2010年11月18日

見ないで信じるものは幸いである (2)


IV.  しるしとしての金歯銀歯



 金歯銀歯の奇跡の「しるし」としての価値について、もう少し考察してみましょう。金歯銀歯の奇跡が、それを体験した本人にとっては、あるいは目の当たりに確認したクリスチャンにとつては、大きな信仰の励ましになったことと思います。この奇跡にも、信仰の碓認としての価値があるというのは否定できません。このような奇跡の価値は、たとえばエリシヤがエリヤの力を継承した確認として、外套でヨルダン川を分けたことにも現されています。 



 しかし、現在わたしたちは新約聖書が完結している時代に生きています。「見ないで信じる者は幸いである」と、しっかり教えられている時代に生きているのです。幸いに、見ないで信じてきたわたしたちが、どうして今、見て信じる信仰にもどる必要があるのでしようか。奇跡自体が本当に必要とされ、その奇跡を見た結果として信仰が励まされるという、新約聖書以降の一般的なあり方ならば納得できますが、「歯」の奇跡にはそれが無いのです。これも、私の「腹痛」の原因のひとつです。



 またこれは、外部の未信者に対する「しるし」としての力を持つものでしょうか。記事を読む限りこの金歯銀歯の奇跡は、奇跡を認めない種類の人々対してまったく説得力を持ちません。事実確認が間題とされるだけです。また、奇跡の存在を認める人々の間でも、「超科学」としての奇跡を語る人には何の説得にもなりません。残るのは宣教学上の「パワーエンカウンターリング」としての価値、悪霊と対決して勝利を収める「証拠」としての価値を持つかどうかということです。この、悪霊との対決としての「奇跡」は、旧約聖書にも新約聖書にも記されています。ある場合は意図的な対決であり、あるときは結果としてそうなったという違いはありますが、奇蹄の「しるし」としての力のが、イスラエルの神の優越性を示し、また、福音の信頼性を証明して行ったのは事実です。そして、このような力の顕示が現代でも、多くの国々でのペンテコステ信仰の隆盛につながっていることも事実です。

 

 しかし、これが、現在の日本で宣教の力となり得るかどうかとなると、話は別です。確かに、日本人には、霊界の力による奇跡の存在を認める人たちが、相当の割合でいるという事実から、パワーエンカウンターリングの素地があるとも言えそうです。しかし私たちの周囲では、大勢の占い師たちやオカルト集団によって、もっともっと不思議なことがかなり頻繁に行われている現状から、「金歯銀歯」の奇跡ではあまり分の良い勝負にはならないでしよう。また、パワーエンカウンターリングというのは、普通、同一の場あるいはそれに近い近隣の場で、二つの力が激突することによってもたらされるものです。モーセがエジプトの魔術士と戦った場合、パウロがキプロスでエルマと戦った場合に、あるいはエペソでの働きが、魔術士たちとの対決という結果をもたらした場合などで、それが明白です。現在の日本の「クリスチャンの特別集会」という隔離された場所での奇跡には、パワーエンカウンターリングの要素が欠けています。



 むしろこの種の奇跡は、下手をすると、この種の奇跡に用いられる伝道者たちを、この種のことに熱心なクリスチャンたちの間だけで通用する、「大能と呼ばれる神の力」に、祭りあげてしまうことになるのではないかと恐れます。(使徒8:10)



V. センセーショナルな新聞記事



 このように見てくると、「歯」の奇跡それ自体は、全能の神にはできないことではないし、それをなさるのは神の自由に属することですから、ただちに否定されたり、拒絶されたりするべきものではありませんが、かなり注意深く取り扱わなければならないこともわかります。聖書の奇躊と照合すると、少なくても良心的なクリスチャンが、大々的にマスコミに乗(載)せるような代物ではないと、言えるのではないでしょうか。そして問題は、このような奇跡が個人的な内輪の体験という範疇を飛び出して、大々的に報じられるところにあります。



 これは、このような奇跡を「持ち望む」体質を、記者も読者もまた体験者も持っているということ、またこのような体験は、さらに多くの人々にも広められるべきだという、願いを秘めていることを意味していないでしようか。これが、「聖書信仰」に立つと表明するわたしたちには、ふさわしくないことなのです。



 単純な聖書信仰に立つ私たちは、「神は今も昔と変わりなく、わたしたちの必要に奇跡をもって応えてくださる」と信じて祈ります。しかし、「歯」の奇跡のように、聖書の奇跡と照合するとき、その必要性と目的、必然性に「異質な要因」が多い奇跡を「一般化」しようとしてはならないのです。たとえそれが事実と思えたとしても、せいぜい、そのような出来事が伴ったということを、記録するだけに留めておくべきことです。



 わたしたちのアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の歴史の中にも、今回の「歯」の奇跡のように、聖書的にはそれ自体を否定するだけの根拠が無く、かといって積極的に推進するべき聖書的根拠も持たない出来事が、幾度も起こってきました。そして、そのような出来事が大々的に報じられ、クリスチャンたちの期待が、そのような聖書的根拠が不確かな出来事に集中すると、いろいろな間違いが発生してきました。



 たとえば、アメリカ・アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団創立の翌年に起こった、「イエスのみ名による洗礼」とい議論とその後の分裂、そしてジーザス・オンリーの発生の問題も、「聖書以外」の新しい「啓示」に対する、人々の期待の高まりが大きな要因でした。「聖書以外」の新しい「啓示」も、神学的には完全に否定することができないと、わたしは考えていますが、そのような、聖書に基盤を持たないもの、あるいは聖書以外のものに、必要以上の期待をかけると、特に集団的にそれが起こると、誤った危険な方向に進んでしまうのです. (誤解がないように。聖書以外の新しい啓示がたとえあったとしても、それは聖書と同等の権威を持つものではありません。なぜなら、聖書は啓示の書だけではなく、霊感の書だからです。)



 「歯」の奇跡も、強いて言えば笑いも、倒れることも、否定されるべきものではありません。しかしそれが、聖書が教えることがらと同じように、あるいはそれ以上に強調されると、大変危険なのです。私たちは、それを、自分たちの教団の歴史によって知っているのです。だから、私は「腹痛」を起こしたのかもしれません。



 今回の報道には、まだ他にも問題があります。それは、先にも触れた事実確認ということです。記事の中には歯科医という言葉も出てきて、あたかも事実が確認されているような言い方がされてはいますが、歯科医本人の言葉はありません。わたしが常々問題に感じているのは、このようなセンセーショナルな奇跡の記事の、事実確認が正しく行われているかどうかということです。カトリック教会には、一般大衆の「話」としての「奇跡」がたくさんありますが、教会が正式に奇跡と認定するには、奇跡を調査する正式な機関の、それはそれは、長時間にわたる、恐ろしく厳密な調査を通すことになっています。


 カトリック教会は奇躊の存在を正式に認め、聖人認定にはその人物が奇跡を行ったという事実を、絶対必要条件にしているほどですが、奇跡の認定それ自体には大変大変、非常に慎重です。(マザー・テレサが聖人として認定されるために、奇跡が不足しているという問題があって、カトリック教会内で揉めていますが) 今回の新聞の報道には、どれ程の事実確認の努力がはらわれたのでしょう。巷の週刊誌ほどでしょうか。センセーショナルですが、説得力がありません。



 このような報道には、どうやら、「クリスチャンは嘘をつかない」という神話が、底辺に横たわっているようですが、いかがでしょうか。数十年伝道者をしてきた私の実感は、むしろ「クリスチャンの言うことなど信用できない」というところですが。 



 クリスチャンが嘘と自覚して、人をだます目的でつく悪意の嘘は、たしかに他の人種よりは少ないと「信じて」います。しかし、自覚していないでつく嘘、つまり、知らないで事実に反することを言ってしまう嘘、人を助けるつもりの親切の嘘。付き合い上の嘘。あるいは、「神様の為を思って」の嘘などは、たくさん転がっているように思います。さらに信じ込もうとして語る、信仰による嘘もあります。「信じて告白」してしまう、あれですね。さらには、実際より少々大げさに言う嘘。大いに盛り上がった集会で、癒しの祈りをしてもらい、ついつい「癒された」と告白してしまう嘘には、いろいろな嘘の要因が含まれています。心理学的に調査をすると、面白いでしょうね。



 新聞という報道機関に求められるのは、もっと慎重な調査ではないでしょうか。わたしが個人的に知っていた伝道者で、癒しの器として用いられていた人は、癒しが起こってから、最低2年という間を置いて事実を確認してからでないと、その話を語ったり、記事にしたりしないということでした。奇跡の物語を大々的に報じて、大きな活動をしている伝道者や牧師は、宗教家としては成功したと言えることでしょう。しかし、神の器として成功しているかどうかは別の話です。



 ところで、この「福音リバイバル聖会」という集会の目的は、なんだったのでしょう。新聞記事を読むだけでは、そのあたりが良くわかりません。「歯」の奇跡ばかりに記者の目が捕らわれているからでしょうか。あるいは、この聖会自体が、このような奇跡に重点を量いているからでしょうか。あるいは、「歯」の奇跡がリバイバルの現れであり、また、「歯」の奇跡によってリバイバルが来ると考えているのでしょうか。この新聞記事には、そのような意識が読み取れるのです。そのような意識に対しても、どさまわりの宣教師として食べた、犬にも猿にもおたまじゃくしにも、生のくらげにも白蟻にも、おけらにも、錦蛇にも、ごきぶりにさえも不平を言わなかった、私の腹が痛み出したと思われます。



 リバイバル聖会によって、またそれを報道する新聞の記事によって、見ないで信じる幸いな信仰が高揚されたならば・・・・・、たとえそこにどんな奇跡が起こったとしても・・・・、見ないで信じる幸いな信仰が高揚されたならば、大いに喜べますしかし、この記事によると、どうやら高揚されたのは、見ることによって信じる信仰のようです。



 この、見えるものを大切にするのは極めて一般的なことで、ある程度の同情の余地はあります。聖書の中の多くの人々も、見て信じたのです。例えば、福音記者たちでさえ、わずかとは言え、この新聞記者のような意識を、持っていたのではないかと推測できます。4つの福音書がすべて取り上げているキリストの奇跡に、5千人を養った出来事がありますが、この奇跡の意義をきちっと説明しているのはヨハネだけです。他の記者たちは驚くべき出来事として記しているだけです。福音書の記者たちも、「悪霊どもでさえ、私たちに服従します」と喜んで、自分たちの名が天に記されているという、もっと重要な事実に心が及ばなかった、あの時の未熟さを、まだ引きずっていたのかと考えさせられます。しかし、神はそのような未熟な者の記述にも、霊感という導きを与えて許容範囲に入れ、「よし」と認めてくださったのです。



結び



 わたしたちペンテコステの信仰に立つ者は、神が今も生きておられ、昔と同じように働いておられることを信じ、神の直接の介入を期待して生活をしています。ですから、「奇跡」は当然のことです。しかし、わたしたちが強調する奇跡は、聖書の中にそれと同じ性質の奇跡があるもの、そういう種類の奇跡であるべきです。聖書の中に見いだされない性質の奇跡も、ただそれだけの理由で否定されるべきではありませんが、強調されてはならないものだと考えます。



 昔、創立間もないアライアンス教団の中で、異言を伴う聖霊のパプテスマの問題が大きくなったとき、指導者であったA.B.シンプソンは、「それは否定されてはならないが、求められてもならない」という裁断をくだしました。これは、異言を伴う聖霊のパプテスマを受けていた人たちの納得を得られず、結果として彼らの離脱と、その後のアッセンブリー教団の創立ということに移って行くのですが、シンプソンの言葉は、聖書の中に充分な例を持たない現象に対して、私たちが、どのような態度を取るべきかという問題について、よい判断を示していると思います。笑うのも、倒れるのも、金歯ができるのも、事実である限り否定されるべきではありません。しかし、求められてはならないし、強嗣されてもならないものだと思うのです。もちろん、シンプソンの間違いは、異言を伴う聖霊のパプラスマに関する、聖書の明確な記述を、少々軽んじ過ぎたところにあったのは、私たちが良く知っているところです。



 最後にもう一度。わたしたちは奇跡の神を信じています。しかし、奇跡に期待し奇跡を重要視するあまり、見ないで信じる信仰から、見て信じる信仰に逆戻りしないように、充分気を付けたいものです。

                                     おわり











posted by ms at 00:00| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

認証コード: [必須入力]


※画像の中の文字を半角で入力してください。
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。