2010年11月09日

だいぶ怪しげなペンテコステ信仰 (3)


 UB 第三の波の人々 



 現在、ペンテコステの信仰を標榜するものたちの数が、世界中で圧倒的に増加し、ネオペンテコステと呼ばれる人々も急増する中で、かなりの数の福音派の人々が、ペンテコステ信仰を受け入れ始めたことが、あらたな問題を作り出している。彼らは、普通、第三の波と呼ばれる信仰形態を持つ人々である。本来、厳密な聖書解釈に立つ信仰の持ち主であるべき、これら福音派の人々が、ペンテコステ信仰の怪しげな体験主義的信仰形態を受け入れてしまったばかりか、かえってそれを増幅させていると思われるのである。第三の波の提唱者である、ジョン・ウインバーや、ピーター・ワグナーなどという人々を始め、実に多くの著名な福音主義者が、福音主義的な聖書解釈を捨てて、怪しげな体験主義に陥り、ペンテコステ信仰をますます奇怪なものにしているのである。彼らもまた、初めから単なる体験主義者に過ぎなかったのかと思いたくなるほどである。



 彼らの多くは、それぞれの改革派的な、あるいはバプテスト派的な神学によって、現在も私たちの祈りに応え、奇跡を行い、癒しを行ってくださる神を、信じることができない人々であった。しかし、ペンテコステ的な体験をして、奇跡や癒しを目の当たりにすることによって、その神学を覆されたのである。その体験があまりにも強烈であったために、神学を放棄して、体験に走ったのだろうか。彼らの体験主義は、伝統的なペンテコステ信仰を超えている。これは、日本でも見られる現象である。



 実のところ、この現象には、著者は非常に失望している。第三の波運動が始まった頃、著者は、学問的背景が薄く、神学に弱いペンテコステの信仰も、神学に強い改革派やバプテスト系の人たちが加わることによって、改善されるだろうと期待したのである。素人的な聖書主義から、本物の聖書主義の信仰に変化していくのを、待ち望んでいたのである。それは、今のところまったくの期待はずれ、失望に終わっている。今考え直すと、彼らの聖書主義も、もともと心もとないものだったのだろう。



 ところで、第三の波の人々の特徴のひとつは、彼らの多くが、異言を伴う聖霊のバプテスマを体験していないにもかかわらず、聖霊のバプテスマを受けたと主張していることである。自分たちは異言を語っていない。しかし、自分たちは伝統的なペンテコステの信仰を持つ者たちよりも、むしろ多くの奇跡を行い、癒しを行い、悪霊を追い出している。(もう少し言うと)、教会も成長しているし、伝道も活発に行っている。だから、自分たちこそ聖霊のバプテスマを受けているものであると主張している。これこそまた、体験主義であり、聖書の教えに立脚していない。聖書はそのような業を行うことが、聖霊のバプテスマの証拠とも結果とも言っていないし、神の承認を受け、神の権威を帯びている証拠であるとも語っていない。かえって、そのようなことを行う人々に対しては、イエス様ご自身が、「私はあなたがたを全然知らない不法をなすものども、わたしから離れて行け」とおっしゃる可能性を語っておられるのである。



 だから彼らは、体験に基づく曖昧な解釈を用いてではなく、福音派の人間として、自分たちが受けた正統な聖書解釈の手法を持って、異言の伴わない聖霊のバプテスマというものの存在を、証明しなければならない。また、そのようなバプテスマを、すべての信徒が体験すべきであるという主張を、正統な聖書解釈の方法で立証しなければならない。そしてそれは、けっして出来ないことである。だから、彼らは正統な聖書解釈を捨てて、霊的解釈に走っているのである。事実、第三の波運動の源となったジョン・ウインバーは、合理主義を排し、論理的な考え方を止めて、つまり神学を軽視して、体験に重きを置く考え方を提唱していた。それは、啓蒙主義や合理主義、理神論的な考え方を排して、健全な聖書信仰を主張する論理を飛び越え、聖書を理性的に読み、理論的に考察することさえ放棄する、まったく誤った提唱である。

 

 最近、勉強不足な著者にも、やっとわかるようになってきたのだが、実は、これら第三の波の人々のほとんどが、後の雨の神学を受け入れているのである。そのことを当人たちが知ってか知らないでかは別として、それは事実としか思えない。それだけでなく、もともとアッセンブリーズ・オブ・ゴッドの交わりの中から生まれた人たちの中にも、この後の雨の教えに流されて、溺れかけているものがいるようである。



 ジョン・ウインバーは亡くなったが、彼の友人であり後継者でもあるピーター・ワグナーは今、その大きな影響力を駆使して、積極的に後の雨の教えを宣伝している。現在彼が広めている、使徒職と預言者職の回復を始めとするさまざまな教えは、後の雨の教えそのものである。先に挙げた後の雨の4点の主張と、アッセンブリーズ・オブ・ゴッドが非聖書的として挙げた6点を、改めて読み直してほしい。異言が宣教のための言語であるという主張以外は、みな彼らによって、今も主張され続けているのである。



 しばらく前から大きな話題になっている、トロントの笑いのリバイバルは、ウインバーやワグナーに強いつながりがあったし、その運動の飛び火とも思えるペンサコーラのリバイバルも、同じである。そしてペンサコーラはアッセンブリーズ・オブ・ゴッドの教会の働きである。これを通して、後の雨の教えはアッセンブリーズ・オブ・ゴッドの中にも、それと知られないまま広く撒き散らされていった。ワグナーは現在でも、多くのアッセンブリーズ・オブ・ゴッドの教会に受け入れられ、彼らの中で活発に働きを続けているし、日本でも権威として受け入れられている。



 (2000年8月11日、アメリカ・アッセンブリーズ・オブ・ゴッドの総会は、トロントの笑いのリバイバルの誤りに対する、警鐘の文章を採択している。日本アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団は、これを翻訳してすべての教職に配布した。しかし当時の日本の教会は、トロントで起こっている事柄についてはうわさ程度にしか知らず、その内容に至ってはほとんど知らなかったのが実情であった。だからこの文書は、あまり大切にされずに、忘れ去られているのではないかと思う。翻訳を依頼された著者も翻訳しながら、なぜこんなことを言わなければならないのか理解していなかったので、偶然、ファイルの中に英文のオリジナルを見つけ、今はじめて、これを思い出したほどである。だから、後の雨の神学が日本でも広がり、かなりの混乱を巻き起こしている現状を知った今、改めてその翻訳文を探し出して、皆様に配布しようと思っている。)



 ただし、しばらくの間、アッセンブリーズ・オブ・ゴッドの人々の間でも大きな話題になっていた、ペンサコーラのリバイバルといわれる働きは、数年で終焉を迎えた。いろいろな理由があると推測するが、結局のところ、多くのアッセンブリーズ・オブ・ゴッドの人々の「信仰安全装置」にひっかかり、受け入れられも、承認されもせず、情熱は急激に冷えたということも、大きな理由であろう。



 著者はトロントの笑いのリバイバルや、ペンサコーラのリバイバルといわれているものの、すべてを否定するつもりはない。その働きに参加しているすべての人々の、すべてが悪いというつもりもない。実際、素晴らしい神の祝福がたくさんあったのだろう。しかし、それらのリバイバルといわれているものの中には、聖書に立つ信仰という面からすると、かなり怪しいものが含まれていると言わざるを得ないし、まったくの詐欺師や「オカルト的」な人々も活動しているようにさえ思われる。少なくても、正統な聖書の理解に立つ信仰がないがしろにされ、聖書外体験が強調され、主張され、流布されていることは間違いない。



 しばらく前になるが、著者は預言運動について講演することを依頼され、その中で、後の雨についても触れたが、その影響が現在これほど広く深く及んでいるとは、気づいていなかった。日本の片田舎で、ほとんど他の教会や伝道者たちとの交流を持つ機会のない著者には、諸教会で起こっている問題の深刻さが、理解できなかったのである。また、現在日本の預言運動に大きな影響を与えているのは、ビル・ハモンという人物であるといわれているが、彼は、この後の雨の神学の強力な推進者であり、代表的人物のひとりである。何も知らなかった著者は、このビル・ハモンの著書二冊を拝借して読み、その主張の危険性を見出して指摘しておくだけに止めた。(拙著「現代預言運動に関する考察」)しかし今は、体験信仰をもってこの人物の主張を受け入れている人たちは、後の雨の非常に危険な神学を受け入れていることになるという事実を、しっかりと理解してほしいと考えている。当然ながら、ピーター・ワグナーはこの人物とも親交を持っている。



 ところで今年の初めから、著者のもとにリバイバル新聞というものが、毎週送られてくるようになった。これはこの新聞の編集者に請われて、1年間、私も論説を引き受けることになったからである。実は、この新聞を手に取ったことは、1度か2度しかなかったというのが本当なのだが、編集者が、私が書いたものをウエブサイトで読み、依頼してきたのだ。私は、自分が書いていることが、新聞社の立場と基本的に一致するものであると認めてのことかと、確認した上でお引き受けした。そういうことで一部贈呈となったのだが、それを読んで改めて驚いた。記事の大部分とはいえないかもしれないが、(簡単には確認できないため)非常に多くの部分が、第三の波系の人々やその働きの記事で埋め尽くされている。そこで言われていることの非常に多くの部分が、後の雨の神学に基づくものである。



 新聞はジャーナリスティックな物であり、広く記事を集めなければならない。読者の層というものが、編集のあり方に影響する。この新聞を購読しているクリスチャンの多くが、後の雨の神学に、賛同しているか、少なくてもあまり違和感を持たない人々なのだろう。だからそのような内容の記事が多くならざるを得ない。私が危機感を抱いた理由のひとつがそこにある。ペンテコステ系の人々は、彼らの中に始めから流れている、聖書外体験主義的な血のために、今の流行の中にあるカルト性、あるいはオカルト性に気づいていない。それで考えた。自分が選ばれたのは、たぶん、新聞社の中の聖書信仰を重要視する人たちの、良心が働いたからだろう。私の役割は歯止めか毒消し、あるいは中和剤か。ま、たいしたことは出来ないが、私は正統な聖書理解に立った信仰を、語り続けるだけである。



 UC その他の非聖書的な主張



 ペンテコステ系の人々は、一般に、積極思考、繁栄の福音、レーマの神学、さらに自己のイメージの確立(カウンセリングで用いられる)さらには、大々的な集会、その中で用いられる洗脳的な手法などに鈍感である。聖書は間違いのない神の言葉であると信じるのはいいが、その読み方、理解の仕方、主張の仕方によっては、嘘っぱちの悪魔の言葉にさえなる。しばしば、「聖書がこう言っているのだから」という議論を聞くが、多くの場合、聖書がそう言っているのではなく、聖書がそういっていると、その人が考えているのに過ぎない。あるいは聖書がそう言っているかのように、語っているだけである。聖書の真理の2〜3%を言い変えるだけで、立派なカルトになる。そしてペンテコステ系の人々は、すでに聖書外体験に慣らされている。グレーゾーンの信仰に弱いのである。その上、基本的に聖書は神の言葉であると教え込まれているために、ちょっとそれらしく聖書の言葉や表現が用いられると、すぐにだまされてしまう。



 「受けるよりは与えるほうが幸いである。だから献金しなさい。神は惜しみなく与えるものに、惜しみなく与えてくださる。」この教え自体は間違いなく聖書の教えである。しかしペンテコステ系の伝道者の多くは、その適応を敢えて誤用している。そして多くのペンテコステ系信徒が騙されている。少しばかり有名になると、ペンテコステ系の伝道者の多くは、この教えを悪用して金集めに精を出し、贅沢な生活に走る。そして贅沢な生活こそ、神の祝福の証拠であると、繁栄の神学を振りかざす。集会に出られない場所にいる人たちには、臆面もなく、祈りの布切れなるものが販売される。その布切れは、伝道者が手を置いて祈ったもので、神の力が宿って万病に効くのだそうだ、10分間祈ったものは黄色で1万円、20分祈ったものは青で2万円。30分祈ったものは赤で3万円という具合で値段によって効き方が違うらしい。使徒の働きに一度だけ記されている出来事を根拠に、金儲けの手段にしている。その伝道者の事務所で働いていた女性に聞くと、伝道者は間違いなく手を置いて祈るそうである。ただし、山のように積まれたすべての布に手を置いて、簡単に祈るだけだということである。



 人間の罪の原点はセックスである。だから、アダムとイブは自分の裸を隠した。したがってその罪は、聖いセックスで聖められなければと、たくさんの女性をだました伝道者だけでなく、たくさんの男性を捕縛した女性伝道者もいる。ペンテコステ系の能力のある伝道者には、セックス・スキャンダルを起こすものが多いと感じるのは、著者だけだろうか。昔から、英雄色を好むといわれ、大きな働きをするものは、一般的に精力も強い。旧約聖書でも明白である。それはまた、彼らが聖霊の力だけではなく、人間的な力によって仕事をしていることの、ひとつの証拠でもある。救いの働きが、聖霊のみ業から、人為的な方法論に変化しているということでもある。



 日本では考えられないかも知れないが、一夫多妻は祝福の印であるという教えをもって、たくさんの妻を持つ伝道者もいる。しかもその行為が聖書によって「きちっと」論証されている。個人的に思うのだが、これは繁栄の神学につながるものだろう。しかしその神学の中では、より聖書的な部分だろう。少なくても、一夫多妻が認められている文化の中で、一夫多妻制度の必要性は、認めなければならないところもある。その一方、アメリカ式の繁栄の福音は、どの文化にあっても偶像礼拝の罪である。



 多くの信徒を集めるのが最重要課題であると、聖書を持って主張し、あらゆる方策を用いて、教会を大きくしようとしている牧師がいる。この世界に神の国を来たらせるためには、出来るだけ多くの信奉者、支持者、賛同者が必要である。その目的のためならば、さまざまな不当な手段、あるいは洗脳に近い策略も正当化される。大伝道集会などで、派手な身なり、大げさなパーフォーマンス、華美なプログラム、大音響の音楽、それに伴う振り付け、さらにサイケデリックな照明、バーチャルリアリティなどが、出来るだけ多くの決心者を得る手段として、正当化される。癒されたり、奇跡を体験したりしたものが捏造され、その数が水増しされ、無料の読み物がほしい人は手を挙げてくださいと呼びかけられて、手を挙げた人々が写真に取られて、決心者の姿として報告されることも、通常の金儲けの手段とされる。幸い日本ではこのようなことはあまり聞かないが、著者は、ペンテコステ系の有名な伝道者たちによって行われる、そのような騙しのテクニックを、しばしば自分の目で見てきた。
 


 朝起きたら、まずきれいに化粧をして、改めて鏡の前に座り、「・・・・ちゃん。あなたはきれいよ」と鏡の中の自分に語りかけ、自分が大切な存在であることに気づいて、自信をもって、気持ちよく一日を送るようになどというごまかし。このような聖書によらない自己イメージの確立が、あたかも聖書の教えであるかのように装われて、各地で行われている。正しい聖書の理解によると、私たちの価値は自分自身のうちにはない。わたしたちの価値は、価値のないものを愛してくださる、神の愛の中にある。つまり私たちは神に愛されているから、神の愛の対象として価値があるのである。私たちに価値があるなら、価値がある私たちを救うのは、神の恵みではなく、神の当然の義務となる。



 いくつもある可能な解釈の中から、自分に都合のいいひとつの見解を絶対視して、黙示録を用いる方法も危険である。そこからは実にさまざまな、極端で、一方的な主張が生まれてくる。いわく、世界はユダヤ人に支配されている。あれもこれもユダヤ人の陰謀である。あの有名な伝道者も、この名高い牧師も、だれも彼もユダヤ人に操られている。反対に、ユダヤ人の救いのために祈り、ユダヤ人のために働き、自分たちもユダヤ人の一部分であることを知ることこそ、最重要課題であるというのもあれば、ブッシュは反キリストであるとか、666であるとか断定したり、ヨーロッパ連合こそ大淫婦の大バビロンだと言い切ったり、WCCこそ、いや教会一致運動こそそれであると、実にかしましい。それらは、そうかもしれないし、そうでないかも知れない。とても多くの見解があるから、的中する確立は低い。



 これらの主張はみな、聖書の中にわずかに記されている、それらしい言い回しや言葉、表現を独断的に解釈して、それを発展させたものである。グレーゾーンの信仰である。だから、私たちはだまされるのである。多くの場合、だましている人々も、だまされている人々である。もちろん、これらはみなペンテコステ系の信仰に限ったことではない。福音派といわれる人々の中にも、しばしば見受けられる。ただ、ペンテコステ系の人々のなかでは、かなり特徴的に見られるのである、私たちに必要なことは、正しい聖書の読み方から、正しく解釈された教えを基盤に、しっかり立った信仰を持つことである。



 ペンテコステ系の人々の数は、今や、世界で5億をはるかに越えるといわれているが、果たしてその中のどれだけが、本物のクリスチャンなのか、疑いたくもなる。もちろん主催者側の発表は、常に警察側の発表を上回る。だから半分にするか4分の1にして理解しても、大変な数だ。しかし、だれがクリスチャンで誰がクリスチャンでないかという判断は、私たちのすることではないが、正しい福音を伝えて、出来るだけ、本物のクリスチャンを育てるのが、私たちの役目である、



 改めて言い直すが、グレーゾーンの信仰、すなわち聖書外体験を基本にした、あるいは出発点にした信仰は、グレーゾーンの信仰に慣れ、とめどなくグレーゾーンの中に浮遊する信仰になってしまう危険性がある。しかもそのグレーゾーンが「新しい皮袋」などと紹介されると、ますます誘惑されてしまう。



 だからと言って、私たちはさまざまな新しい試みや流れに、目を閉じ、耳をふさいでしまってはならない。多くの新しい試みは、それが良いものであっても悪いものであっても、さまざまな批判や、非難、中傷や、流言飛語がつき物である。だからこそ、見分ける能力が必要なのである。そしてまた見分けたからと言って、たらいの水と共に赤ちゃんをも捨ててしまってもならない。



 確かに、いま、第三の波の人々が持ち込む方法論は斬新で、魅力的なところがある。それらに対して後ろ向きになってばかりいてはならない。学ぶべきところはたくさんある。教会も、大きくなるのにこしたことはなく、たくさん救われることに、反対を唱えるものでもない。とはいえ、教会を大きくするのは、聖書の命令ではない。たくさん救われるようにというのも、神の悲願ではあっても、たくさん救いに導けという命令が、私たちに与えられているわけではない。たくさん救いに導いているものが、より良い神の器だという聖書の教えもない。



 アメリカ流のプラグマティズムに陥ってはならない。彼らの勝利主義に乗ってはならない。教会を、資本主義の企業のように考えてもならないし、ねずみ講のように理解してもならない。方法論で命に至る門の大きさが変わるのだろうか。初めから命に至る門は狭く、その道は細いと決まっているのだ。そしてそこから入って行くものは少ない。現在のペンテコステ信仰の世界的拡大を見ると、どうしてもイエス様のこのお言葉との矛盾が、気になって仕方がない。



 たくさんの人々が教会に連なり、あらゆる意味で教会の力が強くなり、世界を支配するようになったならば、キリストが王として再臨するのであるという考え方は、私たちのものではない。それが間違っているということは、すでに述べた。そのような見解を持っている人々と、一緒には働けないというわけではないが、目標を共有することは出来ない。



 ペンテコステ信仰の躍進は喜ぶべきである。しかし喜んでばかりはおれない。同時に、怪しいものを感じて、注視して行かなければならない。時代の潮流に乗り遅れないようにと、あせってはならない。潮流が黒潮か親潮か見分けねばならない。どこに流れていくのか確認しなければならない。下手をすると、とんでもない方向に流されてしまう。著者は登り電車に乗るはずだったのに、ドアが閉じそうになっている下り電車を見て、あわてて乗ってしまったことがある。



 いま、ニュースで面白い話が紹介されている。タイの南部のマレーシア語を話す地域の50代の女性が、買い物に行った帰りに、間違ってバンコク行きのバスに乗ってしまった。途中で気がついたが、言葉が分からないために終点まで行き、そこから戻ろうとしたのだが、またも行き先を間違い、北部のチェンマイに着いてしまった。言葉が分からないためにそこで5年間乞食をし、その後、施設に入れられて、合計25年も行方不明となっていたそうである。



 何度でもくり返そう、ペンテコステ信仰は正しい聖書の理解に立った、確実な信仰である。私たちはその事実を、改めて聖書を学びなおして、確認しなければならない。それを改めて確認しなおして、はじめて、自分の信仰に信仰体験だけによるのではない、聖書的な確信を持てるのである。そうすることによって、正しい聖書の理解に立っていないグレーゾーンの信仰、正しい聖書理解に基盤を置いていない、体験信仰の流れには、乗らないようにしなければならない。



 そこで、私たちが信じ、受け入れ、みんが体験すべきものとして、公に教えられなければならないものと、そうでないものとを見分けるために、簡単な方法を示しておきたいと思う。

@ それは間違いなく、聖書の記述のなかに、実例を見出せるものか。
A それは間違いなく、聖書で教えられているか。
B それは、くり返して聖書に記されているか。
C それは、間違いなく使徒時代の教会全体に認められ、受け入れられていたか。
D それは普遍的なものであると、すなわち時と場所を越えて、すべてのクリスチャンに適応され勧められるべきものであると、聖書によって明確に証明できるか。



 これらのテストをするならば、瞬間的聖めのバプテスマ、解き明かしを伴った異言による預言、職への召し、異言の伴わない聖霊のバプテスマ、現代の使徒と預言者の回復、彼らの権威、預言の権威、現代の使徒と預言者の上に建てられる教会、倒れること、倒すこと、笑うことや泣くこと、恍惚となることなどの肉体的精神的反応、さらに実に多くのことが、どれかの項目、あるいはすべての項目にひっかかり、私たちの信仰体験として一般化し、教理としたり、信仰や実践の大切な部分としたりしてはならないことが、よくわかるはずである。

                                       つづく













posted by ms at 00:00| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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