2010年11月06日

ちょっと怪しげなペンテコステ信仰 (3)



 X.4 繁栄の福音



 繁栄の福音は、バランスを欠いた聖書理解に問題がある、聖書は、物質的繁栄が神の祝福であるとも教えているし、清貧の尊さも教えている。アンバランスに、どちらか一方を強調し過ぎてはいけないのである。ただし、物質的繁栄は神の祝福であると単純に考えるのは、むしろ、旧約時代の一般的信仰理解で、いわば低レベルの信仰である。たとえ旧約聖書でも、ヨブ記をはじめとして、繁栄の福音の信仰理解を超える記述はたくさんある。また、新約聖書での信仰理解はさらに深く、清貧の尊さをいたるところで教えている。確かに物質的繁栄は神の祝福の一面であると認めても、それを追求することは、新約聖書の言う貪欲という偶像礼拝の罪である。(コロサイ3:5)ましてやその追求のために、多くの人々が苦境に陥れられることが明白な、このグローバル化した資本主義の世界では、間違いなく罪である。利潤追求の豚となっていることに気づかない、アメリカのペンテコステ信仰者の多くはこの偶像礼拝の罪の中にいる。いや、アメリカのキリスト教の多くが、いま、この偶像礼拝に捕らわれているとさえ言える。



 幸いこの繁栄の福音は、日本ではあまり繁栄しなかったが、小さな被害はないではない。ある教会の役員の言葉には笑ってしまった。いわく、「泣く子と牧師には勝てませんよ。牧師は、神様を信じたらすべての面で繁栄するというお手本を、自分から見せなければならないというんで、最高級の車を買うから献金しろって聞かないんですよ。いやァ。私たちは忠実な信徒ですから・・・。」私はその牧師の車に乗せてもらったが、「信じて泣く牧師は得をする」である。



 X.5 レーマの神学



 レーマの神学も、聖書の偏った強調から生まれている。概念としての言葉であるロゴスと、口から発せられる言葉としてのレーマの間に線を設けて、そこから独特の神学を組み立てているのであるが、もともとロゴスとレーマの間に、それほど明確な線を引くことは出来ないし、聖書のこれらの言葉の用法においても、厳密な区別をすることは出来ないのであるから、この神学には無理がある。無理がある神学、つまり、聖書の裏づけがない、あるいは乏しい神学に根ざした運動を、私たちは受け入れることが出来ない。たとえその神学を広めている人々が、どれほど有名で、どんなに大きな働きをしていても、またどのように立派であっても、この神学は怪しいのである。また、レーマの神学をやっている人の多くが、繁栄の神学や積極的思考も同時にやっているようだが、どこでどうつながっているのか不明である。ただ、偏った聖書解釈によるというところは共通している。



 X.6 預言の練習・預言者の学校



 預言の練習だとか、預言者の学校というものも、個人的な霊的体験や、心霊的体験、あるいは心理的体験を重んじて、その先例、あるいはプロトタイプを聖書の中に見つけたというものであって、聖霊のバプテスマの場合と良く似ている。ただし、聖霊のバプテスマのプロトタイプは、正統な聖書解釈から聖書の中に発見できるが、預言や預言者の学校の場合は、かなり、無理な解釈をしなければならない。そこがまったく異なっている。そしてそれらを実践するには、さらに無理じいが伴う。その上、語られた預言の言葉の権威と、聖書の権威とのかかわりを、明確に説明しなければならないという困難が伴う。預言運動で語られた預言を記録して、それを本にまとめている人々もいる。そして、その預言にしたがって行動するように勧めている。これは、聖書以外の権威を持ち込むことで、たとえどうあっても、極めて異端に近い。改革派の人々が、ウエストミンスター信仰告白の権威に拘束されている以上に、あるいは、セブンスデー・アドベンティストの方々が、イー・ジー・ホワイトの著書に権威を認めている以上に、危険である。



 聖書が完結したいま、預言の必要性は低くなっている。神が人間に必要とお認めになった啓示は、すべて聖書の中にある。いま最も必要なのは預言ではなく、この聖書の啓示を正しく理解するための、聖霊のお導き、照明である。もちろんこれで、すべての預言が不要になったのではない。個人的な、あるいは特殊な厳しい条件下における導きなど、まじめに預言を願う場合もある。そしてそのような条件の下で与えられて、極めて重要な役割を果たした預言も知っている。しかし、残念ながら、多くの預言は、どうでもいい預言である。放っておいてほしい預言である。聖書をまじめに読んでおれば、まったく無用の預言である。



 預言の練習などというアイデアがどこから出てきたのか分からない。しかし、これが預言であるかどうかと、語る本人が聞くものに吟味してくださいと願い出るような預言は、厳に謹んで語らないでほしい。神のみ名をみだりに唱えてはならないのである。あるいは、英語の旧約聖書に出てくる預言者の「School」という言葉を、学校と考えたのだろうか。これは、「school」という言葉の解釈を間違ったところから来たのだろう。Schoolには、学校という意味もあるが、群れという意味もあり、旧約聖書でいう預言者の「school」は、共同生活に近い生活をしていた、預言者たちの一団のことを言ったのであろう。預言者としての資質を整えるためにそのような群れがあったのかもしれない。しかしそれが、互いに向かい合って預言の練習をするなどということの、根拠にはなりえない。



Y. グレーゾーンに迷い込まない 



 問題は、聖書が明確に語っていないこのような事柄、いわば、グレーゾーンの事柄を、信仰の重要部分としたり、教会形成の土台としたり、宣教の主題としたりすることである。このような、聖書が明確に語っていない部分を取り上げて、自分たちの考え方や理解や経験や想像を、その中に独断的に読み込み、それをあたかも新しい啓示、あるいは新しい真理の発見でもあるかのように言いふらし、信仰や、教会形成、あるいは宣教のかなり重要な部分として取り入れ、さらに宣伝し続けていることである。聖書には、明確に語られていない「グレーゾーン」の事柄がたくさんある。ペンテコステ信仰が怪しげになるのは、この部分の誤った用い方による。



 グレーゾーンにはかなり白に近いグレーもあるし、黒に近いグレーもある。そのようなグレーに自由な解釈をほどこして用いていくことに慣らされると、まったくの黒も、黒と気づかないままに、自分の信仰の中に取り入れてしまう危険性がある。たとえば、「さまよっている死人の霊が悪霊である」などという考え方は、たぶん、韓国系の人たちが持ち込んだものと思うが、まったくの黒であり、聖書を信じるクリスチャン信仰には、馴染まないものである。しかし、グレーゾーンの事柄になれてしまうと、こんなことまで、取り入れてしまう危険性がある。聖書の中にも霊媒があり、口寄せがあり、死者との話し合いがあり、弟子たちまで幽霊の存在を信じていたし、イエス様もその存在を否定していない。そんなことを、自分の仏教的あるいは土着宗教的文化背景をもって、自由に拡大解釈していくと、どこまでも際限なく、混合宗教化していくのである。(それにしても、悪霊を追い出し興奮していた弟子たちが、幽霊を怖がったのは面白い。)まだ神学的に幼稚な弟子たちの、俗信の中の幽霊というものが、現在の日本の幽霊の概念と同じだという保証はない。またこれらをもって、幽霊の実在を聖書的に証明することもできない。ここから幽霊は怖いという神学も、構築することは出来ない。



 それに近いくらい限りなく黒っぽいのが、死者のための洗礼である。これを自分たちの教理と儀式に加えている、ペンテコステ系の教会もあると聞く。死者のための洗礼については、確かに一度だけであるが、聖書に書かれている。それを記したパウロはそれが良いとも悪いとも言っていない。彼の議論の筋道から外れるからである。しかし、聖書全体の教えからすると、これが正しい習慣とはいえないのは明らかである。聖書に一度しか言及されていない事柄、しかもたまたま例として取り上げた事柄を、重要な教理や教えとしてはならないのが、常識である。イエス様がノアの洪水で死んだものたちの霊のところに行かれて、み言葉を宣べられたというペテロの記述から、(Tペテロ3:19−20)死者の救いの可能性を説くのも、根拠が弱すぎる。ペテロはそこで救いの可能性を示唆していないし、このような記述は聖書の中で一回きりなのである。それに比べ、死後の救いを否定する明確な聖書の記述が、いくつもあるからである。



 ペンテコステ教会がそのような誤りに陥るのは、今に始まったことではない。たとえば先にも記した、宣教の賜物としての異言という理解も、使徒の働きの中に、一度だけしか記録されていない出来事を取り上げ、ずいぶん無理な読み方をしてそこから導き出したものである。また、現在でも私たちの仲間が聖書的と信じている「預言としての異言」も、はなはだ怪しい聖書解釈に立つ。異言を解くという事柄についての言及は、一度だけではないとしても、それが預言としての異言であるという説明は一度もないし、そのように解釈するには、資料が少なすぎるだけではなく、そうではないと解釈すべきかなり明確な言及がある。パウロはその一連の教えの中で、はっきりと、「異言は神に対して語るのである」と言っているのだから、(Tコリ14:1)神から人間への語りかけである預言ではありえない。



 しかし、私たちの間では、「異言という形で与えられる預言」という理解が一般化されているために、いまそれを変えるのは容易ではない。そして今でも、そのような「預言」が、集会の中で実行されているのである。そういう曖昧な聖書解釈を背景に持つ、私たちの信仰と実践が、さまざまな曖昧さを許す環境を作り出しているのである。



 ペンテコステ神学の中心である、聖霊のバプテスマが、普遍的なものであり、すべての信徒に祈り求められるべきものであるという理解は、まじめな聖書解釈から、充分に立証できるものである。その点で、私たちは福音派の非ペンテコステ的神学者の言うことを恐れる必要は、まったくない。しばらく前までは、福音派の人々に、聖書の解釈などという難しい学問を持ち出されると、無学なただの人間にすぎない私たちは、それだけで恐れ入って返す言葉もなかったものだが、今はそうではない。それが良いことか悪いことかの判断は神にお任せするが、私たちの間にも、神学を学問的に論じることが出来るものが現れてきた。



 聖霊のバプテスマが、宣教の力に関わるものであることは、聖書によって明確である。また、異言が聖霊のバプテスマの印となりうるものであることも、聖書によって疑いのない事実であると証明されている。そればかりか筆者は、むしろ、異言は聖霊のバプテスマの印として与えられるのではなく、聖霊のバプテスマの必須要因であるために、印としても機能していると、聖書によって判断している。そして、その異言はすべてのクリスチャンが語るべきものである。まじめな聖書の学びからは、異言の伴わない聖霊のバプテスマなどはありえない。そのような聖霊のバプテスマの可能性を認めることは、グレーゾーンを許す曖昧さと同じである。



 実際には、パウロの時代にも異言を語らないクリスチャンがたくさんいた。しかしパウロは、彼ら全員が異言を語ることを望むとはっきり言っているように、異言はすべてのクリスチャンに与えられる賜物である。しかしその賜物をまだ受けていないもの、受け損ねているものもいた。救いがすべての人間を対象に提供された賜物であるにもかかわらず、まだまだ救いを受けていない者がたくさんいるのと同じである。



 私たちは、ペンテコステ神学の基盤が、崩れそうな砂の上に立つ、脆弱なものであるかのような錯覚を捨てるべきである。そのような錯覚は、本当に脆弱な基盤に立つ、怪しげな信仰とその実践を許してしまうからである。ペンテコステ信仰は、曖昧な聖書解釈に立つ信仰ではないと、しっかり自覚しよう。そして、自分たちの信仰と実践から、曖昧な聖書解釈に立つものを排除する気迫を持たなければならない。



Z.結び



 聖書には、私たちが知りたいすべてのことが書かれているのではない。神が私たちに必要であると認めた、すべてのことが記されているのである。だから、ただ知りたいからということだけで、無理な解釈を聖書の中に持ち込んではならない。聖書が曖昧に残している部分は、曖昧でいい。それが私たちにとって大切な問題ではないと、神が判断されたゆえに、曖昧にされたままなのである。



 イエス様も、パウロも、ペテロも、そのほかどのような使徒も信徒も、伝道や教会の発展のために地域霊の追い出しをしたという記録は、聖書には残されていない。先祖や家系に憑く霊の力を断ち切る話も、聖書にはない。倒れることが祝福の印だという話も、倒す伝道者が神の力を持っているという教えもない。笑うものが祝福されているという教えもないし、笑ってはならないという禁止もない。教会は使徒職を保ち続けなければならないという教えも命令もない。神様の祝福を受ければ、必ず物質的繁栄を楽しめるという教えも、聖書にはない。レーマの言葉を用いれば、願い通りに行くという教えも、聖書にはない。そのような、「ない」ところから信仰の重要要素を引き出し、それを宣教と牧会の重要実践課題とするは、私たちのやるべきことではない。私たちはグレーゾーンの信仰を止めて、明確な聖書の教えに立つ信仰に、固執すべきである。



 ペンテコステ運動が、これからも正しく発展し続けていくことは、私たちの切望である。そしてそれは、単に外的な体験だけに頼る信仰ではなく、聖書に立脚した正統な信仰であり続けてほしい。しかし、もしも私たちがグレーゾーンに迷い込み、ペンテコステ運動の怪しげな信仰を許し続けるならば、それは限りなく混合宗教化し、アニミズムの混迷の中に溶け込んでしまうであろう。宗教と宗教が出会うところに、ある程度の混合化は避けられない。ペンテコステ信仰はいま、宣教の最先端を担うものとして常に土着の宗教との接触をし続けなければならない。その中で、戦うべき部分と、融和していく部分の選択は容易ではない。私たちは坊主憎けりゃ袈裟までもという態度は、改めなければならない。しかし、聖書が明確に語っていない事柄を自由に解釈し、自分たちの考えや経験をそこに読み込んでいくと、必ず混合宗教の泥沼にはまってしまうのである。



 しかしまた、私たちは注意しなければならない。グレーゾーンに迷い込んでいる人々を直ちに排斥してはならず、排除してもいけない。私たちアッセンブリーの交わりのすばらしいところは、寛容性である。私たちの交わりは、巨大な渦巻きのように強力な求心力を持ってきた。多くの周辺的な、怪しげな信仰と実践を内に抱えながら、彼らを外に追い出すのではなく、内へ内へと引き寄せ、中の聖書的真理に向けて流れるようにしてきたのである。中にはあまりにも周辺に行き過ぎて、求心力を離れ、遠心力に乗って飛び出していった者たちもいる。しかし私たちの交わりは、みな、多かれ少なかれ誤りを持ちながら、全体として中心へと流れる、すなわち聖書の教える大きな真理にとどまる運動として、ここまで発展してきたのである。一面においてはグレーゾーンにいながらも、他の面においてはまさにペンテコステ信仰の中心で、求心力となっている人々もいることを、心にとめなければならない。



 現在、ペンテコステ信仰の正当性は多くの伝統的教会によっても、積極的に認められるようになってきた。しかしペンテコステ信仰のグレーゾーンの部分に着目し、これに焦点を合わせ、厳しく追及してくる人々も後を絶たない。彼らの追及のかなりの部分が真実である。そのために、渦潮の中心が見落とされ、ペンテコステ運動全体の信用性、信頼性に、疑問符がつけられている。ひとりの立派な人間の、すべてが立派なのではなく、醜い部分もある。一人のペンテコステ信仰の持ち主の信仰理解や生活には、賞賛すべき点も非難されるべき点もある。そのような人間が集まって運動となっている。もともとペンテコステ運動は、神が無学の素人たちを用いて起こされた運動である。だから、その始まりから、多くの間違いを内包してきた。それを隠す必要も、擁護する必要もない。しかし無学な素人集団として、正直に、聖書と向き合う人々の運動でもあった。



 ペンテコステ信仰は、大局的に見るならば、まさに、単純に聖書の教えに留まろうという信仰である。それが、多くの間違いの中で、ペンテコステ運動が正真の聖書信仰の運動として保たれてきた理由である。そこが大切なのである、ペンテコステ信仰は、聖書の権威が失われた時代、その権威を信じた信仰であり、神の臨在が忘れられた時代に、聖霊のバプテスマという体験を通して、神の臨在を強烈に感じた信仰である。教会に与えられた神の権威と力がないがしろにされ、教会に命じられた宣教の責務が、置き去りにされようとしていた時代に、聖霊のバプテスマという体験をとおして、神の権威と力を再確認し、それを持って世界宣教に打って出た信仰である。このような信仰の高揚こそが、大きな求心力として働き続けた渦潮である。私たちには、信仰のグレーゾーンに迷い込んでいる余裕はない。かえってこの求心力の渦潮をしっかりと保ち、グレーゾーンにいる方たちが、聖書の信仰の中心に向けて流れていくように、仕向けなければならない。この21世紀も、ペンテコステ運動が健全な運動として継続していくためには、これは絶対に必要な条件である。

                                おわり









posted by ms at 00:00| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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