2010年10月25日

預言運動の問題を論じる (3)

 D.レーマの神学 



 現在の日本で盛んな預言運動を支えている神学のひとつは、レーマの神学であると考えられる。この神学が、A/Gを始めとするペンテコステの主流教団の、かなり著名な幾人かの伝道者たちに支持されているのは事実である。彼らは、神の言葉にはロゴスとレーマがあって、ロゴスは概念としての言葉であり、レーマはロゴスとしての言葉が語り出された言葉であると主張し、私たちの教会とクリスチャン生活には、ロゴスだけでは不充分であり、レーマが必要であると説く。端的に言うと、ロゴスは聖書であり、レーマは聖書の教えが生きた言葉として啓示されること、すなわち、聖霊による照明であると言う。しかし、多くのレーマ神学の信奉者によって実際上大切にされているのは、聖書の解き明かしとしてのレーマではなく、聖書には語られていない啓示や指示預言を含む、預言としてのレーマであるように見受けられる。しかしこのレーマの神学は、著名な神学者たちにはあまり支持されていない。




@ レーマとロゴスの聖書の用法を調べると、確かに、ある程度の用法の違いがあり、レーマとは実際に語る言葉である。しかし、ロゴスにもそのような用法があり、意味が重なり合っているために、そこに明確な区別をつけ、さらにそこから神学を形成するのには無理がある。
A 聖書の証言を見ると、霊感された聖書の言葉自体に力がある。レーマにならなければ力を発揮しないのではない。
B レーマには、聖霊の照明を受けた聖書の言葉も含まれると教えられてはいるが、実際には預言の強調となっているため、聖霊の照明の働きを軽視することに繋がり、聖霊の照明の働きに頼る私たちの説教、さらには、パウロが語っている預言の軽視に至る。この点については後述する。
C レーマの強調はロゴスの軽視、すなわち書かれた神の言葉、聖書の軽視に繋がる。これは、預言運動をする人たちの傾向として、かなり明白である。これは新正統主義の神学者たちの、聖書はそれを神の言葉と信じるものにとって、神の言葉であるという主張に類似して行く。ともに聖書の言葉を主観によって取捨選択する事になる。



 E.聖書時代と現代の差 



 いま流行の預言運動は、こと預言に関する限り、旧新約聖書の時代と現代の間に、実質的な差を認めないばかりか、むしろ、使徒2:17の記述などから、終末の時代である現在は、さらに多くの預言者が出現し、というよりは、すべての信じる者が預言者となると論じる。強調の差こそあれ、「あなたも私も預言者となれる。預言ができる」というのである。
 

 
@ 霊感によって記された神の言葉である聖書が完結した今、聖書が完結していなかった時代と同じような頻度の預言が、果たして必要なのか。確かに神は交わりの神であり、理神論的な神ではない。しかし、神がお望みになる人との交わりは、人が望む神との交わりと同じだろうか。あれこれとまつわりついて、自立できない子供を育ててしまう母親のような感覚で、神は人間との交わりを望んでおられるのだろうか。聖書を見る限り、私たちの神は決してそのような神ではない。
A 使徒2:17に引用されているヨエルの預言は、あたかも、今や預言が誰によってでも、頻繁に行われるようになったかのような印象を与えるが、ヨエルも彼の言葉を引用したペテロも、さらにそれを記録したルカも、そのようなことを言おうとしていたのではない。旧約の時代においては、聖霊はごく限られた特別の人物に、特別の役割を果たすために注がれ、預言の働きも選ばれた少数の人間に限定されていたが、新約の時代においては、聖霊は、すべての信じる者に注がれ、その結果、聖霊の働きである預言も、広く一般信徒に与えられるようになるというものである。誰でもが、のべつ幕なしに預言するという意味ではない。
B さらに、ここでルカが理解した預言が、果たして現在預言運動を推し進めている人たちの言う預言と、同質のものであるかという疑問が残る。ルカもパウロも預言あるいは啓示という言葉を、かなり広い意味で、あるいは曖昧に、明確な区分をしないままで用いている。ルカが意味した預言には、確かに現代の預言運動の提唱者たちが言う意味の預言も含まれていた。しかし、使徒の働きの内容を検討してみると、ルカはむしろ預言という言葉をもって、宣教の言葉、福音伝達を第一義的に考えていたと思われる。 
C ヨシュア記を読むと、神が当時のイスラエルにお求めになったのは、み言葉をしっかりと記憶し、それに依って生きることであった。当時のみ言葉とは、言うまでもうなくモーセの五書だけのことであり、現代の私たちから見るとまことに不充分であった。神の直接の介入としての預言や啓示が、現代より格段に必要とされたに違いない。しかし神は、「預言や啓示を期待し、それに依って生きよ」とはおっしゃらず、み言葉に立って生きることをお教えになったのである。み言葉、すなわち、霊感によって記録された神の言葉によって生きることが、神の民の基本である。



 F.吟味の必要 



 現在預言運動をしているすべての指導者は、Iコリ14:29を用いて、現代の預言は「吟味」されるべきであると、口をそろえて論じる。ここで聖書が語っている吟味という行為は、はたして現在の預言運動の指導者たちが主張するように、「すべての預言を、神からのものであるかどうか、まず疑ってかかり、充分テストし、その結果、間違いなく神からのものであるという確信が持てたなら、それを受け入れなさい」という意味なのだろうか。あるいは、語られた内容を深く考察し、思い巡らしなさいということだろうか。たしかに、ここでパウロが用いた用語は、「テスト」するという意味にも理解されないこともないが、もっと素直な、「良く考えなさい」という意味にも取れる。そして、文脈をたどると、「テスト」という解釈はそぐわない事が分かる。もちろん、語られた預言について深く考察するならば、その過程で、疑わしいものは排除されることになるだろう。しかし、それがパウロの言おうとしている事ではない。



 パウロはむしろ、異言も預言も同様に、ふたりか、多くても三人の者が語ったならば、それでおしまいにしなさい。他の者は、たとえもっと語りたくても、集会全体の秩序の事を考えて、黙っていなさいと言いたかったのである。吟味しなさいというのは、他の者が預言をしたり異言を語ったりしている間、自分が語れないことにいらついたり、不満たらしく、無駄に時間を費やすのではなく、他の人が語ることにも耳を傾け、語られたことについて熟考しなさいと、ただ当然の事を勧めただけである。したがって、ここで「黙る」ことの価値を無視し、「吟味」を強調するのは、著者が強調していない事を強調し、強調していることを軽視する間違いである。



 また、このように、聖書の中でただ一度だけ語られていることがらを、自分に都合良く解釈して、ひとつの神学と実践の基盤とするのは、行ってはならない危険なことである。さらに、このテキストと、「すべての霊を信じる事をしないように」と教えている、Iヨハネ4:2を無造作に関連付け、吟味を正当化するのは乱暴である。パウロとヨハネはまったく異なった状況のことを、別々の手紙で語っているのである。



 G.預言の練習 



 確かに、預言が間違いなく神から来たものであるかどうか、判断することは大切である。しかし現在の預言運動のように、「吟味」ということを逆手に取って、「すべての預言は、先ず吟味されなければならないのだから、はたして神からのものかどうか確信がなくても、間違っていても、おじけずに語りなさい。何をするにしても、初めからうまく行く事は少ないのだから、練習として、心の中に思い浮かんできた事を語ってみなさい」と励ますのは、いささか軽はずみと言わなければならない。本来は、預言する者が、「この預言は吟味されなければならない」と感じるような預言は、してはならない預言である。聖書は、「神のみ名をみだりに唱えてはならない」と教えている。現代の預言運動の推奨者たちは、預言において、神のみ名をみだりに、軽々しく唱えてはいないだろうか。



 確かに、サムエルの時代に預言者の学校と翻訳されているものがあった。しかしそれを、預言の練習をする学校と解釈するのも早計である。預言というものを、「神からの啓示としての語りかけ」と理解すると、そのような預言に、練習なるものの入る余地がはたしてあるのだろうか。ただ、預言者が「自らを整える」という訓練は、おおいにあり得たことと考えられるし、その意味で学校も可能であろう。しかし練習とは、自らの能力の向上ということであり、預言を受ける能力というものがあるとすると、預言が、神の直接の啓示ではなく、どこかのレベルに蓄えられている宝になってしまう。あるいは常に神から発せられている電波のようなものに、チャンネルを合わせるに過ぎないことになる。ただし、私は預言の練習を完全に否定するのではない。ルカが、ペテロによるヨエルの預言について語るとき、念頭にあったのは宣教の言葉であったとするならば、あるいは後ほど述べる、パウロが意味した預言が即興の説教であるとすると、練習は多いに大切である。



 H.個人預言・指示予言 



 聖書が信仰と生活のための充分な啓示であるとすると、信仰と生活のための新たな啓示は、原則として不要になる。現在の預言運動の指導者たちは、常に、聖書は完全で充分な啓示であり、それに加えられるべきものも、また差し引かれるものもあってはならないと、福音主義の原則にのっとって語っている。従って、彼らの強調する預言は、いきおい、聖書に加えられるべきものではない預言、すなわち個人預言、あるいは指示預言となる。これは、当然の理論的帰結ではある。しかし個人預言や指示預言が強調されると、預言はたちまち、占いや口寄せと同じ次元に引き落とされる危険があり、預言を受けた者は思考能力を停止し、選択責任を放棄する危険に陥ることになる。これは牧会責任者にとっては大問題である。また、現在の預言運動が強調する個人預言の例を観察すると、極めて自分の生活の周辺に関わる、端的に言うと損得利害に関わる預言が多い。これは、この運動に関わる人々の多くが、繁栄の福音の支持者であることにも関係しているらしい。しかし、使徒時代の教会を観る限り、個人預言のほとんどは福音宣教に関わるものであることに、注目すべきである。ここに強調点の違いがある。
 
                                   つづく













posted by ms at 00:00| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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