2011年04月20日

み声を聞く人たち

  
ここしばらく、おかしな「クリスチャン夫婦」と御付き合いをしています。

 ときどき一緒に仕事をする東京の牧師の仲介で、ひとりの女性の相談を受けました。何でも、中学生の頃からの親友が私のいる町に住んでいて、生活にとても困窮しているらしいのです。電気、水道、ガス、電話は止められ、暖を取る石油も、毎日の食べ物もない。それで助けて欲しいという手紙をもらって、米だとか、味噌だとか、お菓子だとか、品物を何回も送ったりしているけれど、とても間に合わないということでした。

「何とか彼女を助けてあげたいのですが、遠く離れて住んでいる自分たちでは、もう限界なのです。自分の娘が、お友達のお父さんが牧師をしていると言っているのを聞いて、彼女がクリスチャンだったと言うことを思い出し、思い切ってお訪ねして相談しました。すると、彼女の住む町にいる牧師さんと親しいとおっっしゃって、紹介してくださったのです」と言うことでした。

 救援を求める手紙は彼女のところだけではなく、中学生の頃に親しかったもうひとりの女性のところにも、当時の恩師のところにも、親戚たちのところにも来ているそうです。それぞれ品物を送ったり現金を送ったりして色々手を尽くしたけれど、どうしようもないということでした。しかも困窮している女性は糖尿病を患っていながら、とても病院どころではないらしいのです。

色々話を繋ぎ合わせると、彼女たちはもう50歳近くらしく、どちらも家庭を持ってお子さんたちもいらっしゃる様子です。それにしても、「中学生の頃のお友だち」のために、「よくもそこまで」と思わせられたものです。

 それから何日か後、もうひとりの友人と言う女性からの電話がありました。それで、もう少し詳しく様子を知ることができました。

 困窮している女性は、親の代からのクリスチャンだと言うのです。少なくても母親はクリスチャンで、母娘が一緒に教会に通っていたのを良く知っているし、教会で挙げた結婚式には、彼女たちもそれぞれ夫同伴で参列したのだそうです。

「ところが相手の男性が問題で、神様にお仕えすると言っては、日本中を車で回って何かしていたようですけれど、収入になるような仕事は何もしていないらしいんです。彼女のお母様が亡くなったあと、遺産の家と土地を売ってそれ相当のお金を得たはずなんですが、そちらの町に引っ越して行って、3年ほどたちます。それでもう、しばらく前から、お金を貸してほしい、食べ物を送ってほしいという手紙が何度も来るようになりました。幸い私の夫も、子どもの頃から彼女を知っていて、何とか助けてあげようと言ってくれているのですが、もうとても、私たちの手に負えるような状態ではなさそうなのです」

 電話口で涙声になりそうな彼女の説明を聞いていて、世の中には、何と親切な人間がいるものかと、改めてもう少し感動したものです。彼女の夫は、「彼女を助け出すために、一時、自分の家に引き取ってもいい」とまで、言ってくださっているというのです。

 そんなわけで、私は少しばかりの食料を手に、このクリスチャン夫婦を訪ねて、お話をすることになりました。

 「僕はですね。もう10年ほども前に『仕事をするな』という神様のみ声を聞いたんです。それからはずっと仕事をせずに、神様にお仕えしているんです。必要なものは神様があたえてくだいますから。厳しいこともありますが、なんとか今までやって来ることができました」

 その様に話すその男性は1m80cmに近い背丈でしたが、やせこけて突き出た頬骨の上に、油気のない髪の毛がかぶさっていました。横には、やつれてはてて消え入りそうな奥様が、小さく座っていました。

 「神様のみ声を聞いたなどと言いますと、『そんな話は信じられない』と、鼻っから相手にしてくれない牧師もいますが、先生はアッセンブリーズ・オブ・ゴッドの牧師ですから、信じられますよね。神さまが『働くな』とおっしゃったのですから、私は働きません。神様が養ってくださいます。ただ、家内は信仰がまだ弱く、ときどき人にお願いして食べ物や何かを貰ってくるようですが、私は神様を信じています」
 
 神様のみ声を聞くことができたことを、信仰の勇者の証明でもあるかのように、彼は一段と語気を強めました。

「それで、仕事をしないで、毎日何をしているんですか? 伝道しているとか、人を招いて教えているとか・・・・・・、しているんですか?」
そのような様子はまったくないのは、すぐにも見て取れましたが、私は意地悪く尋ねてみました。

「自分たちで礼拝会を持って、祈祷会もやっています。近所の人がたまぁに顔を見せることもあります」 平然とした答えが返ってきました。

 「私はアッセンブリーズ・オブ・ゴッドの牧師で、預言も幻も夢も、聖書が教えるように信じていますが、あなたが『仕事をするな』という神様の声を聞いたという出来事は、残念ながらまったく信じられません。それどころか、信じてはならないことだと思います」

 いま流行(はやり)のネオ・ペンテコステ・運動の一員だと自認しているこの男性は、一瞬、びっくりして私の顔を見つめていましたが、私は続けました。

 「あなたの聞いたのは、神様のみ声ではなく、昼寝をしていた豚のいびきだったかもしれませんよ。犬の寝言だったかもしれませんね。あなたも少し寝不足で、ぼんやりと聞いたのではないですか? あなたは勝手に聞いたと思っていても、神様は、『そんなこと話していないのになぁ』と、おっしゃっているのではないですか?」

 ずけずけという私の言葉に、ご主人はだいぶ怒ったようです。話し合いは物別れに終わりました。でも私は懲りずに、その後も幾度も訪ねてお話しをしました。そのたびに、わが家の中のごちゃごちゃした食料をかき集めたり、途中のスーパーで買い込んだりして、持って行ったものです。

 「神様の声を聞いたと信じてそれに従うのは、あなたの勝手。それで、食べる物もなくなってやせ細って死ぬのも、あなたの信仰の結果です。あなたが自分の信仰の確信に従って死ぬのなら、それはそれで結構です。どうぞ神様を信じて、人に物乞いなんかしないで死んでください。でも、そんな神様の声は聞いていな奥様までが、あなたの空耳信仰に引きずられて、こんなに苦労をしながら物乞いを続けなければならないのは、あってはならないことです。それでは、地の塩でも世の光でもありません」

 このご主人、1990年代の初めにこの町でクリスチャンとなり、カリスマ運動とか、第三の波運動とか呼ばれる人たちと御付き合いしてきたらしく、「あの先生はこう言った。この先生はああ言った」と、結構顔も広いようでした。10年以上も前に、香港からの青年クリスチャンたちが15人ほど、わが家に寝泊りして地域に伝道文書を配ったとき、その青年たちを車に乗せて連れて来たのが自分だったとかで、私に会ったのも初めてではないということでした。

 そうこうしている間に、私と家内は、彼女の友人の女性たち、その夫やその友人の法律家、それからわが町の法律相談所、自治体の女性相談室などと話を進め、一致した見解に達しました。

「このご主人は自分の信仰が間違っているとは認めないだろう。だから、その信仰で死ぬのはそれでいい。しかし、奥様はそのような信仰を持っているのではない。それまで道連れにするのは良くない。だから、何とかして奥様を助け出し、自立の道を探してあげなければならない。そのためには、まず離婚が絶対に近い条件になるだろう。

 牧師として「クリスチャン夫婦」に離婚を勧めるのは、なんとも情けない話ですが、最善を追求して離婚させずに飢え死にしてもらうよりも、離婚しなければならないほどどうしょうもない弱いクリスチャンとして、ただ神さまの憐れみにだけ頼って、次善の道を辿るほうをお勧めするのがよいと考えるのです。牧師の私も、離婚をさせないで物事を丸く収めることが出来ない、能無しの牧師であることを悔しく思いながらも、そのようなできそこないでも、御用のためにお用い下さる神様を誇りとして行けばそれでよいことです。完全なのは神様だけです。私たちは完全でないから神様に頼るのです。

ただし、たとえ奥さんに「いい加減に離婚してけじめを付け、人間として通常の生活をするように」と勧めたとしても、彼女もご主人もクリスチャン信仰まで失ってしまわないように、上手にやらなければならないと、ちょっとだけ注意深くなっています。

神様の救いを信じている限り、二人が離婚せずそのまま物乞い生活を続け、家賃も払えずに追い立てを食らって野垂れ死にしたとしても、救われることは救われるのですから、離婚を勧めることによってその救いをも失わせては、元も子もなくなってしまいます。いわゆる、「たらいの水と一緒に赤ちゃんまでも流してしまう」ことになります。あるいは、角をためて牛を殺すというのでしょうか。人が救われるのは、その人が完全に正しい信仰を持っているからではなく、神様の憐れみよるのですから、豚のいびきと神様のみ声と聞き違ったとしても、救われるのです。

でも、そんな信仰では全く証になりません。また神様も、そんなくだらない苦労をさせるために、彼らをお救いになったのではないはずです。奥様にも、もう少し人間らしい生活をしてもらいたいと思います。

 ところで、神様のみ声を聞くなどということが、現在でも本当にあり得るのでしょうか? 聖書を正しく読む限り、それは「ある」と答えざるを得ません。聖書には、その様なことはないという教えはなく、その様なことはなくなったという教えもありません。その様なことはやがてなくなるという教えもまたないのです。福音派の方々が良く引用するコリント人への第一の手紙13書8節は、この場合まったく当てはまりません。確かにこの聖書の部分によれば、預言も異言も廃れるときが来ます。共に不完全だからです。でも、その時はまだ来ていません。なぜならば、その時には「知識も共に廃れる」ことになっているのに、いま、知識はますます盛んになっているからです。

 では誰も彼もが夢を見、幻を見、神のみ声を聞くのでしょうか。不注意に使徒の働き2章16節以降を読むと、そのような勘違いを起こします。でも、ここでペテロが言っているのは、今や神がお定めになった「とき」が変わり、新しい時代になった。預言者と呼ばれる限られた神の人たちだけにあたえられていた預言の働きも、ごくごく一般のクリスチャンたちにまで与えられるようになったということであって、誰も彼もが、のべつ幕なしにその様な働きをするという意味ではありません。使徒の働きをはじめ新約聖書全体を読んでも、預言の働きはごく限られた人々にとどまっています。

 さらにここで言われている預言と言うのは、神の言葉を預かって語るという意味で、今で言うならば、説教に近いものであったということも大切です。恍惚となって見る夢や幻ではなく、また突然天から与えられる言葉を語る預言でもなく、通常の精神状態で、普段の学びと体験から夢を見、幻を抱くことであり、また、常々の学びと神との交わりの中から、神の御心を知り、それを聖霊の励ましによって語ることだったのです。そのような大切な役割が、名も無い人々、すなわち教会に与えられたと言う意味で、非常に大切だったのです。
 
その上、聖書の中で夢や幻や預言が大切だったのは、その時代には、まだ聖書が完結していなかったと言うことです。神様のみ心の啓示とそれを書きとめさせるための霊感の働きが、まだ終わっていなかったのです。ですから当時の人々は、いまの私たちのように、信仰と生活に必要なすべての教えを、聖書から学ぶことができませんでした。さらに、当時は印刷技術もなく、完結していた聖書の部分もまた非常に高価で、一般の人々がたやすく手にすることはできなかった点も大切です。したがって、当時の人々は、いまの私たちより遥かに直接的な預言を必要としていたのです。いま生きている私たちは聖書を読み、聖書を書かせてくださった聖霊に頼んでそれを理解し、日常の生活に適用できるのですが、当時の人々にはそれが出来ず、神の特別な助けを必要としたことが多かったのです。

 現代でも、聖書に書かれていることをまだ理解していなかったり、聖書には原則的なことは書かれていても、具体的な取捨選択となると、神様の直接の助けが必要となったりする場合があります。そのような時、私たちは神様からの何らかの導き、助け、介入を期待して祈るのです。それを期待しないで祈る祈りは、単なる気休めの祈りであり、今生きていて私たちの祈りにお応えくださる神を信じて祈る、ペンテコステの信仰の祈りではありません。だれにでも、神の直接の助けが必要だと感じることがあるものです。とは言え、いつも夢だとか幻だとかみ声によって「お示し」を頂かなければならないのは、成長していないクリスチャンの証拠なのです。

 成長していないクリスチャンには、み声も必要で章。でも、「仕事をするな」という神様のみ声はあり得ません。よほど特殊な事情がない限り、あってはならないのです。なぜなら、それは聖書に記されている原則に反するからです。聖書は、真面目に働いて生活することを教えています。

「働かざるもの食うべからず」という言葉があります。まだ4、5歳だったころ、読み書きも出来なかった祖母が教えてくれたものですが、後になって、これは共産党のスローガンである事を知りました。でもさらに後になって、何のことはない、これは聖書の教えである事を学んだのです。(Uテサロニケ3:10)

 聖書にはっきりと教えられていることに反する、神のみ声を聞いてはならないのです。そのような声が聞こえたら、自分の勘違い、聞き違いだと知るべきです。猫のくしゃみか風邪に閉まったドアの音かとでも思うべきです。また他のクリスチャンでも、預言者と呼ばれる牧師や巡回伝道者であっても、「あなたへの神の言葉がありました」と言って、なにやらおかしなことを語ったとしても、そんなものに振り回されてはいけません。大切なのは、そんな曖昧な主観的体験の言葉ではなく、聖書の言葉です。聖書には、聖書のみ言葉に従うようにと厳しく教えられていますが、預言の言葉に従うようにとも、耳に聞こえる神のみ言葉に従うようにとも、教えられていないのです。

 たとえば、み声を聞いてはならない場合があります。導いてくださいと祈ってもならない場合があります。ちょっと想像してみましょう。ジャングルの奥地の未開部族に福音を語る、リビングストンのような宣教師になるのが、自分の献身だと決心している若者がいたと考えてください。もっとも、現代ではそのようなジャングルを探すほうが難しくなっていますが・・・・・・・。

 その若者の前に、二人の若い女性が現れます。どちらもクリスチャンなのですが、一人はとても美人で、有名大学を卒業し、ピアノもとても上手。英語はぺらぺら、お花も御茶も免状を持っていて、その上テニスも出来るという。ただクリスチャン信仰はおさなく、わがままで、自分勝手で、独りよがりで、神様にお仕えしようとなど考えたこともありません。自分の幸せのために、クリスチャンになっているのです。

 もうひとりは、あまり美人ではありません。大学も三流です。ピアノはポロンポロンと弾ける程度、英語はブロークン。お花もお茶も習ったことがなく、スポーツもあまり知りません。でもとても親切で気立てが良く人に喜ばれています。いつも控えめでありながら誰かの役に立てることを喜んでいます。何よりも、しっかりと聖書を学び、神様に愛されていることを確信していて、感情の揺れも少なく、一生をかけて神様にお仕えしするのが、自分の願いだと証をしています。

 悪いことに、(?)この二人が同時に若者に恋をしたとします。さぁ、あなたがこの若者だったらどうしますか? お祈りをしますか? 「神様み声を聞かせてください」と真剣に祈りますか? こんな場合、祈ってはならないのです。み声を聞こうとしてもならないのです。あなたにふさわしいのは、二番目の女性です。

豚の寝言のような「神の声」に聞きしたがって、一生を棒に振ってはなりません。預言だ、み声だと盛り上がっている教会があったら、間違っていることに気付いて欲しいものです。くり返します。私たちに大切なのは、聖書に啓示されている神のみ言葉に聞くことであって、今、自分の耳や誰かの耳に聞こえて来る、「み声」に聞くことではないからです。

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2011年04月30日

異言の伴わない聖霊のバプテスマ



 10人ほどの牧師と宣教師たちが集まりました。いろいろな教団に所属し、神学的背景もだいぶ違います。雑談の中で特に話題になったのが、最近のペンテコステ派と呼ばれる団体の急成長です。


 日本ではキリスト教自体が極端な少数派に属しているために、あまり一般の話題にはなりませんが、キリスト教の背景の強い国では、特異なこととして注目を浴びているそうです。ただ、集まった牧師や宣教師たちの大部分は、ペンテコステ派にはなじみの薄い人たちだったために、いきおい、質問が私に集中しました。私がアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の牧師と、自己紹介をしていたためです。


 実は、ペンテコステ派とはなじみが薄い人たちの中にも、ペンテコステ派には警戒心を抱いている人たちも何人かいて、薄気味悪いといった感じで交わりが始まったのですが、私の解放的なものの言い方にほとんどの人が打ち解けてくださり、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の神学が、意外に正統的で保守的であると思われ始めていたのです。


 多くの質問の中で、もと南バプテストに所属していた宣教師の質問が、みんなの関心を引いたようでした。「自分も以前は聖霊の働きについてあまり知らなかったけれど、ペンテコステ派の影響で、聖霊について学び、すばらしい体験を重ねてきました。でも、私は自分がペンテコステ派だとは思っていません。なぜなら、私は聖霊のバプテスマの体験をしていますが、異言は語っていないからです」


 どうやら、ほかにも同じ見解の人が数人いたようです。ペンテコステ派とその教えについてあまり知らない人たちも、ペンテコステ派の急成長には強い関心を持っていたため、聖霊の働きを強調していながら、ペンテコステ派と呼ばれたくない人たちがいることに、そうとう興味をひかれたらしいのです。


 そこで私は、まず、伝統的ペンテコステ信仰と、カリスマ信仰と、第三の波と呼ばれる人たちの信仰の違いを、歴史的な発展を背景に簡単に説明したあと、付け加えました。「私は、どのような立場のクリスチャンであろうと、その人の信仰体験が真摯なクリスチャン信仰によるものならば、すべてを貴いものとして重んじます。ところで、自分は異言を語っていないけれど、聖霊のバプテスマを受けているとおっしゃる理由、そのように言うことができる訳はなんでしょう?」


 すると質問をしたもと南バプテストの宣教師が答えてくださいました。「史的キリストに対する信仰から一歩進んで、聖霊の実在と力を信じる生活を始め、奇跡を求めて祈り始めました。そして、私は幾度か幻を見ました。また、祈っていると聖霊の臨在を強く感じるようになり、体が熱くなり、平安に満たされ、喜びが湧き上がり、祈りが楽しくなりました。それから私が病人に手を置くと、その病人が癒される体験を何回もしました。だから、私は聖霊のバプテスマを受けたと信じているのです。私は異言を語る人々に違和感を持っていません。異言を語ることもすばらしいと思います。でも、異言を語らなければ聖霊のバプテスマを受けていないと主張するのは、少し視野が狭いというか、度量が小さいというか・・・・納得できないのです。聖霊の働きはもっともっと広いものだと思うのです」


 彼の意見にうなずく人たちが数人。なんと答えるか、興味津々で私を見つめる人たちが数人。それを横目で見ながら、私は答えました。「そうですか。なるほど、あなたのクリスチャン信仰の体験はすばらしいものです。聖霊体験と呼ぶのがいいかもしれません。さらにそのような体験を重ね、信仰を深め、いよいよ豊かに神に用いられることを期待します。でも、あなたのそれらの体験が、聖霊のバプテスマを受けたという証拠になり得るか、聖書によって証明をしてほしいのです。それらの体験が、間違いなく聖霊のバプテスマの証拠と言えると、聖書から説明してほしいのです。


 南バプテストの人たちは、私たちと同じくらい「聖書によって」、「聖書によらなければ」と、聖書を持ち出す人々です。集まっていた牧師たちも半分くらいは福音派といわれる仲間で、「聖書」、「聖書」というのには人後に落ちない人々です。元南バプテストの宣教師であった質問者は、当惑顔で言葉に詰まっていました。

 
 私は続けました。「聖霊のバプテスマ、あるいは聖霊によるバプテスマというのは、聖書がそのように名付けた、聖書的な体験です。バプテスマのヨハネがそのように呼び、キリストがそのように呼び、使徒の働きの著者がそのように呼んだ、特定の体験です。その聖霊のバプテスマを体験したと主張するためには、聖書が聖霊のバプテスマと呼んでいる、その体験をしなければなりません。伝統的なペンテコステ派の人々は、ほかの人たちのすばらしい信仰体験、聖霊体験を差別したり軽視したりするものではありません。ただ、その体験を聖霊のバプテスマと呼ぶならば、聖書が聖霊のバプテスマと呼んでいる体験であるべきだと、主張しているだけです。

 
 そこで元南バプテストの宣教師は、「ではペンテコステ派の人々は、異言を語ることが聖霊のバプテスマの証拠であると、聖書から証明することができるわけですね?」と言って、疑わしそうにほかの牧師たちを見回しました。


「もしも私に15分間くださるならば、異言を語ることが聖霊のバプテスマを受けた証拠であると、聖書から証明して見せましょう。もちろん、みなさんの反論は、聖書に根ざしている限り大歓迎です」 私は、まだ時間に少し余裕があることを見越して断言しました。


「皆さん、聖書をお持ちのようですので、使徒の働き10章を開いてください。私はできる限り、厳格な聖書解釈の原則に沿ってお話します。この解釈の仕方に疑問のある方はおっしゃってください。まず、使徒の働きという歴史書から神学を構築することはできないという、あるかたがたの主張が間違っていることをはっきりさせ、使徒の働きからも神学を論じることができるという、共通認識から始めなければなりませんが、皆さんの中に、使徒の働きから神学を建てることに反対とおっしゃる方は、いらっしゃいますか?」


 幸い、そんな難しい議論は始めて聞いたという方ばかりでしたので、それ以上の説明は不要となって、本題に入りました。


「聖霊のバプテスマ、あるいは聖霊によるバプテスマと、呼び方は場合によって少し異なりますが、4つの福音書すべて記がしているキリストの受洗の記事の中で、バプテスマのヨハネがキリストを指して、「この方は聖霊によってバプテスマをお授けになります」と語った、そのバプテスマです。イエス様ご自身が使徒の働き1章5節で言及されているバプテスマです。この前提はよろしいですね。


 このバプテスマが実際に授けられたと記録されているのは、ルカの福音書の後編である使徒の働きだけです。もしも使徒の働きの神学性が否定されるならば、その前編であるルカの福音書の神学性が否定されなければなりませんし、同じ福音書であるほかの三つの福音書の神学性も否定されなければなりません。幸い、どなたも使徒の働きの神学性も、福音書の神学性も信じておられるようですので、問題なく前に進めます。


 使徒の働きには、明らかに聖霊のバプテスマが授けられたと理解すべき記事が、2章と10章と19章に3回記されています。また、たぶんこれは聖霊のバプテスマが与えられたと考えられる記事が8章に1回あります。明らかという3つの記事では、すべて、異言が語られています。もう1つの場合では、異言が語られたとは書かれていませんが、異言が語られたと理解するのがいちばん納得し易い記事です。


 中でも、聖霊のバプテスマには必ず異言が語られると理解するために、もっとも大切なのは異邦人コルネリオとその家族一同が聖霊を受けた記事で、使徒の働き10章に記されています。この異邦人の改心という出来事が、ユダヤ教の一派の主張に過ぎなかったキリストの福音を、普遍的なものに発展させていく上でどれほど重要であったかは、牧師や宣教師である皆さんは充分に理解しておられると思います。その福音の普遍性、キリスト教会の世界的発展に大きな力となったのが、実は、異言なのです。


 そこで、皆さんご自身に聖書を調べていただきたいのですが、異邦人に福音を語るどころか、異邦人と交わることさえ非常に躊躇していたペテロは、聖霊によって、半ば無理やりにコルネリオとその家族たちのところに使わされました。でもペテロは、彼らが救われるようにと、個人的な勧めと指導をしたでしょうか? 10章の44節以下に注意してください。そのような勧めも指導も、まだしていませんね? むしろ彼は、自分が話終える前に、コルネリオたちが救われたと確信したわけですね? なぜペテロは、この救われるはずもないはずの異邦人たちが、救われたと確信したのですか?」


 聖書知識では引けをとらないと、ひそかに自負しているはずの福音派の牧師たちですから、私の質問にとまどうことなく、すばやく答えてれそうなものだったのですが、彼らは答えるのを躊躇しているようでした。


「ペテロが異邦人たちも救われたと判断したのは、異邦人たちにも聖霊の賜物が注がれたのが分かったからですね? どうして、聖霊の賜物が注がれたとわかったのでしょう? 彼らが異言を話し、神を賛美するのを聞いたからですね? ここまでは大丈夫ですか? 私の聖書理解、聖書の用い方に間違いがありますか?」


 誰も反対する人がいないことを確認して、私は進みました。「神を賛美するのはふつうのことですから、むしろ、異言で話し、異言で神を賛美していたのでしょうね。その異言で話していたという事実が、ペテロと彼に同行したユダヤ人クリスチャンたちに、『私たちと同じように、聖霊を受けた』と思わせたのですね? ほかに、異邦人の救いを彼らに確信させた出来事はありましたか? 彼らが賜物として聖霊を受けたという事実だけでしたね。その事実を確信させたのが異言を語ることでした。そして、その異言を語ったという事実が、ペテロとその同行者たちに、異邦人たちも自分たちと『同じように』聖霊を受けたと確信させたわけですよね。それでペテロは、この異邦人たちに洗礼を授けたのです。ここまでは間違いがないでしょうか? 


 その後、ペテロは異邦人にも洗礼を授けたことでほかの兄弟たちに批判されて、弁明しなければならなくなりました。それは11章に書かれています。そこでペテロは自分の体験を語り、彼が話し始めてまだ間もなく、「聖霊が、あの最初のとき私たちにお下りになったと同じように、彼らにもお下りになった」と説明しました。「あの最初のとき」とは、当然、使徒の働きの2章に記されている、ペンテコステの日のことと考えていいですね?


 だれも口を開きませんでしたので、私はさらに続けました。「ペテロは『あの最初のとき
と同じように』という事実を強調していますね。弁明ですから当然といえば当然ですが、使徒の働きの著者ルカもまた、あえてこの問題をくり返して取り上げることによって、ペテロが強調したその点を強調しているように読めますが、いかがでしょうか?


 その後に、さらにペテロの理解とそのペテロの理解を後押ししている、ルカの理解が記されているわけです。ルカがペテロの理解に納得していなければ、この記事を書くことはなかったのです。コルネリオたち異邦人が体験した異言を語る出来事は、ヨハネによって予言されていた『キリストが与えるバプテスマ』、すなわち、『聖霊によってバプテスマを授ける』と語られていたバプテスマであったと、ルカの福音書の著者であったルカは理解していたのです。聖書には、ペンテコステの日の出来事が聖霊のバプテスマであることを示す、直接の言及はここにしかありません。


 それはペテロとその同行者たちだけではなく、当時のクリスチャンたちが聖霊のバプテスマには異言が伴うと、理解していたことを示していることにならないでしょうか? また、当時のクリスチャンたちは、異言を語ることが聖霊のバプテスマを受けた証拠であると、認めていたことを示していないでしょうか? さらに、異言を語るということは、神の絶対の権威によるものあり、人がそこに口を挟むべきことではないことも示し、その上に、それは洗礼を授けることの充分な理由になることさえも、示しているのではないでしょうか? ただし、現代の人々が異言を語ったと主張する場合、その異言が正真正銘の異言であるかどうか、確かめなければならない場合もあるようですね。これは、別の機会にお話しましょう。


 ところで、聖書から神学を構築する場合、わずか一節の短い引用や、たまたま一度だけ言及されたことから語ってはならないことは常識ですが、これは一節だけの引用ではありませんし、たまたまの言及でもないことはお分かりになりますね。これは明らかに意図的に言及されたものであり、かなり念の入った説明です。


 それから、お伺いしたいのですが、なぜ、異言を語ることを奇異に感じたり、恐れたりするのでしょう? パウロは明らかに、すべての人が異言を語ることを望んでいると語っていますね。自分が誰よりもたくさん異言を語るともいっています。異言を語るのをとどめてはならないとはっきり教えています。コリント人への第一の手紙の14章に記されているとおりです。


 もちろん、異言は伴わないけれど、すばらしいクリスチャン体験、聖霊体験というものはたくさんあることでしょう。パウロが「第三の天」という表現で語った彼の体験も、そのような体験のひとつだったかも知れません。しかし、自分は異言を語ったことはないけれど、聖霊のバプテスマを受けていると主張される方は、その体験が間違いなく聖霊のバプテスマであるということを、聖書から説明する責任があると思いますが、いかがでしょうか?」


 私の言うことに耳を傾けてくださっていた牧師や宣教師たちは、顔を見合わせていましたが、やっとの思いで・・・・・と思える様子でおっしゃいました。「先生の言われることはよく分かりました。ただ私たちは、このことをもっともっと、しっかりと学ばなければならないと思います」 


「ぜひ、そのようになさってください。聖霊体験が個々のクリスチャンの体験として非常に重要であり、教会の成長にも大きく関係しています。いろいろ例外はあるかもしれませんが、少なくても、世界のペンテコステ教会の働きを見ると、そのように言えると思います」 私は続けました。「そしてさまざまな聖霊体験の中で、イエス様や弟子たち、それから初代の教会が特に強調したのは、聖霊のバプテスマといわれる体験です。さまざまな聖霊体験があり、それぞれすばらしいものでしょう。でも、聖霊のバプテスマと呼ぶ以上、それは異言の伴うものでなければならないというのが、聖書から得た私の結論です」


 残念ながら、このときの私の説明で、充分納得できた方はいなかったようです。それぞれが自分の神学的伝統を横において、聖書の言うことを素直に聞けるようになるのはいつのことでしょうか。私の説明を妨げずに聞いてくださった寛容さに感謝をすると同時に、聖書の教えよりも自分たちの神学的伝統を大切にする頑なさに、少しばかり失望したものです。










posted by ms at 00:00| Comment(6) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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