2010年10月26日

預言運動の問題を論じる (4)

 

III.ビル・ハモンの神学の分析   
  


 現在、日本で問題として取り沙汰されている預言運動の指導者に、ビル・ハモンという人物がいる。彼自身が日本に来たことがあるかどうかは知らないが、彼が創立したクリスチャン・インターナショナルという預言運動の団体は、日本にも支部を設け、代表者を置き、活発に活動していると思われる。ここで彼の著書「預言者と個人預言」に表れている、彼の神学を分析してみる。ただし、この著書は神学書ではなく、個人預言をお勧めする本であるため、組織的な学びにはならないことを、お断りしなければならないが、一応、彼の論に従って進めて行く。太い文字が彼の主張である。



 A.私たちの神は交わりの神で、今日も聖書と聖霊を通し、人間との密接な交わりを願っておられる。


                                      
 わたしたちの神は交わりの神であるという、主張そのものに誤りはない。まさに反啓蒙主義の主張である。しかし、彼の主張をその前後関係から観察すると、危険性がかいま見える。
「願っておられる」という表現は、あたかも、神が人間との交わりを恋したっておられるような印象を受けるが、神は三位一体の神であり、その三位の間で、永遠の昔から愛の神、交わりの神として存在して来られた。つまり、神の愛、神の交わりは自己充足の愛と交わりである。人間の愛を喜んで下さるが、人間の愛を必要としておられるのではない。神はすべての人間の、直接の愛を求めておられると考えるのも良いが、神の主権を認める人間同士が、互いに愛し合いながら生きるのを、第三者として客観的にご覧になるのを、愛でておられると理解するほうが優れていると思う。「聖霊を通す」ということも、すぐさま預言に関わるものではなく、広い意味での交わりであるはずである。預言に関わりのない、聖霊による交わりのほうが、聖書の強調するところである。また、彼の言う「密接な交わり」が、預言を媒体として、人間に、個人的な、主観的な、あるいは神秘的な体験をさせることを、意味しているかのように理解できるのも問題である。

 B.聖霊の到来、教会の誕生、聖書の完結によって、預言が不要になったのではなく、さらに必要とされている。神は今もご自身のみ旨が預言によって啓示されることを望んでおられる。



 私たちは、預言が不用になったという主張は認めないが、「さらに必要とされている」という主張も、聖書的根拠のないものとして退けなければならない。かえって、「言」であるキリストの出現と聖書の完結によって、私たちは以前ほど数多くの預言を必要としなくなっていることは明白である。私たちは合理主義者ではないが、神が人間に理性を与え、分別を与え、判断力を与え、自己決定の能力を与え、責任を問うておられる事を積極的に認める。日常茶飯事の細かい事柄にいちいち口を挟む姑のように、神は私たちに教え、導き、指示しなければならないのだろうか。神は今もご自分のみ旨が預言によって啓示されることを望んでおられるという主張も、聖書の教えではなく、あくまでもまったくの想像に過ぎない。



 C.しかし多くの人々は、神の言われることを聞くことができず、時間もないため神は預言者をお立てになった。



 これも、まったく聖書の裏付けがない、自分たちに都合の良い推論に過ぎない。また、ここで言われている預言者とは、エペソ4:11に記されている預言者であり、「職」としての預言者だとのことである。彼の理論では、「キリストの昇天の賜物」と彼が呼ぶ五職の中の預言者と、御霊の賜物を活用して預言をする者とは、その重要性においても機能においても別のものである。先に述べたように、五職の中の預言者はキリストの職を引き継ぐもので、教会の中で職として重要な機能を担うのだと言う。しかし、エペソ4:11の預言者と、賜物としての預言を峻別するだけの、聖書的根拠がない。むしろ、共に賜物と理解すべきである。つまり、エペソ4:11で言われている預言者は、賜物としての預言とは関わりなく、職として任命されるのではなく、預言の賜物を教会全体の益のために、効果的に行使し続ける事によって、教会全体に預言者として認められ、受け入れられるものである。「神の言葉を聞くことができない、時間もない人のために、神は『職』としての預言者をお立てになった」などということは、聖書のどこにも記されていない我田引水な想像に過ぎない。また、彼は「預言的長老」なる概念あるいは役割を、しばしば引き合いに出すが、これの正体がはっきりしない。彼の育った教会の背景にある組織形態らしく、按手など、かなりの権威を行使するものらしい。




 D.預言者は、神にとって特別に大切なものであり、これを退けることは神を拒絶することである。 



 旧約時代や、教会の土台としての預言者、また黙示録の預言者などを引用して、これらの預言者たちを、神が大切にしておられた事実を取り上げ、現在も、神は預言者たちを非常に大切にし、特別に愛しておられると盛んに主張しているが、これも誤りである。現在の預言者が、旧約時代の預言者や贖いの計画の啓示に関わった預言者と、同じ性質、同じ働きを持っているという聖書的根拠がないばかりか、異なっているというと言う主張のほうが、聖書的根拠を持つからである。また、たとえ現在の預言者が、聖書時代の預言者と同等同質のものであると仮定しても、神にとって、彼らが牧師や伝道者などに比べて、特別に大切な者であるという結論は出てこない。「預言者を退けることは神を拒絶する事である」というような、神の権威と預言者の権威を直接結びつける言い方は、預言者の権威を極端に高め、恐慌支配、マインドコントロールをもたらす危険性がある。




 E.預言者は再臨の備えをする。



 バプテスマのヨハネが、預言者として主の来臨の備えをしたように、この終末のとき、多くの預言者が主の再臨の備えをするために現れると主張し、それは1980年代に起こったと断定している。しかし、預言者が再臨の備えをするという主張も、それが1980年代に起こったという主張も、まったく勝手な独自の推論であって、聖書的根拠は皆無である。ついでながら、1990年代にいたって使徒の回復があったと主張するのも、独自のレストレーション的な見解であり、聖書とはなんの関わりもない。私が知る限りでは、使徒職の回復を主張する運動は、かなり前から繰り返し興り、自分が使徒であると主張し、自分たちの組織の中で独裁的権力を行使しようとした者も少なくない。




 F.律法の時代から教会の時代に入るにあたって、パウロのような預言者が特別な啓示をもたらす働きをしたように、教会の時代から王国時代への過渡期には、新しい啓示を伝える預言者が必要とされている。



 これもまったく聖書的根拠のない、危険な独自の論にすぎない。パウロが特別な啓示を得て働いたことは明白であり、彼が霊感されて書き記した書簡は、神の権威を持った聖書として残されている。パウロはまさにミステリオン、すなわち、それまで知られていなかった奥義を、啓示によって知らされ、神の贖いの御計画の新しい分野を、明らかにしたのである。このパウロと同じように、いま、「新しい啓示を伝える預言者が必要とされている」となると、その預言者が語る啓示は、非常に重要な、まさに聖書に匹敵する程重要な啓示であると言う印象を受ける。私たちは、基本的な信仰とクリスチャン生活に必要な啓示は、すでに聖書によって与えられていると信じている。従って、現在パウロと同じように新しい啓示を得、それを語る預言者は必要ないし、あってはならないと考える。ヨハネも、終末に関する啓示を霊感によって記した書を閉じるにあたって、すなわち、「教会の時代から王国時代への過渡期」に関して書き記した預言の言葉の最後に、その書に加える事も取り除く事もしてはならないと、新約聖書では非常に少ない呪いの警告をもって、厳しく戒めている。
 



 G.主の来臨が近いしるしは、一般世界ではイスラエル国家の創立に見られ、教会内では預言者職の回復、預言者たちの群れの興隆に見られる。



 イスラエル国家の創立が、主の来臨の前ぶれであることは、現在のイスラエル国家がそれであるかどうかの議論は別として、一般的に受け入れられている見解である。しかし、預言者職が回復され、多くの預言者が出現するのが、教会内での兆候だとするのは、まったく聖書的根拠を持たない。むしろそれは、彼自身が「預言者によって明らかにされているように」と言っているとおり、現代の預言者の言葉による断定であり、現代の預言者の言葉に、聖書が語っていないことを語らせ、それによって神学を構築し、実践を指導するという、非常に危険な行為である。ここで、彼は、明らかに聖書の権威のみを主張する福音派の信仰から、一歩はみ出してしまっている。
 


 実際彼は、レーマとしての預言が「霊感されたもの」であり、「神様から直接伝えられた神の言葉」であると主張し、「聖書の真理に基づいて説教される預言的説教は、(レーマのこと・・・・・霊感され油注がれている」と論じることによって、現代の預言者の言葉を、実質的に聖書と同位置に置くことをはばからない。このような傾向は、彼の弟子であり、彼が創立したクリスチャン・インターナショナルの名を受けて、同種の団体を日本に創設した、ロナルド・サーカという人物の著書にも明白である。彼は、その小冊子、「山羊の国から羊の国へ」を、ビル・ハモンとチャック・スミスという人物の二つの預言から書き始め、それらの預言をあたかも聖書のごとく、権威のあるものとして取り扱っている。確かに、現在の預言運動の推進者たちは、聖書には何も加えられてはならないと主張している。しかしそう語っていながら、彼らは自ら気付かぬうちに、越えてはならない一線を越えてしまったのである。



 H.主の来臨に向けて、花嫁である教会を備えるために、使徒職の回復とともに預言者職の回復が必要である。



 いまここで取り上げている著書が預言者に関するものであり、使徒職については、1990年代に回復されたという以外は、ほとんど書かれていない。しかし預言者職の回復については、「主の道を備える」ためと「花嫁を整える」ために、絶対に必要であると主張されている。ただし、主の道を備えるとはどういうことで、具体的には花嫁を整えるのとどこが違うのか、はっきりしない。ともあれ、彼によると、預言者職の働きが完全に回復されない限り、花嫁が充分に整えられることはない。もし花嫁が完全に整えられなければ、すなわち、教会が完全に大人に成長しなければ、キリストはお帰りにならない。牧師や伝道者、教師の働きでは不足であると主張する。しかし、キリストの再臨を、このように教会の業と結びつけて考えるのは、聖書が教えることではない。 
 


 このように、現代預言運動の代表的指導者と考えられるビル・ハモンの神学を垣間見るだけで、こと、預言に関する限り、彼の主張はまったく聖書に拠らない、聖書から離れたものである事が明白である。彼の協力者、あるいは弟子と思われる数人の手になる著書も読んで見たが、「聖書に拠らない、聖書を離れた」主張という点では同じである。基本的には福音信仰、あるいは根本主義に立つと思われるこれらの人物が、反啓蒙主義の態度をとる事は理解できるが、ポストモダンの傾向に流され、主観的体験を重視するあまり、聖書から離れ、福音宣教とはあまり関わりのない、預言の魅力に捕らわれているのは残念である。
    
                                     つづく











  
posted by ms at 00:00| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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