2010年11月12日

しるしを求める時代 (2)



  TD 聖書はこれらの業を禁止している



 大切なことは、聖書がこれらの魔術や霊媒、あるいは占いの類を禁止しているという事実です。その禁止の理由は、それが迷信や架空だからというのではありません。ではそれらはなぜ禁止されたのでしょう



    TD1 悪魔や悪霊とのかかわり



 禁止の理由として第一に考えられるのは、そこにはさまざまな悪霊との協力があるということです。これらのことを行う人々のほとんどは、悪魔や悪霊を呼びます。それが神々の名前であったり、死者であったりとさまざまですが、実態は、悪魔や悪霊とかかわりを持っているのです。行われる業自体には、人助けになり、社会に貢献するものもたくさん含まれていたとしても、悪魔や悪霊の最終目的は、人々を神から引き離し、迷いの中にいれ、滅びに陥れ、神の栄光にかげりをつけようとするものですから、それは神のみ前に憎むべき悪とされるのです。



    TD2 人間が関与すべきではない領域を犯す



 禁止の理由の第二は、霊媒や降霊術が死の領域に関わって活動をするということです。霊媒師や降霊術者は、悪魔や悪霊との協力以外にも、私たちが立ち入るべきではない、生と死との領域に踏み込んでいるということが、関係しているのだと思われます。生と死との境界線には、私たちが知るべきではない、また知っても益にはならない事柄があるのでしょう。聖書は生と死の境界線については、ほとんど触れていないのです、しかし霊媒師、あるいは降霊師などといわれている人々は、なんらかの力で、つまり、自分の特殊能力や超能力により、あるいは悪魔や悪霊の関与により、それらを知り、いわば裏を掻い潜って仕事をしているのだと考えられます。それが見る者を惑わし、真の神から遠ざけ、さまざまな悪につながるというところが、あるのだと想像されます。



  TE 聖書が禁じていない不思議もある



 そういうところから考えると、トリックであることをはっきり宣言して行う、現代のショーとしての奇術、手品、あるいは言葉の上では魔術と呼ばれているものの、実態は奇術に過ぎないものも、聖書によって禁じられていると考える必要はありません。また悪霊の力とは関係のない、自分の中にある超能力を、良いことのために用いるのも、聖書が禁止しているとわけではありません。犯罪者の潜伏先が分かったり、行方不明者の居所が判明したり、死体の発見につながるなら、その能力は大いに結構です。アメリカなどでは、さまざまな特殊能力を持った人々の助けを借りて、犯罪捜査なども行われ、相当の効果上げているという話ですが、今のところ、それは、裁判の証拠としては採用されないために、物的証拠を見つけ出さなければならないということです。理論整然とした説明も、物的証拠がなければ単なる状況証拠でしかなく、裁判では採用されないのですから、当然のことだと思われます。

 

 10年以上も前になりますが、津軽三味線の名人、竹山さんが弾くじょんがら節を、一度聞いただ
けで、見事にピアノで再現した人を、テレビで見たことがあります。竹山さんがすぐさま続き、ピアノと津軽三味線の見事な即興アンサンブルが出来上がりました。脳性麻痺で、知能は低く、まっすぐに立つことさえできないこのアメリカの青年は、確か、施設にあずけられていた赤子の時代に、クリスチャンの夫婦に引き取られて、育てられたのだと説明されていましたが、その音楽的才能はまさに、わたしには奇跡的と言うか、異常というか、超能力というか、とにかく尋常ではないと思えたものです。世の中にはさまざまな特殊能力を持っている人がいるものです。盲目の画家さえ存在します。その能力が良いことのために用いられるならば、おおいに結構だと思いますが、人を騙し悪い目的のために用いるのは、とうぜん良くないことです。



 ただし、気をつけなければならないのは、このような超能力、あるいは特殊能力を駆使する人々の多くが、何らかの外部からの力、すなわち悪魔や悪霊どもの力を借りているということです。ですから、天使と呼ぼうが、マリヤ様と呼ぼうが、聖人と呼ぼうが、外部の力を借りる人々の業には、気をつけなければなりません。また、死者との交信をしたり死者の霊を感じたりする人々にも、たとえそれが事実であったとしても、警戒しなければなりません。

 

 筆者の個人伝道で救われた沖縄のおばあちゃんは、いわゆる霊媒師、祈祷師でしたが、クリスチャンになってからも、その霊的な能力を持ち続けていました。霊媒師、祈祷師の仕事は止めましたが、しばらくの間は、死者が見えたり、死者の語りかけを聞いたりしていたものです。それが本当に死者だったかどうかは別の問題ですが、ある種の特殊能力があり、霊的存在者に敏感であったことは事実です。さいわい、ペテロに叱られた魔術師シモンのような問題は起こりませんでしたが、もし、わたしがペテロほどの力をもって活動していたならば、同じことが起こったかもしれません。クリスチャンになりたての頃は、いろいろな点において分からないことばかりなのですから、彼らに対して、あまり厳しい見方をすべきではないと思います。ペテロの厳しい叱責も、むしろ、シモンに徹底した悔い改めの機会を与える、愛の鞭だったのではないかと感じるのです。(使徒8:9−24)



 筆者がフィリピンで住んでいたバギオ市の郊外から、直線で1km足らずのところに、手で内科手術をする人物として、日本でもテレビを始めさまざまなメディアで取り上げられ、一時、非常に有名になった男が住んでいました。もともとフィリピンには「アーブラリオ」と呼ばれる霊媒師まがいの、民間治療者がたくさん存在し(アーブラリオは薬草のハーブからきた呼称)、多くの医療行為をしているのですが、この人物の力はずば抜けていたといえます。当時のマルコス大統領も彼から治療を受けていたと言われ、フィリピン全土はおろか、アメリカやドイツ、さらには日本からも大勢の人々がチャーター機で訪れて治療を願っていました。



 しばらくしてこの人物は亡くなりましたが、その後継者もかなりの力を発揮して、治療行為を続けていました。後継者の奥さんは日本人で、筆者も個人的に知っていました。日本では大きな話題となり、盛んに議論されたということですが、結局、それが文字通り素手による手術なのか、奇術によるまがい物なのか、判断がつかないままで終わったようです。フィリピンでも騙しごとと一笑にふしてしまう人々もいましたが、多くの人々がその治療を受けて治ったと証していました。日本で有名な高島易断の指導者によると、フィリピンはそのような霊の力が強い土地で、中でもバギオ市はその中心に当たるのだそうです。



 私たちの聖書学校の一つで、セブ市にあったインマヌエル聖書学校の門の前には、いつも朝早くから、長蛇の列ができていました。ココナッツ椰子の木陰にたたずむ粗末な藁葺きの家で、ひとりのアーブラリオが治療を行っていたからです。このアーブラリオは、当時、貧しい人たちからはほとんど治療費を取らず、野菜や果物、魚などのお礼をもって充分としていたようで、人々の尊敬を集めていました。ついでに言うなら、彼らはカトリック化した土着宗教を信仰土壌としていたために、ほとんどの場合、カトリックの聖人や、聖母の名前を呼んでいましたが、その実、土着の霊(アニトと呼ばれる)の力を呼び出しています。土着化したカトリックが強い、中南米でも同じ傾向が見られるということです。



 このようなことは、それぞれの土地の信仰形態により、呼び起こす霊や力の源となるものの名前は異なり、伴う儀式や祈りや呪文、あるいは用いられる小道具もまちまちです。仏教の強いところでは仏教的な、道教が強いところでは道教的な、ヒンズー教が強いところではヒンズー教的な色彩が強くなりはしますが、根本はアニミズム、日本の精霊信仰に近いもので、世界中いたるところで行われているのです。奇術の大会ならぬ、魔術の大会さえ催される土地もあります。そこではトリックは一切用いてはならないのです。文明程度が低いといわれる(何を基にして低いのか不明ですが)アジアやアフリカだけではなく、昔からキリスト教文化の強いヨーロッパやアメリカでさえ、このようなことはかなり広範囲に行われています。言い方を変えると、合理主義的教育が徹底し、近代科学主義がほぼ絶対のものとされて、キリスト教さえそれらに屈服して神の奇跡を信じられなくなっている土地、つまり「文明化された」と言われるこれらの土地においてさえ、社会の中に、また人々の心理の底辺に、アニミズムが根強く残っているのです。世界には多くの宗教と思想がありますが、基本的にまた圧倒的にアニミズムの世界なのです。



 聖書の世界観もまた、基本的にアニミズムであるということを、しっかりと理解しておかなければなりません。唯物的世界観でも自然科学至上主義の世界観でもないのです。合理主義的信仰、理神論的信仰に流されているクリスチャンたちは、唯物論的な見方を持ち込んで、聖書に記述されている奇跡の類は事実ではないと、さまざまな説明を試みますが、私たちはそれらを事実とみなし、何の不思議も不都合も感じません。わたしたちが捨てるべきなのは、アニミズムの世界観ではなく。創造主である唯一の神を礼拝するかわりに、創造物を礼拝する偶像礼拝です。たとえそれが天使だろうと悪魔だろうと、悪霊だろうと、聖人であろうと、マリヤであろうと、創造主以外を拝むのは被創造物を拝むことであり、偶像礼拝です。いつの時点かは不明ですが、天使たちの軍勢も、今は悪魔と呼ばれる霊も、また、それに従うようになった多くの霊も、もとはといえば、創造者であられる神に創られたものであり、神の世界に属する霊的存在ではなく、わたしたちと同じ被創造物に属する霊的存在なのです。その霊的な存在者たちは、この世界においても、私たちの間で、また私たちの中で活動しているのです。



 話を元に戻しますが、今、問題になっているのは、このような紛らわしい、まことの神と御使い以外の力に源を持つ、奇跡的な業や不思議が、教会の中で、またクリスチャンの活動の中で、公に行われてはいないかということです。それが無知によるものであれ、誤った善意によるものであれ、まったくの悪意によるまやかしであれ、行われてはいないかということです。



U 不思議やしるしに対するキリストのお言葉



 キリストの教えや働きからはっきりと分かるのは、キリストもまた、基本的にアニミズムの世界観を持っておられたということです。パウロが「私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗闇の世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです」と、アニミズムの世界観で語ったように(エペソ6:12)、キリストの戦いも人間に対するものではなく、この闇の世の支配者たちに対するものでした。その霊の世界の戦いの中で、キリストは、その戦いに関係のあるいくつかの大切な言葉を残しておられます。


 
 UA ご自分の権威と力が神からのものであることの主張



 キリストは、ご自分が病を癒し、悪霊を追い出されたとき、それらの働きが神からの権威によるものであり、さらに聖霊のみ業であることをお教えになりました。パリサイ派の学者たちは、キリストが悪霊どもの頭の力によって、悪霊どもを追い出していると論じたてましたが、キリストは悪魔の家に内輪もめはないとおっしゃって、ご自分は神の聖霊の力によって、悪霊どもを追い出しているのだと主張されたのです。またそれは、基本的に神の国の到来を意味し、神の権威と力による支配の現れであると、お教えになりました(マタイ12:24−28)。



 UB ご自分の力あるみ業が信じるべきしるしであることの主張 



 さらにキリストは、ご自分を信じられない者は、そのみ業を見て信じるようにとおっしゃり(ヨハネ5:36、10:25、38、14:11)、バプテスマのヨハネがキリストに使者を送り、キリストが待望のメシヤであるかどうかと尋ねたときも、ご自分がなさっていたみ業で判断するようにとおっしゃいました。(マタイ11:1−6) こうしてキリストは、み業にはしるしとしての積極的機能があることをお認めになりました。そのような理解を前提にして、聖霊による明らかなしるしを見ながらなおも反抗し続ける者は、聖霊を冒涜しているのであり、許されない罪を犯しているのだともお教えになりました。(マタイ12:31−32) 



 このキリストの同じお言葉を、ルカはあえて異なった言い方で記しています。多分キリストは、もっと長い言い方でおっしゃったのを、マタイもルカも短くまとめて記しているために、書き方が異なったのだと思いますが、ルカはマタイが「聖霊」と記したところを、「神の指」と記録しています。(ルカ11:20) これは聖霊が、現代のこの世界で、神の具体的な働きをされる役割を負っておられることを意味しているように、受け取ることができます。その神の具体的なお働きを拒絶するようでは、信仰を持つことは困難であり、罪が赦されなくなるとおっしゃっているのでしょう。



 UC 同じ権威を弟子たちに賦与されたこと



 その上キリストは、悪霊を追い出し病を癒し、力ある業を行う権威を、弟子たちに与えるとおっしゃいました。(マタイ10:1) そしてそのお言葉は、弟子たちの活動によって実証されました。(ルカ10:17−20) また甦りの後、すべての権威を受けたキリストは、再び弟子たちに権威の委託をされています。(マタイ28:18、マルコ16:15−18) これは単に弟子たちに対するものと考えずに、むしろいまや生まれ出ようとしていた、教会に対してなさったことであると理解すべきであり、教会がキリストから権威を委託されていると考えるべきです。したがって、教会は今もこの権威を持っているのです。



 UD 力ある業よりも救いを喜ぶべきであると教えられたこと 
 


 しかし、そのように力ある業を大切にされたキリストではありましたが、弟子たちがその力ある業のすばらしさに、あまりにも引き付けられてしまったときには、そのような業が、決して最も大切なものではないということを、明らかにされています。弟子たちは悪霊が追い出され、病が癒され、悪魔の権威が失墜していくのを見るよりも、自分たちの名前が天に記されていることをよろこぶべきだったのです。肉体の癒しや物理的な奇跡よりも、救いのほうがずっと大切なのです。(ルカ10:17−20)



 UE しるしを行うことを拒絶されたこと
 


 たくさんの病人を癒し、多くの悪霊を追い出し、数々の奇跡を行っておられたキリストでしたが、敵対する人々がしるしを見せるようにと迫ったときには、これを拒絶しておっしゃいました。「悪い、姦淫の時代はしるしを求めています。だが預言者ヨナのしるしのほかは、しるしは与えられません。」(マタイ12:39、16:4、ルカ11:29) 一方ではご自分の力ある業が、信ずべきしるしであると主張されたキリストが、ここでは、しるしとしての業を行うことを拒絶しておられるのです。これは、荒野での悪魔の試みにおいても示された態度と同じです。悪魔が持ち出した三つの誘惑のうち、少なくても一つは、しるしだけを目的としたしるしを行うようにというものでした。それをキリストは断然拒否なさったのです。(マタイ4:1−11)



 ここで分かることは、キリストのみ業は、結果として、しるしとしての機能を果たすが、しるしを目的としたみ業は、行わないということです。つまり、キリストのしるしには、あくまでもそのしるしが行われるべき直接の必要性、妥当性というものが他にあって、そのために行われるのであり、しるし自体のために、それを見せるために行われるものではないということです。ですから、たとえ目を剥くような大きなみ業を行われたとしても、ご自分の時が熟していないときには、キリストはそれを人々話してはならないと命じて、しるしとしての機能を果たさないようになさっているのです。(マタイ9:30、マルコ1:44、7:36、8:30)


                                    つづく




























posted by ms at 00:00| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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