2010年10月30日

預言運動の問題を論じる (8)



VII.具体的対応



 では、自分たちの群れの中に、あるいは周囲に、いわゆる預言者が現れ、預言が行われたとき、私たちはいかに対応すべきであろう。思いつく示唆を列挙してみょう。



 A.おおらかに対応する
 


 私たちA/Gを始めとし、伝統的ペンテコステ教会の歴史の中にも、たくさんの誤りと間違いがあった。他の教会の兄弟姉妹にそれらを指摘されても、なかなか直すことができなかった。それを神は寛容をもって許し、わたしたちが少しずつ理解し、矯正していくのを忍耐深く待ってくださった。今もそうしてくださっている。今私たちがあるのは、ただ恵によるのである。また、私たちの欠点や欠陥を見て、ただちにきびすを返すような事をせず、他の兄弟姉妹たちからの勧告にもめげず、私たちとの交わりを持ち続けてくださった、兄弟姉妹がいたと言う事実も忘れてはならない。したがって、私たちも、他の団体やグループに属する兄弟姉妹に対して、その欠陥と誤りにも拘わらず、寛容と忍耐をもって、おおらかに交わりの手を差し伸べるべきである。事実、この預言に関わる問題を始め、現代聖霊派諸教会に見られる誤りと混乱の多くは、私たちの教会の歴史の中でも、しばしばくり返されてきたもので、いわば、体験済みである。



 私たちは他の福音派諸教会、あるいは社会派と呼ばれる教会に対し、聖霊派諸教会の急激な成長を取り上げて、神がこの時代、聖霊派の教会を用いてくださっていることを証明しようとする。しかしこの聖霊派なるものは、先にも触れたように非常に多様で、神学的にも、混沌というのがふさわしいと言えるほどである。それでも聖霊派の成長をあげつらうのなら、その混沌も、ある程度認容しなければならない。現代の預言運動は、たしかに非常に深刻な問題も秘めている。とはいえ、完結した聖書、霊感によって権威ある神の言葉とされた聖書があるいま、その混乱のひどさ、問題の深刻さは、聖書が完結していなかった使徒の時代、さらに、聖書が一般に行き渡っていなかった長い長い時代にくらべると、格段に小さい。今は聖書によって判断する事ができるからである。 



 プロテスタントキリスト教は、「兄弟姉妹たちがひとつであるように」というキリストの祈りよりも、「鶏口となるも牛後となるなかれ」という諺の教えの方を大切にして、分裂に分裂をくり返している。しかしそれにも増して、聖霊派といわれる兄弟姉妹たちは、「キリストには従うが、キリストのみ体である兄弟姉妹には従えない」ことを、顕著な特徴としているようである。「聖霊の導き」という主観に従う「敬虔と謙遜の仮面」をかぶっていながら、兄弟姉妹とひとつになって秩序を保つという、客観的にも明らかな信仰の道には従えないのである。いつも幻を見、預言をし、「み心み心」と言うのを口癖にしているふたりの宣教師が、折り合いが悪く喧嘩ばかりしていのを、私はこの目で見て来た。聖霊の働きがもっとも顕著であるといわれるお隣の国では、聖霊派の教会を筆頭に、分裂騒ぎが絶えないのも、摩訶不思議な現象である。しかし私たちは、神のみ前に本当の意味で謙虚にならねばならない。それは、他の兄弟姉妹を受け入れることである。
 


 とはいえ、預言をしている者を、どう考えてもクリスチャンと認めることができない場合、シンクレテイズムの擬似ペンテコステ体験を、もてあそんでいるだけと考えられる場合、私たちは断固として異教徒と見做し、異教徒として対応しなければならない。この場合、原則は明快であるが適用は難しい。この点は次項で取り扱う。



 B.厳しい目を持つ 



 おおらかに対応するということは、誤りと妥協せよと言うことではない。聖書の教える真理に対し、私たちは常に真摯でなければならない。だから、私たちは自分自身に対しても、兄弟姉妹に対しても、厳しく見る目を持たなければならない。誤りは誤りとして指摘しなければならない。しかし、その指摘が交わりを破壊するような指摘であってはならない。兄弟愛と注意深さが肝要である。
 


 私たち日本人は、誤りを指摘して互いに気まずい思いをするよりは、静かに去ることを選ぶ。付き合いをしなくなる。日本人の教会も、つい、そのような日本人的解決方法を取る。しかし、教会はそのようなものではない。もっと互いに干渉し合う、運命共同体である。強い交わりの絆を保ちながら、厳しく干渉するものである。個人主義の背景とポストモダンの傾向をもち、主観的体験を重んじ、独り悦に入ることが好きな聖霊派の兄弟姉妹に、真摯な態度で聖書を説き、誤りを指摘するのは至難の業であるが、彼らが兄弟姉妹である限り、私たちは努力をしなければならない。本当の聖霊運動は分裂の運動でも、互いに無関心を装う運動でもなく、一致と協力の運動である。
 


 そこで私たちは、主にあってひとつのみ体に属する者であることを先ず強調し、私たちの伝統的ペンテコステ諸教団も、歴史の中で同じ誤りを犯してきた事実を認め、ただ恵みによって、その誤りに完全に陥ることがないように、助けられてきたことを語ることができる。そのようにして私たちも、自分たちの過去の過ちを良い方に生かす事ができるのである。 
 


 私たちは、また、シンクレテイズムによる擬似ペンテコステ体験に対して、鋭い霊的嗅覚を持つ必要がある。例えば、私たちにとって大切な「異言」も、現在、世界中の様々な宗教が、自分たちの宗教体験として類似の体験を認めている。使徒の時代とは異なって、今や、自分たちと同じように異言を語っている人がいるからといって、それだけで、自分たちの仲間と認めることはできないのである。異言は、「しるし」とはなり得なくなっている。「マリヤ様」を礼拝し、キリストの像に頭を下げながら、異言を語る人たちもたくさんいる。キリストの名を語りながら、様々な不思議と癒しを行い、預言をし、啓示を語る一方、異教の神を祭り、犠牲を捧げる者も少なくない。このような現象的シンクレテイズム、擬似ペンテコステは、神学的にも実際的にも識別困難で解決しにくい問題として、私たちに立ち向かうことになるだろう。本当のところ、このシンクレテイズムの擬似体験は、モーセの時代から、本物の神体験への挑戦であった。それは現代の第三諸国においてだけではなく、アメリカにおいても日本においても、同じように挑戦となっている。



 そこで問題は、何をもってクリスチャンと認め、何をもって異教徒と判断するかである。クリスチャンの間には、異教徒的感覚、理解、生活を持ち続けている者がたくさんいる。むしろ、私たちを含め、ほとんどすべてのクリスチャンがそうである。特に、異教文化からクリスチャンになった者にはその傾向が強い。どこまでが異教徒的なものを引きずっているクリスチャンで、どこまでがクリスチャン的なものを取り入れた異教徒か。注意深い観察と分析と判断、「厳しい目を持つ」ことが必要である。そのために、福音主義の神学の基本をしっかりと学びなおし、その基本をゆるがせにしない事と、基本に関わらない事については、できるだけの柔軟性と許容性を持つことが大切である。



 C.信徒を預言運動の関係者から遠ざける
 


 真実の兄弟姉妹たちとは、キリストのみ体としての交わりを保つことが、非常に大切である。しかし、それによって信徒たちを誤った教えと実践に巻き込む事は愚かである。聖書知識をしっかりと持ち、預言運動の誤りを心得ている者は、機会があれば、預言運動の関係者と付き合い、断られない限り彼らの集会にも出席すべきである。そして、愛の交わりを確立した上で、彼らの誤りを指摘すべきである。しかし、聖書の知識が不充分な者や、主観的体験を熱望している者、あるいは一般信徒たちを彼らに近づけるべきではない。また、彼らを自分たちの教会や集会に招くべきではない。講師として招くなどは論外である。また、彼らの著書も遠ざけておくべきである。預言運動をしているものが近隣にいる場合、また、何らかの形で彼らの影響を受けそうな者がいる場合は、その間違いと危険性について学ぶ機会を持ち、信徒を保護することも必要であろう。誤って彼らが自分たちの教会に紛れこみ、勝手に預言を始めるようなことが起こった場合、直ちに、牧師の権威をもってとどめなければならない。



 D.正しい預言を教え、預言する事を励ます 
 


 パウロが預言の賜物として強調し、ルカが歴史の形で残した彼の神学で、終わりのしるしとして記録したヨエルの預言の成就は、まず、聖霊の感動を感じ、会衆の状態に応じて臨機応変に福音を説く、即興の説教としての預言のことであった。このような預言は、教会の中で、勧めの言葉、励ましの言葉、慰めの言葉として理解され、受け入れられるであろう。それは、場合によっては、良く準備された牧師の説教という預言よりも、さらに効果的に用いられるに違いない。それが秩序正しく、一度にせいぜい2、3人の者によって行われるのならば、大いに推奨されるべきものである。また、そのような預言のためならば、訓練も練習もとても意義のあることであり、預言者の学校も価値を持つ。



 とはいえ、これは聖霊の直接的介入による預言、すなわち夢や、幻、さらには聞えてくる言葉による預言を排除するものではない。しかし、先に述べたように、そのような預言は、聖書が完結し、印刷技術が発達し、誰もが聖書を読むことができるようになった現在の私たちの状況においては、あまり必要とされていないことも理解すべきである。



 福音の宣教としての預言は、福音の本質を知り信仰に生きる成長したクリスチャンの賜物である。神の直接介入の預言は、聖書を知らず信仰の弱いものに対する、神の憐れみである。必要性のあるとき、神の直接介入の預言を求める事に異議も異存もない。しかし、そのような預言を求める必要が起こってこないように、常に聖書を学び、信仰の訓練を続けて行くべきである。




E.すべての預言を吟味する



 「吟味」に関する問題は前述した。預言というものを神からの直接啓示と考えていながら、なおかつ、預言するものが、これは吟味されるべきだと思うような預言は、口に出すべきではない。しかし、現実には現在の預言運動で預言をしている者の多くは、そのような曖昧な預言をしている。彼らの影響を受けた者が、私たちの教会で預言をしないとも限らない。それならば、吟味しなければならない。



 しばらく前に、ミャンマーのA/Gでシンクレテイズムによる預言の問題が起こったとき、指導者たちは四つの吟味方法を教えて混乱を押さえ込んだ。その四つの吟味方法とは、@その預言が聖書の教えに調和しているか、A信徒たちの徳を高めるものか、B成就しているか、Cキリストのみ名に栄光を帰しているか、ということである。  私はそれらにもう一つ、客観性を加えたい。ミャンマーA/Gの吟味方法でも客観性が焦点とはなっているが、別の項として加えたい。使徒の働きの記述を見ると、面白いことに、預言者たちは一人で行動をしないで、何人かの預言者たちが一緒になって行動しているのに気付く。これは、一人が預言をすると他の預言者たちがそれを確認するというような、より客観性のある預言が求められていたからではないだろうか。




 F.個人預言、指示預言、未来預言などを重視しない 



 私たちは、個人預言あるいは指示預言、さらに具体的な導きなどが、現在もあり得ると信じている。そればかりではなく、すでに述べたように、いわゆる福音宣教に関わる即興の説教としての預言ではない、直接的な神からの語りかけを取り継ぐ預言は、そのほとんどが個人預言あるいは指示預言であるはずだと理解している。では、私たちはこのような個人預言、指示預言をするように、あるいは受けるように励ますべきであろうか。



1.預言や指示預言をする者に対し、いちがいにやってはいけないと言うことはできない。また、やりなさいと言う事もできない。本当の意味で霊性が整えられた者は、そのような方面でも神に用いられることもあり得る。霊性が整えられる事は大いに結構であるから、それは勧めることができる。ただ、個人預言や指示預言、あるいは未来の予告などの預言を、「売り物」のようにして活動している人物に対しては、かなり、大いに、相当、疑ってかかるのが良いであろう。本来、あまり必要とされていないその種の預言を頻繁に行い、それをセールスポイントにしているのが怪しいのである。その人物は、神の霊によってではなく、何か他の能力や力によって預言している可能性が、非常に高いと言わねばならない。



2.さらに、そのような預言をする事が「賜物」であると考えて、これを求めるものが周囲に現れたならば、パウロが賜物として語っている預言はそのような預言ではなく、宣教に関わる即興の説教であり、教会全体の益となるものである事を教え、まず、その賜物を熱心に求める事を勧めるべきである。そして、その預言の賜物を忠実に行使して行く中で、個人預言などの能力もまた、与えられることを期待するように諭すべきである。



3.個人預言や指示預言を「されてしまった」者に対しては、どのように取りあつかうべきであろう。私自身にも、「あなたはあの女性と結婚すべきです」と預言された、華やいだ時期があった。その指示に従わなかったのが、私の・・・・・であった。「あなたは音楽をもって主に仕えるようになります」と預言されて、その気になってアメリカに留学してしまった女の子も、隣の教会にいた。ただし、彼女は音楽のセンスを持ち合わせないまま、3年が過ぎた。神は、賜物を与えずに奉仕をしろとおっしゃるだろうか。ない袖は振れぬはずである。奉仕を与える場合には賜物も与える。これが神の原則である。用いられた神の人は、みな、「何の取り得もない私が」と、あたかも賜物が無かったような証をする。それは謙遜の言葉であり、賜物は文字通り「賜わった物」で、自分の物ではないからそれで良い。しかしそれは、賜物がないまま働かされるのとは違うのである。
そういうわけで、個人預言や指示預言のほとんどは、無視して良いものである。聖書をしっかりと読み、信仰を堅く持っていると、不要な預言である。いらぬお節介である。しかし、そんな指導をしてしまってはみもふたもない。躓かせるのが落ちである。ここでも、おおらかに対応するのが肝要である。したがって、その預言が客観性のあるものになるように、しばらく時を置いて待つ事を教え、その間に、聖書の教えに馴染ませ、本人が聖書の教えを基盤とした、責任ある自己選択ができるように整え、自らの意思をもって決定するように勧めるべきである。



 もしその預言が、本当に神からのものであるなら、聖書の教えに照らしても妥当であり、客観性も与えられるはずである。誰かによって預言されるだけではなく、自分にも確信が与えられるべきである。パウロはアガポの預言を聞こうが聞くまいが、自らに何が起こるか、御霊によって知っていた。しかも彼は、自分の行動を自分の責任で決定している。個人預言や指示預言が与えられようが与えられまいが、私たちは聖書知識と信仰に立って、自らの責任によって正しいと思う選択と決断をすべきである。



4.ときおり耳にする、未来のできごとについての、一般的な預言についてはどう考え、また対処すべきであろう。結構有名な伝道者たちが、幻を見たなどと言って、たとえば、将来の世界について預言をしている。



 すでに述べた事ではあるが、私たちには聖書という充分な神の言葉が与えられている。未来の出来事についても、神がこれだけ知らせておけば良いとお考えになっただけの、預言と知識はすでに与えられているのである。それ以上のものは、基本的に不要なのである。さらに、私たちが、聖書以外の啓示や預言に服従しなければならないという教えは、聖書のどこにもない。したがって私たちは、一般的な未来預言を完全に否定する必要はないが、あまり重大に考える必要もない。端的に言って、無視しても良いものである。今後わたしたちがどのような事に遭遇しようが、聖書に与えられている預言と知識に立って、信仰を持って進んで行けば、それでこと足りるからである。 



 とはいえ、一般的に将来の出来事が示された後に、個人預言や指示預言に近い、警告や導きが加えられる事がある。そのようなとき、どうすればよいのであろう。ここでも、私たちに求められていることは、聖書の教えに従う事であり、聖書以外の啓示や預言の言葉に従う事ではないことを、思い起こすべきである。そのような警告や導きを、聖書によって「吟味」し、聖書の教えに反していなければ、心に留めて置くのが良いだろう。たとえ、預言や警告のとおりにことが運んでも、あるいは運ばなくても、聖書に立って、信仰によって歩めばそれで良い。



 神が警告しようと思えばそうなさり、導こうと判断すればそうなさるだけの事である。神には、私たちの小さな信仰あわれみ、励ますために、今、私たちの日常に直接介入する力と権威があり、介入しない自由と権利もあるからである。しかし、くり返すが、基本的に、私たちに必要な預言と知識は、すでに、すべて与えられているのである。



終わりに



  私が体験した面白い出来事を紹介して、しめくくりとしたい。
  
  もう30年ほども前になるが、私はフイリピンの神学校で、レポートを一つまとめようとしていた。それは「宣教師の召しの心理」という題で、年齢も、国籍も、団体も、働きの種類も異なる50人の宣教師たちに、個別に長いインタビューをして、いわゆる宣教師になるための特別な「召し」の概念について、調査しようと試みたものである。50人の内の2人は「宣教師になるための特別な召しは不要である。自分は召しを受けたから宣教師になったのではなく、献身の選択として宣教師になったのである」と答えて、自分たちの考えをきちっと聖書から説明した。他の3人は幻を見たために宣教師になり、内1人は同時にはっきりとみ声を聞いていた。そうでなければ、宣教師にはならなかったとのことである。残りの45人は、「聖霊の内なる証」に押し出されて宣教師になっていた。その、「聖霊の内なる証」という霊的な言葉を、日常の言葉で具体的に言いなおすと、感動的な宣教師の伝記を読んだとか、自分たちの家に宣教師が泊まり、いろいろ話しを聞かせてくれたとか、教会の宣教大会で励まされ、決心したなどということで、すべて、ごく自然の心の動きに過ぎなかった。


 宣教師になるための召しは不要であると答えた2人は、共にA/Gの男性であり、そのうち1人は、当時聖書学校の校長をしていた。一方、幻を見、み声を聞いたから宣教師になったと答えたのもA/Gの宣教師で、あの聖書学校の校長の奥さんであった。さらに彼女は、「もしあなたが、宣教師になるようにという特別な召しを受けないまま、宣教師になった人に出会ったら、どのようにサジェッションしますか」という問いに、「その人は神のみ心に反した、誤った道を歩んでいるのだから、ただちに帰国するように忠告します」と答えていた。



 その頃わたしは、もう一つの神学校でも科目を取っていて、この校長夫婦もまた、同じ神学校で学んでいたため、いつも彼らの車に便乗して通学していた。ある日、車の中で話しが弾み、話題が私のレポートのことに及んだ。そうこうしているうちに、校長の奥さんは、こともあろうに、自分の夫が宣教師の召しを受けていないと答えた2人の内の1人である事を知り、悲鳴に近い声をあげた。「まあ! あなた。30年以上も私をだまし続けてきたのね!」



 それから、熱帯マニラのひどい渋滞の中、エアコンも利かない車の中で、およそ30分間、激しく熱い言い争いが続いた。奥さんの剣幕ははなはだしく、どう見ても声の上では御主人の負けであったが、やがて、御主人が静かに言った。



 「ハニー。僕は、きみが神様から特別な召しをいただいた事を、心から喜んでいるよ。だって、きみは、聖書学校の中で一番美しく(主観だと思う)、一番頭も良く(これも怪しい)、何でもできて、素晴らしい女性だった(確かに何でもできてでしゃばり気味)。僕はきみが好きで憧れていたけれど、とてもそれを言い出す事はできなかった。だって、きみは、宣教師になるために必要な、あらゆる資質と能力をいただいていたのに、そんな事にはまったく無頓着で、いつも、派手なドレスを着て、きらきら光るネックレスにブレスレット、指輪にベルト、イヤリングにマニキュアと、自分をもっと美しくすることに夢中になっていた(30年以上経ってもそうだった)。僕は、あまり能力もなく見栄えもしない普通の学生だったけれど、神様の栄光のため最善に用いていただきたいと願って、宣教師になる事を決心していた。きみが宣教師になるために必要だったのは、自分の賜物を認めて宣教師として献身する事だったけれど、きみには、その献身ができなかった。だから、神様は、きみの献身を促すために、幻を見せ、み声を聞かせてくださったわけだ。すでに宣教師になろうと献身していた僕には、神様は、幻を見せる必要もみ声を聞かせる必要もなかった。だから、僕は、特別な召しはいただかなかったのだと思う。そういうわけで、僕は、きみが特別な召しを受けた事を、とても感謝しているよ。だって僕は、自分には能力はないから、僕より能力のある妻を与えてくださいと、そっと祈っていたんだからね。神様は、僕の祈りに答えて、きみに幻を見せ、み声をかけてくださったわけさ。きみが、宣教師になる召しを受けたと証したとき、僕は、天にも上る思いで、きみに結婚を申し込んだんだよ」。



 話しを聞いていて、私は、アメリカ人の男性の口のうまさに舌をまいた。女性を誉めちぎって、ちゃんとあやつっている。また、そこまでしなくてはならないアメリカの男性に、心から同情した。しかし、それよりも、彼が言ったことは、非常に深い洞察だと感心した。



 現代の特別な導き、幻、み声、預言は、強いクリスチャンに対するものではなく、弱いクリスチャンに対するものである。私たちは、今も生きておられる神を信じ、その神に祈る。答えを期待し、介入を期待して祈る。そして、たとえ神の応答が目に見える形では現れなくても、見ないで信じる信仰を持って歩む。きちっと聖書を学び、しっかりと信仰を持つならば、日常、あまり特別な啓示を必要としなくなるのである。大切なのは、聖書に立つ信仰である。
    
                                     おわり











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