2011年06月16日

花咲いた雑談


 ある夜の祈り会のあと、雑談に花が咲きました。

 若いころからクリスチャンだったという、40代前半の女性。
「あのね。わたし、神様のみ声を聞いたことがあるのよ。おかしく思われてはいやなので、いままで誰にも言わなかったんだけど・・・。『たとえどのようなことがあっても、しっかりと信仰を守り通しなさい』と、はっきり聞こえたの。ちょっと問題があって、あれこれ悩んでいたときのことなんです」

「ハー。そうですか。よかったですねぇ」と私。

 すかさず、祈り会の中心メンバーの60代の男性が言いました。「実は、私もなんですよ」 

「そうなんですよ」 隣に座っておられた奥様が相槌を入れました。「あの時は、私たち、ホテルで開かれた特別集会に集まっていたのに、主人たら、自分の部屋にこもって出てこなかったんです」

「あまり気が乗らないので、サボっていたんですよ。それで、テレビでも観ようかと腰を浮かしたときにですね。 『きちっと集会に出なさい』って、み声が聞こえたんですよ。はっきりと。驚いて周囲を見回したんですが・・・。そのときから、私の信仰に筋が通ったというか、まぁ、きちっとしだしたわけです」

「ホー。そうですか。面白いというか・・・・よかったですね」

「面白いって・・・・。こういうのって、どうなんですか?」と先ほどの女性。

「クリスチャンによっては、み声を聞いたとか、幻を見たとか、少しこう・・・なんて言うか・・・自慢げに話している人もいるのですが、私はあまり話したことは無いんです。やはりなんとなく、おかしく感じて・・・」と男性。

「良かったですね。お二人とも、そのような神様の励ましのお声を直接聞くことができて」と私。

「良かったことなんですか?」と男性。「なにか、自分の信仰が変なのではないかと、心配なところもあって・・」と女性。

「よかったんですよ。信仰が幼い間には、ときおりあることです」

「えっ!? 信仰が幼いときですか? 信仰が強いから、そのような体験をするのではないのですか?」と、これはもう一人の出席者。

「いやいや。信仰が、聖書に根ざして成長していれば、神様は、皆さんにそのようなみ声をおかけになる必要はなかったはずです。お二人とも、まだ信仰が弱く、聖書も知らず、どうしたら良いかわからなくて、フラフラと迷っていたから、神様は哀れんで、特別にみ声をかけてくださったんですよ。良かったですね。聖書の教えを正しく学んで、その教えに立って生活するクリスチャンに、神様は、そのようにみ声をかけてくださることはまずありません。いつまでもみ声を聞いたり、幻を見たりしているクリスチャンではいけませんよ」

「ああ!! そうですよね。私がお声をかけていただいたのも、まだ、クリスチャンになりたてのころでした」

「あなたがみ声を聞いたのも、クリスチャンになったばかりで、まだ生半可な信仰しか持っていないときだったわね。だって、ズルして集会を休んでいたんですから」と、男性の奥様。

「そうです。いまでも神様のみ声を聞く人たちがいます。幻を見せてもらう人も、意味のある夢を見せてもらう人もいるかもしれません。一方、そのような神様のお働きは、今はありえないと教える牧師や教師もいます。でも、聖書の教えを調べる限り、無いと断定することはできません。神様には何でもできるからです。ただし、何でもなさる神ではありません。する必要があると神様が判断なさったときには、してくださるのであって、する必要も、意味もないことをする神ではありません。

 神様は、現在でもみ声をかけてくださることができます。だれもそれを妨げることはできません。夢も見させ、幻も映し出してくださることができます。でも、そのようなことをする必要は、もう、ほとんどなくなったのです。聖書があるからです。

 聖書がまだ完結していなかった時代、つまり、神様のみ心やご計画が、文書によって明らかに知らされていなかった時代には、神様はご自分のみ旨やご計画を人々に知らせるために、またさまざまな時と場合、人々に導きを与え励ますために、声や夢や幻や預言を用いなければなりませんでした。また当然、人々はそのような手段によって、神様のみ心を知ろうと願ったのです。

 旧約の時代には、神様と人とのコミュニケーションは、罪によってひどく妨げられていました。ですから、み声を聞いたり幻を見たりする人々は、普通、とても限られた立派な人たちでした。でも、キリストが十字架で贖いの業を完成された後の新約の時代には、神と人とのコミュニケーションは、基本的に誰にでも開かれ、夢も幻も、一般の信徒に開放されたのです。それが、ペンテコステの日にペテロがヨエルの預言を引用して語った、説教の趣旨でした。

 確かに神とのコミュニケーション、あるいは交わりはすべての信徒に解放されたのですが、だれかれの区別なしに、際限なくみ声がかけられ、幻が見せられたわけでもありません。やはりそこには秩序があったのです。さらに、新約聖書が完結して神の奥義の開示が終わったということは、神が人間に教えようとされた原則的なことは、すべて聖書の中に記されているということなのです。人の救いについての教えと、人の歩むべき道についての教えは、ことごとく聖書の中に示されているわけです。だから、あらたな奥義の啓示は不要となり、み声や夢や幻、あるいは預言というものの必要性が、ずっと少なくなったのです。

 そういうわけで、しっかりと聖書の教えを身に付けたクリスチャンは、み声や夢や幻をあまり必要としなくなり、預言も、聖書が書かれていた時代に比べると、重要ではなくなったのです。それらを必要とするのはまだ幼いクリスチャン、聖書の教えをあまり知らないクリスチャンです。成長したクリスチャンがそれらを必要とするのは、聖書の原則的な教えだけではまだ判断できないことがら、あるいは選択できない物事が現れてきたときです。すなわち聖書の教えの具体的適用に関わる、狭い範囲のものになるわけです。

 卑近な例でお話しましょう。未開部族の中に入って宣教師として働く決意をしている青年の前に、とても美しく、健康で、能力もあり、聖書知識も申し分なく、おまけにピアノまで上手に弾ける女性が、同時に二人現れて、彼に好意を持ち始めたと想像してください。ただ難点は、二人とも未開部族の中にはいることなどとても考えられない、『華やかな生活志向』の女性だったことです。二人とも、うまく青年を引き止めて、日本で、優雅なクリスチャン家庭を築きたいと願っているようでした」

「先生。青年の前に素敵な女性が二人ではなく、女性の前に素敵な男性が二人現れたことに、話を変えることはできませんか?」30代も半ばを過ぎた独身の女性が、いたずらっぽく口を挟みました。

「ウーン! 難しいですねぇ。教会には、あなたのように素敵な女性は多いのに、男性は少ないですから」

「聖書の原則的教えだけでは、彼はどちらの女性が自分にふさわしいか判断できずに、『神様。どちらの女性が私にふさわしいのか教えてください。どちらの女性なら、宣教師になると決心できるでしょうか』と、導きを求めて祈ることになります。つまり、ある種の啓示を願って祈るのです。

 私たち、ペンテコステの信仰を持っているものは、こんなとき、本当に神の導きがあることを信じて祈ります。気休めではありません。ただし、「これが神の導きだ」と判断し、選択するのはあくまでも私たちで、私たちの責任であることを忘れてはなりません。青年はまだ気づいていませんでしたが、彼女たちの後ろに、あまり美人ではないけれど、あらゆる面で、宣教師の奥さんになるのに最もふさわしく、献身態度も固い女性が、そっと控えているかもしれません。

 もうすこし脱線させてくださいね。この控えめな女性に青年が気づき、選択肢の中の一人に加えたと考えてみましょう。そのとき、この青年は『神様。み心を示してください。どの女性が私に最もふさわしいのでしょう』と、祈ってはならないのです。祈りによって導かれることを期待するのではなく、聖書の教えを基準として、判断しなければならないのです。それでも祈りたければ、『神様、私が正しく聖書を理解し、正しくすべての事情を把握し、正しい選択ができるように、導いてください』と祈るべきです。そして、自分の判断と決断で、あまり美人ではない、控えめな女性を選ぶのです。

 いまクリスチャンたちが聞く神のみ声は、聖書が教える教えに矛盾するものであるはずがなく、クリスチャンたちが見る夢の解釈も幻の理解も、聖書の教えに反するものであってはならないのです。問題は、夢や幻を見、み声を聞き、預言を与えられるような人たちの多くが、聖書の明らかな教えから外れたことを言い出すという事実です。聖書を読まずに、自分勝手な判断や解釈ができる夢や幻、あるいはみ声や預言を大切にし、夢を見ることができる自分たち、み声を聞くことができる自分たち、預言ができる自分たちを、あたかも霊的に高い、特別な人々であるかのように思い込んでいることです。

 そのような人たちが、夢や幻やみ声や預言をことさらに強調して、聖書の教えと合わないことを教える教会やグループを作り上げています。聖書の教えをよく知らないクリスチャンたち、聖書をあまり読まない「強い信仰」のクリスチャンたちが、たくさん惑わされて、正しい道からそれてしまっています。

 聖書は私たちに聖書の重要性を教え、これを読み、理解し、従うことの大切さを教えていますが、み声を聞くことの重要性も、幻を見ることの大切さも、夢を見ることの必要性も教えていません。預言でさえ、聖書が完結する前にこそ重要性が認められていましたが、今はその重要性を失っていることを知らなければなりません。

 私たちは、現在でも神からの直接の語りかけがある、「可能性」を否定してはなりません。しかし、そこにあまり重要性を認めてもいけません。私たちが強調するのは、まじめに聖書を学ぶことであり、聖書の教えに従うことです。











posted by ms at 00:00| Comment(2) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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