2010年10月24日

預言運動の問題を論じる (2)



 F.エキュメニカルな傾向 



 ペンテコステ運動とそれに続くカリスマ運動及び第三の波の運動、さらに第三世界での類似した運動は、伝統的なエキュメニカル運動とは別の、新たなエキュメニカル運動となりつつある。伝統的なエキュメニカル運動はどちらかというと社会派の教会、すなわち私たちから見ると啓蒙思想に流された教会が主導し、組織的一致を目指していたが、社会派の教会の著しい衰退によって、人為的な美しい夢に終わる可能性が強い。一方、この聖霊体験によるエキュメニカルな動きは、強い反啓蒙思想を背景にした、組織、神学、伝統を超えた、「同じ神体験」をしたという共感、仲間意識による、精神的な一致であり、これが、有機体としての一致に向かう可能性も否定できない。現在、伝統的ペンテコステとカリスマ、第三の波、その他の、いわゆる聖霊運動に属するクリスチャンは、世界で4億を超え、5億とも言われている。その中には、私たちのような福音主義信仰を持っている者も多いとは言え、とても手を携える事ができない者、クリスチャンと認めがたい者たちもかなり存在する。シンクレテイズムを見極め排する過程での困難さが伴う。



 G.神学の枠組みと用語の問題 
 


 現在私たちが使用する神学の枠組みと用語は、啓蒙思想の中で構築され形成されたものである。その中には、現在も働き賜う神、また、聖霊に対する理解が非常に希薄であった。従って、現在のペンテコステ運動全体、また、特に預言・掲示・霊感の問題を論じるには、伝統的プロテスタント神学の枠と用語をもっては不可能であり、これが混乱に拍車をかけている。



 そこで念のため、手元にある改革・長老派系、バプテスト系、メソジスト系の著名な組織神学書の目次を調べて見ると、改めて驚いてしまった。それぞれ相当の分量の著書であるが、「聖霊」という大項はまったくなく、中項目にもないのである。他の項目で、例えば聖書の霊感の部分、あるいは救いの適応の部分などで聖霊の働きについては触れてはいるが、独立した聖霊の学びは皆無なのである。聖霊論は僅かの例外を除いては、まさに忘れられた分野なのである。



 たとえば、私たちの教会でも常に用いられている、「使徒信条」を取り上げてみよう。数ある信条の中でも最も優れた信条として認められ、歴史も長く多くの教会で用いられ続けて来たこの信条で、聖霊に関する告白は、「我は聖霊を信ず」の一言だけである。聖霊の何を信ずるのか、つまり、聖霊が存在する事を信じるだけなのか。聖霊が神である事を信ずるのか。それとも神の力であると信じるのか。まったく不明なのである。この信条が作られた時代は、聖霊に対する関心がまったく薄かったのであり、この信条が不服なしに用いられて来たのは、長い年月の間、それを用いる教会に、聖霊に対する関心が低かったからである。



 米国のアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団では、かなり以前に独自の信仰告白文「WE BELIEVE」を作成し、機関紙のエバンジェルに掲載し続けている。日本においてもその翻訳が、しばらくの間アッセンブリー誌に掲載されていた。内容においては使徒信条より優れ、聖霊についてもしっかりと述べられているが、告白文としては美しさに欠け、実際にはあまり用いられなかったと記憶する。あるいは、「聖霊教団」と自認する私たちの教団でも、まだ聖霊に対する関心が低く、使徒信条で満足しているのかも知れない。ともあれ、聖霊論を独自の大項目として含めた神学、また、共に聖霊論を基盤にした教会論と宣教論の枠作りと構築、聖霊とその働きに関する適正な用語の確立が必要である。この辺りに、伝統的ペンテコステ教団の重大な責任があると考えられる。



 H.アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団(A/G)の立場 



 A/Gの発端は、合理的なものの考え方や生き方、あるいは社会の構造が頂点に達した感があった、十九世紀の後半から二十世紀の初頭に端を発したアメリカの聖霊運動にあった。この運動が聖霊のバプテスマという一つの霊的体験に繋がり、その体験をした多くの者が、宣教という基本理念で協力を始めたのが、1914年の教団設立にむすびついた。歴史的にA/Gは白人の教団として発展し、現在アメリカ国内では信徒数およそ250万人強で、第二のペンテコステ教団となっている。しかしその宣教姿勢から、世界的にはおよそ175カ国で3千700万人を超える信徒数を持つ、最大のペンテコステの交わりに発展している。友好的な黒人主体の姉妹団体として発展したチャーチ・オブ・ゴッド・イン・クライスト教団は、アメリカ国内では信徒数においてはA/Gの約2倍であるが、世界的な宣教の取り組みには遅れを取り、現在およそ30カ国で伝道を開始している程度である。A/Gはその宣教姿勢や出版事業などを通し、伝統的ペンテコステの信仰、神学、実践において最も影響力の強い教団として現在に至っている。



 A/Gの特徴は普通、異言を伴う聖霊のバプテスマという現象を強調する事で知られているが、より大きな捉え方では、啓蒙主義的キリスト教に対抗する運動であり、今も変わらず、生き、働き、祈りに応え給う神への信仰が強調されていることにある。福音派の中においてさえ、現在は奇跡や癒し、あるいは預言や異言はないと主張する神学的傾向に対して、「キリストは昨日も今日も永遠までも変わらず、」お働きになると主張するものであった。また主観的体験を重んじはするが、あくまでも聖書に対する福音派の基本的態度を貫き、主観的体験信仰に流れることはなかった。主観的体験信仰に流れなかった理由のひとつは、A/Gの運動は教会刷新運動、あるいはリバイバル運動として、クリスチャンの霊的体験そのもの、すなわち、聖霊のバプテスマ自体に重点が置かれるのではなく、あくまでもその体験を起点とした、宣教が重んじられる運動であったことにあると考えられる。これは教会刷新運動として、つまり既存のクリスチャンに対して新たな霊的体験を提供する運動として、かなり主観的要素が強い預言や啓示などの体験を重んじるカリスマ運動、第三の波運動と対比される点である。A/Gにあっては、預言もその他の霊的体験も認知され、実践されてきたが、それらがことさら強調されることは稀であり、神秘主義的に主観的霊的体験を追い求める傾向も末梢に留まり、全体に影響をおよぼすことはなかった。強調されたのはむしろ、客観性の強い、また、宣教との関わりが強い癒しや奇跡といった現象であった。



II.現代預言運動の性格と特徴 



 預言運動そのものは、教会の歴史の中で幾度かくり返されているが、現在日本で話題になっている預言運動には、それなりの特徴がある。



 A.主観的体験主義 



 預言は、体験という事では同じでも、癒しや奇跡に比べて極めて主観的である。とはいえ、啓蒙思想の影響を強く受けて、「現在も働いておいでになる神、祈りにお応えになる神、一人一人に関心をお持ちになり、交わりを持とうとしておいでになる神」という神観がないがしろにされ、教理に同意することが信仰と取り違えられているような、主知的な信仰観に対し、「生きていたもう神に対する生きた信仰」が強調されたことは、多いに評価されるべきである。



 しかし主観的な預言そのものを、確かに誤りのない神からの啓示として、客観的に認める作業は非常に困難である。多くの場合、預言をする者の真実性を疑うのは、「神に逆らうこと」であるという恐怖に繋がるため、野放しの状態で先ず預言がされてしまい、その後、混乱の中での「吟味」が続けられることになる。また、そのような預言の主観性のゆえに、アミニズム的性格、オカルト的な性格との混同が大いに問題とされる。
 


 さらに、たとえ預言が真実なものであったとせよ、体験が重んじられるところで起こる一般的な傾向が、聖書の軽視であり、預言の場合はその傾向が著しい。また、特に個人預言、指示預言には、預言を期待する者のなかに、思考と自己決定の責任を回避する傾向が強くなり、健全なクリスチャンの成長を妨げ、誤った権威主義の台頭を許す事になりかねない。 



 B.ピーター・ワグナーの影響 



 ワグナーは、いわゆる福音派に属しながら、ペンテコステ運動を本物のキリスト教会の運動と認めて諸教会に紹介し、ペンテコステ運動が、ペンテコステ教会の枠を超えて広がって行く、きっかけを作った。その功績は大きい。



 しかし、彼は聖書学者でも神学者でもない。彼が有名になった「教会成長運動」は、聖書の教えに立脚したものではなく、社会学、統計学に立脚し、その論を補強するために「聖書を利用した」ものに過ぎない。また、彼が推進するいわゆる「霊の戦い」、「地域霊」、「地図作り」なども聖書的根拠は非常に薄い。彼自身が、それを認めて「色々なことをやっても伝道がうまく行かなかった。では、これを試して見たらどうか」という程度で、霊の戦いを勧めているのである。



 その彼が、今は預言運動におおいに乗って、中心人物の一人として宣伝に務めている。彼がそうしているのは、それが聖書的であるからではなく、「効果がありそう」だからである。彼は、聖書的であるよりもプラグマテイストであることを選んだのであり、アメリカ教の信徒である。
 



 C.レストレーション運動の一環 



 今回の学びのために手に入れた文献を見る限り、現在日本で強調されている預言運動は、レストレーション運動の一環として行われているようである。彼らは、エペソ4:11に記されている五つの働き、すなわち、使徒、預言者、伝道者、牧師、教師を、キリストによって定められた教会の五職であり、キリストの働きそのものを直接継承する重要な職制であると理解する。その重要な職制は、使徒の時代には明確に引き継がれていたにも拘わらず、やがて教会史のなかで見失われ、より順位の低い、伝道者、牧師、教師などの職のみが残るようになり、結果として、教会は本来の活動力を失い、使命を果たせなくなってしまった。従って、いま、さらに高い順位の使徒職と預言者職が、早急に回復されなければならないというのが、彼らの主張である。彼らはまた、使徒職・預言者職と共に、賜物の賦与に関わる按手の働きも、回復されなければならないと言い、盛んに手を置く。以上のような主張は、果たして聖書の教えるところであろうか。



@ なぜエペソ書だけを取り上げ、Iコリント12:28のリストは無視するのであろうか。このリストはエペソ書のリストとはかなり趣を異にする。
A エペソ書のリストだけが取り上げられるべき正当な理由があったとしても、ただ一箇所の聖書の記述を取り上げ、そこから神学を、しかも教会の組織と信徒の生活に重要な影響を及ぼす神学を作り上げることは、やってはならないことである。
B エペソ書のリストを「職」と理解するのには、解釈上の無理がある。Iコリント12:28や、IIテモテ1:11の記述と合わせて、これらは「職」ではなく、賜物の行使による機能と考えるべきである。
C ましてや、これらがキリストの働きと権威をそのまま引き継ぎ、賜物などとは別の次元の「職」であると理解するのは、ローマ法王が、ペテロの後継者としてキリストの代理であると主張する以上に、まったく聖書的根拠を持たず、無益な権威主義に陥る危険性を持つ。
D これらの働きの順序には、パウロの意識下にあったかもしれない優先順位が、影響していたと考えられなくもない。しかし、だからといって、この順位をそのまま教会における職の優先順位とするのには無理がある。
E 五職といわれる四つ目と五つ目の働きは、二つの異なった働きではなく、ハイフンで結ばれるべきもの、つまり、「牧師すなわち教師」と理解されるべきであるというのが、ギリシャ語文法からの定説である。
F 五職、あるいはIコリント12:28のリストにしても、パウロが各「職」の間に厳密に線を引き、区別をしたのだとは考えられない。教会の中の様々な働きや機能を、思いつくままに上げたのであり、それらは互いに重複し合って機能するというのが、真実に近いにちがいない。それは、IIテモテ1:11のパウロの記述にも明らかである。
G 按手の働きとその効用については、テモテに関する記述その他から、ある程度の事は言えるものの(Iテモテ4:14、IIテモテ1:6)、そこから確実な神学と実践の指針を見出す事には無理がある。さらにヘブル書6:1〜2をもって、按手が「キリストの六大教理の一つ」であると論じるのは、初歩的誤りで、ヘブル書が言うのは、按手が「初歩の教えに過ぎない」ということである。

                                      つづく



























posted by ms at 00:00| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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