2010年10月28日

預言運動の問題を論じる (6)


V.パウロが語る啓示と預言



 新約聖書において、啓示、あるいは預言について最も多く語っているのはパウロである。彼はどのように理解していたのであろうか。パウロに最も近かったもう一人の神学者、ルカの語ることにも注意を向けながら、考えて見よう。



 A.パウロ自身に与えられた奥義としての啓示



 パウロは特別な意味で啓示を受けていた。彼はその啓示を自らの神学の土台、あるいは骨格としていた。彼の教えに負うところが多い神の贖いのご計画についての一連の神学、すなわち、業によらない信仰による救い、福音の普遍性、救われた者が構成するキリストのみ体としての共同体、復活と再臨に関する出来事などは、すべて、神からの特別な啓示によるのであって、奥義、すなわちそれまで明らかにされていなかった真理の、新たな啓示に属するものであった。彼自身の宗教的瞑想でも悟りの結果でもない。また、パリサイ学徒としての学びの実でも、先輩の使徒や弟子たちに教えられたものでもない。パウロは、その啓示がどのような手段で与えられたのかについては沈黙しているが、啓示自体には絶対の権威を認め、他の者にも、その権威を認めること要求している。(Iコリ1:10、IIコリ12:1,7、ガラ1:12,16)



 とはいえ、パウロは、啓示を受けることができるのは自分だけだと主張しなかった。事実、彼以外の使徒や弟子たちも啓示を受けた。しかし、パウロが受けた啓示はやはり特別の啓示であり、誰でも受けられるという類のものではなかった。実際、ペテロとヨハネを除いては、他の誰にも与えられていない特殊なものであった。しかも、奥義に関わるその量と内容の深遠さにおいては、ペテロとヨハネをはるかに凌駕している。ただ、パウロは、啓示の分類には興味を示していない。というより、あえてそれを避け、曖昧なままにしておいたのだとさえ推測される。もしそれを明確にすると、自分に与えられた啓示は、他の使徒や弟子たちに与えられた啓示とは異なる、高度なものであることが明らかになり、心ならずとも、使徒としての自分の優位を主張する結果になるからである。パウロは、すでに緊迫感が高かった他の使徒や弟子たちとの人間関係に、不要な軋轢を産み出すことを嫌ったのである。



 B.個人預言、指示預言、未来予言



 パウロは個人預言、あるいは指示預言と呼ばれる預言を認めている。それはパウロ自身の生涯にも幾度かあった事であり、他の者の生涯にもそれを認めている。あるいは明確には、預言という手段ではなかったかも知れないが、神の直接の導きを体験していた。(使徒13:2,16:6〜10、18:9〜11、19:21、26:19、27:22、ガラ2:2、Iテモ1:18、4:14)ただし、これらの預言あるいは導きは、先に述べたように宣教の働きに関わるものであって、個人の損得利害の問題に関わるものではなかった。また、聖霊による預言にも明確な指示ではなく、単なる予告も含まれ、それに対してどう行動するかは、預言を受けた本人の判断に関わることもあった。(使徒21:4〜14)さらに、パウロの場合、聖霊の示しを間違って理解していた事さえあったと考えられる。(使徒20:23〜25)また、啓示に御使いが関わっている場合もあった。



 また、未来に関わる預言、いわゆる予言も排除されていない。個人預言、指示預言もまた未来に関わる事が多い。使徒の働きに記されている、アガポによる飢饉の予言は特異なものである。しかしこの予言も、単なる興味本位の予告でも危機を回避せよという指示でもなく、福音宣教に関わるものであると理解すべきである。この予言は、贖いの福音の奥義としてのキリストのみ体、宣教の担い手としての教会が正しく形成されて行くため、つまり、互いに助け合う愛の共同体として具現されて行くため、しっかりと準備させて行く役割を持ったものであった。



 C.イルミネーション
 


 神学的には「照明」という言葉で現されるこの現象は、イエス様が聖霊の顕著な働きとして言及されたものである。(ヨハネ14:26、15:26)聖霊のこのお働きは、現在、私たちが祈り心をもって聖書を読む時、また聖書で教えられている真理について祈りながら考え瞑想するとき、聖霊がより良くより正しい理解に到達させてくださること、あるいは時代と文化、背景と環境に適した理解を持たせてくださる事である。



@ Iコリント12章及び14章の預言 
 パウロは聖霊のこの働きを、教会の集まりの中で、また個々のクリスチャン生活の中で、重要なものと認めていたと考えられる。例えば、Iコリント12章〜14章で彼が語る預言というものは、基本的にこの働きに関わるものではないだろうか。聖霊の賜物として預言するという事は、従来考えられていたような、聖霊の直接の干与、あるいは啓示としての預言ではなく、つまり、「主は、こう仰せられる」という種類の預言、旧約聖書時代の預言者の直接啓示としての預言のようなものではなく、聖書の御言葉が聖霊の照明の働きによって、語るものにさらに明らかにされ、あるいはその場の状況に適応され、語らされたものではないだろうか。聖霊はお選びになった語るべき者を励まし、勇気付け、語り出させてくださるのではないだろうか。このような預言に関する聖霊のお働きは、祈りと学びと黙想によって良く準備された説教に対する関わりと、基本的に同じである。ただ、コリント書で言われる預言の場合は、一般の状況に応じて良く準備された説教としての「預言」より、その場の実情、必要、ある特定の人間に対する、即興的な要素が強い。音楽で言うと、練習の積み重ねで演奏されるオーケストラに対して、即興的なひらめきによる演奏が重視される、ジャズのようなものである。しかし、即興的演奏には、基本的な音楽知識と能力は欠かせないのと同じように、あるいは、むしろそれ以上に、預言をする者も、聖書の教えに対する知識と洞察を欠く事はできない。 
  


 ペンテコステの教会の中では、コリント書の中で語られている預言を、聖霊が預言者を通して直接語りかけてくださることと理解し、聖霊の照明によって聖書の知識に洞察と理解が加えられ、それをまた、聖霊に語るように励まされて語り出す、即興の説教であるとは理解して来なかった。これは、より奇跡的と思える出来事を重視する傾向のある、ペンテコステ教会としては自然な出来事であったであろう。しかし、私自身の40年以上に渡るA/G教会での生活の中で、あるいは他のペンテコステ教会との交わりの中で聞いた預言は、ほとんどが、神の直接的な語りかけを取り継ぐ預言と解釈するよりは、むしろ、即興の説教、励ましの言葉、慰めの言葉として理解した方がふさわしい預言であった。少しばかり美しさの欠けた日本語だったり、無理にキング・ジェームス英語を使っていたりで、まだまだ洗練される余地を残していたものも、少なくなかった。預言する者がもう少し聖書の言葉に馴染んでいたら、聖書の知識にも富んでいたら、話し方のほうも、もうちょっと洗練されていたならと思う事もあった。このような預言こそ、預言者の学校で練習をするのが良いのではないだろうか。



 パウロは、即興の説教としての性格を持つこの種の預言を重視し、できるだけ多くのクリスチャンがこの賜物を持つ事を望み、そうなるように励ましたと思われる。ルカもまた、パウロと同じように理解していたと思われる。ルカが使徒の働きを通して強調しているのは、現代の預言運動の推進者たちが強調するような預言ではなく、宣教の働きであり、宣教に関わる言葉としての預言である。彼は、老若男女すべての者が、この預言の働きに携わっていく時代になったことを、使徒の働きの始めの部分で、ペテロによるヨエル預言の引用を持って示したのである。もちろん、これらの預言者たちが、個人預言をし、予知的な預言もしたであろうことは、想像に難くない。



 パウロがIコリント14章で預言について語ったとき、彼の頭にあったのは、一種の説教としての預言であったと理解すると、14章全体が滑らかに理解できるのである。パウロは預言者の霊は預言者に服従すると言って、預言が預言する者の意思によって語ったり語らなかったり、抑制する事ができるものであると教えている。したがってこの預言の大切さは、教会の秩序の大切さに劣る程度のものである。これは緊急性のある、あるいは強い指導や指示の性質のある預言、さらにはパウロ自身が受けた贖いの奥義に関わる預言には当てはまらない。従って、14章で語られている預言は、たとえ「啓示」であったとしても、その性質と価値において、一段低いものと考えられていたと理解できる。  また、教会には女性の預言者がいて活発に活動し、その存在と活動が一般に承認されていた様子が、ルカによって記録されているが、パウロも女性の預言者の存在を認めている。しかしパウロは、女性の預言者が公の集まりで預言する事を認めなかった。ここでパウロが認めなかった預言は、即興の説教としての要素が強い預言のことで、Iテモテ2:11において、「女は黙っていなさい」、「教えてはならない」と指示したときに想定していた「教え」と、同じ性質のものだったと考えられる。



 また個人預言や指示預言は、14章でのパウロの関心事ではなかったと推測される。パウロが12章から論じ続けてきたのは、「全体の益」になるということである。そういう意味で、公の場での異言もまた、低い位置しか与えられていない。パウロは明らかに、プライベートな場での異言と公の場での異言の価値に、差をつけている。異言はプライベートな場においてこそ価値があるのであって、公の場では控えられるべきものである。このようなパウロの論調からすると、「公の益」という面では、たとえそれが他者に対する奉仕であっても、個人預言や指示預言という公共性が低い働きを、念頭に置いていたとは思えない。



 ともあれ、パウロの預言者についての言及は、かなり幅の広いもので、現在の私たちの分析的な分類方法には、完全には馴染まない「曖昧さ」残したものであった。
 


A 異言の解き明かしとしての預言
 従来、ペンテコステ教会の聖書解釈では、異言には二つの種類がある。一つは聖霊のバプテスマを受けたときに語る異言であり、聖霊のバプテスマを受けたしるしとしての役割も果たすが、元来は神の助けによって、神に向かって語る祈りである。そしてもう一つは、神から与えられる預言の手段であるが、解き明かされて始めて預言としての役割を果たすと説明されてきた。しかし、聖霊が霊感を持って承認したパウロの教えを素直に読む限り、その解釈に納得するのは難しい。むしろIコリント12章と14章でパウロが教えているのは、聖霊のバプテスマを受けたときに語る異言と同質の、個人の祈りとしての異言、すなわち聖霊が、どう祈ったら良いのかわからない私たちを励まし      て、うめきをもって祈らせてくださる、祈りの異言ではないだろうか。そのような祈りは、感謝であり賛美であり、愛と感動の表現であり、神の救いの計画の奥
義を語るものであろう。それらの祈りがたとえ個人的な、神に向かっての祈りであっても、解き明かされると、会衆全体の益となるのである。



 パウロは預言は人に向かって語るものであるが、異言は神に向かって語るものであると、くりかえして教えている。異言が、神からの語りかけを取り次ぐ、預言の一種、すなわち、人に向かって語られるものであると理解していたとするなら、パウロはそのような言い方はしなかったであろう。
 

 では、実際に異言の解き明かしとして語られた言葉を、どう理解すべきであろう。異言を語った本人がそれは預言だと理解し、預言のように、人に向かって語られた解き明かしを、私自身も随分聞いてきた。私は彼らが偽預言者だと言っているのだろうか。厳密な意味においては、みだりに神の名をもって語った責任はあるが、彼らが悪意を持って語っているとは考えない。むしろ、聖霊に感動し、またみ言葉に感動し、押し出されるように、自らが蓄えた聖書知識、霊的洞察を語っているのであろう。あるいは、神は私たちの誤った聖書理解をも容認し、それを利用して、私たちに語りかけてくださったのかも知れない。神は寛容の神である。たとえば、神は、「伝道者の召し」とか「宣教師の召し」などという、まったく非聖書的な概念さえ、おおらかに許してくださっただけでなく、その非聖書的概念を利用して、伝道者を立て、宣教師を起こしてくださったのだから、そのようなことさえあり得る。とはいえ、聖書的には、異言の解き明かしによる預言などというものを、期待すべきでも、勧めるべきでも、実践すべきでもない。



 また、聖霊のバプテスマはすべての者に与えられるべき体験であり、それに伴う異言も、すべての者に与えられるべきものであると主張する、私たちの立場と、「すべての者が異言を語るだろうか」とパウロが言う、限られた者だけに与えられる「賜物」としての異言という考え方を、どのように調和させる事ができるであろうか。
 


 異言は、すべてのクリスチャンに与えられている賜物である。すべてのクリスチャンが、多かれ少なかれ異言を語るべきであり、プライベートな場では多く語る方が良い。少なくてもパウロはそのように考え、自分が誰よりも多く異言を語ることができることを神に感謝し、すべてのクリスチャンが異言を語るように望んでいた。また、賜物を与えられていないという事は、その賜物といわれている能力を、まったく持ち合わせていない事ではない。賜物として与えられていなくても、ある程度知恵の言葉を持ち、知識の言葉も持つ。信仰も持ち、癒しの働きもする。従って、異言の賜物を与えられていないというのは、まったく異言を語ることができないという事ではない。パウロが語る賜物という概念も、家や自動車のように、与えられたらすべてを持ち、与えられなかったらまったく持たない、いわゆる「全てか無か」というようなものとは異なっている。むしろクリスチャンはおしなべて、多かれ少なかれ賜物と言われている働きをしているのである。しかし、明確に賜物と言えるのは、その働きに特別な力と能力を発揮し、恒常的にしかも効果的にそれを用いる場合なのである。パウロがすべての者が異言を語るだろうかと言った時、このような文脈の中で言ったのである。



 また聖霊のバプテスマが、基本的にすべてのクリスチャンに与えられるべき体験であっても、まだその体験にあずかっていない者もいたであろう。救いはすべての人間を対象とした賜物である。しかしすべての人間がこれを受けるのではない。聖霊のバプテスマと異言は、すべてのクリスチャンを対象にした賜物である。しかし、すべてのクリスチャンが、それを自分の体験としているわけではない。従って、すべてのクリスチャンが異言を語るべきであると理解する私たちの考え方と、「すべてが異言を語るのだろうか」と、実状を語るパウロの言葉は矛盾するものではない。



B 旧約聖書の解釈  
 パウロを始め、新約聖書の著者たちによる旧約聖書の引用、あるいは解釈を見ると、現代福音派の解釈学を学んだ私たちの解釈とは、随分異なった原則に立った解釈をしていることに気付く。私たちは、パウロたちが特別な啓示を受けて、つまり聖霊による照明を受けてそのように解釈し、その解釈を聖霊が霊感を通して良しとされたと考える。しかし、今、パウロたちと同じ解釈の原則に立とうとは考えない。というより、彼らの解釈は、啓蒙的読み方、合理的解釈に慣れてしまった現代の私たちには、なぜそのように解釈し得るのか良く分からないのである。パウロたちが行った解釈方法は誤っていたのだろうか。それとも彼らだけに許された解釈方法だったのだろうか。私たちは、合理的な考え方に立った現在の聖書解釈法を、考え直さなければならないのかも知れない。



 ともあれ、今の時点では、私たちは、パウロをはじめとする新約聖書の著者たちが、聖霊の特別な助けを借りて、尋常ならない解釈をし得たことを、認める以外にはない。


                                    つづく























posted by ms at 00:00| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

認証コード: [必須入力]


※画像の中の文字を半角で入力してください。
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。