2010年11月13日

しるしを求める時代 (3)


 UF 力ある業を行う人々を拒絶する可能性があること



 キリストがおっしゃったお言葉のうちで、もっとも衝撃的なものの一つが、つぎの一節です。「その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇跡をたくさん行ったではありませんか。』しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け』。」(マタイ7:22−23) キリストの名を用いて語り、キリストの権威を持って、さまざまな良い業を大々的に行っていても、キリストはその日、彼らに向かって「お前たちを知らない。私から離れよ」と、厳しいお言葉で退けてしまわれるのです。



 それらの人々の中には、誠心誠意キリストに従っていると、思い込んでいた者もいたはずです。あるいは、まったくの偽りもので、始めから毒麦として入り込んでいたものかも知れません。ただ、キリストのお言葉からは、自分たちが毒麦であることを、彼らは自覚していないように読み取れます。とにかくそのあたりの細かいことは不明だとしても、明白なのは、大きな業を行っていることが、そのまま、キリストの承認を受けていることの証拠にはならないし、キリストの弟子であることの証明にもならないということです。言い換えるならば、業それ自体では、何の証拠にも証明にもならない言うことです。



 UG 力ある業や不思議で選民をも惑わす者たちが出現すること
 


 もうひとつ衝撃的なものを挙げると、「にせキリスト、にせ預言者たちが現れて、できれば選民をも惑わそうとして、大きなしるしや不思議なことをして見せます」というキリストのお言葉があります。(マタイ24−24) ここでは、これらの偽者たちが、本物たちよりもむしろ大きな力ある業を行うようなのです。しかもそれは、キリストや預言者の名をもって行われるのです。それで、選民たちまで騙されてしまうのです。この「選民」という言葉は、直接的にはユダヤ人を指すものだと考えられますが、クリスチャンにも適応されると考えると、非常に恐ろしいものです。ユダヤ人も、クリスチャンたちも騙される可能性があるのです。あたかもキリストであり、預言者であるかのように語り、行動するのでしょう。なかなかその本質を見抜けないほど、巧妙に騙し続けるのでしょう。そしてその騙しのテクニックの中心が、大きなしるしや不思議を見せることなのです。



 大切なのは、彼らが正真正銘の預言者であると宣言し、正真正銘のキリストだと語っても、そして彼らがどのように大きな業を行い、どれほど多くの信奉者を集めていたとしても、それを信じてはならないことです。つまり、またもや同じことですが、業それ自体では、何の証拠にも証明にもならないのです。また、彼らが自分たちをどのように言いふらしていても、まったくあてにはなりません。彼らは偽り者であることを自覚して偽り、だまそうとして選民さえだますのですから、本物よりも本物らしいのでしょう。ですから彼らの教えや活動も、とにかく本物に似ているはずです。クリスチャンは、非常に注意深くなければなりません。大きな警鐘です。



V 不思議や力ある業について、聖書に基づいての考察



 不思議や力ある業についてのキリストのお言葉について、簡単に見てきましたが、ここではそれらのキリストのお言葉をも含めて、もう少し聖書全体から関係ある教えや記事を探し出して考察してみましょう。



 VA しるしとして機能する業 
 


 聖書に記されている、さまざまな奇跡的業を注意深く観察すると、それらは、いくつかに分類されます。



  VA1 旧約時代
 


 旧約時代の業のほとんどは、しるしとして機能しました。この頃のみ業のほとんどが、神観念の低いというか、神様についてあまり理解をしていない人々を対象に、行われていたことがわかります。

 

 まず神様がモーセに現れてくださったとき、燃える芝の不思議を見せてくださいました。それは、神観念がまだまだ曖昧だったモーセに対する、神の自己紹介でした。神のことを充分には理解していなかったモーセに対し、神は、ご自分の力を示すために、モーセの杖を蛇に変えて、またそれを元通りにしてくださり、さらにモーセの手を雪のように白くし、元通りに直してくださったのです。



 パロの前で行った蛇の奇跡は、モーセに対しては、神が約束をお守りになる神であることの証明でしたが、それ以上に、神のことをまったく知らないパロに対する、神の自己顕現であり、異教の神々、あるいは異教の呪術に対する力の対峙でした。ここまでの奇跡的業は、みな業そのものの必要性があったわけではなく、ことごとく、しるしを目的としたものでした。



 そしてそれに続く10の災いの業も、パロとエジプト人に対する神の力のしるしであったと同時に、イスラエル人に対する神の自己啓示であり、力を示し、信頼に足る方であることを示すしるしでした。エジプトに対する神の刑罰という側面はあったとしても、これらの奇跡も、業それ自体に大きな必要性はなく、しるしを目的としていたと判断されます。その後の火の柱と雲の柱は、カナンへの道を知らなかったイスラエルを導くためのものであり、また明らかに、追跡してくるエジプトの軍勢をイスラエルから隔てておくためでした。しかし、それはイスラエルの人々への、神の臨在の強いしるしとなりました。



 これから後の、紅海が分かれる奇跡、苦い水が甘い水になる奇跡を始めとする数々の奇跡は、みな、直接的にはイスラエル民族を助けるための奇跡ですが、すべて、神観念の低いイスラエル人への神の自己顕現として、教育的な目的を持つしるしでした。イスラエルの民は、常に周囲の民族の異教文化に影響されて、偶像礼拝に陥る危険の中にいましたので、神は、ご自分こそ力ある神であることを、教え続けなければなりませんでした。そのために、たとえばエリコの城壁を崩すというような、スペクタクルなことを敢えてやってくださったのです。神様は、もっと自然な方法でイスラエルに勝利を与えてくださることもできたはずですが、イスラエルへの目に見えるしるしとして、城壁を崩してくださったのです。



 ギデオンに現れてくださった神は、まさに、しるしのための業、しるしとしての目的以外に、何の目的もない業を行ってくださいました。2回にわたる夜露のしるしです。これも、神様に対する知識と信仰が足りなかった、ギデオンに対する神の自己顕現です。一般に神観念、神の理解が低かった、旧約時代の初期においては、神は敵対するものに対する力の誇示としてだけではなく、お用いになる「神の人」への励まし、勇気付けの自己顕現もしなければなりませんでした。



 列王記や歴代史の時代にも、神は、いくつもの奇跡を行っておられます。直接的には、イスラエルの必要にお答えになる形ですが、神が力の神であり、救いの神であり、哀れみを持って助けてくださるお方であることを示す、しるしとしての機能を持っていました。バアルの預言者たちと争ったエリヤに、火をもってお応えくださったのも、明らかな力の対峙で、しるしの機能をもったものでした。バビロンの捕囚時代の神も、シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴが、ネブカデネザル王の命令に背いて金の像を礼拝しなかったとき、彼らを七倍熱く焼かれた炉から守り、ペルシャ王ダリヨスの時代には、ライオンの穴に投げ込まれたダニエルを救い出してくださいました。これらも、イスラエルの神がまことの神であることを、王たちをはじめ、一般の人々にも広く知らせるためのしるしとして、役割を果たしました。



 旧約時代の多くの業の特徴は、このように、しるしとしての機能を持っていたということです。それは、人々の神観念の低さを考慮してくださった、神の対応でした。



   VA2 キリストの時代
 


 キリストも数々の奇跡、力ある業を行ってくださいました。キリストが行われたみ業はすべて、聖霊の力によるものであり、神のみ姿を一時的とはいえ放棄なさった、第二神格の神の力ではなく、第三神格の神であられる聖霊の力によるものです。キリストは私たちと同じ人となり、聖霊の力なしには、大きな働きをすることができない方になってくださったのです。そしてキリストのみ業の特徴は、神を知らない人々に対して神の力を見せることではなく、神について充分理解しているイスラエル人に対してのものであり、彼らが待ち望んでいた、神の国がすでに到来していることの証明でした。(マタイ12:28) それはとりもなおさず、その業を行っている人物が、神の国の王であり、キリストであることの証拠でもあったのです。(マタイ11:1−6)



 ラザロを蘇生させるという奇跡は、キリストがご自分のみ業を、しるしとして、最大限に用いようとなさったことが示されています。キリストはラザロが死にかけていることを良くご存知の上で、わざわざ、ぐずぐずと出立を遅らせて、ラザロが死んで4日もたってから、彼の墓にお着きになったのです。ラザロの体はすでに腐り始めていました。人々はそのことを良く知っていました。ですから、ラザロの蘇生は単なる蘇生、時として見られる自然現象の蘇生でも、小さなショックを与えて生き返らせる蘇生でもなく、現代的な言い方をするならば、「肉体のすべての細胞が死んでからの」、絶対に不可能な奇跡として、人々に伝えられていったのです。とくにこの奇跡は、死をも打ち破ってくださるキリストの力を示し、キリストが死を超えた救い主であることを、証明したものです。それは、間もなく起こるキリストご自身の復活に対して、心の準備をさせるものであり、約束された永遠のいのちに対する、希望を持たせるものでもありました。キリストはそのようなことを見越した上で、出立を遅らせることになさったのです。 



 キリストの奇跡的み業を調べると、ご自分の弟子たちだけを対象としたものが、いくつかあります。たとえば、嵐を鎮めたこと、水の上を歩かれたこと、魚の口から金貨が出ることを予告なされたこと、ロバの子がつながれていることを知っておられたこと、などなどです。これらは、キリストの弟子とは言え、やはりキリストに対する理解と信仰に、まだ、はなはだ不充分なところがあった彼らに対して、教育的な意味を持っていました。その意味では、キリストがいらっしゃらなかった時につぶやいたトマスの言葉を、キリストがよくご存知だったことは、その教育的目的を大きく果たすことになりました。トマスは「私の主。私の神」と告白し、この期に及んで、改めてキリストを神として礼拝したのです。(ヨハネ20:28)


 このように、キリストのみ業の多くも、しるしとしての機能を持っていたのです。



   VA3 使徒時代
 


 使徒の時代の最初の奇跡は、神殿での足なえの癒しでした。これもまた、大きなしるしとして機能しました、この場合、この癒しが証明したのは神の力でも、キリストの力でもなく、キリストの甦りであり、キリストが死に打ち勝った救い主であるという事実でした。また、教会がキリストの権威を持っているということでした。



 その後の奇跡も、キリストの蘇りが真実であり、教会と共に働いておられるというしるしでしたが(マルコ16:20)、 パウロの異邦人宣教の開始から、また異なった意味でのしるしとなって行きました。それはあたかも旧約時代にもどったかのようです。つまり、異邦人宣教の中での奇跡は、神観念の低い異教の人々に対する、真の神の力の証拠として、力の対峙の形で行われているのです。パウロたちは、異邦人宣教の最初の場所として行ったキプロスにおいて、バルイエスという魔術師に遭遇し、彼の目を見えなくしてしまいます。これがしるしとなり、その地の総督、セルギオ・パウロは真の神を認め、キリストを信じるようになりました。(使徒13:4-12) 彼らが、福音宣教旅行の中で行っていた癒しや奇跡の業は、彼らが語る福音の真実性を証明するものとなったのです。(使徒14:3) しかし、使徒たちの宣教においては、癒しや奇跡自体では、しるしとしての役割を充分に果たすことがありませんでした。あくまでも、まず明確な福音の提示、宣教の言葉があって、それを補佐するものとして力があったのです。(使徒14:8−18) 福音の明らかな提示のない奇跡は、異教文化の偶像礼拝の中に、埋没してしまうのです。(使徒14:8−18、28:1−10)



 面白い出来事は、エペソにおけるユダヤの祭司長、スケワの7人の息子たちにまつわることです。彼らはユダヤ人であり、祭司長の息子でありながら、異教の習慣に染まって魔よけ祈祷師をやっていたのですが、パウロたちがやっていることをまねして、キリストのみ名によって悪霊を追い出そうとしたのです。ところが悪霊たちは、「イエスもパウロも知っているが、お前たちは何者だ」と言って、彼らに飛びかかり、裸にして傷を負わせて追い出したのです。この出来事は多くの人々の知ることなり、主イエスのみ名があがめられるようになりました。(使徒19:11−20)



 このように聖書に記されている多くの奇跡的な業は、明らかにしるしとしての役割を持っていました。また、たとえそれを直接の目的としてはいなかったとしても、結果としてしるしとしての役割を果たしていました。

                                   つづく











posted by ms at 00:00| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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