2010年11月19日

自浄作業



 私はペンテコステ教会と言われる中で、もっとも大きく中心的な役割を果たしてきた団体に所属しています。ペンテコステ教会には様々なすばらしい特徴がありますが、ありがたくない特徴もいくつもあります。



 ペンテコステ教会の元となったペンテコステ運動は、あまり学問的な背景のない人々が中心になって始まったものです。というより、聖霊が、極めてありふれた人たちの中にお働きになって、始めてくださった働きです。そのために、この運動は一方では非常な勢いで拡大して来ましたが、聖書的な理解の深みを欠いているという特徴のために、ずいぶん多くの間違いも犯してきました。



 私たちの交わりは、どちらかというと、厳格な教理や神学を掲げて、自分たちの交わりの純粋性を保持しようという改革派的な傾向ではなく、聖書の十全霊感とその権威を認め、聖霊のバプテスマの真実性を認めるならば、それ以上のことはあまり問わないというおおらかさ、あるいは緩やかさ、言い方によればだらしなさを持ってきたために、多くの間違いが紛れ込む危険があった一方で、間違いを持った者たちがこの交わりの中に留まることができたために、より正しい信仰のあり方に近づくことができたという一面を持ち合わせています。それは、自分と異なる信仰のあり方に寛容性を持つと同時に、常に様々な怪しげな信仰とその表現に対し、警戒を怠らないという側面を備えることになりました。



 再浸礼派を認めることができないために、その信徒たちを酷寒の川にかかる橋から逆さに吊るし、溺死させたカルビンのような峻厳さは持ち合わせていないのです。おかげさまで、本当におかげさまで、私のような中途半端で自堕落な人間も、おどおどびくびくしないで、この交わりに居続けることができているのです。いったい、完全な教会などというものは存在せず、完全な団体などというものは夢想に終わるのです。たとえ人が完全な団体を作ったとしても、その人がそこに残れば不完全になります。



 いま、私たちの交わりとその周辺には、実に多種多様な信仰とその表現が見られます。それが聖書の許容範囲、すなわち正しし聖書の解釈の上で許される範囲に留まっている限り、急速に狭まる世界のモザイク文化と、過激に変化し続ける世界の多様性に対応していくためには、非常に大きな利点となるものと考えられます。しかし、聖書の解釈上問題があるもの、聖書の許容範囲を超えているもの、倫理的問題を抱えているものについては、大いに注意しなければなりません。それが、やがて根を腐らせ、幹を枯らせてしまうことにもなるからです。

 だからと言って、魔女狩りのように間違ったものたちを見つけ出して厳しく処罰し、追放するなどということを行ってはならないのです。イエス様がおっしゃったように、下手をすると、毒麦と一緒に良い麦までも引き抜いてしまうことになるからです。



 そこで、現在聖書的に許容できない方向に進む危険性のあるもの、あるいはすでに進んでいるもの、あるいは倫理的に許すべきでないものを取り上げて、少しばかり警鐘を鳴らしておきたいと思います。まだまだ、多くの方々が気付いていないもの、あるいは危険性を過小評価しているものもあるのではないかとおもいます。そうすることによって、間違いに気付いていない人たちが気付き、誤りを理解していない仲間たちが理解し、私たちの交わりの純粋性を少しでも保つことが出来れば幸いです。これはある種の自浄作業です。

                                つづく
posted by ms at 00:00| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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