2010年11月15日

しるしを求める時代 (5)



WB 現代におけるしるしの可能性



 では、日本では不思議やしるしが多発すべきかというと、考えなければならない点がたくさんあります。まず日本の文化が、そのようなしるしを求めているかということです。日本の大衆は、興味本位の、不思議や奇妙なものは、娯楽として、話の種として求めていても、真実なもの、信頼性のあるものとしては、あまり求めていません。占い師や霊媒師に伺いをたてることがあっても、それを真実に重んじる人はわずかです。そのようなものと力の対峙を行ったところで、単に好奇心を満たすだけのことに終わり、真実なもの、信頼性のあるものという感覚からは、かえって離れてしまうという欠点があります。



 もしも私たちの周囲で、モーセのときのように、持っていた杖が蛇になったり、手が白くなったりしたならば、あるいは蛇になった杖が、もう一匹の蛇を飲み込んだりしたならば、見世物としては、大いに面白いでしょう。しかし、信頼性という意味では、まったく欠けてしまいます。街頭の奇術師でも、その程度のことはするでしょう。天地創造の神が、奇術のレベルに失墜するのです。神の救いの歴史が、珍奇な見世物に成り下がってしまうのです。これではしるしがしるしとして役に立ちません。



 ですから、そのような形での力の対峙や不思議、あるいはしるしは、神観と共に、すべての物事に対する理論的な思考ができなかった時代に、限られていました。聖書を読むとそのような形のしるしが行われたのは、旧約時代の初期から中期に至るまでで、その後は行われなくなっています。イエス様も、悪魔の試みの中の一つがその種のしるしの要求だったことに対し、断じて拒絶なさいました。同じ異教の文化の中での働きであっても、使徒の働きの記録の中には、しるしだけを目的としたしるしは出てきません。したがって、その種のしるしは旧約時代の初期に限られていたと、判断して良いでしょう。現代の世界で、人々の世界観や神観、あるいは思考力というものが、旧約の初期の時代と同じような文化があるならば、その中において、しるしを目的としたしるしもまたあり得るかもしれません。しかし、日本の文化の中では、まずあり得ないことでしょう。



 一方、新約聖書の記述を読むと、キリストも使徒時代の弟子たちも、多くの癒しや悪霊の追放を行い、それが結果として良いしるしとなっています。弟子たちの信頼性、あるいは彼らが語る福音の真実性は、彼らに伴って行き、共に働いてくださった聖霊のみ業によって、すなわち、癒しや悪霊追放を始めとする、聖霊のお働きによって、証明されていったのです。そのような形での聖霊のみ業に対する必要性は、今もたくさん存在します。医学が発達し、多くの病気は医学的な治療で治るようになりました。しかし、まだまだ奇跡的癒しの必要性は残っています。また、たとえ医学が発達したとしても、結局、癒してくださるのは神であって、薬でも、人間の手でもありません。医者だけに頼って、神に頼ることを忘れたために、結局、死ななければならなかった、アサ王のようになってはいけないのです。



 WC 現代日本人クリスチャンに対するしるしの必要性



 さて、ここで問題なのは、現代の日本に住むクリスチャンに、果たしてしるしが必要かということです。癒しや奇跡、悪霊の働きに対する勝利というものはあり得るし、なければならないでしょう。そしてそれらは結果として、福音の信頼性を増し、神に対する信仰の強化につながることでしょう。しかし、いまの私たちの信仰に、しるしは必要なのでしょうか。



 最近のペンテコステ系の人々の一部で、話題となりもてはやされたりしている、金歯が生えてきたり、銀歯が金歯に変わったりすることには、何か意義があるのでしょうか。なくなっていた歯が生えてきたり、ひどい虫歯が健康な歯になったり、歯痛がなくなったりしたのなら、それなりの意義があることでしょう。あるいは集会の中で、金粉が降って来たり、金粒が落ちてきたりすることに、必要性があるのでしょうか。そのようなことを宣伝し、報道する必要があるのでしょうか。豊かな「キリスト教国」の、「繁栄の福音」の犠牲になっている発展途上国で、今にも飢え死にしそうな子供たちの上に、食べ物が降ってきたというなら、素晴らしい奇跡かもしれません。報道の価値があるともいえるでしょう。



 少し前に、拙文をウェブで読んだ牧師から電話がありました。この牧師の教会に出席していた信徒の親が、金粉だの金粒だのが降る集会に出席して、驚き、子供たちまで連れてそこに出かけるようになったために、結局、その信徒はそちらに捕らえられてしまったということです。このようなしるしとしてのしるしが、日本の、クリスチャンたちの間で行われ、もてはやされているという事実に対し、私たちはどのように考えるべきでしょう。



 「そうですか。今度は金粉ではなく、金の粒ですか。重くなったんですね。私もそこに出かけて拾い集めたくなりますね」とお答えしましたが、果たしてそれがまさしく金だったのか、金色に光る物体だったのか、あるいはあたかも金が降ってくるように見えた現象なのか、詳しいことは知りません。しかし、こうなると、ばかばかしくて話にもなりません。すでに学んだように、このような、他に明確な必要性のないしるし、しるしだけを目的としてしるしは、旧約時代の中期にはすでに終わっているのです。現代の日本人クリスチャンは、旧約時代前期の、神を知らない人々と同じ精神構造になってしまったのでしょうか。



 神に不可能はありません。金粉や金粒なんぞとみみっちいことは言わず、金塊だって、ドーンと、1トンもある金のかたまりだって降らせることがおできになります。ダイヤモンドだってサファイヤだって、降らせることが可能です。でも神様は、今はそのようなことをなさらないのです。現在の私たちの周囲に起こる不思議や奇跡は、必ずそれ自体の必要性があって行われ、それが結果としてしるしになるのです。神にはできるということと、神がなさるということの間には、大きな違いがあるのです。筆者にも、人殺しができますが、筆者は人殺しはしません。できるけれどしないのです。



 さらに、現代の私たちには、完結した啓示と霊感の書が与えられ、また、その書を正しく理解できるように、聖霊の助けも与えられているという事実を、思い起こさなければなりません。私たちには聖書があり、聖霊の照明と、聖霊の証印が与えられているのです。もしも、キリストの弟子たちが、トマスに求められたように、訓練の終わり頃には見て信じるのではなく、見ないで信じることを求められていたとするならば、神の救いのご計画全体と、三位一体の神のそれぞれの神格のお働きについて、明らかに記している聖書が与えられている現在、そのうえ、聖霊が解き明かし、証をしてくださっている現代に生きる私たちには、なおのこと見ないで信じる信仰が、求められているのです。



 それにもかかわらず、いまさら、しるし以外になんの目的もないしるしを期待するのは、実におろかなことです。また、そのようなしるしを見せられることが、偉大な神の働き人であることの証明であるかのように考えるのも、実に愚かなことです。そのようなしるしを行う人々を、神の人とあがめるのも愚かである以上に、危険なことです。



X 偽りの預言者



 さて、もしも現在、純然たるしるしを目的としたしるしを行い、それを宣伝している、あるいは人集めの道具にしている者がいたとするなら、私たちは彼らについて、どのように考えるべきでしょう。実際、そのような伝道者や牧師、教師や宣教師、さらには使徒だとか預言者と自称している人々がいるということなのです。



 XA 警戒をする
 


 その種の人々がいたならば、まず私たちは警戒をしなければなりません。神の名を騙って、神のみ業ではないことを行っている可能性が、非常に高く、そこには単なる間違い以上の、悪意を感じるからです。神がそのような不思議や奇跡、あるいはしるしに関わっておられないとしたら、彼らは、何の力でそのようなことをしているのでしょう。テレビで行っている手品や奇術と同じでしょうか。あるいは超能力でしょうか。はたまた、悪霊どもの力によるものでしょうか。いずれにしろ、神の名を騙っているのです。善意で行われているのではないのです。



 ただし、そのような人々と行動を共にしていたり、交わりを持っていたりする人すべてが、同じなのではありません。彼らも騙されている可能性が高いからです。とはいえ、それらの人々や、それらのグループ、あるいは彼らの行う集会などには、警戒心を研ぎ澄ませるべきです。そして、誰が指導者か、誰が中心的働きをしているのか、しっかりと見極めなければなりません、



 騙されている可能性の強い人々にもいろいろあって、ある人々は、かつて福音派の信仰を持っていたけれども、自分たちが否定していたペンテコステ系の人々の働きと業を実際に見て驚嘆し、ペンテコステ的な考えを持つようになったものです。彼らは自分たちもまた、イエスのみ名によってさまざまな癒しや奇跡を行うことができることを発見し、有頂天になり、少々極端に走っているといえます。いわゆる、先に触れた通り、第三の波運動に属する人々の多くがこれに相当します。



 70人の弟子たちが帰ってきて、み名によって命じると悪霊どもでさえ従うことに、すっかり興奮していたとき、キリストは、そのようなことで喜ぶのではなく、自分たちの名が、天に記されていることを喜ぶようにと、まあ、ちょっと頭を冷やし、何が最も大切なことかを確認させました。同じことが彼らにも言えます。彼らは現代における奇跡を否定していた極端から、奇跡に舞い上がる極端に、いわば、時計の振り子のように振れているのです。私たちは彼らが頭を冷やすことを願っています。



 この人々の欠点は、聖書をしっかり学ばず、自分たちのかつての神学の上に、表層的な現象主義
的な聖霊論を乗っけただけの、中途半端な理解をもって満足していることです。これらの人々がかつて学んだ改革派系の神学に、聖霊論をくっつけても、竹に木を接ぐようなものです。バプテスト的な神学でも、ウエスレアンの神学でも、同じです。もう一度、自分たちの神学を離れて、純粋に聖書から学ぶ必要があります。
 


 XB 警戒すべき人々



 今、私たちが最も警戒しなければならないのは、これらの人々としばしば行動を共にしていながら、これらの人々とは異なった部類に属する者たちです。彼らは始めからペンテコステ系の、極めて異端に近い人々、あるいは異端というべき人々の中から、あるいはそのような人々との交わりの中から生まれてきた者たちです。



 それはいわゆるレストレーション運動、後の雨運動、あるいは預言運動の人々です。レストレーション運動は、その胚芽期にすでにアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団からは公式に否定され、1948年の組織運動としての誕生の直後にも再び否定されたものですが、現在、第三の波系の人々と渾然一体化しながら、非常に活発に活動し、ペンテコステ系の教会はもとより、多くの教会に悪い影響を与えています。後の雨の人々、あるいはその影響を受けている人々を見分けるのは、比較的に簡単です。今のところ、彼らの用いている言葉が独特だからです。それらの言葉に触れたならば、霊的警告灯がつくようにしておくのが良いでしょう。それらの言葉の代表的なものを上げておきます。ただし、英文の翻訳の問題上、実際に日本で使われている言葉は、幾分違う可能性があることを理解してください。



 「後の雨」「ダビデの幕屋」「現された息子」「今の王国・支配」「ヨエルの軍隊」「代々にわたる呪い」「神の国に産み出す」「五つの役職」「預言の回復」「預言者」「使徒」「按手」「教会刷新」「セル・グループ」「新しい皮袋」「キリストの霊的再臨」



 後の雨運動は、ウイリアム・ブランハム(1909−1966)という非常に有名であるけれども、はなはだ怪しいペンテコステ系の伝道者の影響を受けています。彼は癒しと預言の働きで、全世界で活動した人物ですが、ワンネスの教義を信じ(三位一体を信じられない)それを宣伝していたほか、「イヴの罪は蛇との性的関係である」にはじまるさまざまな奇怪な教えのために、正統的信仰からは外れていると判断されていました。後の雨運動の多くの教えの基盤となった預言は、彼の影響によるところが大きいといわれています。


 このような教えの流れと、その影響の中には、昨今、非常に話題を振りまいているトロント・ブレッシングがあります。それがアッセンブリーズ・オブ・ゴッドの中に飛び火した、ペンサコーラのほうは、たぶん、アッセンブリーズ・オブ・ゴッドの中にある「良識的力が働いて」すでに鎮火しているようですが、トロント・ブレッシングは現在もいたるところで悪影響を及ぼしています。単に笑いのリバイバルといわれる現象的な問題だけではなく、その神学自体が非常に奇怪で、正統的な聖書の理解と信仰からは、ほど遠いところが数々ありますし、単なる間違いではなく、明らかに悪魔、あるいは悪霊によるとみなすべき活動も随所にあります。指導者たちがひそかに悪魔の名を呼んでいる場面が、ビデオで撮影されたりさえしています。



 また、これらの運動の中には非常に巧妙なものがあり、たとえば、セル運動などは単なる教会の伝道方策や管理運営の方法の違いだけではなく、後の雨の神学の中でたくみに利用され、彼らの言う既存教会の壊滅と新しい教会の出現に、一役買わされているのです。そのようなこととまったく関わりなく、セル運動をやっている人々もたくさんいますが、いつの間にか後の雨運動に取り込まれているというものも少なくありません。


 
 X.C 本当の神の人たちを見極める

 

 キリストのみ名を用いて不思議な働きをしている人々すべてが、キリストの弟子だというのではありません。いつわりの弟子もいるのです。実に厄介なのは、本人はまったくキリストの弟子であると思い込んでいながら、キリストによって、弟子と認められない人々がいることです。さらに厄介なことに、彼らは本物のキリストの弟子たちよりも、大きな業を行うのです。



 旧約聖書を読んでも、すべての偉大な神の人たちが、しるしや奇跡を行ったのではありません。言い代えると、癒しや奇跡の働きをしていなくても、ひじょうに立派な神の人がいたのです。新約時代になって、キリストによって教会に委託された権威の中に、癒しや奇跡の働きが含まれるようになってからでさえ、すべての弟子たちが、すなわちすべてのクリスチャンたちが、そのような働きをしていたのではありません。そのような働きをしなかった大多数のクリスチャンたちの中にも、素敵に立派な信仰者がたくさんいたのです。ですから、行われているしるしや不思議を見て、それを行っている人の正真性を判断するのは、危険だと知っておくべきです。確かに、キリストもパウロも、行っておられた業のしるしとしての効果を認めておられましたが、それは、信仰程度の低い人々に対するものであって、成長した信仰者は、そのようなところを越えていなければならないのです。



 それはちょうど信仰の初心者たちは、自分の悩みの解消のために、自分の人生問題の解決のために、自分の幸せのために神を信じても良いのと同じです。キリストは、すべて重荷を負って苦労しているものはわたしのもとに来なさいと、自分の幸せのために神をさえ利用しようとする、いわばとんでもない罪をおかしている人々を許容し、彼らをお招きになっています。しかし、信仰は成長しなければなりません。自己獲得の信仰態度にいつまでも留まるのではなく、父、母、子、兄弟、そして自分の命さえ捨てて従うところまで、到達すべきなのです。それを、キリストはお求めになりました、同じように、しるしを見て信じる信仰から、より高い信仰へ到達すべきなのです。癒しや奇跡、不思議な業は、未信者や信仰の初期の段階においては、大いに有意義な場合があります。しかし、いつまでもしるしを求めるものであってはならないのです。



 キリストに敵対していた、パリサイ人を始めとするユダヤ人たちは、神理解という点において、また、救い主の理解においては、決して素人ではなかったのです。だから、彼らはしるしを求めてはならなかったのです。彼らは、キリストの教えの内容を理解し、受け入れるべきだったのです。それができなかったために、というより、したくなかったために、彼らはしるしを求めて挑戦したのです。今しるしを求めるクリスチャンたちは、どんな理由で求めているのでしょうか。ギデオンのように、確証がほしいのでしょうか。残念ながら、私たちには福音が明確に提示され、私たちの信仰と生活に必要なことはすべて教えられている、聖書が与えられているのです。その上、聖書を正しく理解できるようにと、聖霊が与えられているのです。よほど、個人的な特殊な事情の中でなくては、そのようなしるしの正当性がないのです。



 いま私たちの間で話題になる程度の不思議な業ならば、「取り巻き」であり「たにまち」であるクリスチャンにとっては、大騒ぎするほどの奇跡かもしれませんが、奇術や魔術や、超能力に慣らされている一般人からすると、まさにどれほどのことでもありません。空中浮遊なんて簡単な奇術です。ぱっと消えてしまうことだって、瞬間移動だってできます。透視だって、マインド・リーディングだって、サイコパワーだって珍しくありません。金粉銀粉程度のことで、大騒ぎをする信仰のほうがおかしいのです。



 もっともっと大きな、不思議なことをする偽預言者や、偽キリストがあらわれるのです。彼らは、堂々と自分たちはキリストであると名乗り、預言者であると主張します。そして、その証拠としてさまざまな業を行うのです。しかし業それ自体には、証拠としての効力はないのです。業は何の証明にもならないからです。



 結局、私たち、いくらかでも信仰の成長を見ているクリスチャンは、業によってではなく、その人たちの教える教えと生き方を注意深く調べ、観察しなければならないのです。彼らの信じていること、教えていることが聖書の教えに合致しているかどうか、また彼らの生活態度、倫理が、キリストがお教えになったものに合致しているかどうかです。それによって、だれが本当の神の人であるか、見極めなければなりません。それは容易なことではありません。ですから、しっかりとした聖書の学びと、信仰の指導者が必要であり、彼らの責任が問われるのです。



 そこで、本当の神の人を見分ける、現代ペンテコステ的な、具体的方法を考えてみました。もちろん完璧なものではありませんが、真剣に悩む人にとって、いくばくかの助けになるのではないかと思います。

                                     つづく













posted by ms at 00:00| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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