・オブ・ゴッドの世界的広がりを見ると、教団として捕らえるより、交わりとして捕らえるのがふさわしいと思えます。

3・  最近の出来事としては、ベニー・ヒンのアメリカ・アッセンブリーズ・オブ・ゴッドへの加入と脱退の経緯が好例です。

4・  個人預言をするような人々の多くは、自分に与えられる神の啓示の言葉には耳を傾けても、聖書の教えや、教会の指導者を通してお語りになる神の言葉には耳を貸さない傾向があり、気に食わなければ組織を離れ、単立になる例が多いようです。

5・  ルカは単にイエス・キリストと初代教会の史実を歴史として記録したのではなく、明確な神学的主題と目的を持って記したものです。マタイ、マルコ、ヨハネに比較すると、ルカの上下二巻の歴史書は、その初めから終わりまで一貫して、信じる者に力を与える聖霊の働きに焦点を当てていることが解ります。

6・  ヨハネの福音書に記されている、イエスの別れの教えの中では聖霊論が中心でありその中で、聖霊の証明の働きに関する教えが重要な位置を占めています。
 
7・  私たちに現在与えられる啓示は、霊感を(厳密な神学的な意味での)伴っていません。すなわち、その啓示を預言などで表現する場合、その言葉の一つ一つにまで、神の導きが与えられているとい言う保証がありません。ですから、現在の預言を性格に録音し書き写したとしても、それは聖書と同じ権威を持つものではありません。聖書が霊感を受けた書物であると言うのは、その一字一角まで聖霊の承認を受けた言葉であると言うことであり、単に啓示の書物だと言うこと以上のことなのです。
 
8・  個人的体験ですが、私がまだ沖縄で開拓伝道をしていたときの出来事です。午後早く、40歳くらいの男性が訪ねてきました。彼は伊江島という離島に住んでいましたが、普段から彼が仕えていた神様に、「朝早く発って金武村を訪ね、大通りを歩いて、大きな白い十字架が描かれている家に入り、そこの主人に詳しく話を聞きなさい」と言われ、8時間かけて訪ねて来たということでした。そこで私は、およそ5時間近くもかけて、天地の創造から始め、キリストの十字架、甦り、永遠の命、新天新地に至るまで、丁寧にお話して上げました。彼はその間非常に熱心に聞き入っていたものです。私はその時、彼が仕えていた神を「異教の神」と理解していましたので、なんとも心穏やかでなかったのですが、今は、天地をお造りになった神が、アブラハムを異教の地から呼び出されたように、この男性の真面目な宗教心にお答えになって、伊江島から私のところまで送り、救いの道をお教えになろうとしたのかも知れないと、考えています。
 
9・  ペテロはアナニヤとサッピラの物語、コルネリオの物語などで、パウロはバルイエスとの対面やコリントの働きの中、ローマ途上の船旅の場面で、ダマスコのアナニヤはパウロの回心後の指導に関わって、アガポは飢饉とパウロのエルサレムでの受難についてこの賜物を行使しています。
 
10・  ロマ12:1〜12の正確な解釈による

                                    つづく
























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2010年11月03日

個人預言をどう取り扱うか (2)



X. ルカとパウロが語る預言



 ルカが語っている預言は幅が広く、基本的に、聖霊によって感動を受けて語る神の言葉であり、その中には聖書の学びや信仰経験を通して学び取った神の御心が含まれる一方、聖霊の直接の啓示によるものも含まれていることについてはすでに述べました。また、パウロがTコリント12〜14章で語る預言も、基本的にはルカと同じであると理解するのが正しいと思われます。そうするとパウロが非常に高く評価をした預言と言うものは、必ずしも聖霊の直接啓示による預言だけではなく、聖書の教えをしっかりと学び、それを聖霊の感動によって現在の状況に適用して語る説教や、聖書の教えを心に蓄えていた者が、その場の状況や必要に応じて、聖霊に励まされて語り出す即興的な説教でもあったと理解できます。直接的な啓示を語る預言の可能性を否定する必要はありません。(ヨハネ 16:13-14) 特に聖書が完結していなかったコリント人への手紙を書いた時点では、直接啓示の預言の必要性は、現在のそれよりも高かったことでしょう。しかし、むしろ、それらは基本的に聖書の教えを単なる教えとして語るのではなく、聖霊の感動、励まし、押し出しを感じて語る、説教だったと考えるほうが、しっくりします。



 また、パウロが語っている「異言の解き明かし」というのは、果たしてペンテコステ信仰を標榜する人たちが一般的に主張してきた、「異言を通しての預言」なのでしょうか。パウロの教えを素直に読むならば、そのような理解は、預言を強調したいという思いと、異言に意義を与えたいという願いの産物だと考えられます。パウロはその一連の教えの中で、異言は神に向かって語るものであるとはっきり述べており、神が人に向かって語るための手段であるとは教えていません。ルカの記述を読むと、異言はむしろ、神の大きなみ業を賛美する言葉であることがわかります。(使徒2:11、10:46)そのような神に対する賛美も、解き明かしがされるならば、教会の徳を高めるものであることをパウロは認めていますが、教会の公共の秩序を乱しても良いほど、大切だとは考えていなかったのです。もしそれが、神からの直接啓示であるならば、パウロはそのような言い方はしなかったことでしょう。このように理解すると、パウロの一連の教えは非常に明白なのです。つまり、異言による神の直接啓示の預言と言うものは、パウロの知らないものだったと考えるべきなのです。  



Y. 現代の預言運動



 現在行なわれている預言運動の多くは、今は「終末の霊的覚醒期」であると判断し、霊的回復期、あるいは聖霊の賜物の回復期であると理解する、時代真理的考え方の影響を受けた人々によって進められています。すでに述べたように、中には教会の形態や「教会の職」も初代の教会の姿に戻すべきだと考え、盛んに按手を行い、使徒職や預言者職の回復などに非常に熱心な人々もいて、アッセンブリーズ・オブ・ゴッドの交わりの中にも、そのような傾向をもつ人々がいます。時代真理神学のすべてが誤りだとは言い切れないところもあり、時代真理的な終末観を持って聖書的を理解する余地もあると判断しますが、預言の回復は、現在と言う終末にではなく、終末の初期であったペンテコステの日に起こった事柄であり、それが今も継続していると理解すべきものです。また、聖書に記されている使徒や預言者や伝道者などは、職と理解するべきではなく、機能的に、そのような働きをもって教会の中で認められていた人のことに過ぎず、それを現在の教会の中で「職」として回復しようと言う試みは、間違っていますし、たとえ、初代の教会にそのような職制が在ったとしても、それを現在の教会のモデルと考えるのは聖書の解釈の間違いです。初代の教会は現在の私たちの教会が模倣しなければならないモデルではなく、コリントの教会を引き合いに出すまでもなく、あくまでも、当時の実情の中に自分を表現した教会なのです。間違いや失敗を沢山抱えた教会だったのです。また、すでに述べたように、預言の理解もまた異なっています。したがって、現在盛んに個人預言を行なっている人々には、個人預言の間違いと言うよりも、まず預言の理解に、このような間違いがあるのだということを、知らなければなりません。



 現在、ある人々の間では預言者の学校と言われるものがあり、教会では預言の練習をしていると聞きます。互いに向き合って、「主はあなたにこのようにおっしゃいます」と、自分の頭に浮かんで来たことを大胆に話す練習を重ねると同時に、自分が、本当に神のみ思いを語っているかどうか判断し、神のみ思いを語ることが出来るようになるように、祈り、鍛錬をするのだそうです。その一方では、預言を受ける人々は、その預言が本当に神からのものであるかどうか、良く吟味をするように訓練させられるのだそうです。その訓練の仕方、何に気をつけるべきかと言うことについては、具体的な指導も行なわれています。その指導のすべてが無益なのではありませんが、基本的に、聖書の教えることと異なっています。聖書にはそのような訓練をしなさいという命令も、そのような学校があり実際に練習がされていたと言う記述もないからです。



 さらにまた、人間は深い神のみ思いを理解することは出来ないのです。(Iコリ2:11) ですから、このようなやり方に対して言えることは、「主のみ名をみだりに唱えてはならない」と言うことです。主からのものであるかそうでないか、語る側の者が予め吟味されることを前提にするような、源の曖昧な預言は語ってはならないものです。そしてたとえ語るものが主からのものであると確信を持って語り、事実そうであったとしても、聞く者は、なおもその内容を聖書の教えに照らして厳しく聞き分けなければなりません。なぜなら現在の預言は、たとえ神の直接の啓示であったとしても、語られる言葉の一つ一つすべてが霊感を受けているわけではなく、誤りの入る余地があるからです。また、たんに感情の高まりであたかも預言のように語る人も在り得るからです。




 では、預言は軽んじられるべきでしょうか。そうではありません。聖霊の励ましを受けて語る聖書の教え、あるいは福音は、大いに強調されなければならず、その場の実情や必要に応じて即興的に語られる聖書の教えと適応は、大いに勧められなければなりません。これを牧師や伝道者の専売特許にしてはなりません。しかし、聖霊の直接啓示を受けて語る預言は、よほどのことがない限り、つまり、神様の側の必然性がない限り、ありえないと考えるべきでしょう。そのような預言に従いなさいという聖書のみ言葉もありません。私たちはそのような預言に対して、聖書に従うような忠実さをもって従う義務を持っていません。私たちは本来、聖書に聞くべきなのです。とは言え、私たちは、聖書主義を掲げる伝統的な改革派の人々とは異なっています。私たちは、聖霊の直接の照明を受けて聖書を読み、聖霊の励ましと感動を与えられて聖書の教えを語るのです。




 実際、ペンテコステ教会で生まれ育ってきたものとして、著者も、個人的に預言なるものを随分聞いてきましたし、異言の解き明かしなるものも、しばしば聞いてきました。そして極めて安全に言うことが出来るのは、それらの殆どは、聖書的な概念を感動を持って語る、信仰の励まし、あるいは罪への警告、あるいは、たとえば世の終わりに対して備えをするように、滅びて行く魂に対して情熱を持つようにと言うような、一般的お勧めであり、聖霊の直接介入と理解しなければならないものはありませんでした。自分の心の中にあるもの、あるいは潜在意識を、聖霊の励ましによって語りだしたもの、あるいは時と場合によっては、たんに感情の高まりを抑えきれずに、語りだしたものでしょう。「主は仰せられる」という言葉で始まり、あたかも神の直接啓示があったかのように語り始める場合ですら、主が直接お語りにならなければならないような内容を持つことは、殆ど在りません。むしろ、語る人が興奮したか・・・・・悪いことではありません・・・・聖霊からの感動を受けて語ったに過ぎないのでしょう。そして、先入観のゆえに、つまり、預言とはこのようにあらねばならないという先入観のゆえに、「主は仰せられる」と口走るのでしょう。私たちは、その「預言」が基本的に聖書の教えるところと合致しているならば、アーメンということが出来ます。そして、その励ましや警告、あるいは注意のゆえに、神に感謝をいたします。ただ、異言の解き明かしについては、聖書に前例のないものであるためにこれに重要性を置かず、ただその解き明かしは、神の直接介入という部分を省いて、その人の感動が語らせていると理解してよいのではないでしょうか。




結び



 結局私たちは、個人預言の存在の可能性自体は、非常に特殊なケースとして認めざるを得ません。聖書にはそのような例があり、現在もあり得ることを否定していないからです。しかしそれが頻繁に、日常的に行なわれるというのも聖書の教えではありません。また預言をする者は、聖霊に満ちた人でなければならないと言うのが、ルカの記述から導き出される理解であり、預言をする場合は、神のみ名をもって語ることに恐れを感じないだけの、確信を持って語らなければなりません。一方語られる預言は、聖書の教えと調和していることが前提であり、聖書の基本的教えとその適応範囲内に留まっていなければなりません。つまり、聖書と矛盾していてはならず、聖書が教えていない新たなことを教えるものであってもならないのです。  そしてまたその預言に従うかどうかは、その預言を与えられた人の責任に任せられていると言えます。聖書は、現在の私たちがそのような預言に聞き従わなければならないとは教えておらず、聖書に従うように教えているからです。したがって、個人預言を与えられた人は、その預言が聖書に矛盾していないことと、聖書の教えている範囲を越えていないことが明白ならば、それに従っても差し支えありません。またその預言が、本当に神からのものであると確信できたならば・・・・・・・・・それは易しいことではありませんが・・・・・・・それに従うべきなのです。



 私たちは、聖書が現在のように正典化されていなかった時代、個人預言やそれに近い預言が非常に多かった時代でさえ、あくまでも書かれたみ言葉が、語られる預言に優先していたと言う事実を、厳粛に受け止めたいと思います。(申13:1−5)  さらに、パウロは当時の預言者の機能を認めていましたが、彼が書くことがその預言に勝るものであることを主張しました。それは、霊感を受けた聖書が啓示の預言に勝ると言う意味です。(Iコリ14:36−37) 


 
 牧会者として、私たちは、すべての信徒が常に聖霊に満たされ、励まされ、押し出されて、神のみ言葉を語る者、新約的な預言者になるように、積極的に励まし勧めたいと思います。そうしてそのような預言の場を、信徒たちに積極的に提供すべきです。新約の時代にあっては、すべての信徒は預言者であるべきなのです。そうするならば、その中でまたその過程で、聖霊の直接啓示としての預言をする者も現われて来ても、驚くに当たりません。そしてその預言をする者が本物の預言者であるならば、権威に服従する者でなければなりません。(IIペテ2:1、9) それは、主の権威に従うことであり、霊感を受けた主のみ言葉である聖書に従うことであり、さらに、主のみ体である教会の権威に従うことです。現在の預言者であると自認する人たちが、最も陥り易い過ちは、預言をする事が出来ると言うことで、あたかも自分が特別に高い存在であるかのように振る舞い、聖書の権威も教会の権威も無視し、誰の言うことも聞かなくなり、自分の主張する預言を最終的な権威とすることによって、主の権威も拒絶することだからです。



 また牧会者として、個人預言を生業とするような伝道者は、招かないようにするのが賢明です。お招きしてしまった人が、個人預言を自分の働きの一部として取り入れていることがわかった場合は、個人預言をしないようにお願いするのが良いと思います。私は個人預言ではなく、聖書の教えに立つ信徒を育てる義務を持っていますので、個人預言はお控えくださいと申し上げるのです。現在の預言運動を推進している人々が行なっているような個人預言、たとえば、個人預言をするということで人を集めたり、人々を並べて次から次へと預言をして行ったりする活動は、現在でも個人預言の可能性があると信じている私たちから見ても、聖書的前例と神学的裏づけを欠くと言わざるを得ないだけでなく、実際上、それらの個人預言には、街角の占い師や八卦程度の価値も見出すことが出来ません。占い師や八卦に金を払う人は、知りたいことがあるから、その問題について尋ねて答えをもらうのです。しかし個人預言の多くは、預言者の方から、勝手に語るのです。これでは、おみくじを引くような、たんなる遊びに過ぎません。多くの個人預言の内容は、それを知ったからと言って、ことさら何かの益になるようなものではありません。



 また、信徒たちの中に個人預言に関心を持っていたり、それを受けたりしたものがいるとするならば、むきになってその問題点を指摘するより、聖霊の照明に頼って聖書を読み、教会の積み重ねてきた聖書の理解を参考にし、それを正しく自分の状況に適用できるように祈り、聖書の教えに立つ信徒となるように励ますべきです。その場合、その信徒が受けた個人預言は、聖書の教えと矛盾していない限り一つの可能性として受け止め、指示預言の場合であっても、それが明確に神からのものであるという確信が与えられるまでは、直ちに従うことはせず、一つの示唆、一つの選択肢として、大切にするように教える程度で良いのではないかと考えます。

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

(注)

11・  この「異言を解き明かした預言」は、アッセンブリーズ・オブ・ゴッドの歴史の中では一般的に認められていますが、特に最近、正しい聖書解釈の方法が学ばれるようになってからは、私の理解しているような異論も出されています。

12・  ときどき預言者の学校と言う表現を聞きますが、これは多分Iサムエル19:20の「預言者の一団」という言葉(新改訳)が、英語では[school of prophets] と言えるところから来た間違いだと思います。Schoolには一つの群れという意味もあり、学校とはかぎりません。

13・  30数年前、ティーンチャレンジを創立したデビッド・ウイルカーソンが、自分が見た幻を語った長いテ−プを公にしました。内容は黙示録をさらに細かく説明するような性質のもので、ある人々を興奮させました。ただ、かれはアッセンブリーズ・オブ・ゴッドの教職として非常に用いられ、有名の人物ではあったにもかかわらず、全体としては、彼の預言は無視される方向にあったと理解しています。
 
14・  ローマに行かないようにと聖霊に示されて忠告したアガポたちに、憤然としてローマに向かったパウロの例は、ユニークです。この場合、聖霊は将来を示しただけで、指示はしていなかったのです。
 
15・  4節で言われている「主にしたがって歩み・・・・・・・主の命令を守り」と言うのはモーセの律法に従えと言う意味です。

                                       おわり














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2010年11月04日

ちょっと怪しげなペンテコステ信仰 (1)



ちょっと怪しげなペンテコステ信仰
  (グレーゾーンの信仰)



 ペンテコステ信仰の躍進、ペンテコステ運動の発展は、20世紀のキリスト教会の特徴であった。数世紀にわたって啓蒙主義や合理主義、自然科学や人本主義に影響されて、超自然現象を否定し、聖書の奇跡を受け入れず、神の存在そのものまでも疑い始め、まさに衰退の一途をたどっていた教会が、このペンテコステ信仰によって力を取り戻したことは、実に喜ばしいことである。しかしこの信仰、この運動は、このまま21世紀にも継続していくことができるのであろうか。教会の歴史に興った多くの霊的覚醒は、比較的短期間で終わり、後にはその覚醒で起こった教団や教派が、健全ではあるが躍動感を失った硬い組織として残されることが多かった。ペンテコステ運動が、はたして今後も、教会の力であり続けることが出来るのか、気がかりな点もいくつかある。そのひとつは、はじめからペンテコステ信仰の特徴であった、体験主義的傾向を持つ信仰のあり方である。



T ペンテコステ信仰の体験主義的傾向



 まず、ペンテコステ信仰が体験主義的な傾向を持つということについて、説明しよう。ペンテコステ信仰は、神学の積み重ねや厳密な聖書の研究の結果として起こったものではない。霊的覚醒というものは、大体そのようなものが多かったが、ペンテコステ信仰は、特にその点が顕著である。



 ペンテコステ信仰には、まず、ひとつの体験があった。少し後になってから、聖霊のバプテスマと呼ばれるようになった、体験である。もっと正確にいえば、ペンテコステ信仰は、異言を語るという不思議な体験をしたことに始まる。この体験を最初にしたのは、聖霊の働きに強い関心を持つホーリネス系の信仰を持つ人々で、当初、彼らはこれを、宣教のための賜物と考えた。新しい宣教地に出て行くために、学ばずして宣教地の言葉を話すことが出来るようになる、特別の賜物としてこれを理解したのである。それで彼らの中には、異言の賜物が与えられることを前提に、言葉の学びをまったくしないまま、またする気もないまま、宣教地に出て行く者たちまで現れた。



 ところが、この期待は間もなく裏切られた。異言の賜物は、彼らの理解に沿ってタイミングよく与えられはしなかっただけではなく、与えられたとしても、宣教地の言葉ではなかった。だから彼らは、異言は宣教地の言葉を与えられる、宣教の賜物であるという理解を、変えなければならなかった。しかし彼らは、神に対する渇望と祈りの中に与えられたこの体験を、単なる心理的な、あるいは心霊的な体験としてではなく、あくまでも正真なクリスチャン体験と捕らえて、聖書の中にクリスチャン的な解釈を求めたのである。その結果行き着いたのが、聖霊のバプテスマの証拠としての異言という理解である。彼らはまず、ルカが記録した使徒の働きの出来事から、これを理解した。自分たちの体験と非常に類似していて、前例ともモデルとも言うことができる体験を、使徒の働きの記録の中、初期の教会の歴史の中に、複数見出したのである。(使徒2:1−13、8:14−24、10:44−47、19:1−6)



 彼らは使徒の働きに記されたこれらの体験が、ヨハネによって予言された聖霊のバプテスマ、(マタイ3:11、マルコl:8、ルカ3:16)イエス様によって約束された聖霊であることを学び取り、(ルカ11:13、使徒1:4−5)これを、イエス様の証人となるための力の賦与と理解した。(使徒1:8)そして、福音書に記された弱々しい使徒たちが、使徒の働きに記された信仰の勇者と変わったのは、この聖霊のバプテスマの体験にあったと判断した。そして、その聖霊のバプテスマの証拠として、異言が伴ったと考えたのである。
(使徒10:45−47、15:8)



 こうして、20世紀の初頭、異言を語る体験をした人々は、自分たちが、初代のクリスチャンたちと同じように、イエス様の証人としての力、宣教の力を与えられたのだと信じた。初代のクリスチャンたちが、恵みの時代の始まりに当たって、神からの特別な信任と力を受けたように、自分たちは恵みの時代の終わりに当たって、神からの特別な信任と力を得たのだと信じ込んだ。ペンテコステ運動の特質は、少なくても、伝統的なペンテコステ運動の最高の特質は、その熱心な祈りとか、熱狂的な集会とか、癒しや奇跡といったものもさることながら、宣教に対する情熱と実行力であった。彼らは、使徒たちや初代のクリスチャンたちと同じように、聖霊のバプテスマによって、神の臨在、神の内在を強烈に感じ、教会や宣教団体の後押しを待たず、文字通り、片道切符の宣教師として世界中に出て行った。そして、宣教のための緩やかな支援グループの設立、教会の枠を越えた宣教協力団体の創立がこれに続いた。下層階級から始まったこの運動は、瞬く間にアメリカ全土のみか、世界中に広まったのである。そして、そのペンテコステ信仰の躍進自体がまた、聖霊のバプテスマは宣教の力の賦与であるという理解を、実証的に証明するものであると考えられたのである。ペンテコステの信仰の中では、今でも、宣教の成功、教会の成功、すなわち多くの人々を獲得することが、神の祝福の証であり、神の承認の証であるというような意識が、非常に強く、後になって、教会成長運動や繁栄の福音などが無批判のまま、盛んに取り入れられてしまった素地があったわけである。




 異言が、宣教の力の賦与である、聖霊のバプテスマに付随する印だという理解に続いて、自分たちの祈りの体験の中に継続していた異言の体験についても、彼らは聖書の中に解釈の基盤を見つけた。パウロが記したコリント人への手紙に記された、異言についての教えがそれである。(Iコリ12章〜13章)彼らはこのパウロの記述から、異言の祈りと異言のメッセージという、ふたつの理解を導き出した。異言による祈りとは、聖霊のバプテスマの印としての異言に続き、神との交わりの深みに至らせるために与えられる賜物であると考えられた。次に、彼らは異言による神からのメッセージという理解を発展させた。パウロが語る「異言を解く賜物」(Iコリ12:10)というものを、彼らは異言という方法を通して与えられる、神からのメッセージを解き明かす賜物と理解した。ここで異言は、神から与えられる預言の手段とされたのである。異言という方法で与えられる預言である。しかし、異言による神からのメッセージは、解き明かす賜物がない限り、預言としての力を発揮しない。だから、解き明かす賜物を熱心に求めなければならないと考えられた。


 
 このような預言としての異言という解釈は、当時のリバイバル運動で非常に高まっていた新しい啓示、あるいは神からの新しい語りかけに対する熱望がもたらした結果だと考えられる。ペンテコステ運動も、当時のホーリネス運動の末端に連なるものとして、キャンプ集会、今で言う聖会や修養会のようなものを各地で開催していた。その中では、新しい啓示に対する期待が非常に強かった。それが聖書の解釈からくる言葉であれ、何かの閃きによる言葉であれ、人々は新しい教えを期待していた。その一例は、たぶん、使徒の働きを読んでいるうちに閃いた考えが、預言という手段で公表された、いわゆる「イエスのみ名による洗礼」の問題である。洗礼は三位一体の神のみ名によるのではなく、イエスのみ名によるものでなければならないというこの「新しい」預言は、設立されてわずか1年のアッセンブリーズ・オブ・ゴッドのフェローシップを、危うく解体してしまうほどに分断した。そのときの後遺症が、いまだにジーザス・オンリー、あるいはワンネスとして残っている。



 当時、ペンテコステ経験をした者の多くは、神学的素養をほとんど持っていない人々であった。伝道者と言っても、極めて基礎的な教育しか受けていなかった。そのような中で、臨在される聖霊に対する期待と飢え渇きが高まり、聖書を読むような、面倒くさいことをしないでも済み、興奮を伴う預言という宗教体験に人気が集まったのである。当然、ペンテコステ運動の行く先々には、聖書理解の幼稚さ、神学的素養の欠陥から来る混乱が続き、次々と語られるとんでもない預言も加わって、神学的見地からするとまさに混沌に陥っていた。また、短期間の即席の訓練しか受けていない伝道者たちの中には、人格的、道徳的欠陥を持った人々もかなりいて、そこここに不道徳な行為も見られた。そういう環境の中で、異言によるメッセージという理解も生まれたのである。



 一方、神学的素人集団であったペンテコステ運動の人々の中には、あまり専門的な学びはしていなかったが、強い福音派の背景を持ち、聖書を誤りの無い神の言葉であり、唯一の権威であると信じて、まじめにこれに向きあう、良き伝統を持ち合わせている指導者たちも大勢いた。彼らが、きわめて冷静に、つまり聖霊の賜物といいながら、非常に常識的な判断能力を働かせて、聖書の教えに反する預言をはじめ、さまざまな非聖書的な主張や行為を排除していった。先に挙げたワンネス運動の排除などはその良い例である。しかし、異言によるメッセージという理解は、たとえ、アッセンブリーの交わりの中では、正式な見解として表明されたことはないとしても、ペンテコステ運動の中で広く行きわたり、受け入れられて行った。



 このように、ペンテコステ運動は体験を先立たせた運動であるということは、その発生のいきさつからも明らかである。少なくても、ペンテコステ運動の中心的神学である聖霊のバプテスマと異言に関しての教えは、聖書の学びを端緒として発展したものではなく、まず、体験があり、その体験の前例、モデル、あるいはプロトタイプを、聖書の記述の中に見出したのである。つまり、体験が聖書の新しい理解、解釈を可能にしたのであり、聖書解釈の上で、体験が非常に重んじられるのである。



 また、ペンテコステ運動には、聖霊のバプテスマと異言という問題以外にも、多くの周辺的要素があった。たとえば、ホーリネス運動から引き継いだ瞬間的潔めだとか、デスペンセーショナリズムを背景にした終末論などである。これらの神学も、ペンテコステ運動の中ではかなりの影響力を持ち続けてきたが、すなおに聖書に聞くという素朴な態度は、それらの教えを丸ごと取り入れる極端さを止めてきた。



 ペンテコステ運動は、聖書を誤り無い神の言葉と信じて、素直にまた素朴に聖書を読む人々によって、健全に保たれてきたのである、聖書によって、聖霊のバプテスマと呼ばれる自分たちの信仰体験が、正真の聖霊体験であることを証明し、その体験が個人の主観的な体験だけでも、限られた時と場所と事情の中に、閉じ込められておかれるべき一過性のものでもなく、すべての信徒に共有されるべきものであると証明して来た。聖書的権威をもって、自分の聖霊体験と、それに基づいた信仰のあり方、行動、あるいは伝道や教会形成というものを、正当化してきたのである。



U 体験主義は誤りか



 このような体験主義的傾向は、厳密な聖書解釈に立つ、プロテスタント信仰に反するものであるかのように、言われ続けて久しい。とはいえ、体験主義的傾向は、正当なプロテスタント信仰の中でも、何も珍しいことではない。たとえば「聖書信仰」や「信仰による義人」という、プロテスタント神学の錦の御旗も、カトリック教会の腐敗という環境、それと戦うという体験がもたらした結果として、生まれた神学である。カルビンの神学も、カルビンの時代と背景があって、はじめて生まれてくることが出来た。さまざまな正しい聖書の理解は、さまざまな体験に啓発され、触発されて生まれている。普遍性を持つ聖書の教えは、時代と文化という有限性を媒体として、はじめて理解されるのである。



 広い意味では、この世の哲学に影響され続けるキリスト教神学、プロテスタント神学それ自体が、体験神学であって、純粋に聖書に基づいた神学ではない。だから、これからも世界の変化によってもたらされる体験が、新しい聖書の理解を生む可能性はあるし、なければならない。たとえば、現在の行き過ぎた資本主義とグローバライゼーションは、あたらしい神学を必要としているように思えるし、キリスト教が圧倒的な力を持った環境と文化の中で形成された神学ではなく、キリスト教が絶対的少数派で力を持たない中での神学も、必要とされていると考えるものである。ただしペンテコステ神学は、単に社会的変化への対応としてではなく、社会的変化を背景にした、純粋な信仰体験に触発されて生まれたものである。



 ペンテコステ運動の本当に特異な面は、啓蒙主義や合理主義によって、あるいはドイツ観念論などの影響によって、遠く隔てられてしまった至高の神、絶対他者の神、観念の隅に追いやられた神を、近くにいて助けてくださる現実の神に、変えてしまったことである。聖書の神を聖書の物語の中だけに閉じ込め、聖書理解と観念の問題にすり替えてしまうことによって、私たちの日常の毎日、現実の生活の問題に介入し、私たちの祈りにお答えになる神、いま共に生きておられる神を見失っていた教会が、ペンテコステ運動によって、近くにいてくださる神、内に住んでいてくださる神、祈りに答えてくださる神を、聖霊なる神として再び見出したのである。聖霊のバプテスマにより神の臨在を強烈に感じること、異言の祈りによって可能になる、神との深い交わりに浸ることこそ、ペンテコステ信仰の真髄である。そこから、神はいまも語りかけてくださる、祈りに答えてくださる、宣教の働きに伴っていてくださるという、信仰と期待が派生するのである。



 プロテスタントを含め、伝統的な神学では、聖霊とそのお働きについては、あまり学ぶことがなかった。ちなみに、歴史上もっとも優れた信仰告白であると言われ、現在でも多くの教会で、礼拝会ごとに唱和されている使徒信条を見ると、聖霊に関する言葉はただ一節。「我は聖霊を信ず」だけである。ウエストミンスター信仰告白でも、聖霊について述べられていることは、不充分この上ない。だから伝統的神学の枠の中に留まる限りは、今の聖霊の働きについて学ぶことは出来ない。ペンテコステ神学は、いま生きて私たちと共におられる神、聖霊のご性質とお働きに注目する。特に現在、キリストの昇天後の聖霊のお働きについての学びが、ペンテコステ運動の大切な学びである。そしてその聖霊の、変わらない役割のひとつは、いまも私たちの中に働きかけ、キリストの語られたお言葉を理解させて下さる働きなのである。(ヨハネ16:26、15:26、16:12〜15)

 

 したがって、ペンテコステ運動が、現在も働いていらっしゃる聖霊に信頼して、聖書の新しい理解を得る可能性を信じるのは、正しいことである。その新しいきっかけは、時には内面的な霊的体験であっても、この世の科学や哲学の発展、あるいはその他の出来事を端緒としていてもかまわない。極端に言うならば、とんでもないでたらめな神学を発端にしていてもいい。さきに述べたように、聖書の理解の深まりは、常に歴史的なできごとを背景に起こっていると言って、過言ではない。私たちは自分の体験という媒体を持って、はじめて神の言葉を理解できるのである。新しい聖霊体験をするならば、新しい聖書理解が生まれる可能性があるのである。ただし、それはあくまでも、古い聖書の新しい理解の可能性であり、聖書にはない真理の啓示、新しい啓示の可能性ではない。



V 体験主義の危険性と限界



 ではペンテコステ運動の体験主義は、このまま許されていていいのか。答えは断然「然り」であり、断然「否」である。然りというのは、この体験主義的な信仰が、ペンテコステ運動を推進してきたという理由で言うのではない。むしろそれが、現在もお働きになっている、変わらないイエス様に対する信仰だからである。世の終わりまで共にいると約束してくださったイエス様の、聖霊による臨在に対する信頼であり、いまも聖書を読むとき、それを正しく理解できるように助けてくださる、聖霊に対する確信だからである。伝統的プロテスタントの神学は、いまも生きておられるイエス様に対する信仰が極めて希薄な中で、書かれた文字の解釈の問題として行われてきた。厳格な文字の解釈としての聖書理解、それに立った神学の大切さは、いまさら言う必要はない。しかし、神学は聖霊の導きの中で行われなければならない。



 そういうわけで、ペンテコステ運動の体験主義的な聖書理解は、ただそれだけで誤りといわれるべきものではないだけではなく、むしろ、非常に大切な、本来的な聖書理解のあり方である。とはいえ、この体験主義的な聖書理解を際限なく許すべきではない。体験主義には限界があるからである。その限界を超えた聖書理解は、聖書理解ではなく、聖書への読み込みであり、あってはならないことなのである。そして、そのような理解に立った生活も許すべきではない。そのような理解を中心にすえた伝道や、そのような理念を土台とした教会設立を許すべきではない。絶対に「否」である。



 しかし、筆者の見るところ、いまわたしたちを含めた広い意味でのペンテコステ運動の中には、すなわち、カリスマ運動や第三の波などを含めたこの運動の中には、この限界を超えた聖書理解による、怪しげな断然「否」のペンテコステ信仰が、かなりまかり通っているように思えるのである。もともと体験主義的傾向を持ち、そのような信仰のあり方を容認してきたというより、主張してきたわたしたちにとって、むしろこれは宿命的な弱さであろう。とはいえ、これがペンテコステ運動だけに存在する弱点というわけではないことはすでに述べた。事実、多くのキリスト教会が同じ弱点を抱えているのである。ただペンテコステ運動に属するクリスチャンたちの間では、この弱点は非常に特徴的であり、運動全体に大きく悪影響を及ぼしかねないところに、注意をしなければならないのである。


                                     続く












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2010年11月05日

ちょっと怪しげなペンテコステ信仰 (2)


W 限界を超えた体験主義の例 



 ではその体験主義的聖書理解が限界を超え、怪しげなペンテコステ信仰に陥っている問題とは、具体的にどのようなことを指しているのか。筆者が個人的に見聞きした、いくつかのことを取りあげてみよう。



 筆者は、地方の開拓伝道をしてしばらくたつが、さまざまな理由で、なかなか教会として立ち行くところまで到達できないでいる。そこで、ひとりの同労者に、特別講師としてきていただこうと思いついて、お願いをした。快いお返事をいただいたので、なおも教会の現状について説明をしたところ、彼はすぐさま、「それは、その地域の霊と戦って勝利をしなければ。それから、そのような困難を抱えている信徒の先祖の中に、人殺しとか犯罪者はいないですか。そのような例が多いんですよ。そのつながりを断ち切らなければ」というようなことを、おっしゃったのである。



 私はこの同労者の高潔な人格と、やはりかなりの「地方」で開拓をし、見事に教会を建て上げておられる姿に、ひそかに尊敬をしている。また彼は、以前から「霊的な」感覚の鋭い方で、良く祈り、癒しや奇跡、さらに霊の戦いと言われる方面に、強い関心を抱いておられることは知っていたが、さすがに、このときの言葉にはひるんでしまった。

 

 他の機会に、やはり同労者の一人から、ある著名な学者が書いていることだと、教えてもらったことがある。いわく、「教会の成長には、使徒職の回復が必須である。大切なのは、牧師職ではなく使徒職である。」なんでもいま、使徒職の回復というのが「世界的に」広まっていて、これをやると教会が成長するのだそうだ。この学者は以前にも、均一性が教会の成長の重要要因だと言ったり、地域を支配している霊を追い出すことが、その土地の宣教に重要であるなどと、主張したりしていたが、今度は使徒職の回復を言い出した。彼は、いわゆる福音派に属し、ペンテコステ信仰を持つ人物ではないらしいが、以前からペンテコステ信仰の興隆に強い興味を意示し、親ペンテコステの学者として有名である。事実、ペンテコステ系の人々、特に第三の波の人々の間では、絶大な人気があるらしい。



 筆者がフィリピンにいたころ開いていた聖書研究会で、この国一番のエリート士官学校の教頭が救われ、全士官候補生を体育館に集めて集会をしたことがあった。あまり内容のない説教の後、特別講師の説教者が祈ると、聴衆の士官候補生700人全員が一人残らず、コンクリートの床に倒れ伏した。説教者はそれが神様の力の現われであり、説教者が神の祝福の器である証拠であると主張し、全員が倒れたその集会を、神の祝福に満ちた集会であったと報告していた。しかし、この集会でイエスをキリストと信じると告白したものは、私たちの聖書研究のメンバー以外にはいなかった。私は二度と彼を招かないように指導した。



 やはり筆者がまだ宣教師として、フィリピンの山岳奥地の部族伝道をしていた頃、少しばかり成功したアメリカの伝道者がやってきたことがあった。彼は、電気や水道はおろか商店もなく、馬も通れない山道を、何時間も歩かなければ到達できない、極貧の集落に住む人々を見て、「彼らは神様の祝福からこぼれてしまった」と言った。繁栄の福音を語っていたこの伝道者から見れば、このような貧しさの中にいるものは、確かに、神の祝福の外にいるのであろう。アメリカをはじめとする裕福な国の人々が、繁栄の福音を言い訳に欲望を丸出しにして生きるために、貧しい国々の人々がいよいよ略奪され搾取されていることに、この伝道者は気づいていない。



 しばらく私たちの教会に出席していた、隣町の単立教会の娘が、アメリカの聖書学校に留学するという。その聖書学校は、レーマの神学を宣伝し続けている、著名な伝道者が立てたものである。彼女は、その伝道者の働きに現れる癒しや奇跡の業に、痛く感動していた。私は「レーマの神学は、脆弱な聖書解釈に立つので、止めたほうが良いよ」と示唆したのだが、彼女は、「現れたみ業が信仰の正しさを証明しているのではないでしょうか」と言って、そこに行ってしまった。彼女は数年後に帰国したが、アメリカ留学の無駄を、今も回復できないままでいる。



 開拓伝道状態を抜けきらないで、苦戦をしていた私たちは、公共の建物を借りて礼拝会をしているが、隣の部屋で、やはりペンテコステ系の教会が集会をしていた。ところが、この教会にしばらく通っていた信徒一家が、私たちの教会に移ってきた。もともと他の団体の信徒だったのだが、仕事のために移転してきたのだということだったので、私たちの教会にくることを許したものである、彼らが「他の面ではとてもすばらしい教会」だというその教会を去ったのは、礼拝会の後、必ず預言の練習なるものをやることに、強い疑問を感じたからだそうである。聞くところによると、ふたりずつ向かい合って、互いに相手のことについて、頭に浮かんでくることを言い合うのだそうだ。そうしているうちに、預言になるらしい。しかし、語られた言葉が本当に預言であるかどうかは、聞いたものが吟味しなければならないという。それのどこが練習になるのか、彼らにも、私にも分からなかった。後で聞くと、預言者の学校なるものも存在するそうである。



 ところで、このところ、どういうわけか、いろいろなところから、信仰相談の電話を受けるようになった。私はその人たちの名前も教会も場所も、牧師か信徒かも尋ねないことで、相談に応じることにしている。向こうが勝手に名乗っても、忘れることにしている。私には忘れる賜物がある。



 「アッセンブリー教会で救われたのですが、聖霊のバプテスマを受けなさいと指導され、手を挙げさせられたり、大声で祈らされたり、ラララと言わせられたり、ヒステリックな周囲の状況にも嫌になって、他の教会に移りました。でも、そこで『ペンテコステ信仰の間違いを正す』と、牧師に散々やっつけられたのも嫌になって、またアッセンブリー教会に戻ってきています。でも、あの指導と雰囲気は何とかならないものでしょうか?」



 「単立の教会に通っていますが、うちの牧師は、このところすっかり悪霊追い出しに凝っています。教会の中で、病気の人や悪霊に憑かれていると思われる人にやるのは、まだいいんですが、地域霊だなんだと言っては、神社やお寺に出かけて行って、大声でやるのはどうなんでしょう。その上、坊主憎けりゃ袈裟までもで、お正月には門松は飾ってはならない、お盆には御墓参りに行ってはならないって言うんですよ。それでいて、大相撲は好きで、いつもテレビを見ているんですが、あれって、もとを正せば、神道の神に奉納するものだったんでしょう?それから、この前、『おかげさまで』と挨拶したら、そんな仏教用語を使ってはならないと叱られました。じゃ、『ありがとう』だって、仏教用語ですよね。」



 「うちの教会は、昔、神社の参道だった大通りに面しているんですが、牧師によると、うちの教会が成長しないのは、そこに原因があるんだそうです。だから、教会が引っ越すか、参道を支配している悪霊を追い出すか、ふたつにひとつらしいんですが、どうしたもんでしょう? 地域の霊はなかなか出て行ってくれないようですし・・・・。何でもその霊は、日本全体を支配している強い悪霊に、守られているらしいですね。それで、今の会堂を売って新しい場所に引っ越そうというんですが・・・・。最近、それに反対している私の家には、牧師は来てくれなくなりました。近所に、大きな鳥居のある神社があり、お寺もあり、地蔵尊もお堂もあって、たくさん悪霊がいるので、気味悪いらしいんです。私は、イエス様が一緒にいてくださると信じていますので、悪霊は怖くないのですが。会堂移転に、たくさん金を出させられるのは怖いですね・・・。」



 「先週うちの教会で招いた先生がおっしゃるには、悪霊とは死んでも天国にいけなかった人の霊のことで、それがさまよって悪霊になるってことらしいんですが、それって、聖書の教えなんでしょうか。そんなことって、本当にあるんでしょうか?それから、その先生が集会中預言をなさって、まァ、信徒を脅かすようなことをおっしゃるんです。そういう預言ってあるのでしょうか?」 



 「結構こんな問題で苦しんでいる人たちがいるのだなァ」と、電話相談のたびに感じるのである。
誰でも自分の体験を、正真のものだと擁護したい。UFOを見たという体験を、正真のものだと擁護したい人々は山ほどいる。そしてクリスチャンは、自分の信仰体験、自分の霊的体験を大切にし、それに聖書的な裏づけを求める。それ自体は自然の欲求である。そのような欲求が、公に認められているのが、ペンテコステ信仰の特徴である。すでに述べたように、ペンテコステ運動の発祥自体が、そこにあるからである。



X どこが限界を超えているのか



 私たちの信仰体験、あるいは霊的体験といわれるものが、公の体験、つまり個人を超えて多くの人々に求められるべき体験、あるいは教会がそれを認め、教会の信仰として表明され、宣教の重要な位置を占めるような体験とされるには、いくつかのハードルを越えなければならない。



 まずその信仰体験、あるいは霊的体験といわれるものは、単なる主観的感覚の出来事だったのか、客観性を持つ事実としての出来事だったのか、きちっと整理されなければならない。ペンテコステ信仰を持っているものの中には、悪魔を見ただの、悪霊と戦ったという体験を語るものが、ときどき現れる。そういうことがまったくないとは言わない。というより、私たちは常に悪魔と戦い続けている。しかし彼らの戦いについて聞くと、「夢の中で悪魔が現れて・・・・・、不動金縛りにあって・・・・」などという場合が多い。すべての夢や不動金縛りがそうだというつもりはないが、ほとんどの場合は、悪魔とは関係のない自然の現象に過ぎない。預言をする人たちの預言にも、単なる感情の高まりから語った言葉に過ぎないもの、信憑性に疑問のあるもの、客観性を欠くものが多い。



 また、個人的体験の領域にとどまらせておくべきものか、より多くの者の公共の体験とすべきものなのか、区別されなければならない。パウロは、すべての者が異言を語るようにと薦め、異言を公の体験として認めている、しかし第三の天まで昇った体験については、それがどんなにすばらしいものであったとしても、他の人に薦めてはいない。つまり、公共性を認めていないのである。かりに、地域霊と思われる霊と戦い、これを追い出したことによって伝道や、教会の成長に良い変化が起こったとしても、それをすべての教会や信徒に共通の原理として薦めることはできない。かりに、使徒職というものを取り入れたことを契機に、教会が強く成長し始めたとしても、それを一般原則として、すべての教会に薦めることも出来ない。



 聖霊のバプテスマを求めるときに、大声で祈って受けた人も、小声で祈って受けた人もいる。立って祈って受けた人も、座っていて受けた人もいる。そのようなことは何の規範にもならない。そうするためには、聖書がそうするようにはっきりと示していなければならない。ラララと言うのも、たぶん、異言を語り始めたとき、舌がもつれてそのように言った体験から、それを他人にも当てはめようとした間違いだろう。ヒステリックな集会は、聖霊のバプテスマを受けて興奮したため、集会がヒステリックに思えるほど、混乱したことがあったことから、ヒステリックになることが聖霊のバプテスマを受ける条件であると、勘違いした結果だろう。ペンテコステの日の集まりは、酔っ払いの集まりであると勘違いされたのだから、かなりヒステリックで、無秩序状態だったと思われる。だからといって、聖書はそれを模範とはしてない。人間は、自分の主観的体験を大切にし、一般化したいと考える弱さを持っているが、客観性が非常に大切である。



 いろいろな個人的信仰体験が、教会の中で公式に勧められ、実践されていくためには、まず、それが客観的事実であり、公共性のあるものだと判断されなければならない。そしてその作業をする過程で、聖書的根拠が正しく立証されていなければならない。これらが正しく行われないまま、それが宣伝され、みんながそれを体験するように励まされ、さらには教会の建設の中心的理念とされたり、宣教の力点とされたりすると、限界を超えたものとなり、怪しい信仰になってしまう危険性が非常に高くなるのである。



 X.1 地域霊と先祖霊



 私たちは多くの病や、精神的・肉体的欠陥が、悪霊の働きによるものであることを認める。なぜなら、聖書がくりかえしそれを語っているからである。迷信の中に生きていた当時の人々の理解にあわせて、聖書記者はそのような書き方をしたのであるという、合理主義的解釈を私たちは拒絶する。聖書の記述、その描写には、そのような合理主義的解釈を持ち込む余地がない。しかし、病や欠陥はすべて悪霊によるものであるという理解も退ける。聖書はそのように言っていないし、かえって悪霊とかかわりのない病の存在が、聖書によって明らかだからである。



 私たちはまた、弟子たちが悪霊を追い出す権威を与えられたように、現在の教会も同じ権威を託されていると、考えている。だから私たちは、弟子たちと同じように、イエスのみ名によって悪霊を追い出す。このようにするのには、充分な聖書的根拠があると判断している。そして私たちは、悪霊が追い出され、病が癒されるという現象を見てきた。



 しかし、地域霊となると話は別である。まず、地域霊なるものの存在が、聖書によって明確に立証されていない。それらしい表現はあるが、「らしい」という表現から、神学を作ることは出来ない。さらに、聖書の中に、地域霊と戦った、あるいは地域霊を追い出したという例もない。そして、偶像礼拝が非常に強かった地域の宣教においても、使徒たちが地域霊の追い出しなどを考えた形跡もない。ただし、著者は地域霊なるものの存在を否定しているのではない。あるいはあるのかもしれない。ただ、聖書はそのようなものの存在や力ということに関して黙している。だから私たちはそれについて多く語らないし、それと戦うとか追い出すとか言うことに深入りしない。そして、聖書が関心を払っていない事柄に、強い関心を持つことを、危険と考えるのである。



 さらに、先祖の悪行が、いま生きている人に影響を与えているという考え方は、自然現象あるいは社会現象として、家庭環境だとか、文化、あるいは肉体的欠陥、精神的欠陥にまで、ある程度当てはめることが出来る。それはモーセの律法も教えている。しかし、家系に憑く霊の存在を認めるには、聖書の言及が決定的に不足している上、先祖が犯した犯罪が、現在の人間に霊的な関係において影響を及ぼすという主張を正当化するには、聖書以外の、さまざまな宗教や俗信に根拠を求めなければならない。ましてや、そのような理解に立って、その悪霊を追い出そうとするのは大きな誤りである。それを教会の実践として取り入れ、成功する伝道の秘訣として実践するのは、もっと大きな誤りである。たとえ、そのようにしたことによって、教会が成長し、伝道が拡大したからと言って、それを公共性のある事柄として宣伝するのは、もっと間違っている。



 地域霊を追い出したから、伝道が進展した、教会が強くなったというような、実例を否定しているのではない。あれをやったからよくなった、これをしたからうまくいったという話はたくさんある。問題は聖書がそれをしたらうまくいくと語っているか、あれをしたら強くなると教えているかである。また、聖書の中にそのように判断できるだけの充分な例、プロトタイプが示されているかである。そして、それが時代と場所を越えた普遍的なものであると、聖書を持って証明できるかである。



 ただし、いわゆる地域霊と戦ったり、先祖との霊的かかわりによって引き継がれた、呪いを断ち切ったりすることを、ことごとく非聖書的なものとして排斥すべきではない。悪霊にもさまざまなものがあり、さまざまな働きをしている。筆者も沖縄や東南アジアの文化の中で、いわゆる悪霊との戦いは幾度も経験してきた。そして、経験上、いろいろなことを知っているつもりである。その上で、鋭い霊的感覚と経験を積んだ働き人が、地域霊がいると判断し、家系に取り憑いている霊がいると判断したならば、信仰によってそれらを追い出すのがいいと考えている。沖縄でもそうであったが、東南アジアの占い師やまじない師の多くは、家系で継承されているのである。ただし、それらのことについて聖書は多くを語っていないために、私たちの知識は、人間の経験上の知識と、想像の域を出ない。そうであるかも知れないし、そうでないかもしれない世界である。だから、それを信仰と実践の中核に据えてはならないのである。



 X.2 使徒職の回復



 先に、使徒職の回復ということに触れたが、今これを盛んに宣伝しているこの学者は、もともと宣教師として働いていた統計学者であり、教会成長学を広めた人物である。さまざま調査から、社会学的に教会や宣教について分析し、何が成長をもたらす要因かを調べて、その結果を次々と発表し、多くの人々に推薦してきた。ペンテコステ信仰に対する彼の好意は、1960年代から70年代にかけての、南アメリカ諸国におけるペンテコステ運動の、目を見張るような進展によってもたらされたもので、もっぱら教会成長学的な見地からでてきたものである。ペンテコステ信仰が聖書に根ざした正しい信仰だったから、好意を抱いたというわけではない。彼が語り続けてきたことは、聖書がどう言っているかということではなく、「彼らはこうして成功した。だから、あなたも同じようにすれば成功するに違いない」という、アメリカ的プラグマティズムに過ぎず、マーケッティングの手法と変わりない。つまり結果よければそれでよし、教会が大きくなり働きが拡大すればそれでよしであり、徹底した体験主義なのである。



 そして悪いことに、その聖書に基づかない体験主義を、彼は聖書を用いて擁護するのである。たとえば、彼らは教会の出席者数を非常に大切にするが、使徒の働きの記述の中でも幾度も人数が数えられていると弁明する。しかし、使徒の働きが発展の歴史を語る中で人数を記録するのと、教会成長運動の中で人数を数えることは、似て非なるものである。すでにさまざまな人々に指摘されていることであるが、聖書は、教会が大きくなることや宣教の効果的な拡大が、即、その働きや手段の正当性を証明するものであるとは教えていない。



 実は使徒職の回復などという事柄は、ずいぶん昔からいろいろな人たちが主張していたことで、新しい発見ではない。なかでも、半世紀以上も前に興ったレストレーション運動は、これを強く主張していた。これがまたこのように蒸し返されるのには、いまさらという感が否めない。この主張が、長い間、多くの人々に受け入れられてこなかったのは、聖書にはそのようなことが教えられていないと判断されたからである。



 「キリストご自身が、ある人々を使徒・・・・・・としてお立てになった」というエペソ書の言及を、現在の教会の中にも適用されなければならない、普遍的原則であると解釈するのは、解釈の方法として、まったくの誤りである。まず、このような表現は、聖書の中ではIコリ12:28にもう一度出てくるだけである。教会の組織や職のありかたの原則とするためには、もっと多くの、しかも明確な言及が聖書に見出されなければならない。次に、それらの箇所でパウロは、当時の成長過程にあった教会の働きや役割について述べ、それが神によって立てられている、あるいは承認されているという事実を語っているのであって、その役割や働きが、普遍的な、つまり、時代と場所を越えて、どこででも適用されなければならない原則であると、言おうとしているのではない。パウロが手紙を宛てた当時の教会は、グレコローマンという文化の中で、植民地政策の下に、勢い良く成長し続ける若い異邦人教会であり、非常に流動性の激しい状態にあった。そのような特異な実情にある教会の役割とそれに伴う組織というものを、彼が、普遍的なものとして語るはずがない。



 また、パウロが列挙したのは働きであって、役職ではない。非常に流動的だった当時の教会は、後の落ち着いた教会が取り入れた役職というようなものを、規定する状況にはなかった。だからこそ、エペソ4:11とIコリント12:28に列挙された働きは、一致しないのである。もし、いま、これらのパウロの記述から、使徒職を回復しなければならないというならば、使徒職だけではなく、列挙されているすべての働きを職として回復しなければならないし、当時の教会の組織形態も探り出して、回復しなければならないし、何よりも同じパウロが書いた二つのリストは、一致していなければならない。



 その上、新約聖書で語られている使徒の働きというものを、現在再現すること自体が不可能である。新約聖書は使徒の役割とはこういうものであるという、細かな説明をしてはいないからである。その権威と責任、資質と資格などについても、ほとんど明らかにされていない。主を見たことがあるという資格は、第二世紀には無意味になったであろう。だからこんにち、使徒職を回復したといっても、それがどのような働きと権威と責任を持った働きなのか、不明であり、やたらに権威づくのが落ちである。さらに、ヤコブという12弟子の中でも中核にいたと思われる弟子が、極めて早期に殉教したにもかかわらず、その後継者は選ばれていない。だからむしろ、初代の教会はその発展途上のきわめて早い時期に、使徒というものの存続を重視しなくなっていたと考えるべきであり、今の時代に使徒職の回復を主張することは、たとえ、それが教会の成長や宣教にどのような影響を及ぼしたとしても、聖書的な権威を欠くのである。



 私たちは、新約聖書が語る教会の本質と働き、そして使命は、普遍的なものであると理解して、いつどこにおいても堅持しなければならないと考える。しかし、教会の形状、つまり、組織だとか政治だとか、役割だとか言うものは、常に周囲の状況に応じて、変化し続けなければならないものだと判断する。新約聖書に記録されている当時の教会の姿は、ある特定の場所と時間に制約されたひとつのあり方であり、たぶん、かなり美しい姿ではあると考えるが、それが時代と場所を越えて継承されていくべきもの、プロトタイプであるとは考えていない。



 X.3 倒れること



 集会などで人々が倒れることは、良く見られる現象である。聖書の記述でも、聖霊のバプテスマを受けた人々が酔っ払いと間違われたところから想像すると、かなり騒々しく、あるいは倒れた者たちがいたのかも知れない。聖霊のバプテスマを受けたとき、多くの人が倒れたり転がったりするのは、ペンテコス運動の初期から、かなり一般的な出来事である。しかし、聖書は倒れるようにとも、転がるようにとも教えていない。倒れないように転がらないようにとも、教えていない。すでに述べたことであるが、大声を上げよとも、小声で祈れとも教えていない。手を挙げよとも下げよとも教えていない。だからそれを禁じることも薦めることもしない。倒れる人が続出する集会であってもいい。誰も倒れない集会であってもいい。主があがめられ、主の栄光が現される集会であれば、それでいい。聖書はただ、集会の秩序を乱す行為を禁じている。だから指導者が、秩序が乱されると判断した行為は、止められることになる。



 イエス様が、「私はあってあるものである」という、モーセに語られた神様のお言葉と同じお言葉をおっしゃったとき、そこにいた兵士が倒れたという記事もある。(ヨハネ16:5−6)注解者たちによると、それは神様のみ名の聖さと気高さに打たれたのだそうだ。そういうこともあるだろう。しかし、私たちの集会で人々が倒れる現象が、それと同じだという保証はどこにもない。筆者が責任を持っていた集会でも、超教派で行うと人々は勝手によく倒れた。あるものははじめから倒れることを期待し、倒れようと心がけているとさえ見えた。倒れなければいけないような雰囲気になっている。そこで私は、私の語る福音をしっかり聞いてもらうために、倒れるのを禁止したことさえある。



 祈りなどで、宗教的興奮が高まり、倒れることを否定するものではないし、神様の聖さに打たれて倒れる可能性も認める。しかし問題は、倒そうと努力する伝道者、倒れなければ、無理にでも倒す伝道者、そして倒れたがっている信徒たちである。そのようなことは聖書の中に教えられても薦められてもいない。だから、倒れることが霊的だということにも、倒すことが霊的力を持っているということにもならない。このようなことを人集めの宣伝に使うのは間違っている。何の聖書的基盤もないからである。


                                      つづく











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2010年11月06日

ちょっと怪しげなペンテコステ信仰 (3)



 X.4 繁栄の福音



 繁栄の福音は、バランスを欠いた聖書理解に問題がある、聖書は、物質的繁栄が神の祝福であるとも教えているし、清貧の尊さも教えている。アンバランスに、どちらか一方を強調し過ぎてはいけないのである。ただし、物質的繁栄は神の祝福であると単純に考えるのは、むしろ、旧約時代の一般的信仰理解で、いわば低レベルの信仰である。たとえ旧約聖書でも、ヨブ記をはじめとして、繁栄の福音の信仰理解を超える記述はたくさんある。また、新約聖書での信仰理解はさらに深く、清貧の尊さをいたるところで教えている。確かに物質的繁栄は神の祝福の一面であると認めても、それを追求することは、新約聖書の言う貪欲という偶像礼拝の罪である。(コロサイ3:5)ましてやその追求のために、多くの人々が苦境に陥れられることが明白な、このグローバル化した資本主義の世界では、間違いなく罪である。利潤追求の豚となっていることに気づかない、アメリカのペンテコステ信仰者の多くはこの偶像礼拝の罪の中にいる。いや、アメリカのキリスト教の多くが、いま、この偶像礼拝に捕らわれているとさえ言える。



 幸いこの繁栄の福音は、日本ではあまり繁栄しなかったが、小さな被害はないではない。ある教会の役員の言葉には笑ってしまった。いわく、「泣く子と牧師には勝てませんよ。牧師は、神様を信じたらすべての面で繁栄するというお手本を、自分から見せなければならないというんで、最高級の車を買うから献金しろって聞かないんですよ。いやァ。私たちは忠実な信徒ですから・・・。」私はその牧師の車に乗せてもらったが、「信じて泣く牧師は得をする」である。



 X.5 レーマの神学



 レーマの神学も、聖書の偏った強調から生まれている。概念としての言葉であるロゴスと、口から発せられる言葉としてのレーマの間に線を設けて、そこから独特の神学を組み立てているのであるが、もともとロゴスとレーマの間に、それほど明確な線を引くことは出来ないし、聖書のこれらの言葉の用法においても、厳密な区別をすることは出来ないのであるから、この神学には無理がある。無理がある神学、つまり、聖書の裏づけがない、あるいは乏しい神学に根ざした運動を、私たちは受け入れることが出来ない。たとえその神学を広めている人々が、どれほど有名で、どんなに大きな働きをしていても、またどのように立派であっても、この神学は怪しいのである。また、レーマの神学をやっている人の多くが、繁栄の神学や積極的思考も同時にやっているようだが、どこでどうつながっているのか不明である。ただ、偏った聖書解釈によるというところは共通している。



 X.6 預言の練習・預言者の学校



 預言の練習だとか、預言者の学校というものも、個人的な霊的体験や、心霊的体験、あるいは心理的体験を重んじて、その先例、あるいはプロトタイプを聖書の中に見つけたというものであって、聖霊のバプテスマの場合と良く似ている。ただし、聖霊のバプテスマのプロトタイプは、正統な聖書解釈から聖書の中に発見できるが、預言や預言者の学校の場合は、かなり、無理な解釈をしなければならない。そこがまったく異なっている。そしてそれらを実践するには、さらに無理じいが伴う。その上、語られた預言の言葉の権威と、聖書の権威とのかかわりを、明確に説明しなければならないという困難が伴う。預言運動で語られた預言を記録して、それを本にまとめている人々もいる。そして、その預言にしたがって行動するように勧めている。これは、聖書以外の権威を持ち込むことで、たとえどうあっても、極めて異端に近い。改革派の人々が、ウエストミンスター信仰告白の権威に拘束されている以上に、あるいは、セブンスデー・アドベンティストの方々が、イー・ジー・ホワイトの著書に権威を認めている以上に、危険である。



 聖書が完結したいま、預言の必要性は低くなっている。神が人間に必要とお認めになった啓示は、すべて聖書の中にある。いま最も必要なのは預言ではなく、この聖書の啓示を正しく理解するための、聖霊のお導き、照明である。もちろんこれで、すべての預言が不要になったのではない。個人的な、あるいは特殊な厳しい条件下における導きなど、まじめに預言を願う場合もある。そしてそのような条件の下で与えられて、極めて重要な役割を果たした預言も知っている。しかし、残念ながら、多くの預言は、どうでもいい預言である。放っておいてほしい預言である。聖書をまじめに読んでおれば、まったく無用の預言である。



 預言の練習などというアイデアがどこから出てきたのか分からない。しかし、これが預言であるかどうかと、語る本人が聞くものに吟味してくださいと願い出るような預言は、厳に謹んで語らないでほしい。神のみ名をみだりに唱えてはならないのである。あるいは、英語の旧約聖書に出てくる預言者の「School」という言葉を、学校と考えたのだろうか。これは、「school」という言葉の解釈を間違ったところから来たのだろう。Schoolには、学校という意味もあるが、群れという意味もあり、旧約聖書でいう預言者の「school」は、共同生活に近い生活をしていた、預言者たちの一団のことを言ったのであろう。預言者としての資質を整えるためにそのような群れがあったのかもしれない。しかしそれが、互いに向かい合って預言の練習をするなどということの、根拠にはなりえない。



Y. グレーゾーンに迷い込まない 



 問題は、聖書が明確に語っていないこのような事柄、いわば、グレーゾーンの事柄を、信仰の重要部分としたり、教会形成の土台としたり、宣教の主題としたりすることである。このような、聖書が明確に語っていない部分を取り上げて、自分たちの考え方や理解や経験や想像を、その中に独断的に読み込み、それをあたかも新しい啓示、あるいは新しい真理の発見でもあるかのように言いふらし、信仰や、教会形成、あるいは宣教のかなり重要な部分として取り入れ、さらに宣伝し続けていることである。聖書には、明確に語られていない「グレーゾーン」の事柄がたくさんある。ペンテコステ信仰が怪しげになるのは、この部分の誤った用い方による。



 グレーゾーンにはかなり白に近いグレーもあるし、黒に近いグレーもある。そのようなグレーに自由な解釈をほどこして用いていくことに慣らされると、まったくの黒も、黒と気づかないままに、自分の信仰の中に取り入れてしまう危険性がある。たとえば、「さまよっている死人の霊が悪霊である」などという考え方は、たぶん、韓国系の人たちが持ち込んだものと思うが、まったくの黒であり、聖書を信じるクリスチャン信仰には、馴染まないものである。しかし、グレーゾーンの事柄になれてしまうと、こんなことまで、取り入れてしまう危険性がある。聖書の中にも霊媒があり、口寄せがあり、死者との話し合いがあり、弟子たちまで幽霊の存在を信じていたし、イエス様もその存在を否定していない。そんなことを、自分の仏教的あるいは土着宗教的文化背景をもって、自由に拡大解釈していくと、どこまでも際限なく、混合宗教化していくのである。(それにしても、悪霊を追い出し興奮していた弟子たちが、幽霊を怖がったのは面白い。)まだ神学的に幼稚な弟子たちの、俗信の中の幽霊というものが、現在の日本の幽霊の概念と同じだという保証はない。またこれらをもって、幽霊の実在を聖書的に証明することもできない。ここから幽霊は怖いという神学も、構築することは出来ない。



 それに近いくらい限りなく黒っぽいのが、死者のための洗礼である。これを自分たちの教理と儀式に加えている、ペンテコステ系の教会もあると聞く。死者のための洗礼については、確かに一度だけであるが、聖書に書かれている。それを記したパウロはそれが良いとも悪いとも言っていない。彼の議論の筋道から外れるからである。しかし、聖書全体の教えからすると、これが正しい習慣とはいえないのは明らかである。聖書に一度しか言及されていない事柄、しかもたまたま例として取り上げた事柄を、重要な教理や教えとしてはならないのが、常識である。イエス様がノアの洪水で死んだものたちの霊のところに行かれて、み言葉を宣べられたというペテロの記述から、(Tペテロ3:19−20)死者の救いの可能性を説くのも、根拠が弱すぎる。ペテロはそこで救いの可能性を示唆していないし、このような記述は聖書の中で一回きりなのである。それに比べ、死後の救いを否定する明確な聖書の記述が、いくつもあるからである。



 ペンテコステ教会がそのような誤りに陥るのは、今に始まったことではない。たとえば先にも記した、宣教の賜物としての異言という理解も、使徒の働きの中に、一度だけしか記録されていない出来事を取り上げ、ずいぶん無理な読み方をしてそこから導き出したものである。また、現在でも私たちの仲間が聖書的と信じている「預言としての異言」も、はなはだ怪しい聖書解釈に立つ。異言を解くという事柄についての言及は、一度だけではないとしても、それが預言としての異言であるという説明は一度もないし、そのように解釈するには、資料が少なすぎるだけではなく、そうではないと解釈すべきかなり明確な言及がある。パウロはその一連の教えの中で、はっきりと、「異言は神に対して語るのである」と言っているのだから、(Tコリ14:1)神から人間への語りかけである預言ではありえない。



 しかし、私たちの間では、「異言という形で与えられる預言」という理解が一般化されているために、いまそれを変えるのは容易ではない。そして今でも、そのような「預言」が、集会の中で実行されているのである。そういう曖昧な聖書解釈を背景に持つ、私たちの信仰と実践が、さまざまな曖昧さを許す環境を作り出しているのである。



 ペンテコステ神学の中心である、聖霊のバプテスマが、普遍的なものであり、すべての信徒に祈り求められるべきものであるという理解は、まじめな聖書解釈から、充分に立証できるものである。その点で、私たちは福音派の非ペンテコステ的神学者の言うことを恐れる必要は、まったくない。しばらく前までは、福音派の人々に、聖書の解釈などという難しい学問を持ち出されると、無学なただの人間にすぎない私たちは、それだけで恐れ入って返す言葉もなかったものだが、今はそうではない。それが良いことか悪いことかの判断は神にお任せするが、私たちの間にも、神学を学問的に論じることが出来るものが現れてきた。



 聖霊のバプテスマが、宣教の力に関わるものであることは、聖書によって明確である。また、異言が聖霊のバプテスマの印となりうるものであることも、聖書によって疑いのない事実であると証明されている。そればかりか筆者は、むしろ、異言は聖霊のバプテスマの印として与えられるのではなく、聖霊のバプテスマの必須要因であるために、印としても機能していると、聖書によって判断している。そして、その異言はすべてのクリスチャンが語るべきものである。まじめな聖書の学びからは、異言の伴わない聖霊のバプテスマなどはありえない。そのような聖霊のバプテスマの可能性を認めることは、グレーゾーンを許す曖昧さと同じである。



 実際には、パウロの時代にも異言を語らないクリスチャンがたくさんいた。しかしパウロは、彼ら全員が異言を語ることを望むとはっきり言っているように、異言はすべてのクリスチャンに与えられる賜物である。しかしその賜物をまだ受けていないもの、受け損ねているものもいた。救いがすべての人間を対象に提供された賜物であるにもかかわらず、まだまだ救いを受けていない者がたくさんいるのと同じである。



 私たちは、ペンテコステ神学の基盤が、崩れそうな砂の上に立つ、脆弱なものであるかのような錯覚を捨てるべきである。そのような錯覚は、本当に脆弱な基盤に立つ、怪しげな信仰とその実践を許してしまうからである。ペンテコステ信仰は、曖昧な聖書解釈に立つ信仰ではないと、しっかり自覚しよう。そして、自分たちの信仰と実践から、曖昧な聖書解釈に立つものを排除する気迫を持たなければならない。



Z.結び



 聖書には、私たちが知りたいすべてのことが書かれているのではない。神が私たちに必要であると認めた、すべてのことが記されているのである。だから、ただ知りたいからということだけで、無理な解釈を聖書の中に持ち込んではならない。聖書が曖昧に残している部分は、曖昧でいい。それが私たちにとって大切な問題ではないと、神が判断されたゆえに、曖昧にされたままなのである。



 イエス様も、パウロも、ペテロも、そのほかどのような使徒も信徒も、伝道や教会の発展のために地域霊の追い出しをしたという記録は、聖書には残されていない。先祖や家系に憑く霊の力を断ち切る話も、聖書にはない。倒れることが祝福の印だという話も、倒す伝道者が神の力を持っているという教えもない。笑うものが祝福されているという教えもないし、笑ってはならないという禁止もない。教会は使徒職を保ち続けなければならないという教えも命令もない。神様の祝福を受ければ、必ず物質的繁栄を楽しめるという教えも、聖書にはない。レーマの言葉を用いれば、願い通りに行くという教えも、聖書にはない。そのような、「ない」ところから信仰の重要要素を引き出し、それを宣教と牧会の重要実践課題とするは、私たちのやるべきことではない。私たちはグレーゾーンの信仰を止めて、明確な聖書の教えに立つ信仰に、固執すべきである。



 ペンテコステ運動が、これからも正しく発展し続けていくことは、私たちの切望である。そしてそれは、単に外的な体験だけに頼る信仰ではなく、聖書に立脚した正統な信仰であり続けてほしい。しかし、もしも私たちがグレーゾーンに迷い込み、ペンテコステ運動の怪しげな信仰を許し続けるならば、それは限りなく混合宗教化し、アニミズムの混迷の中に溶け込んでしまうであろう。宗教と宗教が出会うところに、ある程度の混合化は避けられない。ペンテコステ信仰はいま、宣教の最先端を担うものとして常に土着の宗教との接触をし続けなければならない。その中で、戦うべき部分と、融和していく部分の選択は容易ではない。私たちは坊主憎けりゃ袈裟までもという態度は、改めなければならない。しかし、聖書が明確に語っていない事柄を自由に解釈し、自分たちの考えや経験をそこに読み込んでいくと、必ず混合宗教の泥沼にはまってしまうのである。



 しかしまた、私たちは注意しなければならない。グレーゾーンに迷い込んでいる人々を直ちに排斥してはならず、排除してもいけない。私たちアッセンブリーの交わりのすばらしいところは、寛容性である。私たちの交わりは、巨大な渦巻きのように強力な求心力を持ってきた。多くの周辺的な、怪しげな信仰と実践を内に抱えながら、彼らを外に追い出すのではなく、内へ内へと引き寄せ、中の聖書的真理に向けて流れるようにしてきたのである。中にはあまりにも周辺に行き過ぎて、求心力を離れ、遠心力に乗って飛び出していった者たちもいる。しかし私たちの交わりは、みな、多かれ少なかれ誤りを持ちながら、全体として中心へと流れる、すなわち聖書の教える大きな真理にとどまる運動として、ここまで発展してきたのである。一面においてはグレーゾーンにいながらも、他の面においてはまさにペンテコステ信仰の中心で、求心力となっている人々もいることを、心にとめなければならない。



 現在、ペンテコステ信仰の正当性は多くの伝統的教会によっても、積極的に認められるようになってきた。しかしペンテコステ信仰のグレーゾーンの部分に着目し、これに焦点を合わせ、厳しく追及してくる人々も後を絶たない。彼らの追及のかなりの部分が真実である。そのために、渦潮の中心が見落とされ、ペンテコステ運動全体の信用性、信頼性に、疑問符がつけられている。ひとりの立派な人間の、すべてが立派なのではなく、醜い部分もある。一人のペンテコステ信仰の持ち主の信仰理解や生活には、賞賛すべき点も非難されるべき点もある。そのような人間が集まって運動となっている。もともとペンテコステ運動は、神が無学の素人たちを用いて起こされた運動である。だから、その始まりから、多くの間違いを内包してきた。それを隠す必要も、擁護する必要もない。しかし無学な素人集団として、正直に、聖書と向き合う人々の運動でもあった。



 ペンテコステ信仰は、大局的に見るならば、まさに、単純に聖書の教えに留まろうという信仰である。それが、多くの間違いの中で、ペンテコステ運動が正真の聖書信仰の運動として保たれてきた理由である。そこが大切なのである、ペンテコステ信仰は、聖書の権威が失われた時代、その権威を信じた信仰であり、神の臨在が忘れられた時代に、聖霊のバプテスマという体験を通して、神の臨在を強烈に感じた信仰である。教会に与えられた神の権威と力がないがしろにされ、教会に命じられた宣教の責務が、置き去りにされようとしていた時代に、聖霊のバプテスマという体験をとおして、神の権威と力を再確認し、それを持って世界宣教に打って出た信仰である。このような信仰の高揚こそが、大きな求心力として働き続けた渦潮である。私たちには、信仰のグレーゾーンに迷い込んでいる余裕はない。かえってこの求心力の渦潮をしっかりと保ち、グレーゾーンにいる方たちが、聖書の信仰の中心に向けて流れていくように、仕向けなければならない。この21世紀も、ペンテコステ運動が健全な運動として継続していくためには、これは絶対に必要な条件である。

                                おわり









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2010年11月07日

だいぶ怪しげなペンテコステ信仰 (1)


  だいぶ怪しげなペンテコステ信仰
(間違いだらけの信仰から、正しい信仰へ)



 著者は、先日「ちょっと怪しげなペンテコステ信仰」という小文を著し、教区で共に働く方々のお役に立てばと願って、失礼を省みず配布した。しかし、その文を閉じる段階にいたって、さらに論点を明確にしなければという思いが募ってきた。論じているうちに、問題の深刻さと緊急性がさらに明らかになってきたからである。そこで、先の結論を掘り下げ補強するために、もう少し書き進めたいと考えた。



T ペンテコステ信仰の怪しげなスタート



 どのような国家でも、あるいは都市や村落でも、自分たちの歴史は美化して語る。宗教では、さらにそれが著しい。私たちペンテコステ信仰を持つものもまた、自分たちの「美しい」信仰のルーツを教えられて育った。しかし多くの場合、物事は美しい側と醜い側とで成り立っている。ペンテコステ信仰も例外ではない。


 
 TA ペンテコステ信仰の発生源



 ペンテコステ信仰は、聖霊と聖霊の働きを強調する、ホーリネス運動の一端として発生した。ホーリネスの人々は、聖霊による聖めの体験を、第二の恵みとして独自の神学を発展させた。つまり、きよめを単に段階的なものに終わらせず、聖霊による「瞬間的なまったき聖め」と言うものがあることを主張し、それを体験することがクリスチャン信仰に欠かせないと強調したのである。彼らの中のあるものたちは、その瞬間的聖めの体験を「聖霊のバプテスマ」と呼んだ。



 いまも活動しておられる聖霊が、聖めを達成させて下さるというのは、正しい聖書理解に立った信仰である。聖めは確かに聖霊のお働きである。また、聖霊のバプテスマと聖めには、なんらかの関係があるということも、新約聖書全般の教えから推測できるであろう。しかしその聖めの体験が、聖書が記録するペンテコステの体験であると主張することは、論理的に無理である。彼らの、聖めを求める真摯な信仰を軽んじるのでも、彼らが聖霊のバプテスマと呼んだその霊的体験が、多くの場合、正真の聖霊体験であったことを否定するものでもない。しかし瞬間的まったき聖めという体験は、あくまでも、本人が聖められたと感じるだけの、なんら客観性を伴わない、まったく主観的な体験である。



 一方、聖霊のバプテスマは客観性を伴う出来事であった。ペンテコステの日の聖霊のバプテスマにも、他の3つの聖霊のバプテスマの記述にも、それが聖霊のバプテスマであると、周囲のものが判断することが出来る、客観的なできごとが付随した。聖書に残された合計4つの実例のうち、ペンテコステの日の聖霊のバプテスマ、コルネリオの家での聖霊のバプテスマ、さらにエペソの弟子への聖霊のバプテスマには、明らかに異言が伴い、もうひとつのサマリヤの場合も、異言が伴ったと推定するのがもっとも自然な現象が伴った。さらにコルネリオの家の例では、異言が聖霊のバプテスマが与えられた証拠として機能しただけではなく、それは、間違いなく救いの事実を示すものと判断された。そしてこの判断は、ペテロとその同行者だけにではなく、エルサレムの使徒たちや長老たちを含めて、弟子たちすべての見解であった。



 使徒の働きの4つの例のうち、サマリヤの場合では、ペテロとヨハネの二人が、聖霊のバプテスマは、救われたものすべてが受けるべきものと考えていた事実が、明白である。エペソの弟子たちの場合では、パウロが同じように考えていたのが明白である。そして、その実例を記録したルカのみか、それを読んだであろう当時の人々が、それを当然と考えていたと判断できる。



 聖霊のバプテスマは、バプテスマのヨハネが予言しただけではなく、主イエスが「求めるものには必ず与えられる」と約束してくださったものであり、(ルカ11:13)また父からの約束でもあった。(使徒1:4)弟子たちはみな、それらのことをよく理解していたに違いない。そしてペテロは、この約束が時代と場所を越えて、すべてのクリスチャンに与えられていると語っている。(使徒2:38:39)



 ところが、瞬間的まったき聖めの体験は、初代教会の歴史に記録されていない。当時多くの人に、広く一般的に体験されていたという記録どころか、ただひとりの体験としても記録されていない。つまり、聖書の中に模範とすべき前例が、まったくないのである。新約聖書のほかの書物も、それについては一言も語っていない。すべてのクリスチャンに勧められるべき一般的体験としても、個人の特異な霊的体験としても、教えても触れてもいない。



 著者はホーリネス系の集会に出たことも、著書を読んだことも僅かしかないが、イザヤの聖めの体験が引用されていた記憶がある。確かに、イザヤの体験はまったき聖めの体験に類似している。しかし、それを瞬間的な、まったき聖めとみなすには無理がある。その上、イザヤの体験はあくまでもイザヤの体験であって、他の人間にも広く適応され、みんなが同じ体験をするようにとは、教えられても勧められてもいない。



 またホーリネスの人々の中には、バプテスマのヨハネの預言を引用して、瞬間的聖めの体験が聖霊のバプテスマであると主張する人たちもいる。ヨハネが「聖霊と火のバプテスマ」と語ったのを、「聖霊のバプテスマすなわち火のバプテスマ」と理解し、火は焼き聖めるものであるという連想から、聖霊のバプテスマは聖めのバプテスマであるという考え方を発展させた。この考え方は、私たちペンテコステの信仰を持つ人々の中でさえ、現在でもかなり一般的である。



 だが、ヨハネが預言した聖霊のバプテスマは、同時にまた、火のバプテスマなのではない。この言葉が含まれている文脈、すなわちヨハネの言葉の前後関係を見ると明白であるが、火のバプテスマとは裁きのことであって、聖霊のバプテスマとは別のバプテスマである。聖書の中に、自分たちに都合のいい言葉や言い回しを見つけ出して、それを前後関係から切り離して用いる方法は、いろいろなクリスチャンたちによって頻繁に行われてきたが、明らかに誤った聖書の用い方である。

 

 そういうわけで、瞬間的なまったき聖めという主観的体験を、たとえそれが正真正銘の聖霊体験であったとしても、教理として公に告白してそれを教え、それを求め、体験するように指導するのは、明らかに誤りである。聖書の土台、礎に上に立っていないのである。



 このホーリネス信仰が、ペンテコステ信仰の母体となったのである。ペンテコステ信仰は、ホーリネスの聖書外主観的体験信仰をも、受け継いだ信仰であった。だから私たちペンテコステ信仰は、単に体験主義的なところがあるだけではなく、生まれたときからすでに、主観を大切にして、聖書外体験を容易に受け入れてしまう、素地を持ってきたのである。つまりアッセンブリーズ・オブ・ゴッドの信仰は、たとえどのように真摯な信仰態度から生まれたものだとしても、聖書の正しい理解から生まれたのでも、正しい聖書解釈によって、聖書に基盤を見出すことが出来る体験から生まれたのでもない。いわば、怪しげなグレーゾーンのクリスチャン信仰体験から、発生したものである。



 TB どこにも見られる聖書外主観的体験



 しかしこのような聖書外の主観的体験主義は、なにもホーリネス信仰に限ったことではない。敬虔主義や神秘主義の中には、常にそのような要素が多かった。また、聖公会やルーテル教会のように、サクラメンタルな様式を色濃く残している教会のことは良く知らないが、福音派といわれる教会の中にも、そのような一面が強く残っている。



 たとえば、彼らは伝道者や牧師、あるいは宣教師となるためには「召し」が必要であると言い続けている。その召しなるものの体験は、イザヤやエレミヤ、あるいはモーセやパウロの召しを引き合いに出したり、パウロ自身が、自分は使徒として召されたと言っているように、読み取れなくもないところを用いたりして、非常に強調されているが、果たして、それがどのような体験なのか、聖書的に説明されることはない。なぜなら、聖書はそのような召しの存在を、否定こそしてはいないが、それが一般化され、誰にでも適応されるべき事柄としては教えていないからである。



 聖書が、誰にでも適応されるべきものとして語る召し、すなわち一般化されるべきものとして教える召しは、神の国への召し、永遠の命への召しであり、救いと同義語である。特別な職制への召しなどというのは、新約聖書が教えるところではない。しかし福音派のほとんどすべての教会が、このような非聖書的な主観的体験を強調し、一般化して、信徒たちを拘束している。伝道者や牧師になりたい人々、あるいは宣教師になりたいと願っているまじめな人々に、そのような聖書外の体験を強要することによって落胆させている一方、そのような体験がないのに、体験したと平気で言うことができる性格の人々を、伝道者や牧師に仕立て上げ、聖書外の主観的体験を、むやみに神聖化する傾向を作り上げているのである。私たちに必要なのは、そのような聖書外の体験主義をきっぱりと捨てて、聖書に戻ることである。



 そういうわけで、私たちペンテコステ信仰の発祥が、ホーリネス運動の聖書外主観体験の中にあったことは明白である。しかし、それをいつまでも恥じる必要はない。私たちは組合教会や長老教会が歴史の上で果たした、素晴らしい役割を知っている。メソジスト教会や救世軍の働きのために、神様を賛美する。しかし、これらの教会の発祥を尋ねるならば、妻を追い出し他の女性と結婚したいという、イギリス国王ヘンリー8世の願望から生まれた、イギリス国教会に至ることをも知っている。この国王は結局6人の妻を迎え、少なくてもそのうちの2人を殺した。始めが悪いからといって、最後まで悪いのではない。



 TC ペンテコステ信仰の体験主義
 


 そういうわけで、ペンテコステ信仰には当初から強い体験志向があり、聖書の教えを深く調べることよりも、見ること、聞くこと、体感できることに重きが置かれた。癒しや奇跡が重視されたこと自体は間違いではない。しかしそれらが行き過ぎて強調され、誇張され、拡大されて伝えられるようになり、信頼できない報告が次々と出された。異言を語るということに関しても、かなりの作り話があったらしい。アグネス・オズマンが中国語で異言を語ったとか、中国語を書いたとかいう話も、パーハムの創作と見られる。倒れるだとか恍惚状態になる、あるいは夢を見る、み声を聞く、さらに預言をするなどということも、大げさに伝えられた。そのような体験をすることが神の祝福の証拠とされ、そのような体験を伴う働きをすることが、神の権威を受けた偉大な伝道者の印であると考えられた。そのために、無理にでも、つまり人為的に、そのような体験を作り出そうとするものも多かった。



 それにもかかわらず、ペンテコステ信仰の体験主義は、単なる体験主義で終わらなかった。それは、聖書の記述と教えにしっかりとした基盤を見出したことによって、体験を伴う聖書的信仰となったのである。ペンテコステ信仰者が、最も大切な体験として主張する、異言を伴う聖霊のバプテスマという体験は、初代の教会の歴史を記した使徒の働きの中に、充分な前例を読み取ることが可能であるし、それが当時一般のクリスチャンの間に広くいきわたっていたことも、疑いのない事実として読み取ることが出来る。そればかりか、その体験はむしろ、すべてのクリスチャンが求めるべき体験であるということも、ルカが記録したキリストご自身のお言葉で、疑いのない事実と認められる。またバプテスマのヨハネの預言や、パウロが残した異言に関する教えからも、ある程度擁護することが出来るものである。(拙著「聖霊のバプテスマと異言」「聖霊のバプテスマについての考察」参照)



 ペンテコステ信仰の体験が、聖書に基盤を持つ信仰体験であるという点が、非常に大切なのである。それは、単なる主観的体験ではない。あるいは主観的信仰体験だけでもない。正真な聖霊体験であるというだけでもない。聖書に記されている聖霊体験だということだけでもない。むしろ、すべてのクリスチャンに求められるべき、聖霊体験であり、異言という客観的出来事が伴う聖霊体験であると、聖書が明らかに示していることが大切なのである。 



 ところが、私たちペンテコステ信仰を持つものは、ペンテコステ信仰の発祥から今に至るまで、聖書の明確な教えとしての聖霊のバプテスマの体験と、聖書に明確な教えを持たないさまざまな体験とを、区別することが出来ないままでやってきた。自分たちの信仰のあり方に確信を持てず、自信がないために、非難や反対意見には激しく反発したとしても、明確な聖書的基盤に立った説明ができずに、癒しや奇跡、あるいは教会の急速な成長や、自分の信仰体験を持ち出す、体験主義的答えでごまかしてきた。それが、ペンテコステ信仰のトラウマであり、非常に怪しげな体験主義信仰に陥らせてきた、大きな要因である、



 ペンテコステ信仰の極めて初期、揺籃期から現在に至るまで、実にさまざまな体験主義が、この信仰形態を不透明なものにしてきた。主観的な信仰体験が重んじられ、それが神聖視されて行く一方、聖書理解が曖昧だったために、その主観的信仰体験に基づくさまざまな教えや実践が、ほとんど無批判に採り入れられてきた。そのような体験をしたことのない外部のものの批判は、あまり、耳を傾けてもらえなかった。「聖霊体験は、神体験である。それを批判することは聖霊に対する罪である」と考えられ、悪魔呼ばわりされた。実際、ペンテコステ信仰を持つもの同士でさえ、自分の主観的体験やそれを基にした理解を絶対視するあまり、他の考えを持つものを悪魔呼ばわりするのが、かなり一般的であったし、ペンテコステ信仰を持たない福音派の人々が、ペンテコステ信仰を持つものや、その信仰、行動などを悪魔呼ばわりするのも珍しくなかった。まさしく、泥仕合である。



TD ペンテコステ信仰の真髄と道徳的脆弱さ



 そのような中でペンテコステ信仰は、現在も聖霊というお姿で私たちと共に生き、ともに働いておられるキリストを強調し続けて来た。イエス・キリストは昨日も今日もとこしえまでも変わることがないというのが、ペンテコステ信仰の旗印である。そしてその信仰の中には、異言を伴う聖霊のバプテスマの体験も、癒しや奇跡、あるいは悪霊の追い出しも含まれていた。新約聖書の中では、奇跡や癒しのみ業は、キリストの神性と神の国の到来の証として機能したが、ペンテコステ信仰の中では、キリストが聖霊を通し、いまも変わりなく働いておられることの証明となった。



 しかしその一方で、癒しや奇跡の悪霊追い出しは、そのような働きをしているものが、聖霊のバプテスマを受けて聖霊の力に溢れている証拠として用いられ、キリストの権威をいただき神の承認を受けている、証明としても用いられて来たという、大きな誤りがあった。



 ペンテコステ信仰の、奇跡的み業に対するこのような誤った理解は、たちまちある種の英雄主義、個人崇拝主義、独善主義、権威主義、誇大宣伝、誇大報告などにつながって行ったりもした。ペンテコステ運動は、極めて初期の段階から、そのような自己顕示欲に振り回された伝道者をたくさん輩出し、多くのクリスチャンたちの心を痛め、一般の人々の揶揄と嘲笑の種となった。



 それは、聖書外体験を大切にする信仰と、無関係ではないと考える。正真の聖書的体験ではない、単なる類似体験には、聖霊が関わっておられない体験も多い。また人為的に作り出された体験には、当然のことながら、本当の聖霊の臨在感が伴わない。結果として神への畏れと敬虔が薄れ、不道徳も蔓延することになった。キリストご自身のお言葉や、黙示録の言葉によっても、大きな奇跡や癒しの働きをするものは、なにも神の働き人だけではなく、偽預言者や偽キリストも、同じことをさらに大がかりにやることがわかる。選民を惑わし、諸国の民を惑わすものも現れるのである。



 さらに、ペンテコステ信仰がホーリネス信仰を継承し、聖い生活を強調したこと自体は誤りではなかったが、瞬間的聖めという聖書外体験を重んじてしまったために、本当に聖霊に信頼して、毎日の生活の中で段階的に聖めを実現して行くことに、弱さをさらけ出す側面があった。また、瞬間的聖めの強調のために、聖霊が毎日の生活の中で働いてくださることに対する信頼が薄れてしまい、自己の鍛錬や修練による清い生活が強調され、パリサイ的な律法主義に陥ることもあった。なにしろ、短期間の訓練しか受けたことのない、素人に毛が生えた程度の指導者が大部分だったのである。あまり厳しいことはいえない。



 一方、ペンテコステ信仰の道徳的脆弱さという問題は、彼らが育った文化背景によっても、もたらされたものである。ペンテコステ信仰は、極めて低い社会階層の人々によって始められ、圧倒的に、そのような階層の人々の間に広まったという事実を、見逃してはならない。単に教育程度が低かったというだけではなく、モラルにおいても、その目指すところ、告白するところこそは高かったが、実践においてはとても弱いという現実を露呈している。先に挙げた問題のほかにも、異性問題、金銭問題を中心に、人種差別、分裂分派などの醜い問題が続発した。ペンテコステ信仰は実にそのような混沌の中で成熟して来たのである。



 感謝なことに、ペンテコステ信仰は、そのような醜い混沌の中に埋没してしまわなかった。それは結局のところ、聖書が誤りの無い神の言葉であり、自分たちの信仰と生活の、唯一絶対の権威ある指針であると認め、神は今も昔と変わりなく働いておられると信じ、その延長としての異言を伴う聖霊のバプテスマを体験するという、ペンテコステの信仰の真髄があったからである。真実の聖霊体験は、神に対する畏れと愛を引き起こし、汚れから遠ざかり、神に喜ばれようという願いを引き起こすのである。
                                    つづく














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2010年11月08日

だいぶ怪しげなペンテコステ信仰 (2)



TE 健全な聖書理解に立っていることを認識する大切さ



 大切なのは、このペンテコステ信仰の真髄が、健全な聖書理解に立脚しているという点である。それは誰かが意識して、進んだ聖書学や神学の知識を駆使しながらやったことではない。素人的な単純な聖書の理解が、たまたまそこに導いただけかもしれない。しかし、健全な聖書理解に基づいているという重要な事実だけは、しっかりと捉えておかなければならない。なぜならそれは、自分のペンテコステ信仰の中に付随する、不透明なもの、不可解なもの、怪しげなもの、すなわちグレーゾーンの信仰、聖書外体験信仰を明確に判別し、取り除くことが出来るようになるための、重要な一歩だからである。



 私たちアッセンブリーズ・オブ・ゴッドにとって幸いだったのは、交わりの創立当時、ケズィックの流れを汲むものや、バプテスト系の人々が大勢参入してきたことである。彼らとて、決して高度な学問を積んだ人々ではなかったが、ホーリネスの体験主義と、その帰結である第二の恵みの神学を持っていなかったことが、大きく貢献した。このことによって私たちは、ホーリネス系のペンテコステ信仰から離れ、バプテスト系のペンテコステ信仰を持つものとなり、極端な体験主義が和らげられることになったのである。



 一方、ペンテコステの信仰が広がりを見せたとき、ホーリネス信仰を持つ多くの人々がこれを受け入れなかった。クリスチャン・ミッショナリー・アライアンスは、「求めもせず、禁止もせず」という、柔らかな拒絶をした。ペンテコスタル・ナザレンは、ペンテコステ信仰の団体と誤解されるのを嫌い、ペンテコスタルを削除して、ナザレンと改名した。彼らがペンテコステ信仰を拒んだ理由は、正当な聖書の学びによって、聖霊のバプテスマの教理が間違いであると判断したからではなく、ペンテコステ信仰を持った人々の、無秩序な、乱痴気騒ぎに見られる極端な体験主義、道徳的低さという、表面的現象を嫌って、すなわち、あくまでも体験主義的感覚から、そうしたのであると考えられる。



 信仰が初歩の段階にある人々が、体験主義的感覚で信仰を判断することは止むを得ない。キリストが、癒しや奇跡という体験感覚で判断できる事柄をもって、ご自分の働きの神的権威を、認めるようにおっしゃっているとおりである。しかし、いつまでもそのような段階に留まっていてはならないのである。特に信仰の指導者たるものは、しっかりと聖書の教えに立たなければならない。



 私たちアッセンブリーズ・オブ・ゴッドは、いまや単なる体験信仰に依存する必要はない。むしろ、しっかりとした聖書理解に基づく信仰が、私たちの信仰である。そしてその聖書の教えを、私たちはいま、現在も生きて働いておられる聖霊によって体験しているのである。私たちは聖書外体験、グレーゾーンの体験を、ことごとく否定する必要はない。個人のまじめな体験として、それらはあり得るだろう。しかし私たちはそのような体験を、すべてのクリスチャンが体験できるもの、あるいはすべきものとして公に教え、それに立って神学を構築し、教会を建て、伝道を進めることを拒絶するのである。



U 現在も継続している怪しげな信仰



 ペンテコステ信仰は、現在に至るまでグレーゾーンの信仰を許容し、肯定し、実践しながら発展してきた。そこでは、聖書外体験の信仰と実践が、正しい聖書理解に立脚した信仰と実践に混在したまま、増幅してきたのである。それが、モラルの低さにつながり、目も当てられない状況を作り出してきた。私たちが、ペンテコステ信仰の先駆者として教えられてきた人々の多くが、さまざまな道徳的問題、教理的な問題、伝道の手法の問題を抱えた人々であり、清純なキリスト教信仰を愛する、私たち日本の儒教的キリスト教徒からすると、まさに情けない限りである。



 ペンテコステ信仰の、スタート時点での怪しげな信仰形態は、いまも、ペンテコステ信仰の中に脈々と流れていると言える。それは実に多くの人々の批判と非難を受けてきた。しかし残念なことに、すでに述べたように、体験主義者たちの多くは、自らの体験をほとんど絶対化し、外部の者たちの言うことに耳を貸さないで来た。体験主義者たちの側からすると、外部のものは自分たちの体験を共有しない人間、すなわち良くても霊的レベルの低い人間たちであり、自分たちを迫害するものたちであり、悪く言うとまさに悪魔的でしかなかった。反対したり非難したりするものたちの側からしても、ペンテコステの連中は、まじめな聖書的忠告に聞く耳を持たない、悪魔に操られた人々であった。ペンテコステ信仰の発祥の時代とまったく変わらない、実りのない中傷合戦が長い間続けられてきたのである。



 そういうわけで、ここで、ペンテコステ信仰の初期の段階から存在したグレー信仰、すなわち聖書外体験信仰の代表的なものをいくつか取り上げ、少し説明を加えておくことにしよう。そうすることによって、今、私たちの周辺に聖書外体験に基づく信仰や実践が、数多くあることに気づくだけではなく、私たち自身の信仰や実践の中からもそれらを識別し、排除することも出来るだろう。それがペンテコステ信仰を浄化し、シンクレティズムに陥るのを回避させ、正しく継承されていくことにつながるに違いない。



 ペンテコステ信仰が、今のまま強い体験主義的傾向を持ち続け、聖書外体験を見分けることが出来ずに、そのまま容認し、自分たちの信仰と実践として行くならば、ペンテコステ信仰者のかなりの部分が、シンクレティズムの中に埋没し、消滅していくことになるのが、目に見えているからである。実際、ペンテコステ信仰と土着の信仰との癒着は、すでに多くの場所で報告されている。



 UA 後の雨



 現在、私たちの周囲でもっとも強い影響力を持ち、さまざまな形で奉じられ、実践されている聖書外体験に基づく信仰は、後の雨(レストレーション)の教えである。後の雨がひとつの運動として形をとって現れたのは、1948年のことであるが、その源は遠く、デスペンセーショナルな考え方の中にあると思われる。デスペンセーションの超字義的解釈は根本主義として、一方では、南バプテストなど福音的な教会に強い影響を与えると共に、他方では、モルモン教の考え方やエホバの証人の教義にも、強い影響を及ぼした。それはまた、ホーリネス運動の再臨待望の信仰にも現れている。したがって、1914年に設立されたアッセンブリーズ・オブ・ゴッドの信仰の中にも、それはごく自然に流れ込んでいる。(ただしアッセンブリーズ・オブ・ゴッドは、非常に緩やかなデスペンセーショナリストである。)



 1910年、ダビデ・ウエスレーという人物が、「後の雨の契約」という本を出版した。そこで強調されたことは、デスペンセーションの流れに乗りながら、デスペンセーションの基本に反したもので、聖書の字義通りの解釈に対する、タイポロジー的解釈や霊的解釈の優位性であり、当時、かなり一般的に流行っていたものである。このような考え方によって、厳格な字義通りのデスペンセーションの歴史理解の上に、極めて自由な聖書解釈を積み重ねることが可能になり、体験主義的信仰の勢いを増すことになったのである。



 設立当時のアッセンブリーズ・オブ・ゴッドの指導者たちは、このような聖書解釈法を退けたが、一般大衆の中から、その間違いを完全に取り除くことは出来ず、広がりを阻止することもできなかった。本当のところ、聖書学校の初等教育さえ、充分に受けていない伝道者たちが多かった時代、まじめな注意深い読書方法を基本として、聖書言語や時代背景の知識さえ要求される、難しい字義通りの解釈より、タイポロジーや霊的解釈の方がずっと易しく、受け入れられやすかった。また、当時のクリスチャンたちの間で流行となっていた、「新しい真理の発見」も、厳格な聖書の学びによるより、思いつきやひらめきによって、行われるほうがずっと容易だったのである。



 1948年に至って、カナダで聖書学校の校長をしていたジョージ・ハウティンという人物が、所属していたカナダ・ペンテコスタル・アッセンブリーを離脱して、世界中から人々を集める大きなキャンプ集会を開き、後の雨運動を開始した。直接的には、このキャンプ内で彼の兄弟アーネストが按手に関する預言をし、使徒職や預言者職の回復を告げたところから始まった。この運動は40年も前に出版された「後の雨の契約」の、誤った聖書解釈法を大幅に取り入れたもので、特徴を挙げると次のようになる。



@ エペソ書4章に記されている5職の回復。特に使徒職と預言者職の回復に重点が置かれた。彼らはこれらの職を通して、聖霊が今日語ろうとしておられることを示すと主張し、彼らによって主張されたこと、あるいは預言されたことは聖書と同等の権威を持つものと考えられた。

A キリストのみ体である教会の完全な一致。これは、単にすべての教会が理解しあって一致するというものではなく、回復された使徒と預言者による、新たな教会の秩序によってもたらされる一致であり、既成の教会や教団の崩壊を意味していた。

B 個人預言の回復。使徒や預言者によってもたらされる個人に対する預言は、実際上聖書以上の権威を持ち、個人の信仰の規約・規範となり、道しるべとなる。

C 按手の回復。使徒および預言者の職を始め、さまざまな役職や霊的賜物が按手によって回復され、分与される。



 このような後の雨の誤った教えを憂慮したアメリカ・アッセンブリーズ・オブ・ゴッドは、当時の総書記ロズウエル・フラワーに詳細な調査を委託し、その調査の結果をもとに、1949年の総会で、この運動の教えを誤りであると断定し、支持しないことを正式に決定した。その決定では次の諸点が、聖書的根拠を持たないものとして退けられている。



@ 按手と預言によって聖霊の賜物を分与したり、賜物が何であるかを明確に語ったり、賜物を授けたり、賜物が間違いなく与えられていると確認したりすることが強調されすぎている点。

A 教会が、現在の使徒と預言者という土台の上に築かれていると教えられている点。

B 罪の告白は人間に向かって行われるべきであり、それによって赦しと開放が確実にされると教えられている点。

C 異言の賜物は、宣教の働きのために実在する言語を語ることができるようになる、特別な能力の付与であると教えられている点。

D 個人預言を用いて神の導きといわれるものを強要する点。

E 聖書を曲解させる神学的解釈法が実践されている点。



 この後の雨運動自体は、アッセンブリーズ・オブ・ゴッドによって正式に否定されたこともあってか、その後急速に衰えたが、その教えはアッセンブリーズ・オブ・ゴッドの中にさえ密かに浸透して行った。また、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド以外のさまざまなペンテコステ信仰者の中では、かなりあからさまに実践されて来た。



 もともとアッセンブリーズ・オブ・ゴッドはペンテコステ体験という共同体験を基にした、緩やかな信仰の交わりであり、信仰告白を採択したとは言え、それは信仰告白に反する教えやその実行者たちを厳しく探し出し、追放するような意図ではなく、かえって不確かな信仰を抱いているものに指針を与えようとするものであった。だから、アッセンブリーズ・オブ・ゴッドの交わりの中には、誤った理解や信仰を持つもの、あるいはかなり極端な主張をするものもでさえ、留まっていることが出来たのである。



 またそのようなアッセンブリーズ・オブ・ゴッドは、一般的に、自分たちの交わりの外にいるものにも、極めて寛容であった。つまり、多くの福音派や根本信仰を持つ教会が見せた、拒絶と排斥の態度ではなく、交わりの態度を示してきたのである。またさまざまな間違いや、道徳的失敗を犯した人々とも、直ちに交わりを切る様なことをせずに、回復の時を待ってきた。非常に原理主義的、根本主義的信仰を持っていながら、WCCの人々と会話をしたり、エキュメニカル運動に加わる人を認めたりしてきた。そのような性格によって想定される、あらゆる危険を意識しながらも、聖書の教えに立つという単純で素直な信仰を基礎として、信仰の純粋性を保持してきたのである。これは私たちの偉大な遺産である。



 しかしいま、そのような性格を持っている私たちであるがゆえに、さらに一段と、注意深くなければならない状況が生まれている。それは、この後の雨運動が、気づかれないまま、私たちの中に深く入り込んでいる可能性があるからである。私たちはその事実を知らないでいてはならない。多くの間違った信仰を持っているものを許容するのと、間違いそのものに気づかないまま許容し、自分たちが受け入れて行くのとは異なっている。私たちは、人間を拒絶し排除することには、慎重の上にも慎重でなければならない。毒麦と共に、本物の麦も抜いてしまってはならないからである。しかし、誤りそのものは、厳密に調べだし、排除していかねばならない。



 そういうわけで、ここで改めて後の雨の教えの間違いを、簡単に述べておこう。それはすでに1949年の時点で、アッセンブリーズ・オブ・ゴッドが正式に発表したものと基本的に同じだが、少しばかり説明が必要である。ただし、ここで著者が聖書の忠実な解釈によって、後の雨の間違いを正したとしても、後の雨の推進者たちには、まったく何の影響も与えないだろう。彼らは、自分たちこそ聖書的だと言い、事実、聖書の引用を数多くおこなう。しかし彼らは、自分たちの特異な主張に関する限り、聖書を自由に、霊的に解釈して行うのであって、聖書の厳密な解釈、あるいは正統な解釈などというものには、興味を示さないのである。したがって、著者は後の雨の提唱者たちのためにこの文章を書いているのではない。私たちの同労者のために、警鐘として書いているのである。



@ エペソ書4章11節に記された5つの職を、現代の教会の中に回復しなければならないという主張には、まったく聖書的根拠がない。このことについては、著者はすでにさまざまなところで述べてきた。当時の教会にはそのような働き(職ではない)があったのは事実であろうが、当時のすべての教会に統一されてあったのではない。Iコリント12章28節の働きのリストが、これと異なっていることからも、明らかである。また当時のすべての教会が、このような働きを持たなければならないと、教えられているのでもない。ましてや、時代と場所を越えて、すべての教会がそのような働きを持たなければならないとも、教えられていない。さらにそのような働きを持つならば、教会は成長するとも、持たなければ成長しないとも教えられていない。


 また、当時の教会が、これらの働きを「職」と考えていた形跡はない。「職」というものはもっと後期になって、教会が組織化され、固定化された中で形成されたものである。


 5職の回復の教えは、なんら聖書的根拠を持つものではなく、ペンテコステ信仰の中に流れていた曖昧な聖書理解の伝統による、ひとりの人物の預言によって主張されたものに過ぎない。その預言自体も、予め、キャンプ集会の主催者たちによって、企画されていたものと考えた方がよい。預言という曖昧な権威に立って、使徒職と預言者職の二つの職の権威を高め、それによって、預言自体の権威を高めるという手法である。これは、右足が下に落ちる前に左足を上げ、その左足が下に落ちる前に右足を上げるという動作を繰り返すと、はしごがなくても屋根に上ることができると言うのと、同じである。


 さらに教会は、この回復された使徒と預言者という土台の上に築かれなければならないというのも、まったく聖書の乱用、悪用である。パウロは使徒と預言者という土台の上に建てられなければならないと、これから建てられる教会、あるいは地域教会の、建設の原則を語っているのではなく、すでに存在している普遍的教会が、使徒や預言者が伝えた、キリストを土台として建てられていると語っているのである。(エペソ2:20)パウロは、2000年近くも後の世界の教会が、回復された使徒と預言者の教えと、その権威の上に立てられるべきであるなどと言ったのでは、絶対にない。そのようなことは、まったく想定されていない。


 その上、パウロがここで言う預言者とは、直接神の霊感を受けて語りだす預言者のことを言っているのではなく、そのような預言者をも含めた、より広い意味で、神の言葉を預かってそれを語るもののこと、すなわち、神の言葉をよく学び、神の言葉の知識を蓄え、それを聖霊の感動によって語る人々のことを言っているのである。聖書に書かれている神の言葉と関わりなく、その神の言葉に反するようなことまで含めて、新しい真理を語りだす、預言者の存在を認めているのではない。
 
  
 このように聖書的根拠がまったく乏しい、預言者と言われる人々の語った言葉が、聖書と同等の権威を持つものとして受け取られるに至っては、プロテスタントの原則的な神学に反するものであり、決して受け入れられも、見逃しにされもしない。私たちは聖書以外の権威を持たないのである。ところが、そのようにして語られた現代の預言が記録され、集められ、編纂され、出版されて、一部の人々には用いられているという話も聞く。それはすでに、カルト化現象である。たとえ正真正銘の現代の預言者なるものが存在し、正真正銘の啓示を受けて、正真正銘の預言をし、それが誤りなく記録されたとしても、それは、霊感を受けた神の言葉である聖書と同じ権威を持つものではない。聖書が権威ある書物であるのは、単に啓示の書物だからではなく、霊感を受けた書物だからである。(拙著「現代預言運動に関する考察VI」参照)

 使徒という役職は継続されなかったということに関しては、以前に述べたので、ここでは取り扱わない、


    
A 教会一致運動というのには賛否両論がある。一致すべきかすべきでないかということ自体に、異論があるのだから、どだい、無理な理想、空論である。すべての教会が、せめてアッセンブリーズ・オブ・ゴッドのように寛容な立場を取れば、少なくても、キリストを救い主と信じるという大きな点においては、一致できるかもしれない。教会一致などという夢想を抱くのは、千年期後再臨説を採って、教会の働きによってこの世界が改革され、平和と繁栄がもたらせられたならば、キリストは王として再臨してくださるという、楽観的な考えを持てた時代の、時代錯誤を背景にした神学があるからである。



 キリスト教が圧倒的な力を持っていた環境の中で、他の世界、すなわちアジア、アフリカ、ラテンアメリカなどのことをほとんど理解していなかった時代の教会人が、自らの力を過信して、明確なキリストのお言葉に反して構築した、千年期後再臨説を、いまさら持ち出すことはよろしくない。もちろん、千年期後再臨説は今でも有力な学説であり、それなりに整った議論もされている。しかしそれは、伝統的諸教会の人々、つまり自分たちの教会の力と権力を信じることが出来た世界で、科学万能主義、人本主義も盛んであり、地球の将来に望みを持てた時代に構築された、楽観的神学をいまだに抱え込んでいる人々の、淡い望みの学説としか言いようが無い。



 キリストが、終わりときに関しておっしゃったお言葉に、耳を傾けるがいい。「そのとき、人々はあなたがたを苦しいめに会わせ、殺します。また、わたしの名のために、あなた方はすべての国の人々に憎まれます。また、そのときは、人々がおおぜいつまずき、たがいに裏切り、憎み合います。また、偽預言者が起こって、多くの人々を惑わします。不法がはびこるので、多くの人たちの愛は冷たくなります」と、まさに悲観的に語っておられる。狭い門から入るわずかなものだけが、最後まで耐え忍んで救われるのである。



 このような、キリストの明白な教えに反した千年期後再臨説が、教会成長の教えと結びついた。教会が強く大きくなり、世俗の力も獲得し、世界を支配するようになることが、キリストが再臨する道を備えるための、絶対必要条件であるという、千年期後再臨説の主張は、クリスチャンの数を増し、教会の力を強くすることが何より大切だと考え、人数の増大を前面に打ち出す教会成長論の方法論と、簡単に癒着するのである。強烈な千年期前再臨説を取る南バプテスト教会出身の人たちは、このあたりで躓くことになるはずだが、どうなのだろう。



 ともあれ、後の雨の教えは、単純な間違いではなく、大きな間違いを集積して構築した、体系である。非常に聖書的、福音的な外観を持ち、福音的な言葉使いをするために、多くの福音的な人々が、よく理解しないまま彼らと共に活動している。しかし実態は、まったく異なったものである。



 先に挙げたアッセンブリーズ・オブ・ゴッドの正式な拒絶のリストには挙げられていないが、彼らの終末観のひとつには、キリストの霊的な再臨というものがあり、それによると、キリストは見える形で再臨するのではなく、いま、選ばれた現代の使徒や預言者という人々の中に、霊的な再臨をしているということである。そしてそのような霊的再臨の使徒や預言者は、按手による権威の分配によって益々数を増やす。そういう再臨のキリストを土台とした、新しい教会の秩序が築かれ(古い秩序は壊され)、この世界に神の国が築かれるという。これはどうやら、(Kingdom now=王国は今、支配は今)と呼ばれる、彼らの神学らしい。このような教えは、もはやカルトである。

 

 注意したいことは、後の雨の主張する教会一致運動が、既存の教会がそれぞれ歩み寄って作り出すエキュメニカルではないという点である。むしろ、そのような既存の教会秩序は崩壊させられ、キリストの霊的再臨である現代の使徒や預言者という、別の土台の上に築かれた教会による、新しい秩序によってもたらされる一致なのである。だから彼らは、既存の教会のさまざまな組織形態を、改革していかなければならない、新しい皮袋が必要だと主張し続けているのである。既存の牧師だとか執事だとかいう役職を取り除き、自分たちが按手によって作り出す、使徒や預言者たちの「再臨のキリストとしての権威」を主張するのに熱心であり、既存の教会の枠を超えた伝道法、たとえばセル・グループなどにも力を入れて、人々をひきつけている。


 
B 個人預言の誤りについてもすでに他の場で述べてきたので、簡単に触れるだけにとどめておこう。まず、一人ひとりの信徒たちが、個人預言に従って行動するようにというのは、聖書の教えではないという点を、再確認しておきたい。新約聖書には、確かに個人預言の例がいくつか記されている。そして、個人預言は消滅したということを、聖書を持って証明することは出来ない。だから、現在でも個人預言はあり得る。しかし、すべての信徒が個人預言を期待して生きるようにという教えも指導も、聖書の中にはない。個人預言に従って生きるようにという教えもない。個人預言によって生きたという神の人の例も、新約聖書にはない。だから、個人預言に従わないことは聖書の教えに反することではなく、神に反逆することでもない。しかし、聖書の教えを学ばず、それをないがしろにし、結果として従わないことは、神に反逆することである。



 新約聖書が完結していなかった、使徒時代、クリスチャンの生き方に対する明確な指導、指針としての新約聖書がなかった時代には、個人預言を含め、預言に対する期待と依存度は、現代に比べはるかに高かった。しかしそのような時代でさえ、一般のクリスチャンが、個人預言を期待しそれによって生きるという信仰形態はなかったし、それが勧められたという形跡もない。これは重要な点である。



 たしかに、使徒時代の教会では、預言が行われていた。しかしそのような預言は記録され、編纂され、広く一般に読まれるようにされたという記述がない。たとえ、仮にそのようなことがされたとしても、それが新約聖書の中に含まれなかったということが重要である。当時、新約聖書のもととなった多くの資料が残されていたが、大部分の預言の言葉は資料として残されず、新約聖書の中に含まれることもなかった。ただキリストに関するわずかな預言が採り入れられただけである。



 ましてや、いまや私たちは完結した新旧約聖書を持ち、神が人間一般に必要であると判断された事柄はすべて、この聖書に記されているのであるから、預言の必要性は非常に小さくなっている。そういうこの時代に、預言が強調されるのは間違っている。その上、現代の預言が記録され、編纂され、出版され、神的権威を持つものとして流布されるなどということは、非常に大きな誤りであり、カルト化しているといわざるをいえない。大切なのは、聖書を書かせてくださった聖霊に、導きを祈りながら聖書を読むことである。 



C 按手による賜物の分与という考え方も、まったく非聖書的というわけではない。確かに、パウロがテモテに語った言葉などから、推測することが出来る。しかし、一度や二度の事例を取り上げてあれこれと推測し、そこから教理や信仰の原則、あるいは教会管理や伝道の原則を作り上げてはならないのである。テモテにそのようなことが実際にあったと仮定し、エリシャがエリヤの力を引き継いだという事例も認めたとしても、それを一般化することは出来ないし、原則化することはなおさら不可能である。



 ましてや、使徒たちの按手によって、さまざまな賜物が分与されるという教えは、聖書のどこにもない。後の雨の人々が教えるような、現代の使徒職や預言者職という権威ある職が、按手によって分け与えられ、引き継がれて行くという考えは、少なくても聖書の教えではない。たとえそのようなことが実際起こったとしても、それは聖書の原則でも教えでもなく、あくまでも聖書外の体験である。その聖書外体験を強調することは誤りである。その誤りに立った教会形成を主張するのも誤りである。そのような教会形成によって、たとえ教会が100倍の力を得、1000倍の人数が集まるようになったとしても、誤りであることに変わりはない。
 


 要するに後の雨の人々は、聖書の字義通りの解釈を捨て、あるいは、本来聖書が言おうとしていることを出来るだけ正確に読み取り、それを現在の状況に適応していく努力を怠り、極めて自由に、自分たちに都合よく、あるときには霊的に、あるときは寓意的に、あるときはタイポロジー的に、そしてあるときは突然字義通りに、文章の前後関係も背景も無視していくところから、自分たちの神学を積み上げてきた。彼らは聖書を用いる。そして、多くの場合、(すべてではない)基本的理解においては、福音的な立場にいる。だから、彼らの聖書外体験主義を見破ることは困難であるし、彼ら自身が、多くの場合、聖書外であることに気づいていないのだから、判断はいよいよ難しい。そして何となくおかしいなと思いながら、それが何であるか分からない私たちも、聖書外体験を後生大事に抱え込んだ信仰を持っているために、見るべきところも見えないでいるのである。

                                   つづく

























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2010年11月09日

だいぶ怪しげなペンテコステ信仰 (3)


 UB 第三の波の人々 



 現在、ペンテコステの信仰を標榜するものたちの数が、世界中で圧倒的に増加し、ネオペンテコステと呼ばれる人々も急増する中で、かなりの数の福音派の人々が、ペンテコステ信仰を受け入れ始めたことが、あらたな問題を作り出している。彼らは、普通、第三の波と呼ばれる信仰形態を持つ人々である。本来、厳密な聖書解釈に立つ信仰の持ち主であるべき、これら福音派の人々が、ペンテコステ信仰の怪しげな体験主義的信仰形態を受け入れてしまったばかりか、かえってそれを増幅させていると思われるのである。第三の波の提唱者である、ジョン・ウインバーや、ピーター・ワグナーなどという人々を始め、実に多くの著名な福音主義者が、福音主義的な聖書解釈を捨てて、怪しげな体験主義に陥り、ペンテコステ信仰をますます奇怪なものにしているのである。彼らもまた、初めから単なる体験主義者に過ぎなかったのかと思いたくなるほどである。



 彼らの多くは、それぞれの改革派的な、あるいはバプテスト派的な神学によって、現在も私たちの祈りに応え、奇跡を行い、癒しを行ってくださる神を、信じることができない人々であった。しかし、ペンテコステ的な体験をして、奇跡や癒しを目の当たりにすることによって、その神学を覆されたのである。その体験があまりにも強烈であったために、神学を放棄して、体験に走ったのだろうか。彼らの体験主義は、伝統的なペンテコステ信仰を超えている。これは、日本でも見られる現象である。



 実のところ、この現象には、著者は非常に失望している。第三の波運動が始まった頃、著者は、学問的背景が薄く、神学に弱いペンテコステの信仰も、神学に強い改革派やバプテスト系の人たちが加わることによって、改善されるだろうと期待したのである。素人的な聖書主義から、本物の聖書主義の信仰に変化していくのを、待ち望んでいたのである。それは、今のところまったくの期待はずれ、失望に終わっている。今考え直すと、彼らの聖書主義も、もともと心もとないものだったのだろう。



 ところで、第三の波の人々の特徴のひとつは、彼らの多くが、異言を伴う聖霊のバプテスマを体験していないにもかかわらず、聖霊のバプテスマを受けたと主張していることである。自分たちは異言を語っていない。しかし、自分たちは伝統的なペンテコステの信仰を持つ者たちよりも、むしろ多くの奇跡を行い、癒しを行い、悪霊を追い出している。(もう少し言うと)、教会も成長しているし、伝道も活発に行っている。だから、自分たちこそ聖霊のバプテスマを受けているものであると主張している。これこそまた、体験主義であり、聖書の教えに立脚していない。聖書はそのような業を行うことが、聖霊のバプテスマの証拠とも結果とも言っていないし、神の承認を受け、神の権威を帯びている証拠であるとも語っていない。かえって、そのようなことを行う人々に対しては、イエス様ご自身が、「私はあなたがたを全然知らない不法をなすものども、わたしから離れて行け」とおっしゃる可能性を語っておられるのである。



 だから彼らは、体験に基づく曖昧な解釈を用いてではなく、福音派の人間として、自分たちが受けた正統な聖書解釈の手法を持って、異言の伴わない聖霊のバプテスマというものの存在を、証明しなければならない。また、そのようなバプテスマを、すべての信徒が体験すべきであるという主張を、正統な聖書解釈の方法で立証しなければならない。そしてそれは、けっして出来ないことである。だから、彼らは正統な聖書解釈を捨てて、霊的解釈に走っているのである。事実、第三の波運動の源となったジョン・ウインバーは、合理主義を排し、論理的な考え方を止めて、つまり神学を軽視して、体験に重きを置く考え方を提唱していた。それは、啓蒙主義や合理主義、理神論的な考え方を排して、健全な聖書信仰を主張する論理を飛び越え、聖書を理性的に読み、理論的に考察することさえ放棄する、まったく誤った提唱である。

 

 最近、勉強不足な著者にも、やっとわかるようになってきたのだが、実は、これら第三の波の人々のほとんどが、後の雨の神学を受け入れているのである。そのことを当人たちが知ってか知らないでかは別として、それは事実としか思えない。それだけでなく、もともとアッセンブリーズ・オブ・ゴッドの交わりの中から生まれた人たちの中にも、この後の雨の教えに流されて、溺れかけているものがいるようである。



 ジョン・ウインバーは亡くなったが、彼の友人であり後継者でもあるピーター・ワグナーは今、その大きな影響力を駆使して、積極的に後の雨の教えを宣伝している。現在彼が広めている、使徒職と預言者職の回復を始めとするさまざまな教えは、後の雨の教えそのものである。先に挙げた後の雨の4点の主張と、アッセンブリーズ・オブ・ゴッドが非聖書的として挙げた6点を、改めて読み直してほしい。異言が宣教のための言語であるという主張以外は、みな彼らによって、今も主張され続けているのである。



 しばらく前から大きな話題になっている、トロントの笑いのリバイバルは、ウインバーやワグナーに強いつながりがあったし、その運動の飛び火とも思えるペンサコーラのリバイバルも、同じである。そしてペンサコーラはアッセンブリーズ・オブ・ゴッドの教会の働きである。これを通して、後の雨の教えはアッセンブリーズ・オブ・ゴッドの中にも、それと知られないまま広く撒き散らされていった。ワグナーは現在でも、多くのアッセンブリーズ・オブ・ゴッドの教会に受け入れられ、彼らの中で活発に働きを続けているし、日本でも権威として受け入れられている。



 (2000年8月11日、アメリカ・アッセンブリーズ・オブ・ゴッドの総会は、トロントの笑いのリバイバルの誤りに対する、警鐘の文章を採択している。日本アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団は、これを翻訳してすべての教職に配布した。しかし当時の日本の教会は、トロントで起こっている事柄についてはうわさ程度にしか知らず、その内容に至ってはほとんど知らなかったのが実情であった。だからこの文書は、あまり大切にされずに、忘れ去られているのではないかと思う。翻訳を依頼された著者も翻訳しながら、なぜこんなことを言わなければならないのか理解していなかったので、偶然、ファイルの中に英文のオリジナルを見つけ、今はじめて、これを思い出したほどである。だから、後の雨の神学が日本でも広がり、かなりの混乱を巻き起こしている現状を知った今、改めてその翻訳文を探し出して、皆様に配布しようと思っている。)



 ただし、しばらくの間、アッセンブリーズ・オブ・ゴッドの人々の間でも大きな話題になっていた、ペンサコーラのリバイバルといわれる働きは、数年で終焉を迎えた。いろいろな理由があると推測するが、結局のところ、多くのアッセンブリーズ・オブ・ゴッドの人々の「信仰安全装置」にひっかかり、受け入れられも、承認されもせず、情熱は急激に冷えたということも、大きな理由であろう。



 著者はトロントの笑いのリバイバルや、ペンサコーラのリバイバルといわれているものの、すべてを否定するつもりはない。その働きに参加しているすべての人々の、すべてが悪いというつもりもない。実際、素晴らしい神の祝福がたくさんあったのだろう。しかし、それらのリバイバルといわれているものの中には、聖書に立つ信仰という面からすると、かなり怪しいものが含まれていると言わざるを得ないし、まったくの詐欺師や「オカルト的」な人々も活動しているようにさえ思われる。少なくても、正統な聖書の理解に立つ信仰がないがしろにされ、聖書外体験が強調され、主張され、流布されていることは間違いない。



 しばらく前になるが、著者は預言運動について講演することを依頼され、その中で、後の雨についても触れたが、その影響が現在これほど広く深く及んでいるとは、気づいていなかった。日本の片田舎で、ほとんど他の教会や伝道者たちとの交流を持つ機会のない著者には、諸教会で起こっている問題の深刻さが、理解できなかったのである。また、現在日本の預言運動に大きな影響を与えているのは、ビル・ハモンという人物であるといわれているが、彼は、この後の雨の神学の強力な推進者であり、代表的人物のひとりである。何も知らなかった著者は、このビル・ハモンの著書二冊を拝借して読み、その主張の危険性を見出して指摘しておくだけに止めた。(拙著「現代預言運動に関する考察」)しかし今は、体験信仰をもってこの人物の主張を受け入れている人たちは、後の雨の非常に危険な神学を受け入れていることになるという事実を、しっかりと理解してほしいと考えている。当然ながら、ピーター・ワグナーはこの人物とも親交を持っている。



 ところで今年の初めから、著者のもとにリバイバル新聞というものが、毎週送られてくるようになった。これはこの新聞の編集者に請われて、1年間、私も論説を引き受けることになったからである。実は、この新聞を手に取ったことは、1度か2度しかなかったというのが本当なのだが、編集者が、私が書いたものをウエブサイトで読み、依頼してきたのだ。私は、自分が書いていることが、新聞社の立場と基本的に一致するものであると認めてのことかと、確認した上でお引き受けした。そういうことで一部贈呈となったのだが、それを読んで改めて驚いた。記事の大部分とはいえないかもしれないが、(簡単には確認できないため)非常に多くの部分が、第三の波系の人々やその働きの記事で埋め尽くされている。そこで言われていることの非常に多くの部分が、後の雨の神学に基づくものである。



 新聞はジャーナリスティックな物であり、広く記事を集めなければならない。読者の層というものが、編集のあり方に影響する。この新聞を購読しているクリスチャンの多くが、後の雨の神学に、賛同しているか、少なくてもあまり違和感を持たない人々なのだろう。だからそのような内容の記事が多くならざるを得ない。私が危機感を抱いた理由のひとつがそこにある。ペンテコステ系の人々は、彼らの中に始めから流れている、聖書外体験主義的な血のために、今の流行の中にあるカルト性、あるいはオカルト性に気づいていない。それで考えた。自分が選ばれたのは、たぶん、新聞社の中の聖書信仰を重要視する人たちの、良心が働いたからだろう。私の役割は歯止めか毒消し、あるいは中和剤か。ま、たいしたことは出来ないが、私は正統な聖書理解に立った信仰を、語り続けるだけである。



 UC その他の非聖書的な主張



 ペンテコステ系の人々は、一般に、積極思考、繁栄の福音、レーマの神学、さらに自己のイメージの確立(カウンセリングで用いられる)さらには、大々的な集会、その中で用いられる洗脳的な手法などに鈍感である。聖書は間違いのない神の言葉であると信じるのはいいが、その読み方、理解の仕方、主張の仕方によっては、嘘っぱちの悪魔の言葉にさえなる。しばしば、「聖書がこう言っているのだから」という議論を聞くが、多くの場合、聖書がそう言っているのではなく、聖書がそういっていると、その人が考えているのに過ぎない。あるいは聖書がそう言っているかのように、語っているだけである。聖書の真理の2〜3%を言い変えるだけで、立派なカルトになる。そしてペンテコステ系の人々は、すでに聖書外体験に慣らされている。グレーゾーンの信仰に弱いのである。その上、基本的に聖書は神の言葉であると教え込まれているために、ちょっとそれらしく聖書の言葉や表現が用いられると、すぐにだまされてしまう。



 「受けるよりは与えるほうが幸いである。だから献金しなさい。神は惜しみなく与えるものに、惜しみなく与えてくださる。」この教え自体は間違いなく聖書の教えである。しかしペンテコステ系の伝道者の多くは、その適応を敢えて誤用している。そして多くのペンテコステ系信徒が騙されている。少しばかり有名になると、ペンテコステ系の伝道者の多くは、この教えを悪用して金集めに精を出し、贅沢な生活に走る。そして贅沢な生活こそ、神の祝福の証拠であると、繁栄の神学を振りかざす。集会に出られない場所にいる人たちには、臆面もなく、祈りの布切れなるものが販売される。その布切れは、伝道者が手を置いて祈ったもので、神の力が宿って万病に効くのだそうだ、10分間祈ったものは黄色で1万円、20分祈ったものは青で2万円。30分祈ったものは赤で3万円という具合で値段によって効き方が違うらしい。使徒の働きに一度だけ記されている出来事を根拠に、金儲けの手段にしている。その伝道者の事務所で働いていた女性に聞くと、伝道者は間違いなく手を置いて祈るそうである。ただし、山のように積まれたすべての布に手を置いて、簡単に祈るだけだということである。



 人間の罪の原点はセックスである。だから、アダムとイブは自分の裸を隠した。したがってその罪は、聖いセックスで聖められなければと、たくさんの女性をだました伝道者だけでなく、たくさんの男性を捕縛した女性伝道者もいる。ペンテコステ系の能力のある伝道者には、セックス・スキャンダルを起こすものが多いと感じるのは、著者だけだろうか。昔から、英雄色を好むといわれ、大きな働きをするものは、一般的に精力も強い。旧約聖書でも明白である。それはまた、彼らが聖霊の力だけではなく、人間的な力によって仕事をしていることの、ひとつの証拠でもある。救いの働きが、聖霊のみ業から、人為的な方法論に変化しているということでもある。



 日本では考えられないかも知れないが、一夫多妻は祝福の印であるという教えをもって、たくさんの妻を持つ伝道者もいる。しかもその行為が聖書によって「きちっと」論証されている。個人的に思うのだが、これは繁栄の神学につながるものだろう。しかしその神学の中では、より聖書的な部分だろう。少なくても、一夫多妻が認められている文化の中で、一夫多妻制度の必要性は、認めなければならないところもある。その一方、アメリカ式の繁栄の福音は、どの文化にあっても偶像礼拝の罪である。



 多くの信徒を集めるのが最重要課題であると、聖書を持って主張し、あらゆる方策を用いて、教会を大きくしようとしている牧師がいる。この世界に神の国を来たらせるためには、出来るだけ多くの信奉者、支持者、賛同者が必要である。その目的のためならば、さまざまな不当な手段、あるいは洗脳に近い策略も正当化される。大伝道集会などで、派手な身なり、大げさなパーフォーマンス、華美なプログラム、大音響の音楽、それに伴う振り付け、さらにサイケデリックな照明、バーチャルリアリティなどが、出来るだけ多くの決心者を得る手段として、正当化される。癒されたり、奇跡を体験したりしたものが捏造され、その数が水増しされ、無料の読み物がほしい人は手を挙げてくださいと呼びかけられて、手を挙げた人々が写真に取られて、決心者の姿として報告されることも、通常の金儲けの手段とされる。幸い日本ではこのようなことはあまり聞かないが、著者は、ペンテコステ系の有名な伝道者たちによって行われる、そのような騙しのテクニックを、しばしば自分の目で見てきた。
 


 朝起きたら、まずきれいに化粧をして、改めて鏡の前に座り、「・・・・ちゃん。あなたはきれいよ」と鏡の中の自分に語りかけ、自分が大切な存在であることに気づいて、自信をもって、気持ちよく一日を送るようになどというごまかし。このような聖書によらない自己イメージの確立が、あたかも聖書の教えであるかのように装われて、各地で行われている。正しい聖書の理解によると、私たちの価値は自分自身のうちにはない。わたしたちの価値は、価値のないものを愛してくださる、神の愛の中にある。つまり私たちは神に愛されているから、神の愛の対象として価値があるのである。私たちに価値があるなら、価値がある私たちを救うのは、神の恵みではなく、神の当然の義務となる。



 いくつもある可能な解釈の中から、自分に都合のいいひとつの見解を絶対視して、黙示録を用いる方法も危険である。そこからは実にさまざまな、極端で、一方的な主張が生まれてくる。いわく、世界はユダヤ人に支配されている。あれもこれもユダヤ人の陰謀である。あの有名な伝道者も、この名高い牧師も、だれも彼もユダヤ人に操られている。反対に、ユダヤ人の救いのために祈り、ユダヤ人のために働き、自分たちもユダヤ人の一部分であることを知ることこそ、最重要課題であるというのもあれば、ブッシュは反キリストであるとか、666であるとか断定したり、ヨーロッパ連合こそ大淫婦の大バビロンだと言い切ったり、WCCこそ、いや教会一致運動こそそれであると、実にかしましい。それらは、そうかもしれないし、そうでないかも知れない。とても多くの見解があるから、的中する確立は低い。



 これらの主張はみな、聖書の中にわずかに記されている、それらしい言い回しや言葉、表現を独断的に解釈して、それを発展させたものである。グレーゾーンの信仰である。だから、私たちはだまされるのである。多くの場合、だましている人々も、だまされている人々である。もちろん、これらはみなペンテコステ系の信仰に限ったことではない。福音派といわれる人々の中にも、しばしば見受けられる。ただ、ペンテコステ系の人々のなかでは、かなり特徴的に見られるのである、私たちに必要なことは、正しい聖書の読み方から、正しく解釈された教えを基盤に、しっかり立った信仰を持つことである。



 ペンテコステ系の人々の数は、今や、世界で5億をはるかに越えるといわれているが、果たしてその中のどれだけが、本物のクリスチャンなのか、疑いたくもなる。もちろん主催者側の発表は、常に警察側の発表を上回る。だから半分にするか4分の1にして理解しても、大変な数だ。しかし、だれがクリスチャンで誰がクリスチャンでないかという判断は、私たちのすることではないが、正しい福音を伝えて、出来るだけ、本物のクリスチャンを育てるのが、私たちの役目である、



 改めて言い直すが、グレーゾーンの信仰、すなわち聖書外体験を基本にした、あるいは出発点にした信仰は、グレーゾーンの信仰に慣れ、とめどなくグレーゾーンの中に浮遊する信仰になってしまう危険性がある。しかもそのグレーゾーンが「新しい皮袋」などと紹介されると、ますます誘惑されてしまう。



 だからと言って、私たちはさまざまな新しい試みや流れに、目を閉じ、耳をふさいでしまってはならない。多くの新しい試みは、それが良いものであっても悪いものであっても、さまざまな批判や、非難、中傷や、流言飛語がつき物である。だからこそ、見分ける能力が必要なのである。そしてまた見分けたからと言って、たらいの水と共に赤ちゃんをも捨ててしまってもならない。



 確かに、いま、第三の波の人々が持ち込む方法論は斬新で、魅力的なところがある。それらに対して後ろ向きになってばかりいてはならない。学ぶべきところはたくさんある。教会も、大きくなるのにこしたことはなく、たくさん救われることに、反対を唱えるものでもない。とはいえ、教会を大きくするのは、聖書の命令ではない。たくさん救われるようにというのも、神の悲願ではあっても、たくさん救いに導けという命令が、私たちに与えられているわけではない。たくさん救いに導いているものが、より良い神の器だという聖書の教えもない。



 アメリカ流のプラグマティズムに陥ってはならない。彼らの勝利主義に乗ってはならない。教会を、資本主義の企業のように考えてもならないし、ねずみ講のように理解してもならない。方法論で命に至る門の大きさが変わるのだろうか。初めから命に至る門は狭く、その道は細いと決まっているのだ。そしてそこから入って行くものは少ない。現在のペンテコステ信仰の世界的拡大を見ると、どうしてもイエス様のこのお言葉との矛盾が、気になって仕方がない。



 たくさんの人々が教会に連なり、あらゆる意味で教会の力が強くなり、世界を支配するようになったならば、キリストが王として再臨するのであるという考え方は、私たちのものではない。それが間違っているということは、すでに述べた。そのような見解を持っている人々と、一緒には働けないというわけではないが、目標を共有することは出来ない。



 ペンテコステ信仰の躍進は喜ぶべきである。しかし喜んでばかりはおれない。同時に、怪しいものを感じて、注視して行かなければならない。時代の潮流に乗り遅れないようにと、あせってはならない。潮流が黒潮か親潮か見分けねばならない。どこに流れていくのか確認しなければならない。下手をすると、とんでもない方向に流されてしまう。著者は登り電車に乗るはずだったのに、ドアが閉じそうになっている下り電車を見て、あわてて乗ってしまったことがある。



 いま、ニュースで面白い話が紹介されている。タイの南部のマレーシア語を話す地域の50代の女性が、買い物に行った帰りに、間違ってバンコク行きのバスに乗ってしまった。途中で気がついたが、言葉が分からないために終点まで行き、そこから戻ろうとしたのだが、またも行き先を間違い、北部のチェンマイに着いてしまった。言葉が分からないためにそこで5年間乞食をし、その後、施設に入れられて、合計25年も行方不明となっていたそうである。



 何度でもくり返そう、ペンテコステ信仰は正しい聖書の理解に立った、確実な信仰である。私たちはその事実を、改めて聖書を学びなおして、確認しなければならない。それを改めて確認しなおして、はじめて、自分の信仰に信仰体験だけによるのではない、聖書的な確信を持てるのである。そうすることによって、正しい聖書の理解に立っていないグレーゾーンの信仰、正しい聖書理解に基盤を置いていない、体験信仰の流れには、乗らないようにしなければならない。



 そこで、私たちが信じ、受け入れ、みんが体験すべきものとして、公に教えられなければならないものと、そうでないものとを見分けるために、簡単な方法を示しておきたいと思う。

@ それは間違いなく、聖書の記述のなかに、実例を見出せるものか。
A それは間違いなく、聖書で教えられているか。
B それは、くり返して聖書に記されているか。
C それは、間違いなく使徒時代の教会全体に認められ、受け入れられていたか。
D それは普遍的なものであると、すなわち時と場所を越えて、すべてのクリスチャンに適応され勧められるべきものであると、聖書によって明確に証明できるか。



 これらのテストをするならば、瞬間的聖めのバプテスマ、解き明かしを伴った異言による預言、職への召し、異言の伴わない聖霊のバプテスマ、現代の使徒と預言者の回復、彼らの権威、預言の権威、現代の使徒と預言者の上に建てられる教会、倒れること、倒すこと、笑うことや泣くこと、恍惚となることなどの肉体的精神的反応、さらに実に多くのことが、どれかの項目、あるいはすべての項目にひっかかり、私たちの信仰体験として一般化し、教理としたり、信仰や実践の大切な部分としたりしてはならないことが、よくわかるはずである。

                                       つづく













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2010年11月10日

だいぶ怪しげなペンテコステ信仰 (4)



V 間違いを持った人々との付き合い



 では、グレーゾーンの信仰の流れに乗っている人々とは、どのようなお付き合いをしたらよいのだろうか。そのような信仰を持った人と付き合わないとなると、実際上、自分自身をも含めて、すべてのクリスチャンとのお付き合いを拒否しなければならなくなる。だからと言って付き合い始めると、とんでもない信仰と実践をしている人たちとまで、行動を共にすることになる。限度が必要になる。



 人間は複雑である。一人の人間でも、良いところと悪いところ、正しい教えと誤った教えを併せ持っている。だから、ある面においてはとんでもない非聖書的な理解をもち、へんてこりんな神学を振り回している人物が、他のところではとても確実な信仰理解と、生活態度を持っていることもある。あやふやな終末論を持っているが、贖罪論は堅実であるという場合もある。問い詰めると神学は不透明だが、神のみ前に歩んでいるひとりの人としては、感嘆するほど純粋な信仰を持っている人物もいる。



 霊的解釈やタイポロジー的解釈で、正統な聖書の学びを軽視しがちなペンテコステ系の伝道者には、即席の伝道者が多く、たとえ長い間大きな働きをしている有名な伝道者でも、正しい解釈に基づいた聖書知識を持つものは驚くほど少ない。だから、そこここに間違いがある。そして間違いのあるもの同士が集まって、安心して間違いを増幅し合っていく。



 また人間は、常に変化をし続けている。間違いだらけの昨日の彼は、今日も間違いだらけであると言う保証はない。今日正しいことを言っているから、あさっても大丈夫だという保証もない。どのように素晴らしい牧師も伝道者も神学者も、必ずどこかの時点で、間違いや誤りを持ち、失敗も犯す。だから私たちは、人間の善悪の問題には常に慎重な態度をとり、最大の寛容と許容をもって、接して行かなければならない。人間に対す最終判断と裁きは、神にお任せするしかないのである。そういうわけだから、グレーゾーンの信仰を推し進めている人々のためにも祈らなければならない。その働きのために、その祝福のために、あるいはその救いのために。



 しかし一方、彼らの教えの内容に関して、その神学に関しては、非常に厳しくなければならない。その誤った教えに対しては、滅びるように願い、戦い、祈って行かなければならない。私たちは、人と教えを切り離して、別々の取り扱いをして行く必要がある。それは口で言うほど簡単ではないが、そのようにする大切さと、技術を学ばなければならないだろう。愛をもって接しながらも、断固として、誤りを指摘していかなければならない。



 キリストやパウロの例を観察すると、求道者や初心者の間違いに対してはかなり寛容であった。その態度が、真摯に真理を求めるものに対してはたとえ彼らの間違いが大きくても、直ちに拒絶することはなかった。キリストはパリサイ派やサドカイ派の人々に対しては一般的に厳しい態度をとっておられたが、彼らの中にいる真摯な真理の追求者に対してはそうではなかった。パウロもまた、偶像礼拝者に対しても礼を失わない態度を保ち、コリントの禄でもないクリスチャンたちに対してさえ、聖徒と呼びかけ、忍耐深く指導した。パウロは、自分がすべての兄弟たちに恐れられていた当時、交わりと助けの手を差し伸べてくれた、バルナバを思い出していたかもしれない。



 ところがそのパウロは、教会の中から出てくるユダヤ主義者には激烈な態度を取った。教会が、ユダヤ主義者のために傷ついて、その傷がまだ傷んでいたときには、ユダヤ主義の傾向を持っていたマルコとは、たとえ、お世話になったバルナバと袂を分かつことになったとしても、絶対に行動を共にしようとしなかった。キリストも真理に背を向け続けているかたくなな宗教家に対しては、非常に厳しい態度で臨まれた。少し後代になって、教会の中にグノーシスの誤った教えが浸入してきたとき、パウロもヨハネも、非常に厳しい態度をとった。



 真理の探求者が、誤った教えや理解をもちながらも、真理を受け入れる態度をもって学ぼうとしているときには、寛容な態度で彼らを受け入れているが、彼らが真理に背をむけ、誤った教えを主張し続け、さらにその教えを他の人々にも広め、惑わすに至ると、キリストもパウロも、非常に激しく戦った。だから、内部から出現する誤った教えの信奉者には、容赦なかったのである。



 キリストやパウロに見られるこの一般的な原則は、今日の私たちにも適応することが出来るだろう。後の雨の運動の創始者や提唱者たちの多くは、教会内の、指導者の中から出てきたのである。その後継者たちの多くもそうである。彼らの中では、この誤りと彼ら自身とがすでに一体となり、不可分の状態になっていることが多い。しかし彼らの働きに参加している、多くの信徒や伝道者たちは、騙されているだけである。だから、彼らに聞く耳があるうちに、聞いてもらわなければならないのである。そういうわけで、著者はこの文章を書いている。同僚の伝道者たちが、誤りを明確に見分けられるためである。信徒たちを正しく指導できるためである。



 だから私たちには、教え自体と、教えを伝えている人々とを、分けて考えることが必要である。教えは滅ぼされなければならないが、教えを伝えている人は、救われなければならないからである。そこで私たちは、彼らの教えを拒絶するだけで終わらず、正しい真理の教えを語り続けなければならないのである。私たちはこの教えを伝えている人々が、私たちの教会にその教えを持ち込むことを許すべきではないが、彼らにも、私たちの教えを語り続けなければならない。多くの場合、豚に真珠であることを覚悟し、石地に落ちた種になることも知りながら、そうしなければならない。



W 結び



 著者は今、私たちのペンテコステ信仰とその実践には、多くの誤りが混在していることを憂慮している。それらの多くは、ペンテコステ信仰の発祥当時から混在していたものである。そしてその混在に対して、正しい対処をしてこなかったために、誤りは増幅し、拡大し続け、私たちの正しい信仰の成長の妨げとなってきた。



 今私たちに改めて必要なことは、この誤りに対して正しい対処をしていくことである。それは単に、あそこが間違っている、ここが誤っていると指摘するだけに止まらず、自分たちのペンテコステ信仰が、正統な聖書解釈に正しく立っている信仰であることを確認して、単に外部のものの間違いを正すだけではなく、自分たちの中にある聖書外体験主義をも排していくことである。自分たちの中にある伝統的な聖書外体験主義も、厳しく排していくことによって、初めて、しっかりと正しい聖書理解に立った信仰のあり方を、構築していくことが出来る。



 そのために私たちは今、多くの間違いが氾濫して私たちの信仰を汚染しようとしている危機を、かえって好機と捉えて、改めて自分たちの神学を、しっかり見つめなおすべきである。正しいペンテコステ信仰の継承のために、ぜひともそれをやり遂げなければならない。


                                    おわり





















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2010年11月11日

しるしを求める時代 (1)



       しるしを求める時代

(ペンテコステ派にまつわる奇跡的業についての考察)



 たいした役にも立たない雑文をワープロに打ち込みながら、テレビのニュースをつけっぱなしにしていると、いつの間にか行方不明者を探す番組に変わり、いろいろ面白い人たちが登場していました。いわゆる超能力で、生きている人も死んでいる人も探し出すというのです。その人々のうちの3人は、たしか、アメリカのFBIの捜査にも協力して、随分と成果を上げているという説明がつけられていました。そのあまりの能力に、「下手に人殺しもできないな。これでは必ず見つかってしまう」と・・・・怪しい警戒心を抱いたほどです。



 ちょっと考えるところがあって、つぎの週の同じ番組を見ていると、今度は、確か、ヨーロッパの超能力者たちが出演して、やはり、行方不明者を探していました。世の中には面白い力を持っている人々がいるものだと、つくづく感じたものです。(テレビが「やらせ」をやっていないという前提ですが。)ちなみに、彼らの中で何らかの「霊的な助け」を得ていると考えていたのは、「天使の力によって」と自ら語っているヨーロッパの女性と、同じくヨーロッパのもう1人の男性だけでした。他はみな、単なる超能力者で、いわゆる霊的な力とは無縁なようでした。



 それを見ていてふと考えました。「このような超能力といわれる力を持っている人や、霊力を使うことができる人々が、宗教家になったらどうなるだろう。ペンテコステの伝道者や牧師になったら、どういうことになるだろう。」



 最近、手品や奇術が流行っているようで、テレビでも盛んにやっています。中には本当に度肝を抜くようなものがあります。目の前でというより、大勢の人ごみの中、幾つものカメラの前で、たとえば、デパートのショウウインドウのガラスを通り抜けるなど、信じられないようなことを次々とをやってのけるのです。あまりにもトリックが上手なために、超能力者と間違えられて、病気を治してほしいとか、埋蔵金の隠し場所を当ててほしいとか、新興宗教の教祖になってほしいだとか頼まれて、閉口したと話している奇術師がいました。



 これらの番組を見ていて、また、ふと考えました。「このような奇術に長けた者たちが、宗教家になったらどうなるだろう。ペンテコステの伝道者や牧師になったら、どういうことになるだろう。彼らはさぞかし有名な、力ある神の人と目され、それこそ『大能の神の力』とばかりに、もてはやされるに違いない。(使徒8:10) テレビにも出、大きな集会を行い、たくさんの人々をその気にさせ、お金儲けも出来るだろうなァ。」 あの人たちが宗教家にならず、キリスト教の伝道者になっていないことを、感謝する気持ちになりました。「そういえば、数十年前、世界の奇術の大会で優勝したクリスチャンがいたな。堕落していなければいいが・・・」などと、つまらない心配まで始めてしまいました。

 

 いまテレビで人気を博している、もう一つの分野があります。それは、いわゆるまじないや占いに近いことをやって、運勢判断や前世の因縁、あるいは金儲けの方法、結婚の是非などを告げるものです。有名人とかセレブといわれる、芸能人やスポーツ選手などを相手に、そういうことをやって、結構視聴率も高いらしく随分盛況です。他にも、占いや呪い、霊視、心霊写真、行方不明者の捜索、怪奇現象の解釈などを行って、興味本位のマスコミに乗っている人々がいます。日本人の多くは、ばかばかしいと言いながらもこのような番組を観、出版物を読んでいます。そんなことが、何かにつけて話題になり、それに頼ったり、倣ったり、喜んだり、不安になったりしているのです。 



 これらの霊的な感覚の鋭い人たち、いわゆる霊能者たちが、ペンテコステの信徒や伝道者になったら、どういうことになるだろう。私たちの間で行われ、もてはやされている「奇跡」と、これらの超能力や奇術あるいは霊力とどこが違うのだろう。ペンテコステ系の人々のほうが、信徒たちを始め、多くの人々の賞賛と憧憬を勝ち取り、金儲けになるらしいというのは、わかるけれど・・・・。何しろそのようなことを売り物にして、テレビ番組をいくつも持っている伝道者が、たくさんいるのだから。」 奇術師や手品師に、そのような人がいるとは、聞いたことがありません。



 こんな軽々しい思い付きから、聖書に記されている奇跡や癒し、不思議やしるしの類と、それらについての教えに関して、すこしばかり考察してみようと考えました。



T  聖書に記された神以外の力による不思議な業


 
 現在の日本ほど、唯物論がもてはやされている文化はないといわれます。ところがその一方で、人々は怪奇現象や霊界の話にも夢中になっています。日本人の精神的二重構造です。付け焼刃の啓蒙思想、合理主義、科学至上主義の後ろには、拭い取れない、隠しようもないアニミズムの世界が広がっているのです。そんな非科学的なことは信じないと言いながら、お宮参りに行き、幽霊を恐れ、占いを信じています。



 私たち日本のクリスチャンもまた、この日本人の精神的二重構造の中で、一方では合理的科学主義の世界観を持ちながら、他方ではおどろおどろとした魑魅魍魎(ちみもうりょう=林や水の霊)の世界観を内に秘めています。かつて、西欧合理主義宣教師たちの教えにならって、幽霊だのまじないだの占いといったたぐいを、非聖書的な迷信として退けながらも、ほとんど本能的に、何となく納得しきれないでいるのです。



  TA 聖書にも神によらない不思議な業が記録されている
 


 西欧合理主義、唯物的科学万能主義の世界観を持って聖書を読むと、その中に、あまりにもたくさんの奇跡や不思議な物語が、記録されているのに驚いてしまいます。クリスチャンとして、いつかの時点で、神が全存在物をお造りになったということは、神学的に受け入れているにしても、あまりにもたくさんの奇跡や不思議のたぐいが記されているのに、少なからぬ衝撃を受けます。さらにその中には、天地を創造された神によらないさまざまな不思議な業も記されていることに、いよいよ驚かされます。



 聖書の世界観は唯物主義ではありません。また、神以外の霊的存在を認めない一神教でもありません。聖書は、他の宗教の感覚から言えば、多神教の世界、あるいはアニミズムの世界を描き出しているのです。たくさんの神々、さまざまな霊的存在があるけれど、その中に、唯一の創造者、唯一の絶対者がおられて、その方だけを礼拝し、その方にだけ忠誠を誓うのが、聖書の信仰です。その方以外の霊的存在や、その方以外の霊的力を認めないのが、キリスト教信仰ではありません。くり返しますが、たくさんの神を認めないのがキリスト教信仰ではなく、自分はただおひとりの神、創造者であり、絶対者であるお方だけをあがめ、この方だけに従うというのが、キリスト教信仰です。



 それは、たくさんの男性がいる中から1人の男性を夫として選び、この男性だけに尽くすというのと同じです。夫だけが唯一の男性という意味で、一神教です。少なくても、これが聖書の理解です。もちろんわたしたちの神は創造者であり、唯一の絶対者です。創造者であり、唯一の絶対者であるということが神の定義なら、私たちはそのような神を信じているのです。



 しかし、日本語本来の「神」の定義は、単に「上」というだけに過ぎません。「髪の毛」すなわち上の毛、「川上」すなわち川の上流、「薩摩の守」すなわち人の上に立つ者で、さまざまな漢字が充てられていますが、ようするに「かみ」すなわち「うえ」であり、「神」イコール「うえ」なのです。(うちの「かみさん」と奥さんを呼ぶのも?!)ですから「神」といった場合、せいぜい、なにやら人間以上の不思議な力をもつ存在というだけで、猫でも蛇でもどこかに人間以上の能力があれば、たやすく神になれるのです。人間でもちょっとばかりできると、たちまち料理の神だの、野球の神だのとまつり上げられることになります。唯一絶対の創造者などという、クリスチャンたちの「神」の理解とは程遠いものです。



 聖書は、私たちクリスチャンが神と呼ぶ、絶対者以外の「霊的な存在者たち」とその力を認め、それらを神に従う天の軍勢と、神に逆らう悪魔の陣営に分けています。聖書は神に従う霊的な存在者たちを「御使い」(翻訳によっては天使)と呼び、神に逆らう者どもを悪霊と呼び、その悪霊どもの頭を悪魔と呼んでいます。そしてその悪魔の陣営との戦いが、私たちのクリスチャンの信仰生活の、重要な一端であると教えています。(エペソ6:11−12)



 合理主義、唯物主義、科学至上主義に犯された西洋キリスト教は、私たちの神様によるものも、御使いたちによるもの、さらには悪魔や悪霊たちによるものも含めて、奇跡や癒し、不思議やしるしといわれるものを、おしなべて否定するかもしれませんが、聖書が描き出す世界は、奇跡や不思議の世界なのです。プロテスタント教会ではカトリックよりも啓蒙思想の影響を強く受けたせいか、御使いたちによる人間への干渉も、否定、もしくは無視する傾向にあります。またそこには多分、カトリックが天使崇拝に陥っていることへの反動があると思われ、ペンテコステ教会においてさえ、キリストご自身がそれを認めておられるにもかかわらず、(マタイ18:10)御使いの存在と働きは軽視されています。



 そのようなことを理解した上で、聖書の中に記されている、神と御使い以外による、不思議や奇跡、あるいはそれを示唆する主なものを、いま思いつくままに、リストアップして見ましょう。



@ ヨセフの時代、パロの夢を解こうとしたエジプトの魔術師たち
A モーセと対立したエジプトの魔術師たち
B 神の箱騒動で役割を果たしたペリシテ人の預言者たち
C サムエルを呼び出した霊媒師
D エリヤと戦ったバアルの預言者たち
E ネブカデネザルの夢を解こうとした魔術師たち
F ペテロに叱責されたサマリヤの魔術師シモン
G キプロスの魔術師バルイエス
H エペソで焼かれた魔術の本
I 悪霊に傷つけられた、祭司長スケワの7人の息子たち



  TB 聖書はこれらの出来事を現実として記録している



 聖書はこれらの出来事すべてを、作り話や御伽噺、あるいはたとえ話や寓話としてではなく、現実として伝えています。ここに挙げたものが、はたして魔術によるものか、悪霊の力によるものか、超能力によるものか、あるいはトリックによるものかは不明です。聖書が魔術と表現しているものが、現在の私たちの常識的分類と同じ分類をしているわけではないからです。さまざまな霊の力を借りているものも、自分の中にある不思議な能力によるものも、トリックによるものもあったかもしれません。しかしこれらすべてのものを、聖書は現実として記録しているのです。



 これらの出来事が、たんなる空想や創作物語ではなく、あるいは迷信による思い込みでもなく、神による奇跡と同じように、現実の出来事として聖書に記録されていることは大切です。合理主義に影響された西欧キリスト教は、いろいろな理由と理屈をつけて、これらの出来事を単なる神話にしてしまおうとしてきましたが、聖書を素直に読む限り、聖書はこれを現実のものとして書き記しているのです。そして、それらは主に魔術師、霊媒師、あるいは予言者とか占い師といわれる人々によって、常習的に行われていたことが分かります。



 ただし、聖書の世界観はそのようなものであっても、実際に奇跡的な事柄が多発したのは、長い聖書の歴史の中では比較的短い、いくつかの時代に限られていたようです。それらはモーセとヨシュアの時代、エリヤとエリシャの時代、それからキリストと使徒の時代です。ですから、不思議や奇跡がのべつ幕無しに行われていたというわけではありません。また、当時の一般の人々の間にはたくさんの迷信もあり、これらの記述に類似した物語もずいぶん多く、頻繁に語り伝えられていたということは、想像に難くありません。しかし、聖書に記録されている出来事は、あくまでも事実として記録されているのです。 



TC 聖書はそれらの不思議な業のメカニズムについては何も語っていない



 ただ、ひとつ注意しておかなければならないのは、聖書はそのような不思議な出来事あるいは業が、どのようにして起こるのか、なぜ起こるのかという、メカニズムについては一切説明していないのです。私たちとしては、そのような出来事があった、またあり得るということを信じるだけで、説明はできないのです。特にこの点で問題になるのは、サウロの要請によって、女霊媒師がサムエルの霊を呼び出していることです。(Tサムエル28:3−25) これがなぜ問題かというと、生の世界と死後の世界の二つを、厳密に分けて理解する現代の福音主義的考え方と、相容れないからです。



 現代プロテスタント・クリスチャンたちの多くは、キリストがお語りになったラザロの物語などを引用して(ルカ16:19−31)、このような二分化の考え方を正統と理解してきたのです。しかしその理解の根底には、近代合理主義もあったように感じます。つまり、死後の世界については分からない、説明がつかない、さらに死後の世界と今のこの世の世界のつながりについては、いよいよ理解できない。だからそれは合理主義の範疇にないと、避けて来た事柄なのです。そういうわけで、いろいろな理由をつけて、この出来事は実際に起こった出来事ではないと、説明する福音派の神学者や聖書学者が多いのです。



 しかし私たちは、むしろこの出来事は実際に起こったことであると考えます。実際に起こった事柄だからこそ、サムエルとダビデの関係に大きく影響し、イスラエルの歴史に関わってくるのです。私たちには、この出来事を説明することはできません。生の世界と死後の世界に、どのような隔離線が引かれているのかも、良くわかりません。聖書はそれを説明していないからです。そのような場合、わたしたちがすべきことは、説明できないからと否定するのはなく、説明できない事柄として残すことです。聖書は明らかにそれを現実の出来事として取り扱っているのですから、そのように信じたらそれで良いのです。死から生き返った人々も聖書の中に数人は記されています。彼らも、死後の世界については一切語っていません、少なくても、聖書には記されていません。だからといって死者が生き返った物語は、否定されるべき出来事ではなく、生と死の境と死後の世界は、人間が知らないでいても良い事柄である。知るべき事柄ではないと考えるべきなのです。したがって、霊媒師によってサムエルが呼び出されたという事実は、事実として受け入れるべきですが、なぜ、どうしてという問題はそのまま残しておけばよいのです。
 
                                      つづく

























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2010年11月12日

しるしを求める時代 (2)



  TD 聖書はこれらの業を禁止している



 大切なことは、聖書がこれらの魔術や霊媒、あるいは占いの類を禁止しているという事実です。その禁止の理由は、それが迷信や架空だからというのではありません。ではそれらはなぜ禁止されたのでしょう



    TD1 悪魔や悪霊とのかかわり



 禁止の理由として第一に考えられるのは、そこにはさまざまな悪霊との協力があるということです。これらのことを行う人々のほとんどは、悪魔や悪霊を呼びます。それが神々の名前であったり、死者であったりとさまざまですが、実態は、悪魔や悪霊とかかわりを持っているのです。行われる業自体には、人助けになり、社会に貢献するものもたくさん含まれていたとしても、悪魔や悪霊の最終目的は、人々を神から引き離し、迷いの中にいれ、滅びに陥れ、神の栄光にかげりをつけようとするものですから、それは神のみ前に憎むべき悪とされるのです。



    TD2 人間が関与すべきではない領域を犯す



 禁止の理由の第二は、霊媒や降霊術が死の領域に関わって活動をするということです。霊媒師や降霊術者は、悪魔や悪霊との協力以外にも、私たちが立ち入るべきではない、生と死との領域に踏み込んでいるということが、関係しているのだと思われます。生と死との境界線には、私たちが知るべきではない、また知っても益にはならない事柄があるのでしょう。聖書は生と死の境界線については、ほとんど触れていないのです、しかし霊媒師、あるいは降霊師などといわれている人々は、なんらかの力で、つまり、自分の特殊能力や超能力により、あるいは悪魔や悪霊の関与により、それらを知り、いわば裏を掻い潜って仕事をしているのだと考えられます。それが見る者を惑わし、真の神から遠ざけ、さまざまな悪につながるというところが、あるのだと想像されます。



  TE 聖書が禁じていない不思議もある



 そういうところから考えると、トリックであることをはっきり宣言して行う、現代のショーとしての奇術、手品、あるいは言葉の上では魔術と呼ばれているものの、実態は奇術に過ぎないものも、聖書によって禁じられていると考える必要はありません。また悪霊の力とは関係のない、自分の中にある超能力を、良いことのために用いるのも、聖書が禁止しているとわけではありません。犯罪者の潜伏先が分かったり、行方不明者の居所が判明したり、死体の発見につながるなら、その能力は大いに結構です。アメリカなどでは、さまざまな特殊能力を持った人々の助けを借りて、犯罪捜査なども行われ、相当の効果上げているという話ですが、今のところ、それは、裁判の証拠としては採用されないために、物的証拠を見つけ出さなければならないということです。理論整然とした説明も、物的証拠がなければ単なる状況証拠でしかなく、裁判では採用されないのですから、当然のことだと思われます。

 

 10年以上も前になりますが、津軽三味線の名人、竹山さんが弾くじょんがら節を、一度聞いただ
けで、見事にピアノで再現した人を、テレビで見たことがあります。竹山さんがすぐさま続き、ピアノと津軽三味線の見事な即興アンサンブルが出来上がりました。脳性麻痺で、知能は低く、まっすぐに立つことさえできないこのアメリカの青年は、確か、施設にあずけられていた赤子の時代に、クリスチャンの夫婦に引き取られて、育てられたのだと説明されていましたが、その音楽的才能はまさに、わたしには奇跡的と言うか、異常というか、超能力というか、とにかく尋常ではないと思えたものです。世の中にはさまざまな特殊能力を持っている人がいるものです。盲目の画家さえ存在します。その能力が良いことのために用いられるならば、おおいに結構だと思いますが、人を騙し悪い目的のために用いるのは、とうぜん良くないことです。



 ただし、気をつけなければならないのは、このような超能力、あるいは特殊能力を駆使する人々の多くが、何らかの外部からの力、すなわち悪魔や悪霊どもの力を借りているということです。ですから、天使と呼ぼうが、マリヤ様と呼ぼうが、聖人と呼ぼうが、外部の力を借りる人々の業には、気をつけなければなりません。また、死者との交信をしたり死者の霊を感じたりする人々にも、たとえそれが事実であったとしても、警戒しなければなりません。

 

 筆者の個人伝道で救われた沖縄のおばあちゃんは、いわゆる霊媒師、祈祷師でしたが、クリスチャンになってからも、その霊的な能力を持ち続けていました。霊媒師、祈祷師の仕事は止めましたが、しばらくの間は、死者が見えたり、死者の語りかけを聞いたりしていたものです。それが本当に死者だったかどうかは別の問題ですが、ある種の特殊能力があり、霊的存在者に敏感であったことは事実です。さいわい、ペテロに叱られた魔術師シモンのような問題は起こりませんでしたが、もし、わたしがペテロほどの力をもって活動していたならば、同じことが起こったかもしれません。クリスチャンになりたての頃は、いろいろな点において分からないことばかりなのですから、彼らに対して、あまり厳しい見方をすべきではないと思います。ペテロの厳しい叱責も、むしろ、シモンに徹底した悔い改めの機会を与える、愛の鞭だったのではないかと感じるのです。(使徒8:9−24)



 筆者がフィリピンで住んでいたバギオ市の郊外から、直線で1km足らずのところに、手で内科手術をする人物として、日本でもテレビを始めさまざまなメディアで取り上げられ、一時、非常に有名になった男が住んでいました。もともとフィリピンには「アーブラリオ」と呼ばれる霊媒師まがいの、民間治療者がたくさん存在し(アーブラリオは薬草のハーブからきた呼称)、多くの医療行為をしているのですが、この人物の力はずば抜けていたといえます。当時のマルコス大統領も彼から治療を受けていたと言われ、フィリピン全土はおろか、アメリカやドイツ、さらには日本からも大勢の人々がチャーター機で訪れて治療を願っていました。



 しばらくしてこの人物は亡くなりましたが、その後継者もかなりの力を発揮して、治療行為を続けていました。後継者の奥さんは日本人で、筆者も個人的に知っていました。日本では大きな話題となり、盛んに議論されたということですが、結局、それが文字通り素手による手術なのか、奇術によるまがい物なのか、判断がつかないままで終わったようです。フィリピンでも騙しごとと一笑にふしてしまう人々もいましたが、多くの人々がその治療を受けて治ったと証していました。日本で有名な高島易断の指導者によると、フィリピンはそのような霊の力が強い土地で、中でもバギオ市はその中心に当たるのだそうです。



 私たちの聖書学校の一つで、セブ市にあったインマヌエル聖書学校の門の前には、いつも朝早くから、長蛇の列ができていました。ココナッツ椰子の木陰にたたずむ粗末な藁葺きの家で、ひとりのアーブラリオが治療を行っていたからです。このアーブラリオは、当時、貧しい人たちからはほとんど治療費を取らず、野菜や果物、魚などのお礼をもって充分としていたようで、人々の尊敬を集めていました。ついでに言うなら、彼らはカトリック化した土着宗教を信仰土壌としていたために、ほとんどの場合、カトリックの聖人や、聖母の名前を呼んでいましたが、その実、土着の霊(アニトと呼ばれる)の力を呼び出しています。土着化したカトリックが強い、中南米でも同じ傾向が見られるということです。



 このようなことは、それぞれの土地の信仰形態により、呼び起こす霊や力の源となるものの名前は異なり、伴う儀式や祈りや呪文、あるいは用いられる小道具もまちまちです。仏教の強いところでは仏教的な、道教が強いところでは道教的な、ヒンズー教が強いところではヒンズー教的な色彩が強くなりはしますが、根本はアニミズム、日本の精霊信仰に近いもので、世界中いたるところで行われているのです。奇術の大会ならぬ、魔術の大会さえ催される土地もあります。そこではトリックは一切用いてはならないのです。文明程度が低いといわれる(何を基にして低いのか不明ですが)アジアやアフリカだけではなく、昔からキリスト教文化の強いヨーロッパやアメリカでさえ、このようなことはかなり広範囲に行われています。言い方を変えると、合理主義的教育が徹底し、近代科学主義がほぼ絶対のものとされて、キリスト教さえそれらに屈服して神の奇跡を信じられなくなっている土地、つまり「文明化された」と言われるこれらの土地においてさえ、社会の中に、また人々の心理の底辺に、アニミズムが根強く残っているのです。世界には多くの宗教と思想がありますが、基本的にまた圧倒的にアニミズムの世界なのです。



 聖書の世界観もまた、基本的にアニミズムであるということを、しっかりと理解しておかなければなりません。唯物的世界観でも自然科学至上主義の世界観でもないのです。合理主義的信仰、理神論的信仰に流されているクリスチャンたちは、唯物論的な見方を持ち込んで、聖書に記述されている奇跡の類は事実ではないと、さまざまな説明を試みますが、私たちはそれらを事実とみなし、何の不思議も不都合も感じません。わたしたちが捨てるべきなのは、アニミズムの世界観ではなく。創造主である唯一の神を礼拝するかわりに、創造物を礼拝する偶像礼拝です。たとえそれが天使だろうと悪魔だろうと、悪霊だろうと、聖人であろうと、マリヤであろうと、創造主以外を拝むのは被創造物を拝むことであり、偶像礼拝です。いつの時点かは不明ですが、天使たちの軍勢も、今は悪魔と呼ばれる霊も、また、それに従うようになった多くの霊も、もとはといえば、創造者であられる神に創られたものであり、神の世界に属する霊的存在ではなく、わたしたちと同じ被創造物に属する霊的存在なのです。その霊的な存在者たちは、この世界においても、私たちの間で、また私たちの中で活動しているのです。



 話を元に戻しますが、今、問題になっているのは、このような紛らわしい、まことの神と御使い以外の力に源を持つ、奇跡的な業や不思議が、教会の中で、またクリスチャンの活動の中で、公に行われてはいないかということです。それが無知によるものであれ、誤った善意によるものであれ、まったくの悪意によるまやかしであれ、行われてはいないかということです。



U 不思議やしるしに対するキリストのお言葉



 キリストの教えや働きからはっきりと分かるのは、キリストもまた、基本的にアニミズムの世界観を持っておられたということです。パウロが「私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗闇の世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです」と、アニミズムの世界観で語ったように(エペソ6:12)、キリストの戦いも人間に対するものではなく、この闇の世の支配者たちに対するものでした。その霊の世界の戦いの中で、キリストは、その戦いに関係のあるいくつかの大切な言葉を残しておられます。


 
 UA ご自分の権威と力が神からのものであることの主張



 キリストは、ご自分が病を癒し、悪霊を追い出されたとき、それらの働きが神からの権威によるものであり、さらに聖霊のみ業であることをお教えになりました。パリサイ派の学者たちは、キリストが悪霊どもの頭の力によって、悪霊どもを追い出していると論じたてましたが、キリストは悪魔の家に内輪もめはないとおっしゃって、ご自分は神の聖霊の力によって、悪霊どもを追い出しているのだと主張されたのです。またそれは、基本的に神の国の到来を意味し、神の権威と力による支配の現れであると、お教えになりました(マタイ12:24−28)。



 UB ご自分の力あるみ業が信じるべきしるしであることの主張 



 さらにキリストは、ご自分を信じられない者は、そのみ業を見て信じるようにとおっしゃり(ヨハネ5:36、10:25、38、14:11)、バプテスマのヨハネがキリストに使者を送り、キリストが待望のメシヤであるかどうかと尋ねたときも、ご自分がなさっていたみ業で判断するようにとおっしゃいました。(マタイ11:1−6) こうしてキリストは、み業にはしるしとしての積極的機能があることをお認めになりました。そのような理解を前提にして、聖霊による明らかなしるしを見ながらなおも反抗し続ける者は、聖霊を冒涜しているのであり、許されない罪を犯しているのだともお教えになりました。(マタイ12:31−32) 



 このキリストの同じお言葉を、ルカはあえて異なった言い方で記しています。多分キリストは、もっと長い言い方でおっしゃったのを、マタイもルカも短くまとめて記しているために、書き方が異なったのだと思いますが、ルカはマタイが「聖霊」と記したところを、「神の指」と記録しています。(ルカ11:20) これは聖霊が、現代のこの世界で、神の具体的な働きをされる役割を負っておられることを意味しているように、受け取ることができます。その神の具体的なお働きを拒絶するようでは、信仰を持つことは困難であり、罪が赦されなくなるとおっしゃっているのでしょう。



 UC 同じ権威を弟子たちに賦与されたこと



 その上キリストは、悪霊を追い出し病を癒し、力ある業を行う権威を、弟子たちに与えるとおっしゃいました。(マタイ10:1) そしてそのお言葉は、弟子たちの活動によって実証されました。(ルカ10:17−20) また甦りの後、すべての権威を受けたキリストは、再び弟子たちに権威の委託をされています。(マタイ28:18、マルコ16:15−18) これは単に弟子たちに対するものと考えずに、むしろいまや生まれ出ようとしていた、教会に対してなさったことであると理解すべきであり、教会がキリストから権威を委託されていると考えるべきです。したがって、教会は今もこの権威を持っているのです。



 UD 力ある業よりも救いを喜ぶべきであると教えられたこと 
 


 しかし、そのように力ある業を大切にされたキリストではありましたが、弟子たちがその力ある業のすばらしさに、あまりにも引き付けられてしまったときには、そのような業が、決して最も大切なものではないということを、明らかにされています。弟子たちは悪霊が追い出され、病が癒され、悪魔の権威が失墜していくのを見るよりも、自分たちの名前が天に記されていることをよろこぶべきだったのです。肉体の癒しや物理的な奇跡よりも、救いのほうがずっと大切なのです。(ルカ10:17−20)



 UE しるしを行うことを拒絶されたこと
 


 たくさんの病人を癒し、多くの悪霊を追い出し、数々の奇跡を行っておられたキリストでしたが、敵対する人々がしるしを見せるようにと迫ったときには、これを拒絶しておっしゃいました。「悪い、姦淫の時代はしるしを求めています。だが預言者ヨナのしるしのほかは、しるしは与えられません。」(マタイ12:39、16:4、ルカ11:29) 一方ではご自分の力ある業が、信ずべきしるしであると主張されたキリストが、ここでは、しるしとしての業を行うことを拒絶しておられるのです。これは、荒野での悪魔の試みにおいても示された態度と同じです。悪魔が持ち出した三つの誘惑のうち、少なくても一つは、しるしだけを目的としたしるしを行うようにというものでした。それをキリストは断然拒否なさったのです。(マタイ4:1−11)



 ここで分かることは、キリストのみ業は、結果として、しるしとしての機能を果たすが、しるしを目的としたみ業は、行わないということです。つまり、キリストのしるしには、あくまでもそのしるしが行われるべき直接の必要性、妥当性というものが他にあって、そのために行われるのであり、しるし自体のために、それを見せるために行われるものではないということです。ですから、たとえ目を剥くような大きなみ業を行われたとしても、ご自分の時が熟していないときには、キリストはそれを人々話してはならないと命じて、しるしとしての機能を果たさないようになさっているのです。(マタイ9:30、マルコ1:44、7:36、8:30)


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2010年11月13日

しるしを求める時代 (3)


 UF 力ある業を行う人々を拒絶する可能性があること



 キリストがおっしゃったお言葉のうちで、もっとも衝撃的なものの一つが、つぎの一節です。「その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇跡をたくさん行ったではありませんか。』しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け』。」(マタイ7:22−23) キリストの名を用いて語り、キリストの権威を持って、さまざまな良い業を大々的に行っていても、キリストはその日、彼らに向かって「お前たちを知らない。私から離れよ」と、厳しいお言葉で退けてしまわれるのです。



 それらの人々の中には、誠心誠意キリストに従っていると、思い込んでいた者もいたはずです。あるいは、まったくの偽りもので、始めから毒麦として入り込んでいたものかも知れません。ただ、キリストのお言葉からは、自分たちが毒麦であることを、彼らは自覚していないように読み取れます。とにかくそのあたりの細かいことは不明だとしても、明白なのは、大きな業を行っていることが、そのまま、キリストの承認を受けていることの証拠にはならないし、キリストの弟子であることの証明にもならないということです。言い換えるならば、業それ自体では、何の証拠にも証明にもならない言うことです。



 UG 力ある業や不思議で選民をも惑わす者たちが出現すること
 


 もうひとつ衝撃的なものを挙げると、「にせキリスト、にせ預言者たちが現れて、できれば選民をも惑わそうとして、大きなしるしや不思議なことをして見せます」というキリストのお言葉があります。(マタイ24−24) ここでは、これらの偽者たちが、本物たちよりもむしろ大きな力ある業を行うようなのです。しかもそれは、キリストや預言者の名をもって行われるのです。それで、選民たちまで騙されてしまうのです。この「選民」という言葉は、直接的にはユダヤ人を指すものだと考えられますが、クリスチャンにも適応されると考えると、非常に恐ろしいものです。ユダヤ人も、クリスチャンたちも騙される可能性があるのです。あたかもキリストであり、預言者であるかのように語り、行動するのでしょう。なかなかその本質を見抜けないほど、巧妙に騙し続けるのでしょう。そしてその騙しのテクニックの中心が、大きなしるしや不思議を見せることなのです。



 大切なのは、彼らが正真正銘の預言者であると宣言し、正真正銘のキリストだと語っても、そして彼らがどのように大きな業を行い、どれほど多くの信奉者を集めていたとしても、それを信じてはならないことです。つまり、またもや同じことですが、業それ自体では、何の証拠にも証明にもならないのです。また、彼らが自分たちをどのように言いふらしていても、まったくあてにはなりません。彼らは偽り者であることを自覚して偽り、だまそうとして選民さえだますのですから、本物よりも本物らしいのでしょう。ですから彼らの教えや活動も、とにかく本物に似ているはずです。クリスチャンは、非常に注意深くなければなりません。大きな警鐘です。



V 不思議や力ある業について、聖書に基づいての考察



 不思議や力ある業についてのキリストのお言葉について、簡単に見てきましたが、ここではそれらのキリストのお言葉をも含めて、もう少し聖書全体から関係ある教えや記事を探し出して考察してみましょう。



 VA しるしとして機能する業 
 


 聖書に記されている、さまざまな奇跡的業を注意深く観察すると、それらは、いくつかに分類されます。



  VA1 旧約時代
 


 旧約時代の業のほとんどは、しるしとして機能しました。この頃のみ業のほとんどが、神観念の低いというか、神様についてあまり理解をしていない人々を対象に、行われていたことがわかります。

 

 まず神様がモーセに現れてくださったとき、燃える芝の不思議を見せてくださいました。それは、神観念がまだまだ曖昧だったモーセに対する、神の自己紹介でした。神のことを充分には理解していなかったモーセに対し、神は、ご自分の力を示すために、モーセの杖を蛇に変えて、またそれを元通りにしてくださり、さらにモーセの手を雪のように白くし、元通りに直してくださったのです。



 パロの前で行った蛇の奇跡は、モーセに対しては、神が約束をお守りになる神であることの証明でしたが、それ以上に、神のことをまったく知らないパロに対する、神の自己顕現であり、異教の神々、あるいは異教の呪術に対する力の対峙でした。ここまでの奇跡的業は、みな業そのものの必要性があったわけではなく、ことごとく、しるしを目的としたものでした。



 そしてそれに続く10の災いの業も、パロとエジプト人に対する神の力のしるしであったと同時に、イスラエル人に対する神の自己啓示であり、力を示し、信頼に足る方であることを示すしるしでした。エジプトに対する神の刑罰という側面はあったとしても、これらの奇跡も、業それ自体に大きな必要性はなく、しるしを目的としていたと判断されます。その後の火の柱と雲の柱は、カナンへの道を知らなかったイスラエルを導くためのものであり、また明らかに、追跡してくるエジプトの軍勢をイスラエルから隔てておくためでした。しかし、それはイスラエルの人々への、神の臨在の強いしるしとなりました。



 これから後の、紅海が分かれる奇跡、苦い水が甘い水になる奇跡を始めとする数々の奇跡は、みな、直接的にはイスラエル民族を助けるための奇跡ですが、すべて、神観念の低いイスラエル人への神の自己顕現として、教育的な目的を持つしるしでした。イスラエルの民は、常に周囲の民族の異教文化に影響されて、偶像礼拝に陥る危険の中にいましたので、神は、ご自分こそ力ある神であることを、教え続けなければなりませんでした。そのために、たとえばエリコの城壁を崩すというような、スペクタクルなことを敢えてやってくださったのです。神様は、もっと自然な方法でイスラエルに勝利を与えてくださることもできたはずですが、イスラエルへの目に見えるしるしとして、城壁を崩してくださったのです。



 ギデオンに現れてくださった神は、まさに、しるしのための業、しるしとしての目的以外に、何の目的もない業を行ってくださいました。2回にわたる夜露のしるしです。これも、神様に対する知識と信仰が足りなかった、ギデオンに対する神の自己顕現です。一般に神観念、神の理解が低かった、旧約時代の初期においては、神は敵対するものに対する力の誇示としてだけではなく、お用いになる「神の人」への励まし、勇気付けの自己顕現もしなければなりませんでした。



 列王記や歴代史の時代にも、神は、いくつもの奇跡を行っておられます。直接的には、イスラエルの必要にお答えになる形ですが、神が力の神であり、救いの神であり、哀れみを持って助けてくださるお方であることを示す、しるしとしての機能を持っていました。バアルの預言者たちと争ったエリヤに、火をもってお応えくださったのも、明らかな力の対峙で、しるしの機能をもったものでした。バビロンの捕囚時代の神も、シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴが、ネブカデネザル王の命令に背いて金の像を礼拝しなかったとき、彼らを七倍熱く焼かれた炉から守り、ペルシャ王ダリヨスの時代には、ライオンの穴に投げ込まれたダニエルを救い出してくださいました。これらも、イスラエルの神がまことの神であることを、王たちをはじめ、一般の人々にも広く知らせるためのしるしとして、役割を果たしました。



 旧約時代の多くの業の特徴は、このように、しるしとしての機能を持っていたということです。それは、人々の神観念の低さを考慮してくださった、神の対応でした。



   VA2 キリストの時代
 


 キリストも数々の奇跡、力ある業を行ってくださいました。キリストが行われたみ業はすべて、聖霊の力によるものであり、神のみ姿を一時的とはいえ放棄なさった、第二神格の神の力ではなく、第三神格の神であられる聖霊の力によるものです。キリストは私たちと同じ人となり、聖霊の力なしには、大きな働きをすることができない方になってくださったのです。そしてキリストのみ業の特徴は、神を知らない人々に対して神の力を見せることではなく、神について充分理解しているイスラエル人に対してのものであり、彼らが待ち望んでいた、神の国がすでに到来していることの証明でした。(マタイ12:28) それはとりもなおさず、その業を行っている人物が、神の国の王であり、キリストであることの証拠でもあったのです。(マタイ11:1−6)



 ラザロを蘇生させるという奇跡は、キリストがご自分のみ業を、しるしとして、最大限に用いようとなさったことが示されています。キリストはラザロが死にかけていることを良くご存知の上で、わざわざ、ぐずぐずと出立を遅らせて、ラザロが死んで4日もたってから、彼の墓にお着きになったのです。ラザロの体はすでに腐り始めていました。人々はそのことを良く知っていました。ですから、ラザロの蘇生は単なる蘇生、時として見られる自然現象の蘇生でも、小さなショックを与えて生き返らせる蘇生でもなく、現代的な言い方をするならば、「肉体のすべての細胞が死んでからの」、絶対に不可能な奇跡として、人々に伝えられていったのです。とくにこの奇跡は、死をも打ち破ってくださるキリストの力を示し、キリストが死を超えた救い主であることを、証明したものです。それは、間もなく起こるキリストご自身の復活に対して、心の準備をさせるものであり、約束された永遠のいのちに対する、希望を持たせるものでもありました。キリストはそのようなことを見越した上で、出立を遅らせることになさったのです。 



 キリストの奇跡的み業を調べると、ご自分の弟子たちだけを対象としたものが、いくつかあります。たとえば、嵐を鎮めたこと、水の上を歩かれたこと、魚の口から金貨が出ることを予告なされたこと、ロバの子がつながれていることを知っておられたこと、などなどです。これらは、キリストの弟子とは言え、やはりキリストに対する理解と信仰に、まだ、はなはだ不充分なところがあった彼らに対して、教育的な意味を持っていました。その意味では、キリストがいらっしゃらなかった時につぶやいたトマスの言葉を、キリストがよくご存知だったことは、その教育的目的を大きく果たすことになりました。トマスは「私の主。私の神」と告白し、この期に及んで、改めてキリストを神として礼拝したのです。(ヨハネ20:28)


 このように、キリストのみ業の多くも、しるしとしての機能を持っていたのです。



   VA3 使徒時代
 


 使徒の時代の最初の奇跡は、神殿での足なえの癒しでした。これもまた、大きなしるしとして機能しました、この場合、この癒しが証明したのは神の力でも、キリストの力でもなく、キリストの甦りであり、キリストが死に打ち勝った救い主であるという事実でした。また、教会がキリストの権威を持っているということでした。



 その後の奇跡も、キリストの蘇りが真実であり、教会と共に働いておられるというしるしでしたが(マルコ16:20)、 パウロの異邦人宣教の開始から、また異なった意味でのしるしとなって行きました。それはあたかも旧約時代にもどったかのようです。つまり、異邦人宣教の中での奇跡は、神観念の低い異教の人々に対する、真の神の力の証拠として、力の対峙の形で行われているのです。パウロたちは、異邦人宣教の最初の場所として行ったキプロスにおいて、バルイエスという魔術師に遭遇し、彼の目を見えなくしてしまいます。これがしるしとなり、その地の総督、セルギオ・パウロは真の神を認め、キリストを信じるようになりました。(使徒13:4-12) 彼らが、福音宣教旅行の中で行っていた癒しや奇跡の業は、彼らが語る福音の真実性を証明するものとなったのです。(使徒14:3) しかし、使徒たちの宣教においては、癒しや奇跡自体では、しるしとしての役割を充分に果たすことがありませんでした。あくまでも、まず明確な福音の提示、宣教の言葉があって、それを補佐するものとして力があったのです。(使徒14:8−18) 福音の明らかな提示のない奇跡は、異教文化の偶像礼拝の中に、埋没してしまうのです。(使徒14:8−18、28:1−10)



 面白い出来事は、エペソにおけるユダヤの祭司長、スケワの7人の息子たちにまつわることです。彼らはユダヤ人であり、祭司長の息子でありながら、異教の習慣に染まって魔よけ祈祷師をやっていたのですが、パウロたちがやっていることをまねして、キリストのみ名によって悪霊を追い出そうとしたのです。ところが悪霊たちは、「イエスもパウロも知っているが、お前たちは何者だ」と言って、彼らに飛びかかり、裸にして傷を負わせて追い出したのです。この出来事は多くの人々の知ることなり、主イエスのみ名があがめられるようになりました。(使徒19:11−20)



 このように聖書に記されている多くの奇跡的な業は、明らかにしるしとしての役割を持っていました。また、たとえそれを直接の目的としてはいなかったとしても、結果としてしるしとしての役割を果たしていました。

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2010年11月14日

しるしを求める時代 (4)


 VB しるしとして機能しない業



 しかし一方でキリストは、さまざまな奇跡的業が、しるしとしての役割を果たさないことがあることも、はっきりとお教えになりました。すでに触れたように、キリストは、ご自分の名によって悪霊を追い出し、奇跡をたくさんおこなった人々を、終わりの日に拒絶する可能性があることをお告げになりました。また、偽キリストや偽預言者が出現し、大きなしるしや不思議なことをして、選民をも惑わすと警告しておられます。この事実は非常に大切です。そのことがいつ起こるかという点は、確実ではありませんが、一般的な事柄としては、いつでも起こりうると考えておくべきだと思われます。



 そして、これらのお言葉からはっきりと分かることは、神の言葉を語ったり、悪霊を追い出したり、奇跡を行ったりすることは、キリストの弟子である保証にも、神に用いられていることの証明にも、またその業の背後に神がおられるという証拠にもならないという事実です。キリストは、一方では業がしるしとなることを積極的に認め、これを利用し、ご自分を信じることができないものは、そのみ業を見て信じるようにと、おっしゃいましたが、他方では、業それ自体では何の証拠にもならないと、おっしゃっているのです。



 また、そのようなしるしとはなりえない業を行う者たちにも、二種類あることもわかります。ひとつは、自分がキリストの弟子であると信じている人々です。彼らは、自分たちが、キリストがお教えになったことを教え、キリストが行われたことを行っているから、キリストの弟子であるに違いないと思い込んでいました。



 そんな彼らを、キリストが退けられるには、いくつかの理由が考えられます。ひとつは、彼らの信仰が間違っていることです。つまり、キリストの贖いを、自分のものにできないでいたことです。それから、倫理的にキリストの御心から大きく外れていたことです。理屈としては正統な信仰を持っていたかもしれないけれど、聖霊を内に宿す経験をしていなかったということです。また、一時期は正しい信仰と正しい倫理によって歩んでいたけれども、信仰の道を踏み外していたということも可能です。さらに、キリストの教えを断片的には正しく教えていても、全体的には大きな間違いを犯し、真理から遠ざかっていたということも考えられます。どちらにしても、この種の人々に従ってはならないのです。



 もう一つの種類はさらに悪質で、最初から人を欺く目的でいろいろな業を行う、偽キリストや偽預言者です。彼らは自分がキリストの弟子であるなどとは、はなから思っていません。もともと、キリストや預言者を装って、人々を騙そうとしているのであり、その目的のためには手段を選ばず、さまざまなテクニック、超能力、さらには霊的な力を用いるのです。現在テレビなどで盛んに行われている奇術や魔術の業を用いるならば、非常に多くの人々を騙すことができることでしょう。たとえば、ペテロに叱られたシモンも、そのようなテクニックをも駆使して、自分を大きく見せていたということも考えられます。(使徒8:9−24) 金を出して、聖霊のバプテスマを与える力を買おうとしたところなど、ありそうな話です。また超能力者ならば、かなりの線まで人々を騙し続けることができるでしょう。さらに、悪魔や悪霊と手をつなぐならば、大群衆や選民たちまで、騙すことができることでしょう。



 自分はキリストの弟子であると思い込んで業を行っていながら、その実、そうではなかったという人々と、最初から偽者であることを自覚し、人々を騙す目的でやっている人々を、本物のキリストの弟子から判別する作業は、困難を極めます。これは一般の信徒たちに限らず、伝道者や神学者にとっても同じです。その困難さは、キリストも毒麦のたとえでお話しになっている通りですから、私たちは、これに対しては、非常に注意深くあたらなければなりません。(マタイ13:24−30)



 しかし牧師たるもの、ただ困難だといって言い訳をしているわけにはいきません。群れを守る役割を与えられている牧者として、最善を尽くさなければならないのです。特にペンテコステ信仰に立つ私たちは、奇跡的な業を信じているために、多くの福音派の牧師のように、奇跡的業をことごとく否定したり、悪魔からのものと断定したりして済ませることはできません。ただ、偽キリストを判別するのは、しっかりと聖書を学んでいる人には、比較的易しいことのように思われます。偽キリストは、聖書を知らない一般の人々、あるいは新約聖書を認めず、いまだに旧約聖書の独自の解釈から想定されるキリストを待ち望んでいるユダヤ人に、受け入れられることになるでしょう。



 またすでに触れたことですが、キリストは、ご自分がなさった力あるみ業を、人々に知られないようにするために、「だれにも言ってはならない」と、お命じになったことが幾度かあります。人々に知られたならば、しるしとして効果を発揮したであろうものを、キリストは敢えて人々からお隠しになったのです。それはキリストの時がまだ来ていなかっただめです。



 キリストは、ご自分のみ業に興奮した人々が、無理やりにご自分を担ぎ上げて王にしようとする、不穏な動向を予め知っておられました。キリストの主だった反対者は、ユダヤの指導者たちで、彼らも自分たちの国家の独立を望んでいたとはいえ、最大の心配は、むやみやたらに暴動が起こり、結果として、宗主国であるローマの駐屯軍が鎮圧に乗り出し、国家が蹂躙され、弱体化してしまうことでした。彼らは、この時点でローマと一戦を交えるのは、なんとしても避けたかったのです。そこで指導者たちは、できるだけ早く、キリストを亡き者にしようと画策していたわけです。(このときからおよそ40年後、ユダヤ人はローマに反旗を翻して立ち上がりましたが、完全に敗北して、紀元70年、国家としてのユダヤはここで完全に崩壊し、歴史から姿を消してしまいました。)



 そういうわけで、キリストのみ業が多くの人々に知られ、人々の期待と興奮が、あまりにも早いうちに沸騰しては、キリストが地上においでになった使命をやり遂げる前に、死を迎えるはめになりそうだったのです。キリストはそれを回避するために、人々の口に鍵をかけようとなさったわけです。キリストは、癒しなどの奇跡のみ業の必要性を認めながら、そのしるしとしての効果をお嫌いになったのです。



 VC しるしの必要性
 


 業には、確かにしるしとしての効力も、しるしとしての目的もありました。今まで学んだところから分かるのは、業のしるしが必要であると認められている人々と、認められていない人々がいるということです。



  VC1 しるしの必要を認められている人々



 まず、しるしを必要としていると認められ、業がしるしとして与えられているのは、基本的に、神の概念の低い未信者や、福音理解の乏しい人々であるという事実を、理解しなければなりません。



 すでに学んだように、イスラエルの歴史の初期において、人々の神観念と信仰理解が非常に幼かったとき、しるしは、真の神が誰であるかということを悟らせるために、大きな意義を持っていました。しかし、イスラエルの神観念が発達し、信仰理解も深まるにつれて、しるしの目指すところ、すなわちその業が何のしるしになるのかという点において、変化が起こっています。



 キリストの時代になると、ユダヤ人はすべて偶像礼拝を捨て、基本的に真の神を知るようになっていましたので、以前のような目的のしるしは、不要になってしまいました。かわりに必要となったのは、キリストが神の権威を持っていること、神の国(神の支配)が現実に到来していることを示すしるしでした。



 それから使徒時代になり、福音が異邦人の世界に及ぶ前に、特異なしるしが人々に与えられました。それは神殿における足なえの癒しです。この癒しは、キリストが甦って働き続けておられることを、人々に認めさせるしるしとなりました。そして、福音が異邦人に及ぶに至って、また、神観念の低い異邦人に真の神を知らしめる必要が起こり、力の対峙の形でしるしが現れています。

 

 40年ほども前になりますが、当時沖縄で活動していた筆者の近くに、すでに相当高齢の牧師が住んでおられました。この牧師は「ユタ」と呼ばれる、沖縄独特の女性霊媒師について研究していたのですが、実際、時折ユタたちの総本山のような場所に出向き、彼女たちの活動の様子を観察していたものです。するとあるとき、ユタたちが牧師の前に来て、「あなたの背後にいらっしゃる大きな神様を恐れて、私どもの神様が降りて来ることができません。どうか、この場を離れてくださいませんか」と、丁重にお願いしたというのです。この牧師はペンテコステ信仰とは程遠い方でしたが、その真摯な信仰態度に、わたしはとても感動していたものです。牧師は力の対峙などしようと思ってもいなかったようですが、霊的次元ではそれが起こっていたのです。力の対峙は、福音の未開地、特にアニミズムの強い文化では、かなりの効果を持って福音宣教の支援になると考えられます。キプロスでクリスチャンになったセルギオ・パウロの場合と同様のことが、現代でも起こっているのです。(使徒13:4−12)



 たとえば現在、第三の波と呼ばれる新しいペンテコステ運動で活躍している人々の中には、もともと、現代の奇跡などを信じることができない、伝統的信仰を持っていた人々がたくさんいます。彼らの多くは、宣教師としてアニミズムの強い文化背景に入り、そこで、ペンテコステ系の人々が行っている、キリストのみ名の権威による癒しや奇跡を見て、信仰理解や神学を変えたと語っています。



 さらに、当時のキリストの弟子たちも、しるしを必要としていました。弟子たちの理解の遅さ、信仰の幼稚さを補足するためには、どうしてもしるしが必要でした。弟子たちは、わずか3年と少しの訓練期間の後には、キリストの弟子として、福音宣教と教会設立の大役を、担わなければならなかった上に、ある者は、さらに、新約の啓示を記録する重要な役割さえ負わされていたのです。彼らの神観念そのものは、ユダヤ人として、当然、かなり高度になっていましたが、ナザレのイエスこそ、国民全体が数百年も待ち続けていたキリストであるという、理解と信仰はまだまだ不充分でした。



 ここで確認しておかなければならないのは、当時の彼らには、まだ奥義が明らかにされていなかった、すなわち新約時代の啓示がまだ与えられていなかったという事実です。神の贖いのお働きを体系的に教える新約聖書が、まだ書かれておらず、キリストがお語りになったことを解き明かしてくださる、聖霊のお働きもまだ始まっていなかったのです。したがって、たとえ3年半にわたって、キリストと寝起きを共にした内弟子であっても、彼らの福音全体の理解程度は、現在の私たちに比べても、ずっと低かったのです。キリストが昇天するその日にいたっても、まだ、「主よ。今こそ、イスラエルのために国を再興してくださるのですか」などと、的外れなことを言っているのです。この期に及んでも、弟子たちが期待していたのは、イスラエル国家の再興と、キリストが王座に付くことであり、あわよくば、自分たちが右大臣左大臣に任命されることだったのです。



   VC2 しるしの必要を認められていない人々



 ところが、甦られたキリストは、キリストの甦りをどうしても信じられなかったトマスに向かい、「あなたは見たから信じるのか。見ないで信じるものは幸いである」と、おっしゃいました。キリストの3年半に及ぶ訓練期間が終わる頃には、弟子たちは、見て信じる信仰から、見ないで信じる信仰へと、成長していなければならなかったのです。すくなくても、キリストはそのように望み、期待しておられたのです。



 それなのに、キリストのよみがえりを信じられず、目で見、手で触れるものを信じるという、実証主義を採ったトマスは、さしずめ、現代の科学者を代表するような考え方をしています。それに対し、キリストが彼らに期待しておられた信仰は、蘇りという信じ難い出来事でさえ、甦られたキリストを実際に見て信じるのではなく、甦るはずだと待ち望み、甦ったと聞いてすぐさま信じる信仰だったのです。旧約聖書をしっかり学び、キリストの教えを総合的に理解していれば、甦りは信じられないような、突然の出来事ではなく、期待しながら待ち望むべき、神のご計画だったのです。(ルカ24:25−47) 残念ながら、当時の弟子たちもみな、現代の私たちと同じ不肖の弟子で、この、「そうあるべきだった」信仰の地点までは、到達できずにいたのですが、少なくても弟子たちは、そのような信仰を期待されていたのです。彼らは本来、しるしを必要としない人々に、なっているべきだったのです。



 さらにキリストは、パリサイ人や祭司たち(サドカイ人)さらには律法学者などの、ご自分に敵対する人々には、しるしの必要性を認めていません。その理由は多分、まず、彼らは信じないこと、受け入れないことを前提として、しるしを求めていたことです。どのようなしるしを見たとしても、受け入れないと決心しているものには、無駄というものです。(ルカ16:31) また、彼らは旧約聖書の専門家でした。彼らは聖書を学んで、キリストについての正しい知識を得ているべきだったのです。そうすれば、しるしを見なくてもキリストを信じることができたはずなのです。



W 私たちにはしるしが必要と認められているか



 さて、大切な問題は、現代の私たちにはしるしの必要性が、認められているかどうかということです。認められているとするならば、なぜそういえるのか、認められていないとすれば、いかなる理由からか、考えてみましょう。



 WA 現代におけるしるしの必要性



 日本は異教文化です。パウロが異邦人宣教を行ったときと、基本的に変わりません。もちろん、人々は非常に合理的な、あるいは科学的なものの考え方をしています。したがって、パウロの時代の異邦人のような、迷信深い考えかたはしていませんし、世界観も当時の人々の世界観とは異なっています。



 しかし先にも触れたように、日本人には、精神的二重構造ともいえるものがあって、一方では非常に科学的なものの考え方をして、神を始めとして、あらゆる霊的な存在を否定する傾向がある一方で、その同じ人間が、折に触れては神社仏閣に詣で、運勢占いに一喜一憂し、霊媒師や占い師のもとをたずねるのです。進化論を正しいと信じていながら、幽霊だの、背後霊だの、あるいは前世だのを信じているのです。その様なものが、進化の過程のどの時点で、なにから進化して発生し、どのように現れてきたのか説明してほしいものですが、一般の日本人は、それで矛盾を感じていないのです。現代の日本も、基本的にアニミズムの世界なのです。多くの人々は科学とは別の次元で、何らかの霊的な、あるいは超科学的な力が働いていると、信じているのです。



 このような人々の間では、まだまだしるしと不思議による働きは効果があります。まじない師や占い師、あるいは宗教家たちが不思議や奇跡を行っている場面に遭遇し、どうしても力の対峙が必要な場合には、不思議や奇跡による力の対峙もあり得るでしょう。またなければなりません。福音は、特に異教世界においては、賢い言葉だけによるのではなく、力によって伝えられなければならないのです。(ローマ15:19、I テサロニケ1:5)

                                  つづく












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2010年11月15日

しるしを求める時代 (5)



WB 現代におけるしるしの可能性



 では、日本では不思議やしるしが多発すべきかというと、考えなければならない点がたくさんあります。まず日本の文化が、そのようなしるしを求めているかということです。日本の大衆は、興味本位の、不思議や奇妙なものは、娯楽として、話の種として求めていても、真実なもの、信頼性のあるものとしては、あまり求めていません。占い師や霊媒師に伺いをたてることがあっても、それを真実に重んじる人はわずかです。そのようなものと力の対峙を行ったところで、単に好奇心を満たすだけのことに終わり、真実なもの、信頼性のあるものという感覚からは、かえって離れてしまうという欠点があります。



 もしも私たちの周囲で、モーセのときのように、持っていた杖が蛇になったり、手が白くなったりしたならば、あるいは蛇になった杖が、もう一匹の蛇を飲み込んだりしたならば、見世物としては、大いに面白いでしょう。しかし、信頼性という意味では、まったく欠けてしまいます。街頭の奇術師でも、その程度のことはするでしょう。天地創造の神が、奇術のレベルに失墜するのです。神の救いの歴史が、珍奇な見世物に成り下がってしまうのです。これではしるしがしるしとして役に立ちません。



 ですから、そのような形での力の対峙や不思議、あるいはしるしは、神観と共に、すべての物事に対する理論的な思考ができなかった時代に、限られていました。聖書を読むとそのような形のしるしが行われたのは、旧約時代の初期から中期に至るまでで、その後は行われなくなっています。イエス様も、悪魔の試みの中の一つがその種のしるしの要求だったことに対し、断じて拒絶なさいました。同じ異教の文化の中での働きであっても、使徒の働きの記録の中には、しるしだけを目的としたしるしは出てきません。したがって、その種のしるしは旧約時代の初期に限られていたと、判断して良いでしょう。現代の世界で、人々の世界観や神観、あるいは思考力というものが、旧約の初期の時代と同じような文化があるならば、その中において、しるしを目的としたしるしもまたあり得るかもしれません。しかし、日本の文化の中では、まずあり得ないことでしょう。



 一方、新約聖書の記述を読むと、キリストも使徒時代の弟子たちも、多くの癒しや悪霊の追放を行い、それが結果として良いしるしとなっています。弟子たちの信頼性、あるいは彼らが語る福音の真実性は、彼らに伴って行き、共に働いてくださった聖霊のみ業によって、すなわち、癒しや悪霊追放を始めとする、聖霊のお働きによって、証明されていったのです。そのような形での聖霊のみ業に対する必要性は、今もたくさん存在します。医学が発達し、多くの病気は医学的な治療で治るようになりました。しかし、まだまだ奇跡的癒しの必要性は残っています。また、たとえ医学が発達したとしても、結局、癒してくださるのは神であって、薬でも、人間の手でもありません。医者だけに頼って、神に頼ることを忘れたために、結局、死ななければならなかった、アサ王のようになってはいけないのです。



 WC 現代日本人クリスチャンに対するしるしの必要性



 さて、ここで問題なのは、現代の日本に住むクリスチャンに、果たしてしるしが必要かということです。癒しや奇跡、悪霊の働きに対する勝利というものはあり得るし、なければならないでしょう。そしてそれらは結果として、福音の信頼性を増し、神に対する信仰の強化につながることでしょう。しかし、いまの私たちの信仰に、しるしは必要なのでしょうか。



 最近のペンテコステ系の人々の一部で、話題となりもてはやされたりしている、金歯が生えてきたり、銀歯が金歯に変わったりすることには、何か意義があるのでしょうか。なくなっていた歯が生えてきたり、ひどい虫歯が健康な歯になったり、歯痛がなくなったりしたのなら、それなりの意義があることでしょう。あるいは集会の中で、金粉が降って来たり、金粒が落ちてきたりすることに、必要性があるのでしょうか。そのようなことを宣伝し、報道する必要があるのでしょうか。豊かな「キリスト教国」の、「繁栄の福音」の犠牲になっている発展途上国で、今にも飢え死にしそうな子供たちの上に、食べ物が降ってきたというなら、素晴らしい奇跡かもしれません。報道の価値があるともいえるでしょう。



 少し前に、拙文をウェブで読んだ牧師から電話がありました。この牧師の教会に出席していた信徒の親が、金粉だの金粒だのが降る集会に出席して、驚き、子供たちまで連れてそこに出かけるようになったために、結局、その信徒はそちらに捕らえられてしまったということです。このようなしるしとしてのしるしが、日本の、クリスチャンたちの間で行われ、もてはやされているという事実に対し、私たちはどのように考えるべきでしょう。



 「そうですか。今度は金粉ではなく、金の粒ですか。重くなったんですね。私もそこに出かけて拾い集めたくなりますね」とお答えしましたが、果たしてそれがまさしく金だったのか、金色に光る物体だったのか、あるいはあたかも金が降ってくるように見えた現象なのか、詳しいことは知りません。しかし、こうなると、ばかばかしくて話にもなりません。すでに学んだように、このような、他に明確な必要性のないしるし、しるしだけを目的としてしるしは、旧約時代の中期にはすでに終わっているのです。現代の日本人クリスチャンは、旧約時代前期の、神を知らない人々と同じ精神構造になってしまったのでしょうか。



 神に不可能はありません。金粉や金粒なんぞとみみっちいことは言わず、金塊だって、ドーンと、1トンもある金のかたまりだって降らせることがおできになります。ダイヤモンドだってサファイヤだって、降らせることが可能です。でも神様は、今はそのようなことをなさらないのです。現在の私たちの周囲に起こる不思議や奇跡は、必ずそれ自体の必要性があって行われ、それが結果としてしるしになるのです。神にはできるということと、神がなさるということの間には、大きな違いがあるのです。筆者にも、人殺しができますが、筆者は人殺しはしません。できるけれどしないのです。



 さらに、現代の私たちには、完結した啓示と霊感の書が与えられ、また、その書を正しく理解できるように、聖霊の助けも与えられているという事実を、思い起こさなければなりません。私たちには聖書があり、聖霊の照明と、聖霊の証印が与えられているのです。もしも、キリストの弟子たちが、トマスに求められたように、訓練の終わり頃には見て信じるのではなく、見ないで信じることを求められていたとするならば、神の救いのご計画全体と、三位一体の神のそれぞれの神格のお働きについて、明らかに記している聖書が与えられている現在、そのうえ、聖霊が解き明かし、証をしてくださっている現代に生きる私たちには、なおのこと見ないで信じる信仰が、求められているのです。



 それにもかかわらず、いまさら、しるし以外になんの目的もないしるしを期待するのは、実におろかなことです。また、そのようなしるしを見せられることが、偉大な神の働き人であることの証明であるかのように考えるのも、実に愚かなことです。そのようなしるしを行う人々を、神の人とあがめるのも愚かである以上に、危険なことです。



X 偽りの預言者



 さて、もしも現在、純然たるしるしを目的としたしるしを行い、それを宣伝している、あるいは人集めの道具にしている者がいたとするなら、私たちは彼らについて、どのように考えるべきでしょう。実際、そのような伝道者や牧師、教師や宣教師、さらには使徒だとか預言者と自称している人々がいるということなのです。



 XA 警戒をする
 


 その種の人々がいたならば、まず私たちは警戒をしなければなりません。神の名を騙って、神のみ業ではないことを行っている可能性が、非常に高く、そこには単なる間違い以上の、悪意を感じるからです。神がそのような不思議や奇跡、あるいはしるしに関わっておられないとしたら、彼らは、何の力でそのようなことをしているのでしょう。テレビで行っている手品や奇術と同じでしょうか。あるいは超能力でしょうか。はたまた、悪霊どもの力によるものでしょうか。いずれにしろ、神の名を騙っているのです。善意で行われているのではないのです。



 ただし、そのような人々と行動を共にしていたり、交わりを持っていたりする人すべてが、同じなのではありません。彼らも騙されている可能性が高いからです。とはいえ、それらの人々や、それらのグループ、あるいは彼らの行う集会などには、警戒心を研ぎ澄ませるべきです。そして、誰が指導者か、誰が中心的働きをしているのか、しっかりと見極めなければなりません、



 騙されている可能性の強い人々にもいろいろあって、ある人々は、かつて福音派の信仰を持っていたけれども、自分たちが否定していたペンテコステ系の人々の働きと業を実際に見て驚嘆し、ペンテコステ的な考えを持つようになったものです。彼らは自分たちもまた、イエスのみ名によってさまざまな癒しや奇跡を行うことができることを発見し、有頂天になり、少々極端に走っているといえます。いわゆる、先に触れた通り、第三の波運動に属する人々の多くがこれに相当します。



 70人の弟子たちが帰ってきて、み名によって命じると悪霊どもでさえ従うことに、すっかり興奮していたとき、キリストは、そのようなことで喜ぶのではなく、自分たちの名が、天に記されていることを喜ぶようにと、まあ、ちょっと頭を冷やし、何が最も大切なことかを確認させました。同じことが彼らにも言えます。彼らは現代における奇跡を否定していた極端から、奇跡に舞い上がる極端に、いわば、時計の振り子のように振れているのです。私たちは彼らが頭を冷やすことを願っています。



 この人々の欠点は、聖書をしっかり学ばず、自分たちのかつての神学の上に、表層的な現象主義
的な聖霊論を乗っけただけの、中途半端な理解をもって満足していることです。これらの人々がかつて学んだ改革派系の神学に、聖霊論をくっつけても、竹に木を接ぐようなものです。バプテスト的な神学でも、ウエスレアンの神学でも、同じです。もう一度、自分たちの神学を離れて、純粋に聖書から学ぶ必要があります。
 


 XB 警戒すべき人々



 今、私たちが最も警戒しなければならないのは、これらの人々としばしば行動を共にしていながら、これらの人々とは異なった部類に属する者たちです。彼らは始めからペンテコステ系の、極めて異端に近い人々、あるいは異端というべき人々の中から、あるいはそのような人々との交わりの中から生まれてきた者たちです。



 それはいわゆるレストレーション運動、後の雨運動、あるいは預言運動の人々です。レストレーション運動は、その胚芽期にすでにアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団からは公式に否定され、1948年の組織運動としての誕生の直後にも再び否定されたものですが、現在、第三の波系の人々と渾然一体化しながら、非常に活発に活動し、ペンテコステ系の教会はもとより、多くの教会に悪い影響を与えています。後の雨の人々、あるいはその影響を受けている人々を見分けるのは、比較的に簡単です。今のところ、彼らの用いている言葉が独特だからです。それらの言葉に触れたならば、霊的警告灯がつくようにしておくのが良いでしょう。それらの言葉の代表的なものを上げておきます。ただし、英文の翻訳の問題上、実際に日本で使われている言葉は、幾分違う可能性があることを理解してください。



 「後の雨」「ダビデの幕屋」「現された息子」「今の王国・支配」「ヨエルの軍隊」「代々にわたる呪い」「神の国に産み出す」「五つの役職」「預言の回復」「預言者」「使徒」「按手」「教会刷新」「セル・グループ」「新しい皮袋」「キリストの霊的再臨」



 後の雨運動は、ウイリアム・ブランハム(1909−1966)という非常に有名であるけれども、はなはだ怪しいペンテコステ系の伝道者の影響を受けています。彼は癒しと預言の働きで、全世界で活動した人物ですが、ワンネスの教義を信じ(三位一体を信じられない)それを宣伝していたほか、「イヴの罪は蛇との性的関係である」にはじまるさまざまな奇怪な教えのために、正統的信仰からは外れていると判断されていました。後の雨運動の多くの教えの基盤となった預言は、彼の影響によるところが大きいといわれています。


 このような教えの流れと、その影響の中には、昨今、非常に話題を振りまいているトロント・ブレッシングがあります。それがアッセンブリーズ・オブ・ゴッドの中に飛び火した、ペンサコーラのほうは、たぶん、アッセンブリーズ・オブ・ゴッドの中にある「良識的力が働いて」すでに鎮火しているようですが、トロント・ブレッシングは現在もいたるところで悪影響を及ぼしています。単に笑いのリバイバルといわれる現象的な問題だけではなく、その神学自体が非常に奇怪で、正統的な聖書の理解と信仰からは、ほど遠いところが数々ありますし、単なる間違いではなく、明らかに悪魔、あるいは悪霊によるとみなすべき活動も随所にあります。指導者たちがひそかに悪魔の名を呼んでいる場面が、ビデオで撮影されたりさえしています。



 また、これらの運動の中には非常に巧妙なものがあり、たとえば、セル運動などは単なる教会の伝道方策や管理運営の方法の違いだけではなく、後の雨の神学の中でたくみに利用され、彼らの言う既存教会の壊滅と新しい教会の出現に、一役買わされているのです。そのようなこととまったく関わりなく、セル運動をやっている人々もたくさんいますが、いつの間にか後の雨運動に取り込まれているというものも少なくありません。


 
 X.C 本当の神の人たちを見極める

 

 キリストのみ名を用いて不思議な働きをしている人々すべてが、キリストの弟子だというのではありません。いつわりの弟子もいるのです。実に厄介なのは、本人はまったくキリストの弟子であると思い込んでいながら、キリストによって、弟子と認められない人々がいることです。さらに厄介なことに、彼らは本物のキリストの弟子たちよりも、大きな業を行うのです。



 旧約聖書を読んでも、すべての偉大な神の人たちが、しるしや奇跡を行ったのではありません。言い代えると、癒しや奇跡の働きをしていなくても、ひじょうに立派な神の人がいたのです。新約時代になって、キリストによって教会に委託された権威の中に、癒しや奇跡の働きが含まれるようになってからでさえ、すべての弟子たちが、すなわちすべてのクリスチャンたちが、そのような働きをしていたのではありません。そのような働きをしなかった大多数のクリスチャンたちの中にも、素敵に立派な信仰者がたくさんいたのです。ですから、行われているしるしや不思議を見て、それを行っている人の正真性を判断するのは、危険だと知っておくべきです。確かに、キリストもパウロも、行っておられた業のしるしとしての効果を認めておられましたが、それは、信仰程度の低い人々に対するものであって、成長した信仰者は、そのようなところを越えていなければならないのです。



 それはちょうど信仰の初心者たちは、自分の悩みの解消のために、自分の人生問題の解決のために、自分の幸せのために神を信じても良いのと同じです。キリストは、すべて重荷を負って苦労しているものはわたしのもとに来なさいと、自分の幸せのために神をさえ利用しようとする、いわばとんでもない罪をおかしている人々を許容し、彼らをお招きになっています。しかし、信仰は成長しなければなりません。自己獲得の信仰態度にいつまでも留まるのではなく、父、母、子、兄弟、そして自分の命さえ捨てて従うところまで、到達すべきなのです。それを、キリストはお求めになりました、同じように、しるしを見て信じる信仰から、より高い信仰へ到達すべきなのです。癒しや奇跡、不思議な業は、未信者や信仰の初期の段階においては、大いに有意義な場合があります。しかし、いつまでもしるしを求めるものであってはならないのです。



 キリストに敵対していた、パリサイ人を始めとするユダヤ人たちは、神理解という点において、また、救い主の理解においては、決して素人ではなかったのです。だから、彼らはしるしを求めてはならなかったのです。彼らは、キリストの教えの内容を理解し、受け入れるべきだったのです。それができなかったために、というより、したくなかったために、彼らはしるしを求めて挑戦したのです。今しるしを求めるクリスチャンたちは、どんな理由で求めているのでしょうか。ギデオンのように、確証がほしいのでしょうか。残念ながら、私たちには福音が明確に提示され、私たちの信仰と生活に必要なことはすべて教えられている、聖書が与えられているのです。その上、聖書を正しく理解できるようにと、聖霊が与えられているのです。よほど、個人的な特殊な事情の中でなくては、そのようなしるしの正当性がないのです。



 いま私たちの間で話題になる程度の不思議な業ならば、「取り巻き」であり「たにまち」であるクリスチャンにとっては、大騒ぎするほどの奇跡かもしれませんが、奇術や魔術や、超能力に慣らされている一般人からすると、まさにどれほどのことでもありません。空中浮遊なんて簡単な奇術です。ぱっと消えてしまうことだって、瞬間移動だってできます。透視だって、マインド・リーディングだって、サイコパワーだって珍しくありません。金粉銀粉程度のことで、大騒ぎをする信仰のほうがおかしいのです。



 もっともっと大きな、不思議なことをする偽預言者や、偽キリストがあらわれるのです。彼らは、堂々と自分たちはキリストであると名乗り、預言者であると主張します。そして、その証拠としてさまざまな業を行うのです。しかし業それ自体には、証拠としての効力はないのです。業は何の証明にもならないからです。



 結局、私たち、いくらかでも信仰の成長を見ているクリスチャンは、業によってではなく、その人たちの教える教えと生き方を注意深く調べ、観察しなければならないのです。彼らの信じていること、教えていることが聖書の教えに合致しているかどうか、また彼らの生活態度、倫理が、キリストがお教えになったものに合致しているかどうかです。それによって、だれが本当の神の人であるか、見極めなければなりません。それは容易なことではありません。ですから、しっかりとした聖書の学びと、信仰の指導者が必要であり、彼らの責任が問われるのです。



 そこで、本当の神の人を見分ける、現代ペンテコステ的な、具体的方法を考えてみました。もちろん完璧なものではありませんが、真剣に悩む人にとって、いくばくかの助けになるのではないかと思います。

                                     つづく













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2010年11月16日

しるしを求める時代 (6)


   XC1 聖書の多用と誤った解釈


 一般的に福音派の保守系の人々には、ブッシュ大統領がよくやるように、自分の主張を聖書にさせる傾向があるのです。聖書がそのように語っていると言って、「この紋どころが目に入らぬか」とやるわけですが、実際は、聖書がそのように言っていると、自分が、あるいは自分の仲間たちが思い込んでいるに過ぎず、本当は、聖書はそのように語っていないわけです。



 よきにつけあしきにつけ、ペンテコステ系の教会の伝統は、福音派保守系をもう少し極端にしたようなところがあります。ペンテコステ系のクリスチャンは、聖書の権威を絶対のものとして受け入れているために、聖書の言うことには平伏します。そこで、説教者たちは「この紋どころ」とばかりに、聖書を多用するのです。



 聖書を多用することは、必ずしも聖書の教えに立脚している証明にはなりません。聖書が正しく理解され、正しく現状に適用され、正しく用いられているかが肝心なのです。そこで、注意深い観察が必要になるのです。いささか専門的になりますが、現在のペンテコステ信仰にかかわる問題を考慮して、誤った聖書の用い方の要点をいくつか上げておきましょう。@ 聖書全体の教えを無視して、ひとつかふたつの箇所で、中心的主題としてではなく、中心的主題を説明するため触れられただけの、補足的事柄を取り上げて、自分たちの信仰や実践の基盤として用いる。たとえば、死者のための洗礼や(Tコリント15:29)、現在の使徒と預言者(Tコリント12:28、エペソ4:11)、あるいは按手(Uテモテ1:6)の主張などは、分かり易い例です。A 聖書が語っていないことを、聖書が語っているかのように主張する。たとえば、ヨエル書2:25の大軍勢という言葉を、世の終わりのときに神に敵対する軍勢であると主張するのは、的外れです。これはイナゴのことだからです。B 自分たちの誤った神学に合わせて聖書を解釈する。これは多くの教会がやってきたことですが、そのようなことをいつまでもやっていてはなりません。たとえば、現在でも使徒の時代と同じように、預言があると主張をして、その預言に聖書と同等の権威を持たせ、その預言にそった教えのために、聖書を利用するのです。先に述べた、現代の使徒や預言者の重要性の主張などは、ここに問題があります。つまり、聖書外の権威を持つことです。現代の預言運動、あるいはレストレーション運動は、怪しい預言者だったウイリアム・ブランハムの預言を発端としているのです。同じことは、怪しい預言だけではなく、たとえば福音派の統計学者であったピーター・ワグナーの唱えた、教会成長論にも言うことができます。彼は自分の主張を聖書の教えから得たのではありません。自分の考えを、聖書の言葉で補強しているだけです。ですから、彼らは今、いっしょに活動しているのです。



   XC2 正しい解釈を学ぶ
 


 ある人の主張が、本当に聖書の教えを基盤としているかどうかを見分けるためには、たえず、聖書の学びをし続けることが肝要です。聖書の全体的な知識を身につけることです。そして、今までにないような主張をしている伝道者や神学者を見つけたならば、彼らの用いる聖書の箇所が、正しく理解され、正しく適用され、正しく用いられているか、注意深く観察することです。その聖書の箇所について、多くの聖書注解書を開き、関係する分野の学びをすることによって、より正確に理解することです。目新しい解釈や珍妙な解釈に心を奪われてはなりません。それから、そのような珍しい主張をしている人の神学が、どこから来たかということ、すなわち信仰背景を学ぶことも助けになります。どういう信仰の背景と流れ、神学的傾向があるのかを見ることです。すると、後の雨、すなわちレストレーションの流れを汲むトロント・ブレッシングには、ウイリアム・ブランハムという異端的汚水が混入していることも判明してきます。トロント・ブレッシングに関しても、アメリカ・アッセンブリーズ・オブ・ゴッドは、正式に警告文を出していることも判明します。



   XC3 おどろかないこと
 


 ペンテコステ系の人々の行っている癒しや奇跡の数々に、驚かないことが大切です。驚いたり、感動したりすると、たちまち飲み込まれてしまいます。そのような軟弱なというか、ナイーブな信仰態度は、神様を知らない人々の態度であって、創造者である真の神を知っている人の態度ではありません。



 そのような信仰態度を持っていると、何かスペクタクルな出来事が起こると、そちらに移ってしまう、旅がらすのような信仰者になってしまいます。そのうちにクリスチャン信仰から外れて、インドのミステリーだとかアフリカの奇跡に、惹かれていくことも起こるでしょう。仏教の密教信仰に陥ることもあるでしょう。私の知っている教会は、癒しや奇跡を強調していましたが、近くに韓国系の教会ができ、そこではもっと多くの癒しや奇跡が起こっているからと、信徒たちが10名ほども移って行ってしまったそうです。でも、その韓国系の教会は、「悪霊とは、さ迷っている死者の霊のことだ」と教えているそうです。この場合、そのような基本的なことさえ理解できず、見える業に引かれて行くような、信徒を育ててしまったこと自体にも問題があるのでしょう。あちらで癒しが起こっているから、こちらで奇跡が起こっているからと、驚かないのが成長した信仰です。驚いてしまっては、しっかり聖書を学ぶことも、見分けることもできなくなってしまいます。



   XC4 人集めの癒しや奇跡



 新約聖書を見る限り、すなわち、クリスチャン信仰の理解と行動の規範を読む限り、癒しや奇跡が、人集めの手段として用いられたという例はありません。たくさんの信徒を集める手段としても、伝道集会の手段としてでも、癒しや奇跡が宣伝されたことはありません。人々が噂を聞きつけ、たくさん集まった例はあります。しかし、弟子や使徒たちが、「癒されたい人は来てください。奇跡を見たい人は集まってください」と、宣伝したことはないのです。



 現代のペンテコステ信仰の宣伝者たちの中には、癒しや奇跡を売り物にしている者がたくさんいます。人集めの手段にしているのです。彼らは、「福音のためになら何でもする」と言ったパウロの言葉を用いて、自分たちのやっていることを正当化します。たしかにパウロはそのように言っています。しかし、彼は自分の信仰、自分の倫理、自分の誇りに反することは、絶対に行わなかったのです。(Tコリント9:14−15) パウロも他の弟子も、もちろんキリストも、癒しや奇跡を、引っかけば当たりが出るおまけや福引のような、人寄せの道具にはしなかったのです。何かが信仰の原則に反したからではないでしょうか。



 癒しや奇跡を人集めの手段、宣伝文句にする人々には、倫理的な危険が伴います。だれかが癒されなければいけなくなるからです。奇跡も、起こらなければならなくなるからです。昔の見世物小屋に、「長さ8尺もある大いたち」なんていう呼び込みがあったそうです。入ってみると、嘘ではない。8尺の板に血が塗ってあったという話ですが、嘘でも見せなくてはならなくなります。毎回とは行かなくても、せめて、何回かに一回は癒しが起こり、何十回に一回は奇跡が起こらなければならなくなります。そこで、いろいろな策略が用いられることになるのです、



 聖書によると、癒しも奇跡も、現代の教会におこり得ます。贖いのみ業には癒しが含まれていることも、比較的新しい神学的発見であるために、多くの伝統的福音派の方々が反対しているにもかかわらず、聖書の教えです。そして実際に、今でも癒される人が起きています。現在は奇跡が起こらないと、聖書から説明することはできません。奇跡は起ります。また、特別に癒しを行う賜物をいただいている人も、奇跡を行う賜物を受けている人もいることでしょう。しかしそれはあくまでも、キリストのみ体の内部における働きのためであって、大衆伝道の人寄せの手段、宣教の宣伝文句として用いられるものではなかったのです。



 現代の多くのペンテコステ信仰者が、癒しや奇跡を人集めの宣伝文句に用いていることは、聖書の教えからはずれていると判断されます。ましてやそれが、自己宣伝や金集めの手段として用いられるようなことは、あってはなりません。このあってはならないことが、実にしばしば行われるのが、ペンテコステ系の働きなのです。



 現在そのようなことを行っている人々を、すべて断罪すべきだとは思いません。しかし、警告は必要です。それは非常に危険な行為です。嘘が生まれ、反社会的な行為が生まれる危険が大きいからです。したがって、そのようなことを大々的に行っている人々には、注意をすべきです。



   XC5 教会を大きくすること



 癒しや奇跡を、人集めの手段に使うことよりも、一段と広く行われている「非聖書的事柄」に、教会を大きくする努力があります。大きい教会はいいことだとばかりに、教会を大きくするための、さまざまな方策が検討され、宣伝され、セミナーが開かれ、教材が売られています。



 大きい教会が悪いと言っているのではありません。大きい教会も、それが忠実な宣教と、忠実な教会の働きの結果として起ったことならば、素晴らしいことです。大きな教会を建ててはいけないと、言おうとしているのでもありません。問題は、教会を大きくしようという意図と努力です。大きな教会を建てた人は伝道の成功者、牧会の成功者としてもてはやされます。なにか、世俗の世界の立志伝中の人物、功なり名を遂げたお話のように聞こえます。中小企業の成功者のようにも。インタビューを受けたりして。



 しかし聖書の中に、教会を大きくしなさいという教えや命令は、ただの一度も記されていないのです。そのような示唆や暗示は、一箇所もないのです。そのように努力をした弟子や使徒も、一人もいないのです。証をしなさい。伝道をしなさい。全世界まで出て行って、福音を宣べ伝えなさいという命令ならばあります。教えもあります。そのように努力した弟子や使徒の姿も、たくさん記録されています。



 ペンテコステ系の教会は、世界中で急速に大きくなっています。多分、世界中で最も大きい教会を100挙げるならば、大部分はペンテコステ系の教会でしょう。ペンテコステ系の人々の中には、大きいことはいいことだという「信仰」があるのです。その結果、教会を大きくするためという大前提、自らの中の至上命令のために、聖書の教えの中に留まれなくなってしまうのです。聖書の倫理に留まる限り、決してできないことが、教会を大きくするためにはできるようになるのです。誇大広告、偽りの宣伝、強制的な金集め、ほとんど洗脳に近い心理的拘束、そして怪しげな癒しや奇跡を作り出すことも、そこここで行われるようになるのです。宣教も牧会も、聖い神を礼拝する、礼拝の行為であることが忘れられてしまうのです。本来まじめな信仰者であり、心から主にお仕えしようとしていた者でさえ、このような「教会を大きくしよう」運動に流され、世俗化してしまうのです。



 重ねて言いますが、まじめな宣教と牧会の結果として、教会が大きくなることは素晴らしいことです。しかし、教会を大きくすることを前面に掲げて働いている人々には、注意をすべきです。教会の使命はそこにはないからです。宣教者の使命も牧師の使命もそこにはありません。使命でないことを使命とするとき、教会は堕落し腐敗します。本来教会の賜物である癒しも奇跡も、不思議もしるしも、悪臭をはなつようになってしまいます。



 いま、癒しや奇跡やしるしを強調する人々の、もう一方の強調点は、自分たちの教会が、自分たちの働きが大きくなっているということです。自分の教会がなかなか大きくなれないでいる牧師や信徒は、彼らの教えや実践におおいに魅力を感じます。そして癒しや奇跡のたぐいにひきつけられ、間違った教えに飲み込まれていくのです。



結び



 結局、私たちの信仰は、聖書を正しく理解し、その上に立って歩むということです。これは言うには簡単ですが、非常に難しいことです。しかし、そのために努力をしていかなければ、私たちの信仰はとんでもない間違いに陥ってしまいます。



 すべての信徒が、聖書を正しく理解するというのは不可能です。すべての伝道者が聖書を正しく解釈するのも不可能でしょう。また完全に正しく理解することは、誰にも不可能でしょう。しかし、もっと多くの伝道者たちが、素直に聖書に向かい、聖書が言っていることを素直に聞いてほしいものです。そうするならば、かなり多くの間違いが正され、しるしや不思議、癒しや奇跡の問題も、教会を脅かすほど、大きな痛みには発展しないはずです。

 
                                  おわり











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2010年11月17日

見ないで信じるものは幸いである (1)


見ないで信じるものは幸いである
      
  
   はじめに
 
 先日、私の悪友、いにしえの級友、尊敬する同労者が、「これについて、少し書いてもらえないだろうか」と、ペンテコステ系のクリスチャンたちの間で読まれているという、新聞のトップ記事を見せてくださいました。私にはまったく馴染みのない新聞で、記事の内容もまた、「だからどうだって言うんだ」という程度のものだったのですが、「その程度のことがこのように大きく報じられ、私たちの教団でも、信徒たちだけではなく同僚の伝道者たちの間でさえ、あたかも"トレンド"のようになりつつある現状が問題なのだ」と、説得されてしまいました。



 その記事には、東京で開かれた「福音リバイバル聖会」と名づけられた集会で、金歯、銀歯の奇跡が続出しているというものでした。治療の必要な歯に金冠や銀冠がかぶせられたり、銀冠が金冠に変わったりしているというのです。実はこのような「歯の奇跡」と言われる出来事は、海外ではかなり以前から知られ、議論の的にもなっていると聞いていましたので、わたしがその議論に加わることもないと感じたのですが、日本では、まだ議論が交わされていないと知って、それならば「理解の一助に」とワープロを叩くことになりました。雑文家の使命と心得ますが、お読みくださる方の忍耐に期待するものです。  



T. 常識の問題



 実際、金歯銀歯の「奇跡」の記事を読んだ時、「だからどうだって言うのだ」と思う一方で、私の常識が「腹痛」を訴え初めていました。消化不良です.わたしの常議は、もちろんペンテコステ信仰を持つ牧師の常識です。普通の日本人の常識でも、普通の牧師の常識でも、普通の福音派の牧師の常識でもありません。



 現在ペンテコステ的な信仰が世界を覆い、世界中にペンテコステ的出来事が起こり続けている事実を、わたしは喜ばしいことと考えていますが、反面、しばしば「腹痛」に見舞われているのも事実です。ペンテコステの牧師の私がそうなのですから、普通の福音派の牧師にとっては、かなりの「下痢症状」かもしれません。



一般日本人の常費



 一般の日本人が「奇跡」を取り扱うとき、現代科学では説明できないが、科学的なものという範疇で考える「超科学的な現象」と、もともと科学では説明も解明もできないことがら、たとえば「霊界」などと呼ばれる「異次元の現象」とに分けて考えるようです。科学的であることを自認する日本人の4〜5割にも及ぶ人たちが、このような、なんらかの「奇跡」の存在を信じているという報告もあるほどです。ポストモダンと呼ばれる現代人は、科学に失望して、厳密な意味での科学から離れる傾向にあると判断されます。ここに、怪しげな科学紛いのオカルトが流行する温床があると言えます。



福音派の常識                    



 現在の日本の福音派の中核を成す方たちの考え方は、端的に言って、キリスト教理神論とも言えるものです。理神論とは、啓蒙思想が発展して合理主義、科学至上主義に至ったもので、理論的には、創造主としての神の存在は認めます。しかしその神は、創造した万物と万物の存在を継続させる法則を残して、どこか遠くへ旅立ってしまったと考えます。したがって、現在神は存在しないも同じであり、科学的な法則のみが残っていると論じるのです。これがキリスト教の中に流れ込み、人間の理性に合わないものや、科学では説明できないものを否定するキリスト教を造りだしました。



 17世紀から19世紀に形成されたキリスト教神学や団体のほとんどは、程度の差こそあれ、この影響を色濃く反映させています。創造の神の存在を認めながら、聖書に記されている一切の奇跡を否定する近代神学は、少なくても福音派ではありませんが、聖書を文字通り誤りのない神の言葉と信じる福音派でも、聖書に記録されている奇跡は認めるが、今はそのような奇跡は起こらないと断言してはばからないのが一般的です。それぞれ、聖典の完結だとか、異なったディスペンセーシヨンに属するだとかいう、もっともらしい神学的理屈付けはしていますが、根は同じ合理主義です。 



ペンテコステ信仰の常識



 このタイトルはむしろ、古典的と自認するペンテコステ信仰を持っている、私というひとりの常識的な人間の考え方、とでも言った方がよいかもしれません。



 一般にペンテコステ信仰は、聖霊のパプテスマや異言を中心とするもののように考えられています。確かに、現代ペンテコステ信仰の成り立ちは、そのような経過をたどったことは事実であるとしても、本題はむしろ、「聖書の時代と変わりなく、今も働いていて下さる神に対する信仰」であると理解しています。今もわたしたちの祈りに奇跡をもって応え、わたしたちの日常の中に介入して下さる神です。私たちが祈るときは、気休めとしての祈りではなく、応えて下さる神に対する信仰と期待をもって祈ります。そして、ペンテコステの運動は、神の介入としての「奇躊」を体験しながら成長してきました。



 ペンテコステ運動は、ある意味で「興奮」あるいは「感情」の運動でした。神の介入の奇跡を体験した人たちは、当然、興奮しました。この興奮はしばしば過熱し、過激な行動や信仰、また神学となって、ペンテコステ運動の「特徴」のひとつともなってきました。わたしたちのアッセンブリーズ・オブ・ゴッドの歴史を見ても、それは明らかですが、幸いなことに私たちの交わりは、全体的に見ると、そのような特徴を聖書によって注意深く検討し、極端な誤りに陥ることを避けてきました。しかしそのような注意深さを好まない人たちもあって、さまざまな、極端なペンテコステのグループが続出してきたことは、否定できない事実です。



 ペンテコステ信仰の常識は、「神は今も昔も変わらない」こと。そして、「神には何でもできる、神にはできないことがない」ということです。しかし注意したいのは、私たちの神は「何でもできる神」ではあっても、「何でもする神」ではないことです。神は人間の常識や理解を越えて、自由にお働きになることができるお方であることは認めても、ご自分を制しておられる神、秩序の神でもあるという事実を確認しなければなりません。聖書に記されている「奇跡」の数々を見ても、神はたんに好き勝手に奇跡を行ったのではなく、秩序をもって行っておられるのです。ここで、まさにこの点で、金歯銀歯の奇跡は、わたしのペンテコステ信仰の常議に「腹痛」をもたらすのです。



II.  聖書の奇跡



 聖書に記録された様々な奇跡を見ると、そこには共通の秩序があるのがわかります。まず、すぐに気付くのは必要牲、あるいは必然性ともいうべきものです。必要のない奇跡はありません。すべての奇跡に必要があり、その必要を満たす目的がありました。



a.  奇跡それ自体に必要性があって、奇跡が起こったことは他の誰に知られなくてもよかった、あるいは知られないほうが良かった場合。これには、キリストが癒しを行って後、このことをだれにも知らせないように、お命じになった例などが含まれます。 



b.  奇跡自体が必要とされ、かつ、奇跡が起こった事実が「しるし」として機能することが目的とされていた場合、あるいは前提とされていた場合。聖書の奇跡にはこの例が最も多いようです。この「しるし」としての機能も、イスラエルや弟子といった、内部の信じる者に対して、励まし、教え、指導という要素を持つものと、異邦人や未信者という外部の人間に対しての、神の主権、支配の印としての要素を持つものがあります。キリストの奇跡も大部分がここに含まれます。



c.  奇跡それ自体には大きな意味はなく、むしろ、奇躊の「しるし」としての機能に目的があつた場合。これは、旧約時代の出来事としてはかなり記録されていますが、新約時代にはほとんど例を見ないものです。多分、これは神のざん進的啓示の現れで、聖書のなかった時代には、神のみ心を示す手段として、必要性が高かったが、一応旧約聖書が完結し、キリストの明確な教えも知られるようになった新約時代には、あまり必要とされなかったのだと考えられます。キリストご自身も、このような「しるし」を求めることを、「邪悪な時代の要求」として退けておられます。            

           
d.  キリストの宣教命令に伴う「しるし」としての奇跡の場合。これは基本的に、キリストが行われた神の国の到来の「しるし」としての奇跡と同じで、キリストの代理者としての教会に与えられた権威の一部でした。この場合も奇跡自体に必要性があり、「しるし」は付髄する結果としての機能でした。弟子たちは、「しるし」だけのために奇跡を行うことはありませんでした。



III.  金歯銀歯の奇跡



 ここでまず問題なのは、この金歯銀歯の「奇跡」なるものが、はたして奇跡自体に必要性があったかどうかという点です。新開を読む限りでは、あったと判断するのには難点があります。確かに、 (記事がすべて事実だと仮定して) 歯の治療を必要としていた場合もあるのですが、それすら、金であり、銀である必要性はありません。つまりこの奇跡の話を闘いても「共感」できるところが少ないのです。歯痛がなくなった。虫歯が虫歯でなくなった。歯の穴がなくなった。歯槽膿漏が消滅した。無くなっていた歯が出てきたという類の奇跡ならば、かなりの共感性を得られると思うのですが、どうして金歯である必要があるのでしようか。また、すでに入っている銀歯が金に変えられなければならないのは、どうしたわけでしようか。ここには必然性と必要性が不足しているばかりか、金銀をもてはやす繁栄の福音の残滓さえ見え隠れするのです。



 またこの金歯銀歯の奇跡には、奇跡としても癒しとしても、聖書の例にはあまり見られない要素を含んでいる点にも注意したいと思います。まずこれが極めて物質的な奇跡であるということです。金が銀に変化する。あるいは何も無かったところに、忽然と金もしくは銀が出現するというものです。聖書には、モーセの杖が蛇に変化したことが記され、灰がブヨに変化したと思われる記述もあります。あるいは水が血や葡萄酒に変化した例もあります。わたしは物理には素人ですので、銀が金に変化するのと、杖が蛇に変化し水が奮萄酒に変化するのと、どれほどの違いがあるのかわかりませんが、とにかく、聖書の奇跡としても少ない例です。また、なにも無いところに金や銀が出現するのも、神が新しく金銀をお造りになると考えるには難点がありますし、どこからか持って来るというのにも、なんとなく「奇跡の神」ではなく、 「奇術の神」のような感じを受けてしまいます。歯という小さな目立たない肉体の部分へ現される、あまり必要性の無い奇跡に、大変な奇跡の要素が必要とされるという、不均整が私の「腹痛」の一因かもしれません。



 つぎに、これは癒しというよりむしろ治療であるということです。聖書には治療という奇跡はないように思いますが、どうでしよう。改めて調べていませんので確実ではありませんが。つまり金歯銀歯は、近代の歯科医の治療技術であって、奇跡の神が、人間の医療技術に従わなければならない道理が、どこにあるかということです。同じく「無から生じさせる」なら、金や銀よりも、もともとの人間の歯が一番良いことは明白です。ただもともとの人間の歯と同じでは、「しるし」としては「目立たなく」なって、価値が薄れてしまうことは考えられます。新聞記者氏が書いておられるように、金歯銀歯は「目で確認できる」ところに重要性、あるいは価値があるのかもしれません。そうすると、これは「しるし」としての奇跡と考えなければなりません。そしてこのような「しるし」としての奇蹄は、キリスト以降、重んじられていないことはすでに見た通りです。

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2010年11月18日

見ないで信じるものは幸いである (2)


IV.  しるしとしての金歯銀歯



 金歯銀歯の奇跡の「しるし」としての価値について、もう少し考察してみましょう。金歯銀歯の奇跡が、それを体験した本人にとっては、あるいは目の当たりに確認したクリスチャンにとつては、大きな信仰の励ましになったことと思います。この奇跡にも、信仰の碓認としての価値があるというのは否定できません。このような奇跡の価値は、たとえばエリシヤがエリヤの力を継承した確認として、外套でヨルダン川を分けたことにも現されています。 



 しかし、現在わたしたちは新約聖書が完結している時代に生きています。「見ないで信じる者は幸いである」と、しっかり教えられている時代に生きているのです。幸いに、見ないで信じてきたわたしたちが、どうして今、見て信じる信仰にもどる必要があるのでしようか。奇跡自体が本当に必要とされ、その奇跡を見た結果として信仰が励まされるという、新約聖書以降の一般的なあり方ならば納得できますが、「歯」の奇跡にはそれが無いのです。これも、私の「腹痛」の原因のひとつです。



 またこれは、外部の未信者に対する「しるし」としての力を持つものでしょうか。記事を読む限りこの金歯銀歯の奇跡は、奇跡を認めない種類の人々対してまったく説得力を持ちません。事実確認が間題とされるだけです。また、奇跡の存在を認める人々の間でも、「超科学」としての奇跡を語る人には何の説得にもなりません。残るのは宣教学上の「パワーエンカウンターリング」としての価値、悪霊と対決して勝利を収める「証拠」としての価値を持つかどうかということです。この、悪霊との対決としての「奇跡」は、旧約聖書にも新約聖書にも記されています。ある場合は意図的な対決であり、あるときは結果としてそうなったという違いはありますが、奇蹄の「しるし」としての力のが、イスラエルの神の優越性を示し、また、福音の信頼性を証明して行ったのは事実です。そして、このような力の顕示が現代でも、多くの国々でのペンテコステ信仰の隆盛につながっていることも事実です。

 

 しかし、これが、現在の日本で宣教の力となり得るかどうかとなると、話は別です。確かに、日本人には、霊界の力による奇跡の存在を認める人たちが、相当の割合でいるという事実から、パワーエンカウンターリングの素地があるとも言えそうです。しかし私たちの周囲では、大勢の占い師たちやオカルト集団によって、もっともっと不思議なことがかなり頻繁に行われている現状から、「金歯銀歯」の奇跡ではあまり分の良い勝負にはならないでしよう。また、パワーエンカウンターリングというのは、普通、同一の場あるいはそれに近い近隣の場で、二つの力が激突することによってもたらされるものです。モーセがエジプトの魔術士と戦った場合、パウロがキプロスでエルマと戦った場合に、あるいはエペソでの働きが、魔術士たちとの対決という結果をもたらした場合などで、それが明白です。現在の日本の「クリスチャンの特別集会」という隔離された場所での奇跡には、パワーエンカウンターリングの要素が欠けています。



 むしろこの種の奇跡は、下手をすると、この種の奇跡に用いられる伝道者たちを、この種のことに熱心なクリスチャンたちの間だけで通用する、「大能と呼ばれる神の力」に、祭りあげてしまうことになるのではないかと恐れます。(使徒8:10)



V. センセーショナルな新聞記事



 このように見てくると、「歯」の奇跡それ自体は、全能の神にはできないことではないし、それをなさるのは神の自由に属することですから、ただちに否定されたり、拒絶されたりするべきものではありませんが、かなり注意深く取り扱わなければならないこともわかります。聖書の奇躊と照合すると、少なくても良心的なクリスチャンが、大々的にマスコミに乗(載)せるような代物ではないと、言えるのではないでしょうか。そして問題は、このような奇跡が個人的な内輪の体験という範疇を飛び出して、大々的に報じられるところにあります。



 これは、このような奇跡を「持ち望む」体質を、記者も読者もまた体験者も持っているということ、またこのような体験は、さらに多くの人々にも広められるべきだという、願いを秘めていることを意味していないでしようか。これが、「聖書信仰」に立つと表明するわたしたちには、ふさわしくないことなのです。



 単純な聖書信仰に立つ私たちは、「神は今も昔と変わりなく、わたしたちの必要に奇跡をもって応えてくださる」と信じて祈ります。しかし、「歯」の奇跡のように、聖書の奇跡と照合するとき、その必要性と目的、必然性に「異質な要因」が多い奇跡を「一般化」しようとしてはならないのです。たとえそれが事実と思えたとしても、せいぜい、そのような出来事が伴ったということを、記録するだけに留めておくべきことです。



 わたしたちのアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の歴史の中にも、今回の「歯」の奇跡のように、聖書的にはそれ自体を否定するだけの根拠が無く、かといって積極的に推進するべき聖書的根拠も持たない出来事が、幾度も起こってきました。そして、そのような出来事が大々的に報じられ、クリスチャンたちの期待が、そのような聖書的根拠が不確かな出来事に集中すると、いろいろな間違いが発生してきました。



 たとえば、アメリカ・アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団創立の翌年に起こった、「イエスのみ名による洗礼」とい議論とその後の分裂、そしてジーザス・オンリーの発生の問題も、「聖書以外」の新しい「啓示」に対する、人々の期待の高まりが大きな要因でした。「聖書以外」の新しい「啓示」も、神学的には完全に否定することができないと、わたしは考えていますが、そのような、聖書に基盤を持たないもの、あるいは聖書以外のものに、必要以上の期待をかけると、特に集団的にそれが起こると、誤った危険な方向に進んでしまうのです. (誤解がないように。聖書以外の新しい啓示がたとえあったとしても、それは聖書と同等の権威を持つものではありません。なぜなら、聖書は啓示の書だけではなく、霊感の書だからです。)



 「歯」の奇跡も、強いて言えば笑いも、倒れることも、否定されるべきものではありません。しかしそれが、聖書が教えることがらと同じように、あるいはそれ以上に強調されると、大変危険なのです。私たちは、それを、自分たちの教団の歴史によって知っているのです。だから、私は「腹痛」を起こしたのかもしれません。



 今回の報道には、まだ他にも問題があります。それは、先にも触れた事実確認ということです。記事の中には歯科医という言葉も出てきて、あたかも事実が確認されているような言い方がされてはいますが、歯科医本人の言葉はありません。わたしが常々問題に感じているのは、このようなセンセーショナルな奇跡の記事の、事実確認が正しく行われているかどうかということです。カトリック教会には、一般大衆の「話」としての「奇跡」がたくさんありますが、教会が正式に奇跡と認定するには、奇跡を調査する正式な機関の、それはそれは、長時間にわたる、恐ろしく厳密な調査を通すことになっています。


 カトリック教会は奇躊の存在を正式に認め、聖人認定にはその人物が奇跡を行ったという事実を、絶対必要条件にしているほどですが、奇跡の認定それ自体には大変大変、非常に慎重です。(マザー・テレサが聖人として認定されるために、奇跡が不足しているという問題があって、カトリック教会内で揉めていますが) 今回の新聞の報道には、どれ程の事実確認の努力がはらわれたのでしょう。巷の週刊誌ほどでしょうか。センセーショナルですが、説得力がありません。



 このような報道には、どうやら、「クリスチャンは嘘をつかない」という神話が、底辺に横たわっているようですが、いかがでしょうか。数十年伝道者をしてきた私の実感は、むしろ「クリスチャンの言うことなど信用できない」というところですが。 



 クリスチャンが嘘と自覚して、人をだます目的でつく悪意の嘘は、たしかに他の人種よりは少ないと「信じて」います。しかし、自覚していないでつく嘘、つまり、知らないで事実に反することを言ってしまう嘘、人を助けるつもりの親切の嘘。付き合い上の嘘。あるいは、「神様の為を思って」の嘘などは、たくさん転がっているように思います。さらに信じ込もうとして語る、信仰による嘘もあります。「信じて告白」してしまう、あれですね。さらには、実際より少々大げさに言う嘘。大いに盛り上がった集会で、癒しの祈りをしてもらい、ついつい「癒された」と告白してしまう嘘には、いろいろな嘘の要因が含まれています。心理学的に調査をすると、面白いでしょうね。



 新聞という報道機関に求められるのは、もっと慎重な調査ではないでしょうか。わたしが個人的に知っていた伝道者で、癒しの器として用いられていた人は、癒しが起こってから、最低2年という間を置いて事実を確認してからでないと、その話を語ったり、記事にしたりしないということでした。奇跡の物語を大々的に報じて、大きな活動をしている伝道者や牧師は、宗教家としては成功したと言えることでしょう。しかし、神の器として成功しているかどうかは別の話です。



 ところで、この「福音リバイバル聖会」という集会の目的は、なんだったのでしょう。新聞記事を読むだけでは、そのあたりが良くわかりません。「歯」の奇跡ばかりに記者の目が捕らわれているからでしょうか。あるいは、この聖会自体が、このような奇跡に重点を量いているからでしょうか。あるいは、「歯」の奇跡がリバイバルの現れであり、また、「歯」の奇跡によってリバイバルが来ると考えているのでしょうか。この新聞記事には、そのような意識が読み取れるのです。そのような意識に対しても、どさまわりの宣教師として食べた、犬にも猿にもおたまじゃくしにも、生のくらげにも白蟻にも、おけらにも、錦蛇にも、ごきぶりにさえも不平を言わなかった、私の腹が痛み出したと思われます。



 リバイバル聖会によって、またそれを報道する新聞の記事によって、見ないで信じる幸いな信仰が高揚されたならば・・・・・、たとえそこにどんな奇跡が起こったとしても・・・・、見ないで信じる幸いな信仰が高揚されたならば、大いに喜べますしかし、この記事によると、どうやら高揚されたのは、見ることによって信じる信仰のようです。



 この、見えるものを大切にするのは極めて一般的なことで、ある程度の同情の余地はあります。聖書の中の多くの人々も、見て信じたのです。例えば、福音記者たちでさえ、わずかとは言え、この新聞記者のような意識を、持っていたのではないかと推測できます。4つの福音書がすべて取り上げているキリストの奇跡に、5千人を養った出来事がありますが、この奇跡の意義をきちっと説明しているのはヨハネだけです。他の記者たちは驚くべき出来事として記しているだけです。福音書の記者たちも、「悪霊どもでさえ、私たちに服従します」と喜んで、自分たちの名が天に記されているという、もっと重要な事実に心が及ばなかった、あの時の未熟さを、まだ引きずっていたのかと考えさせられます。しかし、神はそのような未熟な者の記述にも、霊感という導きを与えて許容範囲に入れ、「よし」と認めてくださったのです。



結び



 わたしたちペンテコステの信仰に立つ者は、神が今も生きておられ、昔と同じように働いておられることを信じ、神の直接の介入を期待して生活をしています。ですから、「奇跡」は当然のことです。しかし、わたしたちが強調する奇跡は、聖書の中にそれと同じ性質の奇跡があるもの、そういう種類の奇跡であるべきです。聖書の中に見いだされない性質の奇跡も、ただそれだけの理由で否定されるべきではありませんが、強調されてはならないものだと考えます。



 昔、創立間もないアライアンス教団の中で、異言を伴う聖霊のパプテスマの問題が大きくなったとき、指導者であったA.B.シンプソンは、「それは否定されてはならないが、求められてもならない」という裁断をくだしました。これは、異言を伴う聖霊のパプテスマを受けていた人たちの納得を得られず、結果として彼らの離脱と、その後のアッセンブリー教団の創立ということに移って行くのですが、シンプソンの言葉は、聖書の中に充分な例を持たない現象に対して、私たちが、どのような態度を取るべきかという問題について、よい判断を示していると思います。笑うのも、倒れるのも、金歯ができるのも、事実である限り否定されるべきではありません。しかし、求められてはならないし、強嗣されてもならないものだと思うのです。もちろん、シンプソンの間違いは、異言を伴う聖霊のパプラスマに関する、聖書の明確な記述を、少々軽んじ過ぎたところにあったのは、私たちが良く知っているところです。



 最後にもう一度。わたしたちは奇跡の神を信じています。しかし、奇跡に期待し奇跡を重要視するあまり、見ないで信じる信仰から、見て信じる信仰に逆戻りしないように、充分気を付けたいものです。

                                     おわり











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2010年11月19日

自浄作業



 私はペンテコステ教会と言われる中で、もっとも大きく中心的な役割を果たしてきた団体に所属しています。ペンテコステ教会には様々なすばらしい特徴がありますが、ありがたくない特徴もいくつもあります。



 ペンテコステ教会の元となったペンテコステ運動は、あまり学問的な背景のない人々が中心になって始まったものです。というより、聖霊が、極めてありふれた人たちの中にお働きになって、始めてくださった働きです。そのために、この運動は一方では非常な勢いで拡大して来ましたが、聖書的な理解の深みを欠いているという特徴のために、ずいぶん多くの間違いも犯してきました。



 私たちの交わりは、どちらかというと、厳格な教理や神学を掲げて、自分たちの交わりの純粋性を保持しようという改革派的な傾向ではなく、聖書の十全霊感とその権威を認め、聖霊のバプテスマの真実性を認めるならば、それ以上のことはあまり問わないというおおらかさ、あるいは緩やかさ、言い方によればだらしなさを持ってきたために、多くの間違いが紛れ込む危険があった一方で、間違いを持った者たちがこの交わりの中に留まることができたために、より正しい信仰のあり方に近づくことができたという一面を持ち合わせています。それは、自分と異なる信仰のあり方に寛容性を持つと同時に、常に様々な怪しげな信仰とその表現に対し、警戒を怠らないという側面を備えることになりました。



 再浸礼派を認めることができないために、その信徒たちを酷寒の川にかかる橋から逆さに吊るし、溺死させたカルビンのような峻厳さは持ち合わせていないのです。おかげさまで、本当におかげさまで、私のような中途半端で自堕落な人間も、おどおどびくびくしないで、この交わりに居続けることができているのです。いったい、完全な教会などというものは存在せず、完全な団体などというものは夢想に終わるのです。たとえ人が完全な団体を作ったとしても、その人がそこに残れば不完全になります。



 いま、私たちの交わりとその周辺には、実に多種多様な信仰とその表現が見られます。それが聖書の許容範囲、すなわち正しし聖書の解釈の上で許される範囲に留まっている限り、急速に狭まる世界のモザイク文化と、過激に変化し続ける世界の多様性に対応していくためには、非常に大きな利点となるものと考えられます。しかし、聖書の解釈上問題があるもの、聖書の許容範囲を超えているもの、倫理的問題を抱えているものについては、大いに注意しなければなりません。それが、やがて根を腐らせ、幹を枯らせてしまうことにもなるからです。

 だからと言って、魔女狩りのように間違ったものたちを見つけ出して厳しく処罰し、追放するなどということを行ってはならないのです。イエス様がおっしゃったように、下手をすると、毒麦と一緒に良い麦までも引き抜いてしまうことになるからです。



 そこで、現在聖書的に許容できない方向に進む危険性のあるもの、あるいはすでに進んでいるもの、あるいは倫理的に許すべきでないものを取り上げて、少しばかり警鐘を鳴らしておきたいと思います。まだまだ、多くの方々が気付いていないもの、あるいは危険性を過小評価しているものもあるのではないかとおもいます。そうすることによって、間違いに気付いていない人たちが気付き、誤りを理解していない仲間たちが理解し、私たちの交わりの純粋性を少しでも保つことが出来れば幸いです。これはある種の自浄作業です。

                                つづく
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