2011年04月30日

異言の伴わない聖霊のバプテスマ



 10人ほどの牧師と宣教師たちが集まりました。いろいろな教団に所属し、神学的背景もだいぶ違います。雑談の中で特に話題になったのが、最近のペンテコステ派と呼ばれる団体の急成長です。


 日本ではキリスト教自体が極端な少数派に属しているために、あまり一般の話題にはなりませんが、キリスト教の背景の強い国では、特異なこととして注目を浴びているそうです。ただ、集まった牧師や宣教師たちの大部分は、ペンテコステ派にはなじみの薄い人たちだったために、いきおい、質問が私に集中しました。私がアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の牧師と、自己紹介をしていたためです。


 実は、ペンテコステ派とはなじみが薄い人たちの中にも、ペンテコステ派には警戒心を抱いている人たちも何人かいて、薄気味悪いといった感じで交わりが始まったのですが、私の解放的なものの言い方にほとんどの人が打ち解けてくださり、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の神学が、意外に正統的で保守的であると思われ始めていたのです。


 多くの質問の中で、もと南バプテストに所属していた宣教師の質問が、みんなの関心を引いたようでした。「自分も以前は聖霊の働きについてあまり知らなかったけれど、ペンテコステ派の影響で、聖霊について学び、すばらしい体験を重ねてきました。でも、私は自分がペンテコステ派だとは思っていません。なぜなら、私は聖霊のバプテスマの体験をしていますが、異言は語っていないからです」


 どうやら、ほかにも同じ見解の人が数人いたようです。ペンテコステ派とその教えについてあまり知らない人たちも、ペンテコステ派の急成長には強い関心を持っていたため、聖霊の働きを強調していながら、ペンテコステ派と呼ばれたくない人たちがいることに、そうとう興味をひかれたらしいのです。


 そこで私は、まず、伝統的ペンテコステ信仰と、カリスマ信仰と、第三の波と呼ばれる人たちの信仰の違いを、歴史的な発展を背景に簡単に説明したあと、付け加えました。「私は、どのような立場のクリスチャンであろうと、その人の信仰体験が真摯なクリスチャン信仰によるものならば、すべてを貴いものとして重んじます。ところで、自分は異言を語っていないけれど、聖霊のバプテスマを受けているとおっしゃる理由、そのように言うことができる訳はなんでしょう?」


 すると質問をしたもと南バプテストの宣教師が答えてくださいました。「史的キリストに対する信仰から一歩進んで、聖霊の実在と力を信じる生活を始め、奇跡を求めて祈り始めました。そして、私は幾度か幻を見ました。また、祈っていると聖霊の臨在を強く感じるようになり、体が熱くなり、平安に満たされ、喜びが湧き上がり、祈りが楽しくなりました。それから私が病人に手を置くと、その病人が癒される体験を何回もしました。だから、私は聖霊のバプテスマを受けたと信じているのです。私は異言を語る人々に違和感を持っていません。異言を語ることもすばらしいと思います。でも、異言を語らなければ聖霊のバプテスマを受けていないと主張するのは、少し視野が狭いというか、度量が小さいというか・・・・納得できないのです。聖霊の働きはもっともっと広いものだと思うのです」


 彼の意見にうなずく人たちが数人。なんと答えるか、興味津々で私を見つめる人たちが数人。それを横目で見ながら、私は答えました。「そうですか。なるほど、あなたのクリスチャン信仰の体験はすばらしいものです。聖霊体験と呼ぶのがいいかもしれません。さらにそのような体験を重ね、信仰を深め、いよいよ豊かに神に用いられることを期待します。でも、あなたのそれらの体験が、聖霊のバプテスマを受けたという証拠になり得るか、聖書によって証明をしてほしいのです。それらの体験が、間違いなく聖霊のバプテスマの証拠と言えると、聖書から説明してほしいのです。


 南バプテストの人たちは、私たちと同じくらい「聖書によって」、「聖書によらなければ」と、聖書を持ち出す人々です。集まっていた牧師たちも半分くらいは福音派といわれる仲間で、「聖書」、「聖書」というのには人後に落ちない人々です。元南バプテストの宣教師であった質問者は、当惑顔で言葉に詰まっていました。

 
 私は続けました。「聖霊のバプテスマ、あるいは聖霊によるバプテスマというのは、聖書がそのように名付けた、聖書的な体験です。バプテスマのヨハネがそのように呼び、キリストがそのように呼び、使徒の働きの著者がそのように呼んだ、特定の体験です。その聖霊のバプテスマを体験したと主張するためには、聖書が聖霊のバプテスマと呼んでいる、その体験をしなければなりません。伝統的なペンテコステ派の人々は、ほかの人たちのすばらしい信仰体験、聖霊体験を差別したり軽視したりするものではありません。ただ、その体験を聖霊のバプテスマと呼ぶならば、聖書が聖霊のバプテスマと呼んでいる体験であるべきだと、主張しているだけです。

 
 そこで元南バプテストの宣教師は、「ではペンテコステ派の人々は、異言を語ることが聖霊のバプテスマの証拠であると、聖書から証明することができるわけですね?」と言って、疑わしそうにほかの牧師たちを見回しました。


「もしも私に15分間くださるならば、異言を語ることが聖霊のバプテスマを受けた証拠であると、聖書から証明して見せましょう。もちろん、みなさんの反論は、聖書に根ざしている限り大歓迎です」 私は、まだ時間に少し余裕があることを見越して断言しました。


「皆さん、聖書をお持ちのようですので、使徒の働き10章を開いてください。私はできる限り、厳格な聖書解釈の原則に沿ってお話します。この解釈の仕方に疑問のある方はおっしゃってください。まず、使徒の働きという歴史書から神学を構築することはできないという、あるかたがたの主張が間違っていることをはっきりさせ、使徒の働きからも神学を論じることができるという、共通認識から始めなければなりませんが、皆さんの中に、使徒の働きから神学を建てることに反対とおっしゃる方は、いらっしゃいますか?」


 幸い、そんな難しい議論は始めて聞いたという方ばかりでしたので、それ以上の説明は不要となって、本題に入りました。


「聖霊のバプテスマ、あるいは聖霊によるバプテスマと、呼び方は場合によって少し異なりますが、4つの福音書すべて記がしているキリストの受洗の記事の中で、バプテスマのヨハネがキリストを指して、「この方は聖霊によってバプテスマをお授けになります」と語った、そのバプテスマです。イエス様ご自身が使徒の働き1章5節で言及されているバプテスマです。この前提はよろしいですね。


 このバプテスマが実際に授けられたと記録されているのは、ルカの福音書の後編である使徒の働きだけです。もしも使徒の働きの神学性が否定されるならば、その前編であるルカの福音書の神学性が否定されなければなりませんし、同じ福音書であるほかの三つの福音書の神学性も否定されなければなりません。幸い、どなたも使徒の働きの神学性も、福音書の神学性も信じておられるようですので、問題なく前に進めます。


 使徒の働きには、明らかに聖霊のバプテスマが授けられたと理解すべき記事が、2章と10章と19章に3回記されています。また、たぶんこれは聖霊のバプテスマが与えられたと考えられる記事が8章に1回あります。明らかという3つの記事では、すべて、異言が語られています。もう1つの場合では、異言が語られたとは書かれていませんが、異言が語られたと理解するのがいちばん納得し易い記事です。


 中でも、聖霊のバプテスマには必ず異言が語られると理解するために、もっとも大切なのは異邦人コルネリオとその家族一同が聖霊を受けた記事で、使徒の働き10章に記されています。この異邦人の改心という出来事が、ユダヤ教の一派の主張に過ぎなかったキリストの福音を、普遍的なものに発展させていく上でどれほど重要であったかは、牧師や宣教師である皆さんは充分に理解しておられると思います。その福音の普遍性、キリスト教会の世界的発展に大きな力となったのが、実は、異言なのです。


 そこで、皆さんご自身に聖書を調べていただきたいのですが、異邦人に福音を語るどころか、異邦人と交わることさえ非常に躊躇していたペテロは、聖霊によって、半ば無理やりにコルネリオとその家族たちのところに使わされました。でもペテロは、彼らが救われるようにと、個人的な勧めと指導をしたでしょうか? 10章の44節以下に注意してください。そのような勧めも指導も、まだしていませんね? むしろ彼は、自分が話終える前に、コルネリオたちが救われたと確信したわけですね? なぜペテロは、この救われるはずもないはずの異邦人たちが、救われたと確信したのですか?」


 聖書知識では引けをとらないと、ひそかに自負しているはずの福音派の牧師たちですから、私の質問にとまどうことなく、すばやく答えてれそうなものだったのですが、彼らは答えるのを躊躇しているようでした。


「ペテロが異邦人たちも救われたと判断したのは、異邦人たちにも聖霊の賜物が注がれたのが分かったからですね? どうして、聖霊の賜物が注がれたとわかったのでしょう? 彼らが異言を話し、神を賛美するのを聞いたからですね? ここまでは大丈夫ですか? 私の聖書理解、聖書の用い方に間違いがありますか?」


 誰も反対する人がいないことを確認して、私は進みました。「神を賛美するのはふつうのことですから、むしろ、異言で話し、異言で神を賛美していたのでしょうね。その異言で話していたという事実が、ペテロと彼に同行したユダヤ人クリスチャンたちに、『私たちと同じように、聖霊を受けた』と思わせたのですね? ほかに、異邦人の救いを彼らに確信させた出来事はありましたか? 彼らが賜物として聖霊を受けたという事実だけでしたね。その事実を確信させたのが異言を語ることでした。そして、その異言を語ったという事実が、ペテロとその同行者たちに、異邦人たちも自分たちと『同じように』聖霊を受けたと確信させたわけですよね。それでペテロは、この異邦人たちに洗礼を授けたのです。ここまでは間違いがないでしょうか? 


 その後、ペテロは異邦人にも洗礼を授けたことでほかの兄弟たちに批判されて、弁明しなければならなくなりました。それは11章に書かれています。そこでペテロは自分の体験を語り、彼が話し始めてまだ間もなく、「聖霊が、あの最初のとき私たちにお下りになったと同じように、彼らにもお下りになった」と説明しました。「あの最初のとき」とは、当然、使徒の働きの2章に記されている、ペンテコステの日のことと考えていいですね?


 だれも口を開きませんでしたので、私はさらに続けました。「ペテロは『あの最初のとき
と同じように』という事実を強調していますね。弁明ですから当然といえば当然ですが、使徒の働きの著者ルカもまた、あえてこの問題をくり返して取り上げることによって、ペテロが強調したその点を強調しているように読めますが、いかがでしょうか?


 その後に、さらにペテロの理解とそのペテロの理解を後押ししている、ルカの理解が記されているわけです。ルカがペテロの理解に納得していなければ、この記事を書くことはなかったのです。コルネリオたち異邦人が体験した異言を語る出来事は、ヨハネによって予言されていた『キリストが与えるバプテスマ』、すなわち、『聖霊によってバプテスマを授ける』と語られていたバプテスマであったと、ルカの福音書の著者であったルカは理解していたのです。聖書には、ペンテコステの日の出来事が聖霊のバプテスマであることを示す、直接の言及はここにしかありません。


 それはペテロとその同行者たちだけではなく、当時のクリスチャンたちが聖霊のバプテスマには異言が伴うと、理解していたことを示していることにならないでしょうか? また、当時のクリスチャンたちは、異言を語ることが聖霊のバプテスマを受けた証拠であると、認めていたことを示していないでしょうか? さらに、異言を語るということは、神の絶対の権威によるものあり、人がそこに口を挟むべきことではないことも示し、その上に、それは洗礼を授けることの充分な理由になることさえも、示しているのではないでしょうか? ただし、現代の人々が異言を語ったと主張する場合、その異言が正真正銘の異言であるかどうか、確かめなければならない場合もあるようですね。これは、別の機会にお話しましょう。


 ところで、聖書から神学を構築する場合、わずか一節の短い引用や、たまたま一度だけ言及されたことから語ってはならないことは常識ですが、これは一節だけの引用ではありませんし、たまたまの言及でもないことはお分かりになりますね。これは明らかに意図的に言及されたものであり、かなり念の入った説明です。


 それから、お伺いしたいのですが、なぜ、異言を語ることを奇異に感じたり、恐れたりするのでしょう? パウロは明らかに、すべての人が異言を語ることを望んでいると語っていますね。自分が誰よりもたくさん異言を語るともいっています。異言を語るのをとどめてはならないとはっきり教えています。コリント人への第一の手紙の14章に記されているとおりです。


 もちろん、異言は伴わないけれど、すばらしいクリスチャン体験、聖霊体験というものはたくさんあることでしょう。パウロが「第三の天」という表現で語った彼の体験も、そのような体験のひとつだったかも知れません。しかし、自分は異言を語ったことはないけれど、聖霊のバプテスマを受けていると主張される方は、その体験が間違いなく聖霊のバプテスマであるということを、聖書から説明する責任があると思いますが、いかがでしょうか?」


 私の言うことに耳を傾けてくださっていた牧師や宣教師たちは、顔を見合わせていましたが、やっとの思いで・・・・・と思える様子でおっしゃいました。「先生の言われることはよく分かりました。ただ私たちは、このことをもっともっと、しっかりと学ばなければならないと思います」 


「ぜひ、そのようになさってください。聖霊体験が個々のクリスチャンの体験として非常に重要であり、教会の成長にも大きく関係しています。いろいろ例外はあるかもしれませんが、少なくても、世界のペンテコステ教会の働きを見ると、そのように言えると思います」 私は続けました。「そしてさまざまな聖霊体験の中で、イエス様や弟子たち、それから初代の教会が特に強調したのは、聖霊のバプテスマといわれる体験です。さまざまな聖霊体験があり、それぞれすばらしいものでしょう。でも、聖霊のバプテスマと呼ぶ以上、それは異言の伴うものでなければならないというのが、聖書から得た私の結論です」


 残念ながら、このときの私の説明で、充分納得できた方はいなかったようです。それぞれが自分の神学的伝統を横において、聖書の言うことを素直に聞けるようになるのはいつのことでしょうか。私の説明を妨げずに聞いてくださった寛容さに感謝をすると同時に、聖書の教えよりも自分たちの神学的伝統を大切にする頑なさに、少しばかり失望したものです。










posted by ms at 00:00| Comment(6) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
史的キリストに対する信仰から一歩進んで、聖霊の実在と力を信じる生活を始め、奇跡を求めて祈り始めました。そして、私は幾度か幻を見ました。また、祈っていると聖霊の臨在を強く感じるようになり、体が熱くなり、平安に満たされ、喜びが湧き上がり、祈りが楽しくなりました。それから私が病人に手を置くと、その病人が癒される体験を何回もしました。だから、私は聖霊のバプテスマを受けたと信じているのです。

この言葉は真実だと思います。


異言って、与えられたら自分の意志を持って語り始められるし、終わりにしようと思ったらいつでも語り終えられるものですよね。

ということは、聖霊のバプテスマによって異言が与えられてもそれを語らない、というのはあり得ることではないでしょうか。

バプテスマのときばかりは溢れてくるものだ、とおっしゃるかもしれません。でも、異言に関して抑圧的な環境で育った場合、与えられても異言が出てこない、というのは十分考えられることだと思います。

この人がこの時、幻や癒しの賜物をいただいていることも、それがただの「すばらしい聖霊体験」以上のものであることがわかるはずです。


そして何より、異言という表れだけで、それも異言を口に出して語ったかどうか、という人の目に見える基準だけで聖霊のバプテスマを受けたかどうかを判断するのはとても危険なことだと思います。

他のページで主観的、客観的ということを繰り返しおっしゃっていますが、例えば救いに関して、あなたの証は主観的で、客観的証拠がないからあなたは救われていない、とはいえないはずです。救われたかどうかはただ主と本人だけが知っていることだからです。聖霊のバプテスマも同じです。聖霊のバプテスマを主から受けたという本人の真実な証を、人間の勝手な判断で反古にすることは、決してあってはならないことだと思います。

念のため言っておくと、私は、聖霊のバプテスマには必ず異言が伴う、ということには同意しています。また、素晴らしい聖霊のバプテスマを偽りの証によって薄めてはならないとも思います。しかし私には、この先生のあかしが偽りだとは思えないのです。だからといって真実だと断言することもできません。本人と主だけが知っていることです。

長文失礼しました。
神様の祝福を祈ります。
Posted by at 2012年12月03日 17:05
たぶん 異言をともなわない聖霊のバステスマは


このようなものだと思います。

「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。」ヨハネ14章23節
Posted by n at 2012年12月30日 23:17
異言を語る聖霊のバプテスマ

1999年8月2日&2012年2月26日に受けました。
Posted by AkiraNagasawa at 2014年05月08日 20:24
はじめまして。
佐々木と申します。
記事を読ませて頂きました。

少しだけアドバイスさせて頂きますが
あなた様のメッセージを聞いていた先生方は反論できなかったのではないのです。

大変失礼な言葉に聞こえてしまうかもしれませんが。。。
絶句されたのだと思います。

2章と10章に記される異言とは性質そのものが違います。

またあなた様の言葉の間違いへの指摘は以下のように聖書に書かれている通りです。

Tコリントの12章10節 ある人には奇蹟を行う力、ある人には預言、ある人には霊を見分ける力、ある人には異言、ある人には異言を解き明かす力が与えられています。

偽キリストを伝えるものにならないように注意して下さい。
Posted by Sasaki yuuki at 2014年05月18日 20:58
コリント第一にこうあります。

29
みなが使徒でしょうか。みなが預言者でしょうか。みなが教師でしょうか。みなが奇蹟を行う者でしょうか。
30
みながいやしの賜物を持っているでしょうか。みなが異言を語るでしょうか。みなが解き明かしをするでしょうか。

みなが〜でしょうか?
は当然みなが賜物が相違するが、同じ聖霊を受けているというパウロの指摘です。
異言をみな受けるなら、パウロはこういう言い方はしなかったはずです。
Posted by umegaki at 2015年09月03日 12:13
「聖霊によるバプテスマ」と「聖霊の満たし」を区別する必要があります。「聖霊によるバプテスマ」はIコリ12章にあるように、信じた瞬間に与えられる特権です。与えらえる目的は、信者がキリストの死・埋葬・復活に連なり、キリストの教会(エクレシア)を建て上げる為です。
一方、「聖霊の見たし」は霊的成長の過程で徐々に受けるもので、この中に異言も入ってきます。
使2章、8章、10章、19章の異言はペテロに権威があることを証明するため、及びユダヤ人以外にも救いが及ぶことを認めさせるための特別なパターンでした。歴史書のみから教理を導くことはできません。
Posted by mymy at 2016年03月21日 18:39
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