2010年11月10日

だいぶ怪しげなペンテコステ信仰 (4)



V 間違いを持った人々との付き合い



 では、グレーゾーンの信仰の流れに乗っている人々とは、どのようなお付き合いをしたらよいのだろうか。そのような信仰を持った人と付き合わないとなると、実際上、自分自身をも含めて、すべてのクリスチャンとのお付き合いを拒否しなければならなくなる。だからと言って付き合い始めると、とんでもない信仰と実践をしている人たちとまで、行動を共にすることになる。限度が必要になる。



 人間は複雑である。一人の人間でも、良いところと悪いところ、正しい教えと誤った教えを併せ持っている。だから、ある面においてはとんでもない非聖書的な理解をもち、へんてこりんな神学を振り回している人物が、他のところではとても確実な信仰理解と、生活態度を持っていることもある。あやふやな終末論を持っているが、贖罪論は堅実であるという場合もある。問い詰めると神学は不透明だが、神のみ前に歩んでいるひとりの人としては、感嘆するほど純粋な信仰を持っている人物もいる。



 霊的解釈やタイポロジー的解釈で、正統な聖書の学びを軽視しがちなペンテコステ系の伝道者には、即席の伝道者が多く、たとえ長い間大きな働きをしている有名な伝道者でも、正しい解釈に基づいた聖書知識を持つものは驚くほど少ない。だから、そこここに間違いがある。そして間違いのあるもの同士が集まって、安心して間違いを増幅し合っていく。



 また人間は、常に変化をし続けている。間違いだらけの昨日の彼は、今日も間違いだらけであると言う保証はない。今日正しいことを言っているから、あさっても大丈夫だという保証もない。どのように素晴らしい牧師も伝道者も神学者も、必ずどこかの時点で、間違いや誤りを持ち、失敗も犯す。だから私たちは、人間の善悪の問題には常に慎重な態度をとり、最大の寛容と許容をもって、接して行かなければならない。人間に対す最終判断と裁きは、神にお任せするしかないのである。そういうわけだから、グレーゾーンの信仰を推し進めている人々のためにも祈らなければならない。その働きのために、その祝福のために、あるいはその救いのために。



 しかし一方、彼らの教えの内容に関して、その神学に関しては、非常に厳しくなければならない。その誤った教えに対しては、滅びるように願い、戦い、祈って行かなければならない。私たちは、人と教えを切り離して、別々の取り扱いをして行く必要がある。それは口で言うほど簡単ではないが、そのようにする大切さと、技術を学ばなければならないだろう。愛をもって接しながらも、断固として、誤りを指摘していかなければならない。



 キリストやパウロの例を観察すると、求道者や初心者の間違いに対してはかなり寛容であった。その態度が、真摯に真理を求めるものに対してはたとえ彼らの間違いが大きくても、直ちに拒絶することはなかった。キリストはパリサイ派やサドカイ派の人々に対しては一般的に厳しい態度をとっておられたが、彼らの中にいる真摯な真理の追求者に対してはそうではなかった。パウロもまた、偶像礼拝者に対しても礼を失わない態度を保ち、コリントの禄でもないクリスチャンたちに対してさえ、聖徒と呼びかけ、忍耐深く指導した。パウロは、自分がすべての兄弟たちに恐れられていた当時、交わりと助けの手を差し伸べてくれた、バルナバを思い出していたかもしれない。



 ところがそのパウロは、教会の中から出てくるユダヤ主義者には激烈な態度を取った。教会が、ユダヤ主義者のために傷ついて、その傷がまだ傷んでいたときには、ユダヤ主義の傾向を持っていたマルコとは、たとえ、お世話になったバルナバと袂を分かつことになったとしても、絶対に行動を共にしようとしなかった。キリストも真理に背を向け続けているかたくなな宗教家に対しては、非常に厳しい態度で臨まれた。少し後代になって、教会の中にグノーシスの誤った教えが浸入してきたとき、パウロもヨハネも、非常に厳しい態度をとった。



 真理の探求者が、誤った教えや理解をもちながらも、真理を受け入れる態度をもって学ぼうとしているときには、寛容な態度で彼らを受け入れているが、彼らが真理に背をむけ、誤った教えを主張し続け、さらにその教えを他の人々にも広め、惑わすに至ると、キリストもパウロも、非常に激しく戦った。だから、内部から出現する誤った教えの信奉者には、容赦なかったのである。



 キリストやパウロに見られるこの一般的な原則は、今日の私たちにも適応することが出来るだろう。後の雨の運動の創始者や提唱者たちの多くは、教会内の、指導者の中から出てきたのである。その後継者たちの多くもそうである。彼らの中では、この誤りと彼ら自身とがすでに一体となり、不可分の状態になっていることが多い。しかし彼らの働きに参加している、多くの信徒や伝道者たちは、騙されているだけである。だから、彼らに聞く耳があるうちに、聞いてもらわなければならないのである。そういうわけで、著者はこの文章を書いている。同僚の伝道者たちが、誤りを明確に見分けられるためである。信徒たちを正しく指導できるためである。



 だから私たちには、教え自体と、教えを伝えている人々とを、分けて考えることが必要である。教えは滅ぼされなければならないが、教えを伝えている人は、救われなければならないからである。そこで私たちは、彼らの教えを拒絶するだけで終わらず、正しい真理の教えを語り続けなければならないのである。私たちはこの教えを伝えている人々が、私たちの教会にその教えを持ち込むことを許すべきではないが、彼らにも、私たちの教えを語り続けなければならない。多くの場合、豚に真珠であることを覚悟し、石地に落ちた種になることも知りながら、そうしなければならない。



W 結び



 著者は今、私たちのペンテコステ信仰とその実践には、多くの誤りが混在していることを憂慮している。それらの多くは、ペンテコステ信仰の発祥当時から混在していたものである。そしてその混在に対して、正しい対処をしてこなかったために、誤りは増幅し、拡大し続け、私たちの正しい信仰の成長の妨げとなってきた。



 今私たちに改めて必要なことは、この誤りに対して正しい対処をしていくことである。それは単に、あそこが間違っている、ここが誤っていると指摘するだけに止まらず、自分たちのペンテコステ信仰が、正統な聖書解釈に正しく立っている信仰であることを確認して、単に外部のものの間違いを正すだけではなく、自分たちの中にある聖書外体験主義をも排していくことである。自分たちの中にある伝統的な聖書外体験主義も、厳しく排していくことによって、初めて、しっかりと正しい聖書理解に立った信仰のあり方を、構築していくことが出来る。



 そのために私たちは今、多くの間違いが氾濫して私たちの信仰を汚染しようとしている危機を、かえって好機と捉えて、改めて自分たちの神学を、しっかり見つめなおすべきである。正しいペンテコステ信仰の継承のために、ぜひともそれをやり遂げなければならない。


                                    おわり





















posted by ms at 00:00| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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