2010年11月05日

ちょっと怪しげなペンテコステ信仰 (2)


W 限界を超えた体験主義の例 



 ではその体験主義的聖書理解が限界を超え、怪しげなペンテコステ信仰に陥っている問題とは、具体的にどのようなことを指しているのか。筆者が個人的に見聞きした、いくつかのことを取りあげてみよう。



 筆者は、地方の開拓伝道をしてしばらくたつが、さまざまな理由で、なかなか教会として立ち行くところまで到達できないでいる。そこで、ひとりの同労者に、特別講師としてきていただこうと思いついて、お願いをした。快いお返事をいただいたので、なおも教会の現状について説明をしたところ、彼はすぐさま、「それは、その地域の霊と戦って勝利をしなければ。それから、そのような困難を抱えている信徒の先祖の中に、人殺しとか犯罪者はいないですか。そのような例が多いんですよ。そのつながりを断ち切らなければ」というようなことを、おっしゃったのである。



 私はこの同労者の高潔な人格と、やはりかなりの「地方」で開拓をし、見事に教会を建て上げておられる姿に、ひそかに尊敬をしている。また彼は、以前から「霊的な」感覚の鋭い方で、良く祈り、癒しや奇跡、さらに霊の戦いと言われる方面に、強い関心を抱いておられることは知っていたが、さすがに、このときの言葉にはひるんでしまった。

 

 他の機会に、やはり同労者の一人から、ある著名な学者が書いていることだと、教えてもらったことがある。いわく、「教会の成長には、使徒職の回復が必須である。大切なのは、牧師職ではなく使徒職である。」なんでもいま、使徒職の回復というのが「世界的に」広まっていて、これをやると教会が成長するのだそうだ。この学者は以前にも、均一性が教会の成長の重要要因だと言ったり、地域を支配している霊を追い出すことが、その土地の宣教に重要であるなどと、主張したりしていたが、今度は使徒職の回復を言い出した。彼は、いわゆる福音派に属し、ペンテコステ信仰を持つ人物ではないらしいが、以前からペンテコステ信仰の興隆に強い興味を意示し、親ペンテコステの学者として有名である。事実、ペンテコステ系の人々、特に第三の波の人々の間では、絶大な人気があるらしい。



 筆者がフィリピンにいたころ開いていた聖書研究会で、この国一番のエリート士官学校の教頭が救われ、全士官候補生を体育館に集めて集会をしたことがあった。あまり内容のない説教の後、特別講師の説教者が祈ると、聴衆の士官候補生700人全員が一人残らず、コンクリートの床に倒れ伏した。説教者はそれが神様の力の現われであり、説教者が神の祝福の器である証拠であると主張し、全員が倒れたその集会を、神の祝福に満ちた集会であったと報告していた。しかし、この集会でイエスをキリストと信じると告白したものは、私たちの聖書研究のメンバー以外にはいなかった。私は二度と彼を招かないように指導した。



 やはり筆者がまだ宣教師として、フィリピンの山岳奥地の部族伝道をしていた頃、少しばかり成功したアメリカの伝道者がやってきたことがあった。彼は、電気や水道はおろか商店もなく、馬も通れない山道を、何時間も歩かなければ到達できない、極貧の集落に住む人々を見て、「彼らは神様の祝福からこぼれてしまった」と言った。繁栄の福音を語っていたこの伝道者から見れば、このような貧しさの中にいるものは、確かに、神の祝福の外にいるのであろう。アメリカをはじめとする裕福な国の人々が、繁栄の福音を言い訳に欲望を丸出しにして生きるために、貧しい国々の人々がいよいよ略奪され搾取されていることに、この伝道者は気づいていない。



 しばらく私たちの教会に出席していた、隣町の単立教会の娘が、アメリカの聖書学校に留学するという。その聖書学校は、レーマの神学を宣伝し続けている、著名な伝道者が立てたものである。彼女は、その伝道者の働きに現れる癒しや奇跡の業に、痛く感動していた。私は「レーマの神学は、脆弱な聖書解釈に立つので、止めたほうが良いよ」と示唆したのだが、彼女は、「現れたみ業が信仰の正しさを証明しているのではないでしょうか」と言って、そこに行ってしまった。彼女は数年後に帰国したが、アメリカ留学の無駄を、今も回復できないままでいる。



 開拓伝道状態を抜けきらないで、苦戦をしていた私たちは、公共の建物を借りて礼拝会をしているが、隣の部屋で、やはりペンテコステ系の教会が集会をしていた。ところが、この教会にしばらく通っていた信徒一家が、私たちの教会に移ってきた。もともと他の団体の信徒だったのだが、仕事のために移転してきたのだということだったので、私たちの教会にくることを許したものである、彼らが「他の面ではとてもすばらしい教会」だというその教会を去ったのは、礼拝会の後、必ず預言の練習なるものをやることに、強い疑問を感じたからだそうである。聞くところによると、ふたりずつ向かい合って、互いに相手のことについて、頭に浮かんでくることを言い合うのだそうだ。そうしているうちに、預言になるらしい。しかし、語られた言葉が本当に預言であるかどうかは、聞いたものが吟味しなければならないという。それのどこが練習になるのか、彼らにも、私にも分からなかった。後で聞くと、預言者の学校なるものも存在するそうである。



 ところで、このところ、どういうわけか、いろいろなところから、信仰相談の電話を受けるようになった。私はその人たちの名前も教会も場所も、牧師か信徒かも尋ねないことで、相談に応じることにしている。向こうが勝手に名乗っても、忘れることにしている。私には忘れる賜物がある。



 「アッセンブリー教会で救われたのですが、聖霊のバプテスマを受けなさいと指導され、手を挙げさせられたり、大声で祈らされたり、ラララと言わせられたり、ヒステリックな周囲の状況にも嫌になって、他の教会に移りました。でも、そこで『ペンテコステ信仰の間違いを正す』と、牧師に散々やっつけられたのも嫌になって、またアッセンブリー教会に戻ってきています。でも、あの指導と雰囲気は何とかならないものでしょうか?」



 「単立の教会に通っていますが、うちの牧師は、このところすっかり悪霊追い出しに凝っています。教会の中で、病気の人や悪霊に憑かれていると思われる人にやるのは、まだいいんですが、地域霊だなんだと言っては、神社やお寺に出かけて行って、大声でやるのはどうなんでしょう。その上、坊主憎けりゃ袈裟までもで、お正月には門松は飾ってはならない、お盆には御墓参りに行ってはならないって言うんですよ。それでいて、大相撲は好きで、いつもテレビを見ているんですが、あれって、もとを正せば、神道の神に奉納するものだったんでしょう?それから、この前、『おかげさまで』と挨拶したら、そんな仏教用語を使ってはならないと叱られました。じゃ、『ありがとう』だって、仏教用語ですよね。」



 「うちの教会は、昔、神社の参道だった大通りに面しているんですが、牧師によると、うちの教会が成長しないのは、そこに原因があるんだそうです。だから、教会が引っ越すか、参道を支配している悪霊を追い出すか、ふたつにひとつらしいんですが、どうしたもんでしょう? 地域の霊はなかなか出て行ってくれないようですし・・・・。何でもその霊は、日本全体を支配している強い悪霊に、守られているらしいですね。それで、今の会堂を売って新しい場所に引っ越そうというんですが・・・・。最近、それに反対している私の家には、牧師は来てくれなくなりました。近所に、大きな鳥居のある神社があり、お寺もあり、地蔵尊もお堂もあって、たくさん悪霊がいるので、気味悪いらしいんです。私は、イエス様が一緒にいてくださると信じていますので、悪霊は怖くないのですが。会堂移転に、たくさん金を出させられるのは怖いですね・・・。」



 「先週うちの教会で招いた先生がおっしゃるには、悪霊とは死んでも天国にいけなかった人の霊のことで、それがさまよって悪霊になるってことらしいんですが、それって、聖書の教えなんでしょうか。そんなことって、本当にあるんでしょうか?それから、その先生が集会中預言をなさって、まァ、信徒を脅かすようなことをおっしゃるんです。そういう預言ってあるのでしょうか?」 



 「結構こんな問題で苦しんでいる人たちがいるのだなァ」と、電話相談のたびに感じるのである。
誰でも自分の体験を、正真のものだと擁護したい。UFOを見たという体験を、正真のものだと擁護したい人々は山ほどいる。そしてクリスチャンは、自分の信仰体験、自分の霊的体験を大切にし、それに聖書的な裏づけを求める。それ自体は自然の欲求である。そのような欲求が、公に認められているのが、ペンテコステ信仰の特徴である。すでに述べたように、ペンテコステ運動の発祥自体が、そこにあるからである。



X どこが限界を超えているのか



 私たちの信仰体験、あるいは霊的体験といわれるものが、公の体験、つまり個人を超えて多くの人々に求められるべき体験、あるいは教会がそれを認め、教会の信仰として表明され、宣教の重要な位置を占めるような体験とされるには、いくつかのハードルを越えなければならない。



 まずその信仰体験、あるいは霊的体験といわれるものは、単なる主観的感覚の出来事だったのか、客観性を持つ事実としての出来事だったのか、きちっと整理されなければならない。ペンテコステ信仰を持っているものの中には、悪魔を見ただの、悪霊と戦ったという体験を語るものが、ときどき現れる。そういうことがまったくないとは言わない。というより、私たちは常に悪魔と戦い続けている。しかし彼らの戦いについて聞くと、「夢の中で悪魔が現れて・・・・・、不動金縛りにあって・・・・」などという場合が多い。すべての夢や不動金縛りがそうだというつもりはないが、ほとんどの場合は、悪魔とは関係のない自然の現象に過ぎない。預言をする人たちの預言にも、単なる感情の高まりから語った言葉に過ぎないもの、信憑性に疑問のあるもの、客観性を欠くものが多い。



 また、個人的体験の領域にとどまらせておくべきものか、より多くの者の公共の体験とすべきものなのか、区別されなければならない。パウロは、すべての者が異言を語るようにと薦め、異言を公の体験として認めている、しかし第三の天まで昇った体験については、それがどんなにすばらしいものであったとしても、他の人に薦めてはいない。つまり、公共性を認めていないのである。かりに、地域霊と思われる霊と戦い、これを追い出したことによって伝道や、教会の成長に良い変化が起こったとしても、それをすべての教会や信徒に共通の原理として薦めることはできない。かりに、使徒職というものを取り入れたことを契機に、教会が強く成長し始めたとしても、それを一般原則として、すべての教会に薦めることも出来ない。



 聖霊のバプテスマを求めるときに、大声で祈って受けた人も、小声で祈って受けた人もいる。立って祈って受けた人も、座っていて受けた人もいる。そのようなことは何の規範にもならない。そうするためには、聖書がそうするようにはっきりと示していなければならない。ラララと言うのも、たぶん、異言を語り始めたとき、舌がもつれてそのように言った体験から、それを他人にも当てはめようとした間違いだろう。ヒステリックな集会は、聖霊のバプテスマを受けて興奮したため、集会がヒステリックに思えるほど、混乱したことがあったことから、ヒステリックになることが聖霊のバプテスマを受ける条件であると、勘違いした結果だろう。ペンテコステの日の集まりは、酔っ払いの集まりであると勘違いされたのだから、かなりヒステリックで、無秩序状態だったと思われる。だからといって、聖書はそれを模範とはしてない。人間は、自分の主観的体験を大切にし、一般化したいと考える弱さを持っているが、客観性が非常に大切である。



 いろいろな個人的信仰体験が、教会の中で公式に勧められ、実践されていくためには、まず、それが客観的事実であり、公共性のあるものだと判断されなければならない。そしてその作業をする過程で、聖書的根拠が正しく立証されていなければならない。これらが正しく行われないまま、それが宣伝され、みんながそれを体験するように励まされ、さらには教会の建設の中心的理念とされたり、宣教の力点とされたりすると、限界を超えたものとなり、怪しい信仰になってしまう危険性が非常に高くなるのである。



 X.1 地域霊と先祖霊



 私たちは多くの病や、精神的・肉体的欠陥が、悪霊の働きによるものであることを認める。なぜなら、聖書がくりかえしそれを語っているからである。迷信の中に生きていた当時の人々の理解にあわせて、聖書記者はそのような書き方をしたのであるという、合理主義的解釈を私たちは拒絶する。聖書の記述、その描写には、そのような合理主義的解釈を持ち込む余地がない。しかし、病や欠陥はすべて悪霊によるものであるという理解も退ける。聖書はそのように言っていないし、かえって悪霊とかかわりのない病の存在が、聖書によって明らかだからである。



 私たちはまた、弟子たちが悪霊を追い出す権威を与えられたように、現在の教会も同じ権威を託されていると、考えている。だから私たちは、弟子たちと同じように、イエスのみ名によって悪霊を追い出す。このようにするのには、充分な聖書的根拠があると判断している。そして私たちは、悪霊が追い出され、病が癒されるという現象を見てきた。



 しかし、地域霊となると話は別である。まず、地域霊なるものの存在が、聖書によって明確に立証されていない。それらしい表現はあるが、「らしい」という表現から、神学を作ることは出来ない。さらに、聖書の中に、地域霊と戦った、あるいは地域霊を追い出したという例もない。そして、偶像礼拝が非常に強かった地域の宣教においても、使徒たちが地域霊の追い出しなどを考えた形跡もない。ただし、著者は地域霊なるものの存在を否定しているのではない。あるいはあるのかもしれない。ただ、聖書はそのようなものの存在や力ということに関して黙している。だから私たちはそれについて多く語らないし、それと戦うとか追い出すとか言うことに深入りしない。そして、聖書が関心を払っていない事柄に、強い関心を持つことを、危険と考えるのである。



 さらに、先祖の悪行が、いま生きている人に影響を与えているという考え方は、自然現象あるいは社会現象として、家庭環境だとか、文化、あるいは肉体的欠陥、精神的欠陥にまで、ある程度当てはめることが出来る。それはモーセの律法も教えている。しかし、家系に憑く霊の存在を認めるには、聖書の言及が決定的に不足している上、先祖が犯した犯罪が、現在の人間に霊的な関係において影響を及ぼすという主張を正当化するには、聖書以外の、さまざまな宗教や俗信に根拠を求めなければならない。ましてや、そのような理解に立って、その悪霊を追い出そうとするのは大きな誤りである。それを教会の実践として取り入れ、成功する伝道の秘訣として実践するのは、もっと大きな誤りである。たとえ、そのようにしたことによって、教会が成長し、伝道が拡大したからと言って、それを公共性のある事柄として宣伝するのは、もっと間違っている。



 地域霊を追い出したから、伝道が進展した、教会が強くなったというような、実例を否定しているのではない。あれをやったからよくなった、これをしたからうまくいったという話はたくさんある。問題は聖書がそれをしたらうまくいくと語っているか、あれをしたら強くなると教えているかである。また、聖書の中にそのように判断できるだけの充分な例、プロトタイプが示されているかである。そして、それが時代と場所を越えた普遍的なものであると、聖書を持って証明できるかである。



 ただし、いわゆる地域霊と戦ったり、先祖との霊的かかわりによって引き継がれた、呪いを断ち切ったりすることを、ことごとく非聖書的なものとして排斥すべきではない。悪霊にもさまざまなものがあり、さまざまな働きをしている。筆者も沖縄や東南アジアの文化の中で、いわゆる悪霊との戦いは幾度も経験してきた。そして、経験上、いろいろなことを知っているつもりである。その上で、鋭い霊的感覚と経験を積んだ働き人が、地域霊がいると判断し、家系に取り憑いている霊がいると判断したならば、信仰によってそれらを追い出すのがいいと考えている。沖縄でもそうであったが、東南アジアの占い師やまじない師の多くは、家系で継承されているのである。ただし、それらのことについて聖書は多くを語っていないために、私たちの知識は、人間の経験上の知識と、想像の域を出ない。そうであるかも知れないし、そうでないかもしれない世界である。だから、それを信仰と実践の中核に据えてはならないのである。



 X.2 使徒職の回復



 先に、使徒職の回復ということに触れたが、今これを盛んに宣伝しているこの学者は、もともと宣教師として働いていた統計学者であり、教会成長学を広めた人物である。さまざま調査から、社会学的に教会や宣教について分析し、何が成長をもたらす要因かを調べて、その結果を次々と発表し、多くの人々に推薦してきた。ペンテコステ信仰に対する彼の好意は、1960年代から70年代にかけての、南アメリカ諸国におけるペンテコステ運動の、目を見張るような進展によってもたらされたもので、もっぱら教会成長学的な見地からでてきたものである。ペンテコステ信仰が聖書に根ざした正しい信仰だったから、好意を抱いたというわけではない。彼が語り続けてきたことは、聖書がどう言っているかということではなく、「彼らはこうして成功した。だから、あなたも同じようにすれば成功するに違いない」という、アメリカ的プラグマティズムに過ぎず、マーケッティングの手法と変わりない。つまり結果よければそれでよし、教会が大きくなり働きが拡大すればそれでよしであり、徹底した体験主義なのである。



 そして悪いことに、その聖書に基づかない体験主義を、彼は聖書を用いて擁護するのである。たとえば、彼らは教会の出席者数を非常に大切にするが、使徒の働きの記述の中でも幾度も人数が数えられていると弁明する。しかし、使徒の働きが発展の歴史を語る中で人数を記録するのと、教会成長運動の中で人数を数えることは、似て非なるものである。すでにさまざまな人々に指摘されていることであるが、聖書は、教会が大きくなることや宣教の効果的な拡大が、即、その働きや手段の正当性を証明するものであるとは教えていない。



 実は使徒職の回復などという事柄は、ずいぶん昔からいろいろな人たちが主張していたことで、新しい発見ではない。なかでも、半世紀以上も前に興ったレストレーション運動は、これを強く主張していた。これがまたこのように蒸し返されるのには、いまさらという感が否めない。この主張が、長い間、多くの人々に受け入れられてこなかったのは、聖書にはそのようなことが教えられていないと判断されたからである。



 「キリストご自身が、ある人々を使徒・・・・・・としてお立てになった」というエペソ書の言及を、現在の教会の中にも適用されなければならない、普遍的原則であると解釈するのは、解釈の方法として、まったくの誤りである。まず、このような表現は、聖書の中ではIコリ12:28にもう一度出てくるだけである。教会の組織や職のありかたの原則とするためには、もっと多くの、しかも明確な言及が聖書に見出されなければならない。次に、それらの箇所でパウロは、当時の成長過程にあった教会の働きや役割について述べ、それが神によって立てられている、あるいは承認されているという事実を語っているのであって、その役割や働きが、普遍的な、つまり、時代と場所を越えて、どこででも適用されなければならない原則であると、言おうとしているのではない。パウロが手紙を宛てた当時の教会は、グレコローマンという文化の中で、植民地政策の下に、勢い良く成長し続ける若い異邦人教会であり、非常に流動性の激しい状態にあった。そのような特異な実情にある教会の役割とそれに伴う組織というものを、彼が、普遍的なものとして語るはずがない。



 また、パウロが列挙したのは働きであって、役職ではない。非常に流動的だった当時の教会は、後の落ち着いた教会が取り入れた役職というようなものを、規定する状況にはなかった。だからこそ、エペソ4:11とIコリント12:28に列挙された働きは、一致しないのである。もし、いま、これらのパウロの記述から、使徒職を回復しなければならないというならば、使徒職だけではなく、列挙されているすべての働きを職として回復しなければならないし、当時の教会の組織形態も探り出して、回復しなければならないし、何よりも同じパウロが書いた二つのリストは、一致していなければならない。



 その上、新約聖書で語られている使徒の働きというものを、現在再現すること自体が不可能である。新約聖書は使徒の役割とはこういうものであるという、細かな説明をしてはいないからである。その権威と責任、資質と資格などについても、ほとんど明らかにされていない。主を見たことがあるという資格は、第二世紀には無意味になったであろう。だからこんにち、使徒職を回復したといっても、それがどのような働きと権威と責任を持った働きなのか、不明であり、やたらに権威づくのが落ちである。さらに、ヤコブという12弟子の中でも中核にいたと思われる弟子が、極めて早期に殉教したにもかかわらず、その後継者は選ばれていない。だからむしろ、初代の教会はその発展途上のきわめて早い時期に、使徒というものの存続を重視しなくなっていたと考えるべきであり、今の時代に使徒職の回復を主張することは、たとえ、それが教会の成長や宣教にどのような影響を及ぼしたとしても、聖書的な権威を欠くのである。



 私たちは、新約聖書が語る教会の本質と働き、そして使命は、普遍的なものであると理解して、いつどこにおいても堅持しなければならないと考える。しかし、教会の形状、つまり、組織だとか政治だとか、役割だとか言うものは、常に周囲の状況に応じて、変化し続けなければならないものだと判断する。新約聖書に記録されている当時の教会の姿は、ある特定の場所と時間に制約されたひとつのあり方であり、たぶん、かなり美しい姿ではあると考えるが、それが時代と場所を越えて継承されていくべきもの、プロトタイプであるとは考えていない。



 X.3 倒れること



 集会などで人々が倒れることは、良く見られる現象である。聖書の記述でも、聖霊のバプテスマを受けた人々が酔っ払いと間違われたところから想像すると、かなり騒々しく、あるいは倒れた者たちがいたのかも知れない。聖霊のバプテスマを受けたとき、多くの人が倒れたり転がったりするのは、ペンテコス運動の初期から、かなり一般的な出来事である。しかし、聖書は倒れるようにとも、転がるようにとも教えていない。倒れないように転がらないようにとも、教えていない。すでに述べたことであるが、大声を上げよとも、小声で祈れとも教えていない。手を挙げよとも下げよとも教えていない。だからそれを禁じることも薦めることもしない。倒れる人が続出する集会であってもいい。誰も倒れない集会であってもいい。主があがめられ、主の栄光が現される集会であれば、それでいい。聖書はただ、集会の秩序を乱す行為を禁じている。だから指導者が、秩序が乱されると判断した行為は、止められることになる。



 イエス様が、「私はあってあるものである」という、モーセに語られた神様のお言葉と同じお言葉をおっしゃったとき、そこにいた兵士が倒れたという記事もある。(ヨハネ16:5−6)注解者たちによると、それは神様のみ名の聖さと気高さに打たれたのだそうだ。そういうこともあるだろう。しかし、私たちの集会で人々が倒れる現象が、それと同じだという保証はどこにもない。筆者が責任を持っていた集会でも、超教派で行うと人々は勝手によく倒れた。あるものははじめから倒れることを期待し、倒れようと心がけているとさえ見えた。倒れなければいけないような雰囲気になっている。そこで私は、私の語る福音をしっかり聞いてもらうために、倒れるのを禁止したことさえある。



 祈りなどで、宗教的興奮が高まり、倒れることを否定するものではないし、神様の聖さに打たれて倒れる可能性も認める。しかし問題は、倒そうと努力する伝道者、倒れなければ、無理にでも倒す伝道者、そして倒れたがっている信徒たちである。そのようなことは聖書の中に教えられても薦められてもいない。だから、倒れることが霊的だということにも、倒すことが霊的力を持っているということにもならない。このようなことを人集めの宣伝に使うのは間違っている。何の聖書的基盤もないからである。


                                      つづく











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