2010年11月08日

だいぶ怪しげなペンテコステ信仰 (2)



TE 健全な聖書理解に立っていることを認識する大切さ



 大切なのは、このペンテコステ信仰の真髄が、健全な聖書理解に立脚しているという点である。それは誰かが意識して、進んだ聖書学や神学の知識を駆使しながらやったことではない。素人的な単純な聖書の理解が、たまたまそこに導いただけかもしれない。しかし、健全な聖書理解に基づいているという重要な事実だけは、しっかりと捉えておかなければならない。なぜならそれは、自分のペンテコステ信仰の中に付随する、不透明なもの、不可解なもの、怪しげなもの、すなわちグレーゾーンの信仰、聖書外体験信仰を明確に判別し、取り除くことが出来るようになるための、重要な一歩だからである。



 私たちアッセンブリーズ・オブ・ゴッドにとって幸いだったのは、交わりの創立当時、ケズィックの流れを汲むものや、バプテスト系の人々が大勢参入してきたことである。彼らとて、決して高度な学問を積んだ人々ではなかったが、ホーリネスの体験主義と、その帰結である第二の恵みの神学を持っていなかったことが、大きく貢献した。このことによって私たちは、ホーリネス系のペンテコステ信仰から離れ、バプテスト系のペンテコステ信仰を持つものとなり、極端な体験主義が和らげられることになったのである。



 一方、ペンテコステの信仰が広がりを見せたとき、ホーリネス信仰を持つ多くの人々がこれを受け入れなかった。クリスチャン・ミッショナリー・アライアンスは、「求めもせず、禁止もせず」という、柔らかな拒絶をした。ペンテコスタル・ナザレンは、ペンテコステ信仰の団体と誤解されるのを嫌い、ペンテコスタルを削除して、ナザレンと改名した。彼らがペンテコステ信仰を拒んだ理由は、正当な聖書の学びによって、聖霊のバプテスマの教理が間違いであると判断したからではなく、ペンテコステ信仰を持った人々の、無秩序な、乱痴気騒ぎに見られる極端な体験主義、道徳的低さという、表面的現象を嫌って、すなわち、あくまでも体験主義的感覚から、そうしたのであると考えられる。



 信仰が初歩の段階にある人々が、体験主義的感覚で信仰を判断することは止むを得ない。キリストが、癒しや奇跡という体験感覚で判断できる事柄をもって、ご自分の働きの神的権威を、認めるようにおっしゃっているとおりである。しかし、いつまでもそのような段階に留まっていてはならないのである。特に信仰の指導者たるものは、しっかりと聖書の教えに立たなければならない。



 私たちアッセンブリーズ・オブ・ゴッドは、いまや単なる体験信仰に依存する必要はない。むしろ、しっかりとした聖書理解に基づく信仰が、私たちの信仰である。そしてその聖書の教えを、私たちはいま、現在も生きて働いておられる聖霊によって体験しているのである。私たちは聖書外体験、グレーゾーンの体験を、ことごとく否定する必要はない。個人のまじめな体験として、それらはあり得るだろう。しかし私たちはそのような体験を、すべてのクリスチャンが体験できるもの、あるいはすべきものとして公に教え、それに立って神学を構築し、教会を建て、伝道を進めることを拒絶するのである。



U 現在も継続している怪しげな信仰



 ペンテコステ信仰は、現在に至るまでグレーゾーンの信仰を許容し、肯定し、実践しながら発展してきた。そこでは、聖書外体験の信仰と実践が、正しい聖書理解に立脚した信仰と実践に混在したまま、増幅してきたのである。それが、モラルの低さにつながり、目も当てられない状況を作り出してきた。私たちが、ペンテコステ信仰の先駆者として教えられてきた人々の多くが、さまざまな道徳的問題、教理的な問題、伝道の手法の問題を抱えた人々であり、清純なキリスト教信仰を愛する、私たち日本の儒教的キリスト教徒からすると、まさに情けない限りである。



 ペンテコステ信仰の、スタート時点での怪しげな信仰形態は、いまも、ペンテコステ信仰の中に脈々と流れていると言える。それは実に多くの人々の批判と非難を受けてきた。しかし残念なことに、すでに述べたように、体験主義者たちの多くは、自らの体験をほとんど絶対化し、外部の者たちの言うことに耳を貸さないで来た。体験主義者たちの側からすると、外部のものは自分たちの体験を共有しない人間、すなわち良くても霊的レベルの低い人間たちであり、自分たちを迫害するものたちであり、悪く言うとまさに悪魔的でしかなかった。反対したり非難したりするものたちの側からしても、ペンテコステの連中は、まじめな聖書的忠告に聞く耳を持たない、悪魔に操られた人々であった。ペンテコステ信仰の発祥の時代とまったく変わらない、実りのない中傷合戦が長い間続けられてきたのである。



 そういうわけで、ここで、ペンテコステ信仰の初期の段階から存在したグレー信仰、すなわち聖書外体験信仰の代表的なものをいくつか取り上げ、少し説明を加えておくことにしよう。そうすることによって、今、私たちの周辺に聖書外体験に基づく信仰や実践が、数多くあることに気づくだけではなく、私たち自身の信仰や実践の中からもそれらを識別し、排除することも出来るだろう。それがペンテコステ信仰を浄化し、シンクレティズムに陥るのを回避させ、正しく継承されていくことにつながるに違いない。



 ペンテコステ信仰が、今のまま強い体験主義的傾向を持ち続け、聖書外体験を見分けることが出来ずに、そのまま容認し、自分たちの信仰と実践として行くならば、ペンテコステ信仰者のかなりの部分が、シンクレティズムの中に埋没し、消滅していくことになるのが、目に見えているからである。実際、ペンテコステ信仰と土着の信仰との癒着は、すでに多くの場所で報告されている。



 UA 後の雨



 現在、私たちの周囲でもっとも強い影響力を持ち、さまざまな形で奉じられ、実践されている聖書外体験に基づく信仰は、後の雨(レストレーション)の教えである。後の雨がひとつの運動として形をとって現れたのは、1948年のことであるが、その源は遠く、デスペンセーショナルな考え方の中にあると思われる。デスペンセーションの超字義的解釈は根本主義として、一方では、南バプテストなど福音的な教会に強い影響を与えると共に、他方では、モルモン教の考え方やエホバの証人の教義にも、強い影響を及ぼした。それはまた、ホーリネス運動の再臨待望の信仰にも現れている。したがって、1914年に設立されたアッセンブリーズ・オブ・ゴッドの信仰の中にも、それはごく自然に流れ込んでいる。(ただしアッセンブリーズ・オブ・ゴッドは、非常に緩やかなデスペンセーショナリストである。)



 1910年、ダビデ・ウエスレーという人物が、「後の雨の契約」という本を出版した。そこで強調されたことは、デスペンセーションの流れに乗りながら、デスペンセーションの基本に反したもので、聖書の字義通りの解釈に対する、タイポロジー的解釈や霊的解釈の優位性であり、当時、かなり一般的に流行っていたものである。このような考え方によって、厳格な字義通りのデスペンセーションの歴史理解の上に、極めて自由な聖書解釈を積み重ねることが可能になり、体験主義的信仰の勢いを増すことになったのである。



 設立当時のアッセンブリーズ・オブ・ゴッドの指導者たちは、このような聖書解釈法を退けたが、一般大衆の中から、その間違いを完全に取り除くことは出来ず、広がりを阻止することもできなかった。本当のところ、聖書学校の初等教育さえ、充分に受けていない伝道者たちが多かった時代、まじめな注意深い読書方法を基本として、聖書言語や時代背景の知識さえ要求される、難しい字義通りの解釈より、タイポロジーや霊的解釈の方がずっと易しく、受け入れられやすかった。また、当時のクリスチャンたちの間で流行となっていた、「新しい真理の発見」も、厳格な聖書の学びによるより、思いつきやひらめきによって、行われるほうがずっと容易だったのである。



 1948年に至って、カナダで聖書学校の校長をしていたジョージ・ハウティンという人物が、所属していたカナダ・ペンテコスタル・アッセンブリーを離脱して、世界中から人々を集める大きなキャンプ集会を開き、後の雨運動を開始した。直接的には、このキャンプ内で彼の兄弟アーネストが按手に関する預言をし、使徒職や預言者職の回復を告げたところから始まった。この運動は40年も前に出版された「後の雨の契約」の、誤った聖書解釈法を大幅に取り入れたもので、特徴を挙げると次のようになる。



@ エペソ書4章に記されている5職の回復。特に使徒職と預言者職の回復に重点が置かれた。彼らはこれらの職を通して、聖霊が今日語ろうとしておられることを示すと主張し、彼らによって主張されたこと、あるいは預言されたことは聖書と同等の権威を持つものと考えられた。

A キリストのみ体である教会の完全な一致。これは、単にすべての教会が理解しあって一致するというものではなく、回復された使徒と預言者による、新たな教会の秩序によってもたらされる一致であり、既成の教会や教団の崩壊を意味していた。

B 個人預言の回復。使徒や預言者によってもたらされる個人に対する預言は、実際上聖書以上の権威を持ち、個人の信仰の規約・規範となり、道しるべとなる。

C 按手の回復。使徒および預言者の職を始め、さまざまな役職や霊的賜物が按手によって回復され、分与される。



 このような後の雨の誤った教えを憂慮したアメリカ・アッセンブリーズ・オブ・ゴッドは、当時の総書記ロズウエル・フラワーに詳細な調査を委託し、その調査の結果をもとに、1949年の総会で、この運動の教えを誤りであると断定し、支持しないことを正式に決定した。その決定では次の諸点が、聖書的根拠を持たないものとして退けられている。



@ 按手と預言によって聖霊の賜物を分与したり、賜物が何であるかを明確に語ったり、賜物を授けたり、賜物が間違いなく与えられていると確認したりすることが強調されすぎている点。

A 教会が、現在の使徒と預言者という土台の上に築かれていると教えられている点。

B 罪の告白は人間に向かって行われるべきであり、それによって赦しと開放が確実にされると教えられている点。

C 異言の賜物は、宣教の働きのために実在する言語を語ることができるようになる、特別な能力の付与であると教えられている点。

D 個人預言を用いて神の導きといわれるものを強要する点。

E 聖書を曲解させる神学的解釈法が実践されている点。



 この後の雨運動自体は、アッセンブリーズ・オブ・ゴッドによって正式に否定されたこともあってか、その後急速に衰えたが、その教えはアッセンブリーズ・オブ・ゴッドの中にさえ密かに浸透して行った。また、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド以外のさまざまなペンテコステ信仰者の中では、かなりあからさまに実践されて来た。



 もともとアッセンブリーズ・オブ・ゴッドはペンテコステ体験という共同体験を基にした、緩やかな信仰の交わりであり、信仰告白を採択したとは言え、それは信仰告白に反する教えやその実行者たちを厳しく探し出し、追放するような意図ではなく、かえって不確かな信仰を抱いているものに指針を与えようとするものであった。だから、アッセンブリーズ・オブ・ゴッドの交わりの中には、誤った理解や信仰を持つもの、あるいはかなり極端な主張をするものもでさえ、留まっていることが出来たのである。



 またそのようなアッセンブリーズ・オブ・ゴッドは、一般的に、自分たちの交わりの外にいるものにも、極めて寛容であった。つまり、多くの福音派や根本信仰を持つ教会が見せた、拒絶と排斥の態度ではなく、交わりの態度を示してきたのである。またさまざまな間違いや、道徳的失敗を犯した人々とも、直ちに交わりを切る様なことをせずに、回復の時を待ってきた。非常に原理主義的、根本主義的信仰を持っていながら、WCCの人々と会話をしたり、エキュメニカル運動に加わる人を認めたりしてきた。そのような性格によって想定される、あらゆる危険を意識しながらも、聖書の教えに立つという単純で素直な信仰を基礎として、信仰の純粋性を保持してきたのである。これは私たちの偉大な遺産である。



 しかしいま、そのような性格を持っている私たちであるがゆえに、さらに一段と、注意深くなければならない状況が生まれている。それは、この後の雨運動が、気づかれないまま、私たちの中に深く入り込んでいる可能性があるからである。私たちはその事実を知らないでいてはならない。多くの間違った信仰を持っているものを許容するのと、間違いそのものに気づかないまま許容し、自分たちが受け入れて行くのとは異なっている。私たちは、人間を拒絶し排除することには、慎重の上にも慎重でなければならない。毒麦と共に、本物の麦も抜いてしまってはならないからである。しかし、誤りそのものは、厳密に調べだし、排除していかねばならない。



 そういうわけで、ここで改めて後の雨の教えの間違いを、簡単に述べておこう。それはすでに1949年の時点で、アッセンブリーズ・オブ・ゴッドが正式に発表したものと基本的に同じだが、少しばかり説明が必要である。ただし、ここで著者が聖書の忠実な解釈によって、後の雨の間違いを正したとしても、後の雨の推進者たちには、まったく何の影響も与えないだろう。彼らは、自分たちこそ聖書的だと言い、事実、聖書の引用を数多くおこなう。しかし彼らは、自分たちの特異な主張に関する限り、聖書を自由に、霊的に解釈して行うのであって、聖書の厳密な解釈、あるいは正統な解釈などというものには、興味を示さないのである。したがって、著者は後の雨の提唱者たちのためにこの文章を書いているのではない。私たちの同労者のために、警鐘として書いているのである。



@ エペソ書4章11節に記された5つの職を、現代の教会の中に回復しなければならないという主張には、まったく聖書的根拠がない。このことについては、著者はすでにさまざまなところで述べてきた。当時の教会にはそのような働き(職ではない)があったのは事実であろうが、当時のすべての教会に統一されてあったのではない。Iコリント12章28節の働きのリストが、これと異なっていることからも、明らかである。また当時のすべての教会が、このような働きを持たなければならないと、教えられているのでもない。ましてや、時代と場所を越えて、すべての教会がそのような働きを持たなければならないとも、教えられていない。さらにそのような働きを持つならば、教会は成長するとも、持たなければ成長しないとも教えられていない。


 また、当時の教会が、これらの働きを「職」と考えていた形跡はない。「職」というものはもっと後期になって、教会が組織化され、固定化された中で形成されたものである。


 5職の回復の教えは、なんら聖書的根拠を持つものではなく、ペンテコステ信仰の中に流れていた曖昧な聖書理解の伝統による、ひとりの人物の預言によって主張されたものに過ぎない。その預言自体も、予め、キャンプ集会の主催者たちによって、企画されていたものと考えた方がよい。預言という曖昧な権威に立って、使徒職と預言者職の二つの職の権威を高め、それによって、預言自体の権威を高めるという手法である。これは、右足が下に落ちる前に左足を上げ、その左足が下に落ちる前に右足を上げるという動作を繰り返すと、はしごがなくても屋根に上ることができると言うのと、同じである。


 さらに教会は、この回復された使徒と預言者という土台の上に築かれなければならないというのも、まったく聖書の乱用、悪用である。パウロは使徒と預言者という土台の上に建てられなければならないと、これから建てられる教会、あるいは地域教会の、建設の原則を語っているのではなく、すでに存在している普遍的教会が、使徒や預言者が伝えた、キリストを土台として建てられていると語っているのである。(エペソ2:20)パウロは、2000年近くも後の世界の教会が、回復された使徒と預言者の教えと、その権威の上に立てられるべきであるなどと言ったのでは、絶対にない。そのようなことは、まったく想定されていない。


 その上、パウロがここで言う預言者とは、直接神の霊感を受けて語りだす預言者のことを言っているのではなく、そのような預言者をも含めた、より広い意味で、神の言葉を預かってそれを語るもののこと、すなわち、神の言葉をよく学び、神の言葉の知識を蓄え、それを聖霊の感動によって語る人々のことを言っているのである。聖書に書かれている神の言葉と関わりなく、その神の言葉に反するようなことまで含めて、新しい真理を語りだす、預言者の存在を認めているのではない。
 
  
 このように聖書的根拠がまったく乏しい、預言者と言われる人々の語った言葉が、聖書と同等の権威を持つものとして受け取られるに至っては、プロテスタントの原則的な神学に反するものであり、決して受け入れられも、見逃しにされもしない。私たちは聖書以外の権威を持たないのである。ところが、そのようにして語られた現代の預言が記録され、集められ、編纂され、出版されて、一部の人々には用いられているという話も聞く。それはすでに、カルト化現象である。たとえ正真正銘の現代の預言者なるものが存在し、正真正銘の啓示を受けて、正真正銘の預言をし、それが誤りなく記録されたとしても、それは、霊感を受けた神の言葉である聖書と同じ権威を持つものではない。聖書が権威ある書物であるのは、単に啓示の書物だからではなく、霊感を受けた書物だからである。(拙著「現代預言運動に関する考察VI」参照)

 使徒という役職は継続されなかったということに関しては、以前に述べたので、ここでは取り扱わない、


    
A 教会一致運動というのには賛否両論がある。一致すべきかすべきでないかということ自体に、異論があるのだから、どだい、無理な理想、空論である。すべての教会が、せめてアッセンブリーズ・オブ・ゴッドのように寛容な立場を取れば、少なくても、キリストを救い主と信じるという大きな点においては、一致できるかもしれない。教会一致などという夢想を抱くのは、千年期後再臨説を採って、教会の働きによってこの世界が改革され、平和と繁栄がもたらせられたならば、キリストは王として再臨してくださるという、楽観的な考えを持てた時代の、時代錯誤を背景にした神学があるからである。



 キリスト教が圧倒的な力を持っていた環境の中で、他の世界、すなわちアジア、アフリカ、ラテンアメリカなどのことをほとんど理解していなかった時代の教会人が、自らの力を過信して、明確なキリストのお言葉に反して構築した、千年期後再臨説を、いまさら持ち出すことはよろしくない。もちろん、千年期後再臨説は今でも有力な学説であり、それなりに整った議論もされている。しかしそれは、伝統的諸教会の人々、つまり自分たちの教会の力と権力を信じることが出来た世界で、科学万能主義、人本主義も盛んであり、地球の将来に望みを持てた時代に構築された、楽観的神学をいまだに抱え込んでいる人々の、淡い望みの学説としか言いようが無い。



 キリストが、終わりときに関しておっしゃったお言葉に、耳を傾けるがいい。「そのとき、人々はあなたがたを苦しいめに会わせ、殺します。また、わたしの名のために、あなた方はすべての国の人々に憎まれます。また、そのときは、人々がおおぜいつまずき、たがいに裏切り、憎み合います。また、偽預言者が起こって、多くの人々を惑わします。不法がはびこるので、多くの人たちの愛は冷たくなります」と、まさに悲観的に語っておられる。狭い門から入るわずかなものだけが、最後まで耐え忍んで救われるのである。



 このような、キリストの明白な教えに反した千年期後再臨説が、教会成長の教えと結びついた。教会が強く大きくなり、世俗の力も獲得し、世界を支配するようになることが、キリストが再臨する道を備えるための、絶対必要条件であるという、千年期後再臨説の主張は、クリスチャンの数を増し、教会の力を強くすることが何より大切だと考え、人数の増大を前面に打ち出す教会成長論の方法論と、簡単に癒着するのである。強烈な千年期前再臨説を取る南バプテスト教会出身の人たちは、このあたりで躓くことになるはずだが、どうなのだろう。



 ともあれ、後の雨の教えは、単純な間違いではなく、大きな間違いを集積して構築した、体系である。非常に聖書的、福音的な外観を持ち、福音的な言葉使いをするために、多くの福音的な人々が、よく理解しないまま彼らと共に活動している。しかし実態は、まったく異なったものである。



 先に挙げたアッセンブリーズ・オブ・ゴッドの正式な拒絶のリストには挙げられていないが、彼らの終末観のひとつには、キリストの霊的な再臨というものがあり、それによると、キリストは見える形で再臨するのではなく、いま、選ばれた現代の使徒や預言者という人々の中に、霊的な再臨をしているということである。そしてそのような霊的再臨の使徒や預言者は、按手による権威の分配によって益々数を増やす。そういう再臨のキリストを土台とした、新しい教会の秩序が築かれ(古い秩序は壊され)、この世界に神の国が築かれるという。これはどうやら、(Kingdom now=王国は今、支配は今)と呼ばれる、彼らの神学らしい。このような教えは、もはやカルトである。

 

 注意したいことは、後の雨の主張する教会一致運動が、既存の教会がそれぞれ歩み寄って作り出すエキュメニカルではないという点である。むしろ、そのような既存の教会秩序は崩壊させられ、キリストの霊的再臨である現代の使徒や預言者という、別の土台の上に築かれた教会による、新しい秩序によってもたらされる一致なのである。だから彼らは、既存の教会のさまざまな組織形態を、改革していかなければならない、新しい皮袋が必要だと主張し続けているのである。既存の牧師だとか執事だとかいう役職を取り除き、自分たちが按手によって作り出す、使徒や預言者たちの「再臨のキリストとしての権威」を主張するのに熱心であり、既存の教会の枠を超えた伝道法、たとえばセル・グループなどにも力を入れて、人々をひきつけている。


 
B 個人預言の誤りについてもすでに他の場で述べてきたので、簡単に触れるだけにとどめておこう。まず、一人ひとりの信徒たちが、個人預言に従って行動するようにというのは、聖書の教えではないという点を、再確認しておきたい。新約聖書には、確かに個人預言の例がいくつか記されている。そして、個人預言は消滅したということを、聖書を持って証明することは出来ない。だから、現在でも個人預言はあり得る。しかし、すべての信徒が個人預言を期待して生きるようにという教えも指導も、聖書の中にはない。個人預言に従って生きるようにという教えもない。個人預言によって生きたという神の人の例も、新約聖書にはない。だから、個人預言に従わないことは聖書の教えに反することではなく、神に反逆することでもない。しかし、聖書の教えを学ばず、それをないがしろにし、結果として従わないことは、神に反逆することである。



 新約聖書が完結していなかった、使徒時代、クリスチャンの生き方に対する明確な指導、指針としての新約聖書がなかった時代には、個人預言を含め、預言に対する期待と依存度は、現代に比べはるかに高かった。しかしそのような時代でさえ、一般のクリスチャンが、個人預言を期待しそれによって生きるという信仰形態はなかったし、それが勧められたという形跡もない。これは重要な点である。



 たしかに、使徒時代の教会では、預言が行われていた。しかしそのような預言は記録され、編纂され、広く一般に読まれるようにされたという記述がない。たとえ、仮にそのようなことがされたとしても、それが新約聖書の中に含まれなかったということが重要である。当時、新約聖書のもととなった多くの資料が残されていたが、大部分の預言の言葉は資料として残されず、新約聖書の中に含まれることもなかった。ただキリストに関するわずかな預言が採り入れられただけである。



 ましてや、いまや私たちは完結した新旧約聖書を持ち、神が人間一般に必要であると判断された事柄はすべて、この聖書に記されているのであるから、預言の必要性は非常に小さくなっている。そういうこの時代に、預言が強調されるのは間違っている。その上、現代の預言が記録され、編纂され、出版され、神的権威を持つものとして流布されるなどということは、非常に大きな誤りであり、カルト化しているといわざるをいえない。大切なのは、聖書を書かせてくださった聖霊に、導きを祈りながら聖書を読むことである。 



C 按手による賜物の分与という考え方も、まったく非聖書的というわけではない。確かに、パウロがテモテに語った言葉などから、推測することが出来る。しかし、一度や二度の事例を取り上げてあれこれと推測し、そこから教理や信仰の原則、あるいは教会管理や伝道の原則を作り上げてはならないのである。テモテにそのようなことが実際にあったと仮定し、エリシャがエリヤの力を引き継いだという事例も認めたとしても、それを一般化することは出来ないし、原則化することはなおさら不可能である。



 ましてや、使徒たちの按手によって、さまざまな賜物が分与されるという教えは、聖書のどこにもない。後の雨の人々が教えるような、現代の使徒職や預言者職という権威ある職が、按手によって分け与えられ、引き継がれて行くという考えは、少なくても聖書の教えではない。たとえそのようなことが実際起こったとしても、それは聖書の原則でも教えでもなく、あくまでも聖書外の体験である。その聖書外体験を強調することは誤りである。その誤りに立った教会形成を主張するのも誤りである。そのような教会形成によって、たとえ教会が100倍の力を得、1000倍の人数が集まるようになったとしても、誤りであることに変わりはない。
 


 要するに後の雨の人々は、聖書の字義通りの解釈を捨て、あるいは、本来聖書が言おうとしていることを出来るだけ正確に読み取り、それを現在の状況に適応していく努力を怠り、極めて自由に、自分たちに都合よく、あるときには霊的に、あるときは寓意的に、あるときはタイポロジー的に、そしてあるときは突然字義通りに、文章の前後関係も背景も無視していくところから、自分たちの神学を積み上げてきた。彼らは聖書を用いる。そして、多くの場合、(すべてではない)基本的理解においては、福音的な立場にいる。だから、彼らの聖書外体験主義を見破ることは困難であるし、彼ら自身が、多くの場合、聖書外であることに気づいていないのだから、判断はいよいよ難しい。そして何となくおかしいなと思いながら、それが何であるか分からない私たちも、聖書外体験を後生大事に抱え込んだ信仰を持っているために、見るべきところも見えないでいるのである。

                                   つづく

























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