2011年04月20日

み声を聞く人たち

  
ここしばらく、おかしな「クリスチャン夫婦」と御付き合いをしています。

 ときどき一緒に仕事をする東京の牧師の仲介で、ひとりの女性の相談を受けました。何でも、中学生の頃からの親友が私のいる町に住んでいて、生活にとても困窮しているらしいのです。電気、水道、ガス、電話は止められ、暖を取る石油も、毎日の食べ物もない。それで助けて欲しいという手紙をもらって、米だとか、味噌だとか、お菓子だとか、品物を何回も送ったりしているけれど、とても間に合わないということでした。

「何とか彼女を助けてあげたいのですが、遠く離れて住んでいる自分たちでは、もう限界なのです。自分の娘が、お友達のお父さんが牧師をしていると言っているのを聞いて、彼女がクリスチャンだったと言うことを思い出し、思い切ってお訪ねして相談しました。すると、彼女の住む町にいる牧師さんと親しいとおっっしゃって、紹介してくださったのです」と言うことでした。

 救援を求める手紙は彼女のところだけではなく、中学生の頃に親しかったもうひとりの女性のところにも、当時の恩師のところにも、親戚たちのところにも来ているそうです。それぞれ品物を送ったり現金を送ったりして色々手を尽くしたけれど、どうしようもないということでした。しかも困窮している女性は糖尿病を患っていながら、とても病院どころではないらしいのです。

色々話を繋ぎ合わせると、彼女たちはもう50歳近くらしく、どちらも家庭を持ってお子さんたちもいらっしゃる様子です。それにしても、「中学生の頃のお友だち」のために、「よくもそこまで」と思わせられたものです。

 それから何日か後、もうひとりの友人と言う女性からの電話がありました。それで、もう少し詳しく様子を知ることができました。

 困窮している女性は、親の代からのクリスチャンだと言うのです。少なくても母親はクリスチャンで、母娘が一緒に教会に通っていたのを良く知っているし、教会で挙げた結婚式には、彼女たちもそれぞれ夫同伴で参列したのだそうです。

「ところが相手の男性が問題で、神様にお仕えすると言っては、日本中を車で回って何かしていたようですけれど、収入になるような仕事は何もしていないらしいんです。彼女のお母様が亡くなったあと、遺産の家と土地を売ってそれ相当のお金を得たはずなんですが、そちらの町に引っ越して行って、3年ほどたちます。それでもう、しばらく前から、お金を貸してほしい、食べ物を送ってほしいという手紙が何度も来るようになりました。幸い私の夫も、子どもの頃から彼女を知っていて、何とか助けてあげようと言ってくれているのですが、もうとても、私たちの手に負えるような状態ではなさそうなのです」

 電話口で涙声になりそうな彼女の説明を聞いていて、世の中には、何と親切な人間がいるものかと、改めてもう少し感動したものです。彼女の夫は、「彼女を助け出すために、一時、自分の家に引き取ってもいい」とまで、言ってくださっているというのです。

 そんなわけで、私は少しばかりの食料を手に、このクリスチャン夫婦を訪ねて、お話をすることになりました。

 「僕はですね。もう10年ほども前に『仕事をするな』という神様のみ声を聞いたんです。それからはずっと仕事をせずに、神様にお仕えしているんです。必要なものは神様があたえてくだいますから。厳しいこともありますが、なんとか今までやって来ることができました」

 その様に話すその男性は1m80cmに近い背丈でしたが、やせこけて突き出た頬骨の上に、油気のない髪の毛がかぶさっていました。横には、やつれてはてて消え入りそうな奥様が、小さく座っていました。

 「神様のみ声を聞いたなどと言いますと、『そんな話は信じられない』と、鼻っから相手にしてくれない牧師もいますが、先生はアッセンブリーズ・オブ・ゴッドの牧師ですから、信じられますよね。神さまが『働くな』とおっしゃったのですから、私は働きません。神様が養ってくださいます。ただ、家内は信仰がまだ弱く、ときどき人にお願いして食べ物や何かを貰ってくるようですが、私は神様を信じています」
 
 神様のみ声を聞くことができたことを、信仰の勇者の証明でもあるかのように、彼は一段と語気を強めました。

「それで、仕事をしないで、毎日何をしているんですか? 伝道しているとか、人を招いて教えているとか・・・・・・、しているんですか?」
そのような様子はまったくないのは、すぐにも見て取れましたが、私は意地悪く尋ねてみました。

「自分たちで礼拝会を持って、祈祷会もやっています。近所の人がたまぁに顔を見せることもあります」 平然とした答えが返ってきました。

 「私はアッセンブリーズ・オブ・ゴッドの牧師で、預言も幻も夢も、聖書が教えるように信じていますが、あなたが『仕事をするな』という神様の声を聞いたという出来事は、残念ながらまったく信じられません。それどころか、信じてはならないことだと思います」

 いま流行(はやり)のネオ・ペンテコステ・運動の一員だと自認しているこの男性は、一瞬、びっくりして私の顔を見つめていましたが、私は続けました。

 「あなたの聞いたのは、神様のみ声ではなく、昼寝をしていた豚のいびきだったかもしれませんよ。犬の寝言だったかもしれませんね。あなたも少し寝不足で、ぼんやりと聞いたのではないですか? あなたは勝手に聞いたと思っていても、神様は、『そんなこと話していないのになぁ』と、おっしゃっているのではないですか?」

 ずけずけという私の言葉に、ご主人はだいぶ怒ったようです。話し合いは物別れに終わりました。でも私は懲りずに、その後も幾度も訪ねてお話しをしました。そのたびに、わが家の中のごちゃごちゃした食料をかき集めたり、途中のスーパーで買い込んだりして、持って行ったものです。

 「神様の声を聞いたと信じてそれに従うのは、あなたの勝手。それで、食べる物もなくなってやせ細って死ぬのも、あなたの信仰の結果です。あなたが自分の信仰の確信に従って死ぬのなら、それはそれで結構です。どうぞ神様を信じて、人に物乞いなんかしないで死んでください。でも、そんな神様の声は聞いていな奥様までが、あなたの空耳信仰に引きずられて、こんなに苦労をしながら物乞いを続けなければならないのは、あってはならないことです。それでは、地の塩でも世の光でもありません」

 このご主人、1990年代の初めにこの町でクリスチャンとなり、カリスマ運動とか、第三の波運動とか呼ばれる人たちと御付き合いしてきたらしく、「あの先生はこう言った。この先生はああ言った」と、結構顔も広いようでした。10年以上も前に、香港からの青年クリスチャンたちが15人ほど、わが家に寝泊りして地域に伝道文書を配ったとき、その青年たちを車に乗せて連れて来たのが自分だったとかで、私に会ったのも初めてではないということでした。

 そうこうしている間に、私と家内は、彼女の友人の女性たち、その夫やその友人の法律家、それからわが町の法律相談所、自治体の女性相談室などと話を進め、一致した見解に達しました。

「このご主人は自分の信仰が間違っているとは認めないだろう。だから、その信仰で死ぬのはそれでいい。しかし、奥様はそのような信仰を持っているのではない。それまで道連れにするのは良くない。だから、何とかして奥様を助け出し、自立の道を探してあげなければならない。そのためには、まず離婚が絶対に近い条件になるだろう。

 牧師として「クリスチャン夫婦」に離婚を勧めるのは、なんとも情けない話ですが、最善を追求して離婚させずに飢え死にしてもらうよりも、離婚しなければならないほどどうしょうもない弱いクリスチャンとして、ただ神さまの憐れみにだけ頼って、次善の道を辿るほうをお勧めするのがよいと考えるのです。牧師の私も、離婚をさせないで物事を丸く収めることが出来ない、能無しの牧師であることを悔しく思いながらも、そのようなできそこないでも、御用のためにお用い下さる神様を誇りとして行けばそれでよいことです。完全なのは神様だけです。私たちは完全でないから神様に頼るのです。

ただし、たとえ奥さんに「いい加減に離婚してけじめを付け、人間として通常の生活をするように」と勧めたとしても、彼女もご主人もクリスチャン信仰まで失ってしまわないように、上手にやらなければならないと、ちょっとだけ注意深くなっています。

神様の救いを信じている限り、二人が離婚せずそのまま物乞い生活を続け、家賃も払えずに追い立てを食らって野垂れ死にしたとしても、救われることは救われるのですから、離婚を勧めることによってその救いをも失わせては、元も子もなくなってしまいます。いわゆる、「たらいの水と一緒に赤ちゃんまでも流してしまう」ことになります。あるいは、角をためて牛を殺すというのでしょうか。人が救われるのは、その人が完全に正しい信仰を持っているからではなく、神様の憐れみよるのですから、豚のいびきと神様のみ声と聞き違ったとしても、救われるのです。

でも、そんな信仰では全く証になりません。また神様も、そんなくだらない苦労をさせるために、彼らをお救いになったのではないはずです。奥様にも、もう少し人間らしい生活をしてもらいたいと思います。

 ところで、神様のみ声を聞くなどということが、現在でも本当にあり得るのでしょうか? 聖書を正しく読む限り、それは「ある」と答えざるを得ません。聖書には、その様なことはないという教えはなく、その様なことはなくなったという教えもありません。その様なことはやがてなくなるという教えもまたないのです。福音派の方々が良く引用するコリント人への第一の手紙13書8節は、この場合まったく当てはまりません。確かにこの聖書の部分によれば、預言も異言も廃れるときが来ます。共に不完全だからです。でも、その時はまだ来ていません。なぜならば、その時には「知識も共に廃れる」ことになっているのに、いま、知識はますます盛んになっているからです。

 では誰も彼もが夢を見、幻を見、神のみ声を聞くのでしょうか。不注意に使徒の働き2章16節以降を読むと、そのような勘違いを起こします。でも、ここでペテロが言っているのは、今や神がお定めになった「とき」が変わり、新しい時代になった。預言者と呼ばれる限られた神の人たちだけにあたえられていた預言の働きも、ごくごく一般のクリスチャンたちにまで与えられるようになったということであって、誰も彼もが、のべつ幕なしにその様な働きをするという意味ではありません。使徒の働きをはじめ新約聖書全体を読んでも、預言の働きはごく限られた人々にとどまっています。

 さらにここで言われている預言と言うのは、神の言葉を預かって語るという意味で、今で言うならば、説教に近いものであったということも大切です。恍惚となって見る夢や幻ではなく、また突然天から与えられる言葉を語る預言でもなく、通常の精神状態で、普段の学びと体験から夢を見、幻を抱くことであり、また、常々の学びと神との交わりの中から、神の御心を知り、それを聖霊の励ましによって語ることだったのです。そのような大切な役割が、名も無い人々、すなわち教会に与えられたと言う意味で、非常に大切だったのです。
 
その上、聖書の中で夢や幻や預言が大切だったのは、その時代には、まだ聖書が完結していなかったと言うことです。神様のみ心の啓示とそれを書きとめさせるための霊感の働きが、まだ終わっていなかったのです。ですから当時の人々は、いまの私たちのように、信仰と生活に必要なすべての教えを、聖書から学ぶことができませんでした。さらに、当時は印刷技術もなく、完結していた聖書の部分もまた非常に高価で、一般の人々がたやすく手にすることはできなかった点も大切です。したがって、当時の人々は、いまの私たちより遥かに直接的な預言を必要としていたのです。いま生きている私たちは聖書を読み、聖書を書かせてくださった聖霊に頼んでそれを理解し、日常の生活に適用できるのですが、当時の人々にはそれが出来ず、神の特別な助けを必要としたことが多かったのです。

 現代でも、聖書に書かれていることをまだ理解していなかったり、聖書には原則的なことは書かれていても、具体的な取捨選択となると、神様の直接の助けが必要となったりする場合があります。そのような時、私たちは神様からの何らかの導き、助け、介入を期待して祈るのです。それを期待しないで祈る祈りは、単なる気休めの祈りであり、今生きていて私たちの祈りにお応えくださる神を信じて祈る、ペンテコステの信仰の祈りではありません。だれにでも、神の直接の助けが必要だと感じることがあるものです。とは言え、いつも夢だとか幻だとかみ声によって「お示し」を頂かなければならないのは、成長していないクリスチャンの証拠なのです。

 成長していないクリスチャンには、み声も必要で章。でも、「仕事をするな」という神様のみ声はあり得ません。よほど特殊な事情がない限り、あってはならないのです。なぜなら、それは聖書に記されている原則に反するからです。聖書は、真面目に働いて生活することを教えています。

「働かざるもの食うべからず」という言葉があります。まだ4、5歳だったころ、読み書きも出来なかった祖母が教えてくれたものですが、後になって、これは共産党のスローガンである事を知りました。でもさらに後になって、何のことはない、これは聖書の教えである事を学んだのです。(Uテサロニケ3:10)

 聖書にはっきりと教えられていることに反する、神のみ声を聞いてはならないのです。そのような声が聞こえたら、自分の勘違い、聞き違いだと知るべきです。猫のくしゃみか風邪に閉まったドアの音かとでも思うべきです。また他のクリスチャンでも、預言者と呼ばれる牧師や巡回伝道者であっても、「あなたへの神の言葉がありました」と言って、なにやらおかしなことを語ったとしても、そんなものに振り回されてはいけません。大切なのは、そんな曖昧な主観的体験の言葉ではなく、聖書の言葉です。聖書には、聖書のみ言葉に従うようにと厳しく教えられていますが、預言の言葉に従うようにとも、耳に聞こえる神のみ言葉に従うようにとも、教えられていないのです。

 たとえば、み声を聞いてはならない場合があります。導いてくださいと祈ってもならない場合があります。ちょっと想像してみましょう。ジャングルの奥地の未開部族に福音を語る、リビングストンのような宣教師になるのが、自分の献身だと決心している若者がいたと考えてください。もっとも、現代ではそのようなジャングルを探すほうが難しくなっていますが・・・・・・・。

 その若者の前に、二人の若い女性が現れます。どちらもクリスチャンなのですが、一人はとても美人で、有名大学を卒業し、ピアノもとても上手。英語はぺらぺら、お花も御茶も免状を持っていて、その上テニスも出来るという。ただクリスチャン信仰はおさなく、わがままで、自分勝手で、独りよがりで、神様にお仕えしようとなど考えたこともありません。自分の幸せのために、クリスチャンになっているのです。

 もうひとりは、あまり美人ではありません。大学も三流です。ピアノはポロンポロンと弾ける程度、英語はブロークン。お花もお茶も習ったことがなく、スポーツもあまり知りません。でもとても親切で気立てが良く人に喜ばれています。いつも控えめでありながら誰かの役に立てることを喜んでいます。何よりも、しっかりと聖書を学び、神様に愛されていることを確信していて、感情の揺れも少なく、一生をかけて神様にお仕えしするのが、自分の願いだと証をしています。

 悪いことに、(?)この二人が同時に若者に恋をしたとします。さぁ、あなたがこの若者だったらどうしますか? お祈りをしますか? 「神様み声を聞かせてください」と真剣に祈りますか? こんな場合、祈ってはならないのです。み声を聞こうとしてもならないのです。あなたにふさわしいのは、二番目の女性です。

豚の寝言のような「神の声」に聞きしたがって、一生を棒に振ってはなりません。預言だ、み声だと盛り上がっている教会があったら、間違っていることに気付いて欲しいものです。くり返します。私たちに大切なのは、聖書に啓示されている神のみ言葉に聞くことであって、今、自分の耳や誰かの耳に聞こえて来る、「み声」に聞くことではないからです。

posted by ms at 00:00| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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