2010年11月03日

個人預言をどう取り扱うか (2)



X. ルカとパウロが語る預言



 ルカが語っている預言は幅が広く、基本的に、聖霊によって感動を受けて語る神の言葉であり、その中には聖書の学びや信仰経験を通して学び取った神の御心が含まれる一方、聖霊の直接の啓示によるものも含まれていることについてはすでに述べました。また、パウロがTコリント12〜14章で語る預言も、基本的にはルカと同じであると理解するのが正しいと思われます。そうするとパウロが非常に高く評価をした預言と言うものは、必ずしも聖霊の直接啓示による預言だけではなく、聖書の教えをしっかりと学び、それを聖霊の感動によって現在の状況に適用して語る説教や、聖書の教えを心に蓄えていた者が、その場の状況や必要に応じて、聖霊に励まされて語り出す即興的な説教でもあったと理解できます。直接的な啓示を語る預言の可能性を否定する必要はありません。(ヨハネ 16:13-14) 特に聖書が完結していなかったコリント人への手紙を書いた時点では、直接啓示の預言の必要性は、現在のそれよりも高かったことでしょう。しかし、むしろ、それらは基本的に聖書の教えを単なる教えとして語るのではなく、聖霊の感動、励まし、押し出しを感じて語る、説教だったと考えるほうが、しっくりします。



 また、パウロが語っている「異言の解き明かし」というのは、果たしてペンテコステ信仰を標榜する人たちが一般的に主張してきた、「異言を通しての預言」なのでしょうか。パウロの教えを素直に読むならば、そのような理解は、預言を強調したいという思いと、異言に意義を与えたいという願いの産物だと考えられます。パウロはその一連の教えの中で、異言は神に向かって語るものであるとはっきり述べており、神が人に向かって語るための手段であるとは教えていません。ルカの記述を読むと、異言はむしろ、神の大きなみ業を賛美する言葉であることがわかります。(使徒2:11、10:46)そのような神に対する賛美も、解き明かしがされるならば、教会の徳を高めるものであることをパウロは認めていますが、教会の公共の秩序を乱しても良いほど、大切だとは考えていなかったのです。もしそれが、神からの直接啓示であるならば、パウロはそのような言い方はしなかったことでしょう。このように理解すると、パウロの一連の教えは非常に明白なのです。つまり、異言による神の直接啓示の預言と言うものは、パウロの知らないものだったと考えるべきなのです。  



Y. 現代の預言運動



 現在行なわれている預言運動の多くは、今は「終末の霊的覚醒期」であると判断し、霊的回復期、あるいは聖霊の賜物の回復期であると理解する、時代真理的考え方の影響を受けた人々によって進められています。すでに述べたように、中には教会の形態や「教会の職」も初代の教会の姿に戻すべきだと考え、盛んに按手を行い、使徒職や預言者職の回復などに非常に熱心な人々もいて、アッセンブリーズ・オブ・ゴッドの交わりの中にも、そのような傾向をもつ人々がいます。時代真理神学のすべてが誤りだとは言い切れないところもあり、時代真理的な終末観を持って聖書的を理解する余地もあると判断しますが、預言の回復は、現在と言う終末にではなく、終末の初期であったペンテコステの日に起こった事柄であり、それが今も継続していると理解すべきものです。また、聖書に記されている使徒や預言者や伝道者などは、職と理解するべきではなく、機能的に、そのような働きをもって教会の中で認められていた人のことに過ぎず、それを現在の教会の中で「職」として回復しようと言う試みは、間違っていますし、たとえ、初代の教会にそのような職制が在ったとしても、それを現在の教会のモデルと考えるのは聖書の解釈の間違いです。初代の教会は現在の私たちの教会が模倣しなければならないモデルではなく、コリントの教会を引き合いに出すまでもなく、あくまでも、当時の実情の中に自分を表現した教会なのです。間違いや失敗を沢山抱えた教会だったのです。また、すでに述べたように、預言の理解もまた異なっています。したがって、現在盛んに個人預言を行なっている人々には、個人預言の間違いと言うよりも、まず預言の理解に、このような間違いがあるのだということを、知らなければなりません。



 現在、ある人々の間では預言者の学校と言われるものがあり、教会では預言の練習をしていると聞きます。互いに向き合って、「主はあなたにこのようにおっしゃいます」と、自分の頭に浮かんで来たことを大胆に話す練習を重ねると同時に、自分が、本当に神のみ思いを語っているかどうか判断し、神のみ思いを語ることが出来るようになるように、祈り、鍛錬をするのだそうです。その一方では、預言を受ける人々は、その預言が本当に神からのものであるかどうか、良く吟味をするように訓練させられるのだそうです。その訓練の仕方、何に気をつけるべきかと言うことについては、具体的な指導も行なわれています。その指導のすべてが無益なのではありませんが、基本的に、聖書の教えることと異なっています。聖書にはそのような訓練をしなさいという命令も、そのような学校があり実際に練習がされていたと言う記述もないからです。



 さらにまた、人間は深い神のみ思いを理解することは出来ないのです。(Iコリ2:11) ですから、このようなやり方に対して言えることは、「主のみ名をみだりに唱えてはならない」と言うことです。主からのものであるかそうでないか、語る側の者が予め吟味されることを前提にするような、源の曖昧な預言は語ってはならないものです。そしてたとえ語るものが主からのものであると確信を持って語り、事実そうであったとしても、聞く者は、なおもその内容を聖書の教えに照らして厳しく聞き分けなければなりません。なぜなら現在の預言は、たとえ神の直接の啓示であったとしても、語られる言葉の一つ一つすべてが霊感を受けているわけではなく、誤りの入る余地があるからです。また、たんに感情の高まりであたかも預言のように語る人も在り得るからです。




 では、預言は軽んじられるべきでしょうか。そうではありません。聖霊の励ましを受けて語る聖書の教え、あるいは福音は、大いに強調されなければならず、その場の実情や必要に応じて即興的に語られる聖書の教えと適応は、大いに勧められなければなりません。これを牧師や伝道者の専売特許にしてはなりません。しかし、聖霊の直接啓示を受けて語る預言は、よほどのことがない限り、つまり、神様の側の必然性がない限り、ありえないと考えるべきでしょう。そのような預言に従いなさいという聖書のみ言葉もありません。私たちはそのような預言に対して、聖書に従うような忠実さをもって従う義務を持っていません。私たちは本来、聖書に聞くべきなのです。とは言え、私たちは、聖書主義を掲げる伝統的な改革派の人々とは異なっています。私たちは、聖霊の直接の照明を受けて聖書を読み、聖霊の励ましと感動を与えられて聖書の教えを語るのです。




 実際、ペンテコステ教会で生まれ育ってきたものとして、著者も、個人的に預言なるものを随分聞いてきましたし、異言の解き明かしなるものも、しばしば聞いてきました。そして極めて安全に言うことが出来るのは、それらの殆どは、聖書的な概念を感動を持って語る、信仰の励まし、あるいは罪への警告、あるいは、たとえば世の終わりに対して備えをするように、滅びて行く魂に対して情熱を持つようにと言うような、一般的お勧めであり、聖霊の直接介入と理解しなければならないものはありませんでした。自分の心の中にあるもの、あるいは潜在意識を、聖霊の励ましによって語りだしたもの、あるいは時と場合によっては、たんに感情の高まりを抑えきれずに、語りだしたものでしょう。「主は仰せられる」という言葉で始まり、あたかも神の直接啓示があったかのように語り始める場合ですら、主が直接お語りにならなければならないような内容を持つことは、殆ど在りません。むしろ、語る人が興奮したか・・・・・悪いことではありません・・・・聖霊からの感動を受けて語ったに過ぎないのでしょう。そして、先入観のゆえに、つまり、預言とはこのようにあらねばならないという先入観のゆえに、「主は仰せられる」と口走るのでしょう。私たちは、その「預言」が基本的に聖書の教えるところと合致しているならば、アーメンということが出来ます。そして、その励ましや警告、あるいは注意のゆえに、神に感謝をいたします。ただ、異言の解き明かしについては、聖書に前例のないものであるためにこれに重要性を置かず、ただその解き明かしは、神の直接介入という部分を省いて、その人の感動が語らせていると理解してよいのではないでしょうか。




結び



 結局私たちは、個人預言の存在の可能性自体は、非常に特殊なケースとして認めざるを得ません。聖書にはそのような例があり、現在もあり得ることを否定していないからです。しかしそれが頻繁に、日常的に行なわれるというのも聖書の教えではありません。また預言をする者は、聖霊に満ちた人でなければならないと言うのが、ルカの記述から導き出される理解であり、預言をする場合は、神のみ名をもって語ることに恐れを感じないだけの、確信を持って語らなければなりません。一方語られる預言は、聖書の教えと調和していることが前提であり、聖書の基本的教えとその適応範囲内に留まっていなければなりません。つまり、聖書と矛盾していてはならず、聖書が教えていない新たなことを教えるものであってもならないのです。  そしてまたその預言に従うかどうかは、その預言を与えられた人の責任に任せられていると言えます。聖書は、現在の私たちがそのような預言に聞き従わなければならないとは教えておらず、聖書に従うように教えているからです。したがって、個人預言を与えられた人は、その預言が聖書に矛盾していないことと、聖書の教えている範囲を越えていないことが明白ならば、それに従っても差し支えありません。またその預言が、本当に神からのものであると確信できたならば・・・・・・・・・それは易しいことではありませんが・・・・・・・それに従うべきなのです。



 私たちは、聖書が現在のように正典化されていなかった時代、個人預言やそれに近い預言が非常に多かった時代でさえ、あくまでも書かれたみ言葉が、語られる預言に優先していたと言う事実を、厳粛に受け止めたいと思います。(申13:1−5)  さらに、パウロは当時の預言者の機能を認めていましたが、彼が書くことがその預言に勝るものであることを主張しました。それは、霊感を受けた聖書が啓示の預言に勝ると言う意味です。(Iコリ14:36−37) 


 
 牧会者として、私たちは、すべての信徒が常に聖霊に満たされ、励まされ、押し出されて、神のみ言葉を語る者、新約的な預言者になるように、積極的に励まし勧めたいと思います。そうしてそのような預言の場を、信徒たちに積極的に提供すべきです。新約の時代にあっては、すべての信徒は預言者であるべきなのです。そうするならば、その中でまたその過程で、聖霊の直接啓示としての預言をする者も現われて来ても、驚くに当たりません。そしてその預言をする者が本物の預言者であるならば、権威に服従する者でなければなりません。(IIペテ2:1、9) それは、主の権威に従うことであり、霊感を受けた主のみ言葉である聖書に従うことであり、さらに、主のみ体である教会の権威に従うことです。現在の預言者であると自認する人たちが、最も陥り易い過ちは、預言をする事が出来ると言うことで、あたかも自分が特別に高い存在であるかのように振る舞い、聖書の権威も教会の権威も無視し、誰の言うことも聞かなくなり、自分の主張する預言を最終的な権威とすることによって、主の権威も拒絶することだからです。



 また牧会者として、個人預言を生業とするような伝道者は、招かないようにするのが賢明です。お招きしてしまった人が、個人預言を自分の働きの一部として取り入れていることがわかった場合は、個人預言をしないようにお願いするのが良いと思います。私は個人預言ではなく、聖書の教えに立つ信徒を育てる義務を持っていますので、個人預言はお控えくださいと申し上げるのです。現在の預言運動を推進している人々が行なっているような個人預言、たとえば、個人預言をするということで人を集めたり、人々を並べて次から次へと預言をして行ったりする活動は、現在でも個人預言の可能性があると信じている私たちから見ても、聖書的前例と神学的裏づけを欠くと言わざるを得ないだけでなく、実際上、それらの個人預言には、街角の占い師や八卦程度の価値も見出すことが出来ません。占い師や八卦に金を払う人は、知りたいことがあるから、その問題について尋ねて答えをもらうのです。しかし個人預言の多くは、預言者の方から、勝手に語るのです。これでは、おみくじを引くような、たんなる遊びに過ぎません。多くの個人預言の内容は、それを知ったからと言って、ことさら何かの益になるようなものではありません。



 また、信徒たちの中に個人預言に関心を持っていたり、それを受けたりしたものがいるとするならば、むきになってその問題点を指摘するより、聖霊の照明に頼って聖書を読み、教会の積み重ねてきた聖書の理解を参考にし、それを正しく自分の状況に適用できるように祈り、聖書の教えに立つ信徒となるように励ますべきです。その場合、その信徒が受けた個人預言は、聖書の教えと矛盾していない限り一つの可能性として受け止め、指示預言の場合であっても、それが明確に神からのものであるという確信が与えられるまでは、直ちに従うことはせず、一つの示唆、一つの選択肢として、大切にするように教える程度で良いのではないかと考えます。

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

(注)

11・  この「異言を解き明かした預言」は、アッセンブリーズ・オブ・ゴッドの歴史の中では一般的に認められていますが、特に最近、正しい聖書解釈の方法が学ばれるようになってからは、私の理解しているような異論も出されています。

12・  ときどき預言者の学校と言う表現を聞きますが、これは多分Iサムエル19:20の「預言者の一団」という言葉(新改訳)が、英語では[school of prophets] と言えるところから来た間違いだと思います。Schoolには一つの群れという意味もあり、学校とはかぎりません。

13・  30数年前、ティーンチャレンジを創立したデビッド・ウイルカーソンが、自分が見た幻を語った長いテ−プを公にしました。内容は黙示録をさらに細かく説明するような性質のもので、ある人々を興奮させました。ただ、かれはアッセンブリーズ・オブ・ゴッドの教職として非常に用いられ、有名の人物ではあったにもかかわらず、全体としては、彼の預言は無視される方向にあったと理解しています。
 
14・  ローマに行かないようにと聖霊に示されて忠告したアガポたちに、憤然としてローマに向かったパウロの例は、ユニークです。この場合、聖霊は将来を示しただけで、指示はしていなかったのです。
 
15・  4節で言われている「主にしたがって歩み・・・・・・・主の命令を守り」と言うのはモーセの律法に従えと言う意味です。

                                       おわり














posted by ms at 00:00| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

認証コード: [必須入力]


※画像の中の文字を半角で入力してください。
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。