2015年08月31日

エリヤハウスの問題

エリヤハウスの問題       
 私たちの中にある間違い
                               
2015年8月11日
西九州伝道所・佐々木正明



はじめに

私は、アッセンブリーズ・オブ・ゴットという信仰の共同体を、あらゆる方面から見て、とても素晴らしいものであると考えています。そこに所属を許されている、神のご配慮に感動しています。昨年、この信仰の共同体がアメリカで創設されて、100年という節目を迎えましたが、今や全世界に6700万人を優に超える信徒がいると、報告されています。大部分が、正確な集計など不可能な国々の中での数字ですから、「主催者側発表」を思わせるようなものであったとしても、神様の祝福を体験してきたことだけは事実です。

だからと言って、私たちの信仰の共同体に、困難や問題がなかったわけではありません。むしろ多くの困難や問題を乗り越えて今日までたどり着いたもので、神様の恵みと哀れみによるものです。克服してきたたくさんの事柄の中でも、特に深刻だったのは、いろいろな「間違った教え」の混入あるいは侵入です。

この間違った教えの混入あるいは侵入は、決して過去の出来事だけではなく、現在も私たちの信仰の共同体を脅かし続けています。私たちはこの事実に気づき、注意深くそして賢く振舞わなければなりません。実際のところ、現在私たちの交わりに忍び込んで、内側から交わりを壊しては腐敗を拡散していく、間違った教えの核心あるいは重要な要因の多くは、かつても、私たちの交わりに紛れ込んで問題を起こしていたものです。

私たちの交わりの指導者たちは、大きな犠牲と痛みをもってこれらの問題に対処してきました。そのために、交わりが「大分裂の危機」に直面したこともありました。それにもかかわらず、今までこの交わりがひとつの交わりとして神様に用いられてきたのは、ただただ、神様の助けと導きがあったからだと言わねばなりません。また指導者たちが聖書の教えを正しく理解し、聖霊の導きを敏感に感じ取って、それに従ったからだと言うこともできます。指導者たちは、ただ間違いを指摘して糾弾するだけで満足したのではありません。間違いを犯していた人たちを裁き、追放して終わったのでもありません。できるだけ寛容な精神と兄弟愛によって間違いを指摘し、間違いを犯していた人たちが交わりの中に留まり、間違いに気づきそれを直していけるように心を配って、勧め励ましてきたのです。

いま私がこの文章を書いているのは、このようなアッセンブリーズ・オブ・ゴッドの伝統に従い、私たちの中に混入してきた誤りを指摘し、気づかないうちにその誤りに陥ろうとしている、同労者諸師の注意を喚起することによって、主にある兄弟としての役に立ちたいと願うからです。たとえ言葉が厳しくなったとしても、それは兄弟姉妹を傷つけるためではなく、間違いに気づいて、それを改めて欲しいと願うためであることを、理解してくださるようにと望むものです。


T.私たちの交わりを脅かしてきた「間違った教え」

 私たちの交わりは、神学を修めた方たちの信仰告白や信条に、同調した人たちによって始められたものではありません。むしろ、神学的にはほとんど素人に近い牧師や信徒たちが、「異言を語る聖霊のバプテスマを受けた」という、著しい体験を共有するものとして、その体験の下に集まったということができます。ですから、私たちの交わりには当初から、根深い「体験主義」的な傾向がありました。それは一方では、非常に力強い私たちの交わりの特質となりましたが、他方では神学的な曖昧さ、あるいは誤りに陥りやすいという弱点となっても現れてきました。
 
 それは容易に、「何でも良ければいい」という実利主義的な信仰観につながり、「結果良ければすべてよし」という安易な成功主義に流れ、「奇跡が起こった」「癒しがあった」「教会が大きくなった」「たくさんの人が救われた」「経済が豊かになった」などという、目に見えるものを強調する性格を生み出してきました。それらはいともたやすく、繁栄の神学や積極性思考あるいは教会成長運動と繋がり、私たちの間で大きく広がった事実もあります。それらが福音宣教の力になったという積極的一面を認める一方で、神の聖さと、聖書の倫理観に染みをつけてきたという、醜い事実も認めなければなりません。

 また、いまの現実の世界でお働きになる聖霊を強調し、その様々なみ業を体験してきた事実を大いに喜ぶものですが、その強調が聖書の裏付けのないものとなって、シンクレティズム(宗教的混合)の危険性を感じる場面にも、幾度も遭遇してきました。ヒンズー教と仏教の入り混じった、神秘主義的まじない師のような伝道者、シャーマニズムの要素の強い、アフリカからの説教者、それらの土着の信仰に影響を受けた宣教師たちを見てきました。聖書と神学をしっかりと学んだ学者たちではなく、素人に近い牧師や信徒たちの活動から始まった働きであるため、確実な聖書釈義と神学大系のなかで考えることが苦手で、主観的な良識や常識あるいは信仰の経験で、信仰生活の大切な部分を判断し、選択決定をしてきたところが多いのです。

 また、私たちアッセンブリーズ・オブ・ゴッドの間では、ほかの信仰の伝統にいる人たちよりも、「聖霊のみ声」を聴いたり、「聖霊のお導き」に従ったりすることが、圧倒的に多いのです。牧師の礼拝説教の主題が、「聖霊様からの語りかけ」で決められたものだったり、「聖霊のお示し」によって特定の聖書の箇所が与えられたり、「聖霊のお導き」によって仕事を選択したり、「聖霊が会わせてくださった」相手と結婚する人が多かったり、困難に遭遇したときは聖書の教えに思いを巡らせるよりも、祈って聖霊のみ声を聞こうとするのが普通だったりするのです。

 聖霊に対して従順で、その導きに敏感であろうとする、私たちの伝統的な信仰態度や、聖霊のみ声を聞こうとする姿勢は素晴らしいのですが、聖書を離れたところで聖書と関係なく、主観的感覚や体験で「み声を聞いた」と思い込み、それを絶対視に近いくらい重んじてしまう傾向は、非常に危険です。聖書が完結した後の聖霊のお働きで、最も大切なことのひとつは、聖霊ご自身がかつて霊感をもって書かせてくださった聖書を、私たちに解き明かしてくださることです。私たちが聖書を読むとき、そこに聖霊が働いてくださり、理解を与え、教え、導いてくださるということです。

聖書に書かれていない事柄や、聖書に教えられていない問題に、新たな啓示を与えたり導いたりすることは、現在の聖霊の働きの中では、ことさら重要なものと看做されるべきではありません。たとえそのようなことが、まったくあり得えないのではないとしても、あるいは大いに期待すべきことであったとしても、それは個人や小さなグループのクリスチャンたちに対する、極めて限定的な、つまり場所と時間と状況に制限された中でのものであり、権威付けて一般化することができるもの、普遍的に誰にでも適用できるものではありません。大切なことは、すでに完結している聖書に、記載されているのです。

 私たちのアッセンブリーズ・オブ・ゴットの交わりや、私たちに近いペンテコステ信仰を標榜する人たちの、間違った聖書理解や神学の例を調べ、誤った信仰の実践に陥った事例を見ると、ほとんどが、この、私たちの伝統的体験主義と聖霊の導きに対する主観的理解、つまり、聖書によって証明できない事柄に対する思い込みを、余りにも信頼しすぎてしまったということによるものです。

ジーザス・オンリー

 一例として、私たちの交わりが設立された翌年、1915年の第二回総会で起こった出来事を、挙げることができます。そこで私たちの交わりは、早くも分裂と消滅の危機を迎えたのです。当時は、目に見える聖霊のお働きが非常に顕著であり、集まってきた人々の間では、聖霊に対する体験主義的な期待が燃え上がっていたのです。全体が、聖書の教えを学びそれに聞くよりも、幻や預言を通して与えられる新しい啓示を求める、興奮状態に飲み込まれていました。そのような場に、洗礼はイエスのみ名によらなければならないという、聖書釈義を誤った突飛な理解を、新しい啓示として主張する者が現れたのです。瞬く間に多くの出席者がこれを受け入れ、「イエスの名による洗礼」を受け直すべきだと言い始めました。

当然、父と子と聖霊の名による洗礼を堅持する者たちとの間に、熾烈な議論が沸き起こり、総会は大混乱に陥ってしまいました。結局、指導者として信頼を受けていた有力な伝道者たちから、一般信徒に至るまで、およそ三分の一もの人々が、創立されたばかりの交わりを去ることになりました。交わりを去った人々の多くは、後にジーザス・オンリーあるいはワンネスと呼ばれる、三位一体に曖昧な態度を取るグループにまとまって行きました。これらの中で最大のものは、ユナイテド・ペンテコステ教団として、現在の日本でも活動しています。

レストレーション運動

 もう一つ例を挙げると、「レストレーション運動」、もしくは「のちの雨運動」と呼ばれるものがあります。この運動の考え方は、ペンテコステ運動の初期からそこここに顔を出していたのですが、第二次世界大戦の終わり頃から、ウイリアム・ブランハムというかなり怪しげでありながら、世界中で活躍した「ペンテコステ系の伝道者」によって、ひとつの教えとして確立されて、大々的に宣伝されたものです。

 この運動は、初代の教会が経験した聖霊の傾注を「はじめの雨」と理解し、世の終わりに近くなって再びおこった聖霊の傾注、すなわち20世紀初頭に始まったペンテコステ運動を、「後の雨」と理解するものです。その主張によると、後の雨運動とは、はじめの雨の運動を回復(レストア)する運動であり、はじめの雨を超える大きな運動になるということです。そこから初代の教会の姿を理想、あるいは取り戻すべきものとみなし、なんでも初代の教会のあり方に戻ろうという、極端な考え方が出てきました。中には初代教会にとどまらず、それ以前のものまで取り戻そうという流れもあります。

 アメリカ・アッセンブリーズ・オブ・ゴットは、創立当初から自分たちの中にあったこのような傾向を、あまり好ましくない、怪しいものとして見てはいましたが、寛容性と包容力をもって見逃していたものです。ところが、先にあげたウイリアム・ブランハムなどの働きによってその影響力が増し、様々な弊害が多発していることに危機感を抱くようになり、ついに1949年に至って教書を発表し、正式にこの運動を間違いであると断定しました。このことによって、かなり多くの教会や教職が、アッセンブリーの交わりから去る痛みを経験したのです。

 アッセンブリー教団から出された教書の影響もあってか、この運動はその後沈静化を見せたのですが、カリスマ運動や第三の波運動という、抑えも統制も利かない教団組織を超えた運動が興ると、そのなかで再び力を取り戻して現代に至っています。アッセンブリーズ・オブ・ゴッドに所属する教職や教会の中にも、かつての歴史を知らず、もともと自分たちの中にある「脆弱な聖書主義」と、「聖霊に聞く」と言って聖霊以外の声を聴いてしまう体質のために、さまざまな形でこの運動を取り入れている人たちがいました。

トロントのリバイバル

ひと時、私たちの間で大いに話題となった、「トロントのリバイバル」、「あるいは笑いのリバイバル」と言われた出来事も、このレストレーション運動の再興の一つでしたが、多くのアッセンブリーズ・オブ・ゴッドの教職や教会がその運動を受け入れていました。それに危機感を抱いたアメリカ・アッセンブリーズ・オブ・ゴッドの指導部は、2000年の8月に教書を発表して、警戒を呼びかけています。私は、日本アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団指導部の要請を受けて、これを翻訳しましたが、教団はこの翻訳文をすべての教職に送りました。最近に至って、レストレーション運動が私たちの間でまだ活発であることから、私はこの翻訳文を少しばかり手直しして、個人的に、再び多くの教職の方々にお送りした通りです。

 今この文章で、のちの雨運動全体について書くのは私の意図するところではありませんので、控えておきますが、のちの雨運動の人たちがよく使う言葉、あるいはフレーズを列挙しておきます。これらの用語がすべてではありませんし、これらを使う人たちのすべてが、レストレーションに関わっているというのでも、間違っているというのでもありませんが、注意をしておくのに越したことはありません。

体験主義と聖書の裏付け

繰り返しますが、私たちは、信仰には体験が重要であると信じています。たとえ「体験主義」とレッテルを貼られ、非難されようとも、聖書理解よりも体験を先に持つことにさえも、大きな意義を感じています。ただしその体験は、厳密な釈義による聖書解釈の裏付けが可能なものでなければ、あくまでも限られた状況の中にあった個人の体験として止め、ほかの人たちに勧めたり、一般化したりしてはなりません。

私たちが主張してやまない異言を伴う聖霊のバプテスマ、しかも、聖霊の内住とは異なる、新生体験の後の・・・時間的には同時と思えても、理論上は後の体験としての聖霊のバプテスマとは、そのような厳密な聖書釈義の裏付けを得ることが出来る体験なのです。私たちの交わりは、体験とそれを裏打ちする厳密な正統的聖書釈義の基盤に立つのです。

 大切なことですのでくり返しますが、私たちのクリスチャン生活には、さまざまな体験が伴います。それは信仰が作り出す体験であったり、聖霊がもたらしてくださる体験だったりするでしょう。それぞれが、それを体験した人個人にとっては大切な、宝のような体験かもしれません。その体験自体をとやかく言うつもりはありません。しかし、それが一般化され、他の人もそれを体験すべきだと教えたり、すべての人に与えられている体験であると主張したりするためには、正しい聖書釈義の原則に立った聖書の裏付けが必要なのです。

 たとえば、多くのカリスマ系や第三の波系の信仰を持つ人たちが主張する、「異言を伴わない聖霊のバプテスマ」は、たとえどんなに素晴らしい体験であったとしても、正しい釈義に立った聖書の裏付けを得ることができないものであるため、聖書の教えとも聖書的神学とも呼ぶことができないのです。「聖霊のバプテスマ」と呼ぶ限り、聖書が語り示す聖霊のバプテスマでなければならず、異言を伴う体験でなければなりません。聖霊の交わりの体験は、聖霊のバプテスマだけではありませんから、なにか、別の名称で呼べば良いのです。

 パウロは、自ら「第三の天まで引き上げられた」と表現した体験をしていますが、これを聖霊のバプテスマとは呼んでいませんし、他のクリスチャンたちが同じ体験をするようにと、勧めてもいません。この体験を、クリスチャン生活に不可欠なものであると、一般化することもありませんでした。あくまでも、個人の霊的体験として止めたのです。


U. 私たちの中にあって現在危惧されている教え「エリヤハウス」

 現在、私たちの交わりに紛れ込み、聖書に基づかない体験を強調しながら活発に活動している、レストレーション系の運動に、エリヤハウスと呼ばれているものがあります。これは1974年のアメリカで、サンドフォード(John & Paula Sandford)という人物によって創立されたものです。この活動が今やアメリカを始め多くの国々で、ペンテコステ、カリスマ、第三の波を中心に、改革派やバプテストやホーリネスなどの教会も巻き込んで、無視できない勢いになっています。日本においても、かなりの数の教会がこの活動を取り入れていて、私たちのアッセンブリーズ・オブ・ゴッドの教会の中にも、これを積極的に実践している教会がいくつもあり、さらに数を増しそうな勢いだということです。これが、正しい聖書の教えを守ろうと努力している仲間たちの、大きな懸念と憂慮になり、一筆書くようにという、私への要請ともなったものです。

 この活動は、福音的な教えを持つ健全さを装い、聖書的であることを高々と謳っていますが、その実、既に述べてきた体験主義や実利主義に流れ、聖書の教えよりも聖霊の導きという主観的思い込みを重んじて、これに根ざす多くの危険な誤り、あるいは意図的と思われる偽りを内に持つものです。良識ある私たちの仲間の牧師や伝道者が、このような教えに惑わされること自体、とても信じられないことです。

多分それは、エリヤハウスの外見上の健全さに、欺かれてのことだと思います。たしかに「とっかかり」だけを見ると、これは異なった聖書の解釈や、怪しげな神学的教えを広めようとするものではなく、既に存在している教会の伝道や活動を支援する、効果的な新しい方法論であると捉えられ易いからです。ただ、少しだけでもその教えを学ぶならば、非常に危険な要素をたくさん内包するものであることに、すぐにも気づくはずです。
  
 アセンブリーズ・オブ・ゴッドの交わりに属する牧師や教会が、この教えの危険性に  気づかず、やすやすとこれに加わったり、その教えを取り入れたりしてしまうのは、先に述べたような、聖書釈義の基本を知らなかったり、神学的脆弱さを抱えたままにしているからです。ただ直接的には、カリスマ運動や第三の波運動とアッセンブリーズ・オブ・ゴッドとの違いを、しっかりと認識していなかったことにもよると言えます。彼らも同じペンテコステ系だと理解していたために、無批判に彼らの言う事に耳を傾けてしまったのでしょう。あるいは、自分たちは聖書的にまた神学的に脆弱だという、私たちに特有の劣等感が、福音派の神学をしっかりと修めて来たと思われる、第三の波運動の推進者たちの言うことを、ありがたく受け入れてしまったのではないかと思うものです。

 エリヤハウス自体は、必ずしも第三の波と同じというわけではありませんが、第三の波の賛同者たちの多くがこれに加わり、カリスマ運動の推進者たちもこれを取り入れているために、おおきな枠で、ネオペンテコステ運動と捉えられます。ただ面白いのは、ペンテコステ系以外の教会も、多数これに加わっているという点です。福音派の多くの牧師たちも、教会成長運動の創始者であったピーター・ワグナーに、強く影響されていました。ワグナー自身はもともと福音派の人間でしたが、南米で宣教師として働いていたときにペンテコステ運動に感銘を受け、現在における聖霊の働きを強く主張するようになって、「ペンテコステ化」したものです。ただ彼自身はペンテコステ運動ともカリスマ運動とも一線を画し、自ら第三の波と名付けた運動の推進者となったものです。

ワグナーの影響を受けた多くの福音派の人たちは、現代における聖霊の働きに目覚め、第三の波に乗って「ペンテコステ化」し、彼の言うことを取り入れて行きました。エリヤハウスは第三の波の運動の一部とも捉えられていますし、教会成長運動の中の教会刷新運動とも理解されています。単純に、「教会が大きくなることはいいことだ」と言って、「教会を大きくしよう妄想」の虜になっている牧師や伝道者が、これを取り入れているのでしょう。エリヤハウスの教えに隠された危険な要素、聖書からの遺脱、聖書以外の哲学やカルトの混入という、神学的異常さには興味も持っていないのです。

 また、ペンテコステ系の教会のほとんどは、基本的に福音派の神学を引き継いでいます。あるいは原理主義的な聖書理解を持っています。つまり、聖書は一字一句誤りのない神の言葉であるという立場を、固持しているということです。そのために、たとえその聖書釈義に問題が有り、とんでもない聖書解釈をしていたとしても、「聖書的」という言葉に非常に弱いのです。これは福音派の教会の方々も同じです。「聖書的」と言われると、水戸黄門の印籠をかざされた者のように、「ははー」と言って頭が上がらなくなる、そんな「恐怖症」を抱えているのです。

エリヤハウスは、「聖書的」であり福音主義的な立場に立っていると、最初に堂々と宣言しているだけでなく、カルトと戦う団体であると誇らしく自称しています。そのため、エリヤハウスに反対する者は、反聖書的であり悪魔的でありカルト的であると、逆に烙印を押されることになります。これは、マインド・コントロールというカルトの手法の入口であり、聖書的ということを大切にする、多くの牧師や教会が騙されているのです。

「聖書的」を大切にすることは、必ずしも聖書を正しく釈義し、正しく解釈することではありません。最近では聖書的と言えば言うほど無聖書的であったり、非聖書的であったり、反聖書的であったりする例が少なくありません。聖書を大切にしない人たちこそ、聖書的を標榜しているのです。だから、聖書的という言葉で騙す人たちと、聖書的という言葉で騙される人たちが一緒になって、大きなグループを作っているわけです。「聖書的教会」とか「聖書的教え」などという言葉は、もはやなんの保証にもならないのです。

 私はすべての牧師や伝道者が、高度な神学的な訓練を積んでいるべきだとは思っていません。誰もが聖書釈義について、専門的知識を持っていて、いつでも正しい聖書解釈ができるべきだとも考えていません。ただ、教団として、あるいは交わり全体として、そのような学びをした者たちや、そのような問題に敏感な人たちがいて、間違った教えに対して警鐘を鳴らし注意をうながし、誤りに陥らないようにすべきだと理解しています。それが交わりの重要な目的のひとつです。


V. カウンセリングとインナーヒーリング

エリヤハウスの問題の第一は、カウンセリングという聖書外の手法を基本的な活動に取り入れ、インナーヒーリングというカルト的な教えを拡散していることです。インナーヒーリングによるカウンセリングは、もともと反聖書的オカルトの実践者であった、サンフォード(Agnes Sanford)という人物がアメリカで始めたもので、当時はやったヒッピーたちと共通して、東洋の神秘主義哲学や宗教に傾倒し、フロイトやユングといった心理学者の、非聖書的でオカルトの傾向が強い教えを取り入れたものです。

一般世界においてこの運動は、カーター元大統領の妹などの有名人たちの参加もあって、かなりの影響力で社会を混乱させています。(後述)この教えをさらに「キリスト教化」して、エリヤハウスと言う名で教会の中に持ち込んだのが、サンフォードの友人で、後継者とも見なされているサンドフォード(John & Paula Sandford スペルも発音もよく似ていますが別人)です。これが、いわゆるクリスチャン心理学者と言われる人達によってさらに整えられて、現在、広く伝播しているというわけです。

サンドフォードと彼の協力者たちは、はインナーヒーリングのカウンセリングに関係して、「聖書によって」、「聖霊の導きによって」と言いながら、その実、様々な非聖書的な教えを持ち込み、多くの教会に「異端化」あるいは「カルト化」の危機をもたらしています。

インナーヒーリングの基本的教え

彼らが教えるインナーヒーリングの基本的教えは以下の通りです。なお、エリヤハウスの人たちは、独特な用語を用いていますが、ここではそれを普通の言葉で言い直して説明します。

@ 人間の苦しみは、幼少期あるいは胎児の時にまで遡る過去において、他者によって加えられた苦い体験の記憶によってもたらされる。その記憶はしばしば無意識の記憶、潜在意識として影響する。

過去の苦い体験が現在の苦しみに繋がるという見解、胎児の時の体験が影響するという考えにも、聞くべきところがないわけではありません。しかし人間の苦しみの多くは、過去の体験の記憶によってもたらされるものではないことは、自明の理です。ましてや潜在意識によってももたらされるというのは、フロイトやユングといった特定の心理学者たちの主張によるもので、科学的事実に基づくものではありません。それよりさらに大切なことは、このような見解は聖書によっても支持されないということです。

また他者によって加えられた過去の苦い体験が、現在の苦しみの原因となっているという理解は、多くの苦しみの直接の原因である、自分の間違いや失敗や罪などを否定し、あるいは軽んじ、他者に原因を見つけ出そうとする、責任転嫁の非難を免れることができないものです。それは、自分の過ちや罪を認めて悔い改めという、聖書の大切な基本的教えを無にするものです。

A 過去の苦しい出来事の記憶に、想像のキリストを登場させて、その苦しい出来事を解決してもらうことによって、現在の問題を解決する。

  キリスト教カウンセリングを標榜しているエリヤハウスでは、ここでキリストに登場してもらうことになります。ただし、あくまでも過去の体験ですので、そこに本物のキリストを登場させることはできません。そこで、その過去の記憶の中にある体験の場に、「想像上のキリスト」を連れて行って登場させるのです。その想像上のキリストは絶対に優しく、無条件で赦し、思いやりに富む力強い方でなければなりません。このキリストに、過去の辛く悲しい体験の記憶を、美しく楽しい体験の記憶に変えてもらうのです。そうすることによって、現在の苦しみを解決するというわけです。

  例えば、幼い時の情け容赦ない父親の体験が、父親というもの自体に対する恐怖をもたらし、自分が父親になってからも、どのように子供に接したら良いのか分からないという、問題があったとします。その場合、幼い時に酷く父親に叱られていた場面の記憶に、徹底して優しい想像上のキリストに登場してもらい、父親の役を演じてもらうことによって、まず、恐怖の記憶を解決するのです。そうすることによって、現在の父親の役割を正しく果たすようになれるというのです。

このようなカウンセリングには、たしかに現在の問題を解消するための、心理的効果はあるかもしれません。ただし既にのべたように、このカウンセリングの基盤となる心理学は、ひとつの説に過ぎず、確立された科学的な学問ではありません。また、たとえこの方法が人間の心を動かすという意味で、実効性のあるものだとしても、すべて想像上の出来事、観念上の主観的な記憶の問題で、本質的な解決にはならないのです。聖書はこのような考え方や問題の解決法にはくみしません。

ましてや「想像のキリスト」というのは、むしろ、本当のキリスト、神が人となられたキリスト、現実に生きて働いておられるキリストに対する冒涜です。また、聖書が禁じている占いやまじないや降霊術にさえ通じるものです。キリストは現在の問題を解決してくださる方であり、解決することができるお方であるはずです。ですからこのインナーヒーリングのカウンセリングを行うことは、神がキリストによって準備された救いは不十分であると主張し、キリストの力も、現在の問題を解決するには不足であると断定することです。

B 過去の辛い出来事はしばしば無意識の中、潜在意識の中にあって、本人は覚えていない場合が多い。したがってこの隠れた記憶を、カウンセリングによって掘り当て、思い出させなければならない。
   
  インナーヒーリングのカウンセリングに付随するもうひとつの危険は、この潜在意識を探り当てることにあります。あくまでも潜在意識であって、本人が自覚して記憶しているわけではないために、まず、現実の問題の元となっていると想定される、潜在意識の中の記憶を呼び覚まして、それがなんであるかを特定しなければならないのです。記憶していない辛い出来事を探し出し、現実の問題と結びつけるこのカウンセリングに、「意識の植え込み」あるいは「思い込ませ」とも言える、胡散臭い手法が用いられても不思議はありません。

探し出したと言われる潜在意識の記憶が、現実に起こったものではなく、まったくの空想、架空の出来事である可能性もおおいにあり得ます。先ほどの厳しい父親の体験も、潜在意識として残っていたと判断されただけで、実際にそのような体験があったかどうかは不明です。アメリカでは、インナーヒーリングのカウンセリングを受けた人たちが、事実とはまったく異なる妄想を抱き、自分は子供の頃に虐待を受けていたと親を訴えるなどという、笑えない珍事も実際に多数起こって、訴訟文化の社会問題ともなっています。カウンセリングを受ける者の多くが、実際は体験していないことを体験したと思い込まされ、存在しない問題に悩まされているのです。カウンセラーが悪意を持っていたり、一定の意図を持ったりしていると、カウンセリングを受ける者は容易に心理的な操作を受け、洗脳によって操られる危険に陥ります。これはカルトの常套手段です。

C 幼い頃の辛い体験は、赤子の時や胎内にいるときの体験までも含む。そのような体験の多くは、後になって様々な性的問題となって現れる。 

  エリヤハウスのもうひとつの怪しげなところは、しばしば性的なカウンセリングが用いられることです。夫婦間の性の問題や性的不能や自慰、あるいは不感症の問題から同性愛や売春、婚前交渉や異常な性欲、さらにポルノに囚われる問題に至るまで、かなり露骨に取り扱われていて、統一協会がやっている手法を思い出させられます。実際には、実情に応じていろいろ試されているようですが、エリヤハウスの公式なテキストには、妊娠中のセックスが胎児に及ぼす悪影響について、下劣な下ネタ話も及ばない話が記載されています。

それによると、妊娠中の母親の乱暴なセックスによって胎児は恐怖を感じます。その恐怖が潜在意識として留まり、大人になってからも、例えばナイフのような男根状のものに恐れをいだくようになって、健全な生活を妨げるというのです。男根とナイフが形状的に似ているなどという、笑い話以下の発想が真面目に論じられているのです。ここでも統一教会が、朝鮮半島が男根に似ているから、朝鮮は男性の役割、日本は、日本列島が凹状になっているから女性の役割を果たすなどと言っていた、下劣で低級な発想を思い出させます。さらに幼児のときの誤ったオマルの訓練やオムツの取り扱い方が、成長してからの自慰を始めとする性的問題を起こすことが多いから、母親は特に注意しなければならないなどとも教えられています。これも、なんの根拠もない陳腐な教えです。

このようなこじつけの性教育に関係して、かなり微に入り細に入るセックス・カウンセリングのやり方が、彼らのテキストに載せられていて、実際にそのような指導がされています。問題はこのようなカウンセリングを受ける者は、心理的に強い拘束を受け、洗脳の状態に陥るということです。多分それ以上に、カウンセリングを施す方も、かなりの性的変質者にならざるを得ないということです。

  幼少期あるいは胎内にいるときの性体験が、大人になってからの性の問題の原因になっているというような愚にもつかない教えも、フロイトやユングといった大層な名前を持ち出され、心理学などという難解な学問を権威として引用されると、「そうかなぁ」と思う人も、あるいはいるかも知れません。でも、そのような話を突然持ち出されたならば、大抵の大人は常識をもって排除してしまいます。そこで、エリヤハウスが実際にやっている講演やセミナーなどを聞くと、まず、だれでも「そうなのかぁ・・・」と思ってしまいそうな、幼少期のトラウマが潜在意識となって引き起こす、様々な問題の例をさりげなく、しかもいくつも取り上げて常識の抵抗力を弱めた上で、潜在意識に残された胎児期の体験に話が及ぶようです。

  エリヤハウスのインナーヒーリングは、容易に心理的隷属状態を作り出すことができます。このような手法に、いま流行りのセル・グループなどがしばしば取り入れている、按手による賜物の授与の連鎖や個人預言、小牧者や羊飼いのケアに時折見られる、指導的立場にある者の権威を主張する手法を並行して用いると、教会の組織とやり方、あるいは指導者である牧師に、無批判に服従する信徒を作り出すことができます。それは容易に、いわゆる「成長する強い教会」につながることでしょう。日本の成長する教会の多くは、権威主義的な牧師がいる教会です。エリヤハウスの教えを理解してこれを実践している牧師たちは、そこに魅力を感じているのではないかと思います。そうなると、これはもうキリストの精神から逸脱した、醜い宗教屋に過ぎません。

  このような成長する大きな教会、成功した牧師という名を求める傾向は、容易に金儲け主義にも流れます。エリヤハウス自体が、夫婦ひと組の割引料金で、14万円もする受講料を取っているのですから、それを取り入れる牧師たちも、金儲けに触手を伸ばすようになっても不思議はないと言えます。のちの雨や第三の波、あるいはインナーヒーリングによって洗脳されてしまった信徒たちに、神様の働きのためと称して、多額の献金をさせることも困難ではなくなります。こうして、キリスト教界は悪徳業者の業界となり、教団はブラック企業の協同組合になります。

W. 先祖の罪と断ち切りの祈り

 エリヤハウスに関わる第二の大きな問題は、先祖の罪、家系の罪、家系の呪いという考え
方です。これは非常に危険で、非聖書的、反聖書的と言わざるを得ません。彼らは先祖の罪
の結果として、子孫が苦しみを負うということを、自分たちの教義として強く主張し、その
罪の断ち切りという手法を用います。エリヤハウスの「祈りのミニストリー」のテキストに
は、自分たちが、「家系を通しての影響に苦しむ大勢のクリスチャンのためにミニストリー
を行っている」と記されています。彼らの教えるところによると、現在の苦しみの多くは先
祖の罪、あるいは先祖の呪いによるために、自分の家系に流れる先祖の罪の呪いを解決しな
ければなりません。 

「祈りのミニストリー」のテキストには、以下のようにも記されています。「祈りのミニス
トリーをする中で、その人個人に関してはありとあらあらゆる罪を取り扱ったにもかかわ
らず、依然としてその人やその人の家族が多くの問題に苦しんでいる、ということがありま
す。その場合問題はその人個人としての罪や罪深い性質からでなく、家系を通して流れてい
る場合があります。これを、家系の罪といいます。」 つまり、インナーヒーリングでも解決
できない問題は、先祖の罪ということになるのです。

また、先祖の形質が子孫に及んでいることを思い起こさせるために、「あなたには、家族
から受け継いだ特徴はありますか? お母さんの目や、お父さんの歩き方、あるいは遺伝性の疾患、また才能や賜物などは?」などという質問を繰り返すように指導されます。これは罪の遺伝という、聖書があずかり知らぬ怪しげな主題への導入になります。

 さらに、先祖たちの罪の結果と影響が子孫たちに及ぶ、家系の罪を特定するために、隠している罪があるのではないか、気づいていない罪があるのではないかと探り、告白されていない罪によって、血筋が汚されていないかなどと問うように教えられます。そこで特に注意すべきことは、父親の性的悪戯、離婚、アルコール依存、くり返される流産、不妊、通常ではない病気、若死に、オカルトとの関係、経済的破綻、事業の失敗などです。こうなると、街角の占い師が用いる、誘導尋問の手法と同じです。

 この罪と呪いの連鎖を断ち切ると言われる、断ち切りの祈りは自体は特に魔術的なもの
ではありません。ただ、家系の呪いあるいは家系の罪を認めて、それからの解放を「イエス・
キリストの血潮の力」に頼って、「あるいはキリストの贖いのみ業」によって、願い祈るだ
けのことです。この点では、非常に福音的なというか原理主義的な言葉を用い、自分たちが
健全な教理を持つものであることを、アピールしているかのようです。ただし本当に健全な
クリスチャンは、家系の罪だの先祖の呪いだのという言葉が持ち出されること自体に、胡散
臭いオカルトの要素を感じ取らなければなりません。

 もう10年以上も前になりますが、私は自分が開拓牧会をしている「地方の教会」が、
なかなか思うように成長しないことを憂慮して、地方でも成功していると高い評価を得て
いる仲間の牧師に、特別講師として「ボランティア」で奉仕にきてくださらないかと、お願
いしてみました。するとこの牧師は快く私の願いを聞き入れて、「参りましょう」と言って
くださいました。

嬉しくなった私は、自分が牧会する教会の現状、弱点や欠点や問題などをあれこれ説明し
たものです。するとこの牧師はおっしゃいました。「それはぜひ断ち切りの祈りをしてください。先生の神学には合わないかもしれませんが、教会の成長と信徒の祝福のために、先生の神学を犠牲にしてでも、ぜひやってみてください。」

 この牧師が、当時エリヤハウスを取り入れていたかどうかは、知りません。少なくても当
時の私は、「断ち切りの祈り」などという考えには、まったく触れたことがありませんでし
たので、それがどんなことなのかお尋ねしてみました。それで、それが先祖の罪、家系の呪
いという概念に基づくものであることが分かりました。結局、自分から特別講師として手弁
当で来てくださるようにお願いして、快く承諾し頂いたのに、お招きを撤回してご奉仕をお
断り申し上げることになってしまいました。本当に失礼なことになって残念でした。

 今も尊敬しているこの牧師は、「断ち切りの祈り」が私の神学には合わないということを
百も承知のうえで、私の牧会している教会のためを思って、あえて勧めてくださったものと
思います。しかし私は、教会の成長のためであっても、信徒の祝福のためであっても、正し
い聖書の教えを犠牲にすることはできない、かたくなな牧師だったのです。

エリヤハウスについて、これまで、ほとんど何も知らなかった私ですので、今回調べて見
たところだけでは、彼らの教えのどの部分に属する問題なのか不明なのですが、多分、この断ち切りの祈りと関係していると思われる、非常に気になる実践がもうひとつあります。それは、「身代わりの祈り」、「身代わりの悔い改め」とも名付けるべき行為で、教え、勧め、伝道している相手が、どうしても納得できず、罪の悔い改めもできない場合、その人に代わって悔い改めの祈り、あるいは断ち切りの祈りをしてあげることによって、その人が救いに入るという考え方です。(この点を詳しくご存知のかたがいらっしゃったら、お教えくださいますか?)これも、とんでもない行為で、聖書の基本的教えに反するものであることは、言うまでもありません。

十戒の教え
 
エリヤハウスの人たちは、この先祖の罪の教えをモーセの律法の4箇所の言及、@出エジ
プト20:5、 A出エジプト34:7、 B民数14:18、 C申命5:9を用いて正当化していますが、その聖書の釈義、解釈の仕方が間違っているのです。この4箇所の言葉のうち、A以下はすべて@の言葉に依存するものですから、大切なのは十戒に含まれている@の解釈です。

エリヤハウスの人たちは、十戒のこの教えを字義通りに釈義していますが、まず、そこが問題です。福音派の聖書解釈学では、字義通りに釈義できると思われる部分は、できるだけ字義通りにするという原則に立ちます。それで、字義通りに釈義されている教えには、安心感を持ってしまいます。その字義通りの釈義を少しばかり強調し過ぎるのが、原理主義の人たちです。エリヤハウスの人たちは、この原理主義の傾向を持っています。モーセの十戒のこの言及は、字義通りに考えると、神は「父の咎を子に報い、三代四代にまで及ぼす」方であると理解され、先祖の咎、家系の罪という教えも成り立つことになります。

 しかし、これは独特の表現方法、「修辞法」が用いられた言い回しであって、字義通りに理解されてはらないものです。キリストが「私は門です」とお語りになったとき、「石の門ですか。木の門ですか。それとも鉄の門ですか」と、尋ねてはならないのと同じです。ここで神は、厳しく罪を罰する厳格なお方であることを、このような表現で強調しておられるのです。これを文字通りに理解しようとすると、続く「恵みを千代にまで施す」という言及と、正面衝突してしまいます。一方では「呪いを受けた三世代目」の人間が、他方では恵みを施された三十代目の人物であるなどということになり得るからです。さらに、「千代というのは少なくても数万年に及ぶのであるから、再臨はそれまであり得ない」などとも言えることになります。字義通りに拘泥する愚かさです。

 ここで神が強調して語っておられるのは、ご自分が厳しい神でありながら、その厳しさよりも、恵み深さが勝るという大切な事実なのです。呪いは三代四代、恵みは千代という言い方は、厳しさを強調するだけにとどまらず、恵み深さが厳しさを遥かに上回ることを高々と謳い上げている、修辞法であると考えなければならないのです。そして大抵の人間ならば、つまり通常の読解力があれば、修辞学などというものは知らなくても、これが表現方法に過ぎないと判断して、実際に、呪いが三代四代にまで及ぶことを教えているなどとは思わないのです。

 もちろん、親が怠け者である上犯罪者となったために、子供たちが満足な生活ができず、並の教育も受けられなかった。それがために、子供たちまで犯罪者になってしまったなどという連鎖は、大いにありえることです。あえてここで論じる必要もありません。

そういうわけですから、エリヤハウスのテキストに教えられている、「家系の罪から癒されるために」家系図を書いたり、生い立ちの記録を用いてみたり、そこに聖霊による悟りを求めたりすることは、実に愚かと言わねばなりません。親が二人いてそれぞれの親に二人ずつの親がいて、その親たちにまた二人ずつの親がいてと計算すると、馬鹿馬鹿しくなります。一般的に日本人の家系図などというものは、とてもデタラメで恣意的なもので、数代遡るだけで怪しげになり、わからなくなります。そのうちの誰の罪によるのかと詮索しても、なんの益ももたらしません。聖書的と言われている教えですが、このようなことは、聖書がまったくあずかり知らぬものです。

 聖書というものは、一部の教えだけを強調してはなりません。非常に幅広く大きな書物である聖書には、表面的には矛盾と思えるような表現がたくさんあります。実際は、それらは矛盾ではなく、同じ原則の基盤に立ちながら、時と場所と状況に応じて、そのように異なった表現や教えがされただけのことです。そこで、一見矛盾と思える表現や教えがあるときは、それらが実は調和しているのだと考えて、注意深く学ばなければなりません。

 十戒にある三代四代に及ぶ咎の教えは、同じモーセの律法である申命記24:16の教えと、どのように調和するのでしょう。そこには「父親が子どものために殺されてはならない。子供は父親のために殺されてはならない。人が殺されるのは、自分の罪のためでなければならない」と記されています。これは死刑だけに限った事ではなく、すべての犯罪と刑罰に応用されるべきものです。

エゼキエルとエレミヤの記述

 預言者エゼキエルの時代、イスラエルの人々は、「父が酸っぱいぶどうを食べたので子どもの歯が浮く」という言い方で、父親の罪のために子供が呪われると教えていました。イスラエルの民はそのようにして、パレスチナの地を追われて捕囚の苦しみに遭うのは、自分たちの罪のためではなく、先祖たちが犯した罪のためであると、責任逃れ、責任転嫁をしていたのです。

ところが神はエゼキエルに語りかけ、おっしゃいました。「あなたがたは、イスラエルの地について、『父が酸いぶどうを食べたので、子どもの歯が浮く』という、このことわざをくり返して言っているが、いったいどうしたことか。わたしは誓って言う。あなたがたはこのことわざを、イスラエルで、もう決して用いないようになる。」

そして神は続けておっしゃいました。「あなた方は、『なぜ、その子は父の咎の罰を負わなくてよいのか』と言う。その子は、公義と正義を行い、わたしのすべてのおきてを守り行ったので、必ず生きる。罪を犯した者は、その者が死に、子は父の咎について負い目がなく、父も子の咎について負い目がない。正しい者の義はその者に帰し、悪者の悪はその者に帰する。」(エゼキエル18:2〜3、19〜20)これらのエゼキエル書の記述と十戒の解釈とを、どう調和させることができるでしょう。

 エレミヤもまた、「その日には、彼らはもう、『父が酸いぶどうを食べたので、子どもの歯が浮く』とは言わない。人はそれぞれ自分の咎のために死ぬ。だれでも酸いぶどうを食べる者は歯が浮くのだ」と語っています。(エレミヤ31:29〜30)

 このようにしてみると、十戒の言及は、字義通りに理解されるべきではないことが明白です。

原罪の概念

 エリヤハウスの先祖の罪、あるいは家系の罪という教えは、多分、東洋哲学や宗教からだけではなく、キリスト教の原罪という概念からもたらされたものだと思われます。「原罪」という用語自体は聖書にはありませんが、すべての人間が罪人であるという聖書の教えを、なんとか説明しようとした言葉です。アウグスチヌス以来、原罪とはアダムの罪が「遺伝的」に子孫に伝わったものと教えられて来ましたが、反宗教改革の色合いが強かった1545年のトリエント公会議で、それが正式に認められたものです。ただしアウグスチヌスもトリエント公会議も、アダムの罪、あるいはアダムの罪の性質が、現代の医学知識が教える遺伝のようなものであると、教えたのではありません。

たとえ遺伝という言葉が用いられたとしても、当時、現代のような医学知識は無かったのですから、現代医学が用いる遺伝という言葉の意味で、用いたのではないはずです。広い意味で、アダムの罪の結果、堕落の結果が、現代の私たちにも及んでいるという意味で、すべての人間が罪人なのは、アダムの罪に原因があるという理解だったのです。原罪を現代医学が用いる言葉の「遺伝的な」罪の性質と理解し、「汚れた血筋」などと言い出すと、聖書の教えからは甚だしく逸脱してしまいます。

キリストの教え

 ヨハネの福音書9:1〜3には、次のような出来事が記されています。

「またイエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られた。弟子たちは彼についてイエスに質問して言った。『先生。彼が盲目に生まれついたのは、誰が罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。』 イエスは答えられた。『この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです。』

 このキリストの教えは、モーセの律法である申命記24:16の命令とも調和しますし、エゼキエルやエレミヤの記事とも一致します。ですから、たまたまこの盲人の場合は、この人の罪でも両親の罪でもなかったと理解するのではなく、この盲人の場合も、「親の罪で子が罰せられてはならない。子は親の咎を負うべきではない」という、一般原則が適用されたものと考えるべきです。
 
韓国のキリスト教の影響?

 エリヤハウスの始まりはアメリカにありますが、その考え方には東洋の観念論や神秘主義的な要素が取り入れられています。このエリヤハウスの進展の途上で、韓国の怪しげなキリスト教の教えと、共鳴運動を起こしているのではないかと思われます。つまり、似通ったものが互いに響き合って、音色を増幅しているわけです。

ここ数十年、韓国系のキリスト教団体が多数日本で活動しています。その中の多くのものが、ネオペンテコステ、つまり、カリスマ系や第三の波系です。もともと韓国のキリスト教界は長老系が多いのですが、次から次に分裂をくり返し、統率の取れない数百の団体の雑多な集合体となっています。それもあってか、土着の宗教と混じり合ったキリスト教、いわゆる韓国化したキリスト教がかなり高い割合で含まれ、ネオペンテコステ系として活動しています。その中には、先祖の罪、先祖の呪い、家系の罪、汚れた血筋などを持ち出すものも少なくありません。先に触れた統一協会も、そのようなことを言い募っているキリスト教系のカルトです。

この韓国系のキリスト教会が、いろいろな意味でエリヤハウスの教えや活動と類似しているために、混じり合ってしまうことも多いのです。それで、日本で韓国系の教会と協力している教会には、エリヤハウスの教えを実践している教会が多いのだと思われます。韓国の正統的な信仰のクリスチャンには申し訳ないのですが、私たちは今、日本に来ている韓国の教会あるいはその働きに対しては、最新の注意をもって、その出処を確かめ、その教えを確かめなければなりません。

おわりに

 私たちのアッセンブリーズ・オブ・ゴッドの交わりの伝統は、体験主義です。それは聖霊
のバプテスマという共通体験から生まれた、素人集団のような交わりであったためです。そ
して、それが私たちの強みでもありました。いま生きて働いておられる聖霊に信頼するとい
う、新鮮な信仰態度を高揚することになったからです。しかしそれは同時に、大きな弱点を
抱えていることも、しっかりと理解しなければなりません、そこには聖書の教えを軽視し、
「聖霊の導き」という主観的判断を重んじる傾向があるからです。

 私たちは信条として、聖書を絶対の権威と認めるのですが、必ずしも聖書を正しく理解しているとは、言い切れないところがあります。聖書主義を合言葉にしていながら、聖書を軽視している場合が多いのです。私たちは自分たちのこの弱点、あるいは欠点をしっかりと認めて、本当の聖書主義に立たなければなりません。

 本当の聖書主義とは、自分の信仰と行動を、常に正当で厳密な聖書釈義によって、裏付けるものです。聖書の裏付けがない信仰と行いには、たとえ聖霊の示しだろうと導きであろうと、預言であろうと啓示であろうと、強い警戒心を持ち続けなければなりません。

 いま私たちの中に侵入しているエリヤハウスの、教義と実践の重要部分には聖書の裏付けがありません。聖書の教えではないのです。聖書の教えではない教えを、運動の極めて重要な部分として教え、また実践しているエリヤハウスは、正統的なキリスト教運動と呼べるものではありません。

 さらにエリヤハウスは、その実践者たちが自覚していようといまいと、洗脳という危険で卑劣な手法を取り入れています。これは私たちが絶対に用いてはならない、汚いやり方です。私たちは信仰と良心をもって、これを退けなければなりません。神は人間に、自由な意思をもって選択決定する能力を与え、それを尊重してくださいました。そのために、たとえ人間が罪を犯し、それがためにご自分のみ子に人間の姿を取らせ、十字架で死ぬように定めなければならなかったとしても、それを大切にされたのです。洗脳は、それほど大切な人間の自由な選択と決定の意思を、物理的な外圧や心理的な抑圧によって、無力にするものなのです。

今回はエリヤハウスの教えと実践に潜む、重大な危険性がある部分だけを指摘しました。細かな問題点が他にもたくさんあると思います。ただ私は、エリヤハウスを取り入れている兄弟姉妹を、私たちの交わりから追い出せと言っているのではありません。私たちの中に、完全な聖書理解をもった完璧な者など存在しません。私たちは互いに教え合い戒め合う兄弟姉妹です。ただ、聖書に根差さないエリヤハウスの教えと実践を、私たちの交わりからは締め出すように、お勧めしているのです。私たちの中にある間違いを認めてこれを正し、健全な福音を語る者になろうではあ
                  エリヤハウスの問題
                (私たちの中にある間違い)
                               
                                       2015年8月11日
                                     西九州伝道所・佐々木正明



はじめに

 私は、アッセンブリーズ・オブ・ゴットという信仰の共同体を、あらゆる方面から見て、とても素晴らしいものであると考えています。そこに所属を許されている、神のご配慮に感動しています。昨年、この信仰の共同体がアメリカで創設されて、100年という節目を迎えましたが、今や全世界に6700万人を優に超える信徒がいると、報告されています。大部分が、正確な集計など不可能な国々の中での数字ですから、「主催者側発表」を思わせるようなものであったとしても、神様の祝福を体験してきたことだけは事実です。

 だからと言って、私たちの信仰の共同体に、困難や問題がなかったわけではありません。むしろ多くの困難や問題を乗り越えて今日までたどり着いたもので、神様の恵みと哀れみによるものです。克服してきたたくさんの事柄の中でも、特に深刻だったのは、いろいろな「間違った教え」の混入あるいは侵入です。

 この間違った教えの混入あるいは侵入は、決して過去の出来事だけではなく、現在も私たちの信仰の共同体を脅かし続けています。私たちはこの事実に気づき、注意深くそして賢く振舞わなければなりません。実際のところ、現在私たちの交わりに忍び込んで、内側から交わりを壊しては腐敗を拡散していく、間違った教えの核心あるいは重要な要因の多くは、かつても、私たちの交わりに紛れ込んで問題を起こしていたものです。

 私たちの交わりの指導者たちは、大きな犠牲と痛みをもってこれらの問題に対処してきました。そのために、交わりが「大分裂の危機」に直面したこともありました。それにもかかわらず、今までこの交わりがひとつの交わりとして神様に用いられてきたのは、ただただ、神様の助けと導きがあったからだと言わねばなりません。また指導者たちが聖書の教えを正しく理解し、聖霊の導きを敏感に感じ取って、それに従ったからだと言うこともできます。指導者たちは、ただ間違いを指摘して糾弾するだけで満足したのではありません。間違いを犯していた人たちを裁き、追放して終わったのでもありません。できるだけ寛容な精神と兄弟愛によって間違いを指摘し、間違いを犯していた人たちが交わりの中に留まり、間違いに気づきそれを直していけるように心を配って、勧め励ましてきたのです。

 いま私がこの文章を書いているのは、このようなアッセンブリーズ・オブ・ゴッドの伝統に従い、私たちの中に混入してきた誤りを指摘し、気づかないうちにその誤りに陥ろうとしている、同労者諸師の注意を喚起することによって、主にある兄弟としての役に立ちたいと願うからです。たとえ言葉が厳しくなったとしても、それは兄弟姉妹を傷つけるためではなく、間違いに気づいて、それを改めて欲しいと願うためであることを、理解してくださるようにと望むものです。


T.私たちの交わりを脅かしてきた「間違った教え」

 私たちの交わりは、神学を修めた方たちの信仰告白や信条に、同調した人たちによって始められたものではありません。むしろ、神学的にはほとんど素人に近い牧師や信徒たちが、「異言を語る聖霊のバプテスマを受けた」という、著しい体験を共有するものとして、その体験の下に集まったということができます。ですから、私たちの交わりには当初から、根深い「体験主義」的な傾向がありました。それは一方では、非常に力強い私たちの交わりの特質となりましたが、他方では神学的な曖昧さ、あるいは誤りに陥りやすいという弱点となっても現れてきました。
 
 それは容易に、「何でも良ければいい」という実利主義的な信仰観につながり、「結果良ければすべてよし」という安易な成功主義に流れ、「奇跡が起こった」「癒しがあった」「教会が大きくなった」「たくさんの人が救われた」「経済が豊かになった」などという、目に見えるものを強調する性格を生み出してきました。それらはいともたやすく、繁栄の神学や積極性思考あるいは教会成長運動と繋がり、私たちの間で大きく広がった事実もあります。それらが福音宣教の力になったという積極的一面を認める一方で、神の聖さと、聖書の倫理観に染みをつけてきたという、醜い事実も認めなければなりません。

 また、いまの現実の世界でお働きになる聖霊を強調し、その様々なみ業を体験してきた事実を大いに喜ぶものですが、その強調が聖書の裏付けのないものとなって、シンクレティズム(宗教的混合)の危険性を感じる場面にも、幾度も遭遇してきました。ヒンズー教と仏教の入り混じった、神秘主義的まじない師のような伝道者、シャーマニズムの要素の強い、アフリカからの説教者、それらの土着の信仰に影響を受けた宣教師たちを見てきました。聖書と神学をしっかりと学んだ学者たちではなく、素人に近い牧師や信徒たちの活動から始まった働きであるため、確実な聖書釈義と神学大系のなかで考えることが苦手で、主観的な良識や常識あるいは信仰の経験で、信仰生活の大切な部分を判断し、選択決定をしてきたところが多いのです。

 また、私たちアッセンブリーズ・オブ・ゴッドの間では、ほかの信仰の伝統にいる人たちよりも、「聖霊のみ声」を聴いたり、「聖霊のお導き」に従ったりすることが、圧倒的に多いのです。牧師の礼拝説教の主題が、「聖霊様からの語りかけ」で決められたものだったり、「聖霊のお示し」によって特定の聖書の箇所が与えられたり、「聖霊のお導き」によって仕事を選択したり、「聖霊が会わせてくださった」相手と結婚する人が多かったり、困難に遭遇したときは聖書の教えに思いを巡らせるよりも、祈って聖霊のみ声を聞こうとするのが普通だったりするのです。

 聖霊に対して従順で、その導きに敏感であろうとする、私たちの伝統的な信仰態度や、聖霊のみ声を聞こうとする姿勢は素晴らしいのですが、聖書を離れたところで聖書と関係なく、主観的感覚や体験で「み声を聞いた」と思い込み、それを絶対視に近いくらい重んじてしまう傾向は、非常に危険です。聖書が完結した後の聖霊のお働きで、最も大切なことのひとつは、聖霊ご自身がかつて霊感をもって書かせてくださった聖書を、私たちに解き明かしてくださることです。私たちが聖書を読むとき、そこに聖霊が働いてくださり、理解を与え、教え、導いてくださるということです。

 聖書に書かれていない事柄や、聖書に教えられていない問題に、新たな啓示を与えたり導いたりすることは、現在の聖霊の働きの中では、ことさら重要なものと看做されるべきではありません。たとえそのようなことが、まったくあり得えないのではないとしても、あるいは大いに期待すべきことであったとしても、それは個人や小さなグループのクリスチャンたちに対する、極めて限定的な、つまり場所と時間と状況に制限された中でのものであり、権威付けて一般化することができるもの、普遍的に誰にでも適用できるものではありません。大切なことは、すでに完結している聖書に、記載されているのです。

 私たちのアッセンブリーズ・オブ・ゴットの交わりや、私たちに近いペンテコステ信仰を標榜する人たちの、間違った聖書理解や神学の例を調べ、誤った信仰の実践に陥った事例を見ると、ほとんどが、この、私たちの伝統的体験主義と聖霊の導きに対する主観的理解、つまり、聖書によって証明できない事柄に対する思い込みを、余りにも信頼しすぎてしまったということによるものです。

ジーザス・オンリー

 一例として、私たちの交わりが設立された翌年、1915年の第二回総会で起こった出来事を、挙げることができます。そこで私たちの交わりは、早くも分裂と消滅の危機を迎えたのです。当時は、目に見える聖霊のお働きが非常に顕著であり、集まってきた人々の間では、聖霊に対する体験主義的な期待が燃え上がっていたのです。全体が、聖書の教えを学びそれに聞くよりも、幻や預言を通して与えられる新しい啓示を求める、興奮状態に飲み込まれていました。そのような場に、洗礼はイエスのみ名によらなければならないという、聖書釈義を誤った突飛な理解を、新しい啓示として主張する者が現れたのです。瞬く間に多くの出席者がこれを受け入れ、「イエスの名による洗礼」を受け直すべきだと言い始めました。

 当然、父と子と聖霊の名による洗礼を堅持する者たちとの間に、熾烈な議論が沸き起こり、総会は大混乱に陥ってしまいました。結局、指導者として信頼を受けていた有力な伝道者たちから、一般信徒に至るまで、およそ三分の一もの人々が、創立されたばかりの交わりを去ることになりました。交わりを去った人々の多くは、後にジーザス・オンリーあるいはワンネスと呼ばれる、三位一体に曖昧な態度を取るグループにまとまって行きました。これらの中で最大のものは、ユナイテド・ペンテコステ教団として、現在の日本でも活動しています。

レストレーション運動

 もう一つ例を挙げると、「レストレーション運動」、もしくは「のちの雨運動」と呼ばれるものがあります。この運動の考え方は、ペンテコステ運動の初期からそこここに顔を出していたのですが、第二次世界大戦の終わり頃から、ウイリアム・ブランハムというかなり怪しげでありながら、世界中で活躍した「ペンテコステ系の伝道者」によって、ひとつの教えとして確立されて、大々的に宣伝されたものです。

 この運動は、初代の教会が経験した聖霊の傾注を「はじめの雨」と理解し、世の終わりに近くなって再びおこった聖霊の傾注、すなわち20世紀初頭に始まったペンテコステ運動を、「後の雨」と理解するものです。その主張によると、後の雨運動とは、はじめの雨の運動を回復(レストア)する運動であり、はじめの雨を超える大きな運動になるということです。そこから初代の教会の姿を理想、あるいは取り戻すべきものとみなし、なんでも初代の教会のあり方に戻ろうという、極端な考え方が出てきました。中には初代教会にとどまらず、それ以前のものまで取り戻そうという流れもあります。

 アメリカ・アッセンブリーズ・オブ・ゴットは、創立当初から自分たちの中にあったこのような傾向を、あまり好ましくない、怪しいものとして見てはいましたが、寛容性と包容力をもって見逃していたものです。ところが、先にあげたウイリアム・ブランハムなどの働きによってその影響力が増し、様々な弊害が多発していることに危機感を抱くようになり、ついに1949年に至って教書を発表し、正式にこの運動を間違いであると断定しました。このことによって、かなり多くの教会や教職が、アッセンブリーの交わりから去る痛みを経験したのです。

 アッセンブリー教団から出された教書の影響もあってか、この運動はその後沈静化を見せたのですが、カリスマ運動や第三の波運動という、抑えも統制も利かない教団組織を超えた運動が興ると、そのなかで再び力を取り戻して現代に至っています。アッセンブリーズ・オブ・ゴッドに所属する教職や教会の中にも、かつての歴史を知らず、もともと自分たちの中にある「脆弱な聖書主義」と、「聖霊に聞く」と言って聖霊以外の声を聴いてしまう体質のために、さまざまな形でこの運動を取り入れている人たちがいました。

トロントのリバイバル

 ひと時、私たちの間で大いに話題となった、「トロントのリバイバル」、「あるいは笑いのリバイバル」と言われた出来事も、このレストレーション運動の再興の一つでしたが、多くのアッセンブリーズ・オブ・ゴッドの教職や教会がその運動を受け入れていました。それに危機感を抱いたアメリカ・アッセンブリーズ・オブ・ゴッドの指導部は、2000年の8月に教書を発表して、警戒を呼びかけています。私は、日本アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団指導部の要請を受けて、これを翻訳しましたが、教団はこの翻訳文をすべての教職に送りました。最近に至って、レストレーション運動が私たちの間でまだ活発であることから、私はこの翻訳文を少しばかり手直しして、個人的に、再び多くの教職の方々にお送りした通りです。

 今この文章で、のちの雨運動全体について書くのは私の意図するところではありませんので、控えておきますが、のちの雨運動の人たちがよく使う言葉、あるいはフレーズを列挙しておきます。これらの用語がすべてではありませんし、これらを使う人たちのすべてが、レストレーションに関わっているというのでも、間違っているというのでもありませんが、注意をしておくのに越したことはありません。

体験主義と聖書の裏付け

 繰り返しますが、私たちは、信仰には体験が重要であると信じています。たとえ「体験主義」とレッテルを貼られ、非難されようとも、聖書理解よりも体験を先に持つことにさえも、大きな意義を感じています。ただしその体験は、厳密な釈義による聖書解釈の裏付けが可能なものでなければ、あくまでも限られた状況の中にあった個人の体験として止め、ほかの人たちに勧めたり、一般化したりしてはなりません。

 私たちが主張してやまない異言を伴う聖霊のバプテスマ、しかも、聖霊の内住とは異なる、新生体験の後の・・・時間的には同時と思えても、理論上は後の体験としての聖霊のバプテスマとは、そのような厳密な聖書釈義の裏付けを得ることが出来る体験なのです。私たちの交わりは、体験とそれを裏打ちする厳密な正統的聖書釈義の基盤に立つのです。

 大切なことですのでくり返しますが、私たちのクリスチャン生活には、さまざまな体験が伴います。それは信仰が作り出す体験であったり、聖霊がもたらしてくださる体験だったりするでしょう。それぞれが、それを体験した人個人にとっては大切な、宝のような体験かもしれません。その体験自体をとやかく言うつもりはありません。しかし、それが一般化され、他の人もそれを体験すべきだと教えたり、すべての人に与えられている体験であると主張したりするためには、正しい聖書釈義の原則に立った聖書の裏付けが必要なのです。

 たとえば、多くのカリスマ系や第三の波系の信仰を持つ人たちが主張する、「異言を伴わない聖霊のバプテスマ」は、たとえどんなに素晴らしい体験であったとしても、正しい釈義に立った聖書の裏付けを得ることができないものであるため、聖書の教えとも聖書的神学とも呼ぶことができないのです。「聖霊のバプテスマ」と呼ぶ限り、聖書が語り示す聖霊のバプテスマでなければならず、異言を伴う体験でなければなりません。聖霊の交わりの体験は、聖霊のバプテスマだけではありませんから、なにか、別の名称で呼べば良いのです。

 パウロは、自ら「第三の天まで引き上げられた」と表現した体験をしていますが、これを聖霊のバプテスマとは呼んでいませんし、他のクリスチャンたちが同じ体験をするようにと、勧めてもいません。この体験を、クリスチャン生活に不可欠なものであると、一般化することもありませんでした。あくまでも、個人の霊的体験として止めたのです。


U. 私たちの中にあって現在危惧されている教え「エリヤハウス」

 現在、私たちの交わりに紛れ込み、聖書に基づかない体験を強調しながら活発に活動している、レストレーション系の運動に、エリヤハウスと呼ばれているものがあります。これは1974年のアメリカで、サンドフォード(John & Paula Sandford)という人物によって創立されたものです。この活動が今やアメリカを始め多くの国々で、ペンテコステ、カリスマ、第三の波を中心に、改革派やバプテストやホーリネスなどの教会も巻き込んで、無視できない勢いになっています。日本においても、かなりの数の教会がこの活動を取り入れていて、私たちのアッセンブリーズ・オブ・ゴッドの教会の中にも、これを積極的に実践している教会がいくつもあり、さらに数を増しそうな勢いだということです。これが、正しい聖書の教えを守ろうと努力している仲間たちの、大きな懸念と憂慮になり、一筆書くようにという、私への要請ともなったものです。

 この活動は、福音的な教えを持つ健全さを装い、聖書的であることを高々と謳っていますが、その実、既に述べてきた体験主義や実利主義に流れ、聖書の教えよりも聖霊の導きという主観的思い込みを重んじて、これに根ざす多くの危険な誤り、あるいは意図的と思われる偽りを内に持つものです。良識ある私たちの仲間の牧師や伝道者が、このような教えに惑わされること自体、とても信じられないことです。

 多分それは、エリヤハウスの外見上の健全さに、欺かれてのことだと思います。たしかに「とっかかり」だけを見ると、これは異なった聖書の解釈や、怪しげな神学的教えを広めようとするものではなく、既に存在している教会の伝道や活動を支援する、効果的な新しい方法論であると捉えられ易いからです。ただ、少しだけでもその教えを学ぶならば、非常に危険な要素をたくさん内包するものであることに、すぐにも気づくはずです。
  
 アセンブリーズ・オブ・ゴッドの交わりに属する牧師や教会が、この教えの危険性に  気づかず、やすやすとこれに加わったり、その教えを取り入れたりしてしまうのは、先に述べたような、聖書釈義の基本を知らなかったり、神学的脆弱さを抱えたままにしているからです。ただ直接的には、カリスマ運動や第三の波運動とアッセンブリーズ・オブ・ゴッドとの違いを、しっかりと認識していなかったことにもよると言えます。彼らも同じペンテコステ系だと理解していたために、無批判に彼らの言う事に耳を傾けてしまったのでしょう。あるいは、自分たちは聖書的にまた神学的に脆弱だという、私たちに特有の劣等感が、福音派の神学をしっかりと修めて来たと思われる、第三の波運動の推進者たちの言うことを、ありがたく受け入れてしまったのではないかと思うものです。

 エリヤハウス自体は、必ずしも第三の波と同じというわけではありませんが、第三の波の賛同者たちの多くがこれに加わり、カリスマ運動の推進者たちもこれを取り入れているために、おおきな枠で、ネオペンテコステ運動と捉えられます。ただ面白いのは、ペンテコステ系以外の教会も、多数これに加わっているという点です。福音派の多くの牧師たちも、教会成長運動の創始者であったピーター・ワグナーに、強く影響されていました。ワグナー自身はもともと福音派の人間でしたが、南米で宣教師として働いていたときにペンテコステ運動に感銘を受け、現在における聖霊の働きを強く主張するようになって、「ペンテコステ化」したものです。ただ彼自身はペンテコステ運動ともカリスマ運動とも一線を画し、自ら第三の波と名付けた運動の推進者となったものです。

 ワグナーの影響を受けた多くの福音派の人たちは、現代における聖霊の働きに目覚め、第三の波に乗って「ペンテコステ化」し、彼の言うことを取り入れて行きました。エリヤハウスは第三の波の運動の一部とも捉えられていますし、教会成長運動の中の教会刷新運動とも理解されています。単純に、「教会が大きくなることはいいことだ」と言って、「教会を大きくしよう妄想」の虜になっている牧師や伝道者が、これを取り入れているのでしょう。エリヤハウスの教えに隠された危険な要素、聖書からの遺脱、聖書以外の哲学やカルトの混入という、神学的異常さには興味も持っていないのです。

 また、ペンテコステ系の教会のほとんどは、基本的に福音派の神学を引き継いでいます。あるいは原理主義的な聖書理解を持っています。つまり、聖書は一字一句誤りのない神の言葉であるという立場を、固持しているということです。そのために、たとえその聖書釈義に問題が有り、とんでもない聖書解釈をしていたとしても、「聖書的」という言葉に非常に弱いのです。これは福音派の教会の方々も同じです。「聖書的」と言われると、水戸黄門の印籠をかざされた者のように、「ははー」と言って頭が上がらなくなる、そんな「恐怖症」を抱えているのです。

  エリヤハウスは、「聖書的」であり福音主義的な立場に立っていると、最初に堂々と宣言しているだけでなく、カルトと戦う団体であると誇らしく自称しています。そのため、エリヤハウスに反対する者は、反聖書的であり悪魔的でありカルト的であると、逆に烙印を押されることになります。これは、マインド・コントロールというカルトの手法の入口であり、聖書的ということを大切にする、多くの牧師や教会が騙されているのです。

「聖書的」を大切にすることは、必ずしも聖書を正しく釈義し、正しく解釈することではありません。最近では聖書的と言えば言うほど無聖書的であったり、非聖書的であったり、反聖書的であったりする例が少なくありません。聖書を大切にしない人たちこそ、聖書的を標榜しているのです。だから、聖書的という言葉で騙す人たちと、聖書的という言葉で騙される人たちが一緒になって、大きなグループを作っているわけです。「聖書的教会」とか「聖書的教え」などという言葉は、もはやなんの保証にもならないのです。

 私はすべての牧師や伝道者が、高度な神学的な訓練を積んでいるべきだとは思っていません。誰もが聖書釈義について、専門的知識を持っていて、いつでも正しい聖書解釈ができるべきだとも考えていません。ただ、教団として、あるいは交わり全体として、そのような学びをした者たちや、そのような問題に敏感な人たちがいて、間違った教えに対して警鐘を鳴らし注意をうながし、誤りに陥らないようにすべきだと理解しています。それが交わりの重要な目的のひとつです。


V. カウンセリングとインナーヒーリング

 エリヤハウスの問題の第一は、カウンセリングという聖書外の手法を基本的な活動に取り入れ、インナーヒーリングというカルト的な教えを拡散していることです。インナーヒーリングによるカウンセリングは、もともと反聖書的オカルトの実践者であった、サンフォード(Agnes Sanford)という人物がアメリカで始めたもので、当時はやったヒッピーたちと共通して、東洋の神秘主義哲学や宗教に傾倒し、フロイトやユングといった心理学者の、非聖書的でオカルトの傾向が強い教えを取り入れたものです。

 一般世界においてこの運動は、カーター元大統領の妹などの有名人たちの参加もあって、かなりの影響力で社会を混乱させています。(後述)この教えをさらに「キリスト教化」して、エリヤハウスと言う名で教会の中に持ち込んだのが、サンフォードの友人で、後継者とも見なされているサンドフォード(John & Paula Sandford スペルも発音もよく似ていますが別人)です。これが、いわゆるクリスチャン心理学者と言われる人達によってさらに整えられて、現在、広く伝播しているというわけです。

 サンドフォードと彼の協力者たちは、はインナーヒーリングのカウンセリングに関係して、「聖書によって」、「聖霊の導きによって」と言いながら、その実、様々な非聖書的な教えを持ち込み、多くの教会に「異端化」あるいは「カルト化」の危機をもたらしています。

インナーヒーリングの基本的教え

 彼らが教えるインナーヒーリングの基本的教えは以下の通りです。なお、エリヤハウスの人たちは、独特な用語を用いていますが、ここではそれを普通の言葉で言い直して説明します。

@ 人間の苦しみは、幼少期あるいは胎児の時にまで遡る過去において、他者によって加えられた苦い体験の記憶によってもたらされる。その記憶はしばしば無意識の記憶、潜在意識として影響する。

 過去の苦い体験が現在の苦しみに繋がるという見解、胎児の時の体験が影響するという考えにも、聞くべきところがないわけではありません。しかし人間の苦しみの多くは、過去の体験の記憶によってもたらされるものではないことは、自明の理です。ましてや潜在意識によってももたらされるというのは、フロイトやユングといった特定の心理学者たちの主張によるもので、科学的事実に基づくものではありません。それよりさらに大切なことは、このような見解は聖書によっても支持されないということです。

 また他者によって加えられた過去の苦い体験が、現在の苦しみの原因となっているという理解は、多くの苦しみの直接の原因である、自分の間違いや失敗や罪などを否定し、あるいは軽んじ、他者に原因を見つけ出そうとする、責任転嫁の非難を免れることができないものです。それは、自分の過ちや罪を認めて悔い改めという、聖書の大切な基本的教えを無にするものです。

A 過去の苦しい出来事の記憶に、想像のキリストを登場させて、その苦しい出来事を解決してもらうことによって、現在の問題を解決する。

 キリスト教カウンセリングを標榜しているエリヤハウスでは、ここでキリストに登場してもらうことになります。ただし、あくまでも過去の体験ですので、そこに本物のキリストを登場させることはできません。そこで、その過去の記憶の中にある体験の場に、「想像上のキリスト」を連れて行って登場させるのです。その想像上のキリストは絶対に優しく、無条件で赦し、思いやりに富む力強い方でなければなりません。このキリストに、過去の辛く悲しい体験の記憶を、美しく楽しい体験の記憶に変えてもらうのです。そうすることによって、現在の苦しみを解決するというわけです。

 例えば、幼い時の情け容赦ない父親の体験が、父親というもの自体に対する恐怖をもたらし、自分が父親になってからも、どのように子供に接したら良いのか分からないという、問題があったとします。その場合、幼い時に酷く父親に叱られていた場面の記憶に、徹底して優しい想像上のキリストに登場してもらい、父親の役を演じてもらうことによって、まず、恐怖の記憶を解決するのです。そうすることによって、現在の父親の役割を正しく果たすようになれるというのです。

 このようなカウンセリングには、たしかに現在の問題を解消するための、心理的効果はあるかもしれません。ただし既にのべたように、このカウンセリングの基盤となる心理学は、ひとつの説に過ぎず、確立された科学的な学問ではありません。また、たとえこの方法が人間の心を動かすという意味で、実効性のあるものだとしても、すべて想像上の出来事、観念上の主観的な記憶の問題で、本質的な解決にはならないのです。聖書はこのような考え方や問題の解決法にはくみしません。

 ましてや「想像のキリスト」というのは、むしろ、本当のキリスト、神が人となられたキリスト、現実に生きて働いておられるキリストに対する冒涜です。また、聖書が禁じている占いやまじないや降霊術にさえ通じるものです。キリストは現在の問題を解決してくださる方であり、解決することができるお方であるはずです。ですからこのインナーヒーリングのカウンセリングを行うことは、神がキリストによって準備された救いは不十分であると主張し、キリストの力も、現在の問題を解決するには不足であると断定することです。

B 過去の辛い出来事はしばしば無意識の中、潜在意識の中にあって、本人は覚えていない場合が多い。したがってこの隠れた記憶を、カウンセリングによって掘り当て、思い出させなければならない。
   
  インナーヒーリングのカウンセリングに付随するもうひとつの危険は、この潜在意識を探り当てることにあります。あくまでも潜在意識であって、本人が自覚して記憶しているわけではないために、まず、現実の問題の元となっていると想定される、潜在意識の中の記憶を呼び覚まして、それがなんであるかを特定しなければならないのです。記憶していない辛い出来事を探し出し、現実の問題と結びつけるこのカウンセリングに、「意識の植え込み」あるいは「思い込ませ」とも言える、胡散臭い手法が用いられても不思議はありません。

 探し出したと言われる潜在意識の記憶が、現実に起こったものではなく、まったくの空想、架空の出来事である可能性もおおいにあり得ます。先ほどの厳しい父親の体験も、潜在意識として残っていたと判断されただけで、実際にそのような体験があったかどうかは不明です。アメリカでは、インナーヒーリングのカウンセリングを受けた人たちが、事実とはまったく異なる妄想を抱き、自分は子供の頃に虐待を受けていたと親を訴えるなどという、笑えない珍事も実際に多数起こって、訴訟文化の社会問題ともなっています。カウンセリングを受ける者の多くが、実際は体験していないことを体験したと思い込まされ、存在しない問題に悩まされているのです。カウンセラーが悪意を持っていたり、一定の意図を持ったりしていると、カウンセリングを受ける者は容易に心理的な操作を受け、洗脳によって操られる危険に陥ります。これはカルトの常套手段です。

C 幼い頃の辛い体験は、赤子の時や胎内にいるときの体験までも含む。そのような体験の多くは、後になって様々な性的問題となって現れる。 

 エリヤハウスのもうひとつの怪しげなところは、しばしば性的なカウンセリングが用いられることです。夫婦間の性の問題や性的不能や自慰、あるいは不感症の問題から同性愛や売春、婚前交渉や異常な性欲、さらにポルノに囚われる問題に至るまで、かなり露骨に取り扱われていて、統一協会がやっている手法を思い出させられます。実際には、実情に応じていろいろ試されているようですが、エリヤハウスの公式なテキストには、妊娠中のセックスが胎児に及ぼす悪影響について、下劣な下ネタ話も及ばない話が記載されています。

 それによると、妊娠中の母親の乱暴なセックスによって胎児は恐怖を感じます。その恐怖が潜在意識として留まり、大人になってからも、例えばナイフのような男根状のものに恐れをいだくようになって、健全な生活を妨げるというのです。男根とナイフが形状的に似ているなどという、笑い話以下の発想が真面目に論じられているのです。ここでも統一教会が、朝鮮半島が男根に似ているから、朝鮮は男性の役割、日本は、日本列島が凹状になっているから女性の役割を果たすなどと言っていた、下劣で低級な発想を思い出させます。さらに幼児のときの誤ったオマルの訓練やオムツの取り扱い方が、成長してからの自慰を始めとする性的問題を起こすことが多いから、母親は特に注意しなければならないなどとも教えられています。これも、なんの根拠もない陳腐な教えです。

このようなこじつけの性教育に関係して、かなり微に入り細に入るセックス・カウンセリングのやり方が、彼らのテキストに載せられていて、実際にそのような指導がされています。問題はこのようなカウンセリングを受ける者は、心理的に強い拘束を受け、洗脳の状態に陥るということです。多分それ以上に、カウンセリングを施す方も、かなりの性的変質者にならざるを得ないということです。

 幼少期あるいは胎内にいるときの性体験が、大人になってからの性の問題の原因になっているというような愚にもつかない教えも、フロイトやユングといった大層な名前を持ち出され、心理学などという難解な学問を権威として引用されると、「そうかなぁ」と思う人も、あるいはいるかも知れません。でも、そのような話を突然持ち出されたならば、大抵の大人は常識をもって排除してしまいます。そこで、エリヤハウスが実際にやっている講演やセミナーなどを聞くと、まず、だれでも「そうなのかぁ・・・」と思ってしまいそうな、幼少期のトラウマが潜在意識となって引き起こす、様々な問題の例をさりげなく、しかもいくつも取り上げて常識の抵抗力を弱めた上で、潜在意識に残された胎児期の体験に話が及ぶようです。

 エリヤハウスのインナーヒーリングは、容易に心理的隷属状態を作り出すことができます。このような手法に、いま流行りのセル・グループなどがしばしば取り入れている、按手による賜物の授与の連鎖や個人預言、小牧者や羊飼いのケアに時折見られる、指導的立場にある者の権威を主張する手法を並行して用いると、教会の組織とやり方、あるいは指導者である牧師に、無批判に服従する信徒を作り出すことができます。それは容易に、いわゆる「成長する強い教会」につながることでしょう。日本の成長する教会の多くは、権威主義的な牧師がいる教会です。エリヤハウスの教えを理解してこれを実践している牧師たちは、そこに魅力を感じているのではないかと思います。そうなると、これはもうキリストの精神から逸脱した、醜い宗教屋に過ぎません。

 このような成長する大きな教会、成功した牧師という名を求める傾向は、容易に金儲け主義にも流れます。エリヤハウス自体が、夫婦ひと組の割引料金で、14万円もする受講料を取っているのですから、それを取り入れる牧師たちも、金儲けに触手を伸ばすようになっても不思議はないと言えます。のちの雨や第三の波、あるいはインナーヒーリングによって洗脳されてしまった信徒たちに、神様の働きのためと称して、多額の献金をさせることも困難ではなくなります。こうして、キリスト教界は悪徳業者の業界となり、教団はブラック企業の協同組合になります。

W. 先祖の罪と断ち切りの祈り

 エリヤハウスに関わる第二の大きな問題は、先祖の罪、家系の罪、家系の呪いという考え
方です。これは非常に危険で、非聖書的、反聖書的と言わざるを得ません。彼らは先祖の罪
の結果として、子孫が苦しみを負うということを、自分たちの教義として強く主張し、その
罪の断ち切りという手法を用います。エリヤハウスの「祈りのミニストリー」のテキストに
は、自分たちが、「家系を通しての影響に苦しむ大勢のクリスチャンのためにミニストリー
を行っている」と記されています。彼らの教えるところによると、現在の苦しみの多くは先
祖の罪、あるいは先祖の呪いによるために、自分の家系に流れる先祖の罪の呪いを解決しな
ければなりません。 

「祈りのミニストリー」のテキストには、以下のようにも記されています。「祈りのミニス
トリーをする中で、その人個人に関してはありとあらあらゆる罪を取り扱ったにもかかわ
らず、依然としてその人やその人の家族が多くの問題に苦しんでいる、ということがありま
す。その場合問題はその人個人としての罪や罪深い性質からでなく、家系を通して流れてい
る場合があります。これを、家系の罪といいます。」 つまり、インナーヒーリングでも解決
できない問題は、先祖の罪ということになるのです。

 また、先祖の形質が子孫に及んでいることを思い起こさせるために、「あなたには、家族
から受け継いだ特徴はありますか? お母さんの目や、お父さんの歩き方、あるいは遺伝性の疾患、また才能や賜物などは?」などという質問を繰り返すように指導されます。これは罪の遺伝という、聖書があずかり知らぬ怪しげな主題への導入になります。

 さらに、先祖たちの罪の結果と影響が子孫たちに及ぶ、家系の罪を特定するために、隠している罪があるのではないか、気づいていない罪があるのではないかと探り、告白されていない罪によって、血筋が汚されていないかなどと問うように教えられます。そこで特に注意すべきことは、父親の性的悪戯、離婚、アルコール依存、くり返される流産、不妊、通常ではない病気、若死に、オカルトとの関係、経済的破綻、事業の失敗などです。こうなると、街角の占い師が用いる、誘導尋問の手法と同じです。

 この罪と呪いの連鎖を断ち切ると言われる、断ち切りの祈りは自体は特に魔術的なもの
ではありません。ただ、家系の呪いあるいは家系の罪を認めて、それからの解放を「イエス・
キリストの血潮の力」に頼って、「あるいはキリストの贖いのみ業」によって、願い祈るだ
けのことです。この点では、非常に福音的なというか原理主義的な言葉を用い、自分たちが
健全な教理を持つものであることを、アピールしているかのようです。ただし本当に健全な
クリスチャンは、家系の罪だの先祖の呪いだのという言葉が持ち出されること自体に、胡散
臭いオカルトの要素を感じ取らなければなりません。

 もう10年以上も前になりますが、私は自分が開拓牧会をしている「地方の教会」が、
なかなか思うように成長しないことを憂慮して、地方でも成功していると高い評価を得て
いる仲間の牧師に、特別講師として「ボランティア」で奉仕にきてくださらないかと、お願
いしてみました。するとこの牧師は快く私の願いを聞き入れて、「参りましょう」と言って
くださいました。

 嬉しくなった私は、自分が牧会する教会の現状、弱点や欠点や問題などをあれこれ説明し
たものです。するとこの牧師はおっしゃいました。「それはぜひ断ち切りの祈りをしてください。先生の神学には合わないかもしれませんが、教会の成長と信徒の祝福のために、先生の神学を犠牲にしてでも、ぜひやってみてください。」

 この牧師が、当時エリヤハウスを取り入れていたかどうかは、知りません。少なくても当
時の私は、「断ち切りの祈り」などという考えには、まったく触れたことがありませんでし
たので、それがどんなことなのかお尋ねしてみました。それで、それが先祖の罪、家系の呪
いという概念に基づくものであることが分かりました。結局、自分から特別講師として手弁
当で来てくださるようにお願いして、快く承諾し頂いたのに、お招きを撤回してご奉仕をお
断り申し上げることになってしまいました。本当に失礼なことになって残念でした。

 今も尊敬しているこの牧師は、「断ち切りの祈り」が私の神学には合わないということを
百も承知のうえで、私の牧会している教会のためを思って、あえて勧めてくださったものと
思います。しかし私は、教会の成長のためであっても、信徒の祝福のためであっても、正し
い聖書の教えを犠牲にすることはできない、かたくなな牧師だったのです。

 エリヤハウスについて、これまで、ほとんど何も知らなかった私ですので、今回調べて見
たところだけでは、彼らの教えのどの部分に属する問題なのか不明なのですが、多分、この断ち切りの祈りと関係していると思われる、非常に気になる実践がもうひとつあります。それは、「身代わりの祈り」、「身代わりの悔い改め」とも名付けるべき行為で、教え、勧め、伝道している相手が、どうしても納得できず、罪の悔い改めもできない場合、その人に代わって悔い改めの祈り、あるいは断ち切りの祈りをしてあげることによって、その人が救いに入るという考え方です。(この点を詳しくご存知のかたがいらっしゃったら、お教えくださいますか?)これも、とんでもない行為で、聖書の基本的教えに反するものであることは、言うまでもありません。

十戒の教え
 
 エリヤハウスの人たちは、この先祖の罪の教えをモーセの律法の4箇所の言及、@出エジ
プト20:5、 A出エジプト34:7、 B民数14:18、 C申命5:9を用いて正当化していますが、その聖書の釈義、解釈の仕方が間違っているのです。この4箇所の言葉のうち、A以下はすべて@の言葉に依存するものですから、大切なのは十戒に含まれている@の解釈です。

 エリヤハウスの人たちは、十戒のこの教えを字義通りに釈義していますが、まず、そこが問題です。福音派の聖書解釈学では、字義通りに釈義できると思われる部分は、できるだけ字義通りにするという原則に立ちます。それで、字義通りに釈義されている教えには、安心感を持ってしまいます。その字義通りの釈義を少しばかり強調し過ぎるのが、原理主義の人たちです。エリヤハウスの人たちは、この原理主義の傾向を持っています。モーセの十戒のこの言及は、字義通りに考えると、神は「父の咎を子に報い、三代四代にまで及ぼす」方であると理解され、先祖の咎、家系の罪という教えも成り立つことになります。

 しかし、これは独特の表現方法、「修辞法」が用いられた言い回しであって、字義通りに理解されてはらないものです。キリストが「私は門です」とお語りになったとき、「石の門ですか。木の門ですか。それとも鉄の門ですか」と、尋ねてはならないのと同じです。ここで神は、厳しく罪を罰する厳格なお方であることを、このような表現で強調しておられるのです。これを文字通りに理解しようとすると、続く「恵みを千代にまで施す」という言及と、正面衝突してしまいます。一方では「呪いを受けた三世代目」の人間が、他方では恵みを施された三十代目の人物であるなどということになり得るからです。さらに、「千代というのは少なくても数万年に及ぶのであるから、再臨はそれまであり得ない」などとも言えることになります。字義通りに拘泥する愚かさです。

 ここで神が強調して語っておられるのは、ご自分が厳しい神でありながら、その厳しさよりも、恵み深さが勝るという大切な事実なのです。呪いは三代四代、恵みは千代という言い方は、厳しさを強調するだけにとどまらず、恵み深さが厳しさを遥かに上回ることを高々と謳い上げている、修辞法であると考えなければならないのです。そして大抵の人間ならば、つまり通常の読解力があれば、修辞学などというものは知らなくても、これが表現方法に過ぎないと判断して、実際に、呪いが三代四代にまで及ぶことを教えているなどとは思わないのです。

 もちろん、親が怠け者である上犯罪者となったために、子供たちが満足な生活ができず、並の教育も受けられなかった。それがために、子供たちまで犯罪者になってしまったなどという連鎖は、大いにありえることです。あえてここで論じる必要もありません。

 そういうわけですから、エリヤハウスのテキストに教えられている、「家系の罪から癒されるために」家系図を書いたり、生い立ちの記録を用いてみたり、そこに聖霊による悟りを求めたりすることは、実に愚かと言わねばなりません。親が二人いてそれぞれの親に二人ずつの親がいて、その親たちにまた二人ずつの親がいてと計算すると、馬鹿馬鹿しくなります。一般的に日本人の家系図などというものは、とてもデタラメで恣意的なもので、数代遡るだけで怪しげになり、わからなくなります。そのうちの誰の罪によるのかと詮索しても、なんの益ももたらしません。聖書的と言われている教えですが、このようなことは、聖書がまったくあずかり知らぬものです。

 聖書というものは、一部の教えだけを強調してはなりません。非常に幅広く大きな書物である聖書には、表面的には矛盾と思えるような表現がたくさんあります。実際は、それらは矛盾ではなく、同じ原則の基盤に立ちながら、時と場所と状況に応じて、そのように異なった表現や教えがされただけのことです。そこで、一見矛盾と思える表現や教えがあるときは、それらが実は調和しているのだと考えて、注意深く学ばなければなりません。

 十戒にある三代四代に及ぶ咎の教えは、同じモーセの律法である申命記24:16の教えと、どのように調和するのでしょう。そこには「父親が子どものために殺されてはならない。子供は父親のために殺されてはならない。人が殺されるのは、自分の罪のためでなければならない」と記されています。これは死刑だけに限った事ではなく、すべての犯罪と刑罰に応用されるべきものです。

エゼキエルとエレミヤの記述

 預言者エゼキエルの時代、イスラエルの人々は、「父が酸っぱいぶどうを食べたので子どもの歯が浮く」という言い方で、父親の罪のために子供が呪われると教えていました。イスラエルの民はそのようにして、パレスチナの地を追われて捕囚の苦しみに遭うのは、自分たちの罪のためではなく、先祖たちが犯した罪のためであると、責任逃れ、責任転嫁をしていたのです。

 ところが神はエゼキエルに語りかけ、おっしゃいました。「あなたがたは、イスラエルの地について、『父が酸いぶどうを食べたので、子どもの歯が浮く』という、このことわざをくり返して言っているが、いったいどうしたことか。わたしは誓って言う。あなたがたはこのことわざを、イスラエルで、もう決して用いないようになる。」

 そして神は続けておっしゃいました。「あなた方は、『なぜ、その子は父の咎の罰を負わなくてよいのか』と言う。その子は、公義と正義を行い、わたしのすべてのおきてを守り行ったので、必ず生きる。罪を犯した者は、その者が死に、子は父の咎について負い目がなく、父も子の咎について負い目がない。正しい者の義はその者に帰し、悪者の悪はその者に帰する。」(エゼキエル18:2〜3、19〜20)これらのエゼキエル書の記述と十戒の解釈とを、どう調和させることができるでしょう。

 エレミヤもまた、「その日には、彼らはもう、『父が酸いぶどうを食べたので、子どもの歯が浮く』とは言わない。人はそれぞれ自分の咎のために死ぬ。だれでも酸いぶどうを食べる者は歯が浮くのだ」と語っています。(エレミヤ31:29〜30)

 このようにしてみると、十戒の言及は、字義通りに理解されるべきではないことが明白です。

原罪の概念

 エリヤハウスの先祖の罪、あるいは家系の罪という教えは、多分、東洋哲学や宗教からだけではなく、キリスト教の原罪という概念からもたらされたものだと思われます。「原罪」という用語自体は聖書にはありませんが、すべての人間が罪人であるという聖書の教えを、なんとか説明しようとした言葉です。アウグスチヌス以来、原罪とはアダムの罪が「遺伝的」に子孫に伝わったものと教えられて来ましたが、反宗教改革の色合いが強かった1545年のトリエント公会議で、それが正式に認められたものです。ただしアウグスチヌスもトリエント公会議も、アダムの罪、あるいはアダムの罪の性質が、現代の医学知識が教える遺伝のようなものであると、教えたのではありません。

 たとえ遺伝という言葉が用いられたとしても、当時、現代のような医学知識は無かったのですから、現代医学が用いる遺伝という言葉の意味で、用いたのではないはずです。広い意味で、アダムの罪の結果、堕落の結果が、現代の私たちにも及んでいるという意味で、すべての人間が罪人なのは、アダムの罪に原因があるという理解だったのです。原罪を現代医学が用いる言葉の「遺伝的な」罪の性質と理解し、「汚れた血筋」などと言い出すと、聖書の教えからは甚だしく逸脱してしまいます。

キリストの教え

 ヨハネの福音書9:1〜3には、次のような出来事が記されています。

「またイエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られた。弟子たちは彼についてイエスに質問して言った。『先生。彼が盲目に生まれついたのは、誰が罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。』 イエスは答えられた。『この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです。』

 このキリストの教えは、モーセの律法である申命記24:16の命令とも調和しますし、エゼキエルやエレミヤの記事とも一致します。ですから、たまたまこの盲人の場合は、この人の罪でも両親の罪でもなかったと理解するのではなく、この盲人の場合も、「親の罪で子が罰せられてはならない。子は親の咎を負うべきではない」という、一般原則が適用されたものと考えるべきです。
 
韓国のキリスト教の影響?

 エリヤハウスの始まりはアメリカにありますが、その考え方には東洋の観念論や神秘主義的な要素が取り入れられています。このエリヤハウスの進展の途上で、韓国の怪しげなキリスト教の教えと、共鳴運動を起こしているのではないかと思われます。つまり、似通ったものが互いに響き合って、音色を増幅しているわけです。

 ここ数十年、韓国系のキリスト教団体が多数日本で活動しています。その中の多くのものが、ネオペンテコステ、つまり、カリスマ系や第三の波系です。もともと韓国のキリスト教界は長老系が多いのですが、次から次に分裂をくり返し、統率の取れない数百の団体の雑多な集合体となっています。それもあってか、土着の宗教と混じり合ったキリスト教、いわゆる韓国化したキリスト教がかなり高い割合で含まれ、ネオペンテコステ系として活動しています。その中には、先祖の罪、先祖の呪い、家系の罪、汚れた血筋などを持ち出すものも少なくありません。先に触れた統一協会も、そのようなことを言い募っているキリスト教系のカルトです。

 この韓国系のキリスト教会が、いろいろな意味でエリヤハウスの教えや活動と類似しているために、混じり合ってしまうことも多いのです。それで、日本で韓国系の教会と協力している教会には、エリヤハウスの教えを実践している教会が多いのだと思われます。韓国の正統的な信仰のクリスチャンには申し訳ないのですが、私たちは今、日本に来ている韓国の教会あるいはその働きに対しては、最新の注意をもって、その出処を確かめ、その教えを確かめなければなりません。

おわりに

 私たちのアッセンブリーズ・オブ・ゴッドの交わりの伝統は、体験主義です。それは聖霊
のバプテスマという共通体験から生まれた、素人集団のような交わりであったためです。そ
して、それが私たちの強みでもありました。いま生きて働いておられる聖霊に信頼するとい
う、新鮮な信仰態度を高揚することになったからです。しかしそれは同時に、大きな弱点を
抱えていることも、しっかりと理解しなければなりません、そこには聖書の教えを軽視し、
「聖霊の導き」という主観的判断を重んじる傾向があるからです。

 私たちは信条として、聖書を絶対の権威と認めるのですが、必ずしも聖書を正しく理解しているとは、言い切れないところがあります。聖書主義を合言葉にしていながら、聖書を軽視している場合が多いのです。私たちは自分たちのこの弱点、あるいは欠点をしっかりと認めて、本当の聖書主義に立たなければなりません。

 本当の聖書主義とは、自分の信仰と行動を、常に正当で厳密な聖書釈義によって、裏付けるものです。聖書の裏付けがない信仰と行いには、たとえ聖霊の示しだろうと導きであろうと、預言であろうと啓示であろうと、強い警戒心を持ち続けなければなりません。

 いま私たちの中に侵入しているエリヤハウスの、教義と実践の重要部分には聖書の裏付けがありません。聖書の教えではないのです。聖書の教えではない教えを、運動の極めて重要な部分として教え、また実践しているエリヤハウスは、正統的なキリスト教運動と呼べるものではありません。

 さらにエリヤハウスは、その実践者たちが自覚していようといまいと、洗脳という危険で卑劣な手法を取り入れています。これは私たちが絶対に用いてはならない、汚いやり方です。私たちは信仰と良心をもって、これを退けなければなりません。神は人間に、自由な意思をもって選択決定する能力を与え、それを尊重してくださいました。そのために、たとえ人間が罪を犯し、それがためにご自分のみ子に人間の姿を取らせ、十字架で死ぬように定めなければならなかったとしても、それを大切にされたのです。洗脳は、それほど大切な人間の自由な選択と決定の意思を、物理的な外圧や心理的な抑圧によって、無力にするものなのです。

 今回はエリヤハウスの教えと実践に潜む、重大な危険性がある部分だけを指摘しました。細かな問題点が他にもたくさんあると思います。ただ私は、エリヤハウスを取り入れている兄弟姉妹を、私たちの交わりから追い出せと言っているのではありません。私たちの中に、完全な聖書理解をもった完璧な者など存在しません。私たちは互いに教え合い戒め合う兄弟姉妹です。ただ、聖書に根差さないエリヤハウスの教えと実践を、私たちの交わりからは締め出すように、お勧めしているのです。私たちの中にある間違いを認めてこれを正し、健全な福音を語る者になろうではあ



posted by ms at 20:24| Comment(5) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
たかが宗教じゃねーか! 超くだらねー! 俺たちのカネで食わせてもらってるくせに!
Posted by あ at 2015年10月15日 15:07
いつまで、こんなブログを続けるつもり…(爆笑)。
さっさと、こんなブログをやめたら!!
Posted by さ at 2015年11月14日 23:45
こんばんは阿部と申します。
エリアハウスの異端性には、ど同意できますが聖書解釈については、私の考えと少し異なります。

「福音派の聖書解釈学では、字義通りに釈義できると思われる部分は、できるだけ字義通りにするという原則に立ちます」
と言う基本を述べていてなぜ出エジプト20章5節をそのまま文字通りりかいしないのですか?

「これは独特の表現方法、「修辞法」が用いられた言い回しであって」
などと言って御言葉の意味を変えようとする必要はないのではないでしょうか?


「出20:5 それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、【主】であるわたしは、ねたむ神、わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、
20:6 わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。」

この御言葉を、そのまま理解しても先祖の呪いがない事は説明できます。

父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぶのはクリスチャンにではなく神を憎む者に対してです。

また、、恵みを千代にまで施す対象は、わたしを愛し、わたしの命令を守る者つまりクリスチャンに対してです。

以上、字義通りに釈義できると思われる部分は、できるだけ字義通りにするという事をお願いします。
Posted by at 2015年12月09日 21:56
ま〜だ、やってるよ、クダラネー❗ さっさと閉鎖しろや❗さっさと日本から出ていってくれよ❗
Posted by ブリの斡旋 at 2016年05月19日 15:37
比較的冷静な判断、より聖書的な正しい判断で見ていると思います。日本ではまだこの様な考えを持っている人は少ないようです。
Posted by Naoto at 2017年06月11日 11:24
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