2010年11月11日

しるしを求める時代 (1)



       しるしを求める時代

(ペンテコステ派にまつわる奇跡的業についての考察)



 たいした役にも立たない雑文をワープロに打ち込みながら、テレビのニュースをつけっぱなしにしていると、いつの間にか行方不明者を探す番組に変わり、いろいろ面白い人たちが登場していました。いわゆる超能力で、生きている人も死んでいる人も探し出すというのです。その人々のうちの3人は、たしか、アメリカのFBIの捜査にも協力して、随分と成果を上げているという説明がつけられていました。そのあまりの能力に、「下手に人殺しもできないな。これでは必ず見つかってしまう」と・・・・怪しい警戒心を抱いたほどです。



 ちょっと考えるところがあって、つぎの週の同じ番組を見ていると、今度は、確か、ヨーロッパの超能力者たちが出演して、やはり、行方不明者を探していました。世の中には面白い力を持っている人々がいるものだと、つくづく感じたものです。(テレビが「やらせ」をやっていないという前提ですが。)ちなみに、彼らの中で何らかの「霊的な助け」を得ていると考えていたのは、「天使の力によって」と自ら語っているヨーロッパの女性と、同じくヨーロッパのもう1人の男性だけでした。他はみな、単なる超能力者で、いわゆる霊的な力とは無縁なようでした。



 それを見ていてふと考えました。「このような超能力といわれる力を持っている人や、霊力を使うことができる人々が、宗教家になったらどうなるだろう。ペンテコステの伝道者や牧師になったら、どういうことになるだろう。」



 最近、手品や奇術が流行っているようで、テレビでも盛んにやっています。中には本当に度肝を抜くようなものがあります。目の前でというより、大勢の人ごみの中、幾つものカメラの前で、たとえば、デパートのショウウインドウのガラスを通り抜けるなど、信じられないようなことを次々とをやってのけるのです。あまりにもトリックが上手なために、超能力者と間違えられて、病気を治してほしいとか、埋蔵金の隠し場所を当ててほしいとか、新興宗教の教祖になってほしいだとか頼まれて、閉口したと話している奇術師がいました。



 これらの番組を見ていて、また、ふと考えました。「このような奇術に長けた者たちが、宗教家になったらどうなるだろう。ペンテコステの伝道者や牧師になったら、どういうことになるだろう。彼らはさぞかし有名な、力ある神の人と目され、それこそ『大能の神の力』とばかりに、もてはやされるに違いない。(使徒8:10) テレビにも出、大きな集会を行い、たくさんの人々をその気にさせ、お金儲けも出来るだろうなァ。」 あの人たちが宗教家にならず、キリスト教の伝道者になっていないことを、感謝する気持ちになりました。「そういえば、数十年前、世界の奇術の大会で優勝したクリスチャンがいたな。堕落していなければいいが・・・」などと、つまらない心配まで始めてしまいました。

 

 いまテレビで人気を博している、もう一つの分野があります。それは、いわゆるまじないや占いに近いことをやって、運勢判断や前世の因縁、あるいは金儲けの方法、結婚の是非などを告げるものです。有名人とかセレブといわれる、芸能人やスポーツ選手などを相手に、そういうことをやって、結構視聴率も高いらしく随分盛況です。他にも、占いや呪い、霊視、心霊写真、行方不明者の捜索、怪奇現象の解釈などを行って、興味本位のマスコミに乗っている人々がいます。日本人の多くは、ばかばかしいと言いながらもこのような番組を観、出版物を読んでいます。そんなことが、何かにつけて話題になり、それに頼ったり、倣ったり、喜んだり、不安になったりしているのです。 



 これらの霊的な感覚の鋭い人たち、いわゆる霊能者たちが、ペンテコステの信徒や伝道者になったら、どういうことになるだろう。私たちの間で行われ、もてはやされている「奇跡」と、これらの超能力や奇術あるいは霊力とどこが違うのだろう。ペンテコステ系の人々のほうが、信徒たちを始め、多くの人々の賞賛と憧憬を勝ち取り、金儲けになるらしいというのは、わかるけれど・・・・。何しろそのようなことを売り物にして、テレビ番組をいくつも持っている伝道者が、たくさんいるのだから。」 奇術師や手品師に、そのような人がいるとは、聞いたことがありません。



 こんな軽々しい思い付きから、聖書に記されている奇跡や癒し、不思議やしるしの類と、それらについての教えに関して、すこしばかり考察してみようと考えました。



T  聖書に記された神以外の力による不思議な業


 
 現在の日本ほど、唯物論がもてはやされている文化はないといわれます。ところがその一方で、人々は怪奇現象や霊界の話にも夢中になっています。日本人の精神的二重構造です。付け焼刃の啓蒙思想、合理主義、科学至上主義の後ろには、拭い取れない、隠しようもないアニミズムの世界が広がっているのです。そんな非科学的なことは信じないと言いながら、お宮参りに行き、幽霊を恐れ、占いを信じています。



 私たち日本のクリスチャンもまた、この日本人の精神的二重構造の中で、一方では合理的科学主義の世界観を持ちながら、他方ではおどろおどろとした魑魅魍魎(ちみもうりょう=林や水の霊)の世界観を内に秘めています。かつて、西欧合理主義宣教師たちの教えにならって、幽霊だのまじないだの占いといったたぐいを、非聖書的な迷信として退けながらも、ほとんど本能的に、何となく納得しきれないでいるのです。



  TA 聖書にも神によらない不思議な業が記録されている
 


 西欧合理主義、唯物的科学万能主義の世界観を持って聖書を読むと、その中に、あまりにもたくさんの奇跡や不思議な物語が、記録されているのに驚いてしまいます。クリスチャンとして、いつかの時点で、神が全存在物をお造りになったということは、神学的に受け入れているにしても、あまりにもたくさんの奇跡や不思議のたぐいが記されているのに、少なからぬ衝撃を受けます。さらにその中には、天地を創造された神によらないさまざまな不思議な業も記されていることに、いよいよ驚かされます。



 聖書の世界観は唯物主義ではありません。また、神以外の霊的存在を認めない一神教でもありません。聖書は、他の宗教の感覚から言えば、多神教の世界、あるいはアニミズムの世界を描き出しているのです。たくさんの神々、さまざまな霊的存在があるけれど、その中に、唯一の創造者、唯一の絶対者がおられて、その方だけを礼拝し、その方にだけ忠誠を誓うのが、聖書の信仰です。その方以外の霊的存在や、その方以外の霊的力を認めないのが、キリスト教信仰ではありません。くり返しますが、たくさんの神を認めないのがキリスト教信仰ではなく、自分はただおひとりの神、創造者であり、絶対者であるお方だけをあがめ、この方だけに従うというのが、キリスト教信仰です。



 それは、たくさんの男性がいる中から1人の男性を夫として選び、この男性だけに尽くすというのと同じです。夫だけが唯一の男性という意味で、一神教です。少なくても、これが聖書の理解です。もちろんわたしたちの神は創造者であり、唯一の絶対者です。創造者であり、唯一の絶対者であるということが神の定義なら、私たちはそのような神を信じているのです。



 しかし、日本語本来の「神」の定義は、単に「上」というだけに過ぎません。「髪の毛」すなわち上の毛、「川上」すなわち川の上流、「薩摩の守」すなわち人の上に立つ者で、さまざまな漢字が充てられていますが、ようするに「かみ」すなわち「うえ」であり、「神」イコール「うえ」なのです。(うちの「かみさん」と奥さんを呼ぶのも?!)ですから「神」といった場合、せいぜい、なにやら人間以上の不思議な力をもつ存在というだけで、猫でも蛇でもどこかに人間以上の能力があれば、たやすく神になれるのです。人間でもちょっとばかりできると、たちまち料理の神だの、野球の神だのとまつり上げられることになります。唯一絶対の創造者などという、クリスチャンたちの「神」の理解とは程遠いものです。



 聖書は、私たちクリスチャンが神と呼ぶ、絶対者以外の「霊的な存在者たち」とその力を認め、それらを神に従う天の軍勢と、神に逆らう悪魔の陣営に分けています。聖書は神に従う霊的な存在者たちを「御使い」(翻訳によっては天使)と呼び、神に逆らう者どもを悪霊と呼び、その悪霊どもの頭を悪魔と呼んでいます。そしてその悪魔の陣営との戦いが、私たちのクリスチャンの信仰生活の、重要な一端であると教えています。(エペソ6:11−12)



 合理主義、唯物主義、科学至上主義に犯された西洋キリスト教は、私たちの神様によるものも、御使いたちによるもの、さらには悪魔や悪霊たちによるものも含めて、奇跡や癒し、不思議やしるしといわれるものを、おしなべて否定するかもしれませんが、聖書が描き出す世界は、奇跡や不思議の世界なのです。プロテスタント教会ではカトリックよりも啓蒙思想の影響を強く受けたせいか、御使いたちによる人間への干渉も、否定、もしくは無視する傾向にあります。またそこには多分、カトリックが天使崇拝に陥っていることへの反動があると思われ、ペンテコステ教会においてさえ、キリストご自身がそれを認めておられるにもかかわらず、(マタイ18:10)御使いの存在と働きは軽視されています。



 そのようなことを理解した上で、聖書の中に記されている、神と御使い以外による、不思議や奇跡、あるいはそれを示唆する主なものを、いま思いつくままに、リストアップして見ましょう。



@ ヨセフの時代、パロの夢を解こうとしたエジプトの魔術師たち
A モーセと対立したエジプトの魔術師たち
B 神の箱騒動で役割を果たしたペリシテ人の預言者たち
C サムエルを呼び出した霊媒師
D エリヤと戦ったバアルの預言者たち
E ネブカデネザルの夢を解こうとした魔術師たち
F ペテロに叱責されたサマリヤの魔術師シモン
G キプロスの魔術師バルイエス
H エペソで焼かれた魔術の本
I 悪霊に傷つけられた、祭司長スケワの7人の息子たち



  TB 聖書はこれらの出来事を現実として記録している



 聖書はこれらの出来事すべてを、作り話や御伽噺、あるいはたとえ話や寓話としてではなく、現実として伝えています。ここに挙げたものが、はたして魔術によるものか、悪霊の力によるものか、超能力によるものか、あるいはトリックによるものかは不明です。聖書が魔術と表現しているものが、現在の私たちの常識的分類と同じ分類をしているわけではないからです。さまざまな霊の力を借りているものも、自分の中にある不思議な能力によるものも、トリックによるものもあったかもしれません。しかしこれらすべてのものを、聖書は現実として記録しているのです。



 これらの出来事が、たんなる空想や創作物語ではなく、あるいは迷信による思い込みでもなく、神による奇跡と同じように、現実の出来事として聖書に記録されていることは大切です。合理主義に影響された西欧キリスト教は、いろいろな理由と理屈をつけて、これらの出来事を単なる神話にしてしまおうとしてきましたが、聖書を素直に読む限り、聖書はこれを現実のものとして書き記しているのです。そして、それらは主に魔術師、霊媒師、あるいは予言者とか占い師といわれる人々によって、常習的に行われていたことが分かります。



 ただし、聖書の世界観はそのようなものであっても、実際に奇跡的な事柄が多発したのは、長い聖書の歴史の中では比較的短い、いくつかの時代に限られていたようです。それらはモーセとヨシュアの時代、エリヤとエリシャの時代、それからキリストと使徒の時代です。ですから、不思議や奇跡がのべつ幕無しに行われていたというわけではありません。また、当時の一般の人々の間にはたくさんの迷信もあり、これらの記述に類似した物語もずいぶん多く、頻繁に語り伝えられていたということは、想像に難くありません。しかし、聖書に記録されている出来事は、あくまでも事実として記録されているのです。 



TC 聖書はそれらの不思議な業のメカニズムについては何も語っていない



 ただ、ひとつ注意しておかなければならないのは、聖書はそのような不思議な出来事あるいは業が、どのようにして起こるのか、なぜ起こるのかという、メカニズムについては一切説明していないのです。私たちとしては、そのような出来事があった、またあり得るということを信じるだけで、説明はできないのです。特にこの点で問題になるのは、サウロの要請によって、女霊媒師がサムエルの霊を呼び出していることです。(Tサムエル28:3−25) これがなぜ問題かというと、生の世界と死後の世界の二つを、厳密に分けて理解する現代の福音主義的考え方と、相容れないからです。



 現代プロテスタント・クリスチャンたちの多くは、キリストがお語りになったラザロの物語などを引用して(ルカ16:19−31)、このような二分化の考え方を正統と理解してきたのです。しかしその理解の根底には、近代合理主義もあったように感じます。つまり、死後の世界については分からない、説明がつかない、さらに死後の世界と今のこの世の世界のつながりについては、いよいよ理解できない。だからそれは合理主義の範疇にないと、避けて来た事柄なのです。そういうわけで、いろいろな理由をつけて、この出来事は実際に起こった出来事ではないと、説明する福音派の神学者や聖書学者が多いのです。



 しかし私たちは、むしろこの出来事は実際に起こったことであると考えます。実際に起こった事柄だからこそ、サムエルとダビデの関係に大きく影響し、イスラエルの歴史に関わってくるのです。私たちには、この出来事を説明することはできません。生の世界と死後の世界に、どのような隔離線が引かれているのかも、良くわかりません。聖書はそれを説明していないからです。そのような場合、わたしたちがすべきことは、説明できないからと否定するのはなく、説明できない事柄として残すことです。聖書は明らかにそれを現実の出来事として取り扱っているのですから、そのように信じたらそれで良いのです。死から生き返った人々も聖書の中に数人は記されています。彼らも、死後の世界については一切語っていません、少なくても、聖書には記されていません。だからといって死者が生き返った物語は、否定されるべき出来事ではなく、生と死の境と死後の世界は、人間が知らないでいても良い事柄である。知るべき事柄ではないと考えるべきなのです。したがって、霊媒師によってサムエルが呼び出されたという事実は、事実として受け入れるべきですが、なぜ、どうしてという問題はそのまま残しておけばよいのです。
 
                                      つづく

























posted by ms at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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