2010年10月29日

預言運動の問題を論じる (7)


VI.聖書の権威と現代の啓示



 私たち伝統的ペンテコステ信仰に属する者は、現在流行の預言運動の人々とは異なっていても、原則として、現代の啓示あるいは預言というものの存在を認めている。ペンテコステ信仰がここまで広がりを見せている現在、福音的信仰を持つ者の中には、もはや癒しや奇跡と言った現象に躓くものはないであろう。あるいは異言には「薄気味わるさ」を感じる者はいるかもしれない。しかし今、ペンテコステ派と福音派の交わりを妨げている問題は、聖書の権威の問題である。福音派の人々は、ペンテコステ派の人々が認める預言などの啓示によって、聖書の権威が脅かされると感じているのである。
 


 もし、預言に代表される現在の啓示も、神から与えられたものとして権威を持つならば、私たちはその権威を、どのように位置付けたらよいのだろうか。それは神の言葉として、聖書と同等の権威を持つのだろうか。そのような啓示を集めた、あるいは預言を収録した記録は、聖書に加えられるべきものだろうか。あるいは、モルモン教のように、あるいは統一協会のように、聖書以外の聖典を持つことになるのだろうか。そこまで行かなくても、セブンスデー教会のように、聖書以外の権威の書を持つことにはならないだろうかと言う事である。



 A.聖書の権威



 ここで改めてはっきり確認しておきたいのは、聖書が神の言葉として絶対の権威を持つのは、聖書が啓示の書だからではなく、霊感によって書かれた書だからであるということである。聖書が単に啓示を収録した書物に過ぎないならば、権威という面では、「現在の預言」を収録した書物とあまりかわらない。しかも、すでに述べたように、聖書の記述のすべてが啓示によって与えられたものではなく、人間の記録も言い伝えも歌も、あるいは悪魔の言葉までも含まれている。これら全体を神からの啓示として権威付けているのは、神がこれを霊感と言う手段をもって、御自分の意思の通りに、誤りなく書き記させたという事実なのである。



 啓示というものは、預言を含めて、たとえどのような手段で与えられたとしても、人為的な誤りの入る余地がある。例えばある人が、物凄く太った人間の幻を見て、それを「豚のように太った」と表現したとする。この場合、「豚のように」という表現は彼のものであって、神のものではない。神がお与えになったのは幻であって、その「表現や形容」ではない。あるいは神は、「河馬のように」という表現を望んでおられたのかもしれない。また、一般的人間にはごく普通の、表現不足という欠点もある。あるいは、人間の言葉という限られたコミュニケーションの媒体には、適当な表現がない場合さえあるだろう。さらに、人間の「聞く」「見る」という感覚には、間違いが入る余地がたくさんある。神の言葉を直接聞いて、それをそのまま「預言」したとしても、そこには聞き違いが入る余地があり、言い違いの入る可能性がたくさんある。幻覚、幻聴という現象も知られている。視覚、聴覚などの感覚をつかさどる人体機能は、わずかな物理的刺激を加えるだけで誤作動をする。また、預言というものが、一般に言われているように「神からの直接の言葉」として与えられる場合より、「概念」として与えられる事が多いのだとすると、人為的誤りが混入する可能性はさらに増す。概念が、どのような理論構成と構文と言葉で表現されるか、人間に任せられているのである。



 そういうわけで、現在どのような人物によってどのような預言がされようと、その預言がテープやビデオに残され、正確に記録されて出版されようと、それらが聖書と同じ権威を持つ事はない。それらは霊感されていないからである。くり返すが、聖書が霊感されているというのは、聖書に用いられている表現、言葉の一つ一つに至るまで、神様のお墨付きがあるということ、神様が、その表現で良い、その言葉の選択で良いとおっしゃっていることなのである。したがって、正統的なペンテコステ諸教会が預言などの啓示に与える権威は、改革派諸教会がウエストミンスター信仰告白に与える権威に比べると、非常に限られている。ペンテコステ諸教会は、少なくても、現代の啓示は、聖書によって正否の判断がされるべきであると考えている。一方、ウエストミンスター信仰告白は、しばしば聖書を解釈する基準にさえされているからである。



 B.誤りのない神の言葉 



 聖書が誤りのない神の言葉であるという主張、信仰は、福音派の教会の砦である。では、この「誤りのない」という言葉はどういう意味であろう。福音派の中でも、私たちが所属している「根本主義」と言われる仲間たちは、聖書の一点一画にいたるまで神の霊感を受けているのであるから、間違いの入る余地がないと考えている。私自身もまたそのように信じている。しかしそれは、神様が「よろしい」とおっしゃって、お墨付きをお与えになったという意味で、誤りなく、神の言葉なのであり、現代の自然科学、合理的な考え方から見て、誤りがないというのではない。



 聖書の無誤謬性は近代自然科学の発展とともに、疑いのまな板に載せられ、切り刻まれてきた。それに対し、福音派は真剣に防戦し、根本主義者は自然科学の不完全さを突いて、攻撃する事によって防戦してきた。確かに、自然科学が未発達であったために、聖書の記述が誤っていると断定された場合もあった。私がクリスチャンになりたての頃は、処女降誕が非科学的であると、しばしば論戦を挑まれたものである。今は科学がさらに進歩し、処女降誕などごく当たり前になってしまって、話題にもならない。



 しかし、聖書は自然科学の上からも間違いないと私たちが主張するのは、すでに私たちが戦っている啓蒙主義、合理主義の土俵の上に乗せられている事なのである。神は、聖書を通し、ご自分のみ姿と、贖いのご計画を示し、それに対する人間の応答がどうあるべきかということを、お教えになったのである。自然科学をお教えになろうとしたのでも、自然科学から見て誤りがないように心がけられたのでもない。神の意図、目的はそのようなところにはなかったのである。



 また、聖書が与えられたのは、啓蒙思想に影響を受け、合理主義の考え方を当然とし、自然科学を絶対視している現代人ではなく、あくまでも、そのようなことには無関係に生きていた、1900年から3500年も前の人々であったことを、理解しなければならない。神は、そのような人々に最も理解されやすいように、そのような人々の世界観にそって、救いの啓示をお与えになったのであって、天地創造に、実際どれだけの時間がかかり、どういう手順で創造が行われたのかと事細かに教え、かえって混乱を起こすようなことは、良しとされなかったのである。そのような配慮のもとに与えられた啓示を読んでいるのであるから、現代人は、現代人の感覚を聖書の中に読み込んではならない。啓蒙思想と関係のないところで書かれた書物は、啓蒙思想と関係なく解釈されるべきである。
そういうわけで、創世記第一章の記述が、自然科学の上からも間違いがないと強弁して、一日は一日であると証明しようと躍起になったり、一日は千年でも万年でもあり得ると言い逃れを考案したり、一節と二節との間に大きなギャップがあり、アンモナイトも恐竜もみなその中に入っていると、困難な解釈を試みたりすることが、すでに合理主義の土俵に立っているで、私たちのするべきことではない。神は、人間が、文字通り七日間で天地創造が行われたと信じたとしても、それでかまわないとお考えになったのである。そのようなことは、神の救いのご計画にまったく関係のない事だからである。神は、贖いと救いの神学においてさえ、誤って理解している人間、あるいはまったく理解していない人間をも許し、また赦して、救いに入れてくださるために、キリストの贖いを通しての救いを、賜物として準備してくださったのであるから、創造が七日間で行われたと信じていようが、人類の歴史は6千年ほどだと信じていようが、間違いなく救ってくださるのである。



 創世記第一章は、神が天地を創造なさった神であることを明確にし、創造された万物は、神によって秩序正しく存在するようになったことを教え、人間が神に似せて造られた事実を、最も端的明快にしかも感動的に語り、人類贖いの歴史の発端を伝えるものである。自然科学の教科書ではない。同様に、マタイの福音書が、歴史としては時間が不正確であるいう論議も、それが、マタイ流の歴史編纂の仕方であって、現代の私たちが馴染んでいる歴史編纂の仕方とは、異なっているだけのことである。

 

 C.聖書の完全性
 


 聖書は完全な書物である。そこに付け加えられたり、取り除かれたりしてはならない。どのように素晴らしい啓示があり、感動的な預言があったとしても、聖書に加えてはならない。また、聖書と同じ重要性を与えてはならない。これは、現代の預言運動の指導者たちも、異口同音に言う事である。とはいえ、個々の人間が継続的にあるいは頻繁に、預言などによって導きが与えられ、指示が与えられると、聖書よりも、そのような導きや指示に心を奪われ、それらに従って行く事のほうが多くなる。そうすると、実際上、それらが聖書と同等に取り扱われ、また、聖書より重要視されて行ってしまうのである。



 聖書は信仰の知識と行動に充分な書物であり、人間が信仰生活をして行く上で、これ以上の知識と行動の導きを必要としないものである。とはいえ、人類一般の贖いの歴史に関わらない、個々人の生活上の選択や決定においては、「神の具体的な指示や導きがあればよいのに」と思うことが数多くある。私たちの中に、「神様、お導きください」と祈った事がないものがいるだろうか。伝道者となるために、「個人的召し」なるものを求めた事がある人も、大勢いるに違いない。もし、私たちが充分な聖書の知識を持ち、充分な信仰を持っているなら、ほとんどの場合、そのような祈りは不要であるが、現実には、僅かな聖書知識と小さな信仰によって生きているために、そのような祈りが切実に必要なのである。また、そうするとき、私たちは理神論者がするように気休めで祈っているのではなく、実際に導きと召しの確証を求めて、つまり、何らかの啓示を求めて祈っているのである。そして、しばしば、神はそのような人間の不完全さを考慮してくださり、聖書をしっかりと理解し、信仰を持っていれば必要のないような啓示を、改めて、与えてくださるのである。現代も、あたかもギデオンが羊の毛皮を持って求めたように、信仰の強さのゆえにではなく、信仰の弱さのゆえに啓示を求めるものがたくさんいる。そして、神は憐れみによって、その求めに応じてくださる事もあるのである。



 また、聖書が完全な書物であるというとき、それは、私たちがこれで充分と感じるという意味ではなく、神がこれで充分とお考えになるという意味である。私たち人間の側からすると、聖書は必ずしも充分な書物ではない。とくに、ギリシャ的思考で、興味本位に、つまり、自分が知りたい事を知ろうとして、聖書を読む傾向にある哲学者や組織神学者、あるいは現代人一般には不充分である。また、自分で考えたくない人間、自分の信仰で行動をしたくない人間、すべてのことにいちいち指示と導きを求めたい人間にも、聖書は不充分である。しかし、神は私たちに思考力を与え、決断力を与え、それらを正しく用いる事を望んでおられる。神は人間にお与えになった能力に応じて、責任を求めておられるのである。そういう前提で、聖書は完全で充分な書物なのである。

                                     つづく












posted by ms at 00:00| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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