2010年11月17日

見ないで信じるものは幸いである (1)


見ないで信じるものは幸いである
      
  
   はじめに
 
 先日、私の悪友、いにしえの級友、尊敬する同労者が、「これについて、少し書いてもらえないだろうか」と、ペンテコステ系のクリスチャンたちの間で読まれているという、新聞のトップ記事を見せてくださいました。私にはまったく馴染みのない新聞で、記事の内容もまた、「だからどうだって言うんだ」という程度のものだったのですが、「その程度のことがこのように大きく報じられ、私たちの教団でも、信徒たちだけではなく同僚の伝道者たちの間でさえ、あたかも"トレンド"のようになりつつある現状が問題なのだ」と、説得されてしまいました。



 その記事には、東京で開かれた「福音リバイバル聖会」と名づけられた集会で、金歯、銀歯の奇跡が続出しているというものでした。治療の必要な歯に金冠や銀冠がかぶせられたり、銀冠が金冠に変わったりしているというのです。実はこのような「歯の奇跡」と言われる出来事は、海外ではかなり以前から知られ、議論の的にもなっていると聞いていましたので、わたしがその議論に加わることもないと感じたのですが、日本では、まだ議論が交わされていないと知って、それならば「理解の一助に」とワープロを叩くことになりました。雑文家の使命と心得ますが、お読みくださる方の忍耐に期待するものです。  



T. 常識の問題



 実際、金歯銀歯の「奇跡」の記事を読んだ時、「だからどうだって言うのだ」と思う一方で、私の常識が「腹痛」を訴え初めていました。消化不良です.わたしの常議は、もちろんペンテコステ信仰を持つ牧師の常識です。普通の日本人の常識でも、普通の牧師の常識でも、普通の福音派の牧師の常識でもありません。



 現在ペンテコステ的な信仰が世界を覆い、世界中にペンテコステ的出来事が起こり続けている事実を、わたしは喜ばしいことと考えていますが、反面、しばしば「腹痛」に見舞われているのも事実です。ペンテコステの牧師の私がそうなのですから、普通の福音派の牧師にとっては、かなりの「下痢症状」かもしれません。



一般日本人の常費



 一般の日本人が「奇跡」を取り扱うとき、現代科学では説明できないが、科学的なものという範疇で考える「超科学的な現象」と、もともと科学では説明も解明もできないことがら、たとえば「霊界」などと呼ばれる「異次元の現象」とに分けて考えるようです。科学的であることを自認する日本人の4〜5割にも及ぶ人たちが、このような、なんらかの「奇跡」の存在を信じているという報告もあるほどです。ポストモダンと呼ばれる現代人は、科学に失望して、厳密な意味での科学から離れる傾向にあると判断されます。ここに、怪しげな科学紛いのオカルトが流行する温床があると言えます。



福音派の常識                    



 現在の日本の福音派の中核を成す方たちの考え方は、端的に言って、キリスト教理神論とも言えるものです。理神論とは、啓蒙思想が発展して合理主義、科学至上主義に至ったもので、理論的には、創造主としての神の存在は認めます。しかしその神は、創造した万物と万物の存在を継続させる法則を残して、どこか遠くへ旅立ってしまったと考えます。したがって、現在神は存在しないも同じであり、科学的な法則のみが残っていると論じるのです。これがキリスト教の中に流れ込み、人間の理性に合わないものや、科学では説明できないものを否定するキリスト教を造りだしました。



 17世紀から19世紀に形成されたキリスト教神学や団体のほとんどは、程度の差こそあれ、この影響を色濃く反映させています。創造の神の存在を認めながら、聖書に記されている一切の奇跡を否定する近代神学は、少なくても福音派ではありませんが、聖書を文字通り誤りのない神の言葉と信じる福音派でも、聖書に記録されている奇跡は認めるが、今はそのような奇跡は起こらないと断言してはばからないのが一般的です。それぞれ、聖典の完結だとか、異なったディスペンセーシヨンに属するだとかいう、もっともらしい神学的理屈付けはしていますが、根は同じ合理主義です。 



ペンテコステ信仰の常識



 このタイトルはむしろ、古典的と自認するペンテコステ信仰を持っている、私というひとりの常識的な人間の考え方、とでも言った方がよいかもしれません。



 一般にペンテコステ信仰は、聖霊のパプテスマや異言を中心とするもののように考えられています。確かに、現代ペンテコステ信仰の成り立ちは、そのような経過をたどったことは事実であるとしても、本題はむしろ、「聖書の時代と変わりなく、今も働いていて下さる神に対する信仰」であると理解しています。今もわたしたちの祈りに奇跡をもって応え、わたしたちの日常の中に介入して下さる神です。私たちが祈るときは、気休めとしての祈りではなく、応えて下さる神に対する信仰と期待をもって祈ります。そして、ペンテコステの運動は、神の介入としての「奇躊」を体験しながら成長してきました。



 ペンテコステ運動は、ある意味で「興奮」あるいは「感情」の運動でした。神の介入の奇跡を体験した人たちは、当然、興奮しました。この興奮はしばしば過熱し、過激な行動や信仰、また神学となって、ペンテコステ運動の「特徴」のひとつともなってきました。わたしたちのアッセンブリーズ・オブ・ゴッドの歴史を見ても、それは明らかですが、幸いなことに私たちの交わりは、全体的に見ると、そのような特徴を聖書によって注意深く検討し、極端な誤りに陥ることを避けてきました。しかしそのような注意深さを好まない人たちもあって、さまざまな、極端なペンテコステのグループが続出してきたことは、否定できない事実です。



 ペンテコステ信仰の常識は、「神は今も昔も変わらない」こと。そして、「神には何でもできる、神にはできないことがない」ということです。しかし注意したいのは、私たちの神は「何でもできる神」ではあっても、「何でもする神」ではないことです。神は人間の常識や理解を越えて、自由にお働きになることができるお方であることは認めても、ご自分を制しておられる神、秩序の神でもあるという事実を確認しなければなりません。聖書に記されている「奇跡」の数々を見ても、神はたんに好き勝手に奇跡を行ったのではなく、秩序をもって行っておられるのです。ここで、まさにこの点で、金歯銀歯の奇跡は、わたしのペンテコステ信仰の常議に「腹痛」をもたらすのです。



II.  聖書の奇跡



 聖書に記録された様々な奇跡を見ると、そこには共通の秩序があるのがわかります。まず、すぐに気付くのは必要牲、あるいは必然性ともいうべきものです。必要のない奇跡はありません。すべての奇跡に必要があり、その必要を満たす目的がありました。



a.  奇跡それ自体に必要性があって、奇跡が起こったことは他の誰に知られなくてもよかった、あるいは知られないほうが良かった場合。これには、キリストが癒しを行って後、このことをだれにも知らせないように、お命じになった例などが含まれます。 



b.  奇跡自体が必要とされ、かつ、奇跡が起こった事実が「しるし」として機能することが目的とされていた場合、あるいは前提とされていた場合。聖書の奇跡にはこの例が最も多いようです。この「しるし」としての機能も、イスラエルや弟子といった、内部の信じる者に対して、励まし、教え、指導という要素を持つものと、異邦人や未信者という外部の人間に対しての、神の主権、支配の印としての要素を持つものがあります。キリストの奇跡も大部分がここに含まれます。



c.  奇跡それ自体には大きな意味はなく、むしろ、奇躊の「しるし」としての機能に目的があつた場合。これは、旧約時代の出来事としてはかなり記録されていますが、新約時代にはほとんど例を見ないものです。多分、これは神のざん進的啓示の現れで、聖書のなかった時代には、神のみ心を示す手段として、必要性が高かったが、一応旧約聖書が完結し、キリストの明確な教えも知られるようになった新約時代には、あまり必要とされなかったのだと考えられます。キリストご自身も、このような「しるし」を求めることを、「邪悪な時代の要求」として退けておられます。            

           
d.  キリストの宣教命令に伴う「しるし」としての奇跡の場合。これは基本的に、キリストが行われた神の国の到来の「しるし」としての奇跡と同じで、キリストの代理者としての教会に与えられた権威の一部でした。この場合も奇跡自体に必要性があり、「しるし」は付髄する結果としての機能でした。弟子たちは、「しるし」だけのために奇跡を行うことはありませんでした。



III.  金歯銀歯の奇跡



 ここでまず問題なのは、この金歯銀歯の「奇跡」なるものが、はたして奇跡自体に必要性があったかどうかという点です。新開を読む限りでは、あったと判断するのには難点があります。確かに、 (記事がすべて事実だと仮定して) 歯の治療を必要としていた場合もあるのですが、それすら、金であり、銀である必要性はありません。つまりこの奇跡の話を闘いても「共感」できるところが少ないのです。歯痛がなくなった。虫歯が虫歯でなくなった。歯の穴がなくなった。歯槽膿漏が消滅した。無くなっていた歯が出てきたという類の奇跡ならば、かなりの共感性を得られると思うのですが、どうして金歯である必要があるのでしようか。また、すでに入っている銀歯が金に変えられなければならないのは、どうしたわけでしようか。ここには必然性と必要性が不足しているばかりか、金銀をもてはやす繁栄の福音の残滓さえ見え隠れするのです。



 またこの金歯銀歯の奇跡には、奇跡としても癒しとしても、聖書の例にはあまり見られない要素を含んでいる点にも注意したいと思います。まずこれが極めて物質的な奇跡であるということです。金が銀に変化する。あるいは何も無かったところに、忽然と金もしくは銀が出現するというものです。聖書には、モーセの杖が蛇に変化したことが記され、灰がブヨに変化したと思われる記述もあります。あるいは水が血や葡萄酒に変化した例もあります。わたしは物理には素人ですので、銀が金に変化するのと、杖が蛇に変化し水が奮萄酒に変化するのと、どれほどの違いがあるのかわかりませんが、とにかく、聖書の奇跡としても少ない例です。また、なにも無いところに金や銀が出現するのも、神が新しく金銀をお造りになると考えるには難点がありますし、どこからか持って来るというのにも、なんとなく「奇跡の神」ではなく、 「奇術の神」のような感じを受けてしまいます。歯という小さな目立たない肉体の部分へ現される、あまり必要性の無い奇跡に、大変な奇跡の要素が必要とされるという、不均整が私の「腹痛」の一因かもしれません。



 つぎに、これは癒しというよりむしろ治療であるということです。聖書には治療という奇跡はないように思いますが、どうでしよう。改めて調べていませんので確実ではありませんが。つまり金歯銀歯は、近代の歯科医の治療技術であって、奇跡の神が、人間の医療技術に従わなければならない道理が、どこにあるかということです。同じく「無から生じさせる」なら、金や銀よりも、もともとの人間の歯が一番良いことは明白です。ただもともとの人間の歯と同じでは、「しるし」としては「目立たなく」なって、価値が薄れてしまうことは考えられます。新聞記者氏が書いておられるように、金歯銀歯は「目で確認できる」ところに重要性、あるいは価値があるのかもしれません。そうすると、これは「しるし」としての奇跡と考えなければなりません。そしてこのような「しるし」としての奇蹄は、キリスト以降、重んじられていないことはすでに見た通りです。

posted by ms at 00:00| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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