2010年10月27日

預言運動の問題を論じる (5)

  
IV.啓示と預言についての考察



 では啓示と預言について、とくに、聖書はどのように語っているかということに注意しつつ、考察して見よう。



 A.啓示について 



 聖書の中に現れている啓示、あるいは教えられている啓示にはいろいろな種類があるが、基本的に啓示とは、神がご自分の本性と御心とを、人間に示してくださることである。



@ 自然啓示 自然は神の姿を反映していると詩篇の作者はうたい、自然を通して人間は、ある程度創造主である神を知ることができると、パウロは教えている。しかし自然啓示による知識だけでは、人間は神の贖いの知識に到達することができず、贖いを体験せずに、真の神知識を得ることはできない。自然啓示は、神がご自分を啓示しようと意図された啓示かどうか、議論の余地がある。したがって、自然啓示は、そのような言葉で神学的に表現されてはいるが、果たして本当の意味で啓示であると言えるか、疑問がある。

A 聖書啓示 神は旧新約聖書を通して、ご自分と、ご自分の御心を啓示してくださった。聖書はあらゆる意味で特異な啓示の書である。聖書の中には、様々な手段で与えられた啓示がたくさん含まれている一方、まったく啓示によらない、言い伝え、歴史、あるいは人の言葉、さらには偽預言者、キリストの敵対者、悪魔の言葉までも含まれている。しかし、そのような啓示という手段によらない聖書の記述も、聖書に記述されることにより、神からの啓示として与えられているのである。
  
 しかも、この聖書による啓示だけが、神の人類救済計画と贖いの業を通しての実現と、人間側の責任を示している唯一の啓示である。受肉した言であるキリストもまた神の完全な啓示ではあったが、そのキリストの啓示でさえ、現在は聖書によってのみ啓示されているのである。聖書なくしてはキリストの生涯も教えも、私たちには一切啓示されていない。神は人類救済の計画とその実現に関する啓示を、ただ、聖書を通してのみお与えになったのである。聖書を通さない人類救済の御心の啓示というものはありえない。人類救済の御計画に関する新しい啓示は、それがやがて来るみ国に関するものであれ、なんであれ、あり得ないし、あってはならないものである。

 さらに、聖書啓示が特別の啓示であるというには、もう一つの理由がある。それは聖書の啓示は単なる啓示ではなく、「霊感」された啓示だということである。 聖書が本当の意味で、権威ある神の言葉なのは、それが啓示を集めた書だからではなく、それ自体が啓示の書だからでもなく、霊感されて書き記された神の言葉だからである。この点については後述する。

B 受肉した言 キリストご自身こそ神の最高の自己啓示であった。キリストを見たものは神を見たのである。その生涯、教え、働きは、すべて神の啓示であった。しかし、すでに述べたように、現在の私たちにとっては、このキリストさえ、聖書を通してのみ啓示されているのである。

C 歴史、出来事 聖書の中で、神は歴史や出来事を通してご自分を啓示しておられたことが明らかである。出エジプト記にのべられている数々の奇跡も、出エジプト記の歴史自体も啓示であった。また、ヨハネが「しるし」として記録した奇跡も啓示であった。しかし、神は現在も歴史や出来事を通して啓示を与えておられるのだろうか。聖書の中で、神からの啓示として歴史や出来事が取り上げられているとしても、それが、ただちに現在に適応されるべきではない。なぜなら、特定の歴史や出来事を、神が啓示と意図して起こしておられたかどうか、知る由がないからである。聖書は霊感によって記録された神の言葉として、歴史や出来事を啓示として取り上げているのである。それは人の言葉、詩歌、知恵、等においても同じである。現在、神が意図されたものでない歴史や出来事からも、神の御心を学ぶことは可能である。例えば「癒し」の力を見て、神は今でも癒しを行う方であると知る事はできる。しかし、それを啓示とは言わない。ただ、私たちの神学からすると、私たちは、神がユダヤ民族と教会の中に超自然的に働いてくださり、霊感された書物のみを選び、編纂し、正典として残すように働きかけてくださったと認めないわけには行かない。とはいえそれは導きであり、人々が啓示によって正典の編纂を行ったというものではない。

D み声、幻、夢、御使いなど 聖書の中には、このような啓示の例がたくさん記録されている。使徒2:17によると、このような啓示が、旧約聖書時代のように限られた人々にだけ与えられるのではなく、広く一般的に与えられたと言うことである。とはいえ、先に述べたように、このような啓示が文字通りに「すべての人に」、差別なく頻繁に与えられたと言うことではない。それは使徒の働きの記述を見ても明らかである。

 では、このような啓示が、現在もあり得るのだろうか。キリストは、ご自分が去ってからおいでになる別の助け主は、「あなたがたをすべての真理に導き入れ・・・・・やがて起ころうとしていることをあなたがたに示す」とお語りになり、導きの働き、啓示の働きが聖霊の大切な役割であることをお教えになっている。(ヨハネ16:13)そして、この聖霊の働きが現在なくなってしまったという議論には、聖書解釈の上で根拠がない。とはいえ、このキリストのお言葉は、当時の弟子たちの弱さのために、その時点までに教えておく事ができなかった事柄を、やがて聖霊が代わって教えてくださるという、12節からの文脈の中で理解されなければならない。したがって第一義的には、当然、新約聖書の形成期にパウロや弟子たちに与えられた啓示や、新約聖書を書かせた霊感のお働きに対する言及と考えられるべきである。そうすると、現在このような聖霊の啓示の働きが、聖書の時代とまったく変わりなく、頻繁に行われていると理解して、み声や幻や預言などに多大の関心を持ち、人々にもそれを勧めることは間違っていると言わねばならない。

E 照明(イルミネーション) 現在、霊感によって書き残された神の啓示、聖書のみ言葉を、クリスチャンが敬虔な態度で読み、聞き、学ぼうとするとき、霊感してくださった聖霊ご自身が、クリスチャンの心と理解力に働いて、それをより良く、より正しく理解させてくださる。イエス様ご自身がお教えになったこの聖霊の大切な働きを否定する者は、少なくても福音派の中にはいないであろう。あるいは、その事実を軽視する者、無視する者はいるかも知れないが、否定はできない。現在、啓示はないと主張する人たちは、この聖霊の働きを啓示とは認めない。一方、現在の預言運動の推奨者たちの中には、この聖霊の働きを強調して、聖書の言っていること以上のこと、あるいは聖書の語っている事以外の事まで、語らせようとしている者がいる事には注意を要する。また、レーマの神学を信奉する者たちの多くは、聖書の明確な教えに反して、聖書は書かれた言葉だけでは力がなく、この聖霊の照明があってこそレーマとなって、力を持つと主張する。しかし、聖霊の照明を受けたレーマとしての解釈と、照明を受けない人間の理解との差を、どのようにして見極めるのだろうか。自分の誤った聖書解釈をレーマであると主張して、正しい解釈を否定する事もおおいにあり得るからである。



B.預言について 



 厳密に言うと、現代の預言はそれ自体が啓示なのか、あるいは啓示を受けて啓示について語るものなのか、明確ではない。預言を実践している人たちに聞くと、一つ一つの言葉までも正確に与えられる預言というのは、ほとんどないようである。むしろ、なんらかの感動を受けて、概念的なものが与えられ、それを自分の言葉で語り出すのが通常らしい。彼らはその何らかの感動を、不用意に、「霊感(インスピレーション)が与えられる」という言葉で表現し、神学上の混乱を起こしているが、これは、聖書が霊感を受けて書かれたという意味の霊感とはまったく違う、非神学的な市井の表現である。



 あるいは単に概念が与えられるだけではなく、幻を見、み声を聞くということによって語り出す預言もある。いずれにしても、預言の言葉一つ一つは、厳密な意味においては人の選んだ言葉であり、神が霊感を通してご自分の言葉として承認し、保証された言葉、すなわち聖書の言葉と同じものではない。預言の言葉に、あたかも、神ご自身が霊感を持って書き記させた言葉と、同等の権威が伴っていると理解するのは、まったくの誤りである。



 現代の預言が神の言葉であるというのは、たとえその預言が真正なものであったとしても、聖霊の照明によって聖書を理解させられて語る説教が、「神の言葉である」のと同じように、限定された意味において神の言葉なのである。それは啓示された神の言葉であるかも知れないが、霊感された神の言葉ではない。ただ、本当に神がその場のために意図された啓示から来る預言ならば、その場にふさわしい、単に一般的に準備された説教以上に、その場とその時の必要、あるいは状況にふさわしい言葉であるはずである。



 したがって、「主は、こう仰せられる」と、霊感によって記録された言葉を語った旧約時代の預言者と、現代のいわゆる預言者とを同等に扱ってはならない。旧約時代の預言者は、明らかに預言者としての地位を持ち、世襲制であった祭司職に対し、一人一人の人物を神が直接選ぶものであったが、そこには、人格を鍛えたり神知識を極めたりする、人為的な面もあったと考えられ、預言者の学校も存在した。彼らは、いつも「主は、こう仰せられる」と言って語ったのではない。普段は、民の中の知者、指導者として、知恵の言葉を語っていたのである。しかし、神が霊感して記録させようと意図された預言には、「主は、こう仰せられる」と主張できる、絶対の権威の確信をお与えになったのであろう。



 一方、旧約の時代には預言者が誤って預言した場合もあった。また偽預言者もいた。エレミヤ書の例を見るまでもなく、そこにはかなりの混乱があったことが容易に推測される。この混乱をある程度おさめたのは、客観性と言うことだったらしい。まず、預言者がすべての人に認められていた人物であるかどうかという事。次に、その預言が複数の預言者に承認されているかどうか。さらに、その預言が成就したかどうかなどが、尺度となっていた。

  
                                  
 C.異言の解き明かしによる預言について



 また、預言を語る中で、異言にも触れておかなければならない。伝統的ペンテコステ教会においては、賜物としての異言が解かれると、預言になると考えられてきた。現代預言運動の推進者の主張も同じである。しかし、異言とその解き明かしによる預言という考え方は、果たして聖書の教えと合致するだろうか。伝統的解釈によると、異言には、聖霊のバプテスマを受けたしるしとして機能する異言と、賜物としての異言がある。これはどうやら、聖霊のバプテスマはすべてのクリスチャンに与えられている特権であり、そのしるしとしての異言も、すべてのクリスチャンが語るべきものであるという自分たちの主張と、「すべての者が異言を語るのだろうか」という、パウロの言葉を調和させるための努力の結果、生み出された解釈のようである。この問題については後述する。


                                     つづく


















posted by ms at 00:00| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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