2010年11月16日

しるしを求める時代 (6)


   XC1 聖書の多用と誤った解釈


 一般的に福音派の保守系の人々には、ブッシュ大統領がよくやるように、自分の主張を聖書にさせる傾向があるのです。聖書がそのように語っていると言って、「この紋どころが目に入らぬか」とやるわけですが、実際は、聖書がそのように言っていると、自分が、あるいは自分の仲間たちが思い込んでいるに過ぎず、本当は、聖書はそのように語っていないわけです。



 よきにつけあしきにつけ、ペンテコステ系の教会の伝統は、福音派保守系をもう少し極端にしたようなところがあります。ペンテコステ系のクリスチャンは、聖書の権威を絶対のものとして受け入れているために、聖書の言うことには平伏します。そこで、説教者たちは「この紋どころ」とばかりに、聖書を多用するのです。



 聖書を多用することは、必ずしも聖書の教えに立脚している証明にはなりません。聖書が正しく理解され、正しく現状に適用され、正しく用いられているかが肝心なのです。そこで、注意深い観察が必要になるのです。いささか専門的になりますが、現在のペンテコステ信仰にかかわる問題を考慮して、誤った聖書の用い方の要点をいくつか上げておきましょう。@ 聖書全体の教えを無視して、ひとつかふたつの箇所で、中心的主題としてではなく、中心的主題を説明するため触れられただけの、補足的事柄を取り上げて、自分たちの信仰や実践の基盤として用いる。たとえば、死者のための洗礼や(Tコリント15:29)、現在の使徒と預言者(Tコリント12:28、エペソ4:11)、あるいは按手(Uテモテ1:6)の主張などは、分かり易い例です。A 聖書が語っていないことを、聖書が語っているかのように主張する。たとえば、ヨエル書2:25の大軍勢という言葉を、世の終わりのときに神に敵対する軍勢であると主張するのは、的外れです。これはイナゴのことだからです。B 自分たちの誤った神学に合わせて聖書を解釈する。これは多くの教会がやってきたことですが、そのようなことをいつまでもやっていてはなりません。たとえば、現在でも使徒の時代と同じように、預言があると主張をして、その預言に聖書と同等の権威を持たせ、その預言にそった教えのために、聖書を利用するのです。先に述べた、現代の使徒や預言者の重要性の主張などは、ここに問題があります。つまり、聖書外の権威を持つことです。現代の預言運動、あるいはレストレーション運動は、怪しい預言者だったウイリアム・ブランハムの預言を発端としているのです。同じことは、怪しい預言だけではなく、たとえば福音派の統計学者であったピーター・ワグナーの唱えた、教会成長論にも言うことができます。彼は自分の主張を聖書の教えから得たのではありません。自分の考えを、聖書の言葉で補強しているだけです。ですから、彼らは今、いっしょに活動しているのです。



   XC2 正しい解釈を学ぶ
 


 ある人の主張が、本当に聖書の教えを基盤としているかどうかを見分けるためには、たえず、聖書の学びをし続けることが肝要です。聖書の全体的な知識を身につけることです。そして、今までにないような主張をしている伝道者や神学者を見つけたならば、彼らの用いる聖書の箇所が、正しく理解され、正しく適用され、正しく用いられているか、注意深く観察することです。その聖書の箇所について、多くの聖書注解書を開き、関係する分野の学びをすることによって、より正確に理解することです。目新しい解釈や珍妙な解釈に心を奪われてはなりません。それから、そのような珍しい主張をしている人の神学が、どこから来たかということ、すなわち信仰背景を学ぶことも助けになります。どういう信仰の背景と流れ、神学的傾向があるのかを見ることです。すると、後の雨、すなわちレストレーションの流れを汲むトロント・ブレッシングには、ウイリアム・ブランハムという異端的汚水が混入していることも判明してきます。トロント・ブレッシングに関しても、アメリカ・アッセンブリーズ・オブ・ゴッドは、正式に警告文を出していることも判明します。



   XC3 おどろかないこと
 


 ペンテコステ系の人々の行っている癒しや奇跡の数々に、驚かないことが大切です。驚いたり、感動したりすると、たちまち飲み込まれてしまいます。そのような軟弱なというか、ナイーブな信仰態度は、神様を知らない人々の態度であって、創造者である真の神を知っている人の態度ではありません。



 そのような信仰態度を持っていると、何かスペクタクルな出来事が起こると、そちらに移ってしまう、旅がらすのような信仰者になってしまいます。そのうちにクリスチャン信仰から外れて、インドのミステリーだとかアフリカの奇跡に、惹かれていくことも起こるでしょう。仏教の密教信仰に陥ることもあるでしょう。私の知っている教会は、癒しや奇跡を強調していましたが、近くに韓国系の教会ができ、そこではもっと多くの癒しや奇跡が起こっているからと、信徒たちが10名ほども移って行ってしまったそうです。でも、その韓国系の教会は、「悪霊とは、さ迷っている死者の霊のことだ」と教えているそうです。この場合、そのような基本的なことさえ理解できず、見える業に引かれて行くような、信徒を育ててしまったこと自体にも問題があるのでしょう。あちらで癒しが起こっているから、こちらで奇跡が起こっているからと、驚かないのが成長した信仰です。驚いてしまっては、しっかり聖書を学ぶことも、見分けることもできなくなってしまいます。



   XC4 人集めの癒しや奇跡



 新約聖書を見る限り、すなわち、クリスチャン信仰の理解と行動の規範を読む限り、癒しや奇跡が、人集めの手段として用いられたという例はありません。たくさんの信徒を集める手段としても、伝道集会の手段としてでも、癒しや奇跡が宣伝されたことはありません。人々が噂を聞きつけ、たくさん集まった例はあります。しかし、弟子や使徒たちが、「癒されたい人は来てください。奇跡を見たい人は集まってください」と、宣伝したことはないのです。



 現代のペンテコステ信仰の宣伝者たちの中には、癒しや奇跡を売り物にしている者がたくさんいます。人集めの手段にしているのです。彼らは、「福音のためになら何でもする」と言ったパウロの言葉を用いて、自分たちのやっていることを正当化します。たしかにパウロはそのように言っています。しかし、彼は自分の信仰、自分の倫理、自分の誇りに反することは、絶対に行わなかったのです。(Tコリント9:14−15) パウロも他の弟子も、もちろんキリストも、癒しや奇跡を、引っかけば当たりが出るおまけや福引のような、人寄せの道具にはしなかったのです。何かが信仰の原則に反したからではないでしょうか。



 癒しや奇跡を人集めの手段、宣伝文句にする人々には、倫理的な危険が伴います。だれかが癒されなければいけなくなるからです。奇跡も、起こらなければならなくなるからです。昔の見世物小屋に、「長さ8尺もある大いたち」なんていう呼び込みがあったそうです。入ってみると、嘘ではない。8尺の板に血が塗ってあったという話ですが、嘘でも見せなくてはならなくなります。毎回とは行かなくても、せめて、何回かに一回は癒しが起こり、何十回に一回は奇跡が起こらなければならなくなります。そこで、いろいろな策略が用いられることになるのです、



 聖書によると、癒しも奇跡も、現代の教会におこり得ます。贖いのみ業には癒しが含まれていることも、比較的新しい神学的発見であるために、多くの伝統的福音派の方々が反対しているにもかかわらず、聖書の教えです。そして実際に、今でも癒される人が起きています。現在は奇跡が起こらないと、聖書から説明することはできません。奇跡は起ります。また、特別に癒しを行う賜物をいただいている人も、奇跡を行う賜物を受けている人もいることでしょう。しかしそれはあくまでも、キリストのみ体の内部における働きのためであって、大衆伝道の人寄せの手段、宣教の宣伝文句として用いられるものではなかったのです。



 現代の多くのペンテコステ信仰者が、癒しや奇跡を人集めの宣伝文句に用いていることは、聖書の教えからはずれていると判断されます。ましてやそれが、自己宣伝や金集めの手段として用いられるようなことは、あってはなりません。このあってはならないことが、実にしばしば行われるのが、ペンテコステ系の働きなのです。



 現在そのようなことを行っている人々を、すべて断罪すべきだとは思いません。しかし、警告は必要です。それは非常に危険な行為です。嘘が生まれ、反社会的な行為が生まれる危険が大きいからです。したがって、そのようなことを大々的に行っている人々には、注意をすべきです。



   XC5 教会を大きくすること



 癒しや奇跡を、人集めの手段に使うことよりも、一段と広く行われている「非聖書的事柄」に、教会を大きくする努力があります。大きい教会はいいことだとばかりに、教会を大きくするための、さまざまな方策が検討され、宣伝され、セミナーが開かれ、教材が売られています。



 大きい教会が悪いと言っているのではありません。大きい教会も、それが忠実な宣教と、忠実な教会の働きの結果として起ったことならば、素晴らしいことです。大きな教会を建ててはいけないと、言おうとしているのでもありません。問題は、教会を大きくしようという意図と努力です。大きな教会を建てた人は伝道の成功者、牧会の成功者としてもてはやされます。なにか、世俗の世界の立志伝中の人物、功なり名を遂げたお話のように聞こえます。中小企業の成功者のようにも。インタビューを受けたりして。



 しかし聖書の中に、教会を大きくしなさいという教えや命令は、ただの一度も記されていないのです。そのような示唆や暗示は、一箇所もないのです。そのように努力をした弟子や使徒も、一人もいないのです。証をしなさい。伝道をしなさい。全世界まで出て行って、福音を宣べ伝えなさいという命令ならばあります。教えもあります。そのように努力した弟子や使徒の姿も、たくさん記録されています。



 ペンテコステ系の教会は、世界中で急速に大きくなっています。多分、世界中で最も大きい教会を100挙げるならば、大部分はペンテコステ系の教会でしょう。ペンテコステ系の人々の中には、大きいことはいいことだという「信仰」があるのです。その結果、教会を大きくするためという大前提、自らの中の至上命令のために、聖書の教えの中に留まれなくなってしまうのです。聖書の倫理に留まる限り、決してできないことが、教会を大きくするためにはできるようになるのです。誇大広告、偽りの宣伝、強制的な金集め、ほとんど洗脳に近い心理的拘束、そして怪しげな癒しや奇跡を作り出すことも、そこここで行われるようになるのです。宣教も牧会も、聖い神を礼拝する、礼拝の行為であることが忘れられてしまうのです。本来まじめな信仰者であり、心から主にお仕えしようとしていた者でさえ、このような「教会を大きくしよう」運動に流され、世俗化してしまうのです。



 重ねて言いますが、まじめな宣教と牧会の結果として、教会が大きくなることは素晴らしいことです。しかし、教会を大きくすることを前面に掲げて働いている人々には、注意をすべきです。教会の使命はそこにはないからです。宣教者の使命も牧師の使命もそこにはありません。使命でないことを使命とするとき、教会は堕落し腐敗します。本来教会の賜物である癒しも奇跡も、不思議もしるしも、悪臭をはなつようになってしまいます。



 いま、癒しや奇跡やしるしを強調する人々の、もう一方の強調点は、自分たちの教会が、自分たちの働きが大きくなっているということです。自分の教会がなかなか大きくなれないでいる牧師や信徒は、彼らの教えや実践におおいに魅力を感じます。そして癒しや奇跡のたぐいにひきつけられ、間違った教えに飲み込まれていくのです。



結び



 結局、私たちの信仰は、聖書を正しく理解し、その上に立って歩むということです。これは言うには簡単ですが、非常に難しいことです。しかし、そのために努力をしていかなければ、私たちの信仰はとんでもない間違いに陥ってしまいます。



 すべての信徒が、聖書を正しく理解するというのは不可能です。すべての伝道者が聖書を正しく解釈するのも不可能でしょう。また完全に正しく理解することは、誰にも不可能でしょう。しかし、もっと多くの伝道者たちが、素直に聖書に向かい、聖書が言っていることを素直に聞いてほしいものです。そうするならば、かなり多くの間違いが正され、しるしや不思議、癒しや奇跡の問題も、教会を脅かすほど、大きな痛みには発展しないはずです。

 
                                  おわり











posted by ms at 00:00| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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