2010年11月14日

しるしを求める時代 (4)


 VB しるしとして機能しない業



 しかし一方でキリストは、さまざまな奇跡的業が、しるしとしての役割を果たさないことがあることも、はっきりとお教えになりました。すでに触れたように、キリストは、ご自分の名によって悪霊を追い出し、奇跡をたくさんおこなった人々を、終わりの日に拒絶する可能性があることをお告げになりました。また、偽キリストや偽預言者が出現し、大きなしるしや不思議なことをして、選民をも惑わすと警告しておられます。この事実は非常に大切です。そのことがいつ起こるかという点は、確実ではありませんが、一般的な事柄としては、いつでも起こりうると考えておくべきだと思われます。



 そして、これらのお言葉からはっきりと分かることは、神の言葉を語ったり、悪霊を追い出したり、奇跡を行ったりすることは、キリストの弟子である保証にも、神に用いられていることの証明にも、またその業の背後に神がおられるという証拠にもならないという事実です。キリストは、一方では業がしるしとなることを積極的に認め、これを利用し、ご自分を信じることができないものは、そのみ業を見て信じるようにと、おっしゃいましたが、他方では、業それ自体では何の証拠にもならないと、おっしゃっているのです。



 また、そのようなしるしとはなりえない業を行う者たちにも、二種類あることもわかります。ひとつは、自分がキリストの弟子であると信じている人々です。彼らは、自分たちが、キリストがお教えになったことを教え、キリストが行われたことを行っているから、キリストの弟子であるに違いないと思い込んでいました。



 そんな彼らを、キリストが退けられるには、いくつかの理由が考えられます。ひとつは、彼らの信仰が間違っていることです。つまり、キリストの贖いを、自分のものにできないでいたことです。それから、倫理的にキリストの御心から大きく外れていたことです。理屈としては正統な信仰を持っていたかもしれないけれど、聖霊を内に宿す経験をしていなかったということです。また、一時期は正しい信仰と正しい倫理によって歩んでいたけれども、信仰の道を踏み外していたということも可能です。さらに、キリストの教えを断片的には正しく教えていても、全体的には大きな間違いを犯し、真理から遠ざかっていたということも考えられます。どちらにしても、この種の人々に従ってはならないのです。



 もう一つの種類はさらに悪質で、最初から人を欺く目的でいろいろな業を行う、偽キリストや偽預言者です。彼らは自分がキリストの弟子であるなどとは、はなから思っていません。もともと、キリストや預言者を装って、人々を騙そうとしているのであり、その目的のためには手段を選ばず、さまざまなテクニック、超能力、さらには霊的な力を用いるのです。現在テレビなどで盛んに行われている奇術や魔術の業を用いるならば、非常に多くの人々を騙すことができることでしょう。たとえば、ペテロに叱られたシモンも、そのようなテクニックをも駆使して、自分を大きく見せていたということも考えられます。(使徒8:9−24) 金を出して、聖霊のバプテスマを与える力を買おうとしたところなど、ありそうな話です。また超能力者ならば、かなりの線まで人々を騙し続けることができるでしょう。さらに、悪魔や悪霊と手をつなぐならば、大群衆や選民たちまで、騙すことができることでしょう。



 自分はキリストの弟子であると思い込んで業を行っていながら、その実、そうではなかったという人々と、最初から偽者であることを自覚し、人々を騙す目的でやっている人々を、本物のキリストの弟子から判別する作業は、困難を極めます。これは一般の信徒たちに限らず、伝道者や神学者にとっても同じです。その困難さは、キリストも毒麦のたとえでお話しになっている通りですから、私たちは、これに対しては、非常に注意深くあたらなければなりません。(マタイ13:24−30)



 しかし牧師たるもの、ただ困難だといって言い訳をしているわけにはいきません。群れを守る役割を与えられている牧者として、最善を尽くさなければならないのです。特にペンテコステ信仰に立つ私たちは、奇跡的な業を信じているために、多くの福音派の牧師のように、奇跡的業をことごとく否定したり、悪魔からのものと断定したりして済ませることはできません。ただ、偽キリストを判別するのは、しっかりと聖書を学んでいる人には、比較的易しいことのように思われます。偽キリストは、聖書を知らない一般の人々、あるいは新約聖書を認めず、いまだに旧約聖書の独自の解釈から想定されるキリストを待ち望んでいるユダヤ人に、受け入れられることになるでしょう。



 またすでに触れたことですが、キリストは、ご自分がなさった力あるみ業を、人々に知られないようにするために、「だれにも言ってはならない」と、お命じになったことが幾度かあります。人々に知られたならば、しるしとして効果を発揮したであろうものを、キリストは敢えて人々からお隠しになったのです。それはキリストの時がまだ来ていなかっただめです。



 キリストは、ご自分のみ業に興奮した人々が、無理やりにご自分を担ぎ上げて王にしようとする、不穏な動向を予め知っておられました。キリストの主だった反対者は、ユダヤの指導者たちで、彼らも自分たちの国家の独立を望んでいたとはいえ、最大の心配は、むやみやたらに暴動が起こり、結果として、宗主国であるローマの駐屯軍が鎮圧に乗り出し、国家が蹂躙され、弱体化してしまうことでした。彼らは、この時点でローマと一戦を交えるのは、なんとしても避けたかったのです。そこで指導者たちは、できるだけ早く、キリストを亡き者にしようと画策していたわけです。(このときからおよそ40年後、ユダヤ人はローマに反旗を翻して立ち上がりましたが、完全に敗北して、紀元70年、国家としてのユダヤはここで完全に崩壊し、歴史から姿を消してしまいました。)



 そういうわけで、キリストのみ業が多くの人々に知られ、人々の期待と興奮が、あまりにも早いうちに沸騰しては、キリストが地上においでになった使命をやり遂げる前に、死を迎えるはめになりそうだったのです。キリストはそれを回避するために、人々の口に鍵をかけようとなさったわけです。キリストは、癒しなどの奇跡のみ業の必要性を認めながら、そのしるしとしての効果をお嫌いになったのです。



 VC しるしの必要性
 


 業には、確かにしるしとしての効力も、しるしとしての目的もありました。今まで学んだところから分かるのは、業のしるしが必要であると認められている人々と、認められていない人々がいるということです。



  VC1 しるしの必要を認められている人々



 まず、しるしを必要としていると認められ、業がしるしとして与えられているのは、基本的に、神の概念の低い未信者や、福音理解の乏しい人々であるという事実を、理解しなければなりません。



 すでに学んだように、イスラエルの歴史の初期において、人々の神観念と信仰理解が非常に幼かったとき、しるしは、真の神が誰であるかということを悟らせるために、大きな意義を持っていました。しかし、イスラエルの神観念が発達し、信仰理解も深まるにつれて、しるしの目指すところ、すなわちその業が何のしるしになるのかという点において、変化が起こっています。



 キリストの時代になると、ユダヤ人はすべて偶像礼拝を捨て、基本的に真の神を知るようになっていましたので、以前のような目的のしるしは、不要になってしまいました。かわりに必要となったのは、キリストが神の権威を持っていること、神の国(神の支配)が現実に到来していることを示すしるしでした。



 それから使徒時代になり、福音が異邦人の世界に及ぶ前に、特異なしるしが人々に与えられました。それは神殿における足なえの癒しです。この癒しは、キリストが甦って働き続けておられることを、人々に認めさせるしるしとなりました。そして、福音が異邦人に及ぶに至って、また、神観念の低い異邦人に真の神を知らしめる必要が起こり、力の対峙の形でしるしが現れています。

 

 40年ほども前になりますが、当時沖縄で活動していた筆者の近くに、すでに相当高齢の牧師が住んでおられました。この牧師は「ユタ」と呼ばれる、沖縄独特の女性霊媒師について研究していたのですが、実際、時折ユタたちの総本山のような場所に出向き、彼女たちの活動の様子を観察していたものです。するとあるとき、ユタたちが牧師の前に来て、「あなたの背後にいらっしゃる大きな神様を恐れて、私どもの神様が降りて来ることができません。どうか、この場を離れてくださいませんか」と、丁重にお願いしたというのです。この牧師はペンテコステ信仰とは程遠い方でしたが、その真摯な信仰態度に、わたしはとても感動していたものです。牧師は力の対峙などしようと思ってもいなかったようですが、霊的次元ではそれが起こっていたのです。力の対峙は、福音の未開地、特にアニミズムの強い文化では、かなりの効果を持って福音宣教の支援になると考えられます。キプロスでクリスチャンになったセルギオ・パウロの場合と同様のことが、現代でも起こっているのです。(使徒13:4−12)



 たとえば現在、第三の波と呼ばれる新しいペンテコステ運動で活躍している人々の中には、もともと、現代の奇跡などを信じることができない、伝統的信仰を持っていた人々がたくさんいます。彼らの多くは、宣教師としてアニミズムの強い文化背景に入り、そこで、ペンテコステ系の人々が行っている、キリストのみ名の権威による癒しや奇跡を見て、信仰理解や神学を変えたと語っています。



 さらに、当時のキリストの弟子たちも、しるしを必要としていました。弟子たちの理解の遅さ、信仰の幼稚さを補足するためには、どうしてもしるしが必要でした。弟子たちは、わずか3年と少しの訓練期間の後には、キリストの弟子として、福音宣教と教会設立の大役を、担わなければならなかった上に、ある者は、さらに、新約の啓示を記録する重要な役割さえ負わされていたのです。彼らの神観念そのものは、ユダヤ人として、当然、かなり高度になっていましたが、ナザレのイエスこそ、国民全体が数百年も待ち続けていたキリストであるという、理解と信仰はまだまだ不充分でした。



 ここで確認しておかなければならないのは、当時の彼らには、まだ奥義が明らかにされていなかった、すなわち新約時代の啓示がまだ与えられていなかったという事実です。神の贖いのお働きを体系的に教える新約聖書が、まだ書かれておらず、キリストがお語りになったことを解き明かしてくださる、聖霊のお働きもまだ始まっていなかったのです。したがって、たとえ3年半にわたって、キリストと寝起きを共にした内弟子であっても、彼らの福音全体の理解程度は、現在の私たちに比べても、ずっと低かったのです。キリストが昇天するその日にいたっても、まだ、「主よ。今こそ、イスラエルのために国を再興してくださるのですか」などと、的外れなことを言っているのです。この期に及んでも、弟子たちが期待していたのは、イスラエル国家の再興と、キリストが王座に付くことであり、あわよくば、自分たちが右大臣左大臣に任命されることだったのです。



   VC2 しるしの必要を認められていない人々



 ところが、甦られたキリストは、キリストの甦りをどうしても信じられなかったトマスに向かい、「あなたは見たから信じるのか。見ないで信じるものは幸いである」と、おっしゃいました。キリストの3年半に及ぶ訓練期間が終わる頃には、弟子たちは、見て信じる信仰から、見ないで信じる信仰へと、成長していなければならなかったのです。すくなくても、キリストはそのように望み、期待しておられたのです。



 それなのに、キリストのよみがえりを信じられず、目で見、手で触れるものを信じるという、実証主義を採ったトマスは、さしずめ、現代の科学者を代表するような考え方をしています。それに対し、キリストが彼らに期待しておられた信仰は、蘇りという信じ難い出来事でさえ、甦られたキリストを実際に見て信じるのではなく、甦るはずだと待ち望み、甦ったと聞いてすぐさま信じる信仰だったのです。旧約聖書をしっかり学び、キリストの教えを総合的に理解していれば、甦りは信じられないような、突然の出来事ではなく、期待しながら待ち望むべき、神のご計画だったのです。(ルカ24:25−47) 残念ながら、当時の弟子たちもみな、現代の私たちと同じ不肖の弟子で、この、「そうあるべきだった」信仰の地点までは、到達できずにいたのですが、少なくても弟子たちは、そのような信仰を期待されていたのです。彼らは本来、しるしを必要としない人々に、なっているべきだったのです。



 さらにキリストは、パリサイ人や祭司たち(サドカイ人)さらには律法学者などの、ご自分に敵対する人々には、しるしの必要性を認めていません。その理由は多分、まず、彼らは信じないこと、受け入れないことを前提として、しるしを求めていたことです。どのようなしるしを見たとしても、受け入れないと決心しているものには、無駄というものです。(ルカ16:31) また、彼らは旧約聖書の専門家でした。彼らは聖書を学んで、キリストについての正しい知識を得ているべきだったのです。そうすれば、しるしを見なくてもキリストを信じることができたはずなのです。



W 私たちにはしるしが必要と認められているか



 さて、大切な問題は、現代の私たちにはしるしの必要性が、認められているかどうかということです。認められているとするならば、なぜそういえるのか、認められていないとすれば、いかなる理由からか、考えてみましょう。



 WA 現代におけるしるしの必要性



 日本は異教文化です。パウロが異邦人宣教を行ったときと、基本的に変わりません。もちろん、人々は非常に合理的な、あるいは科学的なものの考え方をしています。したがって、パウロの時代の異邦人のような、迷信深い考えかたはしていませんし、世界観も当時の人々の世界観とは異なっています。



 しかし先にも触れたように、日本人には、精神的二重構造ともいえるものがあって、一方では非常に科学的なものの考え方をして、神を始めとして、あらゆる霊的な存在を否定する傾向がある一方で、その同じ人間が、折に触れては神社仏閣に詣で、運勢占いに一喜一憂し、霊媒師や占い師のもとをたずねるのです。進化論を正しいと信じていながら、幽霊だの、背後霊だの、あるいは前世だのを信じているのです。その様なものが、進化の過程のどの時点で、なにから進化して発生し、どのように現れてきたのか説明してほしいものですが、一般の日本人は、それで矛盾を感じていないのです。現代の日本も、基本的にアニミズムの世界なのです。多くの人々は科学とは別の次元で、何らかの霊的な、あるいは超科学的な力が働いていると、信じているのです。



 このような人々の間では、まだまだしるしと不思議による働きは効果があります。まじない師や占い師、あるいは宗教家たちが不思議や奇跡を行っている場面に遭遇し、どうしても力の対峙が必要な場合には、不思議や奇跡による力の対峙もあり得るでしょう。またなければなりません。福音は、特に異教世界においては、賢い言葉だけによるのではなく、力によって伝えられなければならないのです。(ローマ15:19、I テサロニケ1:5)

                                  つづく












posted by ms at 00:00| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

認証コード: [必須入力]


※画像の中の文字を半角で入力してください。
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。